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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14

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0001人間七七四年2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。

人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし

人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0671人間七七四年2012/02/13(月) 20:32:52.62ID:sIyVbZvx
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
三河国高橋荘
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、惟康は後に駿河に移住初代大森氏に、小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

三河国高橋新荘
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏)の室)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0672人間七七四年2012/02/13(月) 21:35:52.84ID:7GPTeHui
家康は会津征伐が終わったら、それを頼朝の奥州藤原氏討伐になぞらえて
征夷大将軍に就任するつもりだったのかな
0673人間七七四年2012/02/13(月) 21:37:27.26ID:rs6ZZaVR
大坂城、落とせるなら落としたいと思ってただろ
ただ、後世に悪名を遺すのは確実だし、
大坂城のような巨大な要塞を落とすには桁違いのエネルギーが要るから一筋縄ではいかないと見ていた
大坂でも家康にもうそんなパワーは残っていないと高を括っていた
ところがすべての予測を裏切るほど家康のエネルギーが底なしだったということ
0674人間七七四年2012/02/13(月) 21:38:40.58ID:4cvYdDAN
>>670
いやそれはもう無理難題だよ
豊臣家がどう思おうと、浪人衆が絶対に納得しない
どうにかしようとするなら、豊臣家が大坂城から逃げ出して家康に保護を求めるしか無いくらいに絶望的状況
0675人間七七四年2012/02/13(月) 23:02:32.26ID:TLfm7orX
>>670の条件って結局”普通の”大名になれってことだよな
だから他に”普通の”大名だって事を示す方法があれば、それでよかったんじゃね
0676人間七七四年2012/02/13(月) 23:13:24.71ID:sIyVbZvx
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁


【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0677人間七七四年2012/02/14(火) 01:20:39.92ID:NV3nauiN
>>674
まあ、浪人を大阪城に入れたことで詰んだということだね。幕府に武力で歯向かおうとすれば、誰であれ、潰される。
それが分からぬ大うつけが、大阪を仕切っていたのが不幸だった。
0678人間七七四年2012/02/14(火) 04:02:13.11ID:T6EtWkT9
そもそも城内圧倒多数派の浪人を放逐なんて出来たのか?

下手したら秀頼が討ち取られ兼ねんw
0679人間七七四年2012/02/14(火) 18:22:32.52ID:USEtIzxS
秀頼は討ち取られないとは思うが神輿強制は間違いないだろうね
大野兄弟あたりは、大野兄弟が片桐且元にしたような感じになると思う
良くて追放、悪くて梟首

浪人衆が居なければ670の言う条件、
つまり淀殿を人質に出すとか転封を受けるとか、やれたと思う
本当にアイツら忠義面した大不忠者だよ
0680人間七七四年2012/02/14(火) 19:16:45.04ID:1KK5dxkf
>>679
兄弟でも治長と治房とではかなりスタンスが違うようだけど、まあ治長は且元みたく
なっちゃうかもしれないな(実際襲われているしね)。
0681人間七七四年2012/02/14(火) 22:50:04.98ID:mRu7qSHU
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)

■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁

■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられている

【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0682人間七七四年2012/02/15(水) 10:08:46.91ID:CAmZUjrF
同じコピペを延々と貼り続けているヤツは何がしたいんだ?
0683人間七七四年2012/02/17(金) 23:29:23.58ID:vKHx20tv
>>681 が正解
間違っています >>682
0684人間七七四年2012/02/17(金) 23:47:59.23ID:R/wZ2azV
>>682
NGに入れとけ
0685人間七七四年2012/02/18(土) 07:04:16.24ID:NhyckgaC
>>682
少しづつ修正しているね
同じに見えるのは、君の出来が悪いからだ


0686人間七七四年2012/02/18(土) 15:12:42.12ID:9pfoGZnm
勘違いしてる人がいるみたいだけど、
牢人の解雇は大坂の陣の後だな。
方広寺鐘銘事件の時の条件は秀頼の参勤か淀の人質、大坂からの移封のどれかだな。
要は家臣になれって事。
三箇条誓詞提出に際しても豊臣家は対象外で、徳川政権の枠組みの外の存在。
何の理由も無いのに本来主家である豊臣家に家臣になれとは言えないけど、
徳川に対して敵意があるのであれば、安全策として臣従させるというのは理に適うと言えなくも無い。
0687人間七七四年2012/02/18(土) 15:57:06.00ID:bQpCaY92
ただいま静岡朝日テレビで家康関連の番組放送中
0688戸浦六宏の大野治長2012/02/18(土) 16:21:51.34ID:eC/ZtWbu
豊臣家は!浪人衆を養うために、いくさをしているのではないっ!
0689人間七七四年2012/02/18(土) 20:33:36.35ID:NhyckgaC
田舎臭い名古屋の猿の話はどーでもえーわ

室町幕府だけでなく鎌倉幕府も三河色が強いのが判明した

以後は源頼朝、足利尊氏、徳川家康の3将軍とトヨタグループ語るスレにする


えーな
0690人間七七四年2012/02/19(日) 01:15:20.33ID:brRf/CJi
ただいまBS朝日で長篠ネタ
もちろん徳川話も
0691人間七七四年2012/02/19(日) 18:49:18.76ID:TaS4ge46
デジアナで凌いでる俺には、
民法BSの話されても、仕組自体分からんwww
0692人間七七四年2012/02/20(月) 09:32:39.28ID:Qt4nt184
「戦国時代にタイムスリップしたら、どうするか」
という妄想に一定の解決案を思い付いたぞ!

確かにスマホその他の証拠は持って居ないかも知れないが
お前らだって歯に詰め物くらいはしてるだろう?
これを見せれば家康公も納得だw
0693人間七七四年2012/02/20(月) 12:26:28.44ID:DXMJ7ogt
>>692
してないです
0694人間七七四年2012/02/20(月) 20:12:01.64ID:7GaM2eAo
>>691
アナログが終わるまでデジタルなんていらねーと粋がってた俺がヒント

もっと早くBSをデジ化しとけばよかった(´・ω・`)
0695人間七七四年2012/02/20(月) 22:36:12.81ID:G8DkWrOh
オメガファーマ・クイックステップは総合はペーター・ヴェリトスで行くのかな

ヴェリトスってペーターとマルティンのどっちが兄なんだ?
あと何となくペーターの方が目立つ機会多くいないか?
0696人間七七四年2012/02/20(月) 22:37:43.38ID:G8DkWrOh
とんでもない誤爆した
家康公ごめんなさい
0697人間七七四年2012/02/21(火) 21:26:32.01ID:cQOCYfLe
BS朝日
にほん風景遺産 「静岡 歴史旅 家康を歩く」

もう半分来ちゃった
0698人間七七四年2012/02/25(土) 17:31:30.99ID:jfH4NLI0
結局天皇権威を拠り所にしないと国内統治さえ覚束無かった家康は、その他大勢の為政者と同じ。
で結局、外圧を契機に無力を曝け出して信を失い、大政奉還するハメだ。
やはり天皇超えを本気で目指した為暗殺された足利義満や織田信長の偉大さだけが際立つな。
0699人間七七四年2012/02/26(日) 01:26:53.55ID:Z0ixqxpT
暗殺されて、安定政権を築けなかった連中のどこが良いのか?
0700人間七七四年2012/02/26(日) 19:46:00.12ID:rKRHv68x
 
「死ぬまで待とう反対派」徳川家康

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/37/251.html

日本の天皇一族は石橋を叩いても渡らない。
「子ども」、「子ども」と東京政府が大声で叫ぶ理由には、
この考えがしみついている。
そもそも、「敬老の日」は老人を敬う日ではない。
老人の名を借りた、「徳川家康記念日」だった。
0701人間七七四年2012/02/26(日) 21:44:57.38ID:15aieyFV
オカルト過ぎて目眩がするサイトだな
0702人間七七四年2012/02/28(火) 17:59:15.28ID:PdZpjNgo
家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
やっぱ偉大な人だ。
0703人間七七四年2012/02/29(水) 00:24:43.89ID:QiVFzySo
生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
0704人間七七四年2012/02/29(水) 01:38:45.30ID:RsGv4Pmm
いや、むしろ、どん底という境遇を乗り越えたからこそ、天下人という大輪の花を咲かせたんだと思う。
何も苦労の無い環境だったら、地方の小大名で人生終わっていたはず。
人生とは長き道を重い荷物を背負い歩くがごとし、、、。
0705人間七七四年2012/02/29(水) 02:20:14.19ID:PT8OpTkD
どん底から這い上がったというより、下積み生活を重ねたというほうが正解

秀吉はトントン拍子に上り詰めた印象だな
0706人間七七四年2012/02/29(水) 10:13:05.61ID:WtH4KOO6
>>703
今川の人質になった筈が、敵方の織田に捕らわれたのは、
どう見ても、どん底だと思うよ。

その境遇から、自力で脱出した訳ではないから差し引いて
考える必要はあるだろうけどね。
0707人間七七四年2012/02/29(水) 11:30:04.56ID:pZej52Xj
しかし、今川家にとっては、雪斎が竹千代との捕虜交換をするために城攻めまでしたわけで、駿府では結構大事にされてたらしいが。
0708人間七七四年2012/02/29(水) 11:58:31.95ID:Rv7QloSy
基本的に人質は大事に育てられるからね
家康や毛利隆元みたいにさ
優秀にしかも自家シンパになってくれれば万々歳なんだから
ただ織田に拉致られたのはどん底って言ってもいい
殺されても文句言えないんだから

>>703
>生まれつき武家の棟梁だった家康
???
0709人間七七四年2012/02/29(水) 12:50:59.82ID:8ruQsIn0
戸田康光ってどうなったんだろう。

褒美貰ってお仕舞い?
0710人間七七四年2012/02/29(水) 12:53:12.10ID:WtH4KOO6
>>709
今川に襲われて、あぼーん。
0711人間七七四年2012/02/29(水) 20:25:56.61ID:QiVFzySo
>>708
家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
0712人間七七四年2012/03/01(木) 09:22:27.22ID:ynHneSwQ
>>711
松平宗家と言っても、家康が生まれた頃は義元の庇護を受けて
ようやく岡崎に戻れた頃だぜ。

とても三河武士の旗頭とは言えんわな。
0713人間七七四年2012/03/01(木) 09:39:07.59ID:uklEWWGn
>>711
ほう
じゃあ他に誰が武家の棟梁って言われてたの?
0714人間七七四年2012/03/01(木) 10:21:48.52ID:KT3qx73I
>>711
その言い訳はさすがに苦しい
0715人間七七四年2012/03/01(木) 11:31:45.72ID:ErgybYD/
違和感持たなかった俺が、Yahoo辞書調べて見ると、、、

棟梁:《棟と梁は家を支える重要な部分であるところから》
一族・一門の統率者。集団のかしら。頭領。また、一国を支える重職。

三河国最大当主を棟梁が間違いだと言うのなら、
弱肉強食当時の棟梁出せよと思うが?
0716人間七七四年2012/03/01(木) 11:54:09.68ID:uklEWWGn
「武家の」ってついてるからな
三河の武家の棟梁ならさもありなんだが
あるいは松平の棟梁
唐突に武家の棟梁って言われたらそりゃ将軍を想起しても不思議じゃないだろ、後年家康がそれになってるだけ余計にな

棟梁だけだと何の棟梁か分からない
武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
だからこの場合三河の武家の棟梁というべきだろ

まあ当時の松平の権力についての問題すっ飛ばして言葉遊びして何か意味あるのって思うが

0717人間七七四年2012/03/01(木) 12:18:05.71ID:mG8Vjf4k
安祥松平家が宗家となったのは清康以降だと思うけどね
というか当時の清康に対する三河武士の印象は凄まじい物があるのだなと思う
0718人間七七四年2012/03/01(木) 13:20:08.65ID:ynHneSwQ
>>715
家康誕生時点だと、松平宗家は三河最大勢力では無い。
0719人間七七四年2012/03/01(木) 13:35:58.43ID:85h6CuKJ
それは知らんかったけど

>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
>家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
な時点で、「あぁ、確かに何十家も束ねる棟梁だもんな」
って合点がいかないのか?   柔軟性足りなくね?
0720人間七七四年2012/03/01(木) 14:03:24.25ID:oVC5CrV1
松平宗家って言い方もなんかかっこいいけど
要は土豪の一族ってとこだもんな。
0721人間七七四年2012/03/01(木) 14:11:38.92ID:KT3qx73I
>>719
松平宗家の〜といわれればだれも勘違いしない
読み手の柔軟性よりも勘違いを誘発するような書き方をした奴の修辞力が原因
「武家の棟梁」だけで将軍職を連想するなってほうが無理難題
0722人間七七四年2012/03/01(木) 14:35:39.80ID:uklEWWGn
>>719
件の文章に柔軟性がありすぎるからじゃね
0723人間七七四年2012/03/01(木) 15:34:53.99ID:L93gatHS
>>720
宗家と言っても、森山崩れで落ちぶれた後だしな。

岡崎城でさえ直前まで、同族に横領されてる状態だし
とても棟梁なんて偉い地位ではないよ。
0724人間七七四年2012/03/01(木) 17:54:20.99ID:lTsbk5B2
松平氏は家康元服以前に領主としての正当性と権力機構を保持しており、戦国期権力ヘの道を歩み始めていた
0725人間七七四年2012/03/01(木) 18:09:30.66ID:djcvaibS
>>723
まぁ長男だったというのを棟梁みたいに言った
だけでそんなに深い意味はないんでしょ。
ただその時期から天下への意思みたいに言うのはなぁ。
信長が義元倒さなかったら一生人質だったかもだし。
頼朝もそうだったかもだし、行動起こした直後はまともに
やられてるし人の一生というより歴史の転換、人物の誕生というのは
些細で微妙なとこなんだなといつも思う。
0726人間七七四年2012/03/01(木) 20:53:04.48ID:wj/Y9JLj
今川とか武田の旧臣で大名になった人間も江戸時代は譜代大名ってされるけど、実際家康はこういう系の大名を譜代家臣と認識していたのか?
せいぜい外様大名よりは信用できるってレベルだったように見えるが
0727人間七七四年2012/03/01(木) 21:43:49.16ID:02cNq0KP
>>712
家康人質時代の松平家臣は今川によって
家臣団再編をされずに、ほぼそのままの形で残されている
『三河物語』などが恨みがましく伝える、
今川直臣から陪臣であるが故に軽んじられる三河武士の悲哀もこのため
陪臣の身に甘んじた三河武士の苦労は察するに余りあるが、
今川からの離反以降、三河武士を譜代家臣団の中核として
引き継くことができた家康にとっては幸運だったと言える

>>716、721
「武家の棟梁」の意味すら知らずに勝手に勘違いしといて
修辞力に問題がある、とか恥ずかしくないの?
つうか平日の昼間から連レスしといて恥ずかしくないの?
そんなに暇なら日本史用語辞典でも引けば良いのに
0728人間七七四年2012/03/01(木) 22:07:35.57ID:4tM/DmSI
>>726
井伊さんは元今川家臣だけど、別格扱いかな?
0729人間七七四年2012/03/01(木) 22:15:21.99ID:02cNq0KP
奥平氏なんか元今川家臣であり、一度家康から離反した元武田家臣でもあるけど重用されてる
小笠原氏もそうだが、徳川家と婚姻関係を結ぶことで幕政で重きをなした譜代も少なくない
0730人間七七四年2012/03/01(木) 22:43:53.43ID:wj/Y9JLj
>>728 >>729
井伊は別格
奥平もそうかな

個人的には諏訪とか土屋とか三枝とかがどう思われていたのか気になる
0731人間七七四年2012/03/01(木) 22:44:03.45ID:XJG2StsC
奥平は>>507 で誰も便乗してくれなかった、
鳥居勝商の功績が大きいんじゃないの?
0732人間七七四年2012/03/01(木) 22:53:46.70ID:mG8Vjf4k
井伊の赤備はある意味外人部隊的な運用をされている気がする
0733人間七七四年2012/03/01(木) 23:07:44.24ID:uklEWWGn
>>727
詭弁乙
お前は話にならん
0734人間七七四年2012/03/01(木) 23:13:30.17ID:02cNq0KP
>>733
>棟梁だけだと何の棟梁か分からない
>武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
>三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
皆が職場や学校に行ってる時間に2chでこんな小学生みたいな
レス書いてる人間が人様を詭弁呼ばわりとか
恥ずかしくないの?
0735人間七七四年2012/03/01(木) 23:21:00.88ID:KT3qx73I
>学校に行ってる時間
どうでもいいが、大学生は随分前から春休みだよ
ああ、大学行ったことがない人は知らないかもしれないけどさ
0736人間七七四年2012/03/01(木) 23:40:37.76ID:02cNq0KP
春休み中の大学生が朝昼晩に2chとに書き込みとか、
書き込み内容の幼稚さと相俟ってますます惨めになるだけなのに
暇なら大学の図書館で徳川家についてちょっとは勉強したら?
『三河物語』や『徳川実紀』みたいな個人で買うと馬鹿高い本が只で読めるよ
まあ君の通ってるレベルの大学では置いてないかもしれないけど
0737人間七七四年2012/03/02(金) 00:14:59.68ID:Eob4ukAV
俺なんてネットやりに大学通ってたな。
画面がデコってあるから、PC詳しいのバレバレで
課題作成中の女子学生に
山ほど教えて教えてされまくったw
0738人間七七四年2012/03/02(金) 00:17:09.27ID:fd6kDmRk
なぜ唐突に自分語り?
0739人間七七四年2012/03/02(金) 01:18:08.23ID:Sj0dwspD
三河や実紀で勉強というのも変なニカワが増えそうだな。
徳川初期だと誰が読みやすいの書いてるかな。
0740人間七七四年2012/03/02(金) 06:10:15.02ID:wiHrJhMk
>>715
違和感を持つべきポイントが違いましたね。
戦国時代に「武家」と言ったら足利氏のことなので「武家の棟梁」と言ったら将軍のことですよ。
0741人間七七四年2012/03/02(金) 10:04:57.97ID:yb8xXehW
じゃあ日本中に居た、国持ち大名は棟梁じゃないのかと、、、
0742人間七七四年2012/03/02(金) 10:17:15.16ID:GP7h3QI7
むしろ、松平氏が三河の支配者だと思ってた時点でおかしい。
0743人間七七四年2012/03/02(金) 16:10:03.02ID:M0XSd9sP
>>742
相手するだけ無駄だよ
>>741みても”武家の棟梁”から”棟梁”に摩り替えてるし
どうやっても言葉遊びで逃げてうやむや、分が悪くなると国語板でやれとかでうやむや
詭弁を弄して反省しないのは無視が一番
0744人間七七四年2012/03/02(金) 20:11:51.25ID:8hzKFajk
>>702-703 読んで「日本中の武士の棟梁」だなんて解釈するバカは
お前だけだろ( ´,_ゝ`)
0745人間七七四年2012/03/02(金) 20:39:56.35ID:M0XSd9sP
ほら今度はレッテル張り
0746人間七七四年2012/03/02(金) 21:17:17.39ID:8hzKFajk
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
どん底からかどうか? って話で

>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス

って言ってるのを、将軍じゃないだろ!!とかキチガイにも程があるから
レッテル貼って何が悪いんだよ( ´,_ゝ`)
0747人間七七四年2012/03/02(金) 21:32:11.32ID:TF4YgsSZ
>>745
相手にする奴も同罪
0748人間七七四年2012/03/02(金) 21:52:23.96ID:X/VNHb5g
家康の魅力は、その苦労が多かった青年期なわけだから、別にどん底の人生であったとしても、最終的に大輪の花を咲かせたわけだから、家康の人生において、どん底時代があったとしてもいいじゃん。

むしろ、成功してからの家康には魅力を感じないな。
失敗や苦労が多いのが家康の魅力だ。
0749人間七七四年2012/03/02(金) 22:00:09.48ID:M0XSd9sP
>>746
それを詭弁というのだよ
0750人間七七四年2012/03/02(金) 22:04:13.25ID:QfCD01wf
天下取りをした人物で若いときに苦労してないのは、足利尊氏くらいだろう。
有力御家人の惣領だったからね。
まあ、後年、後醍醐天皇や弟との関係で苦労することになるが。
0751人間七七四年2012/03/02(金) 22:04:55.64ID:jM0SfM+W
「無視が一番」とか言いながらスルーできないなんて惨めだね
「詭弁」とか「反省」とか頭おかしいのか

>>740
そうなの?
石井進氏の『中世武士団』では、確かに武士階級が成立した
最初期において源頼信、源頼義、源義家の河内源氏三代が
「武家の棟梁」の称号を独占的に有したとされるけど、
足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
ま、現代の歴史用語としての「武家」は、単純に
鎌倉時代以降の幕府・将軍家・御家人を含めた武士一般の総称なんだけどね

>>742
松平氏は長親清康の頃に戦国大名として三河に確固とした権力基盤を築きあげてますよ
広忠の代に今川氏の庇護下に入り、領国である三河に対する実質的な支配権を喪失するが、
依然三河武士の棟梁たる立場を名目上維持し続け、また庇護者である今川氏からも
彼らの三河支配に益するようにその地位を保全することを期待される存在だったわけで
それは今川氏が松平家臣団の解体を志向しなかったことからも明らか
0752人間七七四年2012/03/03(土) 00:30:35.51ID:OX2I5gse
>>750
頼朝とか

>>751
そのふたつがなんで頭おかしいのか理解できないが、武家伝奏
0753人間七七四年2012/03/03(土) 02:31:10.26ID:d1/+iNLo
家康って下は農民から↑は秀吉のよこした熟女まで寵愛できたのが律儀やなー
0754人間七七四年2012/03/03(土) 07:34:59.58ID:uLwCquW3
室町時代の一次史料で足利氏以外を「武家」と呼ぶ事例を見たことないが、あるなら教えて欲しい
0755人間七七四年2012/03/03(土) 08:36:23.85ID:BAFpxZav
室町時代に書かれた史料で今手元で参照できるのは『神皇正統記』くらいだが
>一旦の勲功などいふばかりにて、「武家」代々の陪臣の陪臣をあげて高官を授けられ事は、
>朝議の妄りのみならず、身のためも能く慎むべき事とぞ覚え侍る
「足利将軍家」ではなく「公家と対立する武士階級一般の総称」として「武家」と言う用語が使われてる

>>750
武家伝奏なら足利義昭が追放された後の天正三年、
甘露寺庭田勧修寺中山三条西の公卿5人が同職に新たに任命されてるけど
もちろん信長と朝廷との交渉役を期待されて
別に足利将軍家相手じゃなくても「武家」伝奏って言うらしいじゃん
0756人間七七四年2012/03/03(土) 08:40:34.51ID:8Ka1gYEA
>>751
誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ。
事実誤認が多すぎる。

最初の文章と、それをフォローしようとした文章を見てみると
--------------
生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼

家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
--------------
まず「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例だな。

次に「三河武士の旗頭である松平宗家」は酷い間違い。
当時の広忠は、吉良氏の支援でようやく岡崎を回復した状況で
三河の一土豪でしかも弱小。

平野氏の著作から引用するのも良いけど、ちゃんと理解してから
引用しないと、自分の馬鹿さ加減を晒すだけだよ。
0757人間七七四年2012/03/03(土) 09:25:36.49ID:uLwCquW3
「室町時代の一次史料」がいつの間にか「室町時代に書かれた史料」となっていますが
『神皇正統記』は南北朝時代の歴史書(それ以前の歴史を抽象的に記述)であって、
室町時代に足利氏以外を「武家」と呼んだ事例ではないですよね。

>「武家」代々の陪臣の陪臣
ここで言う「武家」は鎌倉殿(将軍)を指していると思いますが・・・。
0758人間七七四年2012/03/03(土) 09:41:10.63ID:OX2I5gse
>>755
義昭は京追放されてるし、信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
脇田修もそう指摘してる
京都所司代なんか好例
なんだったら将軍の子供抑えてるから代理として交渉してたのかもな

状況が変わって天下がほぼ織田の手中に帰したのに、いつまでも将軍にこだわるってのは”柔軟性が足りない”んじゃないか?w
0759人間七七四年2012/03/03(土) 10:19:43.33ID:3uUvVFop
少しズレたらなんだが
0760人間七七四年2012/03/03(土) 11:58:14.58ID:ecGZPpsh
自分が詭弁をしてるのに、他人に詭弁とか言っちゃってるバカどもって
「この荷物宅急便で発送して来て!」ってお願いしたら
「隣の佐川では宅配便しか出せないので、
遠くのヤマト運輸まで行って来ました!!」ってしそうだよな( ´,_ゝ`)

低脳は自分の間違いを認めるのは、自尊心が許さないんだろうなwww
0761人間七七四年2012/03/03(土) 12:05:16.73ID:ecGZPpsh
岡崎城って、当時の三河で何番目くらいの格がある城だったの?
上位1割に入る城主の嫡男なんだから、

>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
どん底からかどうか? って話で

>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス(武家の棟梁)って意味が分からんとか
何かの精神障害者じゃないの( ´,_ゝ`)?
0762人間七七四年2012/03/03(土) 12:32:23.93ID:OX2I5gse
御託はいいから実例出したら?
>>754のでもいいし、まともな学者の著作でもいいけど
0763人間七七四年2012/03/03(土) 13:06:21.81ID:BAFpxZav
>>756
「平野氏の著作」って何?
このスレで一体誰が平野氏(誰?)の著作を引用してるの?
戦国時代の三河における松平宗家の立場については既に解説したよね?
誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ

>>757
『神皇正統記』はその本分である歴史書としては
作者である北畠親房の史観の産物としか言いようがないが
(特に天照大御神とか三種の神器とかの件は顕著)、
室町時代に「武家」という言葉がどう使用されていたかの
典拠としては一次資料そのものですよ
ちなみに引用した部分は俗に「建武中興論」と呼ばれる後醍醐天皇の執政部分の記述で、
親房にとって同時代資料として見ていい

>>758
そうそう
当時の朝廷は柔軟だったから、室町幕府崩壊後の政権執行者として
信長を相手として武家伝奏を任命したわけで
「武家といえば足利将軍家以外認めない(キリッ」とか
馬鹿なこと言わず現実路線で対応してたんだよね
ちなみに信長が将軍の子供抑えたからその名代として交渉した、
という事実は自分の知る限り存在しない
最初から一貫して京都所司代村井貞勝が窓口となっている
0764人間七七四年2012/03/03(土) 13:53:07.84ID:BAFpxZav
>>762
既に実例は出してる
逆に「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠が出てない
(もっとも反証を既に挙げている以上、上記論旨は破綻済みだけど)
言っとくけど『二条宴乗日記』に引用されている永禄十三年一月二十三日付織田信長書状のように、
「武家」を「足利将軍家」という意味で使用するケースが
特に同時代の畿内において一般的だったということは当然知ってる
逆に聞くけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
ただやり込められて悔しいから粘着してるだけだよね
0765人間七七四年2012/03/03(土) 14:28:45.03ID:orSPgyDF
とりあえず全員一度武家の棟梁でググってこい
0766人間七七四年2012/03/03(土) 16:34:40.61ID:OX2I5gse
>>763
両者に共通するのは天下をほぼ手中にしていたこと
つまり武家の代表者であり、棟梁という事
松平タケチヨは・・・?w
だから適切ではない

>>764
どこにでてんだよw
>>751
>足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
>不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
>>751の論旨は松平に使ってもおかしくないというもの
なんでがソース引用範囲狭めた理由を、ソース求められた側が説明しなきゃならんのだw
言ってる事が二転三転しすぎなんだよ
0767人間七七四年2012/03/03(土) 16:43:46.92ID:uLwCquW3
今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
そもそもこの時期の「三河武士の棟梁」と呼べる存在は吉良氏か今川氏でしょうね。
0768人間七七四年2012/03/03(土) 16:57:36.39ID:ho1A3f3c
>今川人質時代の松平竹千代を「武家の棟梁」と呼んだから皆が違和感持ったんだよ。
それは文脈読んで解説した>>711 にやり込められてファビョってるお前だけwww

「殿様」ってだけで万石以下の旗本は違う!とか言い出す
お前の柔軟性の低さは精神障害者レベル( ´,_ゝ`)
0769人間七七四年2012/03/03(土) 17:23:46.28ID:OX2I5gse
それでいいから早く三河武士を糾合できる権力だったって証明しろよ
0770人間七七四年2012/03/03(土) 18:01:58.19ID:pCMMalS5
松平一門ですらまとめ上げられてないのに、三河一国を糾合とか大きく出たな
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