【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14
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0001人間七七四年
2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0285人間七七四年
2011/12/28(水) 22:04:12.98ID:/D0IQFV9特に意味は無い
名前を選んだ崇伝は最初に家忠を推したが、花山院の元祖にその名があるとし
新たに七つの案を提出し、家光が選ばれた
0286人間七七四年
2011/12/29(木) 10:58:05.06ID:I1J9YJtwこういう事を本気で思ってる奴が結構いるんだよな。
0287人間七七四年
2011/12/29(木) 12:34:30.07ID:qOTBkmyS0288人間七七四年
2011/12/29(木) 12:53:38.97ID:ex5iZjOTども。義満にかけたのかと妄想してた・・
>>286
平山さんじゃないが地震の影響も大きく解釈されるようになったし
最初から和議しかないような家康と和戦両様の秀吉と
どちらが有利だったかも面白いとこだし
身内を人質に出すというのは単なる婚姻政策を超えた
秀吉らしさとは思うけどね。
0289人間七七四年
2011/12/29(木) 13:07:09.56ID:I1J9YJtw本気でこういう勘違いをしてる人間が沢山いるっていう証左なんだよな。
0290人間七七四年
2011/12/29(木) 14:31:27.15ID:ex5iZjOT単に解釈の問題ではなくて
100%こうだという決定事項があるということ?
小牧長久手以降の事実関係は確定として
それをどう捉えるかという点に関しては
それなりに解釈問題とは思うけど。
事実がこうだからこうなんだよというのも
たまに見かけるけどそれはあくまで両者の関係の背景でしかなくて
それが何を意味するかに関してはまた違う話じゃないかということなんだけどね。
0291人間七七四年
2011/12/29(木) 15:13:05.15ID:I1J9YJtwあのさぁ、勘違いって言われたんだから、少しくらい調べようよ。
小牧・長久手は徳川が人質を差し出して講和してるわけ。それで終了。
大政所や朝日の話はそれより随分後の話。
解釈だとかそういう問題じゃないの。理解出来る?
あとね、主語が無く、「こう」だの「それ」だのばかり使われても
何を言いたいのかさっぱり分からない。
態と自分の主張を不明瞭にして突っ込まれ難くしようとしてるのかも知れないけど。
0292人間七七四年
2011/12/29(木) 16:27:28.22ID:ex5iZjOTさんきゅ、そういうことね。
ここは徳川スレなんだけど負けた秀吉ファンが
暴れにくるところでそれを懐の広い徳川ファンが見守るスレ
みたいにどっかで言われてて勘違いというのは
どっちがどういう意味で語ってるのかわからないということでさ。
小牧の後の家康臣従あたりまでをトータルで語ってるのではなくて
徳川が人質出して小牧は終了と言うのはわかりやすくていいなと。
最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
そこまで行かずに小牧のけじめを徳川が人質出したというので
終了させるのが正しくてそのあとのことまでごっちゃにするのは
勘違いというのは、小牧長久手の捉え方としては明解だもんね。
徳川臣従あたりまでを小牧の影響下ということで総論的に
話してるように思ってたわ。
0293人間七七四年
2011/12/29(木) 16:33:16.08ID:w2x9j/Crどんな人質出してたんだ?
0295人間七七四年
2011/12/29(木) 16:38:00.69ID:I1J9YJtwはぁ?だから小牧と家康臣従は別なの。理解出来るか?
トータルとかそういう問題じゃ無いんだよ。
> 最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
だからそもそもが小牧・長久手の講和と家康の臣従の時の事を
勘違いしてるって指摘なんだっつーの。馬鹿?
無知なのは仕方ないけどめちゃくちゃな日本語使って誤魔化そうとすんなよ。恥ずかしい。
ところでさぁ、お前ってよく出没する「だもんで」とか使う奴?
文体が似てるからちょっと気になったんだけど。
0296人間七七四年
2011/12/29(木) 16:39:04.05ID:ex5iZjOT間違いがあったね。細かい話なんだが。
0298人間七七四年
2011/12/29(木) 23:13:01.47ID:lj+cXLLb殺したければ殺せと言わんばかりだし
0299人間七七四年
2011/12/29(木) 23:56:46.04ID:cDwxUTT40300人間七七四年
2011/12/30(金) 08:16:38.89ID:gFXZnKOXすぐには認知しなかったし お母さんがやりまん説が出ている
逆に淀(茶々)はほんとに秀吉の種で孕んだかずいぶん怪しいと思うんだけど、
大坂城にはすでに大奥みたいな男子禁制のエリアがあり、秀吉は
自分の種であったことにそれなりの自信があったとこないだテレビでやってた
0301人間七七四年
2011/12/30(金) 11:01:19.64ID:PZ2BPtUG秀吉にしても殺すメリットなんざ無いし。
ただ、その後秀吉が四国や九州で躓いてしまい、
大逆転のチャンスが転がり込んできたら分からないよね。
北条の意向なんかもあるし。
そういった意味では人質として殺される可能性ってのも十分想定してただろうね。
0302人間七七四年
2011/12/30(金) 16:47:45.45ID:yIcH3ioJ面白かったと思ったw
0303人間七七四年
2011/12/30(金) 18:08:54.85ID:v8x/7Kgt徐々に怪しくなったらとりあえず送り返してると思うよ
戦の前に正室を離縁というパターンはあったし
突然の叛旗だったりしたら見せしめで殺されちゃう可能性はあるけど
0304人間七七四年
2011/12/30(金) 20:27:11.45ID:68J78dq2というかドライな感じがする。
0305人間七七四年
2011/12/31(土) 00:19:43.17ID:jc74g2KG信康みたいに背かれるのを警戒していたのだろうか
0306人間七七四年
2011/12/31(土) 01:02:46.12ID:ykG7ZBvs0307人間七七四年
2011/12/31(土) 01:54:51.49ID:1xer/rkTだから忠輝、忠直は、殲滅するのだ
0308人間七七四年
2011/12/31(土) 02:01:10.84ID:ykG7ZBvs秀忠のやり方もよく分からないんだよな
秀忠は忠直をどういう立ち位置にしたかったのかね
0309人間七七四年
2011/12/31(土) 03:36:08.82ID:n76RcxQlう〜ん、家康の冷淡さは愛情ある厳しさではなく、本当に冷たさ
を感じさせるんだよねえ。
家康が早くから両親と離れ人質生活を送っていたという環境が
少なからず影響してるのかそれとも元々の気質か。
家康は三大英傑の中ではあまり残酷エピソードは少ないし、家臣
とか敵将とかに対して心温まるようなエピソードが結構残ってるから
余計実子に対しての仕打ちというか対応の温度差が不思議。
0310死
2011/12/31(土) 04:08:50.01ID:Q/mIVUm2晩年は信長の事聞かれても殆ど答えなかったと読んだ事あるけど
武将としてもどんな評価してたのかな?すっごい知りたい
0311人間七七四年
2011/12/31(土) 04:43:26.47ID:8l6VwdWd身内びいきなのがよく分かってたからでしょ。
0312人間七七四年
2011/12/31(土) 04:43:57.34ID:8l6VwdWd6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
0313人間七七四年
2011/12/31(土) 09:29:12.93ID:uEhyJY+Z秀吉はもちろん、信長公も自分の子にはやたら甘かった
家康公が天下をとったのはやはり運じゃない ちゃんとしてたからだな
0314人間七七四年
2011/12/31(土) 12:46:45.20ID:ykG7ZBvsそう言われてみるとそう感じるけど
そういう身内に対しても、もしかしたら優しくしていたけど
それはあまり人目に見せないやり方だったのかもしれん と思ったりする
京都にいる秀忠が所労や腫物で寝込んだ時、家康も伏見から上洛して見舞いに来たり
秀忠が藤原定家筆の和紙懐紙が見たいと望んだら、冷泉為満さん呼んでくれたりしてるんだけど
やはり何かしら会話らしい会話や伝聞がないと、どういう心境だったのかも分からないからなぁ
0315人間七七四年
2011/12/31(土) 13:55:23.44ID:n76RcxQl人間的には家康は信長はあまり好きではなかったろうなと思う。
家康の本能寺の変とか光秀に関する少ない言葉を読むと、本能寺の変
は信長側に落ち度があったような意見に思える。
勿論信長が死んだお蔭で天下統一出来たという部分があるからそういう
部分は差し引く必要もあるけど、長く信長の同盟相手としてこき使われて
色々思う事もあったと思うよ。信長は人使いが荒いからね。
でも武将としては評価していると思うよ。
最晩年に秀忠に送った訓戒状みたいなものに「織田殿は智略にも武略にも
優れ、よく人を使い、近世の名将だった」と書いていたし(かなり昔に
読んだ手紙なので内容はうら覚えだから正確ではないけどこんな感じ
の内容だった)。
秀吉についても書かれていたけど信長以上に褒めていた。
野人から天下人になった事を褒めていて古今東西きっての名将だと。
まあなんだかんだいいながらも信長が桶狭間て義元を討ち取ったから
独立出来たし、信長の同盟相手だったから天下に近かったから
家康にとって信長は好嫌の感情がまじり過ぎた複雑な相手だったのでは
ないかな。
0316人間七七四年
2011/12/31(土) 14:06:07.83ID:uEhyJY+Zほかの人間なら信長もバカ、秀吉も大バカ、自分だけが優れた天下人って
言うところなのになあ〜 ほんとに家康公の自制心は凄まじいわ
0317人間七七四年
2011/12/31(土) 14:42:51.89ID:n76RcxQl秀吉が天下取って本来ならそのまま豊臣家の天下が続く
と思いきや、色んな幸運が重なって自分が天下を取れる
チャンスが巡り天下が取れたら、自分が優れていたから
というより何か天の意志かそういう類のものによって取れた
と謙虚になると思うよ。
0318人間七七四年
2011/12/31(土) 14:56:44.72ID:ykG7ZBvsそんな手紙もあるんだなぁ 史料本や研究本読んでも
最近はどれも似たような内容しか取り上げないから
手紙特集みたいな本も作ってほしいわ
0319人間七七四年
2011/12/31(土) 18:32:51.69ID:kM6X99Ynどちらも優れた人間だから人もついていったが
それだけでは長きお家存続には結びつかないと。
秀吉臣従後は少しは大人しかったけど死後すぐに
豹変するところがなんか凄みを感じるわ。
あれで関が原で負けてたら日本一のアホ裏切り者に
なったろうしね。
いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
0320人間七七四年
2011/12/31(土) 18:56:35.61ID:n76RcxQl>いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
これは思う。当時50幾つだっけ?当時の50代なんて老齢だろう。
よくまあ家運をかけた博打にうってでたと思う。
関が原は勝って当然の戦ではなく、本当に紙一重だったからなあ。
おっしゃるように秀吉死後に豹変してるけど、いつから家康は
天下への野心をはっきりと持ち出したんだろうなあ。
元々家康は信長の天下統一事業に早くから携わっていて「天下」というもの
へのが意識が他の五大老よりも違ってたんじゃないかなと思うけど。
0321人間七七四年
2011/12/31(土) 19:43:50.70ID:crPn243i一門の叔父連中でも戦目付けにして
「真田はスルーしろ!」って厳命しとけば良いだけじゃん。
0322人間七七四年
2011/12/31(土) 19:46:37.14ID:uEhyJY+Z10倍20倍の戦力でも半年ぐらいは平気で持ちこたえるもんですよね
0323死
2011/12/31(土) 20:09:38.34ID:PFSwDUDG人に慕われる人ではなかった、明智の反乱は
トラに襲われそうになった人間が
トラから逃れる為に起こしたようなものだつってたけどな
0324人間七七四年
2011/12/31(土) 20:31:26.45ID:n76RcxQlまあ、、、その信長評は当たってるワナ。
秀吉が明智の反乱をそう評するという事は秀吉自身も
明智に共感する部分は多分にあったんじゃないかな。
0325死
2011/12/31(土) 20:35:48.36ID:PFSwDUDG外道ついに滅ぶ と書いてたみたいだしな
やはり慕われる人間ではないんだろうな
0326人間七七四年
2011/12/31(土) 20:56:00.57ID:kM6X99Ynよくその話になるけど、かなり早くに野心をもって行きたい
気がする。秀次、出兵で内部がぐらついだあたりはもう
「ラッキ」って作戦ねるぐらいでじっとチャンスを待ってたんじゃないかな。
これはもちろん自分が秀吉より年下というぐらいしか根拠は無いのだけど
だからこそあっという間の行動だったからね。
それと将軍もらってからの政治構想なんかは思いつきで
できるものではないだろう。
反面教師を考えた上で長期安定政権を作るのはどうしたらいいか
朝廷、寺社、外様、農民、商人、それと外人も。
これを60すぎてから完璧にこなすなんてのは
タダものじゃないわな。
0328人間七七四年
2011/12/31(土) 21:07:29.43ID:n76RcxQl基本細やかな心使いの出来る人ではあったんだろうなあとは思う。
だから小姓等の信長の側で仕える人間若しくは尾張からの家来は信長
のそういう「柔」の面がわかってるから慕う人間も多くいたと思う。
でもそれ以外の人にとってはとにかく猜疑心の強い、外道にしか映らん
だろうな。
0329人間七七四年
2011/12/31(土) 21:12:33.09ID:ykG7ZBvs信長政権にとってよい影響もらってた公家さんは悲しんだだろうし
逆に信長を邪魔に思っていた公家さんは、ざまぁと思っていただろう
前者は近衛前久とか
0330人間七七四年
2011/12/31(土) 21:14:14.17ID:n76RcxQl豊臣家滅亡の史実を知っている後世の人間から見たら何故秀吉は
あんなに家康を優遇し信頼したのかと思うけど、家康は
秀吉が死ぬまでは本当に律儀だっんだろうなと思う。
家康の変貌振りは凄いよね。
やはり天下を前にすると人は変わるんだろう、秀吉しかり、信長しかり。
0331人間七七四年
2011/12/31(土) 21:18:07.81ID:kM6X99Ynただ他の日記の残るような公家さんはみな改竄欠損だらけだから
よほどつい本音がでたんだろなと。
「不可驚事也」なんて残ってるのは黒幕説に利用されかねんわ。
0332人間七七四年
2011/12/31(土) 21:21:16.95ID:Kn5WWRKH最近聞いたばかりの
面従腹背
という感じだろう
秀吉にしても自分を悪いようにはしないのは分かってたから
それなりに従っておけばどんどんと自分を取り立てるはずと分かってた
それで力を蓄えていった
ただそうはいっても秀吉が先に死ぬかは本当に運だったから
そこも備わってたのは間違いなし
0333死
2011/12/31(土) 21:22:58.64ID:PFSwDUDGその面しか見ない人には信長は外道に見えるんだろうけど
>>330
秀吉は甘いよな
あれだけ目を掛けてやったのに死後手のひら返して大阪滅ぼすなんてよ
秀吉の墓までぶっ壊したんだろ、やり過ぎだよな
0334人間七七四年
2011/12/31(土) 21:23:56.78ID:kM6X99Ynあれさ、秀吉がボケて信用したのか
そこはマジで信用したのかどっちだろうね。
もし家康がだましきったのならそれこそタヌキなんてもんじゃない
もんな。
ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そのままだって大老筆頭格で何の不満もなかっただろうし。
だから天下を目の前にしたというかかなり前から想定はしてたんじゃ
ないかな。自分が先に死んだら仕方ないが相手が先に死んだら
勝負だって。じゃないと幕府解説後の完璧さが説明できないもんな。
0335死
2011/12/31(土) 21:26:57.08ID:PFSwDUDG福島なんて、家康抑えの為の兵糧まで家康に提供しちゃうんだぜ?w
そもそも家康抑えの為に尾張に配置したのに、兵糧ごとごっそり寝返るなんてな
0336人間七七四年
2011/12/31(土) 21:31:40.52ID:kM6X99Yn家康はどういう作戦で行ったかね。
無理やり私婚繰り返してアヤをつけたかな。
0337死
2011/12/31(土) 21:37:34.28ID:PFSwDUDG史実と同じじゃないのか?
難癖つけて、攻め込むぞ!って脅す
前田をそうしたように、上杉をそうしたように
そして全て配下に収めた後に、大名の取り潰し実行する
これが家康のやり方だね
ま、家康に250万石も持たせたのが敗因かもな
100万石程度の武将だったら発言力あっても
周囲が束になれば勝てない相手ではなかった、兵の動員力が違うからな
0338人間七七四年
2011/12/31(土) 21:53:44.31ID:n76RcxQl近衛前久は徳川の時代になっても信長の追悼句会開いている。
信長は彼を嫌う人間にはとことん嫌悪、憎悪されるけど、
心酔する人間は彼の死後も長く慕ってるんだよ前田利家とか細川忠興とかね。
>>333
秀吉自身が大恩を受けた織田家を乗っ取り、あの仕打ちだよ。
事実上織田家を崩壊させたのは秀吉だからなあ。
同じような事を家康にされても文句は言えないだろう。
>>334
>ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そうだよなあ。。。。言われてみれば。。。。
歴史の事実だから違和感を感じなかったけど当時から見れば
「まさかの行動」だったんだろう。
0339人間七七四年
2011/12/31(土) 22:24:50.74ID:ykG7ZBvsそこから新たに幕府立てて朝廷対策して豊臣政権崩壊て
数年単位じゃ無理だろうし、途中で家康が死ぬかもしれないし
そりゃ健康に気を使うよなぁ
0340人間七七四年
2011/12/31(土) 22:29:05.47ID:dbcp6HbH家康の関東転封は、秀吉としては、体よく左遷したつもりだたんだろう。
要衝の東海道から僻地の関東に移し、しかも全くの新領土だから、経営に手間取って、力を削げる位に考えていたろう。
関東の支配を短期間で固めた家康と家臣団の力量が凄かったんだが、そこまでは予測できなかったんだろう。
0341人間七七四年
2011/12/31(土) 22:39:05.41ID:crPn243i0342人間七七四年
2012/01/01(日) 03:13:46.06ID:wrXd3Iz/皇紀2670年だっけ?
じゃあ西暦200年前後と言われる卑弥呼の時代とか何してたんだよという話。
なんで天皇が統治してたのに邪馬台国と言う独立国を勝手に作られちゃってるんだよ?wという話。
はっきり言うと、天皇の歴史は1000年以上サバ読んでて、実在確認されてる天皇は西暦500年ぐらいの人だよ。
神武天皇から漏れなく「漢」字で名前が付いていることには目をつぶるお前ら、いい加減理解しろよ。
紀元前600年とかの日本にいた架空の原始人にとりあえず「チャーリー」とか「ミヒャエル」とか「ロドリゲス」とかそういう名前付けてるのと一緒なんだよ。
松本智津夫と同レベルのインチキ祈祷師の洗脳から早く醒めろよ。
0343人間七七四年
2012/01/01(日) 14:05:34.89ID:y2H+TTsX0344人間七七四年
2012/01/01(日) 16:07:40.44ID:bh/zsP/D城もまともに無かったようなド田舎とのことだし
そのうちにどんどん開拓していって石高が上がっちゃったていう
0345人間七七四年
2012/01/01(日) 18:05:26.26ID:GJiXC6J6武蔵60万石、相模25万石、伊豆10万石、
下総35万石、上総35万石、安房5万石、上野50万石、
以上220万石はあった。
開拓で、255万石に上がったかな。
0346人間七七四年
2012/01/01(日) 18:08:19.89ID:+7y9H/BG全くゆかりのない所で、一からやったわけではない
0347人間七七四年
2012/01/01(日) 18:09:09.30ID:rY+weHQD0348人間七七四年
2012/01/01(日) 19:20:52.22ID:+7y9H/BG小田原城の大森氏などもは、先祖が三河の高橋惟康と言っていたんだろ
太田道灌とかの太田氏も三河太田氏で三河に多いわな
関東などとっくの昔に三河に牛耳られてた
家康も統治が簡単だったワケだ
0349人間七七四年
2012/01/01(日) 20:51:33.86ID:9DGEmAZX0350人間七七四年
2012/01/01(日) 21:09:07.36ID:/LCWO1J6あと、家康は、新領地を家臣団にあてがう過程で領主としての権限強化にも成功している。
でも、あれだけの新領を短期間で掌握したのは、家康の力量のなせる技だったろう。
0351人間七七四年
2012/01/01(日) 21:26:11.31ID:9DGEmAZX0353人間七七四年
2012/01/01(日) 23:33:36.09ID:XX7KMmRC徳川家では具体的にはどんなのを言うの?
0354人間七七四年
2012/01/02(月) 01:26:56.35ID:2rxef1h/0355人間七七四年
2012/01/02(月) 08:15:06.77ID:NCBGxDXrほぼ未知の地をあてはめてそこを統率させないといけないし
自分は江戸自体を作らないといけない。
もし飢饉でも起きてたら家康最大の危機だったろうし
新組織団設立のチャンスというのは確かにそうなんだが
ちょと結果から求めすぎでそれを成し遂げたとしたら
家康の評価を高める方向で語るのが一番だろうか。
0356人間七七四年
2012/01/02(月) 11:10:57.54ID:ZTQGNtHg吉良氏の世田谷御所、蒔田御所、吉良殿、吉良の殿様、吉良閣下
三河の源氏を崇拝する文化のあった関東を統治するのは簡単
0357人間七七四年
2012/01/02(月) 16:52:07.82ID:Exo3i3S1そんなのこじつけだろw
〇∧〃
/ > でもそんなの関係ねぇ!
< \ そんなの関係ねぇ!
0358●
2012/01/02(月) 18:14:51.88ID:74M8vOAg0359人間七七四年
2012/01/02(月) 18:20:54.03ID:oaz5/U88【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
0360人間七七四年
2012/01/03(火) 03:16:45.44ID:BDt1gyXgそれだけあってあの辺グダグダしてたのはなかなか勢力がまとまらなかったせいだよなあ
そこに秀吉が思い切ってどっさり任せちゃったから一気にまとまった力を得られたんだし
>>351
古参の家臣は家康直轄家臣みたいな感覚で
石高は少なくても格が高いからそれで満足しろという感じだったのかも
0361人間七七四年
2012/01/03(火) 03:42:44.69ID:mds9j1RH苦難を排し、見事ハワイ攻撃を成功させた、そのずば抜けた統率力
日本が求めるリーダーを体現した理想の男がいた。
山本五十六は凄い!
______ ___________
V
ヽヽ〃 /
ヽ〃 真珠湾奇襲!
( _)
| | シコシコ・・・ シコシコ・・・
| | /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
/ ゝ |
/ _ ゝ___)(9 (` ´) )j
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
/ _/ \____/
↑
詐話師 半藤一利 w
0363人間七七四年
2012/01/03(火) 11:07:28.90ID:2tGFz77T一方の関東民は従順だったよね
いきなり乗り込んで来ても、三河の源氏マンセーだから
0364人間七七四年
2012/01/03(火) 22:14:18.99ID:Vy4kNzB0従順だったんじゃないと、成立たないだろ。
お前ら知識は多くても、頭は悪いのか?
0365人間七七四年
2012/01/03(火) 22:36:42.27ID:aZBKPYrH0366人間七七四年
2012/01/04(水) 00:23:37.95ID:ja2rWa4F0367人間七七四年
2012/01/04(水) 00:26:32.40ID:YeUawEl+小田原の役以降のこの二人が地味に気になる
0368人間七七四年
2012/01/04(水) 00:40:19.51ID:xidYDTom0369人間七七四年
2012/01/04(水) 01:07:22.27ID:c0Uywemy反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
0370人間七七四年
2012/01/04(水) 11:12:59.96ID:xidYDTom0371人間七七四年
2012/01/04(水) 11:57:56.31ID:liTB9Gu+反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
出せないと「地縁があったから」って証明には成ってませんよぉ。って事w
0372人間七七四年
2012/01/04(水) 12:29:10.36ID:FznhNkcF何、この厨二病設定
0373人間七七四年
2012/01/04(水) 12:31:21.04ID:cfyNwt0kそもそも小田原北条はよそ者の上に侵略者だったから関東衆に物凄く嫌われてたし
統治も悪かったから百姓からも恨みを買っていた
だから普通の統治してくれれば万々歳だったんだよ
0374人間七七四年
2012/01/04(水) 12:34:05.94ID:fdxeSMqM日本一の名門揃い、源氏のエキスが濃縮された三河武士
三河様熱烈歓迎だったのかしら
0375人間七七四年
2012/01/04(水) 12:50:52.69ID:z20ujt+C関東は鎌倉どころか平安以来の土着勢力がいまだ幅を利かせていたし
関東公方を頂点とする旧体制が維持されていたから、北条が滅茶苦茶にしなかったら家康も手を焼いただろう
0376人間七七四年
2012/01/04(水) 14:01:40.88ID:9uHqoZ61源氏ロンダリングwww
0377人間七七四年
2012/01/04(水) 14:46:22.76ID:fdxeSMqM平安末期、頼政系が三河に多数逃げてきて、その一人に道灌の先祖源広綱もいたからね
広綱は安城という所に城を構え、後に伊豆に移住するワケだが、一族の太田氏、大河内氏が三河に残り吉良に仕えていた
後北条氏も分かるんだよな
先祖の伊勢氏、記録に残る最古の資料は、俊継の従兄弟が吉良荘の奉行をやっていた
上層部が古くからの繋がりがあるのは分かるが、中層〜下層まで三河マンセーなんだよな
0378人間七七四年
2012/01/04(水) 18:37:03.63ID:5Bn/yvzp三河者だったから従順だったとか
稀な事例で、一般論を語らないでもらいたいな(′・_・`)
0379人間七七四年
2012/01/04(水) 20:14:12.21ID:5Bn/yvzp何で吉良上野介はずっと嫌われてて
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
キチガイ浅野がたんだ(;¬_¬)?
0380人間七七四年
2012/01/04(水) 20:14:29.48ID:5Bn/yvzp0381人間七七四年
2012/01/04(水) 21:05:46.38ID:FYA2k3X+「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。
家康関係無し
室町時代から、武蔵国の事実上の親分は奥州吉良氏ですw
0382人間七七四年
2012/01/04(水) 21:10:40.56ID:FYA2k3X+【歴史】時期は定かではない。城山〔標高254m・比高70m〕に太田道灌が築き、松平宗
家3代信光が改修し、信光の八男光親が城主となる。その後、光親は能見城〔岡崎市元能見町
〕へ移り、廃城になったと伝わる。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Matsudaira-Joyama-Jo.html
まゆつばだが、事実なら支配層はみんなグルです
0383人間七七四年
2012/01/05(木) 01:29:42.79ID:ZFLSY/nZ伊賀越え時の同行者について調べたいんだけど、どの文献に載ってるか知っている人いる?
さっぱり検討がつかなくて困ってる、もしよければ教えてほしい
0384人間七七四年
2012/01/05(木) 01:46:46.08ID:KZTC6ULJ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています