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【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX
スレ分散しても過疎るだけなので、
徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。

人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし

人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0277人間七七四年2011/12/28(水) 12:10:57.57ID:Mws3pA6+
様々な免許皆伝してるのにどうしてスペック低いんよ
0278人間七七四年2011/12/28(水) 12:47:48.25ID:24jg0h9v
この時代、免許なんて大名なら誰でも取れる
武芸でも文芸でも従事者は有力者に免許を与える事で権威や報酬を得るのに必死だった
家康は同時代の武将と比べてこれと言ってぱっとした実績が何もない
細かな積み重ねで成功したんだよ
0279人間七七四年2011/12/28(水) 15:19:59.55ID:XGh6Vcra
姉川で信長を
長久手で秀吉を
あっと言わせてないか?
0280人間七七四年2011/12/28(水) 15:38:20.69ID:/jCQVieg
なかなかの人物だよ。
脱糞して涙目姿を絵に残すことは普通はできない。
黒歴史は消したいものが心理
0281人間七七四年2011/12/28(水) 16:47:04.18ID:/D0IQFV9
>>276
三河統一期の段階で非凡な人物だったが
0282人間七七四年2011/12/28(水) 17:02:01.58ID:dK7L/5JU
>>279
姉川で信長に誉められたのは高天神衆
後に家康は功臣である高天神衆を見殺しにする醜態を晒している
小牧長久手も非常に締まりが悪い
戦術ではやや優位に立ったものの戦略で簡単に覆された
相手が悪かったと言うのもあるだろうけど
だいたいどの戦いでもぐだぐだになる
上手くいったのは対今川氏真戦ぐらいか
0283人間七七四年2011/12/28(水) 17:19:09.75ID:lfiB7ZtQ
>>279
だねー
姉川では大軍の朝倉を見事破りその後苦戦中の織田を救援して
信長に「この戦の勝利は徳川のおかげ」と言われたり
小牧長久手の戦術的大勝利は秀吉を大層震え上がらせ
思わず身内を人質にかけて何とか徳川に和議を持ち込ませた

でもやっぱ凄いと思うのは政治力だね
泰平200年の基盤を作ったのはそうそう出来ることじゃない
0284人間七七四年2011/12/28(水) 21:26:26.23ID:suNE31ye
家光の光の由来はなんなんでしょう。
0285人間七七四年2011/12/28(水) 22:04:12.98ID:/D0IQFV9
>>284
特に意味は無い
名前を選んだ崇伝は最初に家忠を推したが、花山院の元祖にその名があるとし
新たに七つの案を提出し、家光が選ばれた
0286人間七七四年2011/12/29(木) 10:58:05.06ID:I1J9YJtw
> 思わず身内を人質にかけて何とか徳川に和議を持ち込ませた
こういう事を本気で思ってる奴が結構いるんだよな。
0287人間七七四年2011/12/29(木) 12:34:30.07ID:qOTBkmyS
その手の程度の低いマンセーレスはチョン工作員だからスルー推奨
0288人間七七四年2011/12/29(木) 12:53:38.97ID:ex5iZjOT
>>285
ども。義満にかけたのかと妄想してた・・

>>286
平山さんじゃないが地震の影響も大きく解釈されるようになったし
最初から和議しかないような家康と和戦両様の秀吉と
どちらが有利だったかも面白いとこだし
身内を人質に出すというのは単なる婚姻政策を超えた
秀吉らしさとは思うけどね。
0289人間七七四年2011/12/29(木) 13:07:09.56ID:I1J9YJtw
本人か別人か分からんが、指摘されてもまだ分かってないってのが
本気でこういう勘違いをしてる人間が沢山いるっていう証左なんだよな。
0290人間七七四年2011/12/29(木) 14:31:27.15ID:ex5iZjOT
別人だけど勘違いというのがよくわからない。
単に解釈の問題ではなくて
100%こうだという決定事項があるということ?
小牧長久手以降の事実関係は確定として
それをどう捉えるかという点に関しては
それなりに解釈問題とは思うけど。
事実がこうだからこうなんだよというのも
たまに見かけるけどそれはあくまで両者の関係の背景でしかなくて
それが何を意味するかに関してはまた違う話じゃないかということなんだけどね。
0291人間七七四年2011/12/29(木) 15:13:05.15ID:I1J9YJtw
>>290
あのさぁ、勘違いって言われたんだから、少しくらい調べようよ。
小牧・長久手は徳川が人質を差し出して講和してるわけ。それで終了。
大政所や朝日の話はそれより随分後の話。
解釈だとかそういう問題じゃないの。理解出来る?

あとね、主語が無く、「こう」だの「それ」だのばかり使われても
何を言いたいのかさっぱり分からない。
態と自分の主張を不明瞭にして突っ込まれ難くしようとしてるのかも知れないけど。
0292人間七七四年2011/12/29(木) 16:27:28.22ID:ex5iZjOT
>>291
さんきゅ、そういうことね。
ここは徳川スレなんだけど負けた秀吉ファンが
暴れにくるところでそれを懐の広い徳川ファンが見守るスレ
みたいにどっかで言われてて勘違いというのは
どっちがどういう意味で語ってるのかわからないということでさ。
小牧の後の家康臣従あたりまでをトータルで語ってるのではなくて
徳川が人質出して小牧は終了と言うのはわかりやすくていいなと。
最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
そこまで行かずに小牧のけじめを徳川が人質出したというので
終了させるのが正しくてそのあとのことまでごっちゃにするのは
勘違いというのは、小牧長久手の捉え方としては明解だもんね。
徳川臣従あたりまでを小牧の影響下ということで総論的に
話してるように思ってたわ。
0293人間七七四年2011/12/29(木) 16:33:16.08ID:w2x9j/Cr
>徳川が人質出して小牧は終了
どんな人質出してたんだ?
0294人間七七四年2011/12/29(木) 16:34:29.79ID:P40EF0Z+
>>293
秀康
0295人間七七四年2011/12/29(木) 16:38:00.69ID:I1J9YJtw
>>292
はぁ?だから小牧と家康臣従は別なの。理解出来るか?
トータルとかそういう問題じゃ無いんだよ。
> 最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
だからそもそもが小牧・長久手の講和と家康の臣従の時の事を
勘違いしてるって指摘なんだっつーの。馬鹿?

無知なのは仕方ないけどめちゃくちゃな日本語使って誤魔化そうとすんなよ。恥ずかしい。
ところでさぁ、お前ってよく出没する「だもんで」とか使う奴?
文体が似てるからちょっと気になったんだけど。
0296人間七七四年2011/12/29(木) 16:39:04.05ID:ex5iZjOT
そういや平山さんの本の年表で秀康人質の記述に
間違いがあったね。細かい話なんだが。
0297人間七七四年2011/12/29(木) 16:40:30.97ID:ex5iZjOT
>>295
とてもよく理解した。
バカだった。
0298人間七七四年2011/12/29(木) 23:13:01.47ID:lj+cXLLb
秀康の扱いは泣けるな
殺したければ殺せと言わんばかりだし
0299人間七七四年2011/12/29(木) 23:56:46.04ID:cDwxUTT4
秀吉は殺さないと分かっていただろう
0300人間七七四年2011/12/30(金) 08:16:38.89ID:gFXZnKOX
やっぱり秀康は自分の子か、最後まで疑いの目で見てたんだろうな
すぐには認知しなかったし お母さんがやりまん説が出ている
逆に淀(茶々)はほんとに秀吉の種で孕んだかずいぶん怪しいと思うんだけど、
大坂城にはすでに大奥みたいな男子禁制のエリアがあり、秀吉は
自分の種であったことにそれなりの自信があったとこないだテレビでやってた
0301人間七七四年2011/12/30(金) 11:01:19.64ID:PZ2BPtUG
まぁ、そりゃ何もしなかったら殺されるわけはないけどな。
秀吉にしても殺すメリットなんざ無いし。
ただ、その後秀吉が四国や九州で躓いてしまい、
大逆転のチャンスが転がり込んできたら分からないよね。
北条の意向なんかもあるし。
そういった意味では人質として殺される可能性ってのも十分想定してただろうね。
0302人間七七四年2011/12/30(金) 16:47:45.45ID:yIcH3ioJ
俺はむしろ、お市が徳川家に嫁いでたら
面白かったと思ったw
0303人間七七四年2011/12/30(金) 18:08:54.85ID:v8x/7Kgt
人質といっても縛り付けたり牢獄に入ってるわけじゃないんで
徐々に怪しくなったらとりあえず送り返してると思うよ
戦の前に正室を離縁というパターンはあったし
突然の叛旗だったりしたら見せしめで殺されちゃう可能性はあるけど
0304人間七七四年2011/12/30(金) 20:27:11.45ID:68J78dq2
家康は晩年に生まれた孫みたいな息子達はともかく息子に冷たい
というかドライな感じがする。
0305人間七七四年2011/12/31(土) 00:19:43.17ID:jc74g2KG
何であそこまで冷淡だったのか謎
信康みたいに背かれるのを警戒していたのだろうか
0306人間七七四年2011/12/31(土) 01:02:46.12ID:ykG7ZBvs
身内だからこそ甘やかさないで、厳しく育てることにしたのでは?
0307人間七七四年2011/12/31(土) 01:54:51.49ID:1xer/rkT
それが分かる子と分からぬ子がいるのだよ。

だから忠輝、忠直は、殲滅するのだ
0308人間七七四年2011/12/31(土) 02:01:10.84ID:ykG7ZBvs
忠直の蟄居理由って結局よく分からないんじゃなかったっけ?
秀忠のやり方もよく分からないんだよな
秀忠は忠直をどういう立ち位置にしたかったのかね
0309人間七七四年2011/12/31(土) 03:36:08.82ID:n76RcxQl
>>306
う〜ん、家康の冷淡さは愛情ある厳しさではなく、本当に冷たさ
を感じさせるんだよねえ。
家康が早くから両親と離れ人質生活を送っていたという環境が
少なからず影響してるのかそれとも元々の気質か。

家康は三大英傑の中ではあまり残酷エピソードは少ないし、家臣
とか敵将とかに対して心温まるようなエピソードが結構残ってるから
余計実子に対しての仕打ちというか対応の温度差が不思議。

03102011/12/31(土) 04:08:50.01ID:Q/mIVUm2
家康は信長の事はどう思ってたの?

晩年は信長の事聞かれても殆ど答えなかったと読んだ事あるけど
武将としてもどんな評価してたのかな?すっごい知りたい
0311人間七七四年2011/12/31(土) 04:43:26.47ID:8l6VwdWd
同族経営の組織がダメになるのは
身内びいきなのがよく分かってたからでしょ。
0312人間七七四年2011/12/31(土) 04:43:57.34ID:8l6VwdWd
6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
0313人間七七四年2011/12/31(土) 09:29:12.93ID:uEhyJY+Z
大名や自分の家臣にも厳しかったから自分の子にも厳しくしたんだな
秀吉はもちろん、信長公も自分の子にはやたら甘かった
家康公が天下をとったのはやはり運じゃない ちゃんとしてたからだな
0314人間七七四年2011/12/31(土) 12:46:45.20ID:ykG7ZBvs
>>309
そう言われてみるとそう感じるけど
そういう身内に対しても、もしかしたら優しくしていたけど
それはあまり人目に見せないやり方だったのかもしれん と思ったりする

京都にいる秀忠が所労や腫物で寝込んだ時、家康も伏見から上洛して見舞いに来たり
秀忠が藤原定家筆の和紙懐紙が見たいと望んだら、冷泉為満さん呼んでくれたりしてるんだけど
やはり何かしら会話らしい会話や伝聞がないと、どういう心境だったのかも分からないからなぁ
0315人間七七四年2011/12/31(土) 13:55:23.44ID:n76RcxQl
>>310

人間的には家康は信長はあまり好きではなかったろうなと思う。
家康の本能寺の変とか光秀に関する少ない言葉を読むと、本能寺の変
は信長側に落ち度があったような意見に思える。

勿論信長が死んだお蔭で天下統一出来たという部分があるからそういう
部分は差し引く必要もあるけど、長く信長の同盟相手としてこき使われて
色々思う事もあったと思うよ。信長は人使いが荒いからね。

でも武将としては評価していると思うよ。
最晩年に秀忠に送った訓戒状みたいなものに「織田殿は智略にも武略にも
優れ、よく人を使い、近世の名将だった」と書いていたし(かなり昔に
読んだ手紙なので内容はうら覚えだから正確ではないけどこんな感じ
の内容だった)。

秀吉についても書かれていたけど信長以上に褒めていた。
野人から天下人になった事を褒めていて古今東西きっての名将だと。

まあなんだかんだいいながらも信長が桶狭間て義元を討ち取ったから
独立出来たし、信長の同盟相手だったから天下に近かったから
家康にとって信長は好嫌の感情がまじり過ぎた複雑な相手だったのでは
ないかな。
0316人間七七四年2011/12/31(土) 14:06:07.83ID:uEhyJY+Z
>>315
ほかの人間なら信長もバカ、秀吉も大バカ、自分だけが優れた天下人って
言うところなのになあ〜 ほんとに家康公の自制心は凄まじいわ
0317人間七七四年2011/12/31(土) 14:42:51.89ID:n76RcxQl
自制心もあるだろうけど、天下統一間近い信長が横死して、
秀吉が天下取って本来ならそのまま豊臣家の天下が続く
と思いきや、色んな幸運が重なって自分が天下を取れる
チャンスが巡り天下が取れたら、自分が優れていたから
というより何か天の意志かそういう類のものによって取れた
と謙虚になると思うよ。
0318人間七七四年2011/12/31(土) 14:56:44.72ID:ykG7ZBvs
>>315
そんな手紙もあるんだなぁ 史料本や研究本読んでも
最近はどれも似たような内容しか取り上げないから
手紙特集みたいな本も作ってほしいわ
0319人間七七四年2011/12/31(土) 18:32:51.69ID:kM6X99Yn
家康は信長や秀吉を反面教師としてみてたろうからね。
どちらも優れた人間だから人もついていったが
それだけでは長きお家存続には結びつかないと。
秀吉臣従後は少しは大人しかったけど死後すぐに
豹変するところがなんか凄みを感じるわ。
あれで関が原で負けてたら日本一のアホ裏切り者に
なったろうしね。
いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
0320人間七七四年2011/12/31(土) 18:56:35.61ID:n76RcxQl
>>319

>いい年でよくあそこから勝負したもんだ。

これは思う。当時50幾つだっけ?当時の50代なんて老齢だろう。
よくまあ家運をかけた博打にうってでたと思う。
関が原は勝って当然の戦ではなく、本当に紙一重だったからなあ。

おっしゃるように秀吉死後に豹変してるけど、いつから家康は
天下への野心をはっきりと持ち出したんだろうなあ。
元々家康は信長の天下統一事業に早くから携わっていて「天下」というもの
へのが意識が他の五大老よりも違ってたんじゃないかなと思うけど。
0321人間七七四年2011/12/31(土) 19:43:50.70ID:crPn243i
秀忠に中山道行かせたのって、わざとじゃないの?

一門の叔父連中でも戦目付けにして
「真田はスルーしろ!」って厳命しとけば良いだけじゃん。
0322人間七七四年2011/12/31(土) 19:46:37.14ID:uEhyJY+Z
考えてみればどんなにショボい城でも城兵が死ぬ気で立て篭もると
10倍20倍の戦力でも半年ぐらいは平気で持ちこたえるもんですよね
03232011/12/31(土) 20:09:38.34ID:PFSwDUDG
秀吉は信長の事を勇将ではあったけど良将ではなかった
人に慕われる人ではなかった、明智の反乱は
トラに襲われそうになった人間が
トラから逃れる為に起こしたようなものだつってたけどな
0324人間七七四年2011/12/31(土) 20:31:26.45ID:n76RcxQl
>>323

まあ、、、その信長評は当たってるワナ。
秀吉が明智の反乱をそう評するという事は秀吉自身も
明智に共感する部分は多分にあったんじゃないかな。
03252011/12/31(土) 20:35:48.36ID:PFSwDUDG
当時の公家の日記でも信長の死を

外道ついに滅ぶ と書いてたみたいだしな

やはり慕われる人間ではないんだろうな
0326人間七七四年2011/12/31(土) 20:56:00.57ID:kM6X99Yn
>>320
よくその話になるけど、かなり早くに野心をもって行きたい
気がする。秀次、出兵で内部がぐらついだあたりはもう
「ラッキ」って作戦ねるぐらいでじっとチャンスを待ってたんじゃないかな。
これはもちろん自分が秀吉より年下というぐらいしか根拠は無いのだけど
だからこそあっという間の行動だったからね。
それと将軍もらってからの政治構想なんかは思いつきで
できるものではないだろう。
反面教師を考えた上で長期安定政権を作るのはどうしたらいいか
朝廷、寺社、外様、農民、商人、それと外人も。
これを60すぎてから完璧にこなすなんてのは
タダものじゃないわな。
0327人間七七四年2011/12/31(土) 20:57:12.74ID:kM6X99Yn
>>325
多聞院日記で「天道にで御左候〜」かな。
0328人間七七四年2011/12/31(土) 21:07:29.43ID:n76RcxQl
信長がねねに送った励ましの手紙や信長公記に載っている乞食に対してのエピソードを読むと
基本細やかな心使いの出来る人ではあったんだろうなあとは思う。
だから小姓等の信長の側で仕える人間若しくは尾張からの家来は信長
のそういう「柔」の面がわかってるから慕う人間も多くいたと思う。
でもそれ以外の人にとってはとにかく猜疑心の強い、外道にしか映らん
だろうな。
0329人間七七四年2011/12/31(土) 21:12:33.09ID:ykG7ZBvs
公家さんと言っても、色々だろうから
信長政権にとってよい影響もらってた公家さんは悲しんだだろうし
逆に信長を邪魔に思っていた公家さんは、ざまぁと思っていただろう
前者は近衛前久とか
0330人間七七四年2011/12/31(土) 21:14:14.17ID:n76RcxQl
>>326
豊臣家滅亡の史実を知っている後世の人間から見たら何故秀吉は
あんなに家康を優遇し信頼したのかと思うけど、家康は
秀吉が死ぬまでは本当に律儀だっんだろうなと思う。
家康の変貌振りは凄いよね。
やはり天下を前にすると人は変わるんだろう、秀吉しかり、信長しかり。
0331人間七七四年2011/12/31(土) 21:18:07.81ID:kM6X99Yn
まちがえた、327は晴豊記だ。
ただ他の日記の残るような公家さんはみな改竄欠損だらけだから
よほどつい本音がでたんだろなと。
「不可驚事也」なんて残ってるのは黒幕説に利用されかねんわ。
0332人間七七四年2011/12/31(土) 21:21:16.95ID:Kn5WWRKH
>>330
最近聞いたばかりの
面従腹背
という感じだろう
秀吉にしても自分を悪いようにはしないのは分かってたから
それなりに従っておけばどんどんと自分を取り立てるはずと分かってた
それで力を蓄えていった
ただそうはいっても秀吉が先に死ぬかは本当に運だったから
そこも備わってたのは間違いなし
03332011/12/31(土) 21:22:58.64ID:PFSwDUDG
寺の坊主を殺したりいろいろやったからなぁ
その面しか見ない人には信長は外道に見えるんだろうけど

>>330
秀吉は甘いよな
あれだけ目を掛けてやったのに死後手のひら返して大阪滅ぼすなんてよ
秀吉の墓までぶっ壊したんだろ、やり過ぎだよな
0334人間七七四年2011/12/31(土) 21:23:56.78ID:kM6X99Yn
>>330
あれさ、秀吉がボケて信用したのか
そこはマジで信用したのかどっちだろうね。
もし家康がだましきったのならそれこそタヌキなんてもんじゃない
もんな。
ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そのままだって大老筆頭格で何の不満もなかっただろうし。
だから天下を目の前にしたというかかなり前から想定はしてたんじゃ
ないかな。自分が先に死んだら仕方ないが相手が先に死んだら
勝負だって。じゃないと幕府解説後の完璧さが説明できないもんな。
03352011/12/31(土) 21:26:57.08ID:PFSwDUDG
てか秀吉は福島以下、自分の子飼いの武将がみんな家康につくと思ってなかったべw
福島なんて、家康抑えの為の兵糧まで家康に提供しちゃうんだぜ?w

そもそも家康抑えの為に尾張に配置したのに、兵糧ごとごっそり寝返るなんてな
0336人間七七四年2011/12/31(土) 21:31:40.52ID:kM6X99Yn
秀吉が三成を地方にとばしてたりしたら
家康はどういう作戦で行ったかね。
無理やり私婚繰り返してアヤをつけたかな。
03372011/12/31(土) 21:37:34.28ID:PFSwDUDG
>>336
史実と同じじゃないのか?
難癖つけて、攻め込むぞ!って脅す
前田をそうしたように、上杉をそうしたように
そして全て配下に収めた後に、大名の取り潰し実行する
これが家康のやり方だね
ま、家康に250万石も持たせたのが敗因かもな
100万石程度の武将だったら発言力あっても
周囲が束になれば勝てない相手ではなかった、兵の動員力が違うからな
0338人間七七四年2011/12/31(土) 21:53:44.31ID:n76RcxQl
>>329
近衛前久は徳川の時代になっても信長の追悼句会開いている。
信長は彼を嫌う人間にはとことん嫌悪、憎悪されるけど、
心酔する人間は彼の死後も長く慕ってるんだよ前田利家とか細川忠興とかね。

>>333
秀吉自身が大恩を受けた織田家を乗っ取り、あの仕打ちだよ。
事実上織田家を崩壊させたのは秀吉だからなあ。
同じような事を家康にされても文句は言えないだろう。

>>334

>ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。

そうだよなあ。。。。言われてみれば。。。。
歴史の事実だから違和感を感じなかったけど当時から見れば
「まさかの行動」だったんだろう。
0339人間七七四年2011/12/31(土) 22:24:50.74ID:ykG7ZBvs
50って言ったら、本当にもう老人だもんな…
そこから新たに幕府立てて朝廷対策して豊臣政権崩壊て
数年単位じゃ無理だろうし、途中で家康が死ぬかもしれないし
そりゃ健康に気を使うよなぁ
0340人間七七四年2011/12/31(土) 22:29:05.47ID:dbcp6HbH
>>337
家康の関東転封は、秀吉としては、体よく左遷したつもりだたんだろう。
要衝の東海道から僻地の関東に移し、しかも全くの新領土だから、経営に手間取って、力を削げる位に考えていたろう。
関東の支配を短期間で固めた家康と家臣団の力量が凄かったんだが、そこまでは予測できなかったんだろう。
0341人間七七四年2011/12/31(土) 22:39:05.41ID:crPn243i
旨味のあった連中が懐かしんでただけだろwww
0342人間七七四年2012/01/01(日) 03:13:46.06ID:wrXd3Iz/
とりあえず、祭祀とやらを他の何よりも重要のように思ってる奴らは、卑弥呼の時代の祈祷文化から何も進歩してないってことだな。

皇紀2670年だっけ?
じゃあ西暦200年前後と言われる卑弥呼の時代とか何してたんだよという話。
なんで天皇が統治してたのに邪馬台国と言う独立国を勝手に作られちゃってるんだよ?wという話。

はっきり言うと、天皇の歴史は1000年以上サバ読んでて、実在確認されてる天皇は西暦500年ぐらいの人だよ。
神武天皇から漏れなく「漢」字で名前が付いていることには目をつぶるお前ら、いい加減理解しろよ。
紀元前600年とかの日本にいた架空の原始人にとりあえず「チャーリー」とか「ミヒャエル」とか「ロドリゲス」とかそういう名前付けてるのと一緒なんだよ。

松本智津夫と同レベルのインチキ祈祷師の洗脳から早く醒めろよ。
0343人間七七四年2012/01/01(日) 14:05:34.89ID:y2H+TTsX
何言ってんだ、この鮮人?
0344人間七七四年2012/01/01(日) 16:07:40.44ID:bh/zsP/D
家康が関東に入ったころって石高は低くなかった?
城もまともに無かったようなド田舎とのことだし
そのうちにどんどん開拓していって石高が上がっちゃったていう
0345人間七七四年2012/01/01(日) 18:05:26.26ID:GJiXC6J6
ある程度低いが、
武蔵60万石、相模25万石、伊豆10万石、
下総35万石、上総35万石、安房5万石、上野50万石、
以上220万石はあった。
開拓で、255万石に上がったかな。
0346人間七七四年2012/01/01(日) 18:08:19.89ID:+7y9H/BG
伊勢氏、吉良氏、上杉氏、富永氏、全部三河繋がり
全くゆかりのない所で、一からやったわけではない
0347人間七七四年2012/01/01(日) 18:09:09.30ID:rY+weHQD
それでも35万石かー 開拓すげぇな
0348人間七七四年2012/01/01(日) 19:20:52.22ID:+7y9H/BG
九州四国から飛ばされて、イチからなら分かるがな
小田原城の大森氏などもは、先祖が三河の高橋惟康と言っていたんだろ
太田道灌とかの太田氏も三河太田氏で三河に多いわな
関東などとっくの昔に三河に牛耳られてた
家康も統治が簡単だったワケだ
0349人間七七四年2012/01/01(日) 20:51:33.86ID:9DGEmAZX
徳川氏関東移転は、土着性の強い豪族連合から脱却する好機だったという説があった
0350人間七七四年2012/01/01(日) 21:09:07.36ID:/LCWO1J6
家康は、北條氏直の舅で、氏直と叔父の氏規の助命を秀吉に取りなしているから、北條旧臣らとしては、新領主として受け入れやすかったことが、家康の新領地支配の成功の一因だったかもしれない。
あと、家康は、新領地を家臣団にあてがう過程で領主としての権限強化にも成功している。
でも、あれだけの新領を短期間で掌握したのは、家康の力量のなせる技だったろう。
0351人間七七四年2012/01/01(日) 21:26:11.31ID:9DGEmAZX
その典型が、井伊12万石、本多、榊原10万石に対する酒井3万石という薄祿であった
0352人間七七四年2012/01/01(日) 21:33:22.09ID:pcHMLk5j
>>351
前三者は秀吉の指示とも言うから、家康としては彼らも酒井と同程度にしたかったのかもしれない
0353人間七七四年2012/01/01(日) 23:33:36.09ID:XX7KMmRC
土豪ってよく出て来るけど、
徳川家では具体的にはどんなのを言うの?
0354人間七七四年2012/01/02(月) 01:26:56.35ID:2rxef1h/
徳川(松平)家自体が土豪だけど
0355人間七七四年2012/01/02(月) 08:15:06.77ID:NCBGxDXr
関東移転はこないだ本が出てたけどまず家臣に
ほぼ未知の地をあてはめてそこを統率させないといけないし
自分は江戸自体を作らないといけない。
もし飢饉でも起きてたら家康最大の危機だったろうし
新組織団設立のチャンスというのは確かにそうなんだが
ちょと結果から求めすぎでそれを成し遂げたとしたら
家康の評価を高める方向で語るのが一番だろうか。
0356人間七七四年2012/01/02(月) 11:10:57.54ID:ZTQGNtHg
源三河守範頼の吉見御所
吉良氏の世田谷御所、蒔田御所、吉良殿、吉良の殿様、吉良閣下

三河の源氏を崇拝する文化のあった関東を統治するのは簡単


0357人間七七四年2012/01/02(月) 16:52:07.82ID:Exo3i3S1
後北条氏の同盟者ってのが半分以上で
そんなのこじつけだろw

 〇∧〃 
 / >  でもそんなの関係ねぇ!
 < \  そんなの関係ねぇ!
03582012/01/02(月) 18:14:51.88ID:74M8vOAg
0359人間七七四年2012/01/02(月) 18:20:54.03ID:oaz5/U88
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【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
0360人間七七四年2012/01/03(火) 03:16:45.44ID:BDt1gyXg
>>345
それだけあってあの辺グダグダしてたのはなかなか勢力がまとまらなかったせいだよなあ
そこに秀吉が思い切ってどっさり任せちゃったから一気にまとまった力を得られたんだし

>>351
古参の家臣は家康直轄家臣みたいな感覚で
石高は少なくても格が高いからそれで満足しろという感じだったのかも
0361人間七七四年2012/01/03(火) 03:42:44.69ID:mds9j1RH
日本は必ず負けると見事に予感を的中させた、その屈託した先見性

苦難を排し、見事ハワイ攻撃を成功させた、そのずば抜けた統率力

日本が求めるリーダーを体現した理想の男がいた。

山本五十六は凄い!
______  ___________
         V

      ヽヽ〃 /
       ヽ〃   真珠湾奇襲!    
      ( _)
       | |  シコシコ・・・ シコシコ・・・
       | | /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ     
     /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  )
     /  ゝ      |
    /  _  ゝ___)(9     (` ´) )j
   /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
  /   )           (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
 / _/           \____/

       ↑
     詐話師 半藤一利 w
0362人間七七四年2012/01/03(火) 10:59:33.54ID:C53WFIlV
>>345
在京賄料として関東以外に10万石ほどあったんじゃなかったっけ?
0363人間七七四年2012/01/03(火) 11:07:28.90ID:2tGFz77T
奥州探題(斯波氏、吉良氏、石橋氏、石塔氏)といい九州探題(一色氏)といい、流石に所縁の無いところでは、三河武士も上手くいかなかった

一方の関東民は従順だったよね
いきなり乗り込んで来ても、三河の源氏マンセーだから



0364人間七七四年2012/01/03(火) 22:14:18.99ID:Vy4kNzB0
その理論は、同盟国・後北条以外の所領が
従順だったんじゃないと、成立たないだろ。

お前ら知識は多くても、頭は悪いのか?
0365人間七七四年2012/01/03(火) 22:36:42.27ID:aZBKPYrH
人をすぐに馬鹿にするような奴よりは頭いいと思うけど
0366人間七七四年2012/01/04(水) 00:23:37.95ID:ja2rWa4F
確か、家康公は、駿府では、北條氏規と屋敷が近く、親交があったらしいね。
0367人間七七四年2012/01/04(水) 00:26:32.40ID:YeUawEl+
今川の人質時代の幼なじみだっけ?
小田原の役以降のこの二人が地味に気になる
0368人間七七四年2012/01/04(水) 00:40:19.51ID:xidYDTom
駿府時代、家康は、北条氏規、岡部正綱とよく鶇を取りに出掛けたそうです
0369人間七七四年2012/01/04(水) 01:07:22.27ID:c0Uywemy
降服後、元味方勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
0370人間七七四年2012/01/04(水) 11:12:59.96ID:xidYDTom
日本語でおk
0371人間七七四年2012/01/04(水) 11:57:56.31ID:liTB9Gu+
後北条と同じように降服後、徳川家みたいな同盟勢力の統治に
反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?

出せないと「地縁があったから」って証明には成ってませんよぉ。って事w
0372人間七七四年2012/01/04(水) 12:29:10.36ID:FznhNkcF
家康の性質を「凡人の心を持った天才」と考えてみた
何、この厨二病設定
0373人間七七四年2012/01/04(水) 12:31:21.04ID:cfyNwt0k
>>363
そもそも小田原北条はよそ者の上に侵略者だったから関東衆に物凄く嫌われてたし
統治も悪かったから百姓からも恨みを買っていた
だから普通の統治してくれれば万々歳だったんだよ
0374人間七七四年2012/01/04(水) 12:34:05.94ID:fdxeSMqM
関東民は従順に統治されたよね
日本一の名門揃い、源氏のエキスが濃縮された三河武士
三河様熱烈歓迎だったのかしら


0375人間七七四年2012/01/04(水) 12:50:52.69ID:z20ujt+C
北条が荒らし回ったのは大きかったわな
関東は鎌倉どころか平安以来の土着勢力がいまだ幅を利かせていたし
関東公方を頂点とする旧体制が維持されていたから、北条が滅茶苦茶にしなかったら家康も手を焼いただろう
0376人間七七四年2012/01/04(水) 14:01:40.88ID:9uHqoZ61

源氏ロンダリングwww
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