【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14
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0001人間七七四年
2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0002人間七七四年
2011/11/09(水) 03:27:20.68ID:zp9vtnn7('仄')パイパイ
0003人間七七四年
2011/11/09(水) 20:36:22.12ID:bkXfL9XH幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
0004人間七七四年
2011/11/09(水) 21:43:07.57ID:+g4CjchIおかしいヤツを亡くしたもんだw
0005人間七七四年
2011/11/09(水) 23:11:42.54ID:FYWtzjPY0006人間七七四年
2011/11/09(水) 23:41:54.76ID:QbdUsPii0007人間七七四年
2011/11/09(水) 23:45:29.25ID:qPyKmT3M秀吉みたいに、黄金の茶室とか作ったりしないし
0008人間七七四年
2011/11/09(水) 23:49:30.64ID:QbdUsPii0009人間七七四年
2011/11/10(木) 00:03:30.28ID:o1SMRph1周りが遊んでる頃に、コツコツ勉強して国立医大行って
医師から総理になったみたいな人生だから派手では無いよな。
0010岡部正綱
2011/11/10(木) 00:04:12.17ID:kK99q4J/0011人間七七四年
2011/11/10(木) 03:36:08.05ID:OilMNT2V自国シンパにして返したほうがメリットあるものな
0012人間七七四年
2011/11/10(木) 06:41:57.54ID:MbHH5/TW0013人間七七四年
2011/11/10(木) 07:47:00.63ID:OMaUYJU5信長公や秀吉が中卒高卒のチンピラ経営者なのに大して家康公は
一流大学を出た高学歴のエリート経営者のおもむきがある
0015人間七七四年
2011/11/10(木) 09:48:20.62ID:x373BAT80016人間七七四年
2011/11/10(木) 12:45:54.15ID:Hfyzixsu秀吉:チャラ大卒(早稲田?)の一発屋
家康公:マイナー国立大の苦学生から地道な出世 だろ?
0017人間七七四年
2011/11/10(木) 14:55:23.41ID:ciZTTx0O秀吉=田中角榮
家康=小沢一郎
こんな感じ
0018人間七七四年
2011/11/10(木) 14:56:21.56ID:DD5r9qSa義元が、知識人の代表である僧侶を参謀として活用するのを見て、天海や崇伝を用いたと・・
0019人間七七四年
2011/11/10(木) 15:23:22.58ID:bQagP/7Kなったのはまだガキンチョの頃でしょう。物心ついたのは人質
時代だったとすると岡崎城の記憶なんてほとんどなかったんじゃないか。
とすると岡崎に脱出したのは親がいたこともあったし周りの老臣みたいなのが
「帰りたい」というのが強かったのかな。
それとも人質時代がやっぱり自分自身不自由で辛かったか。
確か奥さんや子供を残したままだよね。
結局取り返してるしこの頃はまだ不仲?でもなかったとすると
よほどの緊急避難的な岡崎脱出の理由というのが家康自身に
どこまであったかはちと考えるところかな。
0020人間七七四年
2011/11/10(木) 16:18:11.41ID:Q0lyVTG9>秀吉=田中角榮 (えげつない事やって失脚)
どう考えても逆だろ?
>雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
教育なんてのは、月に1度でもやって来て
ポイントを説教するだけでも、充分な効果があると思うのだが?
0021人間七七四年
2011/11/10(木) 16:27:55.34ID:ng6OHQNd特に己の実力のみが頼りの乱世で生き延びるのは
秀吉は完全に無教養だったが誰も勝てなかったし
家康より教養のある人物だって山ほどいたが、やはり誰も勝てなかった
0022人間七七四年
2011/11/10(木) 16:42:23.33ID:aJKZXXON0023人間七七四年
2011/11/10(木) 16:54:08.43ID:bQagP/7K秀吉家康に共通するのは処世術や反面教師という意味での
学習能力でこれは今で言う「学校で習ったサインコサインなんか社会では
なんの役にも立たない」というのにも共通してくる。
東大出た偉い学者さんほど「秀吉や家康の人間的魅力」みたいなのを
軽視する傾向はちと感じるけどね。
そんなので天下を統一できれば苦労はしないみたいに。
このあたりは逆じゃないかと思うけどまあどうでもいい話。
ところで秀吉政権が長続きしなかったのは家康がいたからで
3代目にしっかりしたのが出れば足利や徳川みたいにそれなりに続いた
かもしれないけどね。あまり秀吉自体に短命の原因を持っていくのも
どうなんだろうなぁ。
0024人間七七四年
2011/11/10(木) 17:08:15.26ID:aJKZXXON豊臣政権は秀吉個人に権力を集中させ過ぎている
それが故に朝霜の如く、消えて言った
ちなみに、同程度の時間を経た初期江戸幕府は年寄に
よる合議制が機能している
0025人間七七四年
2011/11/10(木) 17:24:17.90ID:Q0lyVTG9んで淀も我が子可愛さか、浅井の復讐か
豊臣家を潰したwww
0026人間七七四年
2011/11/10(木) 17:31:05.30ID:x373BAT8まあ秀吉は自分で潰したんだが
0028人間七七四年
2011/11/10(木) 17:52:45.55ID:Q0lyVTG9猿がぶち壊したのは変わらないし
負けた後に3万石に減俸&最上の隣にでも転報しなきゃ
やっぱり潰されてたでしょ。
0029人間七七四年
2011/11/10(木) 17:58:31.30ID:bQagP/7Kまぁそうだけどそれは無教養とかとは少し違う問題かなとか。
大雑把だが急激な中央集権組織の完成には権力の集中は仕方ないだろうし
ましてや初代、それは秀吉が悪いとか無能力とかそういうようには
言えないのじゃないかということでね。
家康は秀吉システムの良いところを受け継ぎ発展したわけで
こういうとこにも家康の学習能力は現れてる。
家康システムを優秀というのならそれは秀吉が作った
超短期集中型システムの発展系としての意味が強いだろうし
秀吉は無教養で家康は教養があったとかとは無関係だろうし
両者の対比を1代で終わったと長く続いたで語るのはそれはまた
別で複雑な話にはなるとは思う。
徳川スレで秀吉かばうのもアレなんだけどね。
0031人間七七四年
2011/11/10(木) 18:55:16.71ID:aJKZXXONどうだろう、若い頃から政治やっているとそうでないとでは随分違うとおもう
後、秀吉が明を軽く見たのは漢籍に触れていないのも理由の一つかと
0032人間七七四年
2011/11/10(木) 19:27:18.84ID:bQagP/7K教養という意味の中に政治史みたいなのがあったかどうか
だよね。
たぶん論語とか孔子とかそういうのがお勉強だったとは
思うけどそういうのがどう将来に役立ったか。
秀吉が明を軽視したかどうかはまた検討の必要があるだろうけど
関白就任後は室町とかの故実にもかなり触れているし
大陸の進んだ文化とかそういうのはある程度公家経由で理解はしてたんじゃないかな。
出兵の理由もこれまた複雑だろうけど、軽視した、のもあるだろうし
それがまた全てでもないだろしね。
明がかなり弱りかけてたなんてのはどこまで把握してたか。
実際タラレバだがもう少し時代がズレてれば明が秀吉に救援要請
なんてしてきたかもしれないし徳川への要請とは50年も違ってないぐらいか。
だから言うほど秀吉出兵は無謀で暴挙とは断定できないだろうし
明の最弱期に重なってたら日本が大陸の歴史に関与してたかもしれない。
あくまでタラレバだが信長の時と重なってたら案外すごいことになってたんじゃないか。
0033人間七七四年
2011/11/10(木) 19:46:27.60ID:aJKZXXON論語や孔子を知っていると知っていないでは全然違うかと
中国の大きさを認識していれば、唐入など妄想としか思えないのだが
0034人間七七四年
2011/11/10(木) 20:21:04.50ID:bQagP/7K論語や孔子ってのはたとえで「道理」「理屈」のこども向けの
お勉強という意味程度だけどね。
中国の大きさや文化の先進度というのはそりゃ理解してたんじゃないか。
太閤とか金吾って読み方にも現れてるし。
だから無知で犯した暴挙じゃなくて知ってて攻めたのでしょやっぱり。
それをどう表現するかはする側の問題だろうしね。
ただわしらのお祖父さんたちも中国プラスアメリカに仕掛けたりしてるから
後での評価というのはなかなかこれまたむつかしいわなぁ。
0036人間七七四年
2011/11/10(木) 20:35:59.58ID:OMaUYJU5自分が持ってる膨大な蔵書を保管したらしい それを聞いた秀吉が嫉妬し、
負けてなるものかとあちこちの寺社にお金を寄進し、その代わりにと価値のある書物を
出させて家康のより大きな書庫を作ったと聞いたことがある
0037人間七七四年
2011/11/10(木) 21:00:45.13ID:bRv9USzf秀吉は側近の大村由己から儒学の講義受けてたよ
だから漢籍を知らないなんてのは有り得ない
まあ年取ってからの耳学問だけどね
雪斎本人の指導が有ったかどうかは疑わしいが、
寺で若年の頃から漢籍に親しんだ家康とは年季が違うとは言える
0038人間七七四年
2011/11/10(木) 21:06:41.77ID:aJKZXXON秀吉の育ちの悪さは天下取るまではプラスに働いたが、それ以降はマイナスだな
今太閤や、戦後からバブルまでの間、君臨した経営陣が良い例
0039人間七七四年
2011/11/10(木) 21:58:59.09ID:ODJ72MVmだからその若い頃から〜ってのも不確かなのよ
だいたい寺に通っていたら漢籍に親しむのなら、
信長だってその記録はある
0040人間七七四年
2011/11/10(木) 22:03:53.07ID:aJKZXXON0041人間七七四年
2011/11/10(木) 22:09:50.20ID:bRv9USzf桶狭間の頃の家康について家臣たちが
「殿は人質時代に坊主の指導を受けて中国の兵法書を学んだ」
なんて噂されたという記述がある
少年時代の家康が寺で漢籍を学んでいた、
という通説の出所が上記であり、
この件については疑う余地はあんまりない
逆に言えば初出の時点で雪斎の名前が出てないので、
雪斎が家康の指導をしたという俗説は事実じゃない可能性が高いとは言える
後の天下人を禅僧が導いた、ってのは夢のある話だが
0042人間七七四年
2011/11/10(木) 22:35:30.99ID:0VuUdhFr雪斎は両方読んでたんだろうが、本で読んだ兵法をいきなり実践して見せた点では、大村益二郎並みの天才だったろう。
家康も、初陣や第2戦目の桶狭間の前哨戦で活躍できたのは、座学を実践に移す力があったからだと思う。
0043人間七七四年
2011/11/10(木) 23:32:58.80ID:bQagP/7K御三家に配って徳川園には文庫として今に残るからね。
半数以上が韓国中国のものだったか、さすが家康だわなぁ。
人質時代にやることないから勉強してたというのはありそだな。
野山を走り回ってた信長とはちと違うか。
ただ桶狭間の頃はまだ高校生ぐらいだから兵法を活用したとまで
持ち上げるのは厳しいかもね。
0044人間七七四年
2011/11/11(金) 00:21:10.92ID:xIZUu8A6資料を分析したらほとんど駿府にいなかったようだと
本で見たことがある
0045人間七七四年
2011/11/11(金) 00:22:29.77ID:xIZUu8A6一緒に駿府に行った年上の人間が岡崎岡崎と言ってたのが頭に染み込んだんじゃない
0046人間七七四年
2011/11/11(金) 00:26:08.45ID:SLNOzKoz0047人間七七四年
2011/11/11(金) 01:37:07.39ID:Q8ExZtbRだろねえ、だから「待望の自国自城に帰った」みたいに
言われるけど意外と「初めて来た、見た」じゃなかったのかなってね。
0048人間七七四年
2011/11/11(金) 01:46:49.11ID:SLNOzKoz0049人間七七四年
2011/11/11(金) 02:49:05.95ID:Q8ExZtbRちなみにその後は駿府に戻ったの?
005048
2011/11/11(金) 07:30:38.55ID:z05NQ//Iあと、元康の康は祖父清康の康だし、その祖父が獲った岡崎や父祖伝来の安祥には行かずとも思い入れはあったと思うが
0051人間七七四年
2011/11/11(金) 08:48:07.87ID:TNN70E3Nさんきゅ。老臣なんかは思い入れが強くていろいろ話したろうねぇ。
ただ帰れるかどうかもわからないからあんまり話すのも
かわいそうみたいなのもあったかなとか。
0052人間七七四年
2011/11/11(金) 21:42:06.92ID:w6TeOftQ何で学問の話になってるんだ、、、
0053人間七七四年
2011/11/11(金) 21:59:25.50ID:TNN70E3N信用はできるのかな。
誰かあれ読めませんかね。「さきやう」って誰だろう。
0054人間七七四年
2011/11/11(金) 22:42:01.90ID:3VJ0MsI5でちょっとググってみたら浅野幸長が左京大夫だから、
時期にもよるけど幸長じゃね?
0055人間七七四年
2011/11/11(金) 23:17:31.11ID:TNN70E3Nググってみたが、幸長が左京大夫になるのは1589で、もう市は
亡くなってるんだよね。
徳姫が嫁ぐのは1567で、その前とすると市が嫁ぐ前ぐらいかな。
とすると尾張時代ということになる。
その頃の「さきやう」とすると・・・?
0057人間七七四年
2011/11/12(土) 01:24:57.25ID:kMU8RSHyところで細川は右京だわなぁ。
0058人間七七四年
2011/11/12(土) 03:32:05.29ID:jnx3KFdZ右京左京は誰なのか知らんかった
0059人間七七四年
2011/11/12(土) 05:35:47.75ID:A2/40o850060人間七七四年
2011/11/12(土) 13:41:47.28ID:nTlZAd5yだとしたらこの書が証拠になるかもしれないね。
この柘植左京亮というのが、左京亮、になるのは秀吉の
時というからこれはどうなんだろう、織田家にいた頃はなんと呼ばれてたか。
柘植というのも後に名乗ったみたいだけど三重の出身で
海の方にいたというのを見かけたことがある。
さて。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 19:55:13.58ID:/eueVVoX自分で補足だが、『武辺咄聞書』に以下の記述が有った
>家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、
>兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。
>生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。
若干信憑性に欠ける資料だが、これが雪斎師匠説の初出らしい
後は臨済寺に「家康公手習いの間」の遺構が残ってるくらいか
0062人間七七四年
2011/11/12(土) 20:46:39.28ID:nTlZAd5yほ〜、勉強になるなぁ。
ところで清洲同盟時上洛までで1561〜68として
この間家康が尾張に行った記録はどのくらいあるんだろう。
信長の方からはあまり記録がないのかな。
0063人間七七四年
2011/11/13(日) 08:59:26.25ID:u6WjGNbb柘植左京亮が天正十三年に任官する前から「左京」
を自称していたかどうかがポイントだと思う。
「関白任官記」の柘植左京亮、津田大炊頭
「歴名土代」の平重長、平吉広
が対になると思うけど、通説と違って
柘植左京亮吉広、津田大炊頭重長の可能性も考えられ、
柘植左京亮も「大炊」を称した説もあるのでややこしいけど。
0064人間七七四年
2011/11/13(日) 10:33:28.14ID:cgSEu4Zlどこでされてるの?
市は信長の妹でしょ?
そういう説があるのは知ってるが、あくまでも異説でしかない。
そう言ってる学者の名を教えてくれ。
0065人間七七四年
2011/11/13(日) 11:01:41.02ID:jT7hvLRT市は信長の妹扱いで政略結婚をしたのであって、
実の妹であろうがなかろうが学術的には重要ではないから
そんなことを研究している学者はいないと思うよ
0066人間七七四年
2011/11/13(日) 11:43:36.66ID:QYDARDmBでもどっちにしろ、妹として長政に嫁いだんだよね
ところでここ家康のスレなんだが、どうして市の話になってんの?
0067人間七七四年
2011/11/13(日) 13:59:30.64ID:HEvFPVXV天正13年とはかなり空くでしょう。
それに任官した位をその前に名乗るかどうか
「左京」が一般名?というのもあるしね。
それと織田にいた頃のこの人物が市が連絡するほどの
人物だったかという点もある。
年齢的に20代というのもギリギリぐらいだろうけど。
>>66
ごめん、言い出しっぺ。
ネタがなかったし、家康にも少し関わるかなと思って。
それと異説を唱える人たちがお江人気で結構取り上げられたりしてるみたい
だからね。そういうのがこの書状で「間違い」というのが分かってくると
ちと面白そうで。
一つの史料からたくさんのことがわかる実例というのもこれまた
珍しそうだし。
0068人間七七四年
2011/11/13(日) 14:12:38.49ID:jT7hvLRT例えば佐久間信辰も「左京」を自称していますよ。
佐久間信盛は右衛門尉を自称していたが、後に正式に任官しているみたい。
0069人間七七四年
2011/11/13(日) 14:13:24.28ID:QYDARDmBああそういうことか
市と家康が何らかの交流があったとして
自分たちの子が夫婦になるって、その頃可能性の一つとして捉えられたりしたのかな
0070人間七七四年
2011/11/13(日) 14:35:50.07ID:HEvFPVXV教えてもらったんだが上杉家臣の、後藤左京亮、に比定されているとか。
となると、い、も、とく、も上杉関連の女性というわけで市の書とは
関係なくなってくるね。
発表の場が場だし、増田学長の「もし」が勝手に拡大解釈されているかも
しれない、いい迷惑ってか。
邪馬台国畿内説でさんざんモメたからなぁ。プレス発表は。
0071人間七七四年
2011/11/14(月) 00:52:50.30ID:12n700aK準譜代と考えたほうがいいような気がする。
0072人間七七四年
2011/11/14(月) 04:22:24.21ID:wmNWXPBlそれでも譜代は譜代だ
0073人間七七四年
2011/11/14(月) 05:59:37.53ID:WIschtJVあくまで外様大名と区別する基準だからね。
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