【徳川家 総合】 徳川家康公スレ その14
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0001人間七七四年
2011/11/07(月) 17:56:41.52ID:gc+MSXxX徳川家・松平家と家臣団まで包括するスレです。
人の一生は
重荷を負いて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
人はただ 身の程を知れ 草の葉の
露も重きは 落つるものかな
0002人間七七四年
2011/11/09(水) 03:27:20.68ID:zp9vtnn7('仄')パイパイ
0003人間七七四年
2011/11/09(水) 20:36:22.12ID:bkXfL9XH幼少期の人質時代の屈辱。信長との同盟を守りきった律儀さ。
武田信玄との対戦。小牧・長久手での熟練した軍略。
豊臣政権下での着実な勢力伸張。そして文句なしの関が原での勝利。
天領400万石の圧倒的な徳川幕府。天下泰平250年。江戸は世界最大
の都市の一つとなった。
東京が首都となったのも、家康が始原。
死ぬまで階段をかけ上がった人生の達人。
0004人間七七四年
2011/11/09(水) 21:43:07.57ID:+g4CjchIおかしいヤツを亡くしたもんだw
0005人間七七四年
2011/11/09(水) 23:11:42.54ID:FYWtzjPY0006人間七七四年
2011/11/09(水) 23:41:54.76ID:QbdUsPii0007人間七七四年
2011/11/09(水) 23:45:29.25ID:qPyKmT3M秀吉みたいに、黄金の茶室とか作ったりしないし
0008人間七七四年
2011/11/09(水) 23:49:30.64ID:QbdUsPii0009人間七七四年
2011/11/10(木) 00:03:30.28ID:o1SMRph1周りが遊んでる頃に、コツコツ勉強して国立医大行って
医師から総理になったみたいな人生だから派手では無いよな。
0010岡部正綱
2011/11/10(木) 00:04:12.17ID:kK99q4J/0011人間七七四年
2011/11/10(木) 03:36:08.05ID:OilMNT2V自国シンパにして返したほうがメリットあるものな
0012人間七七四年
2011/11/10(木) 06:41:57.54ID:MbHH5/TW0013人間七七四年
2011/11/10(木) 07:47:00.63ID:OMaUYJU5信長公や秀吉が中卒高卒のチンピラ経営者なのに大して家康公は
一流大学を出た高学歴のエリート経営者のおもむきがある
0015人間七七四年
2011/11/10(木) 09:48:20.62ID:x373BAT80016人間七七四年
2011/11/10(木) 12:45:54.15ID:Hfyzixsu秀吉:チャラ大卒(早稲田?)の一発屋
家康公:マイナー国立大の苦学生から地道な出世 だろ?
0017人間七七四年
2011/11/10(木) 14:55:23.41ID:ciZTTx0O秀吉=田中角榮
家康=小沢一郎
こんな感じ
0018人間七七四年
2011/11/10(木) 14:56:21.56ID:DD5r9qSa義元が、知識人の代表である僧侶を参謀として活用するのを見て、天海や崇伝を用いたと・・
0019人間七七四年
2011/11/10(木) 15:23:22.58ID:bQagP/7Kなったのはまだガキンチョの頃でしょう。物心ついたのは人質
時代だったとすると岡崎城の記憶なんてほとんどなかったんじゃないか。
とすると岡崎に脱出したのは親がいたこともあったし周りの老臣みたいなのが
「帰りたい」というのが強かったのかな。
それとも人質時代がやっぱり自分自身不自由で辛かったか。
確か奥さんや子供を残したままだよね。
結局取り返してるしこの頃はまだ不仲?でもなかったとすると
よほどの緊急避難的な岡崎脱出の理由というのが家康自身に
どこまであったかはちと考えるところかな。
0020人間七七四年
2011/11/10(木) 16:18:11.41ID:Q0lyVTG9>秀吉=田中角榮 (えげつない事やって失脚)
どう考えても逆だろ?
>雪斎が家康を教育した=雪斎にそんな時間は無かったと思うが。
教育なんてのは、月に1度でもやって来て
ポイントを説教するだけでも、充分な効果があると思うのだが?
0021人間七七四年
2011/11/10(木) 16:27:55.34ID:ng6OHQNd特に己の実力のみが頼りの乱世で生き延びるのは
秀吉は完全に無教養だったが誰も勝てなかったし
家康より教養のある人物だって山ほどいたが、やはり誰も勝てなかった
0022人間七七四年
2011/11/10(木) 16:42:23.33ID:aJKZXXON0023人間七七四年
2011/11/10(木) 16:54:08.43ID:bQagP/7K秀吉家康に共通するのは処世術や反面教師という意味での
学習能力でこれは今で言う「学校で習ったサインコサインなんか社会では
なんの役にも立たない」というのにも共通してくる。
東大出た偉い学者さんほど「秀吉や家康の人間的魅力」みたいなのを
軽視する傾向はちと感じるけどね。
そんなので天下を統一できれば苦労はしないみたいに。
このあたりは逆じゃないかと思うけどまあどうでもいい話。
ところで秀吉政権が長続きしなかったのは家康がいたからで
3代目にしっかりしたのが出れば足利や徳川みたいにそれなりに続いた
かもしれないけどね。あまり秀吉自体に短命の原因を持っていくのも
どうなんだろうなぁ。
0024人間七七四年
2011/11/10(木) 17:08:15.26ID:aJKZXXON豊臣政権は秀吉個人に権力を集中させ過ぎている
それが故に朝霜の如く、消えて言った
ちなみに、同程度の時間を経た初期江戸幕府は年寄に
よる合議制が機能している
0025人間七七四年
2011/11/10(木) 17:24:17.90ID:Q0lyVTG9んで淀も我が子可愛さか、浅井の復讐か
豊臣家を潰したwww
0026人間七七四年
2011/11/10(木) 17:31:05.30ID:x373BAT8まあ秀吉は自分で潰したんだが
0028人間七七四年
2011/11/10(木) 17:52:45.55ID:Q0lyVTG9猿がぶち壊したのは変わらないし
負けた後に3万石に減俸&最上の隣にでも転報しなきゃ
やっぱり潰されてたでしょ。
0029人間七七四年
2011/11/10(木) 17:58:31.30ID:bQagP/7Kまぁそうだけどそれは無教養とかとは少し違う問題かなとか。
大雑把だが急激な中央集権組織の完成には権力の集中は仕方ないだろうし
ましてや初代、それは秀吉が悪いとか無能力とかそういうようには
言えないのじゃないかということでね。
家康は秀吉システムの良いところを受け継ぎ発展したわけで
こういうとこにも家康の学習能力は現れてる。
家康システムを優秀というのならそれは秀吉が作った
超短期集中型システムの発展系としての意味が強いだろうし
秀吉は無教養で家康は教養があったとかとは無関係だろうし
両者の対比を1代で終わったと長く続いたで語るのはそれはまた
別で複雑な話にはなるとは思う。
徳川スレで秀吉かばうのもアレなんだけどね。
0031人間七七四年
2011/11/10(木) 18:55:16.71ID:aJKZXXONどうだろう、若い頃から政治やっているとそうでないとでは随分違うとおもう
後、秀吉が明を軽く見たのは漢籍に触れていないのも理由の一つかと
0032人間七七四年
2011/11/10(木) 19:27:18.84ID:bQagP/7K教養という意味の中に政治史みたいなのがあったかどうか
だよね。
たぶん論語とか孔子とかそういうのがお勉強だったとは
思うけどそういうのがどう将来に役立ったか。
秀吉が明を軽視したかどうかはまた検討の必要があるだろうけど
関白就任後は室町とかの故実にもかなり触れているし
大陸の進んだ文化とかそういうのはある程度公家経由で理解はしてたんじゃないかな。
出兵の理由もこれまた複雑だろうけど、軽視した、のもあるだろうし
それがまた全てでもないだろしね。
明がかなり弱りかけてたなんてのはどこまで把握してたか。
実際タラレバだがもう少し時代がズレてれば明が秀吉に救援要請
なんてしてきたかもしれないし徳川への要請とは50年も違ってないぐらいか。
だから言うほど秀吉出兵は無謀で暴挙とは断定できないだろうし
明の最弱期に重なってたら日本が大陸の歴史に関与してたかもしれない。
あくまでタラレバだが信長の時と重なってたら案外すごいことになってたんじゃないか。
0033人間七七四年
2011/11/10(木) 19:46:27.60ID:aJKZXXON論語や孔子を知っていると知っていないでは全然違うかと
中国の大きさを認識していれば、唐入など妄想としか思えないのだが
0034人間七七四年
2011/11/10(木) 20:21:04.50ID:bQagP/7K論語や孔子ってのはたとえで「道理」「理屈」のこども向けの
お勉強という意味程度だけどね。
中国の大きさや文化の先進度というのはそりゃ理解してたんじゃないか。
太閤とか金吾って読み方にも現れてるし。
だから無知で犯した暴挙じゃなくて知ってて攻めたのでしょやっぱり。
それをどう表現するかはする側の問題だろうしね。
ただわしらのお祖父さんたちも中国プラスアメリカに仕掛けたりしてるから
後での評価というのはなかなかこれまたむつかしいわなぁ。
0036人間七七四年
2011/11/10(木) 20:35:59.58ID:OMaUYJU5自分が持ってる膨大な蔵書を保管したらしい それを聞いた秀吉が嫉妬し、
負けてなるものかとあちこちの寺社にお金を寄進し、その代わりにと価値のある書物を
出させて家康のより大きな書庫を作ったと聞いたことがある
0037人間七七四年
2011/11/10(木) 21:00:45.13ID:bRv9USzf秀吉は側近の大村由己から儒学の講義受けてたよ
だから漢籍を知らないなんてのは有り得ない
まあ年取ってからの耳学問だけどね
雪斎本人の指導が有ったかどうかは疑わしいが、
寺で若年の頃から漢籍に親しんだ家康とは年季が違うとは言える
0038人間七七四年
2011/11/10(木) 21:06:41.77ID:aJKZXXON秀吉の育ちの悪さは天下取るまではプラスに働いたが、それ以降はマイナスだな
今太閤や、戦後からバブルまでの間、君臨した経営陣が良い例
0039人間七七四年
2011/11/10(木) 21:58:59.09ID:ODJ72MVmだからその若い頃から〜ってのも不確かなのよ
だいたい寺に通っていたら漢籍に親しむのなら、
信長だってその記録はある
0040人間七七四年
2011/11/10(木) 22:03:53.07ID:aJKZXXON0041人間七七四年
2011/11/10(木) 22:09:50.20ID:bRv9USzf桶狭間の頃の家康について家臣たちが
「殿は人質時代に坊主の指導を受けて中国の兵法書を学んだ」
なんて噂されたという記述がある
少年時代の家康が寺で漢籍を学んでいた、
という通説の出所が上記であり、
この件については疑う余地はあんまりない
逆に言えば初出の時点で雪斎の名前が出てないので、
雪斎が家康の指導をしたという俗説は事実じゃない可能性が高いとは言える
後の天下人を禅僧が導いた、ってのは夢のある話だが
0042人間七七四年
2011/11/10(木) 22:35:30.99ID:0VuUdhFr雪斎は両方読んでたんだろうが、本で読んだ兵法をいきなり実践して見せた点では、大村益二郎並みの天才だったろう。
家康も、初陣や第2戦目の桶狭間の前哨戦で活躍できたのは、座学を実践に移す力があったからだと思う。
0043人間七七四年
2011/11/10(木) 23:32:58.80ID:bQagP/7K御三家に配って徳川園には文庫として今に残るからね。
半数以上が韓国中国のものだったか、さすが家康だわなぁ。
人質時代にやることないから勉強してたというのはありそだな。
野山を走り回ってた信長とはちと違うか。
ただ桶狭間の頃はまだ高校生ぐらいだから兵法を活用したとまで
持ち上げるのは厳しいかもね。
0044人間七七四年
2011/11/11(金) 00:21:10.92ID:xIZUu8A6資料を分析したらほとんど駿府にいなかったようだと
本で見たことがある
0045人間七七四年
2011/11/11(金) 00:22:29.77ID:xIZUu8A6一緒に駿府に行った年上の人間が岡崎岡崎と言ってたのが頭に染み込んだんじゃない
0046人間七七四年
2011/11/11(金) 00:26:08.45ID:SLNOzKoz0047人間七七四年
2011/11/11(金) 01:37:07.39ID:Q8ExZtbRだろねえ、だから「待望の自国自城に帰った」みたいに
言われるけど意外と「初めて来た、見た」じゃなかったのかなってね。
0048人間七七四年
2011/11/11(金) 01:46:49.11ID:SLNOzKoz0049人間七七四年
2011/11/11(金) 02:49:05.95ID:Q8ExZtbRちなみにその後は駿府に戻ったの?
005048
2011/11/11(金) 07:30:38.55ID:z05NQ//Iあと、元康の康は祖父清康の康だし、その祖父が獲った岡崎や父祖伝来の安祥には行かずとも思い入れはあったと思うが
0051人間七七四年
2011/11/11(金) 08:48:07.87ID:TNN70E3Nさんきゅ。老臣なんかは思い入れが強くていろいろ話したろうねぇ。
ただ帰れるかどうかもわからないからあんまり話すのも
かわいそうみたいなのもあったかなとか。
0052人間七七四年
2011/11/11(金) 21:42:06.92ID:w6TeOftQ何で学問の話になってるんだ、、、
0053人間七七四年
2011/11/11(金) 21:59:25.50ID:TNN70E3N信用はできるのかな。
誰かあれ読めませんかね。「さきやう」って誰だろう。
0054人間七七四年
2011/11/11(金) 22:42:01.90ID:3VJ0MsI5でちょっとググってみたら浅野幸長が左京大夫だから、
時期にもよるけど幸長じゃね?
0055人間七七四年
2011/11/11(金) 23:17:31.11ID:TNN70E3Nググってみたが、幸長が左京大夫になるのは1589で、もう市は
亡くなってるんだよね。
徳姫が嫁ぐのは1567で、その前とすると市が嫁ぐ前ぐらいかな。
とすると尾張時代ということになる。
その頃の「さきやう」とすると・・・?
0057人間七七四年
2011/11/12(土) 01:24:57.25ID:kMU8RSHyところで細川は右京だわなぁ。
0058人間七七四年
2011/11/12(土) 03:32:05.29ID:jnx3KFdZ右京左京は誰なのか知らんかった
0059人間七七四年
2011/11/12(土) 05:35:47.75ID:A2/40o850060人間七七四年
2011/11/12(土) 13:41:47.28ID:nTlZAd5yだとしたらこの書が証拠になるかもしれないね。
この柘植左京亮というのが、左京亮、になるのは秀吉の
時というからこれはどうなんだろう、織田家にいた頃はなんと呼ばれてたか。
柘植というのも後に名乗ったみたいだけど三重の出身で
海の方にいたというのを見かけたことがある。
さて。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 19:55:13.58ID:/eueVVoX自分で補足だが、『武辺咄聞書』に以下の記述が有った
>家老物頭舌をふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、
>兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智はよも不出。
>生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。
若干信憑性に欠ける資料だが、これが雪斎師匠説の初出らしい
後は臨済寺に「家康公手習いの間」の遺構が残ってるくらいか
0062人間七七四年
2011/11/12(土) 20:46:39.28ID:nTlZAd5yほ〜、勉強になるなぁ。
ところで清洲同盟時上洛までで1561〜68として
この間家康が尾張に行った記録はどのくらいあるんだろう。
信長の方からはあまり記録がないのかな。
0063人間七七四年
2011/11/13(日) 08:59:26.25ID:u6WjGNbb柘植左京亮が天正十三年に任官する前から「左京」
を自称していたかどうかがポイントだと思う。
「関白任官記」の柘植左京亮、津田大炊頭
「歴名土代」の平重長、平吉広
が対になると思うけど、通説と違って
柘植左京亮吉広、津田大炊頭重長の可能性も考えられ、
柘植左京亮も「大炊」を称した説もあるのでややこしいけど。
0064人間七七四年
2011/11/13(日) 10:33:28.14ID:cgSEu4Zlどこでされてるの?
市は信長の妹でしょ?
そういう説があるのは知ってるが、あくまでも異説でしかない。
そう言ってる学者の名を教えてくれ。
0065人間七七四年
2011/11/13(日) 11:01:41.02ID:jT7hvLRT市は信長の妹扱いで政略結婚をしたのであって、
実の妹であろうがなかろうが学術的には重要ではないから
そんなことを研究している学者はいないと思うよ
0066人間七七四年
2011/11/13(日) 11:43:36.66ID:QYDARDmBでもどっちにしろ、妹として長政に嫁いだんだよね
ところでここ家康のスレなんだが、どうして市の話になってんの?
0067人間七七四年
2011/11/13(日) 13:59:30.64ID:HEvFPVXV天正13年とはかなり空くでしょう。
それに任官した位をその前に名乗るかどうか
「左京」が一般名?というのもあるしね。
それと織田にいた頃のこの人物が市が連絡するほどの
人物だったかという点もある。
年齢的に20代というのもギリギリぐらいだろうけど。
>>66
ごめん、言い出しっぺ。
ネタがなかったし、家康にも少し関わるかなと思って。
それと異説を唱える人たちがお江人気で結構取り上げられたりしてるみたい
だからね。そういうのがこの書状で「間違い」というのが分かってくると
ちと面白そうで。
一つの史料からたくさんのことがわかる実例というのもこれまた
珍しそうだし。
0068人間七七四年
2011/11/13(日) 14:12:38.49ID:jT7hvLRT例えば佐久間信辰も「左京」を自称していますよ。
佐久間信盛は右衛門尉を自称していたが、後に正式に任官しているみたい。
0069人間七七四年
2011/11/13(日) 14:13:24.28ID:QYDARDmBああそういうことか
市と家康が何らかの交流があったとして
自分たちの子が夫婦になるって、その頃可能性の一つとして捉えられたりしたのかな
0070人間七七四年
2011/11/13(日) 14:35:50.07ID:HEvFPVXV教えてもらったんだが上杉家臣の、後藤左京亮、に比定されているとか。
となると、い、も、とく、も上杉関連の女性というわけで市の書とは
関係なくなってくるね。
発表の場が場だし、増田学長の「もし」が勝手に拡大解釈されているかも
しれない、いい迷惑ってか。
邪馬台国畿内説でさんざんモメたからなぁ。プレス発表は。
0071人間七七四年
2011/11/14(月) 00:52:50.30ID:12n700aK準譜代と考えたほうがいいような気がする。
0072人間七七四年
2011/11/14(月) 04:22:24.21ID:wmNWXPBlそれでも譜代は譜代だ
0073人間七七四年
2011/11/14(月) 05:59:37.53ID:WIschtJVあくまで外様大名と区別する基準だからね。
0074人間七七四年
2011/11/14(月) 08:07:43.64ID:oQ40lCOU小室哲哉が今不幸だ
奥さんが脳出血でマヒだし
派手な生活をしてきたのが、今になって裏目となってきている
暴言吐きまくり自らは高給を取り、低収入者を嘲笑っていたレストランけんの社長も
消えた
人生というのは水戸黄門の歌のように、
山あり谷ありだよな
家康のように、理不尽な苦労に耐えて、
最終的に勝者になっても奢れることなく
清貧な暮らしをしていたからこそ、
徳川250年があり、今の日本がある。
その日本自体が、馬鹿な政治家のせいで
崩壊しようとしている。
家康を一万円札に採用して、
もう一度、家康を再評価する時ではないだろうか。
ちなみに、福沢諭吉の子孫が今TBSの番組プロデューサーをしていて、態度がかなり傲慢だそうだ。俺は偉いんだみたいな。
人の上に人を作らずではなかったのか?
0075人間七七四年
2011/11/14(月) 11:18:27.14ID:Dnri2brd出産したのは浜松城のあたりだったろうが築山ってのは
浜松城には住んでないよね。
とすると築山の世話してたとされるのは岡崎時代ってことか?
そして家康の浜松移転時に連れてったということかな。
0076人間七七四年
2011/11/14(月) 12:51:55.37ID:gBUuYSPj瀬名に折檻されて忠勝に保護されながら
浜松行ったんじゃなかったっけ?
0077人間七七四年
2011/11/14(月) 17:30:43.84ID:WXEfcIX1やってみたら妊娠しちゃったらしい でも外出ししてたのでほんとにおれの子かー?って
疑わしいので家臣にくれてやったらしい ちなみに土井利勝もその手の家康の庶子らしい
って小説に書いてた
0078人間七七四年
2011/11/14(月) 18:23:11.25ID:T8xwcB3b質素な食事のほうが長生きできることをしったのは家康から
0079人間七七四年
2011/11/14(月) 19:04:17.30ID:6xi96sQK譜代・外様のくくりは時期によって変わると考えた方がいいだろうね。
桶狭間後の家康独立時に家臣だったものを譜代とすると、
奥平、牧野、戸田、菅沼といった東三河奥三河の国人も外様になる。
0080人間七七四年
2011/11/14(月) 19:41:51.14ID:WYnINF/n貧乏過ぎる食事でよく長生きしたよな。
薄味の味噌汁に、麦飯と野菜が少なめだろう?
当時だったら美食のほうがはるかにバランス良いと思うのだが、、、
0081人間七七四年
2011/11/14(月) 19:47:08.55ID:WXEfcIX1のちに天皇家ともつながる戦国覇王徳川家康公が最初に娘を嫁がせたのが
なんの由緒もないど田舎の弱小武将とは意外なものよ
0082人間七七四年
2011/11/14(月) 20:00:59.01ID:BCMMmSls小説><
>>81
弱いときは手近なところにやっちゃうもんだね
規模はちょっと違うけど織田も息子の養子先が北畠とか神戸って
織田時代ですら特に重用されてもいない家に行っちゃったし
0083人間七七四年
2011/11/14(月) 20:49:36.41ID:VTbeIBnK基本的に家康(徳川家)研究は関ヶ原を境にしているようだから、
乱暴な言い方をすれば、それ以前が譜代、以後の臣従が外様になるって考えてる。
個人的には、清康が東三河攻めた時に臣従した近藤氏は松平の譜代と
呼んで良いのか?とか、気にはなるけど、研究されてないみたいだし。
流れ的には、清康臣従→次代の広忠が今川に臣従したので今川に臣従→
遠江侵攻時に家康の先導で、一応、表立って徳川への裏切りはしてないから
アリかなぁと思うんだけど。
一向一揆の時なんか一族入り乱れて敵味方だし、臣従しても裏切って
戻ってきたのがギリ関ヶ原前だったから譜代、なんてのもいるから、
関ヶ原以前の徳川家を調べてると、関ヶ原基準の譜代の括りに疑問はあるけど、
どの時点で区切るかってのは、何を基準にするかで変わるんだよな。
もうちっと初期徳川氏研究が進んだら、基準が出てくるかも知れないけど。
0086人間七七四年
2011/11/14(月) 21:28:15.95ID:WYnINF/n有害なほど取れないんじゃね?
0087人間七七四年
2011/11/14(月) 22:42:58.28ID:Dnri2brd折檻というのは信ぴょう性があまりないでしょうからね。
築山もずっと城外にいたしどの記録を重視するかということに
なってしまうのかな。
0088人間七七四年
2011/11/14(月) 23:43:10.81ID:12n700aK家康独立時に家臣だった者→譜代
それから関ヶ原の間までに徳川の家臣になった者→準譜代
以下、外様
という感じかなあ
0089人間七七四年
2011/11/14(月) 23:48:52.07ID:tIyPB9Woという説もあるけど、当時作左はずっと家康と同じ所にいるんだっけ
まあ折檻も、築山殿悪妻説でただの信憑性の薄いホラ話だと思うけど
0090人間七七四年
2011/11/14(月) 23:59:19.20ID:VTbeIBnK岡崎から浜名湖西岸の中村屋敷まで
やってくる、アグレッシブな築山殿も嫌いじゃないわ。
0091人間七七四年
2011/11/15(火) 00:01:34.18ID:H71vQ+kwそこまでアグレッシブなら、家康に直接物申すんじゃw
しかし別居みたいに見えるけど、嫡男は別の城を任せて
でもまだ若いから、養育も兼ねて母親である正室も一緒に置いておくってのは
ここだけ見ても、あまり悪いことじゃないよね?
0092人間七七四年
2011/11/15(火) 00:25:27.41ID:Or7SOoI+ともかくも、小姑と不満タラタラ嫁がいて父が仕事で多忙では
子供はやってられん。
切腹事件は親子不仲説が現代ドラマみたいであれだけど
家臣掌握とか信長に対する遠慮とかが入り交じって
行き着くとこまで行っちゃったってやつかなぁ。
この頃は親子でこういう話はよくあったのかもしれないし
その後おかしな引っ張り方をしなかったのはさすがとは思うけど
家康の最後の一族存続にかける執念はなんか尋常じゃないもんがあるしなぁ。
0093人間七七四年
2011/11/15(火) 00:33:43.32ID:7WsILYcq公人として意識されている立場なので、そこをどう捉えるかで
判断が別れるところだと思う。
伊奈忠次の姉が築山殿の侍女なんだけど、築山殿の訃報を知って
殉死してるから、悪女というほど性悪でもないと思うんだけどね。
0094人間七七四年
2011/11/15(火) 00:41:15.19ID:Uk/BzYdA岡崎城って結構平地だよな?
どこの城?
0095人間七七四年
2011/11/15(火) 01:29:34.15ID:VRhmLHTb築山御前がお万の方を全裸にして、木にくくりつけた上で馬の鞭で叩いたらしい
そこを見回り中の本多作左衛門が発見し、自宅にかくまったということだ
ちなみに、お万の方の女性器は大変美しく、それがもとで女性器の俗語が
生まれたらしい…とウィキペディアに書いてあった
0096人間七七四年
2011/11/15(火) 01:30:46.06ID:7WsILYcqそこの庭だか離れだかを改修して、住んでたと書いてあったな。
そん時盛り土したから、「築山」だと思ってた。
あ、でも何処に住んでたかはハッキリした史料は無いんだっけ?
惑わせてごめん。
岡崎城自体は、竜頭山ていう山の峰を切って造られたと地元の方から聞いたから、
戦国期はもう少し平山城に近かったのかもね。
(平山城と平城って厳密な区分はないらしいんだけど)
0097人間七七四年
2011/11/15(火) 01:38:08.11ID:7WsILYcq0098人間七七四年
2011/11/15(火) 01:51:06.21ID:koJfYPZHべったりして滅亡した豊臣に通じるところが
0099人間七七四年
2011/11/15(火) 06:11:20.51ID:2wsYoaPE逆に若い時は苦労をして人生の辛苦を学び、40歳以降は大器晩成として大輪の花を咲かせたかのような生き方を選ぶか。
人生楽あれば苦あり。
家康の場合は、好き好んで苦労したわけじゃないよな、苦労せざる得ない環境だった。
でも、最終的な勝者は家康になった。
神様がいるのか、誰を勝者にすれはよいのかを神様が選んだとしか思えない程、
家康の晩年の人生の上昇は異常。
0100人間七七四年
2011/11/15(火) 09:33:24.36ID:khsarIbr家康に負けたものたちは皆若い頃に苦労していなかったのだろうか
0101人間七七四年
2011/11/15(火) 14:14:41.19ID:BrLoCZiy浜松城の木にくくりつけられるはずもない。
ウィキは、家康と信長が共に幼少時代をすごした、とか
共に天下を誓い合ったとか小説ネタで書かれてるからなぁ。
歴女のウィキ史観ってやつだ。
0102人間七七四年
2011/11/15(火) 15:28:13.55ID:345sgPP0ずいぶん長いこと認知しなかったし、長男信康が死んで最年長になったあとも
まったく後継者候補になってない
そこからおまん様がセックス大好きやりまん女伝説が生まれたのだろうか
0103人間七七四年
2011/11/16(水) 05:25:26.98ID:rFA14lpMそっから30年以上たってさらにワラワラ作ってるし。
ただ、マジ話だが、「氏」をつくらなかったのは誰か論じてるか?
「天皇賜姓」が豊臣以降ない、という話なんだが。
価値でいったら、将軍、なんて織田のうつけですら追放できる
しょうもない仕事だし、今でも「万世一系」は価値があるでしょう。
これは、結構重大な話ではあると思うんだがね。
二重公儀制なんてのとはレベルが違う話で。
0104人間七七四年
2011/11/16(水) 10:35:58.16ID:RGyRKUfq海狗腎とかの精力剤も使ってたみたいだし。
あと、家康は、熱烈な頼朝ファンだから、源氏を名乗って征夷大将軍になれればそれでよかったんじゃないかと。
将軍がしょうもないかどうかは、実力によるだろうしね。追放といえば、廃帝とか島流しの天皇、上皇もおられたわけで。
0105人間七七四年
2011/11/16(水) 12:17:03.64ID:O/hMqzEL「天は人の上に人を作らずというのは嘘である」が本来の言葉なので
福沢諭吉は現代でいわれえているような平等主義者ではありません
「上になる者そうでない者の差は教育によって作られる。だから学問が大事である」
これが、学問のすすめの著者である福沢諭吉の思想
0106人間七七四年
2011/11/16(水) 14:35:33.58ID:x8ClyEu/そういう間違った解釈はよくあるよね。
エジソンが「99%の汗と1%のヒラメキ」と言ったのは、
努力が大切というのではなくて、
「いくら努力してもほんのちょっとのヒラメキがなければどうにもならない。
ヒラメクかどうかが成功するものとそうでないものの決定的な違いなのだ」
と、続いている。
スレ汚し、ゴメンな。
0107人間七七四年
2011/11/16(水) 16:31:35.98ID:FVxYrTWo0108人間七七四年
2011/11/16(水) 18:34:44.80ID:3+9BkqVS晩年がんばって子供作ったのはお家存続に賭ける
執念と周到な準備ということなんだろうが100年ぐらい後に
機能するところがすごい。
吉宗のマネした御三卿もすぐあとに機能するし。
将軍職というか源長者というのが結構重要で
どっちかというと藤原の手法の長所を狙ってたんじゃないかな。
天皇ベッタリにもならずしかし社会変革的なこともしない
平和で安定の中にお家存続を図ろうとするというか。
平和主義者とか国家のために尽くした聖人とかとは
思わないが「お家の都合しか考えない引きこもり一族」
みたいな八幡もアホな見方だろうなぁ。
0109人間七七四年
2011/11/16(水) 18:36:37.40ID:yNdTr83M元は正信の「百姓は天下の根本也。飢えず、困窮せぬ如く養うべし」らしいが、どうすればこう解釈できるのか……
0110人間七七四年
2011/11/16(水) 18:52:54.21ID:c58cns39由緒ある源氏の長者になることで、ぽっと出の豊臣なんかとは違うんだということを
アピールしたかったんじゃないかな。
0112人間七七四年
2011/11/16(水) 19:57:24.37ID:6UrHqh51百姓から年貢を取ることは鷹に肉を与えるようなもの
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない
百姓共は生かさぬよう殺さぬよう
という話だったと思う
0113人間七七四年
2011/11/16(水) 21:57:52.97ID:6KwXsqpI>先ず一人ひとりの田地の境目をよく立て、
>一年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に収べし
>百姓は財の余らぬ様に不足なき様に、治る事道なり
でしょ
「百姓は天下の根本也」云々という美辞麗句は本論の前の単なる前フリ
0114人間七七四年
2011/11/16(水) 22:32:18.19ID:3+9BkqVS微妙なとこだが、本当は源氏につながるものでもないから
家康初代にした新たな「氏」創設にすれば、消滅したーさせた豊臣よりは
完全に上になるし源平トウキツと同格になるからね。
やはり天皇家を規定した以上はそこからの「賜姓」というのは
かえって天皇家の価値を高めることにつながるからそれを
あの時点では避けたのかなと。
そうでないとそれこそ易姓革命みたいな手法しかなくなってくるけどね。
後に国王は天皇か将軍かとかそういう問題が起きてくるけど
このあたりの曖昧さが逆にうまいもんだとも思える。
0115人間七七四年
2011/11/17(木) 01:12:15.65ID:FBjJkIS7信長が大枚はたいてやった常備軍の意味がイマイチ分からん。
繁農期の負担率さえ下げるとか
近隣国から手伝いさせたりしたら
何とでもなるんじゃないのか?
0116人間七七四年
2011/11/17(木) 06:44:30.64ID:ovREzery大まかな答えだが、いろんなメリットはあって
相手が農繁期に攻めていければその分有利。
それと鉄砲とかより高度な専門部隊はやはり専門職でないとできない。
農繁期の負担率とか近隣国というのがよくわからないけど
農業の効率は昔は悪いからそんなにコントロールできるものでもなくて
やはりこれも人数は確保しておかないといけないのだろう。
近隣国から手伝わせて裏切られたりしたらかなわんしね。
というか、信長の常備軍というのがもう少し具体的にならないと
検討しにくいところはある。
織田のみならず武田とか他でも普通に常備軍はいたという考え方もあるしね。
0117人間七七四年
2011/11/17(木) 08:30:41.02ID:3M84nubm武田や上杉の農民兵こそ正社員
責任感や愛国心があり、命がけで戦ったから武田や上杉の軍は強かった
信長公の兵は自分の命を捨てて戦うということがない 圧勝しないと逃げる
0118人間七七四年
2011/11/17(木) 10:01:38.85ID:B6N5xRglあと村人ってのは村の軍事・治安も担うセミプロで、愛郷心もあるから強くて粘りがあるのは確か。
だけど例えば武田の百姓は村の世紀の構成員を戦争に出すのは嫌がって、
今で言うフリーターを雇って村人ってことにして戦争に送り出した
当然士気は低くて、武田家からちゃんと村の構成員を出すようにってお触れが出てたりする
0119人間七七四年
2011/11/17(木) 10:30:48.36ID:pfv9mNz/日本のはその実際から常駐軍と呼ぶべき物
0120人間七七四年
2011/11/17(木) 15:09:19.69ID:ovREzery最近やたら方面軍とか司令官とか見かけて
谷口本の影響だろうがゲーム世代に使われてるみたいなんだな
口当たりもいいし。
ただ当時から使われてたわけでないしいかにも近現代的な
軍や兵とミスリードになってしまうんだな。
「決戦」という単語もあまり正確でないという論もあるし
少なくとも信長が最先端とか天才という文脈においては
あまり使用したくはないわな。
0121人間七七四年
2011/11/17(木) 15:35:03.42ID:hBz14nQR意味不明w
簡単に言えば、籠城も鉄砲その他訓練もしてない時期は
兵も百姓も同じわけで、だったら無駄な出費をせず
農地へ帰してやれば、効率的だろと思う。
農具を持つか、武器を持つかの違いだけ。
この理論が崩れるには、徴兵が何日も掛からないといけないが
城から遠く離れた農地なんて、そんなにあるのか?
0122人間七七四年
2011/11/17(木) 15:39:24.95ID:4Bk8K0Me0123人間七七四年
2011/11/17(木) 16:09:32.30ID:ovREzeryあぁ、近隣国、自体がよくわからなかったからいい加減な
オチをつけたんだが、例えば信長が美濃を制圧するでしょう。
中級武将は寝返ったり信長につくわけだが実はその家臣とか
農民さんが略奪狼藉されて織田にウラミをもつものがいたかもしれん。
この頃はまだ天下人どころか「織田のうつけについに征服された」ってものだろうし。
だからいろんな農民ー武士もどきがいて下手に信用したらリスクもあったかなということ。
細かいケンカみたいなのも記録には散見されるしね。
城から離れた農地の話だが、とりあえず城下町システムの完備は
もう少し後で岐阜は広いから農地は離れたとこにもあったんじゃないか。
すぐあとにフロイスの記録によるとすごい岐阜城下の家の数というから
やっぱりどっかから人が来たわけで尾張からの引越しだけとは限らないだろうし
岐阜の奥深い山村なんかからはその他大勢農民さんたちの息子が出稼ぎ?に来ただろう
というのはあるかもということで。
設問がよくわからなかったから勝手に当時の状況を推測してるだけだけどね。
1567〜9あたりで話してるんだがまたイミフな点があったら遠慮なく教えておくれ。
0124人間七七四年
2011/11/17(木) 17:06:09.91ID:3M84nubmやっぱ遠くからバンバンやってるだけってのは楽だよ
刀や槍は使い方は簡単だよ? でも実際に敵に近づいてやりあわないといけない
これは難しいよ 剣道家なんて何十年も練習してる この槍で敵を突いてください、
なんて言われてすぐできないよ 鉄砲はその点、遠くから打つだけなのでできるかもしれない
・・・鉄砲のほうがむしろ初心者むけじゃないかな・・・ 操作なんて1ヶ月で覚えられるでしょ
0125人間七七四年
2011/11/17(木) 17:10:15.22ID:hBz14nQR農業手伝いは近隣国から募るのが普通と思うが
手伝い農に裏切られると、何かまずいの?
ただの夜盗みたいなのと同じじゃね?
0126人間七七四年
2011/11/17(木) 19:20:40.66ID:B6N5xRgl農民、村に関しては相当したたかだよ
恨みつらみではなく、生きるか死ぬかが判断材料だから
うつけだろうがなんだろうが、領主として自分たちの生存権を保証してくれるなら従うし、
どんな善政をしても敗者ではなく勝者に付く
もし生存権を揺るがす事態があれば逃散をちらつかせて妥協を引き出そうとする
それが村という政治単位
0127人間七七四年
2011/11/17(木) 22:23:17.03ID:PgpE99s0力不足であった
0128人間七七四年
2011/11/17(木) 23:46:07.72ID:ovREzeryもちろん同意だよ。
だからあくまで例外的に個人的にとかそういうのの
話ね。利害損得で割り切れないイミフというのは
どんな状況でも発生するし。
でないとどこぞのうつけのようにはさみうちになるわ
泊まってるところを襲撃されるわ大変なことになる。
0129人間七七四年
2011/11/18(金) 11:09:41.60ID:BnoYiRB5の一言で出すんじゃないの?
0131人間七七四年
2011/11/18(金) 11:50:16.66ID:LW9QyfbKスレ違いの話が延々と続いてるようだが。
0132人間七七四年
2011/11/18(金) 12:16:29.45ID:BnoYiRB5諸国の大名がやってた兵農未分離の
有効性について論じてるだけだろ。
0133人間七七四年
2011/11/18(金) 12:26:38.70ID:pDiJU5bD主力だったってことでしょ? そして農民兵のほうが強かった気がする
姉川の戦いで織田が少数の浅井軍へ、徳川が多数の朝倉軍と対戦し、
けっきょ徳川だけで両方撃退したってのはほんとのような気もする
どーも信長の金で雇われた兵は弱い気がする 責任感がない
農民兵って大事だったんだよ 信長の兵農分離ってそんなに有効でもなかったかも
0134人間七七四年
2011/11/18(金) 13:04:17.99ID:DCYi8YZO0135人間七七四年
2011/11/18(金) 15:10:00.37ID:mhXWuYnY本とはかなりニュアンスが違うなぁ。姉川、長篠あたりは割り引いてというより
軍記物扱いしてる人も多いから。
徳川に詳しい方はフロイスの本なんかはどういう感じでとらえてる?
0136人間七七四年
2011/11/18(金) 15:32:29.06ID:DCYi8YZOぶっちゃけフロイスは織田領国以東については碌に記録していない
家康も「三河の王」という認識だけだし
0138人間七七四年
2011/11/18(金) 17:19:07.83ID:pDiJU5bDあ やっぱそう?
0140人間七七四年
2011/11/18(金) 17:38:26.54ID:mhXWuYnYみたいね、だもんで「誇大妄想的な報告書」と見るか
そこをうまく割り引いて「客観的な記録書」と見るか。
最近は訳も増えてきてそれなりに評価をしてる人も
多いみたいだけど織豊期の研究家さんでも意見の
分かれるところだから徳川の方ではどうなのかなと思ってね。
0141人間七七四年
2011/11/18(金) 21:12:38.56ID:DCYi8YZO天下をとった後の宣教師やイギリス・オランダの評価ならあるけど
宣教師がキリシタン禁教前後で好悪を180度変えつつも、それなりに
評価しているのを見ると、司馬の家康評を見ている気になる
0142人間七七四年
2011/11/18(金) 23:07:48.21ID:mhXWuYnY織田に詳しい人でも徳川の記録を軽視してあまり読み込んでないような
人がいてちょっと違和感感じる時もあるんだ。
逆に徳川に詳しい人は後の詳細な記録を知ってるからフロイスの文化風俗
その他の記録なんかを見て「どの程度客観的か」とかそういうのを
判断できるんじゃないかなとかね。
それとも徳川史?の研究は触れられてないからフロイスを
読んだりしないのかな。
だとしたら是非読んでもらって評価してほしいものだけどね。
0143人間七七四年
2011/11/19(土) 00:33:05.59ID:c9qBJoka0144人間七七四年
2011/11/19(土) 03:14:39.25ID:hrnydZz5半透明の草鞋みたいなものは何?
0145人間七七四年
2011/11/19(土) 03:49:39.28ID:000pJZKZマジマジ見ると、
・太刀が鎌倉武士っぽい
・椅子が洋風
・足袋が白いし汚れてない
違和感有りまくりだなw
0146人間七七四年
2011/11/19(土) 06:38:41.01ID:55/YDnGg足袋じゃなくて草履の鼻緒が白いだけで裸足でしょ、
爪も描かれてるし
あと古刀は古刀でステータス
0147人間七七四年
2011/11/19(土) 06:52:33.17ID:000pJZKZどっちにしても足元キレイ過ぎる。
0148人間七七四年
2011/11/19(土) 07:02:15.78ID:oMymUpjF靴下もはかないことが多かったのかもしれない
0150人間七七四年
2011/11/19(土) 07:45:16.16ID:Wt3lEaYqいやそういうレスもらったからということで。
例えば姉川にしても「信長圧勝」と「十一段破られ徳川が助けた」ぐらい違う。
それと姉川の公記の記事は案外少なくて野田福島と同じぐらいだわなぁ。
だけど徳川の各記録をあまり評価してないんじゃないか、やっぱり。
それなら公記だって不確実だからそんなに簡単に「圧勝」みたいには言えないような。
死者の数だって正確性に欠くとは言われてるし。
長篠なんかもっと徳川の方は細かく詳細だが公記はシンプル
だけどあんまり徳川の記録と比較してる人はいない気がして。
なんか他人の研究領域には口出ししないという暗黙の了解
なのかもしれないがこうやって話してるとネットでも
かなり言い分?が違うものだから面白いもんだなと。
0152人間七七四年
2011/11/19(土) 21:30:10.66ID:000pJZKZ0153人間七七四年
2011/11/20(日) 02:56:34.69ID:alH9JLJQ0154人間七七四年
2011/11/20(日) 23:11:42.51ID:PcrjTzX+山岡賢次(金賢二)の胡散臭い「経歴」
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/giin/1284810325/
【政治】山岡賢次氏は超リッチ…知られざる高級マンションの一室
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1321788402/
【山岡大臣の論文盗用問題】盗用された舛添議員氏が大激怒!「泥棒が、泥棒を取り締まる警察の親分」「最悪の不適所大臣」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1321591319/
【民主党】閣僚に居座る山岡賢次氏の“裏金疑惑”全部バラす!元後援会長が怒りの告発
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1321414557/
【赤旗】 「韓国では全廃したのに、日本では…」 "パチンコ業界のアドバイザー" 山岡消費者担当相らがパチンコ合法換金を支援
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1319854669/
0155人間七七四年
2011/11/21(月) 04:27:34.74ID:qW7sT3jb兼ね合いもあるから長崎の方がいいって言ったんじゃなかったっけ
家康の着物を復元したら金ぴかになったという話もあるし、あの人は結構新しいもの好きで
おしゃれ好きだよ
0156人間七七四年
2011/11/21(月) 23:45:01.77ID:DYO3rySB0157人間七七四年
2011/11/21(月) 23:45:48.08ID:6MdIC1LAというか倹約家だけどケチじゃない 使う時は使っているし
0158人間七七四年
2011/11/21(月) 23:48:13.33ID:iaail4rw割に合うと判断したら、かなりの大金でも使う。
By,通勤時間7割カットの為に、
2割高い皇居そば在住の三河出身者w
0159人間七七四年
2011/11/22(火) 07:24:14.05ID:CIHYS6ocそこがポイントだよね 使う時はつかう バーッと
へんに着飾らないんだよね 自然体 ティッシュ用の紙を落として拾った話が
印象に残ってる 他の連中は落ちたティッシュなんか拾うなって笑ってたけど、
家康はこれが自分のやり方だと胸を張ってたらしい
0160人間七七四年
2011/11/22(火) 07:38:43.44ID:Gf/56pNd0161人間七七四年
2011/11/22(火) 08:12:28.89ID:vwd165Si引き出物もでかけりゃいい、って新幹線の中でよく顰蹙かったもんだ。
三河というか尾張の方がすごい気がする。
0163人間七七四年
2011/11/22(火) 14:56:31.01ID:8UNHW7cY0164人間七七四年
2011/11/23(水) 10:00:41.48ID:6OXhfx1f唐の頭を付けておしゃれするとか、首をとられたときに恥をかかないように、
新品のふんどしを使うとか
信長を蒲原御殿に招待したときは、それなりに豪勢にしたみたいだけど…
0165人間七七四年
2011/11/23(水) 10:47:21.99ID:pVqALr/70166人間七七四年
2011/11/23(水) 12:37:30.98ID:gSlXITcQ関ヶ原の戦いは単なる語呂合わせのパロディ
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/39/266_1.html
http://3rd.geocities.jp/jcon_tline/02/k/k10.html
目的は、島津氏率いる薩摩の滅亡。
日付は、「平将門の乱」と一致。
東京政府の方針は、今日も、何も変わらない。
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p001.html )
0167人間七七四年
2011/11/23(水) 13:14:34.78ID:sv8hW1L6駿府城なんて徳川家の威信を見せ付けるためにものすごい派手だったらしいから
ただ派手すぎて再建を諦めちゃったんじゃないかねwww
家康死後だしさすがに3回もあんな金かけられんと
0168人間七七四年
2011/11/23(水) 13:41:18.18ID:KeWpT/lqそりゃまだまだ戦国時代だから、戦場がターゲットなのも当たり前なんじゃ?
秀次事件時の細川忠興に金貸したのだって、人心掌握だろうし
これこそが、ここぞという時に使う金だろう
0169人間七七四年
2011/11/23(水) 13:46:38.32ID:sv8hW1L6恩を感じないわけが無い
関が原で唐突に家康派になったわけじゃない大名多し
0170人間七七四年
2011/11/23(水) 13:50:50.58ID:t+A9w713よく考えると蒲生氏郷はガチガチの前田利家派だからな
0171人間七七四年
2011/11/23(水) 13:52:21.61ID:KeWpT/lq0172人間七七四年
2011/11/23(水) 15:19:11.07ID:pVqALr/7その蒲生も家康に城造りのアドバイスを受けている
曰く、多聞櫓は良いとか、総構に塀は要らないとか
0173人間七七四年
2011/11/23(水) 18:40:15.94ID:KeWpT/lq0174人間七七四年
2011/11/23(水) 22:38:29.86ID:cKWvstPe1868年から現代まで、徳川時代に冷飯を食わされていた薩長が今の社会の上流にいる。
面白いもんだな。
0175人間七七四年
2011/11/24(木) 08:02:03.27ID:B2sIX7xK0176人間七七四年
2011/11/25(金) 15:21:52.04ID:RtZd6Xvgって話題があるんだけど、みんなならどうする?
俺なら、西三のご先祖様のとこ行って商人で成上るw
0177人間七七四年
2011/11/25(金) 16:22:18.84ID:EW/YV1tC0178人間七七四年
2011/11/25(金) 18:47:08.36ID:GVpdNMev0179人間七七四年
2011/11/28(月) 15:56:39.07ID:VtH5Hs/cおかしくない?
0180人間七七四年
2011/11/28(月) 17:12:14.04ID:c7/KZ8pd0181人間七七四年
2011/11/29(火) 01:26:50.25ID:8waheAWq0182人間七七四年
2011/11/29(火) 01:35:56.23ID:D1ZK1C3s0183人間七七四年
2011/11/29(火) 01:59:32.06ID:tfk2js7B0184人間七七四年
2011/11/29(火) 10:01:13.30ID:xFFAJVNB0185人間七七四年
2011/11/29(火) 11:29:34.27ID:Z0Fu1nsT0186人間七七四年
2011/11/29(火) 23:04:04.55ID:5TocpKCB家康は信長や秀吉のような極端に冷酷な逸話は無いし、まあ天下を取った故
というのを割り引いても人の心情を慮った逸話が割りと残っているけど
ど子供に対しては冷淡だよね。
秀吉は言うまでもないが信長は身内には甘かったけど、家康は晩年に生まれた
孫のような息子はともかくとして息子に対して意外にびっくりする位冷淡な逸話が残っている。
0187人間七七四年
2011/11/29(火) 23:39:08.80ID:L2lACqdD0188人間七七四年
2011/11/29(火) 23:40:34.63ID:0kWIMvnc0189人間七七四年
2011/11/30(水) 00:19:54.23ID:V2vLgaK40190人間七七四年
2011/11/30(水) 05:36:32.35ID:A1+pWm4r堀川城も何で領民まで立て籠もったのか意味不明だしw
0191人間七七四年
2011/11/30(水) 09:09:06.17ID:yb4D7ZBMその件と信長の対一向一揆については理解できるけど
秀吉の秀次一家惨殺は理解できん
0192人間七七四年
2011/11/30(水) 18:35:02.52ID:VWdjw8+M徳川の秀頼抹殺も似たような意味には思う。
国のトップにはトップなりの価値観が発生するんだろな。
0193人間七七四年
2011/11/30(水) 19:03:09.37ID:8gGebrwb秀次に子供がいればそっちに渡す可能性は高い
だけどそっちのほうが豊臣政権は長生きできたかもしれない
0194人間七七四年
2011/11/30(水) 19:52:59.85ID:k4mjKbOE伊達・上杉・武田・織田みんな殺してるw
0195人間七七四年
2011/11/30(水) 21:42:00.51ID:BEMdGPEP0196人間七七四年
2011/11/30(水) 23:52:50.09ID:VWdjw8+M国のトップ、もう少し言うと「氏」としての男系直系の後継の
問題が根底にあるようには思う。
秀次にはすでに男子がいたしかわいそうだったとは思う。
0197人間七七四年
2011/12/01(木) 00:10:10.18ID:Jpe0kiH7> 堀川城も何で領民まで立て籠もったのか意味不明だしw
戦時に領民が城に入るのは一般的な話だぞ。
城が明け渡された後に立て篭もった領民が捕らえられ女子供にいたるまで惨殺、
さらに村の家屋が全て焼き払われるなんてのはかなり苛烈。
0198人間七七四年
2011/12/01(木) 04:20:40.52ID:f0vCg/Ig珍しくは無いのは分かってるけど、
だったらなお更惨いことしたんだろうか?
ビビらせて近隣を降伏しやすくするとかか?
0199人間七七四年
2011/12/01(木) 09:29:05.01ID:7PhUdYAmこの場合、領民は積極的に徳川に敵対するものとして扱われたんだろう
0200人間七七四年
2011/12/01(木) 13:31:25.33ID:pwTqUUuh0201人間七七四年
2011/12/01(木) 16:41:40.27ID:7PhUdYAm0202人間七七四年
2011/12/01(木) 22:58:03.92ID:xARuP9xxゴタゴタし過ぎだろこれw
ウィキが冗長過ぎてワケ分からん。
誰か5行で概要まとめてくれ!
0203人間七七四年
2011/12/02(金) 00:47:27.70ID:CjrtLfKCいろいろ読んでるから何を読んでかは覚えてないが
やはりそれをやったために周辺豪族なんかも徳川に従いやすくなったと
どこでも同じじゃないかね、人間の心理は
0204人間七七四年
2011/12/02(金) 05:38:51.13ID:Q4LEaghPこないだ出雲の松江城に行ったら松江城主の松平なんとかは秀康の子だった
ちゃんと子孫いっぱい残ったんだな
0205人間七七四年
2011/12/02(金) 08:55:12.86ID:XLSp5UxK知らなかったくらいだから
影が薄かったのは事実だろうなw
0206人間七七四年
2011/12/03(土) 03:27:03.45ID:KQLaC+ZV0207人間七七四年
2011/12/03(土) 22:15:32.46ID:2WkcdPYb0208人間七七四年
2011/12/08(木) 18:45:29.56ID:LSqPwBGX家康はなんでエドは嫌だって言ってたのに
エドに本拠を定めたんですか
特に本人はその件については何も言ったりしてませんか
0209人間七七四年
2011/12/08(木) 18:50:28.44ID:6evRfFc1関八州に移された時、未開の地だった江戸は、逆に言えば開拓し放題
そして江戸は、東北などを監視する位置でもあるから
絶対に嫌だって訳でもなさそうだと思う
0210人間七七四年
2011/12/08(木) 19:26:59.47ID:N44PBbkf今川家臣だったときは全力で今川義元につくし、織田傘下にはいったら信長に尽くし、
秀吉に関東にいって江戸を開発せよと言われれば江戸こそ我が都と考えて
一生懸命開発した 信長、秀吉にくらべると地味だけど、やっぱすごいひとだよ
0211人間七七四年
2011/12/08(木) 20:08:10.39ID:u4ebqFt+答え方が明解なのではないだろか。
0212人間七七四年
2011/12/08(木) 20:35:17.69ID:6evRfFc1拒否して、信雄みたいに改易されちゃ敵わんし
0213人間七七四年
2011/12/08(木) 22:02:14.12ID:ZUCXwf4l実際は警察下命だと理解し、従ったのである
0214人間七七四年
2011/12/08(木) 23:02:17.90ID:LSqPwBGX江戸じゃありません穢土です
厭離穢土とまで旗に書いていれば
同音でエドじゃ縁起が悪いやってこれっぽっちも思わなかったのかってこと
改名しようとかさ
0215人間七七四年
2011/12/08(木) 23:16:40.42ID:u4ebqFt+江戸と命令されたらしゃぁないわなぁ。
しかしそこで消耗せずに関ヶ原に持ち込めるぐらいの
国力つけるのはさすがとしか思えん。
0216人間七七四年
2011/12/09(金) 00:15:13.14ID:Jqn4PATZ松平家の墓前で自害しようとした時に、お坊さんからこう言われて説得されたって話だったっけ
0217人間七七四年
2011/12/09(金) 10:48:48.78ID:jTC2MswL0218人間七七四年
2011/12/09(金) 10:51:58.34ID:i74uUkTg朝廷と同じように、配下に入り掛けてただけだろ。
>奥羽征伐もあるし家臣への知行地考えると
三河のままだったら、伊達と連携取り辛かったかもなwww
0221人間七七四年
2011/12/10(土) 00:23:11.68ID:Hcy5EI3a作左がいなけりゃ死んでたかも知れないよ
0222人間七七四年
2011/12/10(土) 00:23:57.60ID:gxsCVUwI0223人間七七四年
2011/12/10(土) 01:11:14.77ID:dD0lWujV0224人間七七四年
2011/12/10(土) 09:44:56.63ID:LzX0m8/qガラシャとかか? 逃げられたのか知らんけどw
0225人間七七四年
2011/12/10(土) 11:10:55.21ID:jGpa97L2主君だけが必死になってるような大名ならとっくに滅びてるわ
三河武士とかつまんない妄想要らないから
0226人間七七四年
2011/12/10(土) 12:51:33.58ID:9mfGMLUH頭が上がらなかったろう、みたいな話があっていかにもイマドキだと
思ったな。
0227人間七七四年
2011/12/11(日) 00:00:49.01ID:Y17cjTJm別な見方で、幕末の近代武器や産業革命、戦術は洗練されたものしか来なかったから
無駄に日進月歩に付き合わず済んだかもしれない。
0228人間七七四年
2011/12/11(日) 03:41:01.03ID:JC47pGpY0229人間七七四年
2011/12/11(日) 18:19:34.30ID:JV02TUEv0230人間七七四年
2011/12/11(日) 21:46:33.41ID:Cs6ym223まあ、吉宗の鎖国緩和政策をもっと踏み込んだものにしてもよかったとも思う
0231人間七七四年
2011/12/11(日) 22:16:58.03ID:wYv4jC6Cでかい戦もないから貴重な史料も結構残っているしな
0232人間七七四年
2011/12/11(日) 23:02:34.82ID:YB9eQBP9閉じ籠っていたからって国を守れるわけじゃない
外国より優れた技術を維持できるなら鎖国でもいいが
単なる引きこもりではむしろ国を滅ぼそうとしてるも同じ
自分は鎖国(秩序ある国交)を高く評価しているが、徳川の場合は発展途上国が何処でも行った蒙昧なる閉鎖であったと言わざるを得ない
0233人間七七四年
2011/12/11(日) 23:19:34.62ID:4nmkfzGl0234人間七七四年
2011/12/11(日) 23:38:23.58ID:9xm3SKVO0235人間七七四年
2011/12/12(月) 12:11:53.50ID:QqsOpibc完全に閉鎖していたなら技術の遅れも言い訳出来るが
現実には幕府だけ世界情勢を把握する事が出来た
にも関わらず幕府は何の手も打たず危機感も抱かず単なる引きこもりを続けた
それに幕府は人の移動を厳しく制限しており、鎖国令以降に出国した者は殆どいない
結局、鎖国は蒙昧な閉鎖なんだよ
外国人の入国制限をしたまでは良かったが、出国まで制限してしまったのはいかにも無能
まるで一昔前の共産主義国だ
秀忠の代までは侵略的意図を持った国を排除するのを目的としていたのに
それ以降は何故か単なる排他的行動に変わってしまった
0236人間七七四年
2011/12/12(月) 12:54:15.39ID:8xLHDWCh日本は遅れた後進国になった、というのは善悪としては難しい。
例えば、今でも銃が日本にないのは徳川の鎖国が大きいだろう。
いったん入ってしまうと追い出すのは不可能だし日本は
平和に働いて労働で世界に貢献、と意識してたかどうかは別だが
そういう役目を果たして現在でも別に野蛮国のままではない。
麻薬とかもそう。
出国も制限しないと「銃は必要ですっ」みたいな思想が入ってくるかもしれないし
お家が大事、という狭い視野の発想が意外と、平和で安全な国日本、に
結びついてるだろう。
維新日進日露、もちろんこないだの大戦とあって銃の必要さ重要さは知ってるだろうに
「あれは戦争時にほかで使うもの」みたいな発想でずっと現在まで続くのは
江戸期にその根があるようには思う。
0237人間七七四年
2011/12/12(月) 13:03:16.55ID:93Sr1dXtアヘン戦争で明確な危機感を覚えている
後、出国禁止の目的は武器輸出と同じく、傭兵の輸出禁止のため
0238人間七七四年
2011/12/12(月) 13:13:13.27ID:yDd94li+厳しい鎖国なんてして無かったんじゃあ?
0239人間七七四年
2011/12/12(月) 17:51:58.08ID:ovaJ7T+M物言いはともかく、概ね同意
当初はきちんとした目的のための手段としての鎖国だったのに、
時代が下っていくにつれ手段であったはずの鎖国が目的化してるのは目も当てられない
幕府の怠慢といえばその通り
ただ何もしてなかったわけではないし、危機感は持っていた
そこは認めるべきだと思う
0240人間七七四年
2011/12/12(月) 18:42:38.14ID:UXB2Ktg7↓誘導「鎖国ってどんなメリットがあったの?」
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1257848621/l50
0241人間七七四年
2011/12/12(月) 19:06:44.73ID:7UbjbhTM豊臣政権が存続したら大阪が首都だったのに
家康のせいで東京が首都になって悔しい
0242人間七七四年
2011/12/12(月) 19:31:48.95ID:QFPjfz1aあんたら飽きないね・・・
お互い過去レスコピペしとけばスレは進行するよwww
0243人間七七四年
2011/12/12(月) 19:37:27.36ID:U7YIPr35岡崎とかが首都で俺んちが半端無い土地長者だったかも知れんわwww
そうなったら多分、東西に広がりまくりだと思うが
横長の巨大都市ってあるの?鎖国は微妙に面白くないから、どうせなら
「関東左遷無しで天下とってたら、どこに幕府開いたか?」で妄想しようぜ?
0245人間七七四年
2011/12/12(月) 21:52:35.48ID:c456iTTGつうか都市ってのは川沿いや海沿いに発展することが多いから、
横長縦長ってのは珍しくない
0246人間七七四年
2011/12/13(火) 12:28:19.66ID:mYItY/Jrぶっちゃけ聞いた事無いかもw
東京みたいに放射状に広がれない巨大都市って
交通網とかどうなってんだろうな。
0247人間七七四年
2011/12/13(火) 13:47:59.92ID:gsv/4uWM同士の交通が発達しなくて近いけど遠いとかね。
家康は攻撃されるのを防いでいたから
巨大交通路の整備はわざと発展させなかったんだろな。
0248人間七七四年
2011/12/13(火) 16:13:29.60ID:Rz+M8dHp0249人間七七四年
2011/12/13(火) 21:12:01.01ID:sWuujZ3v0250人間七七四年
2011/12/13(火) 21:36:38.16ID:gsv/4uWM作ったけどそういう通常の交通路じゃなくて
巨大な橋とか海上交通用の巨大船とか
そういうのは許可しなかったでしょう。
姫街道やらそういうレベルでの整備じゃなくてさ。
0251人間七七四年
2011/12/13(火) 21:45:10.14ID:Rz+M8dHp千住大橋、六郷川、矢作川と多くの橋を架けていますが
架けなかったのは主に技術的な理由
船も弁才船は三千石クラスの大型船も建造されている
規制は基本的に軍用船
0252人間七七四年
2011/12/13(火) 22:07:56.87ID:00cYVP5j廻船があまり大きくなかったのは、沿岸航海で効率よく荷物を運ぶにはあれが
経済的に最適サイズだったから。
帆装については見直す意味があったけどね。逆風で走れないし。
明治に入って幕府の規制がなくなっても、和船の帆装だけ洋式にしたのが走りまわってた。
船体についてはいわゆる千石船で経済規模に対して十分だった証拠になると思う。
(明治政府の船に関する法律が洋式船だけを対象にしてて、和船は好き勝手できたって
理由もあるらしいけど)
和船が消滅するのは機帆船が普及する昭和を待たなければいけない。
0253人間七七四年
2011/12/13(火) 22:52:33.33ID:Rz+M8dHp下の帆桁がないから逆三角帆にして
0254人間七七四年
2011/12/13(火) 23:21:24.29ID:Cseogoc3ちんぷんかんぷんだから、人馬鉄道路で頼む!
0255人間七七四年
2011/12/15(木) 23:34:00.10ID:RefOvdhV0256人間七七四年
2011/12/17(土) 13:07:43.26ID:f4tmWkyb0257人間七七四年
2011/12/17(土) 13:14:03.93ID:W3z/16fJ0258人間七七四年
2011/12/17(土) 16:32:48.09ID:MeZrXIOl橋が架けられない川ってのはがあるんだよ
架けても架けても流されてちゃ金がいくらあっても足らん
0259人間七七四年
2011/12/17(土) 17:18:56.55ID:oC7DDb/y白い布をかけておけば十分
0260人間七七四年
2011/12/17(土) 19:17:12.26ID:lag8z4BLどんどん流されてもまた作ると言うのは普通じゃないかな。
だから技術上とかお金がないというよりはやはり
大軍が一気に攻めてこないような足止めの意味も
あってかけなかった場所もあるんじゃないだろか。
0261人間七七四年
2011/12/17(土) 20:07:45.87ID:ho7pm2x9って思うかも知れんけど、当時の人で考えたら
生まれて初めて流された! だからなぁw
0262人間七七四年
2011/12/17(土) 20:21:41.99ID:lag8z4BL藤木の飢饉一覧表見ると日本は悲惨な国だけど
同じ場所で数年に1回なら自然災害みたいなもの。
ましてや今の千年に一回レベルでの国政の議論は
前例も何もなくて、特別、で処理してしまえばよいとは
思うんだよな。
0263人間七七四年
2011/12/17(土) 22:41:54.74ID:PDPudzYh0264人間七七四年
2011/12/17(土) 23:46:22.43ID:2W6xtf+t年に何回も災害が起きるようなら諦めるしかないし
0266人間七七四年
2011/12/19(月) 08:53:27.16ID:Ngp8jBlQ0267人間七七四年
2011/12/19(月) 13:19:13.88ID:6Q3jm7D2交通量が多い街道に用いるには不安が多すぎる
0268人間七七四年
2011/12/19(月) 23:39:03.22ID:E7x0Ehhg技術研究機関なんてなかったし
そもそも建設は諸藩に投げっぱなしだし
0269人間七七四年
2011/12/25(日) 15:02:41.73ID:6nv8wpQi去年は岡崎城登城後まで気付かなんだが(´・ω・`)
0270人間七七四年
2011/12/25(日) 18:38:11.30ID:E6Ei/OEs0271人間七七四年
2011/12/26(月) 01:28:12.35ID:9H2ILplC今回も安いケーキが無かったので、
ここ何年もケーキでお祝いできずに残念。
0272人間七七四年
2011/12/26(月) 01:29:53.65ID:1D/E7GXk権現様お誕生日おめでとー
0273人間七七四年
2011/12/28(水) 08:53:02.32ID:zSt24DUR権現様は結局すごいお方なの
0274人間七七四年
2011/12/28(水) 10:24:36.31ID:Mws3pA6+0275人間七七四年
2011/12/28(水) 10:28:17.19ID:/D0IQFV90276人間七七四年
2011/12/28(水) 12:08:21.84ID:3yQJu4GA低いと言うか平凡と言うか
家康はそんな自分を知っていたのが勝因
0277人間七七四年
2011/12/28(水) 12:10:57.57ID:Mws3pA6+0278人間七七四年
2011/12/28(水) 12:47:48.25ID:24jg0h9v武芸でも文芸でも従事者は有力者に免許を与える事で権威や報酬を得るのに必死だった
家康は同時代の武将と比べてこれと言ってぱっとした実績が何もない
細かな積み重ねで成功したんだよ
0279人間七七四年
2011/12/28(水) 15:19:59.55ID:XGh6Vcra長久手で秀吉を
あっと言わせてないか?
0280人間七七四年
2011/12/28(水) 15:38:20.69ID:/jCQVieg脱糞して涙目姿を絵に残すことは普通はできない。
黒歴史は消したいものが心理
0282人間七七四年
2011/12/28(水) 17:02:01.58ID:dK7L/5JU姉川で信長に誉められたのは高天神衆
後に家康は功臣である高天神衆を見殺しにする醜態を晒している
小牧長久手も非常に締まりが悪い
戦術ではやや優位に立ったものの戦略で簡単に覆された
相手が悪かったと言うのもあるだろうけど
だいたいどの戦いでもぐだぐだになる
上手くいったのは対今川氏真戦ぐらいか
0283人間七七四年
2011/12/28(水) 17:19:09.75ID:lfiB7ZtQだねー
姉川では大軍の朝倉を見事破りその後苦戦中の織田を救援して
信長に「この戦の勝利は徳川のおかげ」と言われたり
小牧長久手の戦術的大勝利は秀吉を大層震え上がらせ
思わず身内を人質にかけて何とか徳川に和議を持ち込ませた
でもやっぱ凄いと思うのは政治力だね
泰平200年の基盤を作ったのはそうそう出来ることじゃない
0284人間七七四年
2011/12/28(水) 21:26:26.23ID:suNE31ye0285人間七七四年
2011/12/28(水) 22:04:12.98ID:/D0IQFV9特に意味は無い
名前を選んだ崇伝は最初に家忠を推したが、花山院の元祖にその名があるとし
新たに七つの案を提出し、家光が選ばれた
0286人間七七四年
2011/12/29(木) 10:58:05.06ID:I1J9YJtwこういう事を本気で思ってる奴が結構いるんだよな。
0287人間七七四年
2011/12/29(木) 12:34:30.07ID:qOTBkmyS0288人間七七四年
2011/12/29(木) 12:53:38.97ID:ex5iZjOTども。義満にかけたのかと妄想してた・・
>>286
平山さんじゃないが地震の影響も大きく解釈されるようになったし
最初から和議しかないような家康と和戦両様の秀吉と
どちらが有利だったかも面白いとこだし
身内を人質に出すというのは単なる婚姻政策を超えた
秀吉らしさとは思うけどね。
0289人間七七四年
2011/12/29(木) 13:07:09.56ID:I1J9YJtw本気でこういう勘違いをしてる人間が沢山いるっていう証左なんだよな。
0290人間七七四年
2011/12/29(木) 14:31:27.15ID:ex5iZjOT単に解釈の問題ではなくて
100%こうだという決定事項があるということ?
小牧長久手以降の事実関係は確定として
それをどう捉えるかという点に関しては
それなりに解釈問題とは思うけど。
事実がこうだからこうなんだよというのも
たまに見かけるけどそれはあくまで両者の関係の背景でしかなくて
それが何を意味するかに関してはまた違う話じゃないかということなんだけどね。
0291人間七七四年
2011/12/29(木) 15:13:05.15ID:I1J9YJtwあのさぁ、勘違いって言われたんだから、少しくらい調べようよ。
小牧・長久手は徳川が人質を差し出して講和してるわけ。それで終了。
大政所や朝日の話はそれより随分後の話。
解釈だとかそういう問題じゃないの。理解出来る?
あとね、主語が無く、「こう」だの「それ」だのばかり使われても
何を言いたいのかさっぱり分からない。
態と自分の主張を不明瞭にして突っ込まれ難くしようとしてるのかも知れないけど。
0292人間七七四年
2011/12/29(木) 16:27:28.22ID:ex5iZjOTさんきゅ、そういうことね。
ここは徳川スレなんだけど負けた秀吉ファンが
暴れにくるところでそれを懐の広い徳川ファンが見守るスレ
みたいにどっかで言われてて勘違いというのは
どっちがどういう意味で語ってるのかわからないということでさ。
小牧の後の家康臣従あたりまでをトータルで語ってるのではなくて
徳川が人質出して小牧は終了と言うのはわかりやすくていいなと。
最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
そこまで行かずに小牧のけじめを徳川が人質出したというので
終了させるのが正しくてそのあとのことまでごっちゃにするのは
勘違いというのは、小牧長久手の捉え方としては明解だもんね。
徳川臣従あたりまでを小牧の影響下ということで総論的に
話してるように思ってたわ。
0293人間七七四年
2011/12/29(木) 16:33:16.08ID:w2x9j/Crどんな人質出してたんだ?
0295人間七七四年
2011/12/29(木) 16:38:00.69ID:I1J9YJtwはぁ?だから小牧と家康臣従は別なの。理解出来るか?
トータルとかそういう問題じゃ無いんだよ。
> 最初に283は大政所やそのあたりを語ってるでしょう。
だからそもそもが小牧・長久手の講和と家康の臣従の時の事を
勘違いしてるって指摘なんだっつーの。馬鹿?
無知なのは仕方ないけどめちゃくちゃな日本語使って誤魔化そうとすんなよ。恥ずかしい。
ところでさぁ、お前ってよく出没する「だもんで」とか使う奴?
文体が似てるからちょっと気になったんだけど。
0296人間七七四年
2011/12/29(木) 16:39:04.05ID:ex5iZjOT間違いがあったね。細かい話なんだが。
0298人間七七四年
2011/12/29(木) 23:13:01.47ID:lj+cXLLb殺したければ殺せと言わんばかりだし
0299人間七七四年
2011/12/29(木) 23:56:46.04ID:cDwxUTT40300人間七七四年
2011/12/30(金) 08:16:38.89ID:gFXZnKOXすぐには認知しなかったし お母さんがやりまん説が出ている
逆に淀(茶々)はほんとに秀吉の種で孕んだかずいぶん怪しいと思うんだけど、
大坂城にはすでに大奥みたいな男子禁制のエリアがあり、秀吉は
自分の種であったことにそれなりの自信があったとこないだテレビでやってた
0301人間七七四年
2011/12/30(金) 11:01:19.64ID:PZ2BPtUG秀吉にしても殺すメリットなんざ無いし。
ただ、その後秀吉が四国や九州で躓いてしまい、
大逆転のチャンスが転がり込んできたら分からないよね。
北条の意向なんかもあるし。
そういった意味では人質として殺される可能性ってのも十分想定してただろうね。
0302人間七七四年
2011/12/30(金) 16:47:45.45ID:yIcH3ioJ面白かったと思ったw
0303人間七七四年
2011/12/30(金) 18:08:54.85ID:v8x/7Kgt徐々に怪しくなったらとりあえず送り返してると思うよ
戦の前に正室を離縁というパターンはあったし
突然の叛旗だったりしたら見せしめで殺されちゃう可能性はあるけど
0304人間七七四年
2011/12/30(金) 20:27:11.45ID:68J78dq2というかドライな感じがする。
0305人間七七四年
2011/12/31(土) 00:19:43.17ID:jc74g2KG信康みたいに背かれるのを警戒していたのだろうか
0306人間七七四年
2011/12/31(土) 01:02:46.12ID:ykG7ZBvs0307人間七七四年
2011/12/31(土) 01:54:51.49ID:1xer/rkTだから忠輝、忠直は、殲滅するのだ
0308人間七七四年
2011/12/31(土) 02:01:10.84ID:ykG7ZBvs秀忠のやり方もよく分からないんだよな
秀忠は忠直をどういう立ち位置にしたかったのかね
0309人間七七四年
2011/12/31(土) 03:36:08.82ID:n76RcxQlう〜ん、家康の冷淡さは愛情ある厳しさではなく、本当に冷たさ
を感じさせるんだよねえ。
家康が早くから両親と離れ人質生活を送っていたという環境が
少なからず影響してるのかそれとも元々の気質か。
家康は三大英傑の中ではあまり残酷エピソードは少ないし、家臣
とか敵将とかに対して心温まるようなエピソードが結構残ってるから
余計実子に対しての仕打ちというか対応の温度差が不思議。
0310死
2011/12/31(土) 04:08:50.01ID:Q/mIVUm2晩年は信長の事聞かれても殆ど答えなかったと読んだ事あるけど
武将としてもどんな評価してたのかな?すっごい知りたい
0311人間七七四年
2011/12/31(土) 04:43:26.47ID:8l6VwdWd身内びいきなのがよく分かってたからでしょ。
0312人間七七四年
2011/12/31(土) 04:43:57.34ID:8l6VwdWd6日昼にBSプレで信康映画やるっぽいぞ。
0313人間七七四年
2011/12/31(土) 09:29:12.93ID:uEhyJY+Z秀吉はもちろん、信長公も自分の子にはやたら甘かった
家康公が天下をとったのはやはり運じゃない ちゃんとしてたからだな
0314人間七七四年
2011/12/31(土) 12:46:45.20ID:ykG7ZBvsそう言われてみるとそう感じるけど
そういう身内に対しても、もしかしたら優しくしていたけど
それはあまり人目に見せないやり方だったのかもしれん と思ったりする
京都にいる秀忠が所労や腫物で寝込んだ時、家康も伏見から上洛して見舞いに来たり
秀忠が藤原定家筆の和紙懐紙が見たいと望んだら、冷泉為満さん呼んでくれたりしてるんだけど
やはり何かしら会話らしい会話や伝聞がないと、どういう心境だったのかも分からないからなぁ
0315人間七七四年
2011/12/31(土) 13:55:23.44ID:n76RcxQl人間的には家康は信長はあまり好きではなかったろうなと思う。
家康の本能寺の変とか光秀に関する少ない言葉を読むと、本能寺の変
は信長側に落ち度があったような意見に思える。
勿論信長が死んだお蔭で天下統一出来たという部分があるからそういう
部分は差し引く必要もあるけど、長く信長の同盟相手としてこき使われて
色々思う事もあったと思うよ。信長は人使いが荒いからね。
でも武将としては評価していると思うよ。
最晩年に秀忠に送った訓戒状みたいなものに「織田殿は智略にも武略にも
優れ、よく人を使い、近世の名将だった」と書いていたし(かなり昔に
読んだ手紙なので内容はうら覚えだから正確ではないけどこんな感じ
の内容だった)。
秀吉についても書かれていたけど信長以上に褒めていた。
野人から天下人になった事を褒めていて古今東西きっての名将だと。
まあなんだかんだいいながらも信長が桶狭間て義元を討ち取ったから
独立出来たし、信長の同盟相手だったから天下に近かったから
家康にとって信長は好嫌の感情がまじり過ぎた複雑な相手だったのでは
ないかな。
0316人間七七四年
2011/12/31(土) 14:06:07.83ID:uEhyJY+Zほかの人間なら信長もバカ、秀吉も大バカ、自分だけが優れた天下人って
言うところなのになあ〜 ほんとに家康公の自制心は凄まじいわ
0317人間七七四年
2011/12/31(土) 14:42:51.89ID:n76RcxQl秀吉が天下取って本来ならそのまま豊臣家の天下が続く
と思いきや、色んな幸運が重なって自分が天下を取れる
チャンスが巡り天下が取れたら、自分が優れていたから
というより何か天の意志かそういう類のものによって取れた
と謙虚になると思うよ。
0318人間七七四年
2011/12/31(土) 14:56:44.72ID:ykG7ZBvsそんな手紙もあるんだなぁ 史料本や研究本読んでも
最近はどれも似たような内容しか取り上げないから
手紙特集みたいな本も作ってほしいわ
0319人間七七四年
2011/12/31(土) 18:32:51.69ID:kM6X99Ynどちらも優れた人間だから人もついていったが
それだけでは長きお家存続には結びつかないと。
秀吉臣従後は少しは大人しかったけど死後すぐに
豹変するところがなんか凄みを感じるわ。
あれで関が原で負けてたら日本一のアホ裏切り者に
なったろうしね。
いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
0320人間七七四年
2011/12/31(土) 18:56:35.61ID:n76RcxQl>いい年でよくあそこから勝負したもんだ。
これは思う。当時50幾つだっけ?当時の50代なんて老齢だろう。
よくまあ家運をかけた博打にうってでたと思う。
関が原は勝って当然の戦ではなく、本当に紙一重だったからなあ。
おっしゃるように秀吉死後に豹変してるけど、いつから家康は
天下への野心をはっきりと持ち出したんだろうなあ。
元々家康は信長の天下統一事業に早くから携わっていて「天下」というもの
へのが意識が他の五大老よりも違ってたんじゃないかなと思うけど。
0321人間七七四年
2011/12/31(土) 19:43:50.70ID:crPn243i一門の叔父連中でも戦目付けにして
「真田はスルーしろ!」って厳命しとけば良いだけじゃん。
0322人間七七四年
2011/12/31(土) 19:46:37.14ID:uEhyJY+Z10倍20倍の戦力でも半年ぐらいは平気で持ちこたえるもんですよね
0323死
2011/12/31(土) 20:09:38.34ID:PFSwDUDG人に慕われる人ではなかった、明智の反乱は
トラに襲われそうになった人間が
トラから逃れる為に起こしたようなものだつってたけどな
0324人間七七四年
2011/12/31(土) 20:31:26.45ID:n76RcxQlまあ、、、その信長評は当たってるワナ。
秀吉が明智の反乱をそう評するという事は秀吉自身も
明智に共感する部分は多分にあったんじゃないかな。
0325死
2011/12/31(土) 20:35:48.36ID:PFSwDUDG外道ついに滅ぶ と書いてたみたいだしな
やはり慕われる人間ではないんだろうな
0326人間七七四年
2011/12/31(土) 20:56:00.57ID:kM6X99Ynよくその話になるけど、かなり早くに野心をもって行きたい
気がする。秀次、出兵で内部がぐらついだあたりはもう
「ラッキ」って作戦ねるぐらいでじっとチャンスを待ってたんじゃないかな。
これはもちろん自分が秀吉より年下というぐらいしか根拠は無いのだけど
だからこそあっという間の行動だったからね。
それと将軍もらってからの政治構想なんかは思いつきで
できるものではないだろう。
反面教師を考えた上で長期安定政権を作るのはどうしたらいいか
朝廷、寺社、外様、農民、商人、それと外人も。
これを60すぎてから完璧にこなすなんてのは
タダものじゃないわな。
0328人間七七四年
2011/12/31(土) 21:07:29.43ID:n76RcxQl基本細やかな心使いの出来る人ではあったんだろうなあとは思う。
だから小姓等の信長の側で仕える人間若しくは尾張からの家来は信長
のそういう「柔」の面がわかってるから慕う人間も多くいたと思う。
でもそれ以外の人にとってはとにかく猜疑心の強い、外道にしか映らん
だろうな。
0329人間七七四年
2011/12/31(土) 21:12:33.09ID:ykG7ZBvs信長政権にとってよい影響もらってた公家さんは悲しんだだろうし
逆に信長を邪魔に思っていた公家さんは、ざまぁと思っていただろう
前者は近衛前久とか
0330人間七七四年
2011/12/31(土) 21:14:14.17ID:n76RcxQl豊臣家滅亡の史実を知っている後世の人間から見たら何故秀吉は
あんなに家康を優遇し信頼したのかと思うけど、家康は
秀吉が死ぬまでは本当に律儀だっんだろうなと思う。
家康の変貌振りは凄いよね。
やはり天下を前にすると人は変わるんだろう、秀吉しかり、信長しかり。
0331人間七七四年
2011/12/31(土) 21:18:07.81ID:kM6X99Ynただ他の日記の残るような公家さんはみな改竄欠損だらけだから
よほどつい本音がでたんだろなと。
「不可驚事也」なんて残ってるのは黒幕説に利用されかねんわ。
0332人間七七四年
2011/12/31(土) 21:21:16.95ID:Kn5WWRKH最近聞いたばかりの
面従腹背
という感じだろう
秀吉にしても自分を悪いようにはしないのは分かってたから
それなりに従っておけばどんどんと自分を取り立てるはずと分かってた
それで力を蓄えていった
ただそうはいっても秀吉が先に死ぬかは本当に運だったから
そこも備わってたのは間違いなし
0333死
2011/12/31(土) 21:22:58.64ID:PFSwDUDGその面しか見ない人には信長は外道に見えるんだろうけど
>>330
秀吉は甘いよな
あれだけ目を掛けてやったのに死後手のひら返して大阪滅ぼすなんてよ
秀吉の墓までぶっ壊したんだろ、やり過ぎだよな
0334人間七七四年
2011/12/31(土) 21:23:56.78ID:kM6X99Ynあれさ、秀吉がボケて信用したのか
そこはマジで信用したのかどっちだろうね。
もし家康がだましきったのならそれこそタヌキなんてもんじゃない
もんな。
ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そのままだって大老筆頭格で何の不満もなかっただろうし。
だから天下を目の前にしたというかかなり前から想定はしてたんじゃ
ないかな。自分が先に死んだら仕方ないが相手が先に死んだら
勝負だって。じゃないと幕府解説後の完璧さが説明できないもんな。
0335死
2011/12/31(土) 21:26:57.08ID:PFSwDUDG福島なんて、家康抑えの為の兵糧まで家康に提供しちゃうんだぜ?w
そもそも家康抑えの為に尾張に配置したのに、兵糧ごとごっそり寝返るなんてな
0336人間七七四年
2011/12/31(土) 21:31:40.52ID:kM6X99Yn家康はどういう作戦で行ったかね。
無理やり私婚繰り返してアヤをつけたかな。
0337死
2011/12/31(土) 21:37:34.28ID:PFSwDUDG史実と同じじゃないのか?
難癖つけて、攻め込むぞ!って脅す
前田をそうしたように、上杉をそうしたように
そして全て配下に収めた後に、大名の取り潰し実行する
これが家康のやり方だね
ま、家康に250万石も持たせたのが敗因かもな
100万石程度の武将だったら発言力あっても
周囲が束になれば勝てない相手ではなかった、兵の動員力が違うからな
0338人間七七四年
2011/12/31(土) 21:53:44.31ID:n76RcxQl近衛前久は徳川の時代になっても信長の追悼句会開いている。
信長は彼を嫌う人間にはとことん嫌悪、憎悪されるけど、
心酔する人間は彼の死後も長く慕ってるんだよ前田利家とか細川忠興とかね。
>>333
秀吉自身が大恩を受けた織田家を乗っ取り、あの仕打ちだよ。
事実上織田家を崩壊させたのは秀吉だからなあ。
同じような事を家康にされても文句は言えないだろう。
>>334
>ただ50代後半だしあそこから家康がすべてをかけて勝負に来る
なんてのも確かに想定はしにくいわな。
そうだよなあ。。。。言われてみれば。。。。
歴史の事実だから違和感を感じなかったけど当時から見れば
「まさかの行動」だったんだろう。
0339人間七七四年
2011/12/31(土) 22:24:50.74ID:ykG7ZBvsそこから新たに幕府立てて朝廷対策して豊臣政権崩壊て
数年単位じゃ無理だろうし、途中で家康が死ぬかもしれないし
そりゃ健康に気を使うよなぁ
0340人間七七四年
2011/12/31(土) 22:29:05.47ID:dbcp6HbH家康の関東転封は、秀吉としては、体よく左遷したつもりだたんだろう。
要衝の東海道から僻地の関東に移し、しかも全くの新領土だから、経営に手間取って、力を削げる位に考えていたろう。
関東の支配を短期間で固めた家康と家臣団の力量が凄かったんだが、そこまでは予測できなかったんだろう。
0341人間七七四年
2011/12/31(土) 22:39:05.41ID:crPn243i0342人間七七四年
2012/01/01(日) 03:13:46.06ID:wrXd3Iz/皇紀2670年だっけ?
じゃあ西暦200年前後と言われる卑弥呼の時代とか何してたんだよという話。
なんで天皇が統治してたのに邪馬台国と言う独立国を勝手に作られちゃってるんだよ?wという話。
はっきり言うと、天皇の歴史は1000年以上サバ読んでて、実在確認されてる天皇は西暦500年ぐらいの人だよ。
神武天皇から漏れなく「漢」字で名前が付いていることには目をつぶるお前ら、いい加減理解しろよ。
紀元前600年とかの日本にいた架空の原始人にとりあえず「チャーリー」とか「ミヒャエル」とか「ロドリゲス」とかそういう名前付けてるのと一緒なんだよ。
松本智津夫と同レベルのインチキ祈祷師の洗脳から早く醒めろよ。
0343人間七七四年
2012/01/01(日) 14:05:34.89ID:y2H+TTsX0344人間七七四年
2012/01/01(日) 16:07:40.44ID:bh/zsP/D城もまともに無かったようなド田舎とのことだし
そのうちにどんどん開拓していって石高が上がっちゃったていう
0345人間七七四年
2012/01/01(日) 18:05:26.26ID:GJiXC6J6武蔵60万石、相模25万石、伊豆10万石、
下総35万石、上総35万石、安房5万石、上野50万石、
以上220万石はあった。
開拓で、255万石に上がったかな。
0346人間七七四年
2012/01/01(日) 18:08:19.89ID:+7y9H/BG全くゆかりのない所で、一からやったわけではない
0347人間七七四年
2012/01/01(日) 18:09:09.30ID:rY+weHQD0348人間七七四年
2012/01/01(日) 19:20:52.22ID:+7y9H/BG小田原城の大森氏などもは、先祖が三河の高橋惟康と言っていたんだろ
太田道灌とかの太田氏も三河太田氏で三河に多いわな
関東などとっくの昔に三河に牛耳られてた
家康も統治が簡単だったワケだ
0349人間七七四年
2012/01/01(日) 20:51:33.86ID:9DGEmAZX0350人間七七四年
2012/01/01(日) 21:09:07.36ID:/LCWO1J6あと、家康は、新領地を家臣団にあてがう過程で領主としての権限強化にも成功している。
でも、あれだけの新領を短期間で掌握したのは、家康の力量のなせる技だったろう。
0351人間七七四年
2012/01/01(日) 21:26:11.31ID:9DGEmAZX0353人間七七四年
2012/01/01(日) 23:33:36.09ID:XX7KMmRC徳川家では具体的にはどんなのを言うの?
0354人間七七四年
2012/01/02(月) 01:26:56.35ID:2rxef1h/0355人間七七四年
2012/01/02(月) 08:15:06.77ID:NCBGxDXrほぼ未知の地をあてはめてそこを統率させないといけないし
自分は江戸自体を作らないといけない。
もし飢饉でも起きてたら家康最大の危機だったろうし
新組織団設立のチャンスというのは確かにそうなんだが
ちょと結果から求めすぎでそれを成し遂げたとしたら
家康の評価を高める方向で語るのが一番だろうか。
0356人間七七四年
2012/01/02(月) 11:10:57.54ID:ZTQGNtHg吉良氏の世田谷御所、蒔田御所、吉良殿、吉良の殿様、吉良閣下
三河の源氏を崇拝する文化のあった関東を統治するのは簡単
0357人間七七四年
2012/01/02(月) 16:52:07.82ID:Exo3i3S1そんなのこじつけだろw
〇∧〃
/ > でもそんなの関係ねぇ!
< \ そんなの関係ねぇ!
0358●
2012/01/02(月) 18:14:51.88ID:74M8vOAg0359人間七七四年
2012/01/02(月) 18:20:54.03ID:oaz5/U88【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
0360人間七七四年
2012/01/03(火) 03:16:45.44ID:BDt1gyXgそれだけあってあの辺グダグダしてたのはなかなか勢力がまとまらなかったせいだよなあ
そこに秀吉が思い切ってどっさり任せちゃったから一気にまとまった力を得られたんだし
>>351
古参の家臣は家康直轄家臣みたいな感覚で
石高は少なくても格が高いからそれで満足しろという感じだったのかも
0361人間七七四年
2012/01/03(火) 03:42:44.69ID:mds9j1RH苦難を排し、見事ハワイ攻撃を成功させた、そのずば抜けた統率力
日本が求めるリーダーを体現した理想の男がいた。
山本五十六は凄い!
______ ___________
V
ヽヽ〃 /
ヽ〃 真珠湾奇襲!
( _)
| | シコシコ・・・ シコシコ・・・
| | /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
/ ゝ |
/ _ ゝ___)(9 (` ´) )j
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
/ _/ \____/
↑
詐話師 半藤一利 w
0363人間七七四年
2012/01/03(火) 11:07:28.90ID:2tGFz77T一方の関東民は従順だったよね
いきなり乗り込んで来ても、三河の源氏マンセーだから
0364人間七七四年
2012/01/03(火) 22:14:18.99ID:Vy4kNzB0従順だったんじゃないと、成立たないだろ。
お前ら知識は多くても、頭は悪いのか?
0365人間七七四年
2012/01/03(火) 22:36:42.27ID:aZBKPYrH0366人間七七四年
2012/01/04(水) 00:23:37.95ID:ja2rWa4F0367人間七七四年
2012/01/04(水) 00:26:32.40ID:YeUawEl+小田原の役以降のこの二人が地味に気になる
0368人間七七四年
2012/01/04(水) 00:40:19.51ID:xidYDTom0369人間七七四年
2012/01/04(水) 01:07:22.27ID:c0Uywemy反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
0370人間七七四年
2012/01/04(水) 11:12:59.96ID:xidYDTom0371人間七七四年
2012/01/04(水) 11:57:56.31ID:liTB9Gu+反乱多発した例たくさん出せる人居ませんかぁ(;¬_¬)?
出せないと「地縁があったから」って証明には成ってませんよぉ。って事w
0372人間七七四年
2012/01/04(水) 12:29:10.36ID:FznhNkcF何、この厨二病設定
0373人間七七四年
2012/01/04(水) 12:31:21.04ID:cfyNwt0kそもそも小田原北条はよそ者の上に侵略者だったから関東衆に物凄く嫌われてたし
統治も悪かったから百姓からも恨みを買っていた
だから普通の統治してくれれば万々歳だったんだよ
0374人間七七四年
2012/01/04(水) 12:34:05.94ID:fdxeSMqM日本一の名門揃い、源氏のエキスが濃縮された三河武士
三河様熱烈歓迎だったのかしら
0375人間七七四年
2012/01/04(水) 12:50:52.69ID:z20ujt+C関東は鎌倉どころか平安以来の土着勢力がいまだ幅を利かせていたし
関東公方を頂点とする旧体制が維持されていたから、北条が滅茶苦茶にしなかったら家康も手を焼いただろう
0376人間七七四年
2012/01/04(水) 14:01:40.88ID:9uHqoZ61源氏ロンダリングwww
0377人間七七四年
2012/01/04(水) 14:46:22.76ID:fdxeSMqM平安末期、頼政系が三河に多数逃げてきて、その一人に道灌の先祖源広綱もいたからね
広綱は安城という所に城を構え、後に伊豆に移住するワケだが、一族の太田氏、大河内氏が三河に残り吉良に仕えていた
後北条氏も分かるんだよな
先祖の伊勢氏、記録に残る最古の資料は、俊継の従兄弟が吉良荘の奉行をやっていた
上層部が古くからの繋がりがあるのは分かるが、中層〜下層まで三河マンセーなんだよな
0378人間七七四年
2012/01/04(水) 18:37:03.63ID:5Bn/yvzp三河者だったから従順だったとか
稀な事例で、一般論を語らないでもらいたいな(′・_・`)
0379人間七七四年
2012/01/04(水) 20:14:12.21ID:5Bn/yvzp何で吉良上野介はずっと嫌われてて
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
年寄りにあり得ん不意打ちした挙句に討ち逃した
キチガイ浅野がたんだ(;¬_¬)?
0380人間七七四年
2012/01/04(水) 20:14:29.48ID:5Bn/yvzp0381人間七七四年
2012/01/04(水) 21:05:46.38ID:FYA2k3X+「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。
家康関係無し
室町時代から、武蔵国の事実上の親分は奥州吉良氏ですw
0382人間七七四年
2012/01/04(水) 21:10:40.56ID:FYA2k3X+【歴史】時期は定かではない。城山〔標高254m・比高70m〕に太田道灌が築き、松平宗
家3代信光が改修し、信光の八男光親が城主となる。その後、光親は能見城〔岡崎市元能見町
〕へ移り、廃城になったと伝わる。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Matsudaira-Joyama-Jo.html
まゆつばだが、事実なら支配層はみんなグルです
0383人間七七四年
2012/01/05(木) 01:29:42.79ID:ZFLSY/nZ伊賀越え時の同行者について調べたいんだけど、どの文献に載ってるか知っている人いる?
さっぱり検討がつかなくて困ってる、もしよければ教えてほしい
0384人間七七四年
2012/01/05(木) 01:46:46.08ID:KZTC6ULJ0385人間七七四年
2012/01/05(木) 06:54:08.97ID:K4gi3Uupなんで北条が関東管領を追放するのに協力したのwww
0387北条氏平
2012/01/05(木) 17:19:34.43ID:KZTC6ULJ0388人間七七四年
2012/01/05(木) 17:52:36.62ID:e1LI/Rba普通にウィキに載ってる以上のこと?
家康系の一次史料に載ってる以上のことはマイナー書状に
書かれてたりするぐらいしかないだろうけどそういうのは
信憑性に欠ける。
有名人は34人とかなってたけど、江が入ってたらイヤだなぁ。
0389人間七七四年
2012/01/05(木) 18:02:13.29ID:RqKKOMm+滝田の徳川家康は綺麗すぎて嫌いだし家康っぽいくない。
津川の葵徳川三代はキャラがチャラ男すぎて嫌い
0391人間七七四年
2012/01/05(木) 18:35:43.76ID:7zK7Rbr+天地人の家康は松方弘樹が本気出しすぎて超ヤクザだったなあ〜
かっこよかったけど本物はもうちょっと小柄でガメツいジジイだった気がする
暴力団の新しい法律のせいで松方さんテレビ界から干されそうとか
なんとか生き残って欲しい こないだ江戸城大乱やってたけどすごくかっこよかった
酔っ払うと腹を押さえてび、備中〜〜は、はようぉおおお〜〜〜〜ってやってる
0392人間七七四年
2012/01/05(木) 20:47:31.45ID:DF0BdgmJ小さい頃に高田なんとかって原作で放映された松方家康公で
最後の「人の一生は、重荷を追いて遠き道を行くが如し」
を知ったその日からずっと尊敬してる。
0393人間七七四年
2012/01/05(木) 23:05:36.44ID:KZTC6ULJ0394人間七七四年
2012/01/05(木) 23:25:44.70ID:u4xU/6Vkなんだよあのコブ
0396人間七七四年
2012/01/06(金) 04:45:53.21ID:xlYWf9ZZ図書館にいく手間よりかはいいだろう。
0397人間七七四年
2012/01/06(金) 17:18:24.38ID:sH2hxVu+駿府幕府というのが正しかろう
0398死
2012/01/06(金) 17:49:34.41ID:5EQTqTyBケチケチ親父、譜代の家臣でも最高でも10万石しか知行与えないんだからな
0399人間七七四年
2012/01/06(金) 17:53:43.67ID:sH2hxVu+0401死
2012/01/06(金) 18:00:55.91ID:5EQTqTyB秀吉は大盤振る舞いするけど
家康はほんとケチだね
0402人間七七四年
2012/01/06(金) 19:30:42.56ID:Nv4T+HqJ0403人間七七四年
2012/01/06(金) 19:53:05.42ID:awojJ3Bv軍事的には三個備を編成できるあの位で十分
むしろ戦時に他の大名を指揮下に入れるなら半分以下でも良いくらい
0404細川忠興
2012/01/06(金) 20:20:47.45ID:7a3U3ZSB0405人間七七四年
2012/01/06(金) 21:16:22.24ID:HsAJJMTY石高を多くしてる大名たちは基本的におまえらは独立だから全て個々でなんとかしろっていうもので
石高が低い立場が近い家臣は「欲しいときだけお小遣い」という感じで何か起きたら兵力は家康から貸与するんじゃないの?
例えば井伊の赤備えがすごいといってもせいぜい中核の直轄部隊ぐらいで
あとは徳川の兵という感じで必要なときに必要な数を家康から+αされるみたいな
でも外様なんかはそういうのも全部自前で持ってないと駄目っていう
0406人間七七四年
2012/01/06(金) 21:17:50.12ID:oLBkRduq「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。
>吉良殿様
>御籠城
>御命令
力抜けよw万年パシリのカントン民w
0407人間七七四年
2012/01/07(土) 00:51:54.88ID:tqESw7y2中堅以下:徳川直参な気がして良い。
家康公は組織をよく分かっていらっしゃった。
0409人間七七四年
2012/01/07(土) 10:48:03.20ID:gQDzT4dL秀吉の大盤振る舞いのおかげで、
死後は有力大名が徒党を組んでの大乱。
室町幕府と同様の失態だろう。
0410人間七七四年
2012/01/07(土) 10:51:44.59ID:3OSKHkow0411人間七七四年
2012/01/07(土) 12:34:24.47ID:jJTJwfsX信長や秀吉も別に好きで大盤振る舞いしたわけじゃない
織田は尾張の数郡から始まり、関東から中国にかけて勢力を広げたわけで
その過程に織田家臣は数百万石を切り取る功績を挙げたわけだからそれに応じた報酬を与えねばならない
領地の拡大が大きければ大きいほど家臣の仕事量は増えるから自然、報酬も増える事になる
豊臣に関してはもっと極端で、信長から与えられていた播磨や長浜などの領地から天下統一まで漕ぎ着けたわけで
しかも元より配下が殆どいない為、多くは同格だった勢力の兵を用いていたから恩賞はより多く出さざるを得なかった
天下取りは必ず初めは増やす作業になる
敵の領地を奪って配下に与える、の繰り返しだ
鎌倉政権、室町政権、織田政権、豊臣政権、いずれも臣下が肥大化したのはこの為
一方、徳川の場合はこの作業を飛ばす事ができた
秀吉が天下を統一し体制が整いつつある時点で、豊臣家と入れ替わり政権を継承したからだ
家康の拡張事業は入れ替わる為に行った関ヶ原だけで済み
臣下に大きな報酬を与える機会も少なくて済んだ
0412人間七七四年
2012/01/07(土) 13:45:40.49ID:Rz/mo/TQ妄想乙。
鎌倉、織田は大盤振る舞いしていない。
室町は、将軍権力が脆弱だったので仕方がない面もある。
秀吉は、必要も無いのに大盤振る舞いして自爆した。
徳川は、ある程度以上の規模の大名を作らなかったし
大名同士が徒党を組みにくいように操作した。
0413人間七七四年
2012/01/07(土) 14:14:59.54ID:jJTJwfsXお前の方が妄想全開だろw
現実にどの政権も大大名を量産している
徳川だって関ヶ原で大盤振る舞いしている
戦いが続けば徳川政権でも大大名を量産しなければならなかったのは間違いない
恩賞無しで何十年も戦わせるなんて不可能なのだから
0415人間七七四年
2012/01/07(土) 15:05:29.68ID:LKooypHN伊達さんに百万石のお墨付きとか、なんて危険なことを…
結局おじゃんにしたけど
0416人間七七四年
2012/01/07(土) 15:08:07.11ID:ZN+zAou/一旦は関ヶ原の戦功とかで作ったものの政治力を駆使して
戦以外の方法で上手いこと弱体化させたり旗本クラスの地位に降ろしたんじゃないかね
関ヶ原以前からの豊富な資金力をバックに唯一抵抗した豊臣は攻め滅ぼされたけど
0417人間七七四年
2012/01/07(土) 16:12:51.14ID:LKooypHN自分の名前や相手の名前の漢字を省略して書く時があるけど
家康も自分の名前略した文字はあるのかな 康とか?
0418人間七七四年
2012/01/07(土) 17:04:39.60ID:jlI2lgBz本多忠勝の家臣の大谷
その大谷の草履取りが殉死のときに残した辞世の句
死にとうない ああ死にとうない さりとては
君が情けの 今は恨めし
0419人間七七四年
2012/01/07(土) 22:41:50.13ID:Hdg1hXh5分離転俸出来なかったのだろうか?
0421人間七七四年
2012/01/07(土) 23:41:59.63ID:Hf6qODdS秀吉子飼いの大名を潰したかっただけじゃね。
0422人間七七四年
2012/01/08(日) 11:52:36.05ID:QDQkPjMW0423人間七七四年
2012/01/08(日) 12:19:18.57ID:9SkhdC3g初期の江戸幕府は、親藩だろうが譜代だろうが平気で取り潰してる。
秀吉子飼いうんぬんは、何の関係も無いな。
0424人間七七四年
2012/01/08(日) 12:31:41.97ID:W/13sAdu0425人間七七四年
2012/01/08(日) 13:27:21.18ID:lDaZ0YDe江戸城中でションベンしたら罰金五両って決まりにしたら五両払って立ちションし始めたりな
まあ蜂須賀さんは三河武士じゃないけれども
0426人間七七四年
2012/01/08(日) 14:54:20.51ID:G74+Tj3P何だよそれw
0427人間七七四年
2012/01/08(日) 16:09:14.06ID:nBKGKs1Xよく戦ったということで四国まるごとあげるって(北陸のは没収)話があったらしいよ
でも損するってことでうまいこと前田家が断ったらしい
0430人間七七四年
2012/01/08(日) 22:21:37.26ID:BrrYatFE不思議ちゃんなところがあった。
現代に生まれていたら、二ちゃんねらーになっていそう。
0431人間七七四年
2012/01/08(日) 22:33:22.02ID:nBKGKs1X気の短いところをすさまじい理性で忍耐しまくった感じ
爪を噛むクセとか我慢人っぽい
晩年たががはずれたのかかなり乱暴なやり方で権力を
掌握した あの強引な武闘派ぶりが本来の家康公ではあるまいか
0432人間七七四年
2012/01/08(日) 22:41:15.47ID:oB2/c3EQ武道家の気荒い人は、そんな細かい作業しないもん。
真面目でおとなしいガリ勉タイプだと思う。
0433人間七七四年
2012/01/08(日) 23:36:15.44ID:gOnwhmqf忍耐することや理性に従って生きる事を学んだのだろうが
戦の仕方とか見るに本質的には短気というか積極に攻めるタイプなんじゃない
主な生活地の駿府城とか、仕事の都合もあるだろうが
田舎の江戸や三河よりも京、大阪に多く滞在した事を考えると
意外と派手好みで都会好きである気がする
知的好奇心は強いけど文才は今ひとつだから典型的な理系脳だと思うけど
0434人間七七四年
2012/01/09(月) 00:55:39.01ID:OMrB80oA>島津は、あれ以上の僻地はないだろう。
「分離」の話だぞw
0435人間七七四年
2012/01/09(月) 13:29:06.76ID:h0VitYh0トヨタグループとかもねw
0436人間七七四年
2012/01/09(月) 13:30:59.48ID:h0VitYh0関口←これも豊川市関口発祥の源氏だよね
0437人間七七四年
2012/01/09(月) 20:54:07.94ID:yU8pxm5r阿波30万石
讃岐30万石
土佐50万石
伊予35万石
★総計145万石
0439人間七七四年
2012/01/09(月) 21:42:06.34ID:DAOSrc0R0440人間七七四年
2012/01/10(火) 00:02:53.86ID:4yHgMmij0441人間七七四年
2012/01/10(火) 21:50:10.61ID:XSML9kgV・足助氏(三河源氏)←足助重範、公暁、イチロー(三河鈴木氏(寺部鈴木氏))
・三河山本氏←山本勘助、山本五十六
清和源氏満快流
・三河夏目氏←夏目漱石
摂津源氏頼光流
・大河内氏
河内源氏頼清流
・西尾氏←松井秀喜(父親の旧姓が西尾氏)
河内源氏義時流
・三河石川氏
河内源氏惟義流
・三河松井氏
河内源氏範頼流
・吉見氏
河内源氏義康流
・矢田氏
・広沢氏
・細川氏
・仁木氏
・戸賀崎氏
・榊原氏
・伊奈氏
・荒川氏
河内源氏足利氏流
・吉良氏
・今川氏
・一色氏
・斯波氏
・広沢氏
・石橋氏
甲斐源氏義清流
・形原氏←形原師光、平賀義信の従兄弟
0442人間七七四年
2012/01/11(水) 00:13:05.72ID:2bXpO+Gj0443人間七七四年
2012/01/11(水) 01:52:13.58ID:+mcn3kjZ戦国武将だったら、糞鞍に漏らすレベル
0444人間七七四年
2012/01/11(水) 11:45:15.87ID:Jxc3PW1dとても楽しみだなぁー
徳川家康が見てたり触ってたりしたと思うとウキウキしてくるなぁ〜
0445人間七七四年
2012/01/11(水) 14:13:13.97ID:i+p19M1p遠すぎて気軽に行けないので悔しい!
0446人間七七四年
2012/01/11(水) 23:20:35.86ID:yFkYiwpRhttp://www.youtube.com/watch?v=KdZkYrY5DKk
0447人間七七四年
2012/01/12(木) 00:08:08.64ID:LjGXClK30448人間七七四年
2012/01/12(木) 08:39:11.44ID:cDnhaagp0449人間七七四年
2012/01/12(木) 10:32:57.27ID:0KSc17VZ家康の遺言(とされる言葉)を官兵衛がドヤ顔で言うのが失笑モノなんだよなあ
黒官はもっと野心的なキャラでよかったのに
0450人間七七四年
2012/01/12(木) 15:00:23.31ID:3vn7yp6y0451人間七七四年
2012/01/12(木) 15:25:11.34ID:xvxecvYb0452人間七七四年
2012/01/12(木) 15:27:11.28ID:jh+Hryjxまさに全力壮年だったわけだな家康は
0454人間七七四年
2012/01/12(木) 19:34:02.85ID:IXHeid6w泥棒だな。でもマスコミも民主も韓国人だから抗議しない。
もうだめなのか日本は?
http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_720065&feature=iv&src_vid=RnnLj7ChmL8&v=sW4H2PGj6JU
0455人間七七四年
2012/01/12(木) 19:44:56.57ID:BYwTxHNnこの発想はどこから来るのか?
三河は日本一の源氏の国であり
源頼朝の母方の菩提寺があり
その菩提寺には北条政子と源実朝の骨も納められた記録もある
鎌倉幕府の御家人でもあった、八条院領荘官の足助重長の娘は、源頼家の室となり公暁を生んだ
想像を超えた田舎猿なのか?w
0457人間七七四年
2012/01/13(金) 00:39:50.15ID:DIMaSycL家康の人物を評価して人気があるのならいいけど
韓国人は単に秀吉が嫌いだから家康を持ち上げてるだけ
だから言ってる事が目茶苦茶で意味不明
要するに秀吉を貶められればなんでもいいわけだ
こんなゴキブリ共に担がれるなんて家康も迷惑に思ってるだろうな
0458人間七七四年
2012/01/13(金) 00:51:06.65ID:2zcNRUPW普通の家康好きは家康のことだけ語っときます
わざわざよその人をsageて持ち上げるような面倒なことはしません
0460人間七七四年
2012/01/13(金) 02:51:59.69ID:VTKKHVCM蔑みにもならんく成りそうだよな(′・_・`)
日本も戦後までは野蛮国家だったしな。
0461人間七七四年
2012/01/13(金) 06:56:26.26ID:0THSh4xe0462人間七七四年
2012/01/13(金) 11:52:12.91ID:h3sI8FQP列強の中でも大日本帝国ほど模範的な近代国家はあるまいて
0463人間七七四年
2012/01/13(金) 21:05:21.98ID:Jfj0Ve8X下和田郷は佐々木高秀、京極高詮の領地
三河は源氏だらけ
家康は源氏が引いたレールにただ乗っただけだな
痩せた土地で質実剛健、奉公滅私で天下をとったとかアホか
0464人間七七四年
2012/01/13(金) 21:30:50.76ID:atic4/3H0465人間七七四年
2012/01/13(金) 22:46:20.24ID:lFcj5sPzそれで三河統一のあと三河守に任じてもらおうとしたけど身分が
低すぎてぜんぜんダメなんで、たぶん信長公に斡旋してもらって
トクガワという名跡を継いだんだけど、そのときは藤原家系の武士って
ことだったのにいつのまにか源氏になったって聞いたことがある
それも新田系ってのは将軍になる直前に決めたとか
0466人間七七四年
2012/01/13(金) 22:54:49.98ID:us13zJzn得川氏末流ってのは、清康の頃から名乗っていたって説がある。
で、得川氏を主張すれば、新田系であり、藤原氏の末裔でもあるってことになる。
0467人間七七四年
2012/01/13(金) 23:09:19.92ID:OfylvEQ10468人間七七四年
2012/01/13(金) 23:26:18.52ID:Jfj0Ve8Xそもそも松平は、皇室領(八条院→大覚寺統)荘園内の由緒正しい土地
松平から南にすぐの所は、高師直高師泰領の比志賀郷(現在は日近郷)
比志賀郷のすぐ東は細川郷
松平が何もない山の中とか言う奴は、骨の髄まで百姓、育ちの悪い糞カッペ
0469人間七七四年
2012/01/14(土) 00:42:48.47ID:C+7YqO890470人間七七四年
2012/01/14(土) 00:51:15.65ID:60cQVEIs楠木正成が逃げてきて住んだ屋敷(現在は若宮八幡宮)とか、何かゆかりがあるのかい?
ちなみに比志賀郷の近くには、逃げてきた赤松円心の子孫の、赤松さんの立派な家もあるんだよな
0471人間七七四年
2012/01/14(土) 08:30:41.30ID:Fiulpjf7最初の改名の時は信長は関係ない。
新田が出てきたのは実力で統一して自分がトップなのに
ハクをつけたかったのだけど当然源氏の足利がその頃は
一番。
だからその兄筋に祖を持っていって足利よりも先輩
つまり源氏ー武士の中で最も正統でもあるというところを
「私称」したというあたりがすごい。
家康も秀吉も土豪的な苗字を早く捨てて「一家をかまえた」
というあたりはさすがなんだよな。
それだけ出自が不明確ということなんだけど。
0472人間七七四年
2012/01/14(土) 09:57:03.60ID:AFsug7p2その意味で私称ではない
0473人間七七四年
2012/01/14(土) 10:10:27.42ID:60cQVEIsアレだろ、信長とか言う田舎モン、豊田市の長興寺を、あまりのデカさに城と間違えて焼き討ちしたんだよな
で、後から足利将軍家ゆかりの由緒正しい寺と知って、びびって立て直したんだよw
この長興寺は、系図上源頼朝の実の弟の家系である中条氏の創建
豊田は源頼朝のひいおじいさんが開発した所だから、源頼朝の血縁が絡んでいる
0474人間七七四年
2012/01/14(土) 10:15:24.02ID:RkEffknK三河は元々足利一門の領地だったから、それを横領した挙げ句に清和源氏を名乗らせろと言ってきた家康を不快に思ったのだろう
義昭が没落してからは形振り構わず濫発したけど
0475人間七七四年
2012/01/14(土) 10:31:50.25ID:60cQVEIs時代はややズレるが、スター勢ぞろいの三河なんだよ
足利義満が三河で
天恩寺創建
足利一族の菩提寺滝山寺本堂立て直し
実相寺本堂立て直し
六名堤造営(堤のせいで下和田郷に水がいかなくなり、佐々木高秀が足利義満に泣きつく)
御馬城築城
細川頼之が三河で
蓮性院創建
斯波義将が代々一族が眠る三河で
永源寺創建
0477人間七七四年
2012/01/14(土) 11:57:19.36ID:60cQVEIs三河は足利一族の植民地、松平は土着の土豪
これが馬鹿の壁だな
三河と足利氏の関係は平安末期に遡る
菅生郷(岡崎城近辺)は足利義兼の所領であり、義兼の兄である足利義清(矢田義清)は、西尾の矢田城主であった
菅生郷の郷司は、足利被官で源頼朝からも陸奥国信夫郡の所領を与えられた高階惟長
この高階惟長と矢田義清は同盟関係で、2二人とも水島の戦いで戦死したワケだが
この矢田義清の実の子義範は、母親の父新田義重に引き取られて初代山名氏となる
嫡男である広沢義実は豊田の広沢に移り住み、生まれた子供が初代細川氏の細川義季だ
何故山名義範が、養父(実の祖父)新田義重に反して源頼朝に協力的だったのかも
三河を中心にとらえれば全て裏が読み取れる
0478人間七七四年
2012/01/14(土) 12:26:33.47ID:SsRjZmmB家康が従五位下三河守に任じられたのは、1566年、このとき信長はまだ無位無官、信長は、1568年に足利義昭を将軍に立てて従五位下弾正小忠にはじめて叙位任官している。
家康は、信長を介さず独自の朝廷工作で任官している。
当主が官位を有する今川家で教育され、いまや今川と対峙するようになった家康の方が官位の重要性を先に認識していたのだろう。
あと、出身地、領地(荘園)所在地を「苗字」(本姓ではなく)として名乗るのは当時では一般的なこと。
足利、新田、吉良、島津なんかもそうなんだが。
0479人間七七四年
2012/01/14(土) 13:14:25.85ID:AqtolcEPたという解釈でいいんだよな?
0481人間七七四年
2012/01/14(土) 14:17:18.49ID:Lp3n2CMvお前がないと言い張っても書状が存在しているのだからどうしようもないよ
その後も足利家は家康に「松平」で書状送ってるし
義昭が徳川姓と官位を改めたのはずっと後
0482人間七七四年
2012/01/14(土) 15:09:18.76ID:oP6bFkt0家康の三河守叙任は永禄9年末だが、既に義輝は死亡してる。
次の足利義栄は、永禄11年に将軍に叙任されてるけど
義栄から家康に書状とか出てたっけ?
0483人間七七四年
2012/01/14(土) 18:05:40.17ID:Fiulpjf7叙任叙勲は別に将軍が出すもんじゃないけど。
清盛の初官なんて将軍のいない時代だが一体誰が
出してると思ってるの?
0484人間七七四年
2012/01/14(土) 18:49:04.76ID:HGLlLkCk家康が勅許を得て、自家を他の松平諸氏とは違うんです、とアピールするために改姓したのはわかる。
ってか、主張的には本家を継いだ、って形か。
で、なんで江戸時代に入って、徳川の子供の家が松平になるの?御三卿とか。
0486人間七七四年
2012/01/14(土) 20:45:35.38ID:HGLlLkCkあと、会津のケースは?
0487人間七七四年
2012/01/14(土) 21:02:35.32ID:oP6bFkt0御三卿は、基本的に徳川を名乗ってるけど、2男3男などは
松平家に押し込んでる。
会津の初代は秀忠の隠し子保科正之。松平性を与えられて
子孫は松平を名乗る。 (結城秀康と同じパターン)
0488人間七七四年
2012/01/14(土) 23:26:09.92ID:HGLlLkCk秀吉の豊臣大安売りみたいなもんね。
ありがとう、だいたいわかった。
0489人間七七四年
2012/01/15(日) 08:58:44.51ID:Z3q2/nh7どこにどう馬の骨がいるかわからない。
だからその一族の中できっちり「家康直系」という
特別な価値を明確にしたのが「徳川」姓。
だから徳川の子供でも安っぽくつけなくて「徳川」
を名乗ることは松平一族の中で「特別な価値」があるということが
わかるようになってる。
御三卿が徳川を名乗ったのはこれは異例なことで
吉宗が家康ー吉宗系統で将軍職を独占しようとした
その作戦の一環というのがよりわかりやすい理解。
だから長男以外は普通の松平にされちゃうのね。
平氏の中でも清盛直系だけを「平家」というように
松平だけでは何がどうかわからないイナカッペだから
初代「徳川家」という特別なくくりにした、という感じ。
これを20代前半で実行したのだから当時から天下取りの意思があった
とすると誤解が生じるけどさすがではあるな。
それと上の方でおかしな展開が続いてたけど、
徳川改姓は源氏としては朝廷から認められず藤原家としてなら
ということで認められた。例のチリ紙に書いた系図ね。
だからずっと署名は藤原家。
ここでよく誤解があるけど、藤原家として、ということは
出自がはっきりしない、という代名詞みたいなもので
所謂正統公家的な藤原家の子孫として認められたという
解釈ではない。
これは現在でもそうで藤原さんは子孫でもなんでもなくて
近衛さんとか九条さんが藤原直系になる。
長くてごめん。
0490人間七七四年
2012/01/15(日) 09:44:32.52ID:QtimRa22御三卿は、嫡男だけが徳川なんて事は無い。
ついでに言うと、御三卿は他家乗っ取り要員。
場合によっては自家が断絶しても、他家に養子に出してしまう。
0491人間七七四年
2012/01/15(日) 10:59:14.28ID:L4NFrw4P御三卿は実質的に領地を持っていないので、当主のみの家であり
子供が大勢生まれた場合は家督相続者以外は養子に出してしまうしかない
将軍家や御三家が後継者を求める場合は空き家にしても養子に出し、再び将軍家や御三家から養子を迎える
の繰り返し
つまり嫡男だけが徳川姓と言うか嫡男しか家に残らないから結果的に一人しか御三卿の徳川を名乗るものはいたかった
また、他家を乗っ取る為にあるわけでもない
あくまで将軍家と御三家の保存が目的
過剰人員を他家に送り込んだだけで、空き家にしてまで養子に入る場合は将軍家か御三家に限られる
0492人間七七四年
2012/01/15(日) 13:59:55.76ID:+cCu7CY2室町幕府樹立後(初期)、西三河人の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長
・伊勢国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長
・三河国守護:仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:仁木頼章
・安房国守護:斯波家長
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・能登国守護:吉見頼顕、吉見頼隆 ← 吉見氏は源三河守範頼を祖とする三河ゆかりの氏族
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
0493人間七七四年
2012/01/15(日) 14:00:28.35ID:+cCu7CY2・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・下野国守護:斯波頼兼
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、仁木頼夏
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家、仁木頼勝
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼遠、上野頼兼、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
・安芸国守護:細川頼之
【南海道】
・紀伊国守護:細川氏春、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之、細川頼有
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑後国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏、一色範親
0494人間七七四年
2012/01/15(日) 14:10:21.39ID:+RRuyb8v0495人間七七四年
2012/01/15(日) 19:20:30.79ID:iOK384lB0496人間七七四年
2012/01/16(月) 01:52:28.81ID:C//vCHAb元を辿ればみんなアフリカ武士だし、現状なら今住んでいる場所を名乗るべき
都合の良い期間だけ抜き出す事になんの意味があるんだ
0499人間七七四年
2012/01/19(木) 12:29:25.31ID:e0BvloU5くやしのか?w
しょうがないだろw日本人は三河武士のパシリになるDNAを持っているw
足助重範が豊田から駆けつけてきて、後醍醐天皇軍3000人の総大将とか、三河の足利一族、家康だけじゃないよな
お前ら今(トヨタグループ)も昔もパシリすぎm
0500人間七七四年
2012/01/19(木) 14:03:53.98ID:4iQjCulg北海道・宮城・京都・福岡以外の一流府県は全部愛知県人が
拓いたって思想持ってるけど、
維新の薩長土肥って最近ではどうなってるの?
0501人間七七四年
2012/01/19(木) 14:25:38.71ID:IaW0GfTS0502人間七七四年
2012/01/19(木) 14:59:38.80ID:e0BvloU5なぜ足利氏が、三河守護になれたのか考えた事はないのか?
答えは簡単、元々三河に所縁があってなれたワケだな
足利宗家だけでなく、庶流の足利義清は西尾の矢田に住んで、矢田義清と号した
義清の実の子の一人は初代山名氏の山名義範、嫡男の孫が初代細川氏の細川義季
なんてことはない、細川氏つーのは、祖父の代から三河にいたワケだ
そしてなぜ山名氏が新田氏に従わず、源頼朝足利尊氏側で活動したか理由もわかるね
山名氏とは三河にいた足利一族だからさ
0503人間七七四年
2012/01/19(木) 23:33:50.39ID:sURAieTl元々始皇帝とかも自称したのがはじまりなのに
莫迦の歴史を研究してるようなもんやな。
0505人間七七四年
2012/01/20(金) 23:56:55.60ID:JS2ToUwe1337年 西三河武士団、室町幕府樹立
1603年 西三河武士団、江戸幕府樹立
1937年西三河武士団、トヨタ幕府樹立
2007年 トヨタ幕府世界販売生産世界一
2012年 トヨタ幕府世界販売生産 世界一に返り咲き見込み
実績が違いすぎますわw
0506奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/21(土) 00:42:39.53ID:Zqem7at70507人間七七四年
2012/01/21(土) 11:28:38.38ID:6y9zM1Fe山城同士の定時連絡とかして無かったんだろうか?
俺が国持ちだったら、全ての砦や城に定時連絡便走らせるんだけどなぁ。
あと月例で侍大将以上集めて、自他国一般情勢の勉強会開いて情報共有すると思う。
0509人間七七四年
2012/01/21(土) 17:29:42.27ID:gTUJ8BJp言ってみただけじゃないだろうな
過去を遡って、社会増を調べあげるぞ
俺をナメるなよ
0510人間七七四年
2012/01/21(土) 19:25:20.86ID:gaUVTqb3http://music.geocities.jp/jphope21/0204/43/289_2.html
最終的な決着がないのが、徳川の戦い方だ。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p006.html )
0511人間七七四年
2012/01/22(日) 04:21:41.12ID:htXS+fOrマニフェスト、イギリスで始まりました。
ルールがあるんです。
書いてあることは命懸けで実行する。
書いてないことはやらないんです。
それがルールです
0512人間七七四年
2012/01/24(火) 19:24:12.62ID:FBhiMiSH0513人間七七四年
2012/01/24(火) 19:51:27.73ID:K1hkmYiO0514人間七七四年
2012/01/24(火) 19:59:25.58ID:otZt8YKr0515人間七七四年
2012/01/24(火) 20:30:47.05ID:fCxKwPbf0516人間七七四年
2012/01/24(火) 20:55:15.59ID:K1hkmYiO0517人間七七四年
2012/01/24(火) 20:55:30.19ID:tR2JMIjm家康は多趣味
0518人間七七四年
2012/01/24(火) 21:03:31.61ID:avYeXohE城塞読め、城塞
お前なら切腹して果てるよ
0522人間七七四年
2012/01/24(火) 23:47:35.57ID:mzQI3Qnn普及したのは木版本だから、家康の活版が直接原因では
無いと思う。
太平が続いて、庶民が教養や娯楽に時間を取れるように
なったのが大きいんじゃないかと。
0525人間七七四年
2012/01/25(水) 09:31:44.98ID:YKPMF4uK明治に入ったあと公的な支援がなくなっとの洋化政策によって結構苦労してる
0526人間七七四年
2012/01/25(水) 10:58:11.34ID:iG9gKRoO0527人間七七四年
2012/01/25(水) 11:12:12.46ID:YKPMF4uK室町末期に日本でルールが大幅に改正されて当たらし物好きの戦国大名の間で一大ブームが巻き起こり、近代囲碁が成立する
おそらく、大陸は逆輸入したんだろうね
大衆レベルでは旧ルールでやってるかもしれんけど
0528人間七七四年
2012/01/25(水) 11:50:36.76ID:FJ7tLMYI中国と日本が盗んで自国の文化と主張してるだけ
0529人間七七四年
2012/01/25(水) 15:44:51.27ID:jAfBfd28今年は初代大橋宗桂名人から記念すべき400年。
あ、将棋ね。
その年にコンピューターに負けるというのもなんだが・・
とりあえず家康さまには感謝しないといけないわな〜。
0531人間七七四年
2012/01/26(木) 00:42:29.85ID:Xhfod5dkみると当時から「識字率」は相当にあったはずというのが
普通だろうな。
でないといきなり江戸で全国に普及すると言うのは
なかなか説明に苦しむ。
昔はひまだから今より普通にカナぐらいは覚えてただろうし。
0533人間七七四年
2012/01/26(木) 15:39:16.57ID:f91n20Ygそんなことを言ったら、
公文書がきっちりのこってる20世紀初頭のヨーロッパの識字率は100%近くないとおかしいけど、
実際は30%くらいだったとか
史料があるからと言って即識字率には結びつかない
史料ってのはだいたい学識のある層がつくるものだから
0534人間七七四年
2012/01/26(木) 15:45:12.49ID:Ayo58s3g戦火で喪失しなくなったというのが大きいな 火事はあったけど
0535人間七七四年
2012/01/26(木) 16:04:10.43ID:PnCjoog7なので平安としたのだけど、地方の寺なんかに
庶民の名前がたくさんあって書いたのは字がわかる
お坊さんだろうけどひらがなや漢字もいっぱいあって
当然庶民も自分の名前、つまりカナぐらいは判別
できてただろうとは歴史と言うか言語のほうの専門家が言ってる。
歴史の方だと史料中心主義で「それは推測」と認めてないが
江戸の前段階でもある程度はあったろうという話ね。
将棋の駒もそうだが一番古いのは貴族の屋敷や寺社だが
江戸期にあんだけの漢字のゲームが一気に普及するというのも
それまでにある程度の知識はあったかと。
当然「あれは単に記号だよ」と言うだろうが川柳なんか見ても
普通に読み書きパロってるし。
%の話はよくわからないが、各階級によって違うから
あれだけど庶民でも3〜50%ぐらいはあったじゃないかな。
そして平安から400年かけてだんだんあがってきて江戸になると。
0537人間七七四年
2012/01/26(木) 23:31:46.14ID:xbDYrh5Fインコは文意把握して喋ってるわけじゃあるめえ
今の小学生と意思疎通はできるが、文語文かけっていってどれだけの人間が正確なもの書けるよ
0538人間七七四年
2012/01/26(木) 23:41:50.26ID:aclcThAl江戸時代に極て高い識字率があったのは間違いないが、別に義務教育があったわけではなく
民間に学問をする風習があったのが要因なわけで、それがいつ頃から普及したのかが分からないと何とも言えん
まあ、小作人まで読み書きが出来たとは思えないけど
公家、武家、神官、僧侶、商家あたりは100%に近い数字で
百姓は富裕層が中心だったろうと思う
0539人間七七四年
2012/01/26(木) 23:47:59.00ID:PnCjoog7物証があるんだけどそっから説明しないといけないのか。
お寺の記録なんかは江戸にも直結するから比較しやすい
だろうと思って例にしたんだけどさ。
平安から残る文字が上級貴族だけに使われてて
庶民には普及して無かったとかいう主張ならそれはそれでいいけど
それはそれで笑われるぞ。
単にからんでるだけの子供ならいいだろうけど。
0540人間七七四年
2012/01/27(金) 00:00:05.02ID:jRdm+upJ室町だが、高野山が守護への苦情があったら提出しなさいと言うと
かなりたくさん集まったと記録がある。
まとめた正式な訴状なんかはお坊さんが書いたんだろうけど
各荘民が「うちはこんだけボッタくられた」とかいうのは
普通は庶民がメモ程度とはいえ提出したということだろう。
そういう部分的な例から識字率とかは判定しようが無いが
カナぐらいはある程度は普及していたんだろう。
また守護が「遅れたからあんた2割り増し」なんて文書も
あるがこれはちゃんと「読めた」ということだろう。
江戸に詳しいのならその連続性からその前段階でもそれなりに
普及はしていたというのは理解してもらえるはずなんだけどね。
0541人間七七四年
2012/01/27(金) 00:48:58.67ID:AhMTkxv0一揆起こすような連中・層はそれなりに読み書きは出来ただろうな
村の名士みたいなのが文言書いて後は当て字で署名程度だろうけど
>>539
中身ねえな
要約すると「俺はこう思う!それに反論するお前は恥かしい!」
ナンダコレ
>>540
憶測じゃん
文字が理解できるごく一部に充てて書いて証拠とし、それをその理解できるやつらが理解できないやつに読み聞かせろ
こうも解釈できらあな
0544人間七七四年
2012/01/27(金) 13:45:28.84ID:EMoNY9Sb俳諧、とか風俗の方でもいいからさ。
543に言っておくが、お寺の記録の中に庶民が
書いたと思われるのく見られるのもあるという話ね。
541もだが、当て字、じゃなくてカナが多い、と言ってるでしょう。
「だろう」ってそちらの方が推測になってるしさ・・
結局中世史料を見たことも無くて誤読して
レスされても困る。
ちゃんと「中世庶民はカナも読めない」という
主張をされるならそういう具体例を頼む。
0545人間七七四年
2012/01/27(金) 18:26:42.29ID:AhMTkxv0説明できないならレスしなきゃいいのに
541は結論として憶測してるけど、>>540は憶測を基に自説を展開してる
違いぐらい分かるよな?
0546人間七七四年
2012/01/27(金) 19:18:09.93ID:HD992qgQ無かったことの証明はできない
あったと主張するがわが証明をするべき
それと庶民つっても、
支配階級、つまり庄屋や土豪、地侍あたりは読み書きできても不思議じゃない(出来なくても不思議ではないけど)が、
水飲み百姓なんかがが読めたのかってのが主眼
そこらへんが読み書き出来ないと識字率は上がらないから
庶民庶民というけど、そこら辺の区別がついての発言?
どうも庶民(百姓)で一括りにしてるけど、庶民にもはっきりと差はあるんだよ
今みたいに平等なんてない時代なんだから
0547人間七七四年
2012/01/27(金) 19:26:17.79ID:E5yxtFmT0548人間七七四年
2012/01/27(金) 20:24:43.39ID:MtCBk1Ln0549人間七七四年
2012/01/27(金) 22:21:24.19ID:AhMTkxv0その辺だよなー
紙も当時高価なのに、庶民に簡単に手に入るものじゃない
紙を用意できる時点でそれなりの余裕がある、つまり上層の人間
勿論底辺層が簡単に紙を用意できたというならそれはそれで面白い発想だ
0550人間七七四年
2012/01/28(土) 00:58:02.83ID:Jswoz5kT登るは遅く、こければ一気に転げ落ちてゆく如し
さればゆえ油断大敵身のほどを知れ
0551奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/28(土) 01:02:36.20ID:CRh4Be670552人間七七四年
2012/01/28(土) 01:10:38.13ID:R7bnG1KJ足軽として最前線で戦ってたし、口論から人を斬り殺したりしてるけど、
家康公って自分自身の手で人を斬り殺したことがあるのかなあ
0553人間七七四年
2012/01/28(土) 01:20:19.93ID:Jswoz5kTポジション的に一番神経疲れそう
現代でも過労死するの中間管理職だろ
0554奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/28(土) 01:25:00.37ID:CRh4Be67組織に属さない体の金持ち。
「お大尽」てヤツさ。
0555人間七七四年
2012/01/28(土) 02:01:46.37ID:5iani2ip家康お気に入りの鷹に怪我させた小姓を切り殺している
関ヶ原でも門奈を切り殺そうとしたし、信長公記でも家康が弓で敵兵を射ったと書いてあるし
結構殺してるんじゃないかな
0556人間七七四年
2012/01/28(土) 02:20:42.76ID:rd1CHHjO0557人間七七四年
2012/01/28(土) 02:22:08.59ID:bXNxI8Mm0558人間七七四年
2012/01/28(土) 03:26:53.16ID:Jswoz5kT0559人間七七四年
2012/01/28(土) 04:02:22.56ID:PyiwX3tJ0560人間七七四年
2012/01/28(土) 09:42:01.21ID:ajI8zyZg油で高温処理する天ぷらは調理法として安全だと思っちゃったんじゃないかな
当時、保存技術が低いから油が悪かったんだろう
好物ってわけでなく豪商から西洋から伝わった珍しい料理なんすよってすすめられたんだっけ
当時の天ぷらはころものついた天ぷらじゃなく
さつま揚げみたいなのとも聞くけど見た客に出せない目の悪い小鯛をすり身にする経済的な調理法だったかもよ
0562武闘派坊主和崎俊哉
2012/01/28(土) 18:46:39.91ID:PyiwX3tJ0564人間七七四年
2012/01/29(日) 00:52:31.07ID:+GnT+Jh2それは人を傷つけるだけのことだ
0565人間七七四年
2012/01/29(日) 12:08:40.37ID:9uATBoeE舶来のオリーブ油で揚げてるから、高価なものであることは間違いないがね。
食が進んだのはいいが、弱ってるところに油っこいものを食べたんで体調悪化、さらに自分で調合した強い薬を使ってさらに悪化という具合。
当時のことだから、胃癌は助からないが、体の衰弱で少し死期が早まったくらいかね。
0566人間七七四年
2012/01/29(日) 12:31:00.79ID:mNneeRuM0567人間七七四年
2012/01/29(日) 15:56:23.01ID:F4hiLJCy0568人間七七四年
2012/01/30(月) 22:50:54.97ID:cnRWdYNmあとはチャンス(近隣大名が死んだとか)が来るまで待ってるイメージだが
誤解してる? 三方が原の事情説は知ってる。
0569奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/30(月) 22:59:38.80ID:2tslDyXI0570人間七七四年
2012/01/30(月) 23:16:57.65ID:xGnKc3dUおれが長年、家康が嫌いだった理由がやっとわかったわw
そういう要領のいい抜け目なさが嫌いだったんだ
0571奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/31(火) 00:14:31.93ID:/HarLBUW信長の弟
秀吉の弟
系図を少し齧って、義理を消せられば、ね。
0573奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/01/31(火) 23:15:30.27ID:Ti9JZwP1長子どうしが夫婦だからさ。フロイスの話こそ全く頭に浮かんでなかったよ。
0575人間七七四年
2012/02/01(水) 10:53:14.48ID:HZq0MDwK0577人間七七四年
2012/02/01(水) 22:36:49.00ID:yuNYQqpT広忠公って、なかなかな大将じゃなかったの?
ヨイショ無しの実績や評価が知りたい。
戸田康光事件の対処しか知らないw
0578人間七七四年
2012/02/02(木) 10:13:10.69ID:LFcKRkyh0579人間七七四年
2012/02/02(木) 10:45:53.91ID:GQjG2ecO清康さんが三河固めて死んだならともかく
なにもかも途中な段階で急にムラマサが来たので死んでしまったわけだすから
敵は敵のままだし半端な味方は確実に離反するしよくて様子見
つぶれなかっただけ立派であろう
0580人間七七四年
2012/02/02(木) 14:41:52.29ID:qbCUk3n4というか今川の庇護を受けるために臣従したから、独立勢力としての松平氏は広忠の代に潰れたと言っていいだろう
0581人間七七四年
2012/02/02(木) 17:02:57.64ID:yh9FT/Oi今川氏は松平氏権力の解体・再編を断念し、松平宗家を利用して三河の在地支配を行っていた。
そしてこのことは、松平氏が国人一揆機構から脱却し、すでに家康以前から戦国大名への道を歩み始めていたことの証左である
0582人間七七四年
2012/02/02(木) 18:14:11.38ID:cwjl2fC+0583人間七七四年
2012/02/02(木) 19:50:00.22ID:chD3qcQG今だと無理だろうな。
0584人間七七四年
2012/02/02(木) 20:11:59.49ID:eZExZRG40585人間七七四年
2012/02/02(木) 20:46:04.22ID:chD3qcQG性格的には内向的じゃん。
いや、いろんな書物を読んだ上での話だがら、
0586人間七七四年
2012/02/02(木) 21:06:52.58ID:C0Oa9V6g0587人間七七四年
2012/02/02(木) 21:27:53.10ID:eZExZRG40588人間七七四年
2012/02/04(土) 09:17:20.14ID:0L12DjZI外面はかなり良い
0589人間七七四年
2012/02/04(土) 09:22:38.44ID:v4AHn37T0590人間七七四年
2012/02/04(土) 13:46:01.24ID:bdSl+PrD他の大名と比べたら徳川の扱いは酷すぎる
みんな冷や飯食らいだし
0591人間七七四年
2012/02/04(土) 15:19:36.90ID:FCwRINLX0592人間七七四年
2012/02/04(土) 15:53:37.44ID:0wovavSQ慎ましい生活が時代の最先端だよな。
つくづく参考になる組織理論だ。
0593人間七七四年
2012/02/04(土) 15:57:08.90ID:/s1h9LL3性格や思考が垣間見える面白い書状、もっと言えば稚気のあるものが多いけど、
家康に関してはあんまりそういうの思いつかない
そういうのが内向的イメージに寄与してるんだろうね
家康自身が意識的にそういう感情とかを表に出さないようにしてたような気がする
0594人間七七四年
2012/02/04(土) 18:12:20.99ID:xjXTQBVGそれに信長・秀吉死後の織豊政権やお家騒動の時の最上とか、幕末の伊達を見ればわかるけど、
家臣が力を持ちすぎるとトップの抑えが利かなくなって暴走してまとまりがなくなる
それを御しきれるカリスマが大名にあればいいけど、そうでない人もなるわけで
権力と実力を分離するのは長期政権を作る上でいい方法
0596あ
2012/02/05(日) 01:06:16.15ID:2A27On/00597人間七七四年
2012/02/05(日) 02:02:15.52ID:TW8MBmo5徳川家はすごくまとまってたけど背かれたことがないことはないんじゃね?
武田信玄最後の遠征のときは多くの武将が武田がわに寝返った気がする
いやまてよ あーゆーのは謀反とは言わねーな
0598人間七七四年
2012/02/05(日) 02:40:54.20ID:AcWh6lWI国人連中は徳川家に限らず強い方につくからなあ・・・
あんまり参考にはならんかと
石川一益の出奔も、謀反ってレベルじゃないしね
0599人間七七四年
2012/02/05(日) 02:57:46.49ID:9pjTwLqw0600人間七七四年
2012/02/05(日) 03:03:00.21ID:TW8MBmo5もともと外様というよりはほとんど他人だもんなあ
謀反っていうからには何年かはしっかり徳川家臣じゃないとな
そうなるとほんと少ないな ぱっと出てこない
0601か
2012/02/05(日) 03:49:29.66ID:2A27On/00602人間七七四年
2012/02/05(日) 09:33:51.60ID:fX6ihF9W・外様の鞍替えは除外
・譜代でも謀反前に露見したら除外
・譜代でも出奔は除外
こんな感じで除外しまくったら大抵の棟梁は謀反なしじゃねいの
>>595
?
0603人間七七四年
2012/02/05(日) 15:29:36.47ID:AcWh6lWI国人ってのはそれだけ微妙な立ち位置の存在だから
0604人間七七四年
2012/02/05(日) 16:28:32.26ID:e1ANrGYp大賀弥四郎だけになら無いか?
処罰されなかった?石川数正はイマイチ不明だけどw
0605人間七七四年
2012/02/05(日) 16:29:06.11ID:TW8MBmo5まだ十代の血気にはやる若者が、織田に土下座する父を追放して
独立しようと企み、武田とひそかに連絡をとってたのがバレたのかもしれない
信長公が他家の跡継ぎのデキがいいから腹切らせたなんて変だ
0606人間七七四年
2012/02/05(日) 18:45:51.78ID:pYhoxd1P経済力も申し分ない
0607あ
2012/02/05(日) 20:38:05.86ID:2A27On/00608人間七七四年
2012/02/05(日) 21:33:07.50ID:AcWh6lWI0609人間七七四年
2012/02/06(月) 00:29:15.46ID:+LF6m6A20610人間七七四年
2012/02/06(月) 00:43:51.20ID:wMEx+djS0611人間七七四年
2012/02/06(月) 00:54:59.32ID:kYZStvVr0612人間七七四年
2012/02/06(月) 01:13:45.20ID:Y4RwHLR9本多正信、正純親子は徳川家にもっとも貢献したとも言われる大久保家を
蹴落として恨みを買われてたんじゃないだろうか 大久保家を中心に
武闘派が巻き返しをはかって吊り天井事件が起きたのでは・・・
0613人間七七四年
2012/02/06(月) 09:42:42.09ID:MLSXUNRB0614人間七七四年
2012/02/06(月) 10:39:15.84ID:QkLtNqz00615人間七七四年
2012/02/06(月) 15:55:16.82ID:p83URBFm防止できる組織体制敷けなかったって事か?
0616人間七七四年
2012/02/06(月) 17:13:40.64ID:kPYWzWNb不正は常に不正ではない
昨日合法今日違法そういうこともある
0617K
2012/02/06(月) 18:37:27.56ID:3/UrInEQこれを観ないでいろいろ言っても、しょうがないと思います!
↓
http://www.youtube.com/user/amenouzumei#g/u
(真実のエッセンスが上手くまとめられています。)
ネット上では、「9.11」「アラブの春」「真珠湾攻撃」「南京大虐殺」「民主党の実態」他、真実は多くの人に知られています ソウル在住の中国人急増、地元住民と対立も(11 が、
政治、戦争歴史、マスコミ、教科書、宗教、医療業界、警察、司法・・・
これらが見事に世界規模でシステム化され、国民は完璧に洗脳されて来ました。
真の情報を得られるのは、インターネットとほんの一部の書籍のみ。
アメリカ人は既に気づきはじめました。
このシリーズの内容は、みごとに集約されています。
初めて観る方にとっては、最初のうちは「100%ウソに決まってる!」と言って観ることを止めるでしょう。
でも、決して観るのを止めないでください!!(お願いします。)
否定するなら、最後 (上級編)まですべて観てから否定してください。
否定は出来ないはずです。
これらの周辺の関連動画も片っ端から観ることをお勧めします。
みなさん、日本が、世界が、幸せになることは、共通の願いなのではないでしょうか。
「自分は知っている!」という先入観は捨てて観ることをお願い致します。
、、、
0618人間七七四年
2012/02/06(月) 18:47:49.16ID:TlmbZZwe本多家改易したのって、正純が福島正則のように勝手に改築したからと聞いたんだが
あとお江が寝込んだことにしようとかいうけど、その時期お江さん本当に寝込んでいたようだからね
正妻見舞いがてら一度帰って、また日を改めて行くつもりだったとか?
0619あ
2012/02/06(月) 19:42:42.74ID:R/CqpGjm0620人間七七四年
2012/02/06(月) 22:30:59.48ID:kV383DW0幸い秀忠も家光も堅実に統治していたから大事には至らなかったが
0621人間七七四年
2012/02/07(火) 15:00:00.72ID:K+f70Zya危険な2〜3代がのりきったというのはたいしたもんだ。
無能だからよかった、なんてヒネた言い方もあるが偉大な
初代の遺言?を忠実にこなすというのもまた重大な役目
だろうしな。
清盛、頼朝見てると本当に思うわ。
0622猿飛佐助
2012/02/07(火) 15:13:14.55ID:sVv91E0v0623義経
2012/02/07(火) 15:44:10.14ID:sVv91E0vもう、いやんになる。
北条討つべし!!!
0624人間七七四年
2012/02/07(火) 19:51:09.30ID:NR+s8j0ahttp://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/category23-0.html
0625ら
2012/02/09(木) 19:39:31.31ID:/hbxgCBH0626人間七七四年
2012/02/09(木) 20:01:32.69ID:09SODPLT忠輝は100万石近い大封をもってたのにぜんぶとられて坊主になったんだから、
そりゃかなりはっきりした証拠が出ちゃったんじゃないかなあ それで観念した
もしハメられたとしたなら、忠輝にはハメた相手がわかってたはずだし、
キレて殺害してたと思います
0627人間七七四年
2012/02/09(木) 23:28:08.42ID:LAf/QN34武将としては恐ろしい方が良くないか?
信康がフラッシュバックしたのだろうか?
って事はやっぱり信康は謀反かw
0628人間七七四年
2012/02/09(木) 23:35:33.59ID:wc0oGUxS話があるね。
それが本心かどうかは別の話だけど
ケイタイも無い時代だし、つるんで、ってのは
かなりあれじゃないかなぁ。
0629人間七七四年
2012/02/10(金) 00:45:24.54ID:oPAuKuEpこのあたりを秀吉が織田家に対してやった事と比較すると明らかに家康って豊臣家を残そうとぎりぎりまでねばったんだなあというのがわかる。
0630人間七七四年
2012/02/10(金) 01:49:12.51ID:/ISq3aTy・母方の曾祖父藤原季兼は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
■三河国高橋荘・高橋新荘
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(源頼朝を国主とする知行国、国司は頼朝が推挙、当初は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国)
・三河国:源範頼(頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘←三河国司は、頼朝が初めて国主とした推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と知り合う)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(実の父親は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、四男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司、高師直の先祖)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0631人間七七四年
2012/02/10(金) 16:32:47.82ID:kZLGLy97律儀に関してはいいんだけど
豊臣家は滅ぼす気だったとは思うな。
結果論にしろ何でも一番いいタイミングをつかまえてるとこ
なんかはさすがだとは思うわ。
0632人間七七四年
2012/02/10(金) 16:50:53.68ID:Okskupmm徳川がいちゃもんつけてとよく言われてるが
豊臣も徳川にいちゃもんつけてるよね
0633人間七七四年
2012/02/10(金) 17:27:45.55ID:Xw770qHZ江戸開府した前後では割と情勢が不穏でリスクが大きすぎる
千姫輿入れとかをどう見るかだけど、それで取り込めればよしと見るね
でも予想以上に早く上手くことが収まって幕府の権力が固まった
豊臣の諸大名への影響力も目に見えて衰えてきた
しかも豊臣はなんか今でも主筋と思い違いをしてる
今ならいけると決断したのが1614年、と
0634人間七七四年
2012/02/10(金) 18:29:54.08ID:dcFY/7Tu正論での必死な弁解しか思いつかないが、、、
0635人間七七四年
2012/02/10(金) 18:44:54.46ID:CdNApXJu1600年の時点で家康も結構な年齢だったし
0636人間七七四年
2012/02/10(金) 19:28:35.20ID:X4t+NDlc家康としては自分が生きているうちにすべての戦の種を潰すっていう
強い思いがあっただろうね。
豊臣家が健在だったら、家康は豊臣家をないがしろにしている
みたいな理由で戦の大義名分とかにもされかねなかっただろうし。
0637人間七七四年
2012/02/10(金) 20:08:21.70ID:oPAuKuEp豊臣家を屈服させないまま死ぬ可能性が高かったにもかかわらず長い時間をかけて豊臣家の天下を諦めさせようとしたのがわかる
それに比べると秀吉はしずがたけの戦いのあと速効で信考とその母親を殺し、天下を統一した数か月後信雄の領土を、転封に難色をしめしたという理由だけでほとんど没収している。
自分をとりたててくれた恩家を速効でつぶした秀吉と、長い時間を与え転封も人質も断り続けた豊臣家を優遇しつづけた家康。
この二人を比べると家康以上に天下をとってなお豊臣家を長く存続させる事ができた武将はほかにいないと思う。
もちろん秀吉が悪辣だったのではなく家康が戦国武将としては異常に律儀だっただけで。
0638人間七七四年
2012/02/10(金) 20:44:18.00ID:YoYaJi9Z秀吉だって完全無力の織田秀信はそこそこ厚遇してたで
0639人間七七四年
2012/02/10(金) 20:58:13.62ID:SQjUYVlv秀吉も自身が攻め込まれた訳じゃなく、先制攻撃して抹殺してるから
自衛じゃなくて100%簒奪だな。
0640人間七七四年
2012/02/11(土) 01:24:38.47ID:1wMw6gRA殺らなければ殺られていたのは家康も同じ
天下を統一した後小牧の戦いですでに旧織田家にみはなされていることがはっきりしていて危険性がほぼ無い信雄を改易したのは
改易もしくは反抗した信雄を殺しても反発する大名がいないという確信があったからでは?ちなみに改易後の織田一族の総石高は30万石程度
対して家康は織田家と違い天下を統一した為遥かに危険性が高い豊臣家を65万石の大名として十数年優遇し続けた。
そもそも秀吉の場合は信長の血族がたくさんいた為一人や二人殺しても彼の血族が絶えることが無いため旧主の一族を根絶やしにしたという悪名をかぶらずに済んだ。またその必要もなかった
対して家康は秀頼が背けば当然彼と徳川を恨むであろうその子供を殺さざるを得ない。これが問題で反乱した秀頼の直系を断つことは秀吉の血筋を根絶やしにした事になってしまう。
つまり秀吉は織田家の血筋を根絶やしにしなかったのに{そもそも必要無いし血族が多くて不可能だが}家康は根絶やしにした悪い奴だということになる。
もし秀吉の息子がたくさんいたら秀頼の直系を断ってもほかの血族がいるかぎり秀吉の血筋を根絶やしにしたという悪名を負うことわなかったが
結局秀頼は背き、彼の血筋のみを絶った事が秀吉の血を根絶やしにした、家康はインケンだ、それにくらべて秀吉は織田の血筋を根絶やしにしなかったいい奴という評価になった。
やったことは同じなのに。
0641人間七七四年
2012/02/11(土) 08:26:39.02ID:wM9NW8tkこれが何を意味するのか理解してないとか馬鹿すぎるだろ。
0642人間七七四年
2012/02/11(土) 08:57:18.06ID:56ILJWVU0643人間七七四年
2012/02/11(土) 10:28:46.14ID:qqfrT6+T本気で幕府側に勝てると思ってたんかね
0645人間七七四年
2012/02/11(土) 11:54:13.70ID:9qgbkYpT0646人間七七四年
2012/02/11(土) 12:51:50.67ID:2lXKIZAU転封自体が滅多くあることではなかったし
問答無用で大名を取り潰せる強大な権力も日本史上で初だった
0648人間七七四年
2012/02/11(土) 14:50:33.23ID:8WEShukz■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
・三河国:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河国:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模国:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総国:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃国:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後国:安田義資(甲斐源氏)
・伊予国:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0649人間七七四年
2012/02/11(土) 15:23:09.39ID:vnvJ7ix3あれだけ反抗的な豊臣を死の直前にやっと潰すくらいだから、
豊臣がもうちょっと上手く立ち回れば潰されずに済んだんじゃね?
0650人間七七四年
2012/02/11(土) 15:29:28.93ID:9Y5pPVE/一覧載ってるとこないかな
0651人間七七四年
2012/02/11(土) 15:50:36.52ID:8WEShukz■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、頼朝と幼なじみ)の娘)←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(実務を司る役所、室町幕府の管領にあたる)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・執事:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0653人間七七四年
2012/02/11(土) 16:55:56.86ID:fS7lhYccずっとチャンスをうかがってたとは思うな。
最初という意味だと関が原より前から狙ってたようには
思うけど心に1%ぐらいはあったろうぐらいしか言えないか。
転封というのも栄転と左遷があるから時期と場合によって
違うのを単純化しては語れないわな。
それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。
0654人間七七四年
2012/02/11(土) 18:46:46.68ID:1wMw6gRA0655人間七七四年
2012/02/12(日) 00:29:32.17ID:HtOmF7eR■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0656人間七七四年
2012/02/12(日) 01:13:48.24ID:uqA0Bjsb>それより信孝を殺したのは秀吉ということでいいんかね。
>しばらく前は「それは信雄」、秀吉は織田家簒奪なんかしてない
>というのがワラワラわいてて話が先に進まなかったもんだが。
史料では信雄でFA
「話が先に進まなかった」って、単純に
貴方が望むような歴史的事実がなかったというだけの話
0658人間七七四年
2012/02/12(日) 02:09:29.95ID:JkXLWJjj秀吉を恨みながら死んだことだけは確か
もっとも秀吉厨は贋作だと言うだろうが
0659人間七七四年
2012/02/12(日) 02:24:04.23ID:uqA0Bjsb一度秀吉と敵対して敗北、母親と娘を人質に出して降伏しているのに
更に秀吉打倒の兵を挙げるなんて畜生のすること
そもそも信孝が秀吉の主君だったことなど一度もないのに
「主を討つ身の」なんて言ってるのは如何にも勘違いの信孝らしい
ちなみに信孝辞世の句の出典は『川角太閤記』
真贋は定かでないが、信孝個人の名誉としては
上述の理由からむしろ贋作であったほうがマシな出来
0660人間七七四年
2012/02/12(日) 09:07:38.05ID:OgRvWGCo別にどうでもいいが、オヤジが生きてた時には
ヘイコラしてたのに、死んだら豹変、というのは
逆恨みと言う言い方もあるだろうが、「主家に対して
ひでぇなぁ」てとこだろう。
一緒に光秀やっつけるあたりまでは、忠臣モード
だったのにいつのまにやらだもんな。
0661人間七七四年
2012/02/12(日) 09:33:33.22ID:OgRvWGCo「わからない」「確認できない」とはいえるが
「事実は無かった」とまではいえないだろう。
「史料にあることは100%事実」としても「ないことは事実としてない」
とまでいうのはそれこそ論理の飛躍と言うかね。
史料中心主義というのはこの「ある」の反対概念を「ない」と
してしまうところに特徴がある。
あくまで史料上「確認できるーできない」としかいえない事を
「事実としてあるーない」というところに変換または飛躍させてしまってるわけだ。
つまり歴史学の一端としての「史料解釈」という方法論を
「歴史学の目的ー結論」にしてしまってるというか。
同じ中世でも様々な解釈や論点が展開されてるんだが
この織豊期というのは特に「信雄が切腹命令出した、はいおしまい」
「100%事実はいおしまい」とね。
もちろんそうなんだがこの結論から逆算して他の事象を
語るからまたおかしくなってくる。
0662人間七七四年
2012/02/12(日) 10:26:39.70ID:SVhvQz8Eしかも他の事実が史料で存在するのに
史料に存在しない事を事実だとするなんて妄想以外の何物でもない。
0663人間七七四年
2012/02/12(日) 14:20:54.95ID:UA8ZBRuR向こうで黒幕説でもいってろw
0664人間七七四年
2012/02/12(日) 14:39:01.49ID:LE3QXOjf多分同一人物。
同じスレで同じことを二度も言われるとは懲りてないというか。
0665人間七七四年
2012/02/12(日) 16:41:36.67ID:HtOmF7eR■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0666人間七七四年
2012/02/12(日) 22:02:18.35ID:PzwKuHGA0667人間七七四年
2012/02/13(月) 11:40:16.72ID:hQjQL0M6徳川譜代や江戸初期の大名で家が上につくのはみんな家康の偏諱だろう
0668人間七七四年
2012/02/13(月) 12:07:50.94ID:UVhkCSzYてのは当時の大名たちみんな思ってただろう
清正だって文句あるなら兵隊集めて徳川を攻めろって福島に言ったくらいだし
大体秀吉も自分がやったことをやり返される認識があるなら
秀頼と淀にめろめろになったり海外出兵や派手なパフォーマンスしてる暇あったら
家康みたいに自分が死んでも磐石なくらい組織固めればよかったのに
ライバルだった家康に頼る時点でダメ
0669人間七七四年
2012/02/13(月) 12:14:17.99ID:wE+Wx8R6本来なら三成らがうまくやるべきだったんだろうけど
家康公はきちんと天下を治めてた 淀殿に文句言われる筋合いはない
浪人を何万人も集めて家康が死んだら蜂起じゃーとか言ってたら
潰されて当たり前だよ
0670人間七七四年
2012/02/13(月) 19:59:46.72ID:YCEAq60Gたしか上洛?か、淀を人質にだすか、転封か、浪人放出するかのどれか一つを選べだった。
これを無理難題とは言えないだろう。最初から条件をのまさせないつもりなら全て受け入れろと言うはずだし。
家康の年を考えるとこのわぼくは自分で秀頼を潰す最後のチャンスを家康自身が潰そうとしているような物だから本気でわぼくしようと考えたとしか思えないだが?
0671人間七七四年
2012/02/13(月) 20:32:52.62ID:sIyVbZvx■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
三河国高橋荘
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、惟康は後に駿河に移住初代大森氏に、小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
三河国高橋新荘
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏)の室)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0672人間七七四年
2012/02/13(月) 21:35:52.84ID:7GPTeHui征夷大将軍に就任するつもりだったのかな
0673人間七七四年
2012/02/13(月) 21:37:27.26ID:rs6ZZaVRただ、後世に悪名を遺すのは確実だし、
大坂城のような巨大な要塞を落とすには桁違いのエネルギーが要るから一筋縄ではいかないと見ていた
大坂でも家康にもうそんなパワーは残っていないと高を括っていた
ところがすべての予測を裏切るほど家康のエネルギーが底なしだったということ
0674人間七七四年
2012/02/13(月) 21:38:40.58ID:4cvYdDANいやそれはもう無理難題だよ
豊臣家がどう思おうと、浪人衆が絶対に納得しない
どうにかしようとするなら、豊臣家が大坂城から逃げ出して家康に保護を求めるしか無いくらいに絶望的状況
0675人間七七四年
2012/02/13(月) 23:02:32.26ID:TLfm7orXだから他に”普通の”大名だって事を示す方法があれば、それでよかったんじゃね
0676人間七七四年
2012/02/13(月) 23:13:24.71ID:sIyVbZvx■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0677人間七七四年
2012/02/14(火) 01:20:39.92ID:NV3nauiNまあ、浪人を大阪城に入れたことで詰んだということだね。幕府に武力で歯向かおうとすれば、誰であれ、潰される。
それが分からぬ大うつけが、大阪を仕切っていたのが不幸だった。
0678人間七七四年
2012/02/14(火) 04:02:13.11ID:T6EtWkT9下手したら秀頼が討ち取られ兼ねんw
0679人間七七四年
2012/02/14(火) 18:22:32.52ID:USEtIzxS大野兄弟あたりは、大野兄弟が片桐且元にしたような感じになると思う
良くて追放、悪くて梟首
浪人衆が居なければ670の言う条件、
つまり淀殿を人質に出すとか転封を受けるとか、やれたと思う
本当にアイツら忠義面した大不忠者だよ
0680人間七七四年
2012/02/14(火) 19:16:45.04ID:1KK5dxkf兄弟でも治長と治房とではかなりスタンスが違うようだけど、まあ治長は且元みたく
なっちゃうかもしれないな(実際襲われているしね)。
0681人間七七四年
2012/02/14(火) 22:50:04.98ID:mRu7qSHU■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられている
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0682人間七七四年
2012/02/15(水) 10:08:46.91ID:CAmZUjrF0685人間七七四年
2012/02/18(土) 07:04:16.24ID:NhyckgaC少しづつ修正しているね
同じに見えるのは、君の出来が悪いからだ
0686人間七七四年
2012/02/18(土) 15:12:42.12ID:9pfoGZnm牢人の解雇は大坂の陣の後だな。
方広寺鐘銘事件の時の条件は秀頼の参勤か淀の人質、大坂からの移封のどれかだな。
要は家臣になれって事。
三箇条誓詞提出に際しても豊臣家は対象外で、徳川政権の枠組みの外の存在。
何の理由も無いのに本来主家である豊臣家に家臣になれとは言えないけど、
徳川に対して敵意があるのであれば、安全策として臣従させるというのは理に適うと言えなくも無い。
0687人間七七四年
2012/02/18(土) 15:57:06.00ID:bQpCaY920688戸浦六宏の大野治長
2012/02/18(土) 16:21:51.34ID:eC/ZtWbu0689人間七七四年
2012/02/18(土) 20:33:36.35ID:NhyckgaC室町幕府だけでなく鎌倉幕府も三河色が強いのが判明した
以後は源頼朝、足利尊氏、徳川家康の3将軍とトヨタグループ語るスレにする
えーな
0690人間七七四年
2012/02/19(日) 01:15:20.33ID:brRf/CJiもちろん徳川話も
0691人間七七四年
2012/02/19(日) 18:49:18.76ID:TaS4ge46民法BSの話されても、仕組自体分からんwww
0692人間七七四年
2012/02/20(月) 09:32:39.28ID:Qt4nt184という妄想に一定の解決案を思い付いたぞ!
確かにスマホその他の証拠は持って居ないかも知れないが
お前らだって歯に詰め物くらいはしてるだろう?
これを見せれば家康公も納得だw
0694人間七七四年
2012/02/20(月) 20:12:01.64ID:7GaM2eAoアナログが終わるまでデジタルなんていらねーと粋がってた俺がヒント
もっと早くBSをデジ化しとけばよかった(´・ω・`)
0695人間七七四年
2012/02/20(月) 22:36:12.81ID:G8DkWrOhヴェリトスってペーターとマルティンのどっちが兄なんだ?
あと何となくペーターの方が目立つ機会多くいないか?
0696人間七七四年
2012/02/20(月) 22:37:43.38ID:G8DkWrOh家康公ごめんなさい
0697人間七七四年
2012/02/21(火) 21:26:32.01ID:cQOCYfLeにほん風景遺産 「静岡 歴史旅 家康を歩く」
もう半分来ちゃった
0698人間七七四年
2012/02/25(土) 17:31:30.99ID:jfH4NLI0で結局、外圧を契機に無力を曝け出して信を失い、大政奉還するハメだ。
やはり天皇超えを本気で目指した為暗殺された足利義満や織田信長の偉大さだけが際立つな。
0699人間七七四年
2012/02/26(日) 01:26:53.55ID:Z0ixqxpT0700人間七七四年
2012/02/26(日) 19:46:00.12ID:rKRHv68x「死ぬまで待とう反対派」徳川家康
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/37/251.html
日本の天皇一族は石橋を叩いても渡らない。
「子ども」、「子ども」と東京政府が大声で叫ぶ理由には、
この考えがしみついている。
そもそも、「敬老の日」は老人を敬う日ではない。
老人の名を借りた、「徳川家康記念日」だった。
0701人間七七四年
2012/02/26(日) 21:44:57.38ID:15aieyFV0702人間七七四年
2012/02/28(火) 17:59:15.28ID:PdZpjNgoやっぱ偉大な人だ。
0703人間七七四年
2012/02/29(水) 00:24:43.89ID:QiVFzySo家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
0704人間七七四年
2012/02/29(水) 01:38:45.30ID:RsGv4Pmm何も苦労の無い環境だったら、地方の小大名で人生終わっていたはず。
人生とは長き道を重い荷物を背負い歩くがごとし、、、。
0705人間七七四年
2012/02/29(水) 02:20:14.19ID:PT8OpTkD秀吉はトントン拍子に上り詰めた印象だな
0706人間七七四年
2012/02/29(水) 10:13:05.61ID:WtH4KOO6今川の人質になった筈が、敵方の織田に捕らわれたのは、
どう見ても、どん底だと思うよ。
その境遇から、自力で脱出した訳ではないから差し引いて
考える必要はあるだろうけどね。
0707人間七七四年
2012/02/29(水) 11:30:04.56ID:pZej52Xj0708人間七七四年
2012/02/29(水) 11:58:31.95ID:Rv7QloSy家康や毛利隆元みたいにさ
優秀にしかも自家シンパになってくれれば万々歳なんだから
ただ織田に拉致られたのはどん底って言ってもいい
殺されても文句言えないんだから
>>703
>生まれつき武家の棟梁だった家康
???
0709人間七七四年
2012/02/29(水) 12:50:59.82ID:8ruQsIn0褒美貰ってお仕舞い?
0711人間七七四年
2012/02/29(水) 20:25:56.61ID:QiVFzySo家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
0712人間七七四年
2012/03/01(木) 09:22:27.22ID:ynHneSwQ松平宗家と言っても、家康が生まれた頃は義元の庇護を受けて
ようやく岡崎に戻れた頃だぜ。
とても三河武士の旗頭とは言えんわな。
0715人間七七四年
2012/03/01(木) 11:31:45.72ID:ErgybYD/棟梁:《棟と梁は家を支える重要な部分であるところから》
一族・一門の統率者。集団のかしら。頭領。また、一国を支える重職。
三河国最大当主を棟梁が間違いだと言うのなら、
弱肉強食当時の棟梁出せよと思うが?
0716人間七七四年
2012/03/01(木) 11:54:09.68ID:uklEWWGn三河の武家の棟梁ならさもありなんだが
あるいは松平の棟梁
唐突に武家の棟梁って言われたらそりゃ将軍を想起しても不思議じゃないだろ、後年家康がそれになってるだけ余計にな
棟梁だけだと何の棟梁か分からない
武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
だからこの場合三河の武家の棟梁というべきだろ
まあ当時の松平の権力についての問題すっ飛ばして言葉遊びして何か意味あるのって思うが
0717人間七七四年
2012/03/01(木) 12:18:05.71ID:mG8Vjf4kというか当時の清康に対する三河武士の印象は凄まじい物があるのだなと思う
0719人間七七四年
2012/03/01(木) 13:35:58.43ID:85h6CuKJ>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
>家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
な時点で、「あぁ、確かに何十家も束ねる棟梁だもんな」
って合点がいかないのか? 柔軟性足りなくね?
0720人間七七四年
2012/03/01(木) 14:03:24.25ID:oVC5CrV1要は土豪の一族ってとこだもんな。
0721人間七七四年
2012/03/01(木) 14:11:38.92ID:KT3qx73I松平宗家の〜といわれればだれも勘違いしない
読み手の柔軟性よりも勘違いを誘発するような書き方をした奴の修辞力が原因
「武家の棟梁」だけで将軍職を連想するなってほうが無理難題
0723人間七七四年
2012/03/01(木) 15:34:53.99ID:L93gatHS宗家と言っても、森山崩れで落ちぶれた後だしな。
岡崎城でさえ直前まで、同族に横領されてる状態だし
とても棟梁なんて偉い地位ではないよ。
0724人間七七四年
2012/03/01(木) 17:54:20.99ID:lTsbk5B20725人間七七四年
2012/03/01(木) 18:09:30.66ID:djcvaibSまぁ長男だったというのを棟梁みたいに言った
だけでそんなに深い意味はないんでしょ。
ただその時期から天下への意思みたいに言うのはなぁ。
信長が義元倒さなかったら一生人質だったかもだし。
頼朝もそうだったかもだし、行動起こした直後はまともに
やられてるし人の一生というより歴史の転換、人物の誕生というのは
些細で微妙なとこなんだなといつも思う。
0726人間七七四年
2012/03/01(木) 20:53:04.48ID:wj/Y9JLjせいぜい外様大名よりは信用できるってレベルだったように見えるが
0727人間七七四年
2012/03/01(木) 21:43:49.16ID:02cNq0KP家康人質時代の松平家臣は今川によって
家臣団再編をされずに、ほぼそのままの形で残されている
『三河物語』などが恨みがましく伝える、
今川直臣から陪臣であるが故に軽んじられる三河武士の悲哀もこのため
陪臣の身に甘んじた三河武士の苦労は察するに余りあるが、
今川からの離反以降、三河武士を譜代家臣団の中核として
引き継くことができた家康にとっては幸運だったと言える
>>716、721
「武家の棟梁」の意味すら知らずに勝手に勘違いしといて
修辞力に問題がある、とか恥ずかしくないの?
つうか平日の昼間から連レスしといて恥ずかしくないの?
そんなに暇なら日本史用語辞典でも引けば良いのに
0729人間七七四年
2012/03/01(木) 22:15:21.99ID:02cNq0KP小笠原氏もそうだが、徳川家と婚姻関係を結ぶことで幕政で重きをなした譜代も少なくない
0730人間七七四年
2012/03/01(木) 22:43:53.43ID:wj/Y9JLj井伊は別格
奥平もそうかな
個人的には諏訪とか土屋とか三枝とかがどう思われていたのか気になる
0731人間七七四年
2012/03/01(木) 22:44:03.45ID:XJG2StsC鳥居勝商の功績が大きいんじゃないの?
0732人間七七四年
2012/03/01(木) 22:53:46.70ID:mG8Vjf4k0734人間七七四年
2012/03/01(木) 23:13:30.17ID:02cNq0KP>棟梁だけだと何の棟梁か分からない
>武家の棟梁なら武家全体の棟梁、つまり将軍
>三河の棟梁なら三河国という限定された棟梁全般、つまり三河の最大の大工さんでもいいわけだ
皆が職場や学校に行ってる時間に2chでこんな小学生みたいな
レス書いてる人間が人様を詭弁呼ばわりとか
恥ずかしくないの?
0735人間七七四年
2012/03/01(木) 23:21:00.88ID:KT3qx73Iどうでもいいが、大学生は随分前から春休みだよ
ああ、大学行ったことがない人は知らないかもしれないけどさ
0736人間七七四年
2012/03/01(木) 23:40:37.76ID:02cNq0KP書き込み内容の幼稚さと相俟ってますます惨めになるだけなのに
暇なら大学の図書館で徳川家についてちょっとは勉強したら?
『三河物語』や『徳川実紀』みたいな個人で買うと馬鹿高い本が只で読めるよ
まあ君の通ってるレベルの大学では置いてないかもしれないけど
0737人間七七四年
2012/03/02(金) 00:14:59.68ID:Eob4ukAV画面がデコってあるから、PC詳しいのバレバレで
課題作成中の女子学生に
山ほど教えて教えてされまくったw
0738人間七七四年
2012/03/02(金) 00:17:09.27ID:fd6kDmRk0739人間七七四年
2012/03/02(金) 01:18:08.23ID:Sj0dwspD徳川初期だと誰が読みやすいの書いてるかな。
0740人間七七四年
2012/03/02(金) 06:10:15.02ID:wiHrJhMk違和感を持つべきポイントが違いましたね。
戦国時代に「武家」と言ったら足利氏のことなので「武家の棟梁」と言ったら将軍のことですよ。
0741人間七七四年
2012/03/02(金) 10:04:57.97ID:yb8xXehW0742人間七七四年
2012/03/02(金) 10:17:15.16ID:GP7h3QI70743人間七七四年
2012/03/02(金) 16:10:03.02ID:M0XSd9sP相手するだけ無駄だよ
>>741みても”武家の棟梁”から”棟梁”に摩り替えてるし
どうやっても言葉遊びで逃げてうやむや、分が悪くなると国語板でやれとかでうやむや
詭弁を弄して反省しないのは無視が一番
0744人間七七四年
2012/03/02(金) 20:11:51.25ID:8hzKFajkお前だけだろ( ´,_ゝ`)
0745人間七七四年
2012/03/02(金) 20:39:56.35ID:M0XSd9sP0746人間七七四年
2012/03/02(金) 21:17:17.39ID:8hzKFajkどん底からかどうか? って話で
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス
って言ってるのを、将軍じゃないだろ!!とかキチガイにも程があるから
レッテル貼って何が悪いんだよ( ´,_ゝ`)
0748人間七七四年
2012/03/02(金) 21:52:23.96ID:X/VNHb5gむしろ、成功してからの家康には魅力を感じないな。
失敗や苦労が多いのが家康の魅力だ。
0750人間七七四年
2012/03/02(金) 22:04:13.25ID:QfCD01wf有力御家人の惣領だったからね。
まあ、後年、後醍醐天皇や弟との関係で苦労することになるが。
0751人間七七四年
2012/03/02(金) 22:04:55.64ID:jM0SfM+W「詭弁」とか「反省」とか頭おかしいのか
>>740
そうなの?
石井進氏の『中世武士団』では、確かに武士階級が成立した
最初期において源頼信、源頼義、源義家の河内源氏三代が
「武家の棟梁」の称号を独占的に有したとされるけど、
足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
ま、現代の歴史用語としての「武家」は、単純に
鎌倉時代以降の幕府・将軍家・御家人を含めた武士一般の総称なんだけどね
>>742
松平氏は長親清康の頃に戦国大名として三河に確固とした権力基盤を築きあげてますよ
広忠の代に今川氏の庇護下に入り、領国である三河に対する実質的な支配権を喪失するが、
依然三河武士の棟梁たる立場を名目上維持し続け、また庇護者である今川氏からも
彼らの三河支配に益するようにその地位を保全することを期待される存在だったわけで
それは今川氏が松平家臣団の解体を志向しなかったことからも明らか
0753人間七七四年
2012/03/03(土) 02:31:10.26ID:d1/+iNLo0754人間七七四年
2012/03/03(土) 07:34:59.58ID:uLwCquW30755人間七七四年
2012/03/03(土) 08:36:23.85ID:BAFpxZav>一旦の勲功などいふばかりにて、「武家」代々の陪臣の陪臣をあげて高官を授けられ事は、
>朝議の妄りのみならず、身のためも能く慎むべき事とぞ覚え侍る
「足利将軍家」ではなく「公家と対立する武士階級一般の総称」として「武家」と言う用語が使われてる
>>750
武家伝奏なら足利義昭が追放された後の天正三年、
甘露寺庭田勧修寺中山三条西の公卿5人が同職に新たに任命されてるけど
もちろん信長と朝廷との交渉役を期待されて
別に足利将軍家相手じゃなくても「武家」伝奏って言うらしいじゃん
0756人間七七四年
2012/03/03(土) 08:40:34.51ID:8Ka1gYEA誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ。
事実誤認が多すぎる。
最初の文章と、それをフォローしようとした文章を見てみると
--------------
生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
家康を持ち上げようとしてるのかもだけど逆に失礼
家康は生まれたときから三河武士の旗頭である松平宗家の嫡男ですよ
「武家の棟梁」と言っても征夷大将軍だけを指すわけじゃないですからね、念のため
--------------
まず「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例だな。
次に「三河武士の旗頭である松平宗家」は酷い間違い。
当時の広忠は、吉良氏の支援でようやく岡崎を回復した状況で
三河の一土豪でしかも弱小。
平野氏の著作から引用するのも良いけど、ちゃんと理解してから
引用しないと、自分の馬鹿さ加減を晒すだけだよ。
0757人間七七四年
2012/03/03(土) 09:25:36.49ID:uLwCquW3『神皇正統記』は南北朝時代の歴史書(それ以前の歴史を抽象的に記述)であって、
室町時代に足利氏以外を「武家」と呼んだ事例ではないですよね。
>「武家」代々の陪臣の陪臣
ここで言う「武家」は鎌倉殿(将軍)を指していると思いますが・・・。
0758人間七七四年
2012/03/03(土) 09:41:10.63ID:OX2I5gse義昭は京追放されてるし、信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
脇田修もそう指摘してる
京都所司代なんか好例
なんだったら将軍の子供抑えてるから代理として交渉してたのかもな
状況が変わって天下がほぼ織田の手中に帰したのに、いつまでも将軍にこだわるってのは”柔軟性が足りない”んじゃないか?w
0759人間七七四年
2012/03/03(土) 10:19:43.33ID:3uUvVFop0760人間七七四年
2012/03/03(土) 11:58:14.58ID:ecGZPpsh「この荷物宅急便で発送して来て!」ってお願いしたら
「隣の佐川では宅配便しか出せないので、
遠くのヤマト運輸まで行って来ました!!」ってしそうだよな( ´,_ゝ`)
低脳は自分の間違いを認めるのは、自尊心が許さないんだろうなwww
0761人間七七四年
2012/03/03(土) 12:05:16.73ID:ecGZPpsh上位1割に入る城主の嫡男なんだから、
>>家康みたいにどん底から這い上がり天下を取るような人は人類史においても稀。
どん底からかどうか? って話で
>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
その辺の城主よりも更に上のボス(武家の棟梁)って意味が分からんとか
何かの精神障害者じゃないの( ´,_ゝ`)?
0763人間七七四年
2012/03/03(土) 13:06:21.81ID:BAFpxZav「平野氏の著作」って何?
このスレで一体誰が平野氏(誰?)の著作を引用してるの?
戦国時代の三河における松平宗家の立場については既に解説したよね?
誰がどう見ても、頭がおかしいのはお前さんだよ
>>757
『神皇正統記』はその本分である歴史書としては
作者である北畠親房の史観の産物としか言いようがないが
(特に天照大御神とか三種の神器とかの件は顕著)、
室町時代に「武家」という言葉がどう使用されていたかの
典拠としては一次資料そのものですよ
ちなみに引用した部分は俗に「建武中興論」と呼ばれる後醍醐天皇の執政部分の記述で、
親房にとって同時代資料として見ていい
>>758
そうそう
当時の朝廷は柔軟だったから、室町幕府崩壊後の政権執行者として
信長を相手として武家伝奏を任命したわけで
「武家といえば足利将軍家以外認めない(キリッ」とか
馬鹿なこと言わず現実路線で対応してたんだよね
ちなみに信長が将軍の子供抑えたからその名代として交渉した、
という事実は自分の知る限り存在しない
最初から一貫して京都所司代村井貞勝が窓口となっている
0764人間七七四年
2012/03/03(土) 13:53:07.84ID:BAFpxZav既に実例は出してる
逆に「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠が出てない
(もっとも反証を既に挙げている以上、上記論旨は破綻済みだけど)
言っとくけど『二条宴乗日記』に引用されている永禄十三年一月二十三日付織田信長書状のように、
「武家」を「足利将軍家」という意味で使用するケースが
特に同時代の畿内において一般的だったということは当然知ってる
逆に聞くけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
ただやり込められて悔しいから粘着してるだけだよね
0765人間七七四年
2012/03/03(土) 14:28:45.03ID:orSPgyDF0766人間七七四年
2012/03/03(土) 16:34:40.61ID:OX2I5gse両者に共通するのは天下をほぼ手中にしていたこと
つまり武家の代表者であり、棟梁という事
松平タケチヨは・・・?w
だから適切ではない
>>764
どこにでてんだよw
>>751
>足利将軍時代に「武家」が「足利将軍家のみ」を指す呼称だったとは初耳
>不勉強で申し訳ないけどソースお願いできませんか
>>751の論旨は松平に使ってもおかしくないというもの
なんでがソース引用範囲狭めた理由を、ソース求められた側が説明しなきゃならんのだw
言ってる事が二転三転しすぎなんだよ
0767人間七七四年
2012/03/03(土) 16:43:46.92ID:uLwCquW3そもそもこの時期の「三河武士の棟梁」と呼べる存在は吉良氏か今川氏でしょうね。
0768人間七七四年
2012/03/03(土) 16:57:36.39ID:ho1A3f3cそれは文脈読んで解説した>>711 にやり込められてファビョってるお前だけwww
「殿様」ってだけで万石以下の旗本は違う!とか言い出す
お前の柔軟性の低さは精神障害者レベル( ´,_ゝ`)
0769人間七七四年
2012/03/03(土) 17:23:46.28ID:OX2I5gse0770人間七七四年
2012/03/03(土) 18:01:58.19ID:pCMMalS50771人間七七四年
2012/03/03(土) 18:33:06.43ID:ho1A3f3c0772人間七七四年
2012/03/03(土) 23:26:17.52ID:OX2I5gse程度が知れるな
0773人間七七四年
2012/03/03(土) 23:43:28.32ID:BAFpxZavえ、既に出してるけど?
『神皇正統記』の記述と武家伝奏について
特に武家伝奏なんて>>752で挙げたのに
逆に反証に挙げられてどんな気分だった?
織田政権下で武家伝奏が設置されたって知らないのに
武家伝奏云々なんて言うから墓穴掘るんだよ
で、もう一度聞くけど「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?
現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
答えられない、ってことで良いんかな
人様にソース聞くだけ聞いて自分は何も知りませんってそれは話通らないと思うな
0774人間七七四年
2012/03/03(土) 23:47:16.46ID:BAFpxZav>>758
>信長自身が幕府機構を相当程度継承してるだけだろ
>脇田修もそう指摘してる
>京都所司代なんか好例
織田政権の京都所司代は室町幕府の「所司代」とは全く性格が違うし
(前者は天下諸色すなわち京都の政務統括、後者は検断沙汰すなわち刑事事件の検挙断罪)、
室町幕府の所司代が応仁の乱以後廃絶されて100年以上経ってから設置されたもの
どこの「脇田修」が信長の京都所司代が室町幕府由来だって言ってるの?
とりあえず脇田氏の名前出したといたらレスに権威付けできるとでも思ってんすかね
0775人間七七四年
2012/03/04(日) 00:02:42.04ID:uLUYfoesお前が知らないのは確定できた( ´,_ゝ`)
0776人間七七四年
2012/03/04(日) 00:39:05.87ID:W6YBj3gjおいおい今度は改竄か?w
どこに将軍家”のみ”なんてレスがあんだよw
限定したのは>>751、そして>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して>>766はそれを否定してる
なんで>>751と対立する意見の持ち主が>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw
>>774
一緒だなんて言った?
脇田修も知らんのかw
そんな程度なら松平を指して武家の棟梁というかもなw
>>775
ソッスネ
俺が知ってるか否かとお前が知ってるか田舎はまた別だぞw
摩り替えるなよ
0777人間七七四年
2012/03/04(日) 01:09:13.55ID:ODOpgndI>室町時代の一次史料で足利氏以外を「武家」と呼ぶ事例を見たことない
>「武家の棟梁」については、この時代では足利将軍を指すのが通例
こんな書き込みが一杯あったわけだけど、反例挙げられたらちゃぶ台返しっすか
じゃあ「足利将軍家のみに限定されて使用されるわけじゃない」、でFAですね
で、更に繰り返すけど現代の歴史用語として「武家」が「武士階級」という意味で定着してるのに、
敢えて室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな
脇田修氏を知らんのは君の方でしょ
脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として
村井貞勝の京都所司代を挙げるわけがない
だって室町幕府の「所司代」と織田政権の「京都所司代」は殆ど別物だからね
具体的な著書名挙げてみ
0779人間七七四年
2012/03/04(日) 08:20:28.99ID:gJRurbL3”室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題に対して、
”南北朝時代の歴史書(に書かれた鎌倉殿)”
”安土桃山時代の織田信長”
”近現代の歴史用語”
を挙げても反証にはならない。
そもそも鎌倉殿も織田信長もそれぞれの時代では、
室町時代の足利氏に相当する存在だから、
むしろ補強材料になっているような。
そして、清康期に(西)三河最大勢力だったからと言って、
当該時期に今川家の庇護下にあった勢力を「武家の棟梁」
と呼ぶのは、時期が異なるので論拠にならない。
(江戸時代の足利氏を「武家の棟梁」と呼ぶというレベル)
0780人間七七四年
2012/03/04(日) 09:22:18.45ID:W6YBj3gj”柔軟性が足りない”んじゃねえのw
限定してねえじゃん
通例としてる、見たことが無い、いずれも将軍を指している場合が殆どっていってるんじゃん
なんで0か1かでしか判断できないかね、ああ詭弁ですねw
極々まれな例を出して、さらに中間を無視して甲か乙かでわけて選択をせまり、自分に反する指摘は煽ると
限定したのは>>751、そして>>751は松平をさして武家の棟梁といってるやつ
対して>>766はそれを否定してる
なんで>>751と対立する意見の持ち主が>>751の行動の説明をせねばならないのか、論理的に説明しろやw
これについて論理的に説明したら幾らでも答え捻りだしてやるよ、「松平=武家の棟梁論者」のためになw
本当に脇田修知らんのだな・・・
あとね、お前が水戸黄門の印籠のように使ってる>>755だけど、原文あたってないからこれだけで訳すとね
「ちょっと功績があったからと言って、武家代々の家臣の家臣に高い官位を与えるのは、朝廷を軽んじるだけでなく、自身のためにも控えるべきだと思います」
ここで武家を将軍としようが武士一般としようが、対象はかわらんのよw
だから一般化も特定化も出来ない
そして公家と対立させた概念としてるけど、その公家の意味は平家物語から朝廷、乃至天皇を指す
古語辞典にもでてるから引っ張り出してみ
コレと対立させるなら、幕府か将軍だわなw
武家の棟梁を将軍の棟梁もおかしいから、幕府の棟梁が当てはまるだろう
よって武家の棟梁=幕府の棟梁=将軍
そもそも武家が武士一般を指すならその棟梁は将軍以外ありえないんっすけどねw
日本国民のトップといって知事を上げるひとはおらんだろうw
あと>>779の指摘の通りね
なんで織田信長と義昭の共通点あげたか、”柔軟”に理解してほしかったなあw
でえ?三河最大勢力って論証はやくしたらー?w
0781人間七七四年
2012/03/04(日) 10:19:26.01ID:NznuUp3Y↑悪魔の証明で逃げて、対抗勢力のボス出せないお前らの負け( ´,_ゝ`)
>>岡崎松平以上の三河勢力って、具体的にどこがあったの?
>そしてその今川家の庇護を受けてたのが松平家
今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろwww
0782人間七七四年
2012/03/04(日) 10:52:22.79ID:BcNEzkJ20784人間七七四年
2012/03/04(日) 13:11:53.16ID:gJRurbL3>今川家は駿河の勢力で、三河も庇護してただけだろ
という理屈なら
「今川家は駿河の勢力だから、遠江の棟梁も今川家ではない」
ということになってしまうけど大丈夫?
そもそも国単位で区切る意味がわからないけど。
ゲームの仕様ですか?
0785人間七七四年
2012/03/04(日) 13:50:56.99ID:Jctq25KB意図読取れないって言ってんの。
論破されたからって、頑なになり過ぎwww
0786奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/03/04(日) 14:38:26.89ID:hh2DliGZ0787人間七七四年
2012/03/04(日) 16:16:19.92ID:ODOpgndI「“室町時代の「武家の棟梁」は足利氏”という命題」については誰も否定してないと思いますよ
「室町時代に“武家の棟梁”と呼ばれうる存在が足利氏のみだったか?」
「戦国大名としての松平宗家は“武家の棟梁”と呼ばれうる存在だったか?」
というのが今問題になってるわけで
少なくとも近現代の歴史学用語としては上記二つは問題ない
「武家」や「棟梁」、または「武家の棟梁」の同時代的用法については
なお検討を要する、ってのがスレの現状でしょう
ちなみに『神皇正統記』で引用した部分の現代語訳では
「鎌倉幕府の将軍」ではなくそのまま「武家」だし、
武家伝奏の「武家」も『官職要解』の和田英松は
「武家=公儀(将軍)」との交渉役というよりは、「武家=武士階級」からの
要求を主上に伝えるからそう呼ばれたと解釈してるようですよ
戦国時代における三河の権力構造を語るのに、江戸幕府という
強力な中央政権が存在した近世封建制度における
足利氏(喜連川氏)を反証にするのはそれこそナンセンスでしょう
中世において存在し得た「血縁集団や地域集団の統率者」としての棟梁が、
天下一統の後に(徳川家を除いて)その意義を大きく喪失することになったのは周知の事実なわけで
もっと適切な例を挙げるなら、織田信長上洛後に保護された足利将軍家くらいだと思うけどね
もちろん足利家→織田家や今川家→松平家という名目上あるいは実際上の主従関係の違いはあるが、
どちらもその庇護者により、特定の集団に対する権威を発揮することを期待されたのは同じ
>>780
@「室町時代に“武家”といえば“足利将軍家のみ”を指す」という根拠は?(ないということで解決済みでFA)
A現代の歴史用語としての意味を無視して室町時代のみにおける限定的用法に拘る理由って何?
B脇田修氏が「信長自身が幕府機構を相当程度継承」の「好例」として京都所司代を挙げた彼の著書名は?(捏造の可能性大?)
ほらほら、君が中身のない長文糞レスしてる間に宿題がどんどん溜まってるよ
ID:gJRurbL3さんと比べて君のレベルの低さは惨めだね
まともな教育受けてないの丸分かり
0788人間七七四年
2012/03/04(日) 16:21:03.36ID:W6YBj3gj>意味のない煽りレスしてないで早く答えてくれないかな
応えられないならそれでいいよ
勝利宣言でも何でもして逃げてればいい
馬鹿らしくなってきたわ
0789人間七七四年
2012/03/04(日) 16:39:00.40ID:ODOpgndI「応えられないならそれでいいよ」とは此れ如何に
そういうのをネットでは「勝利宣言」というんだよ
「馬鹿らしくなってきたわ」とはこっちのセリフ
0790人間七七四年
2012/03/04(日) 16:40:50.04ID:W6YBj3gjお疲れさん
0791人間七七四年
2012/03/04(日) 16:43:14.83ID:ODOpgndI根拠を提示する気になってくれるまで謙虚に待ってますよ
ここ数日の君のレス見る限り平日も休日も一日中暇みたいだから、
そのうちソースを持ってきてくれるんじゃないかと期待してます
それじゃひとまずお疲れ様でした
0792人間七七四年
2012/03/04(日) 17:23:54.81ID:Jctq25KB>生まれつき武家の棟梁だった家康がどん底とか
結局「武家の棟梁」=将軍って知識をひけらかせたかったバカが
1人か2人居て、将軍の子じゃないって言い張ってただけだよなw
誰もそんな事言ってないのに、、、
0793人間七七四年
2012/03/04(日) 17:25:16.74ID:Jctq25KBhttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0794人間七七四年
2012/03/04(日) 17:37:12.95ID:HSQtC4Yr言いだしっぺはそれとごっちゃにしてない?
家康がそうなら、同盟を結んで晩年は家臣のようにしていた信長や
臣従させた秀吉は何なの?って気がするが。
0795人間七七四年
2012/03/04(日) 17:50:45.41ID:W6YBj3gj家康をして生まれながらの武家の棟梁なんか普通言わないし
後半は三河の武家の棟梁にスケールダウンして無理からこじつけてたけど、
有光友學も広忠時代は絶対的な権力は存在せず、混沌とした状況なんて評価してるし
0796人間七七四年
2012/03/04(日) 18:32:33.92ID:Jctq25KB「どん底」とか言ってたからだろ。
それくらい理解しろよ頭悪いなぁ(′・_・`)
0797人間七七四年
2012/03/04(日) 18:34:33.26ID:Jctq25KB万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10
0799人間七七四年
2012/03/04(日) 20:01:29.12ID:HSQtC4Yrどんな人間にもいい時と悪い時がある。
生まれてから死ぬまでいいことだけの人間も、
悪いことだけの人間もそういない。
今川人質時代の家康を「どん底」と表現することの何が
おかしいの?
それこそ信長が義元を討たなかったらどうなってたか
分からないのに。
0800人間七七四年
2012/03/04(日) 20:18:19.02ID:kcIPclq+さすがにそれは無いだろ。
「武家の棟梁」と言う言葉は本来
大名クラスの家々(武家)を束ねる立場って意味で使われるけど、
普通の武士=武家って思っちゃったから、
多くの武士達を束ねる存在=武家の棟梁って使っちゃったんでしょ。
色々突っ込まれてファビョっちゃったけど、
俺も家康をどん底から這い上がったってのはどうかと思うけどな。
そこそこの勢力の嫡男として生まれて、
人質とは言え当時全国有数の家から親族並みの扱いを受けてるのに。
0801人間七七四年
2012/03/04(日) 20:34:27.90ID:oA2ABVU6大高城へ兵糧入れてたんだっけ?
今川義元にとって、何番目くらいの盟友?なんだろうか。
嫡男は出来が良くないワケで、、、
1番は武田北条あたりだよな。その次が重臣連中?
0802人間七七四年
2012/03/04(日) 20:36:47.61ID:W6YBj3gj人質にされるってのはなくもないけど、途中で誘拐とかありえないもんな
親父は伊勢に逃げるし
0806人間七七四年
2012/03/05(月) 00:22:31.50ID:NG6DH9iF途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
西条吉良
東条吉良
今川
一色
仁木
細川
斯波
戸賀崎(荒川)
畠山
桃井
渋川
岩松
石塔
上野
鹿嶋
粟生
倉持
高
上杉
0807人間七七四年
2012/03/05(月) 00:27:23.29ID:NG6DH9iF【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0808人間七七四年
2012/03/05(月) 00:35:51.23ID:ZjRCR8I5武「家」ってのはあくまで独立した「家」が基準になるんで、
近世であっても陪臣クラスを武家とは言わない。
「武士の家柄」を武家と呼ぶのは一家族が「家」となった現代になってからだね。
0809奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/03/05(月) 00:40:55.25ID:xUaUukbjその部分は特に。
0810人間七七四年
2012/03/05(月) 00:43:57.71ID:NG6DH9iF【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0812人間七七四年
2012/03/05(月) 07:26:59.44ID:oT06n3Zz家康の魅了は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで、どん底や苦労を知らないなら、山岡荘八も小説なんて書かなかっただろうな。
本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず。
0813人間七七四年
2012/03/05(月) 10:24:16.51ID:2WbEaU5zあらゆる重大局面で自重できずに暴走して
天下取れたと思ってるバカなんて居ないだろw
0814人間七七四年
2012/03/05(月) 11:20:23.24ID:kWypWHR0異なる意味で使われている時期の「武家」の定義で松平氏を語ろうとしたから拗れた。
江戸時代の「御家人」の意味で鎌倉時代の「御家人」を語るようなもの。
0815人間七七四年
2012/03/05(月) 12:47:54.54ID:RfpN1/mS0816人間七七四年
2012/03/05(月) 17:22:19.55ID:NG6DH9iF◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
0817人間七七四年
2012/03/05(月) 19:35:14.03ID:I51+GDhO1)武家は将軍家のこと、武家衆はそのとりまき
↓
2)武家衆を略して武家ともいうようになった
↓
3)侍のかっこしてれば「お武家様」
0818人間七七四年
2012/03/05(月) 22:16:22.58ID:NG6DH9iF途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
西条吉良■後の将軍御一家
奥州吉良■後の奥州管領家、関東公方御一家
今川■後の将軍御一家、九州探題
一色■後の四職家
仁木■後の室町幕府執事
細川■後の管領家
斯波(斯波、石橋)■後の管領家(斯波)、将軍御一家(石橋)
戸賀崎(荒川)■丹後国・石見国守護
畠山■後の管領家
桃井■
渋川■後の将軍御一家、九州探題
岩松■
石塔■後の奥州総大将
上野■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
鹿島■
粟生■奉公衆
倉持■奉公衆
高■後の室町幕府執事、武庫川で一族滅亡
上杉■後の関東管領家
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0819人間七七四年
2012/03/05(月) 22:17:38.78ID:NG6DH9iF【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官)の屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
0820人間七七四年
2012/03/05(月) 22:32:40.60ID:e3fyEUKVであれば、議論の核である『家康スタートライン』は、どの武家が該当するわけ?
0821人間七七四年
2012/03/05(月) 22:41:50.32ID:2tDwNadC0822人間七七四年
2012/03/05(月) 22:51:59.38ID:NG6DH9iFお前は誰と戦っているんだ?w
低能(低脳じゃないぞ)は自己紹介か?w
0823人間七七四年
2012/03/05(月) 23:06:40.17ID:vqh/1R5D単純に家康の出身階級は到底「どん底」と形容されるようなものじゃないから
「体制の破壊者信長」とか「人殺しの嫌いな陽気者秀吉」みたいに
型にはまった「耐え忍んで天下を取った苦労人家康」という人物像が好きなのは分かったけど、
>家康の魅了(魅力のタイプミス?)は、苦労人が天下を取ったことにあるわけで
>本当の家康ファンなら、どん底時代があった家康を含めて好きになれるはず
とか自分個人の好み押し付けられても正直ちょっと
0826奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/03/05(月) 23:31:25.17ID:j17TMDtJ0827人間七七四年
2012/03/05(月) 23:47:41.90ID:2tDwNadC文脈無視した曲解するなチョンって事w
0829人間七七四年
2012/03/06(火) 01:50:04.90ID:fTFcYEGsもちろん、家康役は松方で。
0830人間七七四年
2012/03/06(火) 16:50:45.85ID:fTFcYEGsむしろ、俺は成功した後の家康には全く興味がない。
特に浜松城時代の苦労をした家康に惹かれる。
どん底から這い上がった男、死ぬまで階段を駆け上がった男。それが、家康だろ。
0831人間七七四年
2012/03/06(火) 17:08:44.20ID:EjFPvdtJ山岡家康みたいな聖人君子キャラじゃなくて、
葵の時みたいな豪腕腹黒タヌキで
0832人間七七四年
2012/03/06(火) 18:49:02.72ID:w8MzLyHd0833人間七七四年
2012/03/06(火) 18:50:10.93ID:w8MzLyHd途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後の将軍御一家
02.奥州吉良氏■後の奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後の将軍御一家、九州探題、守護職
04.一色氏■後の四職家、守護職
05.仁木氏■後の室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後の管領家、守護職
07.斯波氏■後の管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■守護職
09.畠山氏■後の管領家、守護職
10.桃井氏■守護職
11.渋川氏■後の将軍御一家、九州探題
12.上野氏■奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後の奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■奉公衆
17.倉持氏■奉公衆
18.高氏■後の室町幕府執事、守護職、武庫川で一族滅亡
19.上杉氏■後の関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0834人間七七四年
2012/03/06(火) 18:55:48.75ID:w8MzLyHd【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷
0835人間七七四年
2012/03/06(火) 19:54:10.45ID:/MCGz8aC組織構築術とか素晴しいだろ?
組織構築術とか素晴しいだろ?
0837人間七七四年
2012/03/07(水) 01:46:53.76ID:50IMtxWP豊臣政権の作り上げた身分秩序(官位や家格による)は完璧
0838人間七七四年
2012/03/07(水) 01:48:50.59ID:TTvOZGf50839人間七七四年
2012/03/07(水) 01:52:46.23ID:Alg50Nozもう少し広く考えるのも大事じゃにかな。
0840人間七七四年
2012/03/07(水) 02:05:14.11ID:FZHWtbe4「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0841人間七七四年
2012/03/07(水) 06:49:04.50ID:1pP/TvnR体制をを崩しただけだからなぁ。
有力大名に中納言を与えまくり、秀次を殺して関白ではなく
有力大名が連署する体制に変えたからな。
これを徳川の捏造などと言い張るのは妄想も良いところだ。
0842人間七七四年
2012/03/07(水) 10:22:58.49ID:V2t/PGZGスレ違いだろうが、田舎モンめ
0844人間七七四年
2012/03/07(水) 20:13:28.67ID:FZHWtbe4「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(三河四郎、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(三河四郎、三河国に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0848人間七七四年
2012/03/10(土) 00:59:00.87ID:KmBgeh8Dそんなことどうでもいいんだろうけど
0849人間七七四年
2012/03/10(土) 18:18:21.44ID:UY7l9D94でももちろん兵士の数はそれなりに任されてるはずだから、
領地は少ないけど権限は十分に持ってたって感じかな
0850奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
2012/03/10(土) 18:58:52.35ID:PUy0IF1i0851人間七七四年
2012/03/10(土) 19:42:38.77ID:aUT9xMS60852人間七七四年
2012/03/10(土) 20:41:59.72ID:/xk0rtrt0853人間七七四年
2012/03/10(土) 21:08:29.02ID:G9zZohIh0854人間七七四年
2012/03/11(日) 00:43:01.70ID:mUugy7er0855人間七七四年
2012/03/11(日) 00:49:58.73ID:dnlF/qL/仮設住宅とかならネット環境無いだろうし元気でやっててくれればいいが
0856人間七七四年
2012/03/11(日) 21:28:36.16ID:kpzQA0kj0857人間七七四年
2012/03/12(月) 01:18:11.50ID:JCoeV0To0858人間七七四年
2012/03/12(月) 20:28:10.09ID:Rr+emi9Gまだこの時点では瓦礫の下で生きてたかも知れないだろwww
0859人間七七四年
2012/03/12(月) 23:00:01.79ID:Iv85F6EC本多正純(菅貫太郎)
0860人間七七四年
2012/03/20(火) 14:04:05.01ID:Kvci7cY8途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0861人間七七四年
2012/03/20(火) 14:05:23.39ID:Kvci7cY8【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【岡崎市西部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
0862人間七七四年
2012/03/20(火) 16:11:53.12ID:fEonKCR2というか清康以降の安城家の男は早く死に過ぎだ
0863人間七七四年
2012/03/24(土) 01:59:05.99ID:euOhvYhK0864人間七七四年
2012/03/24(土) 11:20:29.61ID:sOX4du5b利家は結局、家康に恭順して死んだし長生きしても結果は変わらない
秀吉や秀長が長生きしてたら無理だけど
0865人間七七四年
2012/03/24(土) 13:20:56.45ID:HllFMg8/所詮は実力主義の織田家でも軍団長レベルには遠く及ばない存在でしかない
たまたま秀吉と親交があって上手く取り入っていい時期に死んで過大評価をもたらしただけだよ
0866人間七七四年
2012/03/24(土) 13:45:19.72ID:CkVfZxie秀吉とか家康と比べると激しく見劣りするからなあ
相手が悪い
0867人間七七四年
2012/03/24(土) 19:26:20.77ID:MhARo+vF秀忠と徳川軍団は天下取れてたかな
0868人間七七四年
2012/03/24(土) 22:22:36.06ID:a15XJm0g親父の跡を継いで五大老になって、そのうち利家も死んで
秀忠、利長、景勝、秀家、輝元の五大老。
飛び抜けた人物がいない分、五大老が案外上手く機能したかも知れない。
0869人間七七四年
2012/03/25(日) 01:50:29.89ID:LVExdaJxひょっとすると輝元が家康公のように天下とりにくるか・・・
0870人間七七四年
2012/03/25(日) 03:54:07.05ID:BPbq0J+n輝元には天下を狙える器量はないだろ
0871人間七七四年
2012/03/25(日) 08:11:13.64ID:SHUpLtLq輝元が一番格下だったしな。
0872人間七七四年
2012/03/25(日) 11:44:04.87ID:2QnUNeEA秀吉の評価がそうなんだから仕方がない
0873人間七七四年
2012/03/25(日) 17:26:06.73ID:4wn42o8sスレが汚れるだろ
何回も言わせるな
0874人間七七四年
2012/03/27(火) 23:30:01.88ID:SNaqKq47当時の松平氏に何らかの恩恵はあったんだろうか?
0875平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv
2012/03/28(水) 01:48:15.71ID:YT3zO/Fw0876人間七七四年
2012/03/28(水) 02:03:45.50ID:s9NNHjbD雀なんて鷹の餌
0877人間七七四年
2012/03/28(水) 07:14:24.05ID:pZhmiD3Nけっこう武断派なところを見せてたから、ひょっとすると家康公が
天下取る前に死んだとしても立派に後をついで天下とってたかもしれん
0878人間七七四年
2012/03/28(水) 08:18:39.94ID:9+32MYAUそれに、秀忠に天下とれる器量があったとしても、その時点で直政・忠勝・康政がいなかったらキツイのでは?
0880人間七七四年
2012/03/29(木) 04:00:58.57ID:UaXD1LMv関ヶ原だってやっと勝ったくらいだし。まあ、利家存命だったら
関ヶ原なんて起こってなかっただろうけど。
0881人間七七四年
2012/03/29(木) 07:30:24.40ID:l3Ed8fbtどうやったって東軍の勝ち
小早川なんて大谷600に三回も跳ね返されるような雑魚だし
ほとんど東軍の勝利が決まった所で寝返っただけ。家康本軍3万も温存だれてたからな
0882人間七七四年
2012/03/29(木) 10:26:42.70ID:UtjTzNdS0883人間七七四年
2012/03/29(木) 16:50:56.35ID:5zriruRq九州盲導犬協会所属の盲導犬アトムが 2012/1/23より 行方不明になりました。
有志の方が 『 動画 』 を製作した二つのバージョンあります。
視聴していただけませんでしょうか。
(新)『 Seeing Eye Dog Atom's Story 』 (旧)『 盲導犬アトム号が行方不明 』
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
URLを貼りませんのでお手数をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。
※ アトム失踪事件について示現舎電子書籍ですがとりあげられています。
『 大炎上!盲導犬「アトム号」失踪事件 』(2012年4月号発売)(電子版300円)
(記事の目次)
●大炎上!盲導犬「アトム号」失踪事件 住民を引き裂いた「西日本新聞」の“暴走”
・消えた盲導犬・アトム号はどこへ?
・西日本新聞の報道によってさらに大炎上
・寄付で成り立つ盲導犬事業に募金箱制作費440万円は必要か?
・盲導犬と警察犬を混同する記事に関係者も怒り心頭
・眼鏡橋がある風景で起きたアトム騒動
・怒りの白杖《はくじょう》! N濱さん「ハンパねえ…」
・アトムを世話できなくなったのは家族の事情?
・アトム失踪後、「天罰」の怪文書も出回った
・メディアが訴える美談、感動話の欺瞞《ぎまん》性
・西日本新聞記者「路上放尿はアトムのため」って?
・ケジラミ、ノミ、ダニにも困っていたアトム号
・性善説すぎる盲導犬事業の制度
・戸惑う県と協会、住民にとって障害物でしかないメディアと
0884平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv
2012/03/29(木) 17:27:15.45ID:b0nsdtUO家康より奥さん2人の方に同情するわ。オレは。
0885人間七七四年
2012/03/30(金) 13:24:34.73ID:7tUrMiDx秀忠もだけど、跡継ぎでもめないように非情な行動でも
禍根をたっておくというのは大局視野的にさすがとしか
言いようがない。
0886人間七七四年
2012/03/31(土) 05:04:05.70ID:q88bW8u8正室が死んだら側室だけという人の方が多いかも
と言うか生きてても疎遠や険悪というパターンが多いからな
0887人間七七四年
2012/03/31(土) 13:26:49.83ID:EJLU6R0Qイメージだったけど、調べてみると秀吉がなくなるまでは本当に律儀な人間だったんだな。
あの人使いの荒い信長を裏切らず20年近く同盟結んでいるし。
小牧・長久手も勿論家康なりの打算があったのだろうけど、織田家簒奪
しようとする秀吉に対抗する信雄についているし。
信雄が勝手に単独講和しなかったら圧倒的に物量・兵力有利な秀吉に負けてた
と思う。
家康を信用してお家を滅亡させた秀吉はバカだなあ〜と思ったけど信頼しても
不思議ではない人だったんだな。
0888人間七七四年
2012/03/31(土) 13:53:24.54ID:rgJv4UWp0889人間七七四年
2012/03/31(土) 20:38:44.47ID:dO4KvB5Oキチンと約束したことはちゃんと守る人 それが小国が生き残る道だと思ったんだろうな
ってか天下人になったってところから逆に見ても大きな判断ミスとかあるわけがないが
0890人間七七四年
2012/03/31(土) 21:32:59.55ID:EJLU6R0Q>キチンと約束したことはちゃんと守る人 それが小国が生き残る道だと思ったんだろうな
なるほどね、そうか。
でもそのやり方って約束する相手を間違えたらエライ目に合うというかバカを
見る可能性もあるよね。
運もあるけどその相手を見誤らなかった、機会を間違えなかったのはさすがだ。
0891人間七七四年
2012/04/01(日) 03:35:09.81ID:E63ipQ1o小牧長久手は信雄を擁立して秀吉と覇権を争ったわけで、律儀とは正反対の野心から出た行動
律儀だの真面目だの家康を馬鹿にし過ぎ
家康だってれっきとした戦国大名であり、常に野心を持って権謀術策を巡らせていた
0892人間七七四年
2012/04/01(日) 04:58:57.09ID:6Cqo+ZbEその同盟者であり織田家家督である信雄の味方をした
視点だ視点
0893人間七七四年
2012/04/01(日) 06:14:00.33ID:snzgxBPN0894人間七七四年
2012/04/01(日) 06:31:28.77ID:dvV79szZ0895人間七七四年
2012/04/01(日) 07:11:37.06ID:e+6uJlH/滋賀の陣や上洛戦、姉川、金ヶ崎などで援軍よこさず織田軍はあっと言う間に崩壊してたのは間違いない
0896人間七七四年
2012/04/01(日) 14:35:16.56ID:qclcHulC同盟維持って
そもそも今川と断交したから織田と同盟をしたわけだから仮定の時点で破綻しているよ
織田と同盟しなかったら今川と織田の双方から攻められて瞬殺されてたのは間違いない
>>895
織田から離反してどうするつもりだよw
武田相手だけでも敵わずに押されまくってたのに、更に織田を敵に回したら即死だろ
0897人間七七四年
2012/04/01(日) 14:39:52.04ID:aMX+n6E+責任感もあるし、落ち着いてる 野望に身を焦がしたり欲望に身を任せたりしない
一番まともな政治指導者ってかんじだ やはり天下とったのは当然のことか
0898人間七七四年
2012/04/01(日) 16:25:21.46ID:rAuQHdc/実際、援軍よこさなければ武田と一緒に織田を攻めるしかなくなると信長脅迫してるし
0899人間七七四年
2012/04/01(日) 23:42:28.76ID:aMX+n6E+むしろ滅亡するのみ、どんなに苦しくても織田・徳川で武田と戦い続けるべき、
と見きって必死で耐え凌いだんだろうな やっぱ先が見えてる
状況判断能力がハンパない 目先のことで右往左往する連中とは格が違う
0900人間七七四年
2012/04/02(月) 07:37:22.29ID:cgfa9rVl武田の元で戦ってた方が天下への近道
信長なんぞ信玄時代畿内でボロボロだったし家康が離反してたら瞬殺されてたのは間違いない
勝頼時代でも丹波や手取川で大敗するくらいだったから家康が離反すればひっくりかえるくらいの勢いになるのは自明
0901人間七七四年
2012/04/02(月) 11:23:30.63ID:27/1y9pBさすが家康さまということなんだけどな。
0903人間七七四年
2012/04/02(月) 22:56:19.09ID:Kt/9j51Oお前はレスすんじゃねー
分かったか?万年パシリの尾張猿
0904人間七七四年
2012/04/03(火) 00:13:34.73ID:Tp+uwInv武田と同盟結んでも一時的しのぎにはなってもいずれ反故にされる可能性は大だし
家康にしてみれば長い目で見たとき織田と組んだほうが良かったんだと思うよ
家康は律儀と言われるが信長もそのイメージとは裏腹に同盟、約定に対して驚くほど律儀
お互い東西の抑えには信頼できる相手だったのだろう
信長は家臣や味方からの裏切りは多かったけどね
信長や家康以上に戦上手とか天才といわれる武将は数多くあっても
地方勢力に留まってしまったのは地理性や経済戦略だけではないと思う
0905人間七七四年
2012/04/03(火) 00:38:06.17ID:DONjhzBo徳川家以外は同盟破棄されて無いか?w
0906人間七七四年
2012/04/03(火) 00:50:57.36ID:wFSkkQq3破棄してるのではなく、破棄されてる
信長から反故にしたのって、パッとは思いつかないなあ
0907人間七七四年
2012/04/03(火) 04:13:35.36ID:Aa27p+Ak利益の通じない純粋な野心を持った光秀の相手は敵わんかったけどその後そこから織田家が挽回したのは信長の遺徳
0908人間七七四年
2012/04/03(火) 09:08:29.93ID:ecieIv7/元亀3年7/7付けで信玄が小里氏の背後に信長の後援があり残念でならないがとりあえず許すと見て見ぬフリをする方針にしたことを述べていて
織田との抗争にならないよう配慮してたら信長が11/15に岩村城を奪った小里内作へ書状を出してる。
明らかに信玄は信長との信義を守っていたら裏切られてる。
勝頼に対しても武田攻めの所で盟約反故にしてる。
あと斉藤に対しても盟約反故してるし浅井朝倉と和睦した時も反故にしてる
武田は徳川に盟約反故なんざしていない
今川領でたまたま衝突してしまっただけ
しかも急いで謝罪の使者派遣してる
0909人間七七四年
2012/04/03(火) 09:17:09.83ID:DHZCoOpK0911人間七七四年
2012/04/04(水) 02:48:31.50ID:W6rt5z2Tというより、信長と隣国でなかったら、歴史的には名も無い有象無象扱い。
浅井長政と異なり、暗愚の親父は早々に死んでるのも幸運だし、
信長や政宗のように家督を争う弟が存在してなかったのも幸運。
で、義元敗死後は信長の戦略に従い織田軍団の一翼を担ってりゃ済むだけの形ばかりの国主。
真田昌幸がカワイソすぎる。
0912人間七七四年
2012/04/04(水) 08:39:55.71ID:BFOtL7lu0913人間七七四年
2012/04/04(水) 09:41:13.43ID:IMVPeLda信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
0914人間七七四年
2012/04/04(水) 09:44:06.82ID:IMVPeLda他大名が信長の立場で生れていたら
家康 史実どおり畿内美濃を瞬殺
島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破
氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大
信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺
元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合
元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑
0915人間七七四年
2012/04/04(水) 09:44:53.09ID:IMVPeLda信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
0916人間七七四年
2012/04/04(水) 17:43:14.29ID:W6rt5z2Tそれは領地が尾張でも同じ。
義元西上の進軍で、あっさり降伏が関の山。
家康では桶狭間は絶対無い。
三方ヶ原で惨敗して泣きべそ脱糞遁走した家康が、信長のような寡兵電撃作戦なんぞ立案する能力も意志も無いのは当たり前。
そもそも家康は信長が戦国の世で唯一天下を狙った超大物だったから生き残れた訳で、
もし信長が信玄レベルだったなら、義元敗死後、速攻で三河に侵攻され、ジ・エンド。
信長なら家康がいなくても、人材多様な織田家中から代わりの人材を充てれば済む話。
義元敗死後、家康単独では生き残りは無理。
運良く生き残ったとしても、せいぜい真田レベルの小大名として下層で低迷が精一杯。
0917人間七七四年
2012/04/04(水) 18:05:17.48ID:IMVPeLdaそれは領地が三河でも同じ
義元西上の進軍であっさり滅亡が関の山
信長の桶狭間みたいなウルトララッキーパンチはまず自力では起こせない
子供相手に惨敗して泣きべそ脱糞遁走した信長が、家康のような電撃戦術作戦なんぞ立案する能力も意思もないのは当たり前
そもそも信長は家康が戦国の世で唯一天下を取れた超大物だったから生き残れたわけで、
もし家康が信玄レベルだったら、義元が信長を殺した後、義元を裏切って殺し、天下統一
家康なら信長がいなくても人材多様な徳川家中から代わりの人材を宛てれば済む話
三河独立後、信長単独では生き残りは無理
運よく生き残ったとしてもせいぜい保科、諏訪レベルの小大名として下層で低迷が精一杯
0918人間七七四年
2012/04/04(水) 18:28:24.50ID:W6rt5z2T史実歪曲の脳内妄想逃避だけが唯一の取り得。
定見も思考力もゼロなので、他人の変節に脳死で追従の醜態。
0919人間七七四年
2012/04/05(木) 00:08:42.44ID:OnlhxSB10920人間七七四年
2012/04/05(木) 03:55:25.98ID:D/ZafKKh原作 山岡
0921人間七七四年
2012/04/05(木) 07:59:31.07ID:o7EAueMM長文だるいので5行でまとめろ低脳( ´,_ゝ`)
0922人間七七四年
2012/04/05(木) 10:20:36.72ID:QShWPQXZ佐久間とか滝川とか小山田に石ころ投げられたくらいで泣きながら逃げてったしな
援軍とは名ばかりの足手まとい敵前逃亡で即効死ぬ平手
0923人間七七四年
2012/04/05(木) 21:19:40.76ID:QVclfvvOそれはおかしい。家康にしても元就にしても弱小勢力の出身だったからこその
頭脳派になったって可能性も高いだろう
>>917
最近では桶狭間は情報戦で信長が尾張各地の制圧に乗り出して兵力を分散させてた義元を制して義元の本陣を一気に突いたとかあるけどね
0924人間七七四年
2012/04/05(木) 21:27:51.33ID:j+4GliOz動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
0926人間七七四年
2012/04/05(木) 22:48:56.48ID:w8cAhphY0927人間七七四年
2012/04/06(金) 00:16:20.38ID:GtY5Bj2f0928人間七七四年
2012/04/06(金) 01:02:29.12ID:D5OiLKuZ総大将逃がすくらいの時間は無いもんなの?
包囲できる兵力は無いはずだよなぁ?
0929人間七七四年
2012/04/06(金) 01:02:44.22ID:jvCcv5QK0930人間七七四年
2012/04/06(金) 07:13:39.83ID:UxQoOrkh本来なら余裕で防げた。迎え撃った時の地形や天候など言い訳の材料はあるけど結局油断や慢心が最悪のかたちで現れた
>>929
ぼくのかんがえた さいきょうぶしょうしんげん
の話だから武田信玄の事ではない。幼児をあやす感じで対応するといい
0931人間七七四年
2012/04/06(金) 07:42:56.74ID:RYbGqU2Rひとまわりして戻ってきたか。
0932人間七七四年
2012/04/06(金) 08:29:59.73ID:3NOR6MU/三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
0934人間七七四年
2012/04/09(月) 01:22:39.19ID:DS7bF/ELこっちは晴れてて向こうは通り雨なんてことはないだろう。
それに戦争中なんだから雨が降ってたからといって
つっこんでくる敵がわからないなんてことはない。
マンガだと雨が今川陣の上だけすごくて敵がくるのもわからない
ぐらいだったかってか。
0935人間七七四年
2012/04/10(火) 11:35:47.50ID:8U678kH5もっとも直後には甲斐、南信濃を火事場泥棒しますが。
0936人間七七四年
2012/04/10(火) 11:45:34.47ID:WfwSYKRh後、甲斐・南信濃については許可を得ている
0937人間七七四年
2012/04/10(火) 14:32:42.62ID:Aaq4unxf当時はまだ東山道の方が発達が進んでいたらしいが、駿河から三河までを
支配したことで港湾との相乗効果も増したのではないかな
あとは金山かな
0938人間七七四年
2012/04/10(火) 15:05:45.95ID:gmWNwROOこの件で北条は織豊系大名から不信感を買ってる
0940人間七七四年
2012/04/11(水) 18:37:36.11ID:65xS2MAf事後っていうのはどのタイミングのことを言ってるのかね。
滝川や森の逃亡、河尻の横死により主がいなくなり、在地領主が好き放題するわ
北条や上杉が侵攻を企てるわと、滅茶苦茶になった甲斐信濃を、どうぞ取ってください
と言われて出陣したのが天正壬午の乱なんだが。
もちろん、水面下での工作は織田家への交渉と並行してやっているわけだが。
0941人間七七四年
2012/04/11(水) 18:58:31.54ID:F3HxkT5q0942人間七七四年
2012/04/12(木) 12:02:38.14ID:RlERwpHgそれのこと?
0943人間七七四年
2012/04/12(木) 17:51:11.47ID:W+U3hI2u0944人間七七四年
2012/04/12(木) 19:34:12.20ID:lw/OY/Nk俺達が血を流して得た領土を返すくらいなら刀を踏み折って武士を止めるとか
小牧長久手が起きたのも必然だったんだよね
0945人間七七四年
2012/04/12(木) 21:00:27.72ID:fv+Xjxdf秀吉の承諾の書状は7月7日付
>>944
秀吉も返せとは言えないだろうな。
甲斐信濃(上野も)はお任せしますと言ってしまったわけだから。
0946人間七七四年
2012/04/12(木) 21:52:37.07ID:W5uIS+ke0947人間七七四年
2012/04/12(木) 22:40:41.26ID:fv+Xjxdf「今度信長不慮のこと御座候について、信州・甲州・上州置かれ候者共罷り返り候、然らば、
両三ヶ国の儀、敵方へ御渡しなさるるべきにあらず候条、御人数を遣わされ御手に属され
候の様に仰せ付けられ尤もに存じ候、なお追々御意を得るべく候、恐々謹言」
三ヶ国の連中が寝返りまくったんだけど、三ヶ国を敵方(上杉・北条)に渡すべきではなく、
御手によって軍を派遣し、帰属させるのももっともであると書いてある。
なおこの書状のソースは、本書によれば『新修徳川家康文書の研究』第一葺P72とのこと
0948人間七七四年
2012/04/12(木) 22:47:28.94ID:fv+Xjxdf入手困難みたいなんでそのへんは勘弁してちょ。
0949人間七七四年
2012/04/12(木) 22:51:39.01ID:fv+Xjxdf上記の書状の日付が7/7ね
0950人間七七四年
2012/04/12(木) 23:41:01.06ID:FGB+CeOh0951人間七七四年
2012/04/13(金) 11:28:12.10ID:rEud/yTy家康が岡崎に帰還して真っ先に指示したのが甲斐下山(穴山氏領)の占領(6月6日)
次いで依田信蕃に命じて信濃の諸勢力の引き込みを始める、更に依田は6月20日に小諸へ入り計略を続ける
家康はその勧誘に乗った武将らに恩賞を約束(6月21日)
翌日には刈坂口、郡内で挙兵した武田旧臣らを追った有泉大学らを賞し、濃尾の兵を整えたから準備が出来次第甲信に出兵する旨を伝える(6月22日)
そして7月3日に出陣
0952人間七七四年
2012/04/13(金) 23:52:29.24ID:rRNLpOX5この場合は……事中承諾?w
あまりほめられたものじゃないのは確かだね。
この辺の推移は結構面白くて、家康が当初からあわよくば武田遺領を獲得しようと
動いていたのは事実(河尻秀隆の生存中に調略の手を伸ばしてる)。
だけど、それがいつの間にか織田陣営の徳川と、北条、上杉による
三つ巴戦の形に変わっていっている。織田信雄の兵が援軍に向かったという記録もあるし。
(対北条戦の援軍に大軍が向かう予定だったらしいが、秀吉と勝家の対立が激しくなって中止)
0953人間七七四年
2012/04/14(土) 00:10:32.81ID:VaLrwjABいったと考えても良かろう
大義名分で優位に立つことは大事だ品
0954人間七七四年
2012/04/14(土) 00:52:54.25ID:F+qllS/2そもそも織田方から拒絶されたとしても無視して出兵しただろう
というより織田方が手一杯で勝手に軍事行動を起こしても問題ないと見込んでの行動だ
あわよくば濃尾も取ろうとしていたし
大体、相手に許可貰ってから侵略しようとする馬鹿もおるまい
まして戦国の世に、これだけのチャンスが転がり込んだのに行動起こさないなんて余程頭がどうかしているとしか思えない
0955人間七七四年
2012/04/14(土) 09:53:39.97ID:fvRBbQBz0956人間七七四年
2012/04/14(土) 14:24:54.53ID:zTBh93wg0957人間七七四年
2012/04/14(土) 14:57:38.17ID:A11Cl47u有利に戦いを進めようと思ってたから
家康の火事場泥棒を容認してただけ。
それに双方とも信濃や甲斐とは基本的に無関係だった経緯もあるからね。
あっちは信忠管轄エリアだったし、
力さえあればと忸怩たる想いは滝川一益くらいなもんだろ。
0958人間七七四年
2012/04/14(土) 19:58:10.16ID:b2wv5ETM0959人間七七四年
2012/04/15(日) 02:18:14.34ID:QE8uNCEyその場合、北条側に寝返ってた可能性があるのか?
0960人間七七四年
2012/04/15(日) 02:35:33.86ID:hAEBi89n0961人間七七四年
2012/04/15(日) 03:53:05.02ID:R1BOnlq6過去スレで豊臣家滅亡させた時家康が「主家(織田家)を蔑ろにしたからだ」と言ったというスレ見たが
「お〜ま〜え〜が言うなよ」だよなやっぱ。
家康にとってラッキーというのか、秀吉自身が大恩ある織田家を簒奪して散々な
事をしてるから家康が豊臣家に似たような事をしても全面的に非難されにくい。
家康が豊臣家にした仕打ちは、秀吉もだいたい織田家に似たような仕打ちをやってるのに
それでも彼が猿爺とか言われないのはキャラのせいなのか?
0962人間七七四年
2012/04/15(日) 09:26:41.78ID:7rWpPv4Bそれにひきかえ家康は…
自業自得じゃね?w
0963人間七七四年
2012/04/15(日) 11:05:09.61ID:qln9h+lz秀吉が数々の悪行にもかかわらずあまり悪く言われないのは、
秀吉のキャラというよりは、滅んだ家をさらに悪く言うことを好まない日本人のキャラのせいだろ
0964人間七七四年
2012/04/15(日) 11:44:44.71ID:J1kP088u0965人間七七四年
2012/04/15(日) 11:50:54.24ID:+gFkhxff平家物語も平家ざまあみろって話じゃないんだろ? 読んでないからわからんけど
0966人間七七四年
2012/04/15(日) 12:46:42.51ID:R1BOnlq6秀吉ではなくて日本人のキャラのせいか。納得。
秀吉の場合は正に因果応報てきめんだよな。
まさか自分が織田家にやった仕打ちと似たような事(あるいはそれ以上ね)を
家康にやられるなんて想像もしてなかっただろう。
確か豊臣家滅亡と信孝の命日が一緒なんだよね。
単なる偶然だろうけど、とても因縁めていいる。
0967人間七七四年
2012/04/15(日) 13:33:44.28ID:NqmE6Axsいや、ないがしろにはしてないよ。
三法師を清洲城だったかに据えてきちんと織田家を継がせ
厚待遇した。
秀吉公自身、そのとき
「これで右府様の恩に報いることが出来た」といってる。
0968人間七七四年
2012/04/15(日) 13:36:55.22ID:gUVb0ccU御家が滅びたりある人物が酷い目にあったのは、道徳的に問題があった因果応報だ、とか結果からの逆算。
(当人に特に落ち度がない場合は、親父が悪かったから……とかになる)
仏教の因果応報とごっちゃ。
最終的勝者には凄く都合いい理屈ではあるが。
0969人間七七四年
2012/04/15(日) 13:45:23.08ID:gUVb0ccU悪くいいまくり。こんな悪事をしたから因果応報で滅んだんだ、巻き添え食らった連中がかわいそうだ調。
日本特有、というのはどっかのタチ悪いデマじゃ……。
0970人間七七四年
2012/04/15(日) 14:26:25.15ID:R1BOnlq6でもそれって主家簒奪している秀吉の勝手な言い分だと思うけどな。
まあそれでも三法師はいいとして信雄改易に追放、信孝切腹(信長の側室と孫も殺してるし)
信包改易、織田家のどっかの寺縮小、佐治一成も改易だっけ?
野人から取り立ててもらった主家に対して結構な仕打ちだと思うけど。
家康の「主家(織田家)を蔑ろにしたからだ」という言葉は彼自身の後ろめたさ
から発した言葉だろうけど、家康はそういう事実と捉えていたという事だよね。
確か堀直政かな?彼も秀吉の織田家に対する仕打ちに腹を立ててたというし。
秀吉自身も晩年、信長の夢を見てうなされたのは後ろめたさがあったからだろうし。
0971人間七七四年
2012/04/15(日) 14:47:53.06ID:zhs9n4gWそれは秀信がおとなしく秀吉に従ったからだろう
もし主君としての権利を要求してきたら、秀吉だって織田家を滅ぼさざるをえない
結局、秀吉が織田家を厚遇したのと、家康が豊臣家を滅ぼした差は
秀吉・家康に原因があるのではなく秀信・秀頼の対応の差
0972人間七七四年
2012/04/15(日) 15:35:12.13ID:J1kP088u0973人間七七四年
2012/04/15(日) 16:02:14.47ID:Hc6Dkf2Hまた、転封の拒否ってのは家臣になる事を拒むって事で、
はいそうですか何てわけにはいかない。
つーか、神戸も北畠も秀吉の主人でも何でもない。
> それは秀信がおとなしく秀吉に従ったからだろう
国松もそうされたなら当然従っただろうな。
市中引き回しの上、打ち首になったけど。
0974人間七七四年
2012/04/15(日) 16:28:36.85ID:R1BOnlq6>信孝切腹の指示はあくまで信雄。
でも信孝の辞世の句や、小牧・長久手の戦い時の家康家臣(誰か忘れたけど)が
秀吉に対する告発文?に信孝に対しての秀吉の処置に痛烈な皮肉を書いていたから
表向きはともかく実質的首謀者が誰かというのは皆わかってたんじゃないか?
確かに転封の拒否をした信雄はバカだと思うし、何らかの処置が必要なのは
わかるけど追放はやり過ぎだろう。確か更なる遠方地へ流されそうなのを
家康が取り直ししたんじゃなかったっけ。
>つーか、神戸も北畠も秀吉の主人でも何でもない。
主人ではないが大恩人の息子達だろう。
0975人間七七四年
2012/04/15(日) 17:03:56.42ID:Hc6Dkf2H> でも信孝の辞世の句
こんなもん未だに信じてるのか?
あのねぇ、当時信雄が最も邪魔だったのは信孝なの。
で、当時の秀吉と信雄の関係は主従ではなく同盟関係。
秀吉の命令で信雄が兄弟殺しを命ぜられる、なんて状況じゃないんだよ。
> 確かに転封の拒否をした信雄はバカだと思うし、
あのな、バカとかそういう問題じゃないの。
全国統一の締めくくりで公然と家臣になる事を拒否する人間がいるのに
改易もしなかったら政権運営の根底を揺るがす大問題になるんだよ。分かる?
> 主人ではないが大恩人の息子達だろう。
本来庶子であり、他家の人間がそれだけの理由だけで主人面出来るわけないだろ。
0976人間七七四年
2012/04/15(日) 17:13:39.54ID:xzY45Fcs0977人間七七四年
2012/04/15(日) 17:31:46.53ID:R1BOnlq6江戸時代のお芝居の演目に秀吉が織田家を簒奪した事に対する非難
のお芝居があったらしい(確か西村京太郎さんが何かのコラムに書いていたかな)。
ただ最終的に豊臣家簒奪した徳川家の非難になるからだんだん演じられなくなった
そうな。
0978人間七七四年
2012/04/15(日) 17:59:42.76ID:aHpJ01XJ明智光秀に政権中枢の信長信忠を殺害され、
信雄や信孝は混乱して何も出来ないか一族の者に言いがかりつけて仲間割れ、
有楽や三法師は少数の随身たちと逃げまくってる状態
秀吉が居なければ織田家衰退どころか本能寺の変の後に一族全滅してたよ
もっとも秀吉が救った三法師秀信は、後に家康に見殺しにされてるんだけどね
0979人間七七四年
2012/04/15(日) 18:03:11.28ID:Hc6Dkf2H同列に語るような問題じゃないって事くらい理解しろよ。
あとな、「簒奪」の使い方が間違ってる事くらいいいかげん学べ。
0980人間七七四年
2012/04/15(日) 18:25:18.66ID:oMaBzxpQどこで秀吉がそれをいっているのか知らないが、暗にこれ以上を望むのは過分で、もし望むなら罰を与えるって意味だぞ
0981人間七七四年
2012/04/15(日) 18:49:05.42ID:aHpJ01XJ江北12万石を治める筑前守に任命した信長に対し、
父と祖父を殺害され生命の危険に晒された庶出の三法師を
岐阜13万石を治める中納言に任命した秀吉
信長の貸しは返したと言い切る秀吉の理屈も分からんでもない
家康も信長や秀吉の直系の子孫にそれぞれ駿河一国15万石や
関八州への加増100万石分くらい与えていれば
恩義を大事にする家康公のまま道義的負い目を感じずに済んだに違いない
もっともそんな情に流される放漫経営では
二百年を超える長期政権の樹立は覚束なかったろうけど
0982人間七七四年
2012/04/15(日) 19:08:20.20ID:zhs9n4gWじゃあそのまま秀信を立てて、自分は後見役でいいでしょう
どう言い繕っても権力を簒奪していて、秀信がそれに対して異を唱えていたら、
秀吉は権力を返したのか?
家康が悪い、秀吉が悪いじゃなくて、やってることは同じ
0983人間七七四年
2012/04/15(日) 19:28:24.75ID:aHpJ01XJ織田政権は本能寺の変で完全に崩壊してるから、
権力を返すどころか返す権力自体が存在しないわけだけど
秀吉の築いた豊臣政権は秀吉自身が勢力圏を拡げ制度を整えたもの
それに対し秀信がもし「主君の権利」を要求したら、
秀吉が秀信を討っても誰も同情しないだろうよ
例えるなら秀頼が家康に徳川幕府の二代将軍の地位を要求するようなもの
事実は徳川と併存する貴族としての豊臣、いわゆる「二重公儀体制」の片翼としての
既得権益すら家康が秀頼から奪おうとしたから大坂の陣が起きたわけで
0984人間七七四年
2012/04/15(日) 19:29:22.24ID:RS+SIS4Rその宋でも簒奪した相手の主家を粛清せず、貴族として遇する事を良い話、としているからな。
お陰で旧勢力を立てて宋を倒す、という事はなかった。
代わりに外交に失敗して蛮族と見下してた金や元にやられちゃうわけだが。
0985人間七七四年
2012/04/15(日) 19:31:27.07ID:RS+SIS4R崩壊してたら清洲会議という、継承問題と分配の場自体発生しないだろう。
どうもあちこちにマルチしている人くさいが、自分好みの結論ありきで初歩的歴史事項無視しても説得力は出ないぞ。
0986人間七七四年
2012/04/15(日) 19:39:45.59ID:aHpJ01XJ各種の日本史辞典で「織田政権」を引いてみ?
手元に日本史辞典がなければWikipediaでも良いからさ
本能寺の変で織田家が滅んだから信長の領土拡張率は0%!
とか言ってるだがはアホだけど、このことはそれこそ「初歩的歴史事項」
だったら君は何時の辞典で織田政権が滅んだっつうの?
0987人間七七四年
2012/04/15(日) 19:40:25.63ID:Hc6Dkf2H0988人間七七四年
2012/04/15(日) 19:42:18.15ID:RS+SIS4R崩壊したら所領を分け合う、という要素自体がごっそり抜け落ちるじゃないか。
普通に切り取り次第、という無秩序状態に逆戻りするだけだろう。
0989人間七七四年
2012/04/15(日) 19:58:57.73ID:Hc6Dkf2H> 崩壊したら所領を分け合う、という要素自体がごっそり抜け落ちるじゃないか。
んなわけないだろ。
所領というのは本来主君から預けられる物であって、
家臣が勝手に分配して良い物じゃない。
織田家の分と別に所領を分配している時点で織田政権という物は成立しないんだよ。
0990人間七七四年
2012/04/15(日) 20:01:25.16ID:aHpJ01XJ「何時織田政権が滅んだのか?」つう質問をスルーして
下の書き込みの相手するのは寂しいね
清洲会議は織田家の継承問題を信長の息子たち及び重臣たちで
取り計らう場ではあったが、織田政権の権力基盤であった畿内の勢力圏や
朝廷から認められた唯一無二の公儀としての権威は既に織田家の手から離れている
こんな状態の織田家を以て「織田政権」なんて藤田達生氏以外は呼ばんよ
豊臣家は家康の江戸幕府開府(政権担当者としての豊臣家の終焉)
以降も大坂の陣で滅亡するまで、もっと言うなら
豊臣氏自身は備中足利と豊後日出で存続するが、
豊臣政権が幕末まで続いたなんて言う馬鹿は居ない
0991人間七七四年
2012/04/15(日) 20:06:30.12ID:5lQ3KQ3q家康の「井伊のような功臣筆頭ですら中堅クラスに抑える・大封は血縁に」はこれを見たからかな。
戦国時代だと血縁相克が当たり前だったんだけど。
0992人間七七四年
2012/04/15(日) 20:09:24.89ID:K4bZGzRU秀吉だけを非道徳だとか非難するとか言語道断だぞ クソ長厨
0993人間七七四年
2012/04/15(日) 20:12:01.75ID:R1BOnlq6どれほど秀吉が優秀であっても彼の天下統一は信長の基盤があってこそだよね。
その基盤を秀吉は頂いたのだからやっぱり乗っ取りじゃないかな。
0994人間七七四年
2012/04/15(日) 20:12:41.77ID:5lQ3KQ3q途端? 信長の敵討ちに動いた家臣、小身ながら光秀に逆らった家臣、信長の遺族保護した家臣たくさんいたが。
ま、秀吉自身が晩年に幻影に悩むほど自身の行いを後悔した節はあるが、基本的に道徳とか当時はほとんど無意味な話であって支配術に属するだろうなぁ。
0995人間七七四年
2012/04/15(日) 20:18:31.58ID:K4bZGzRU0996人間七七四年
2012/04/15(日) 20:25:57.41ID:K4bZGzRU0997人間七七四年
2012/04/15(日) 23:12:16.74ID:7yqBF9c20998人間七七四年
2012/04/15(日) 23:12:47.69ID:7yqBF9c20999人間七七四年
2012/04/15(日) 23:13:26.81ID:7yqBF9c21000人間七七四年
2012/04/15(日) 23:13:50.46ID:7yqBF9c210011001
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