真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4
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0001人間七七四年
2011/10/08(土) 15:06:17.83ID:bv5XPUMk真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251477752/
0038人間七七四年
2011/10/26(水) 21:02:11.73ID:LvJoxCgfただ、昌幸が述べたって言う戦略の話はどうだろうね
牢人部隊だらけの大坂軍が、んな効率良く展開できるとは思えない
実際に道明寺決戦などではバラバラだったしな
0041人間七七四年
2011/10/27(木) 11:31:20.06ID:OILTKwKA0042人間七七四年
2011/10/29(土) 22:31:25.95ID:XIlXBcBZ0043人間七七四年
2011/10/30(日) 01:13:36.60ID:cRLU4r0g0044人間七七四年
2011/10/30(日) 01:38:37.45ID:XZEjU1Oh昌幸だって淀君ら豊臣中枢の人らとは面識のない一豪族にすぎない
政治に参加は出来まい
生きて入城しても、信繁と似たような境遇だったろう
0045人間七七四年
2011/10/30(日) 02:25:39.44ID:9YQ4nuLk0046人間七七四年
2011/10/30(日) 03:08:40.35ID:+Sme72tS0047人間七七四年
2011/10/30(日) 11:47:19.26ID:HGbriStFそのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。
0049人間七七四年
2011/10/30(日) 16:26:37.36ID:9YQ4nuLk俺が言ってるのは「地方の一豪族」とか言ってる奴の認識の問題。
鎌倉以来の名門を一地方領主と混同してるのはちょっとな。
ちなみに家康移封の際にも小笠原・諏訪・木曽といった面々は関東に領地替えとなったが、
真田だけは領地替えにならず、小県を安堵され更に吾妻・沼田を与えられた。
これは本来の滋野氏の領国であり、秀吉が滋野氏嫡流として本願地を真田に与えた事を意味する。
また、上田城からは金箔瓦や菊紋の瓦が出土されているが、
これは秀吉の許可がなければ出来ない事で、
真田家が特別な位置付けをされていた事が伺える。
0050人間七七四年
2011/10/30(日) 18:01:20.48ID:QZCAF/qoその後、真田だけ独立→豊臣に臣従したってだけの話じゃないの?
0051人間七七四年
2011/10/30(日) 19:05:32.88ID:bs7UgQjS0052人間七七四年
2011/10/30(日) 19:05:38.72ID:XZEjU1Oh信繁が人質として大坂にいて秀吉の信頼得てたからな
豊臣姓賜ってるんだよ
小笠原・諏訪・木曽との信頼度の差は歴然だろ。難しく考えんなよ
だいたい、名胡桃の件で真田の肩持ってるのに直後に代えるかね
小田原後の論功行賞で領地増えるのは当たり前だ
0053人間七七四年
2011/10/31(月) 19:13:25.91ID:jrs6SZey真田神社とか捏造するんじゃねーよ
0054人間七七四年
2011/11/01(火) 00:00:18.62ID:NKDKzYdU0055人間七七四年
2011/11/01(火) 00:10:14.66ID:o1YxZil/理由は伊達関連だから(一応マジで)
0056人間七七四年
2011/11/01(火) 00:16:48.60ID:R8ebT6iE0057人間七七四年
2011/11/01(火) 00:19:47.37ID:Go0qZC290058人間七七四年
2011/11/01(火) 07:56:59.00ID:NKDKzYdU0059人間七七四年
2011/11/01(火) 08:58:29.25ID:R8ebT6iE0060人間七七四年
2011/11/01(火) 11:45:13.08ID:yXKMmx1E片倉重長の正室が信繁の娘で、弟が姉を頼ったってのは一応史実だよね?
それを打ち消すような資料があるってこと?
状況的に捏造する必要も分からないし、何故怪しいのかが分からない
0061人間七七四年
2011/11/01(火) 11:58:20.07ID:bQhVXQuR> 片倉重長の正室が信繁の娘
それを証明する史料は一切無いからなあ。そもそも大阪城に娘連れてきているのは不自然だし。
後になってから真田氏を自称したと見たほうがいいだろうな。
0062人間七七四年
2011/11/01(火) 15:13:04.89ID:o1YxZil/0063人間七七四年
2011/11/02(水) 00:06:32.76ID:+j2nxBnmそれを証明する史料もないし
伊達、片倉、真田が全部ウソついてるのか
0064人間七七四年
2011/11/02(水) 00:24:24.31ID:S7eZUr9+何らかの確証のある疑惑じゃない
0065人間七七四年
2011/11/02(水) 00:27:11.33ID:b7bXDjDB0066人間七七四年
2011/11/02(水) 00:27:59.66ID:wKCoZT5r実際どうか、という疑問は突き詰めたらキリがないけど、家名は公認を得られればそれで成り立つ。江戸時代ってそんなやん
血縁にこだわるなら松代真田も江戸末期だと全く関係ない人が当主だぞ
0067人間七七四年
2011/11/02(水) 00:36:03.98ID:b7bXDjDB誰も問題にしてないと思うが。
0068人間七七四年
2011/11/02(水) 00:48:03.29ID:wKCoZT5r仮にも家康に敵対した有名人信繁の子孫を自称してるのをさ
0069人間七七四年
2011/11/02(水) 02:31:39.73ID:sRHMrGxA元巨塵の真田みたく自称の可能性もあるわけか
かと言ってそうじゃないという証拠もないわけだ
悪い見方すると、人気にあやかりたい片倉側と、幸村の血を引く家系が欲しいという真田側の利害が一致ってとこか。
まあ歴史において証拠がないなんて言い出したら、キリがなくなるし、つまんなくなるな
0070人間七七四年
2011/11/02(水) 08:49:10.41ID:+X0heF6J分からんよなそんなもん
伊達政宗系統はDNA鑑定で三代まで血縁確実なのが判明してるが
遺髪が残ってる武将はその点羨ましいな
血判とかでも残ってたら分かるんだろうか
0071人間七七四年
2011/11/02(水) 08:59:16.38ID:HXAvJBtr0072人間七七四年
2011/11/02(水) 09:55:05.04ID:RoKb08WA0073人間七七四年
2011/11/02(水) 13:03:13.62ID:/z4FIDNO0074人間七七四年
2011/11/02(水) 13:14:01.50ID:kC70vSeb0075人間七七四年
2011/11/02(水) 14:15:07.85ID:HXAvJBtr0076人間七七四年
2011/11/02(水) 15:04:08.07ID:/z4FIDNOそれこそ伊達家の主張じゃん
1624年、大八を幕府が捜索
八歳の時に京都で石投げにて事故死。と伊達家が幕府に主張
真田本家はこれを採用し、死亡と記録した
0077人間七七四年
2011/11/02(水) 16:16:01.79ID:N9xN1IG10079人間七七四年
2011/11/02(水) 16:48:05.20ID:/z4FIDNO落城時は三歳
それから数年の動向が分からないが、八歳で死亡と言う情報が何故か伊達家から出てくる
これらを考えれば、落城からの後に何らかの形で伊達家が絡んでいたと考えるのは妥当じゃなかろうか?
伊達家だから怪しいってのはあるのかもしれないが、断定は出来ないな
0080人間七七四年
2011/11/02(水) 20:31:51.84ID:+j2nxBnmまぁそのほうがドラマ性があって面白いからいいじゃん
0081 忍法帖【Lv=40,xxxPT】
2011/11/02(水) 22:09:42.84ID:koNKw4Bl0082人間七七四年
2011/11/02(水) 22:12:27.82ID:v//N1vXT伸びてないけども
【信綱】真田氏を語ろう【頼綱】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1294954414/
0083人間七七四年
2011/11/04(金) 20:02:13.08ID:/6k90PJH0084人間七七四年
2011/11/05(土) 14:44:21.77ID:+nCakppK0085人間七七四年
2011/11/05(土) 19:33:06.71ID:Agp+3tCp出身とか活躍の記録はないんでしょうか。
0086人間七七四年
2011/11/05(土) 20:08:52.00ID:RV4KmIqE0087人間七七四年
2011/11/05(土) 20:50:18.51ID:JW51mGuU幸隆まで伸ばせばいるのかもしれんが・・・
まあいずれにしてもこの世のどこかにはいるのかな
0088人間七七四年
2011/11/05(土) 21:29:56.18ID:fX1+ak6T0089人間七七四年
2011/11/05(土) 23:31:07.30ID:2Oq1fUoD岩城家に嫁に行った娘とかの子孫ならいるんじゃね?
幕府による残党狩りとか厳しかっただろうから
仙台真田家も史料はほとんどない
0090人間七七四年
2011/11/06(日) 05:05:06.72ID:iXx58NDcリスキーだな
0091人間七七四年
2011/11/06(日) 10:32:49.04ID:lpRXsxHFむしろ大坂方の邪魔ばっかりしていた感じでw
0092人間七七四年
2011/11/06(日) 14:31:25.29ID:Q1ryFLJG0093人間七七四年
2011/11/06(日) 15:29:16.77ID:hfSGak8T0094人間七七四年
2011/11/08(火) 23:37:34.87ID:Ha9au5fK0095人間七七四年
2011/11/10(木) 19:42:54.88ID:28Ctn3Oi0096人間七七四年
2011/11/11(金) 09:06:32.71ID:9zxNneHa真田丸は秀吉の晩年に改修して作られたものだと知って、これもがっかり
何か色々とウリナラファンタジー並みの捏造に見えてきた
大坂の陣の信繁自体、信之立場を知った今じゃ素直にかっこいいと言えなくなったし
信繁って真田家を知れば知るほど魅力が薄れていく
信繁じゃなく、語られてるのは幸村って言われてしまえば反論は出来ないけどさ
でも講談からとは言え、世間や上田市まで幸村の全てが史実みたいな雰囲気だし
昌幸と信之を知るきっかけは「真田幸村」だったからその点では凄い感謝してる
長文申し訳ないです
0097人間七七四年
2011/11/11(金) 10:48:50.04ID:ccvf/togなんて事にしたら大河にできないからなw
信繁は断片的な史料とか見ると、どうも秀頼の馬廻りみたいなことしてたっぽいんだよなあ。
華々しく戦った他の牢人衆と、ちょっと役割が違った感じ。
0098人間七七四年
2011/11/11(金) 10:59:08.11ID:AcE6NybNいい本ないかなあ……
0099人間七七四年
2011/11/11(金) 20:58:07.33ID:uDDmkU9U真田丸に入ったのは、真田信繁&伊木遠雄&長宗我部盛親 じゃないのか?
0100人間七七四年
2011/11/12(土) 00:37:08.98ID:oGUMnIRB>真田丸の守将が長宗我部だった事にがっかりした
>真田丸は秀吉の晩年に改修して作られたものだと知って、これもがっかり
>何か色々とウリナラファンタジー並みの捏造に見えてきた
ソースというか史料というか、何処に出てるのか教えてください
0101人間七七四年
2011/11/12(土) 00:41:15.02ID:esweEOMqごめん言葉が足りなかった
自分がまだ真田家は信繁しか知らなかった頃、
真田丸は信繁一人が受け持ってたと思っててさ
それで色々調べていくうちに、世間一般に浸透してる印象と随分違うなって思ったんだ
0102人間七七四年
2011/11/12(土) 02:22:17.49ID:esweEOMqレスあったの気付かなかった申し訳ないです
真田丸の長宗我部は今となっては結構有名になってきた話じゃないかな
ネットでもググったらソース付きで出てると思う
自分は前に関西に旅行行った時、改修の話と一緒に現地の人から聞いた
0103人間七七四年
2011/11/12(土) 03:21:51.21ID:pT/FWVd+真田丸の守将が長曽我部盛親ってのは真田信繁が守将ではなかったと言いたいのかな?
半分は盛親が担当したのでは?的なものなら目にしたことはあるけど、定説ではないよね
秀吉が真田丸を構築したってのも、疑問
大阪城の南方を敢えて平地のまま残していたって話なら分かる
有事の際にはそこに敵を集め防備を硬め殲滅するって内容ね
でも、真田丸を実際に構築したのは信繁ってのが定説だとおもうんだけど?
しっかりとした資料を提示せずに、一説にはってレベルの話を持ち出すなら、信繁、幸昌、秀頼は死なずに九州へ落ちたって話すらも罷り通るんじゃないかな?
0104人間七七四年
2011/11/12(土) 03:24:51.82ID:pT/FWVd+0105人間七七四年
2011/11/12(土) 06:55:41.49ID:yIc2PK6M真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という。
ただし兵力差を考えれば、真田の方が小さいだろうね。
0106人間七七四年
2011/11/12(土) 08:53:13.91ID:A/0JFEcaだから撃ちたい放題出来たはず
家康も真っ先に堀を埋めさせるはずだよ
0107人間七七四年
2011/11/12(土) 11:45:25.79ID:6m4o+4yY> 秀吉が真田丸を構築したってのも、疑問
疑問って言われても、いわゆる真田丸が秀吉の死んだ年である慶長三年の豊臣大阪城最後の大改修で
構築されたというのは、確か考古学的にも確認されていたような。
あと真田丸の守将に関しても、真田信繁は部隊を「真田丸」に置いていたにせよ、自身は
旗本よろしく秀頼の側廻りに控えていたフシがあるので、真田丸で指揮を取ったというのは考えにくい。
それに部隊規模としても長曾我部隊のほうが明らかに大きく、少数の真田が多数の長曾我部を
指揮下に入れるとは非常に考えにくい。
以上を総合すれば「真田丸」の守将は長宗我部盛親であったと見るのが自然だと思うよ?
0108人間七七四年
2011/11/12(土) 12:26:42.03ID:RIApqsOI0109人間七七四年
2011/11/12(土) 12:58:45.21ID:pWsDTjCd> 旗本よろしく秀頼の側廻りに控えていたフシがある
> 部隊規模としても長曾我部隊のほうが明らかに大きく
何の史料に載ってるの?
0110人間七七四年
2011/11/12(土) 15:12:48.33ID:0aiwmAWU0111人間七七四年
2011/11/12(土) 15:32:01.44ID:bgwzOh9g0112人間七七四年
2011/11/12(土) 16:55:39.61ID:QQ6ZN3hC幽閉された後も父子揃って浪費家で、兄夫婦からと浅野さんだっけ?の援助と
内職で賄っても足りない状態だったんだよね?
大坂入りの時も豊臣方からしたら誰おま状態だったみたいだし
って話を日本史の時間にクラスメートと語り合ったのをこの流れで思い出したw
0113人間七七四年
2011/11/12(土) 19:00:17.94ID:XNnnpxm0牢人衆の中でも大軍を率いるノウハウを持つ数少ない武将として
元20万石の長宗我部と元7万石の毛利とともに特別待遇を受けたとのこと
信繁自身はすかんぴんだが豊臣家が優遇してどんどん与力を付けてくれたわけだ
0114人間七七四年
2011/11/12(土) 19:01:36.48ID:XNnnpxm00115人間七七四年
2011/11/13(日) 09:49:12.74ID:xHArp0u00116人間七七四年
2011/11/13(日) 10:31:21.76ID:1S2s1492つーか、いくら与力をつけられたって、大軍を運用するには手足と成る信用できる中隊長クラスが手元に大量に無いと
どうにもできないわけで。
それを持たない以上、信繁の軍隊運用能力は、信繁がどんなに才能があったとしても
2〜3000がせいぜいだろうな。
信繁の最後は大体どの史料・軍記でも一人で孤立していた所を討ち取られた、となっているので、
これを信じれば近習含めて周りの家臣はみんな逃げ出したということだろうから、これは信繁の部隊が
雑多な寄りあいであったことを表しているのだろうな。
0117人間七七四年
2011/11/13(日) 12:12:49.04ID:/S2q8Fxz昌幸時代からの旧臣が参戦してるって
ちょっとググってみ?
昌幸と信繁が配流されるときにも相当数でついていってるから、家臣がいなかったってのは当てはまらないんじゃないかな
0118人間七七四年
2011/11/13(日) 14:16:02.09ID:sEFzUP4n鈴木右近が出奔した理由って結局今も謎のまま?
0119人間七七四年
2011/11/13(日) 15:02:41.68ID:PX6CKE8P0120人間七七四年
2011/11/13(日) 15:24:12.27ID:///bU3+Z0121人間七七四年
2011/11/13(日) 18:57:34.77ID:Kk+hMCff>>116
部隊長クラスを複数引き連れて入城出来たのは長宗我部だけだから仕方あんめい
当然真田だけでなくどこも寄り合い所帯、どこも同じなら多少でもノウハウがある真田が
主力部隊のひとつになるのも、当然の成り行き。
0122人間七七四年
2011/11/13(日) 22:13:35.74ID:AR538YLH娘が信繁に嫁いだ高梨内記さんはずっと信繁と一緒だよん。
0123人間七七四年
2011/11/14(月) 01:30:30.65ID:CegNulH4しかしだいぶ前に見たからどの資料に書いてたかが思い出せない…
0124人間七七四年
2011/11/14(月) 01:53:13.06ID:3P2txFFFそんな軍勢で積極的な出撃策など取れるわけがない。
0125死
2011/11/14(月) 05:49:55.33ID:SImCEvNB相当活躍したべ
0126人間七七四年
2011/11/14(月) 08:00:41.69ID:+HnOxBbO・実際の戦闘行為は上田合戦のみなのでそれに勝利した真田の勝ち
・関ヶ原の戦いの流れで開城したので真田の負け
・関ヶ原の戦い全体では勝敗無し
のどれに当たるのかな
0128人間七七四年
2011/11/14(月) 10:35:10.70ID:3P2txFFF上田合戦って別に勝ってないじゃん。引き止めただけの話。
しかも家康の書状が届いたらさっさとスルーされただけだし。その秀忠に追撃すら出来ず
引きこもってただけ
0129人間七七四年
2011/11/14(月) 13:56:47.96ID:SzMUd8db小競りあいでは勝ってはいる
実質的には足止めしたのは使者だけどね
左近だって小競り合いじゃあ勝ってる
0130人間七七四年
2011/11/14(月) 16:27:37.82ID:prr/6Al00131人間七七四年
2011/11/14(月) 17:27:54.26ID:Gd5+ZR7uで真田は第二次上田合戦で守りきったけどあれって関ヶ原の戦いの一つなのかな
って考えたら世間でいう真田が徳川に勝ったっていうのも
どうかなって思ったんだよ。第一次上田合戦は真田の勝ちには違いないけど。
0132人間七七四年
2011/11/14(月) 23:41:56.64ID:bVAAdlGP海野の旗印は六連銭。当然信繁の旗印も同じ。
ただそれを大坂の陣で使わなかったってだけの話で、別にwikiは間違ってないぞ。
0133人間七七四年
2011/11/15(火) 22:05:32.52ID:MgcuUdaW0134人間七七四年
2011/11/15(火) 23:10:35.83ID:YAGnxBSk0135人間七七四年
2011/11/16(水) 14:07:38.14ID:uRj2/Inq0136人間七七四年
2011/11/16(水) 20:59:11.66ID:MQdAB4dA信繁って大阪の陣だけの一発屋なイメージしかない
0137人間七七四年
2011/11/17(木) 09:42:16.34ID:+HAiG0aj■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています