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真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 4

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0001人間七七四年2011/10/08(土) 15:06:17.83ID:bv5XPUMk
前スレ
真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ 3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251477752/
0038人間七七四年2011/10/26(水) 21:02:11.73ID:LvJoxCgf
昌幸が大坂城にいる・・ってなれば確かに怖いだろうな

ただ、昌幸が述べたって言う戦略の話はどうだろうね
牢人部隊だらけの大坂軍が、んな効率良く展開できるとは思えない
実際に道明寺決戦などではバラバラだったしな
0039人間七七四年2011/10/26(水) 21:30:09.39ID:0rIQB5pP
>>37
じゃあそんな人間をどうして大阪は信用すると思うんだよ?w
0040人間七七四年2011/10/27(木) 11:21:30.44ID:8nj2Sius
>>39
徳川を二度撃退した実績もあるし
恩も売ってるしな
幕府よりはずっと信用するだろ
0041人間七七四年2011/10/27(木) 11:31:20.06ID:OILTKwKA
つまりそれだけ昌幸の付け入る隙が大きいと。チョロイなあw
0042人間七七四年2011/10/29(土) 22:31:25.95ID:XIlXBcBZ
あれ?信繁って大坂には何人連れて入ったんだっけ?一緒に九度山でわいわいやってた人はおにいちゃんのとこに戻ってるようだし。軍勢連れて入れるわけないだろうし。そんなんだと発言力でかくできないよね?
0043人間七七四年2011/10/30(日) 01:13:36.60ID:cRLU4r0g
所詮、田舎の一豪族の次男坊だからな
0044人間七七四年2011/10/30(日) 01:38:37.45ID:XZEjU1Oh
そもそも牢人衆に発言力あったのかと
昌幸だって淀君ら豊臣中枢の人らとは面識のない一豪族にすぎない
政治に参加は出来まい
生きて入城しても、信繁と似たような境遇だったろう
0045人間七七四年2011/10/30(日) 02:25:39.44ID:9YQ4nuLk
信濃の古名族、滋野姓海野氏嫡流を田舎の一豪族扱いかよ。
0046人間七七四年2011/10/30(日) 03:08:40.35ID:+Sme72tS
淀なら田舎の豪族扱いしそうだ
0047人間七七四年2011/10/30(日) 11:47:19.26ID:HGbriStF
信繁は豊臣性を持ってたので、息子と一緒に秀頼の親衛隊長みたいな感じになってたっぽい。
そのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。
0048人間七七四年2011/10/30(日) 12:12:40.03ID:XZEjU1Oh
>>45
豊臣政権の人にとっては全く関係ありませんな
そもそもたいした血筋でもない
0049人間七七四年2011/10/30(日) 16:26:37.36ID:9YQ4nuLk
>>48
俺が言ってるのは「地方の一豪族」とか言ってる奴の認識の問題。
鎌倉以来の名門を一地方領主と混同してるのはちょっとな。
ちなみに家康移封の際にも小笠原・諏訪・木曽といった面々は関東に領地替えとなったが、
真田だけは領地替えにならず、小県を安堵され更に吾妻・沼田を与えられた。
これは本来の滋野氏の領国であり、秀吉が滋野氏嫡流として本願地を真田に与えた事を意味する。
また、上田城からは金箔瓦や菊紋の瓦が出土されているが、
これは秀吉の許可がなければ出来ない事で、
真田家が特別な位置付けをされていた事が伺える。
0050人間七七四年2011/10/30(日) 18:01:20.48ID:QZCAF/qo
本能寺の変後に、小笠原・諏訪・木曽・真田・芦田等々が家康配下になって、
その後、真田だけ独立→豊臣に臣従したってだけの話じゃないの?
0051人間七七四年2011/10/30(日) 19:05:32.88ID:bs7UgQjS
タヌキも引き込もうとしてたしな。でなきゃ鬼嫁養女にした後に送らないだろ
0052人間七七四年2011/10/30(日) 19:05:38.72ID:XZEjU1Oh
>>49
信繁が人質として大坂にいて秀吉の信頼得てたからな
豊臣姓賜ってるんだよ
小笠原・諏訪・木曽との信頼度の差は歴然だろ。難しく考えんなよ
だいたい、名胡桃の件で真田の肩持ってるのに直後に代えるかね
小田原後の論功行賞で領地増えるのは当たり前だ
0053人間七七四年2011/10/31(月) 19:13:25.91ID:jrs6SZey
上田市のアホボケカス。
真田神社とか捏造するんじゃねーよ
0054人間七七四年2011/11/01(火) 00:00:18.62ID:NKDKzYdU
仙台真田家って信憑性あるの?
0055人間七七四年2011/11/01(火) 00:10:14.66ID:o1YxZil/
あまりない
理由は伊達関連だから(一応マジで)
0056人間七七四年2011/11/01(火) 00:16:48.60ID:R8ebT6iE
ぶっちゃけ真田と血縁すら全くない可能性が高い>仙台真田
0057人間七七四年2011/11/01(火) 00:19:47.37ID:Go0qZC29
だって伊達だもん
0058人間七七四年2011/11/01(火) 07:56:59.00ID:NKDKzYdU
上田の真田祭りに毎年参加してるから、信之系の真田家も認めてるんじゃないの?
0059人間七七四年2011/11/01(火) 08:58:29.25ID:R8ebT6iE
認めていることと実際にどうかというのは全く別
0060人間七七四年2011/11/01(火) 11:45:13.08ID:yXKMmx1E
何をもって信用出来ないって話になってるの?
片倉重長の正室が信繁の娘で、弟が姉を頼ったってのは一応史実だよね?
それを打ち消すような資料があるってこと?
状況的に捏造する必要も分からないし、何故怪しいのかが分からない
0061人間七七四年2011/11/01(火) 11:58:20.07ID:bQhVXQuR
>>60
> 片倉重長の正室が信繁の娘

それを証明する史料は一切無いからなあ。そもそも大阪城に娘連れてきているのは不自然だし。
後になってから真田氏を自称したと見たほうがいいだろうな。
0062人間七七四年2011/11/01(火) 15:13:04.89ID:o1YxZil/
正室の竹林院は戦後紀伊で発見されてたしね
0063人間七七四年2011/11/02(水) 00:06:32.76ID:+j2nxBnm
最初から真田と片倉の間で密約とかがあったならいいけど
それを証明する史料もないし
伊達、片倉、真田が全部ウソついてるのか
0064人間七七四年2011/11/02(水) 00:24:24.31ID:S7eZUr9+
嘘つっても伊達の言うことは信じらんねー的なアレだろ
何らかの確証のある疑惑じゃない
0065人間七七四年2011/11/02(水) 00:27:11.33ID:b7bXDjDB
確証が無いというのなら、仙台真田氏が信繁と繋がりがあるという確証は一切存在しないんだが。
0066人間七七四年2011/11/02(水) 00:27:59.66ID:wKCoZT5r
仙台真田は江戸中期に松代真田からも幕府からも認められてる
実際どうか、という疑問は突き詰めたらキリがないけど、家名は公認を得られればそれで成り立つ。江戸時代ってそんなやん
血縁にこだわるなら松代真田も江戸末期だと全く関係ない人が当主だぞ
0067人間七七四年2011/11/02(水) 00:36:03.98ID:b7bXDjDB
だからそもそもが自称だった可能性が高いということを言っているので、正当性とかそういう事を
誰も問題にしてないと思うが。
0068人間七七四年2011/11/02(水) 00:48:03.29ID:wKCoZT5r
なんで本家や幕府が認めたか、だな
仮にも家康に敵対した有名人信繁の子孫を自称してるのをさ
0069人間七七四年2011/11/02(水) 02:31:39.73ID:sRHMrGxA
じゃあ何か
元巨塵の真田みたく自称の可能性もあるわけか
かと言ってそうじゃないという証拠もないわけだ
悪い見方すると、人気にあやかりたい片倉側と、幸村の血を引く家系が欲しいという真田側の利害が一致ってとこか。
まあ歴史において証拠がないなんて言い出したら、キリがなくなるし、つまんなくなるな
0070人間七七四年2011/11/02(水) 08:49:10.41ID:+X0heF6J
血縁か…今更鑑定するなんてことも出来ないだろうし
分からんよなそんなもん
伊達政宗系統はDNA鑑定で三代まで血縁確実なのが判明してるが
遺髪が残ってる武将はその点羨ましいな
血判とかでも残ってたら分かるんだろうか
0071人間七七四年2011/11/02(水) 08:59:16.38ID:HXAvJBtr
単に伊達家絡みと言うだけでなく状況的にも色々と怪しい所があるとだけ言っとく。
0072人間七七四年2011/11/02(水) 09:55:05.04ID:RoKb08WA
まあ伊達の主張の大半は捏造だからウソの可能性は99%くらいかな
0073人間七七四年2011/11/02(水) 13:03:13.62ID:/z4FIDNO
じゃあ本物の大八はどこいっちまったの?て疑問
0074人間七七四年2011/11/02(水) 13:14:01.50ID:kC70vSeb
DNAがDQNの見えた
0075人間七七四年2011/11/02(水) 14:15:07.85ID:HXAvJBtr
京都で石ぶつけて死んだ
0076人間七七四年2011/11/02(水) 15:04:08.07ID:/z4FIDNO
>>75
それこそ伊達家の主張じゃん
1624年、大八を幕府が捜索
八歳の時に京都で石投げにて事故死。と伊達家が幕府に主張
真田本家はこれを採用し、死亡と記録した
0077人間七七四年2011/11/02(水) 16:16:01.79ID:N9xN1IG1
伊達家でイスラム並みの石打ち刑で死刑にしたのか・・・
0078人間七七四年2011/11/02(水) 16:39:15.45ID:iqOMclv6
>>68
江戸中期にもなればそんな事誰も問題にしない。100年経ってるんだぜ?
0079人間七七四年2011/11/02(水) 16:48:05.20ID:/z4FIDNO
守信は1612年生まれ
落城時は三歳
それから数年の動向が分からないが、八歳で死亡と言う情報が何故か伊達家から出てくる
これらを考えれば、落城からの後に何らかの形で伊達家が絡んでいたと考えるのは妥当じゃなかろうか?
伊達家だから怪しいってのはあるのかもしれないが、断定は出来ないな
0080人間七七四年2011/11/02(水) 20:31:51.84ID:+j2nxBnm
NHKの真田&伊達特集でも阿梅は片倉家に引き取られたといってたな
まぁそのほうがドラマ性があって面白いからいいじゃん
0081 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 2011/11/02(水) 22:09:42.84ID:koNKw4Bl
信綱さんの話題もここですか?
0082人間七七四年2011/11/02(水) 22:12:27.82ID:v//N1vXT
>>81
伸びてないけども

【信綱】真田氏を語ろう【頼綱】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1294954414/
0083人間七七四年2011/11/04(金) 20:02:13.08ID:/6k90PJH
真田信倍って誰ですか?
0084人間七七四年2011/11/05(土) 14:44:21.77ID:+nCakppK
昌幸の養女をもらって、真田姓を名乗ったとか見たことあるような気がした
0085人間七七四年2011/11/05(土) 19:33:06.71ID:Agp+3tCp
そうすると真田家とは全く血がつながって無い人なんですね。
出身とか活躍の記録はないんでしょうか。
0086人間七七四年2011/11/05(土) 20:08:52.00ID:RV4KmIqE
大阪(夏)で戦死したくらいしか分からないです
0087人間七七四年2011/11/05(土) 20:50:18.51ID:JW51mGuU
結局、確実に幸村と血がつながってる人っているの?
幸隆まで伸ばせばいるのかもしれんが・・・
まあいずれにしてもこの世のどこかにはいるのかな
0088人間七七四年2011/11/05(土) 21:29:56.18ID:fX1+ak6T
「幸村」の子孫と確実に言える存在はゼロだろうね
0089人間七七四年2011/11/05(土) 23:31:07.30ID:2Oq1fUoD
>>87
岩城家に嫁に行った娘とかの子孫ならいるんじゃね?
幕府による残党狩りとか厳しかっただろうから
仙台真田家も史料はほとんどない
0090人間七七四年2011/11/06(日) 05:05:06.72ID:iXx58NDc
信之ならまだしも、信繁の縁者を嫁に
リスキーだな
0091人間七七四年2011/11/06(日) 10:32:49.04ID:lpRXsxHF
リスキーも何も、信繁って実際には大阪の陣で殆ど何もしてないぞ。
むしろ大坂方の邪魔ばっかりしていた感じでw
0092人間七七四年2011/11/06(日) 14:31:25.29ID:Q1ryFLJG
また信繁貶して勝永持ち上げるマイナー厨か
0093人間七七四年2011/11/06(日) 15:29:16.77ID:hfSGak8T
どっちも負け組だからどうでもいい
0094人間七七四年2011/11/08(火) 23:37:34.87ID:Ha9au5fK
パパンの血脈はけっこうありそうだw
0095人間七七四年2011/11/10(木) 19:42:54.88ID:28Ctn3Oi
昌幸、信幸、幸村って甲斐国出身?
0096人間七七四年2011/11/11(金) 09:06:32.71ID:9zxNneHa
真田丸の守将が長宗我部だった事にがっかりした
真田丸は秀吉の晩年に改修して作られたものだと知って、これもがっかり
何か色々とウリナラファンタジー並みの捏造に見えてきた

大坂の陣の信繁自体、信之立場を知った今じゃ素直にかっこいいと言えなくなったし
信繁って真田家を知れば知るほど魅力が薄れていく
信繁じゃなく、語られてるのは幸村って言われてしまえば反論は出来ないけどさ

でも講談からとは言え、世間や上田市まで幸村の全てが史実みたいな雰囲気だし
昌幸と信之を知るきっかけは「真田幸村」だったからその点では凄い感謝してる

長文申し訳ないです
0097人間七七四年2011/11/11(金) 10:48:50.04ID:ccvf/tog
そりゃま上田市なんかにしたら「真田信繁は大坂の陣では実際には何やってたか良くわからない人です」
なんて事にしたら大河にできないからなw

信繁は断片的な史料とか見ると、どうも秀頼の馬廻りみたいなことしてたっぽいんだよなあ。
華々しく戦った他の牢人衆と、ちょっと役割が違った感じ。
0098人間七七四年2011/11/11(金) 10:59:08.11ID:AcE6NybN
関連の研究本読んでも講談混じりで判別が難しいしね
いい本ないかなあ……
0099人間七七四年2011/11/11(金) 20:58:07.33ID:uDDmkU9U
>>96

真田丸に入ったのは、真田信繁&伊木遠雄&長宗我部盛親 じゃないのか?
0100人間七七四年2011/11/12(土) 00:37:08.98ID:oGUMnIRB
>>96
>真田丸の守将が長宗我部だった事にがっかりした
>真田丸は秀吉の晩年に改修して作られたものだと知って、これもがっかり
>何か色々とウリナラファンタジー並みの捏造に見えてきた

ソースというか史料というか、何処に出てるのか教えてください
0101人間七七四年2011/11/12(土) 00:41:15.02ID:esweEOMq
>>99
ごめん言葉が足りなかった

自分がまだ真田家は信繁しか知らなかった頃、
真田丸は信繁一人が受け持ってたと思っててさ
それで色々調べていくうちに、世間一般に浸透してる印象と随分違うなって思ったんだ
0102人間七七四年2011/11/12(土) 02:22:17.49ID:esweEOMq
>>100
レスあったの気付かなかった申し訳ないです

真田丸の長宗我部は今となっては結構有名になってきた話じゃないかな
ネットでもググったらソース付きで出てると思う
自分は前に関西に旅行行った時、改修の話と一緒に現地の人から聞いた
0103人間七七四年2011/11/12(土) 03:21:51.21ID:pT/FWVd+
>>102
真田丸の守将が長曽我部盛親ってのは真田信繁が守将ではなかったと言いたいのかな?
半分は盛親が担当したのでは?的なものなら目にしたことはあるけど、定説ではないよね
秀吉が真田丸を構築したってのも、疑問
大阪城の南方を敢えて平地のまま残していたって話なら分かる
有事の際にはそこに敵を集め防備を硬め殲滅するって内容ね
でも、真田丸を実際に構築したのは信繁ってのが定説だとおもうんだけど?
しっかりとした資料を提示せずに、一説にはってレベルの話を持ち出すなら、信繁、幸昌、秀頼は死なずに九州へ落ちたって話すらも罷り通るんじゃないかな?
0104人間七七四年2011/11/12(土) 03:24:51.82ID:pT/FWVd+
もっとも、今後の研究や新たな発見から定説はいくらでも覆るんだけどね
0105人間七七四年2011/11/12(土) 06:55:41.49ID:yIc2PK6M
後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という。

ただし兵力差を考えれば、真田の方が小さいだろうね。
0106人間七七四年2011/11/12(土) 08:53:13.91ID:A/0JFEca
大阪城の研究者が講談では弱点だから真田丸作るぜ!とされていたはずの箇所に深い障子掘とトーチカ状の建築物を発見したんだっけ
だから撃ちたい放題出来たはず
家康も真っ先に堀を埋めさせるはずだよ
0107人間七七四年2011/11/12(土) 11:45:25.79ID:6m4o+4yY
>>103
> 秀吉が真田丸を構築したってのも、疑問
疑問って言われても、いわゆる真田丸が秀吉の死んだ年である慶長三年の豊臣大阪城最後の大改修で
構築されたというのは、確か考古学的にも確認されていたような。


あと真田丸の守将に関しても、真田信繁は部隊を「真田丸」に置いていたにせよ、自身は
旗本よろしく秀頼の側廻りに控えていたフシがあるので、真田丸で指揮を取ったというのは考えにくい。
それに部隊規模としても長曾我部隊のほうが明らかに大きく、少数の真田が多数の長曾我部を
指揮下に入れるとは非常に考えにくい。

以上を総合すれば「真田丸」の守将は長宗我部盛親であったと見るのが自然だと思うよ?
0108人間七七四年2011/11/12(土) 12:26:42.03ID:RIApqsOI
浪人雇う金もろくにないだろうしね
0109人間七七四年2011/11/12(土) 12:58:45.21ID:pWsDTjCd
>>107
> 旗本よろしく秀頼の側廻りに控えていたフシがある
> 部隊規模としても長曾我部隊のほうが明らかに大きく
何の史料に載ってるの?
0110人間七七四年2011/11/12(土) 15:12:48.33ID:0aiwmAWU
そもそも、大阪の役の真田信繁の旗印は総赤に金線
0111人間七七四年2011/11/12(土) 15:32:01.44ID:bgwzOh9g
そんな誰でも知ってる話を何で今更?
0112人間七七四年2011/11/12(土) 16:55:39.61ID:QQ6ZN3hC
そもそも大坂の時の信繁って派手な活躍出来るほどの金や人望はあったの?
幽閉された後も父子揃って浪費家で、兄夫婦からと浅野さんだっけ?の援助と
内職で賄っても足りない状態だったんだよね?
大坂入りの時も豊臣方からしたら誰おま状態だったみたいだし

って話を日本史の時間にクラスメートと語り合ったのをこの流れで思い出したw
0113人間七七四年2011/11/12(土) 19:00:17.94ID:XNnnpxm0
一応信繁は昌幸の後継として元10万石大名待遇で
牢人衆の中でも大軍を率いるノウハウを持つ数少ない武将として
元20万石の長宗我部と元7万石の毛利とともに特別待遇を受けたとのこと
信繁自身はすかんぴんだが豊臣家が優遇してどんどん与力を付けてくれたわけだ
0114人間七七四年2011/11/12(土) 19:01:36.48ID:XNnnpxm0
悪く言えば豊臣方の超人材不足のおかげで活躍の場を与えられた感じ
0115人間七七四年2011/11/13(日) 09:49:12.74ID:xHArp0u0
幸隆、昌幸、幸村、信幸が一緒に暮らしたのは山梨に居た時だけ?
0116人間七七四年2011/11/13(日) 10:31:21.76ID:1S2s1492
>>113
つーか、いくら与力をつけられたって、大軍を運用するには手足と成る信用できる中隊長クラスが手元に大量に無いと
どうにもできないわけで。
それを持たない以上、信繁の軍隊運用能力は、信繁がどんなに才能があったとしても
2〜3000がせいぜいだろうな。

信繁の最後は大体どの史料・軍記でも一人で孤立していた所を討ち取られた、となっているので、
これを信じれば近習含めて周りの家臣はみんな逃げ出したということだろうから、これは信繁の部隊が
雑多な寄りあいであったことを表しているのだろうな。
0117人間七七四年2011/11/13(日) 12:12:49.04ID:/S2q8Fxz
>>116
昌幸時代からの旧臣が参戦してるって
ちょっとググってみ?
昌幸と信繁が配流されるときにも相当数でついていってるから、家臣がいなかったってのは当てはまらないんじゃないかな
0118人間七七四年2011/11/13(日) 14:16:02.09ID:sEFzUP4n
ここで聞くのはスレ違いかもしれないんだけど
鈴木右近が出奔した理由って結局今も謎のまま?
0119人間七七四年2011/11/13(日) 15:02:41.68ID:PX6CKE8P
パパンが死んだらおにいちゃんのところにほとんど戻ってませんでしたっけ?高野山に一緒にいった人たち?
0120人間七七四年2011/11/13(日) 15:24:12.27ID:///bU3+Z
そんな記録どこに載ってんだよ
0121人間七七四年2011/11/13(日) 18:57:34.77ID:Kk+hMCff
まぁ当然帰れる奴は帰るだろうな、中には参戦と聞いて舞い戻ってきたのもいるが

>>116
部隊長クラスを複数引き連れて入城出来たのは長宗我部だけだから仕方あんめい
当然真田だけでなくどこも寄り合い所帯、どこも同じなら多少でもノウハウがある真田が
主力部隊のひとつになるのも、当然の成り行き。
0122人間七七四年2011/11/13(日) 22:13:35.74ID:AR538YLH
>119
娘が信繁に嫁いだ高梨内記さんはずっと信繁と一緒だよん。
0123人間七七四年2011/11/14(月) 01:30:30.65ID:CegNulH4
昌幸が死んだ時点で大半の家臣は山を降りて信之のとこに行ったって見たよ
しかしだいぶ前に見たからどの資料に書いてたかが思い出せない…
0124人間七七四年2011/11/14(月) 01:53:13.06ID:3P2txFFF
まあどっちにせよ部隊長クラスの人材に著しく欠けた大坂方が籠城作戦を取るのは至極当然だな。
そんな軍勢で積極的な出撃策など取れるわけがない。
01252011/11/14(月) 05:49:55.33ID:SImCEvNB
昌幸に50万石の石高持たせてみたかったな
相当活躍したべ
0126人間七七四年2011/11/14(月) 08:00:41.69ID:+HnOxBbO
関ヶ原の戦いでの真田昌&次男って
・実際の戦闘行為は上田合戦のみなのでそれに勝利した真田の勝ち
・関ヶ原の戦いの流れで開城したので真田の負け
・関ヶ原の戦い全体では勝敗無し
のどれに当たるのかな
0127人間七七四年2011/11/14(月) 08:02:12.99ID:yPR3oycA
>>111
wikipediaには旗印は六文銭てなってる。
0128人間七七四年2011/11/14(月) 10:35:10.70ID:3P2txFFF
>>126
上田合戦って別に勝ってないじゃん。引き止めただけの話。
しかも家康の書状が届いたらさっさとスルーされただけだし。その秀忠に追撃すら出来ず
引きこもってただけ
0129人間七七四年2011/11/14(月) 13:56:47.96ID:SzMUd8db
>>126
小競りあいでは勝ってはいる
実質的には足止めしたのは使者だけどね

左近だって小競り合いじゃあ勝ってる
0130人間七七四年2011/11/14(月) 16:27:37.82ID:prr/6Al0
戦略目的を何一つ果たしていないのに勝利といえるのかいな
0131人間七七四年2011/11/14(月) 17:27:54.26ID:Gd5+ZR7u
長久手の戦いだけなら家康だけど小牧長久手だと秀吉の勝ち。
で真田は第二次上田合戦で守りきったけどあれって関ヶ原の戦いの一つなのかな
って考えたら世間でいう真田が徳川に勝ったっていうのも
どうかなって思ったんだよ。第一次上田合戦は真田の勝ちには違いないけど。
0132人間七七四年2011/11/14(月) 23:41:56.64ID:bVAAdlGP
>>127
海野の旗印は六連銭。当然信繁の旗印も同じ。
ただそれを大坂の陣で使わなかったってだけの話で、別にwikiは間違ってないぞ。
0133人間七七四年2011/11/15(火) 22:05:32.52ID:MgcuUdaW
最近、秀忠の遅参は豪雨のせいだって説あるんよね
0134人間七七四年2011/11/15(火) 23:10:35.83ID:YAGnxBSk
今はそっちのほうが通説だと思う
0135人間七七四年2011/11/16(水) 14:07:38.14ID:uRj2/Inq
関が原が一日で終わると思ってなかったとか?クロカンも九州席巻するぐらいの時間はあるんじゃねと思ってたし(まあ鬼はいなくてもチェスト!な連中が簡単に落せるとは思えないが)
0136人間七七四年2011/11/16(水) 20:59:11.66ID:MQdAB4dA
第二次上田は本当に足止めしただけだもんな昌幸
信繁って大阪の陣だけの一発屋なイメージしかない
0137人間七七四年2011/11/17(木) 09:42:16.34ID:+HAiG0aj
そもそも信繁の活躍なるものすら後世の創作であって。
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