トップページsengoku
255コメント106KB

なんで小国尾張がさくっと勝っちゃったの?

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/09/19(月) 17:57:39.30ID:eeWft0+E
関東での群雄割拠とかなんだったの?
0045人間七七四年2011/10/05(水) 20:21:02.13ID:9sFEx03a
>>44
三好は六角と戦ってたから、京の経済を掌握どころか、
京そのものも完全には掌握してないから。

信長が幸運なのは、六角と三好の両方が調度衰退してた時に上洛した事だな。
しかしその後の粘りは、頑固汚れ並に凄いと思う。
0046人間七七四年2011/10/20(木) 14:56:09.49ID:n9Wgy11F
まあ、お前ら一度愛知県に行ってみろ。なんであそこから三人の天下人がでた
のかなにげにわかるぞ。愛知県まじ最悪だった。特に夏のあの蒸し風呂がサウナ
にいるような熱気は生き地獄だった。それに女もよくいわれるけど本当10人
いれば10人みんな並以下の水準でしかない。他国を攻めとって、目の覚める
ような美女を見て、欲望に火がついたんじゃないかwww『他国にはでぇりゃあ
美人がおるがや』wwwまじで愛知県がもうちょうと住みやすい土地柄だったら
信長も新たに美濃に拠点を移すのをちょっとは躊躇したような気がする。家康も
関東に移れなんていう無茶な命令は拒否して、さっさと先祖代々の地で滅亡する道を
選んでたんじゃないかww
0047人間七七四年2011/10/22(土) 05:02:46.33ID:fXAAEeZb
何ていうか例えば名古屋城の天守閣から一望して見るとか犬山城の天主から
一望してみると,尾張はあの大きさで50万石って頷けるんだね。一方さ,
例えば久能山から一望してみるともう三保湾からすぐそこに山が迫っているし
掛川の辺りの論外だろ。唯一今の静岡空港辺り開けてるかなと思ってもすぐ上は
山だし救いなのは浜松周辺かもしれんが領土と言えないからなぁ・・・
沼津なんてもう海と山の間なんて僅かだよ。駿遠三総合すれば2万位は
頑張れたかもしれないけどあの尾張の広さは凄いと思うBy静岡県民
0048人間七七四年2011/10/22(土) 13:31:20.43ID:HmaW4LWP
結局農耕地の面積だから
信濃があんなだだっ広くても50万石しかないし
0049人間七七四年2011/10/23(日) 11:16:09.50ID:EdqBg3KP
里見や佐竹や宇都宮すら滅ぼせなかった北条とはわけが違うね
0050人間七七四年2011/10/23(日) 12:33:53.51ID:3t3d8ccg
なんで里見すら滅ぼせなかったわけ?
0051人間七七四年2011/10/23(日) 13:13:18.78ID:/Hpu7vLj
織田厨が超デタラメを書きまくる狂スレ
0052人間七七四年2011/10/23(日) 13:29:10.33ID:ZAssG72A
>>49
三河の土豪一つ消せなかった織田と比べたら大して変わらん。
0053人間七七四年2011/10/23(日) 13:43:48.82ID:Sjchz9hN
国庁、国衙領だった中島郡下津。尾張国織田一族の原点地。すべてはここから
始まる。http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B4%A5
0054人間七七四年2011/10/23(日) 20:16:39.53ID:yIc3qlrm
尾張国守護斯波氏領だった下津に守護所を設け
又守護代織田常竹により下津城へとなる。
0055人間七七四年2011/10/24(月) 07:35:54.45ID:xDVVq25L

尾張国中世の豪族。中島氏、蜂須賀氏。
0056人間七七四年2011/10/28(金) 08:19:32.97ID:wiEPoWz/
山口氏は?
0057人間七七四年2011/10/28(金) 20:58:12.49ID:4U6TGxkv
知らん。ソースあるならどうぞ。
0058人間七七四年2011/10/29(土) 11:25:06.92ID:dyeKmwdM
山口もえの下痢
0059人間七七四年2011/12/09(金) 22:43:40.83ID:+iz8Cvnn
>>45
京都の復興に三好家が一枚噛んでなかったっけ。
織田が上洛した頃には、応仁の乱以前のの賑わいを取り戻していたらしいけれど。
0060人間七七四年2011/12/10(土) 11:44:43.40ID:oohIA8EX
ソースをどうぞ。
0061人間七七四年2011/12/20(火) 11:34:14.37ID:t//AMxSp
尾張は小国ではないよ。>1
0062人間七七四年2011/12/29(木) 09:39:04.48ID:BWlJMdgZ
混乱した畿内を制するとしたら普通に考えて、

山陽の赤松、浦上、
四国の細川、三好、
北陸の朝倉、浅井、武田、
東海の斎藤、織田、北畠

のどれかだから、ある意味順当だと思う。
0063人間七七四年2011/12/29(木) 15:27:43.17ID:KCMjRYT0
尾張は大国
尾張美濃併合すれば超大国
0064人間七七四年2011/12/30(金) 09:30:49.35ID:E15Q5Anl
>>63
亜熱帯化した現代でさえ平野部が雪に埋まる尾張のどこが大国だ?
延喜式では尾張・美濃ともに上国。
近隣の大国は、伊勢くらい?
(大和と近江は忘れた)

余談だが甲斐も立派に上国。
仮に信長が成人時に尾張一国を掌握してたとしたら、武田信玄とスタート環境は互角。
但し、いたって常識の範囲での推測だが
シバ(字捜すの面倒い)の領地の尾張は、応仁の乱に人間を入れてるから国土の荒廃は甲斐とは比べるまでもなく悲惨ではなかろうか?
(まあ、アンチ信長は資料の取捨選択がお得意だから自分が偽資料としたものを引用してるような、一次資料wから尾張は豊かだ!って反論するだろうけど)
0065人間七七四年2011/12/30(金) 09:38:09.80ID:E15Q5Anl
>>62が書いてる内
赤松、細川、三好、武田(若狭のだろ?)は畿内を混乱させてる連中じゃないか?
まあ、朝倉と織田が有力候補には違いないだろうが。
斎藤道三や浅井家なんて下克上組じゃ畿内制圧は厳しいと思う。
美濃・近江を掌握仕切れないだろ。
0066人間七七四年2011/12/30(金) 09:42:24.73ID:TE0PdU2F
雪に平野が埋まる地域が大国じゃないなら畿内はすべて大国じゃないな。
南九州が大国か。
0067人間七七四年2011/12/30(金) 10:16:08.13ID:DRR+WBnE
超大国島津
0068人間七七四年2011/12/30(金) 10:36:55.16ID:ke+CWghb
>>65
他はノーチャンスで、
尾張の織田家本命ということか。
0069人間七七四年2011/12/30(金) 12:32:20.78ID:E33jn4C3
濃尾で百万石を余裕で越えるんだから充分に超大国だろ。
0070人間七七四年2011/12/30(金) 16:52:51.85ID:GqM5Ax58
>>64

愛知県民だが尾張が雪で埋まるなんて年に一回くらいしかねーよwww

北尾張は別だが濃尾平野は水穿けも良いし農作物作るなら最高の環境

犬山城か小牧山辺りから周辺見渡して見ろ
0071人間七七四年2011/12/30(金) 21:37:06.04ID:DD9/EFwP
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた
0072人間七七四年2011/12/30(金) 22:25:37.30ID:ke+CWghb
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。
0073人間七七四年2011/12/31(土) 08:29:56.31ID:WGenGiM4
尾張三河は
頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。
0074人間七七四年2011/12/31(土) 14:01:17.58ID:7Dmr82ek
>>64
石高で尾張は59万石
甲斐は22万石
しかも太閤検地によるもの
災害オンパレードの戦国時代甲斐はこれより下がる可能性大
これでどうやったら対等になるんだよ
さらにいうと、尾張は信長の親父時代で既に朝廷献金額がトップレベルの凄い商業地
明らかに尾張は上国
お前が資料の読みあわせすらできないで、無理やり脳内変換で尾張を悲惨にしてるだけ
0075人間七七四年2011/12/31(土) 17:36:55.04ID:aEVH4OsC
甲斐や越後の永禄期の天候不順による飢餓と災害ぶりは致命的レベルだったからね。
それで信玄も治水土木を必死にやりまくって
元亀に入ると飢餓も災害もほとんど見られなくなる。
0076人間七七四年2012/01/05(木) 18:02:55.15ID:I4dYYDLN
戦国時代の農業生産高+商業規模で大国を決めなおすというのなら、
近江、伊勢、摂津、武蔵、陸奥、出羽は確定で、
尾張、越前、大和、和泉、播磨、常陸、肥前、肥後、越後あたりがそれに次ぐ感じでしょうか。

上記のうち、1560年代に統一勢力下に置かれたのは武蔵、尾張、越前、越後ぐらい?
0077人間七七四年2012/01/07(土) 01:08:39.62ID:QeKvIIIQ
>>73
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね
頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか
0078人間七七四年2012/06/02(土) 17:24:15.48ID:/ETKomvw
今川義元、斎藤龍興がアホすぎたから
0079人間七七四年2012/06/02(土) 17:49:10.30ID:6ZEqH5Ka
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)

0080人間七七四年2012/06/02(土) 18:53:44.67ID:fgtbmXqf
たまたま英雄的な人間が多く生まれたから。
尾張、という地勢の問題なら、他時代も一貫してここから支配が出なきゃおかしいだろw
0081人間七七四年2012/06/03(日) 09:14:13.87ID:kVlZXyqr
岡崎城に隣接してる資料館では
三河武士が鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府も作ったと書いてるよ。
0082人間七七四年2012/06/03(日) 09:40:47.55ID:aH8wa5wK
家康は、源平合戦で頼朝についた有力武士の生まれ変わりかな?
0083人間七七四年2012/06/04(月) 19:32:37.95ID:j6xO0UUs

尾張人に関して言えば司馬遼太郎先生が的確に表してくれている。
0084人間七七四年2012/06/05(火) 10:16:32.26ID:HkHcu1V1
尾張は関東や大坂と同様に広大な濃尾平野があったし
大河による海上交通網があったので
発展の余地が元々あったといえる。
0085人間七七四年2012/06/06(水) 01:58:51.48ID:th4ouwFa
尾張は豊かな土地
0086人間七七四年2012/06/07(木) 22:30:42.93ID:OO1uiFtl
尾張は農業も商業も盛んだった
大国と言えるのでは。
0087人間七七四年2012/06/10(日) 23:24:53.46ID:+wQHPgqX
尾張の石高は相当なものだったし、商業・漁業でも利益を得てるから
相当な大国だったのでは
0088人間七七四年2012/06/14(木) 23:14:31.83ID:BQ1uAtf3
尾張藩は62万石の石高
0089人間七七四年2012/06/18(月) 22:57:15.51ID:UKm0HV7a
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)

■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎(菅生郷)に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭

■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁

■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
0090人間七七四年2012/06/18(月) 22:57:47.39ID:UKm0HV7a
【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
0091人間七七四年2012/06/18(月) 22:58:52.59ID:UKm0HV7a
【鎌倉幕府滅亡】

足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職

太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0092人間七七四年2012/06/18(月) 22:59:47.24ID:UKm0HV7a
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)

【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)

【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷

【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷

【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)

【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
0093人間七七四年2012/06/18(月) 23:05:09.81ID:UKm0HV7a
管領家 斯波氏


空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
0094人間七七四年2012/06/19(火) 21:28:47.99ID:ZRuMc3hE
尾張単独で戦ったのは美濃攻略まで。
ただ、尾張半国しか勢力下になかった信秀の代で朝廷献金額一位
という事からすれば大国だったのは間違いない。

太閤検地で日本全国1300万石だったか。
濃尾で100万石、伊勢・志摩と近江の8割を併呑して200万石、
山城・大和・摂津・河内・和泉の大半を制して250万石近く?と
草津・堺など全国有数の経済都市を直轄領にする。
包囲網で暫く苦しむが、滅ぼして越前・若狭・北近江を併呑(350万石?)。
その後は、加賀・能登・越中・伊賀・丹波・丹後・播磨・但馬・備前・美作・因幡・淡路を順次平定(600万石ぐらい?)。
生野銀山もゲット。
武田征伐で爆勝して甲斐・信濃・上野で700万石突破?

美濃攻略以降は圧倒的すぎて倍倍ゲームのようだな。
もちろん信長が凄かったのが一番の要因だろうけど。
0095人間七七四年2012/06/19(火) 23:31:24.77ID:V1HWvyto
自分を神と錯覚しても無理ないよね
これだけ凄いことやってのけたんだから
時代を先読みし過ぎて、時代が追いつけなかった天才
0096人間七七四年2012/06/19(火) 23:37:44.67ID:N1yUO9Qq
凄いことって言っても、せいぜい頼朝や清盛の4分の1程度。
0097人間七七四年2012/06/20(水) 05:23:08.90ID:qR0D25sW
頼朝や清盛はせいぜい信長程度の勢力圏内しかないぞ。
武士勢力が全国に広がったのは北条義時から。

肩書とかで騙されやすいが、実は全国を統一して武士政権を築いた人間は中世でも稀
足利なんてgdgdすぎて話にならんからな
0098人間七七四年2012/06/20(水) 07:27:45.51ID:lr5lcXVk
信長は美濃に出るのすら苦労してたんだよな。
しかし美濃を取ってからは破竹の快進撃で
三人衆、竹中、仙石など美濃衆の活躍も大きかった。

美濃を取れたのは三河の徳川との同盟が大きかったのかもしれないが。
それを仲介した水野を評価する声なんかもあったかな。
0099人間七七四年2012/06/20(水) 08:02:18.12ID:qB5SvUSq
仙石w
0100人間七七四年2012/06/20(水) 08:14:37.03ID:6YAaIokb
水野家は元々豪商なんだっけ。
美濃進出、徳川同盟で莫大な儲けになったのかもなぁ。

仙石は・・・俺もwを付けたいところだけど、当時の美濃衆としては頼りに
出来たんだと・・・思う。
森氏は違うんだっけ?
0101人間七七四年2012/06/20(水) 09:29:35.43ID:lr5lcXVk
仙石は悩んだけどまあ島津戦での醜態を除けばよくやってた方ということで。
加藤光泰や徳山なんかの方が良かったかな。

森氏は今の岐阜県だけど尾張国の笠松あたりだっけ。
最初は土岐氏に使えていたけど信秀の時代には既に織田方だったような。
他に元土岐氏ってなら河尻や池田や金森なんかもそうだな。

遅れて仕えたのには堀や明智や日根野なんかもいる。
美濃衆は織田家の中では中々の物だったのではないかと思う。

まあバラバラだから土岐、織田、豊臣、徳川のように
上手く使える奴らが必要だったのかもしれないが。
0102人間七七四年2012/06/20(水) 13:04:26.97ID:fyCedogX
西尾張と言う風土は突出した人物が生まれる風土なんだわ
信長をはじめ、前人未到の400勝投手、金田正一とか前人未到の高校野球
甲子園大会最多勝ち星の吉田正男とか、前人未到の日米通算最多安打のイチロー
とか。
0103人間七七四年2012/06/20(水) 14:05:50.39ID:jiTASyAO
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」 

■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国加茂郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
0104人間七七四年2012/06/20(水) 17:33:32.27ID:6YAaIokb
名古屋人=尾張って・・・歴史知らない人?
0105人間七七四年2012/06/21(木) 12:14:04.88ID:JSMIrgbZ
昔からあるコピペだよ
0106人間七七四年2012/06/23(土) 16:58:04.87ID:pWgYgTFU
美濃攻略後は西だけ見てれば良かったからじゃね
武田裏切り後は徳川がよく武田を押さえ込んでたし
同盟を簡単に反故にする武田が簡単に滅んだのとは
真逆に家康との同盟を堅持した信長だからこその快挙
0107人間七七四年2012/06/25(月) 20:36:50.57ID:vMnIZEmy
その理屈なら南部、里見、長宗我部、島津の勢力伸長はもっと早くないとおかしい
0108人間七七四年2012/06/26(火) 02:34:45.13ID:Wwi6pTHV
尾張美濃は陸奥、安房、土佐、薩摩よりずっと豊か
0109人間七七四年2012/06/26(火) 06:07:26.76ID:IuldI+iG
土佐は17万石、元親が統一時に1割少なかったとしても15万石。
それでも伊予の一郡しか領してない西園寺を攻略するのに10年かかった。

信長の攻略の早さは他大名とは比較にならない。
0110人間七七四年2012/06/26(火) 08:17:44.75ID:yljUQN61
そう言う書き方をすると、また運が良かったとか家臣が良かったとか言う人
が沸きそうw
石高が多いと言う事は、それだけ人が多いと言う事で、ライバルも多い。
ゲームみたいに最初から一国を支配していたわけじゃないのだから、そこの
実力は認めないといけないよね。
しかし不思議なのは、今の大阪辺りも栄えていたと思うのだよなぁ。
もうちょっと歴史的に名を残す人が出てきても良さそうな気がする。
0111人間七七四年2012/06/26(火) 11:37:16.44ID:/snUicgc
>>109
・阿波、讃岐を優先した
・毛利の介入を恐れた
・地形が急峻
0112人間七七四年2012/06/26(火) 13:25:40.90ID:wuJcJMC6
>>110
畿内は様々な政治的勢力が跳梁跋扈していた不安定な土地だったのが
三好の勢力伸長が止まってしまった最大の要因
武士同士の戦いになかなか集中できなかった
0113人間七七四年2012/06/27(水) 00:17:31.21ID:8oDudBoe
>>111
・阿波、讃岐を優先した
これはあるだろうが、西園寺は一条とも戦い続けて
その流れで長曾我部と戦ったから手抜きではないだろ。

・毛利の介入を恐れた
毛利の勢力は中予まで

・地形が急峻
これは豪雪地の冬季なら分かるが、普通に往来があるんだが
0114人間七七四年2012/06/27(水) 01:00:53.43ID:dPm3LDpP
鉄砲を装備した伊予勢は土佐勢には荷が重い相手だった
0115人間七七四年2012/06/27(水) 08:19:37.15ID:AgDvVmNh
そう言えば、土佐勢は装備もボロボロでバラバラ、悪党程度にしか見えな
かったとか、どっかで読んだな。
伊予に比べ、貧乏だったんだろうなぁ。
0116人間七七四年2012/06/27(水) 22:46:31.59ID:47cD1CHH
>>28
すぐに取れそうな三河を取らずに、美濃を数年攻め続けたあたりが信長のすごさじゃね
0117人間七七四年2012/06/28(木) 02:47:55.07ID:ergcNWbG
確かにね
北がダメなら攻めやすい南なんて
旧日本軍の南進策と一緒だもんなw
そう言えば北で凹られて同盟反故にして
南に攻め込んだ大名がいたけど
非道な事をすると必ず報いがあるからなぁw
0118人間七七四年2012/06/28(木) 18:06:43.19ID:CsxIRvwh
>>113
往来はあっても、ある程度の軍隊動かすほど整備された道はなかっただろ
水曜どうでしょうの四国八十八か所見てもここで軍隊動かすのは難しそうだなと思うし
0119人間七七四年2012/07/01(日) 01:41:31.89ID:/xaDT4P0
>>115
その記述は確か四国征伐の時の上方勢と土佐勢を比べての表現だったはず。
伊予東部は瞬殺されてたし、土佐と伊予だったらそんな変わらんだろ。
0120人間七七四年2012/07/02(月) 18:15:21.73ID:F1uK6jKl
太閤検地による石高と国の面積との比率で言えば
尾張はおそらくぶっちぎりでトップ
耕作可能地域が広く、地味も肥えてる
その分大量の兵を養うことができる

あと、愛知県って今でも何気に農業県なんだよね
0121人間七七四年2012/07/02(月) 21:18:54.46ID:r1t4Rg/s
トップは近江の83万石だったと思うが。
尾張は60万石
0122人間七七四年2012/07/02(月) 22:29:35.35ID:F1uK6jKl
>>121
各国の面積に対する比率の問題
面積では滋賀県全部と愛知県の半分(実質3分の2くらい?)ではかなりの差があるわけで
0123人間七七四年2012/07/03(火) 06:40:51.60ID:fgJ2zOmB
面積と可住地面積は違うけどな。
可住地面積なら尾張は相当広いだろ。
0124人間七七四年2012/07/11(水) 13:26:53.30ID:pu7Vw6y8
偉大・天才・強運の神に選ばれし戦国の覇者
信長様だからこそさくっと勝っちゃったように見えるだけ
信長様以外の戦国大名なら義元に蹴鞠のように一蹴されて終わり
当時有無を言わさぬ世界最強だったこらこそ死んでから430年経った
今でも世界中の多くの軍オタから愛されて続けているのさ
0125人間七七四年2012/09/05(水) 02:28:32.98ID:zEIkwKje
ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…欧味
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…三和
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…鬼作堂
0126人間七七四年2012/09/05(水) 12:32:47.43ID:XDF51cHU
まあ実際、斎藤六角三好の内部崩壊は天運だよな
特に三好長慶が長生きしてたら一蹴されてただろうし、逆に史実以上に早死にしてたら朝倉が義昭連れて上洛してた可能性もある

ただ、仮に弟の信行が織田家継いでたら天下とれたかというと微妙なとこを考えると信長の力とか執念みたいなのとかもやはり評価すべきだろうね
0127人間七七四年2012/09/06(木) 21:50:29.76ID:b7leZPH2

狗奴国一宮

邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置を、愛知県一宮市萩原遺跡群を
はじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、
尾張平野一帯に大勢力が広がっていた。

0128人間七七四年2012/09/07(金) 05:15:02.23ID:yBCK9BV2

終わりは小国じゃないだろw
0129人間七七四年2012/09/09(日) 03:01:27.90ID:PJGEa9Db
美濃国人は戦わずに信長に下る奴が多すぎ
0130人間七七四年2012/09/09(日) 09:06:05.47ID:dTcnBZrx
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった
美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW
信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・
龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は
苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している)
これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW
信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
0131人間七七四年2012/09/09(日) 10:35:52.72ID:P8FZPksN
>幼君斎藤義興
0132人間七七四年2012/09/09(日) 10:39:46.10ID:dTcnBZrx
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)

0133人間七七四年2012/09/09(日) 15:20:12.66ID:uK8srbXp
古代史最大の乱、壬申の乱

東国のリーダー、天火明命の末裔・村国氏。
0134人間七七四年2012/09/09(日) 20:06:11.00ID:Bl3G6Bm3
>>126
>まあ実際、斎藤六角三好の内部崩壊は天運だよな

それ言い始めたら長慶が政権取れたのも、何代も前から続く細川の内部動揺だからなぁ。
本国寺、金ヶ崎、長光寺、姉川、志賀、野田福島、長島と何かのきっかけで
織田政権が崩壊する可能性も十分に有った。
その度に切り抜けてきた信長の粘り強さは、やっぱり凄いよ
0135人間七七四年2012/09/10(月) 20:35:25.75ID:xN6Vkhst
信長がすごいんではなく
家康や秀吉がすごかった。
信長は相撲観戦したり、鷹狩りやったり、
強制的に召し上げたコレクション茶器を見せびらかせての御茶会やったり、名馬比べの競争や爆竹祭りやパレードとイベントをやりまくって豪遊してただけ。
0136人間七七四年2012/09/10(月) 20:41:42.70ID:uWiR3UOw
尾張って、国の大半が平地、水運が活発で商業隆盛していた大国だぜ。
0137人間七七四年2012/09/12(水) 08:19:49.34ID:ETHhLg+u
>>135
それで大国になったんだったら、逆に凄くないか?
ミイラ取りがミイラみたいな説だなw
0138人間七七四年2012/09/13(木) 21:34:05.36ID:FO73lA51
893超絶ブラック企業のアスペパワハラ社長信長。
犯罪やってでも成果をあげろやクズども!
0139人間七七四年2012/09/13(木) 22:48:35.30ID:9kFi3XuO
っつうか、尾張は大国
0140人間七七四年2012/12/29(土) 13:00:23.22ID:UDUOguOY
尾張国内、織田一族が築城した城(初期段階は平城が多い)

尾張国府領(斯波領)中島郡下津守護所を中心として尾張国織田家の平城は
作られ散らばって行く。
尾張国守護斯波氏が造った城は下津城と離れ屋敷だった清州城のみ。
織田一族が築城した城、大赤見城、岩倉城、勝幡城、楽田城、犬山城、小田井城
野府城、古渡城、

信長が築城した尾張国内は小牧城のみ。
0141人間七七四年2012/12/29(土) 15:37:40.07ID:GGsffWws
さくっとは勝ってないだろ、美濃攻略にえらい手間ひまかけてるし
0142人間七七四年2012/12/30(日) 01:55:10.43ID:NFtPzF6X
義竜が生きてる間は全く歯が立たなかったからなぁ
0143人間七七四年2013/06/26(水) 11:08:32.88ID:ryND/NSu
農業先進国と言われ灌漑農業をすでにやっていた伊勢のお隣だかから
戦乱と関の障害を克服してまで伊勢へ学びに行かずとも
普通に尾張なんて伝播してただろうね。
0144人間七七四年2013/07/24(水) NY:AN:NY.ANID:Xcpwllfj
尾張は石高が高かった
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています