前スレ>>989
>「江源武鑑」の説明は一見巧妙だが、妙覚寺から二条城に移動中の信忠一行をみすみす
>見逃したのか説明できない
>敵を防御に適さない妙覚寺から防御力に勝る二条城に移動するのを見逃す意味がどこにある?
それは資料から自分で推察したらどうだ?
各資料から見て事実起きてるからな。

「江源武鑑」
同日、三位中将信忠は妙覚寺に滞在していたが、本能寺へ駆けつけて合戦しようと妙覚寺を出たところ
内野に控えていた明智左馬允が六千にて横鑓に城介信忠の軍勢へ攻め懸かる。
信忠は寡勢のため斜めに押し込まれて二條新御所へ立て篭もる。
そこで左馬允はすかさず六千の軍勢で二條御所を包囲し辰の刻から午の刻まで攻め戦う。
少勢であるので抗する力もなく、信忠も終に自害する。
あれほど武勇の威を振るい四海を掌中に握り全国を胸中の謀で操り多くの敵を討ち多くの侍を討たせ
ようやく天下を治め子孫の栄久を得た身であるのに、今日の一時で父子共に黄泉に赴くことになるとは今の世はいやなものである。
信忠は前田玄以斎を二條から江州へ返し若君を尾州清洲へ退かせるよう申し付ける。


  6月 2日 明智軍、京都妙顕寺(「三位中将陣所妙見寺」)を襲撃。(実際には妙覚寺)〔『兼見卿記』二(別本)〕
  6月 2日 明智軍、織田信忠(「御嫡男城介殿」)の滞在する京都妙覚寺へ殺到。〔『蓮成院記録』三〕