【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る4
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0001人間七七四年
2011/08/20(土) 12:33:36.37ID:qitcoN5Q通称は十兵衛。
父は明智光綱のほか、明智光国や明智光隆の説もある。
さらに信長に仕えるまでの前半生には不明な点が多いが、
明智軍記では美濃明智城主として斉藤道三に仕え、その没後は諸国を遍歴したとされる。
-------以上wikipediaより転載---------
その他秀満や光忠などの明智一族、
斎藤や妻木や溝尾や藤田などの家臣も話題も歓迎。
■武家家伝_明智氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aketi_k.html
■前スレ
【本能寺の変】明智日向守光秀【山崎の戦い】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167303526/
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298723473/
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307845255/
■関連スレ
天海=明智光秀だった!!!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/
本能寺の黒幕は朝廷だった!
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1305979699/
0008人間七七四年
2011/08/21(日) 12:45:10.02ID:uRzP+joV追記
妙覚寺と二条新御所は路地挟んで数メートルしか離れてないので、移動を防ぐってのは不可抗力。
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki20.html
ちなみに御構えの良い二条城とやらは信長公記の引用でしょ。公記の記述だと町通り二条にあるようなので、
リンクの地図だと中御門大路とか春日小路がある「旧二条城」を示していることになる。
でも実際にはこんなところで戦は起こっていない。
0009人間七七四年
2011/08/21(日) 13:02:17.11ID:UTSWje/H「卯刻…前右府(信長)打死、同三位中将妙覚寺ヲ出テ、下御所(二条御新造)ヘ取籠之所二、
同押寄、後刻打死」 (言経卿記)
「世子(信忠)はこの報を聞き、まだ床についていたが起出で、滞在していた寺院は安全ではないと考え、
駆けつけた人々と共に付近にあった内裏の御子の居に赴いた」 (日本年報追加)
「信忠此是聞給、本能寺へ可有御籠とて出給所、村井春長親子三人参上して、本能寺ははや火懸
て事終て候、妙覚寺へは御帰不可有、二条の御新造へ被為籠尤と言上、則二条に御移」(当代記)
これらの史料によると信忠は自分の意思で本能寺ではなく二条城に移動しているように見えるが、どこをどう
読めば明智の横鑓で二条城への移動を余儀なくされたと解釈できるんだ?
0010人間七七四年
2011/08/21(日) 21:18:41.40ID:uRzP+joV信忠の意思で二条御所へ向かった。
で、どう論点に絡む話なの?
・信忠はなぜ京から脱出しなかったのか
という問いなら気にはなるが。
0011人間七七四年
2011/08/21(日) 22:45:28.90ID:UTSWje/Hがなかったことになる 手当てなかったということは、光秀が本能寺襲撃時点で信忠の在京を知
らなかったことの傍証となる。
もし知ってたら、「江源武鑑」のような経過をたどるか、妙覚寺からの移動の際に何らかの小競り合い
があるか、攻撃せずとも事前に包囲ぐらいするのが自然だが、その事実を示す1次史料は存在しない。
「当代記」の著者は、二条城に籠って死んだ信忠に対して
「光秀は謀反の意思を深く秘密にしていたため信忠逃亡防止の手当てをしていなかった。だから安土
に無事に行けたはずなのに、運が尽きるとはこういうことだ」と評している。
>>6
>オウム返しのレスの前に以下2点への回答を示して欲しいが。
>・光秀は京都の状況を自国でも知りえなかった理由
>・京都へ攻め入る前になっても斥候すら使わなかった理由
桐野・谷口は「光秀が信忠在京を知らなかった」説は光秀がマヌケ過ぎて採れないが、一方で1次
史料による証明もできなかったようで「明智軍記」の記述を採ってごまかしている。
「知っていたこと」の傍証は1次史料では無理なんだよ
0012人間七七四年
2011/08/21(日) 23:55:41.24ID:uRzP+joV>「信忠の意思で二条御新造へ向かった。」ってことは、妙覚寺に対して横鑓などの明智の手当て>
>がなかったことになる
いやいや、君が貼った当代記の記述に「妙覚寺へは御帰不可有」ってあるんだけど・・・。
>「当代記」の著者は、二条城に籠って死んだ信忠に対して
>「光秀は謀反の意思を深く秘密にしていたため信忠逃亡防止の手当てをしていなかった。だから安土
>に無事に行けたはずなのに、運が尽きるとはこういうことだ」と評している。
当代記より
信忠曰く「このような謀反を企てる者が、諸方へ手勢を回さないはずがない。
逃げようとしたところで途上で(待ち伏せされて)相果てるのは無念だ。徒に退くべきではない」。
つまり当代記の中で手当てをしなかったといってるのは京からの退路遮断の話であって、妙覚寺への攻撃ではありませんな。
ちなみに京都宇治より先へは「通路不叶」と蓮成院記録が記しているので、信忠の判断は間違っていなかったともいえる。
0013人間七七四年
2011/08/22(月) 01:27:00.95ID:Vq9Yasqj0014人間七七四年
2011/08/22(月) 04:17:59.19ID:bBiqiChI0015人間七七四年
2011/08/22(月) 07:54:11.76ID:bZWuEZsGだって信忠自身は武田残党狩りに執拗な執念を見せた奴だぜ
その逆の事をされるかと思うと当然覚悟が早くなるよ
0016人間七七四年
2011/08/22(月) 15:23:53.69ID:CItOI+l/斥候とか事前調査とかそういう考え方が気になる。
愛宕登る以前にはあくまで基本的な主君の居場所の確認
ぐらいでそんなに正確な「調査」してたら逆に疑われるだろう。
事実居場所なんてコロコロ思いつきで変わってる。
ある夜に誰がどこにいるなんて正確に知ること自体がかなり
むつかしいとは思う。
だから「攻める前には誰でも調べるだろ」という論自体が
少し成立しないのではないか。
6で言うように「推測」とか「動向」ぐらいはたえず知ってたろうが
正確なところは本人から文書か連絡役が知らせない限り
わかったものじゃない。
それにいくら「事前に調べて」もそれが100%正確かどうかはまた
別問題。連絡自体に時間もかかる。
そういう意味でずっと主張されてる「回答して欲しい」という点自体が
あまり重要な論点にはなってないと思うがどうか。
0017人間七七四年
2011/08/22(月) 15:33:15.49ID:CItOI+l/一番危険。もし知ってたら絶対に囲んで寺から出すことさえしなかったろう。
信忠が自分で「待ち伏せされてる」と判断したことも
もし待ち伏せに使う余剰人員がいたならば寺そのものを包囲すればいい。
そこを包囲されてなくて寺からでられた以上は「チャンス」と脱出図るのが
どちらかと言えば正しくはないか。
とりあえず目先の敵から遠ざかる、という判断はそんなにむつかしい
ものでもなく逆に自然なぐらいじゃないか。
そういう意味でも光秀を信用して脱出不可能と判断してしまったのはどうだったか。
これはまた難義な論点で結果論的にはなってしまうが
「判断は間違ってない」と言い切ることもやられてしまった以上は
少し悩ましいところがある。
0018人間七七四年
2011/08/22(月) 18:39:05.52ID:Yhim0q4N同意だな
光秀が謀反の保秘に非常に気を使っていたことは1次史料のみならず軍記物ですら一致していて、5人の重
臣が謀反を告知されたのが1日の深夜。それまでは、光秀は誰にも相談できずに情報を集めていたわけだ。
それで、彼が一番知りたい情報は信長の所在と信長の護衛の数で、それさえ分かれば謀反の可否の決断
はできる。一方で、情報収集活動すればするほど綿密な計画が立てられるが、秘密漏えいのリスクも高くなる。
光秀の斥候が恩賞目当てに信長に訴人したら明智家は破滅なんだが、光秀が秘密漏えいのリスクを考慮
せず信長以外の要人の情報収集に励んでいたというのは説得力に欠けるね。
0019人間七七四年
2011/08/22(月) 19:25:28.41ID:CItOI+l/ちょと補足だが、信長の情報を集めると言っても
その相手に「謀反の予定」なんてことを言うはずもない。
あくまで「戦が近いので失礼のないように連絡先を確認
しておくように」という感じだったろう。
またこれは重要だが、ケータイもないので確認した家臣が連絡に来るにも
数時間か半日はかかる。それが正確かどうかの第二報を待つのも
いつになるかわからない。
つまり斥候とか事前調査というのはそんなに実際問題
できるものでもなく、したかどうか、というのはやはりそんなに重要な論点とも
思えないんだ。
信長の居場所を正確に知っていたのはさすがだし
まさかだけど信忠はわからなかった、とするのがおおむね正しいだろう。
少し先走るが信忠在京を未確認なのもやはり軽視したからだろう。
信忠を過大評価するとまさかなんだが秀吉同様に軽視して
信長さえ倒せばというのが本音だったか。
あの時点ではサルとイケイケの2代目だから光秀から見て
軽視したのもそんなに「まさか」とも思えないところはある。
史実は僥倖で片方はやっつけたけどそれこそ
「まさか」でサルがここまで電光石火歯向かってくるとは
びっくりなんてものではなかったろう。
惜しかったな、光秀どん。
0020人間七七四年
2011/08/24(水) 04:07:25.98ID:2MUcrbhW0021人間七七四年
2011/08/26(金) 11:45:13.25ID:RLCXtIQz0023人間七七四年
2011/08/26(金) 14:03:19.33ID:EreUYHxOそれなりにがんばってたんじゃないか。
少なくとも副将軍ぐらいは喜んで受けてそうだな。
その後足利と戦って自らの政権を作るとこまでやったかどうかは
わからないけれど、やっぱり光秀がそそのかしていいとこで謀反
起こして自分がいいとこ取りをしてたかもな〜。
0024人間七七四年
2011/08/26(金) 15:05:43.79ID:U4dsfGsD0025人間七七四年
2011/08/26(金) 16:08:29.30ID:PlrVAYUQ0026人間七七四年
2011/08/26(金) 20:00:39.86ID:jDvEeMfv0027人間七七四年
2011/08/26(金) 20:22:27.51ID:RLCXtIQz0028人間七七四年
2011/08/26(金) 22:21:12.75ID:NaU31IZ10029人間七七四年
2011/08/27(土) 11:29:03.61ID:giNBXeld0030人間七七四年
2011/08/27(土) 22:49:25.57ID:ep51Kl38とりわけ、彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長子を誤つことなく殺害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。
そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。
すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思い及ばぬ状況にあり、
兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、更に彼の三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するために出発している。
かかる幸運に際しては、遅延だけが(考えられる)何らかの心配の種となりうるであろう。
結局各資料には「知らなかった」とは記述がない。
一方で「信長とその長子を誤つことなく」とある様に綿密に狙った描写はある。
ラッキーパンチで信忠を倒せたとするアホ光秀シナリオよりは、単純にフロイスの記述を信用するわ。
0032人間七七四年
2011/08/28(日) 05:47:34.23ID:jeE/6qfiでも、意外と反論できてないんだよね。
いつもの、史料神、さんは一切レスしないでしょう。
このあたり、ちと面白いと思うよ。
0033人間七七四年
2011/08/28(日) 08:31:10.34ID:SqKgb5XM0034人間七七四年
2011/08/29(月) 15:51:28.88ID:o4IApyadいるようだからさ。
0035人間七七四年
2011/09/04(日) 11:50:40.39ID:vwBCTotm0036人間七七四年
2011/09/04(日) 11:53:24.46ID:ZuyJ3S8n0037人間七七四年
2011/09/10(土) 16:55:36.38ID:4VGEeC5X意外と出生とか由来とか前半生とか不明なんですね。
0038人間七七四年
2011/09/10(土) 19:08:11.92ID:J8I/mhR60040人間七七四年
2011/09/10(土) 20:19:34.84ID:ImJIgKSz0041人間七七四年
2011/09/12(月) 14:32:59.02ID:YjrMyL6b明智、というのは、悪地、であり土地由来かも、というのを聞いたことがある。
というか武士は元は武装農民だろうし。
0042人間七七四年
2011/09/12(月) 15:35:25.05ID:PIC8LRfFって話も聞いたことある。
日本での最初の暮らしは極貧だったってことか?
0043人間七七四年
2011/09/12(月) 16:34:11.93ID:c96gsHGuチョンはようつべを締め出されたからこんなとこへ来たの?
0044人間七七四年
2011/09/15(木) 17:15:05.80ID:VFOqdncbttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110915-OYT1T00275.htm
0045人間七七四年
2011/10/07(金) 22:00:46.49ID:ulDhCml4戦国時代、秀吉は光秀を討って信長の仇を取ったと言われるが本当だろうか?
最近、刑事実務の勉強をして事実認定がかなりできるようになった。
共謀共同正犯の成否を検討するには
@実行行為者との関係A実行行為前の状況B役割の重要性C実行行為後の状況
D利益の帰属Eその他特筆すべき事情を考慮して決せられる。
@光秀と秀吉はともに外様であり、譜代に対抗するため手を結ぶ必要があった。
A秀吉軍と毛利との対峙はほぼ最終局面に入っており、大軍を動かすにはいい機会であった。
B信長は秀吉の要請により防御の困難な京都に入るという、重要な役割を秀吉は果たした。
C秀吉はわずか13日で光秀を討っており、事前に本能寺の変が起きることを知らなければ
そのような短期間で山崎まで戻るのは困難。
D秀吉は織田家を継いだばかりか天下を取り、これ以上ない利益を得た。
E秀吉は農民の子でありながら信長の子を養子に迎えており、家格の違いを考えれば
自分の野心をカムフラージュするための秘策だったと考えられる。
以上の点を総合考慮すれば、共謀共同正犯が成立し、光秀は秀吉に利用されただけで
信長に対して謀反を起こした真の張本人は秀吉であるといえる。
2011/10/07(金) 21:21:51.60 ID:???
0046人間七七四年
2011/10/11(火) 18:52:46.21ID:Vugv724Fこう言っちゃ悪いが同じ宿老格の明智光忠ですらあるのに
0047人間七七四年
2011/10/13(木) 17:33:26.45ID:v+RCixxm0048人間七七四年
2011/10/20(木) 13:43:36.10ID:xW99sG0Qhttp://cgi4.nhk.or.jp/topepg/xmldef/epg.cgi?setup=/bs/detail/2417
0049人間七七四年
2011/10/20(木) 13:52:21.32ID:N3CcadTGはい、解散解散
0050人間七七四年
2011/10/20(木) 16:28:48.65ID:DPgF0Jgw秀吉の関与なんて有り得ないのに、
リアル社会で誰にも構ってもらえないから、ネット内で釣りするしかない可愛そうな奴。
0051人間七七四年
2011/10/20(木) 20:03:16.92ID:N3CcadTG0052人間七七四年
2011/10/22(土) 10:30:42.07ID:AlwuSWcKNHKBSの結論がそこに信長父子が居たから、討った。
まるで消える魔球だな光秀。
0053人間七七四年
2011/10/22(土) 11:01:21.55ID:sPeQjyKi0054人間七七四年
2011/10/22(土) 20:54:40.14ID:sExjz2iN0055人間七七四年
2011/10/29(土) 14:11:02.86ID:Fe5jIeJAhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1319864935/
親類筋ですが、再建しました
0056四王天但馬守
2011/11/11(金) 01:26:06.94ID:gl6HPxDs明智光秀にとっていま頼るべきは中川、高山、池田といった摂津の諸将であり、大和の筒井順慶との合体も急ぐべきであった。
0057人間七七四年
2011/11/11(金) 07:56:20.85ID:4hrU/sOI0058人間七七四年
2011/11/11(金) 10:54:11.15ID:TNN70E3Nもし姫路で休憩してたりしたら光秀についてたかな。
秀吉の方も、すぐに行けば摂津衆は自分につく、という確信が
どこまであったんだろ。
本能寺は信長の油断と言われるが山崎は光秀の油断というには酷か。
0059人間七七四年
2011/11/11(金) 23:31:39.03ID:gl6HPxDs惟任光秀の与力は、池田恒興、長岡藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山重友ら。
しかし事前の裏工作ができる類いの決起では無かったこともあり、惟任光秀は、近江へ逃れる途中、小栗栖で土民の襲撃に遭い、落命。
0060人間七七四年
2011/11/12(土) 00:37:57.65ID:4UCCFTWl完全に衝動的に起きたとしか思えない。
配下の諸兵の先走りの可能性もある。
「今なら信長信忠を殺せるぞ。そうなれば明智様が天下人になって俺達も大出世だ」と。
光秀が本能寺に現れたのは襲撃から何時間も経った午前9時頃だと言われている。
あまりに遅すぎる。
0061人間七七四年
2011/11/12(土) 00:42:13.27ID:kMU8RSHy0062人間七七四年
2011/11/12(土) 01:01:05.39ID:APayMAlF大和国拝領を願い出て拒否された。
つまりは光秀の領地を信澄に譲らせることを意味した。
光秀は武田の旧領の一部が貰えなかったことから佐久間の次々は自分だと絶望した。
0063人間七七四年
2011/11/12(土) 01:13:01.25ID:c74SHSgY>惟任光秀の与力は、池田恒興、長岡藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山重友ら。
高柳本を参考にしたのだろうが、摂津衆は与力であることは否定されている。長岡ですら
あやしい。
現在は留保付きながら、「信長公記」を根拠に池田の与力を中川・高山としている。
0064人間七七四年
2011/11/12(土) 13:15:28.01ID:2R4xZ5sk光秀本人が本能寺へ必ず行かなきゃいけないわけじゃないだろ。
本能寺を襲撃したのは家老の明智秀満・斉藤利三の手の者。
光秀に命じられて行ったといえば何の疑問もない。
0065人間七七四年
2011/11/13(日) 08:04:17.57ID:u6WjGNbb大和国が光秀の領地だったことは無いけど・・・?
0066人間七七四年
2011/11/13(日) 09:51:00.46ID:1S2s1492原田直政戦死のあと、筒井順慶が大和の一職支配を任せられたけど、それは明智光秀指揮下でということだった。
0068人間七七四年
2011/11/13(日) 19:17:06.39ID:5Ly+ccd3だから光秀ネタは後世の創作が多い。
0069人間七七四年
2011/11/13(日) 21:42:15.55ID:SxWQx3E40070人間七七四年
2011/11/13(日) 21:51:03.87ID:NgsnZZyX0071人間七七四年
2011/11/16(水) 20:47:17.59ID:23rs3yqS0072人間七七四年
2011/11/16(水) 22:32:57.85ID:3+9BkqVS0073人間七七四年
2011/11/19(土) 17:21:44.73ID:Kl216G6P0074人間七七四年
2011/11/19(土) 17:52:20.52ID:Wt3lEaYq0075人間七七四年
2011/11/20(日) 00:42:58.30ID:ZEi876Qdありゃ現在で言えば、ただのテロ集団だから
0076人間七七四年
2011/11/20(日) 01:21:17.29ID:5L6WAdbG0077人間七七四年
2011/11/24(木) 20:28:04.84ID:c3y5/pPc0079人間七七四年
2011/11/25(金) 02:22:03.24ID:PmwlmwGs0080人間七七四年
2011/11/26(土) 20:46:12.19ID:q/BxJHie0081人間七七四年
2011/12/03(土) 23:59:36.37ID:wLcf8Ntm司馬遼太郎が言うように、どうせ光秀はノイローゼと言うか精神を病んでいたんだろ。
このノイローゼ説もしくは野望説が一番欠点が少ないわな。
0082人間七七四年
2011/12/04(日) 02:51:39.59ID:JO5R5YW9戦国時代なんだから野望説が一番しっくりくるでしょう。
宇喜多や道三がノイローゼで主君に下剋上したとか聞いたことありませんからね・
0083人間七七四年
2011/12/04(日) 05:12:10.22ID:mYTWOgFGってのが一次資料で裏付けされたのであれば、
山城探題的なポジションを、手放したくない家臣団の総意に押されたのかもね。
0084人間七七四年
2011/12/04(日) 06:25:37.61ID:9q6Azbvp0085人間七七四年
2011/12/04(日) 15:45:09.23ID:+YQuGqu8・徳川様接待不首尾のお怒り
・近江坂本、丹波領地を召し上げ、出雲・石見を斬り取れとの冷たきご沙汰
・丹波で、足の不自由な母を、見殺しにされた仕打ち
など!語り尽くせぬ恨みあれども。此度の戦、決して!私心に有らず!
首じゃ!首じゃ!信長の首じゃ!晒すのじゃ!
てええばあいいたす
0086人間七七四年
2011/12/04(日) 16:14:59.32ID:mKAPgK8u全部俗書にしかない話。
ぶっちゃけ創作。
話が違うけど、来年の大河ドラマの考証をする東大の准教授が
野望説と言ってたよ。
0087人間七七四年
2011/12/04(日) 19:02:28.68ID:DxrkjvTv0088人間七七四年
2011/12/04(日) 19:56:52.21ID:rOS27uqN0090人間七七四年
2011/12/05(月) 04:59:56.67ID:+3YilZQR斉藤利三は当夜、本能寺に泊まり込んでいた。
大田牛一がそのアリバイ工作を担当。
0092人間七七四年
2011/12/05(月) 16:53:04.32ID:xvn0KHxW乗って聞いてみるしかないなwww
くだらない理由だったら目もあてられないが・・・
0093人間七七四年
2011/12/05(月) 17:29:25.61ID:H6uAUB+S>>90
思いっきり釣られてやる。
斉藤利三さんは、移籍問題で稲葉vs明智の仲裁を信長自身が動いたんで、
んな奴を本能寺に連れて行くわけがない。
0094人間七七四年
2011/12/06(火) 22:38:11.38ID:8fvns7BUと言う通説を裏付ける最も信用性の高い資料って何だっけ?
秀吉に供された首級は皮がはがされていただの、著しく腐敗していただのと言った話や
光秀の首を家臣が持ち帰らずに、現場付近の土中に埋めただのと言った話があまりに不自然で、
天海になったわけでは無くとも、何らかの形で生き延びたんじゃないの?とも思わされる。
0095人間七七四年
2011/12/06(火) 22:50:02.13ID:v0U1kpHO「言経卿記」(天正10年6月15日条)惟任日向守醍醐邊二牢籠、則郷人一揆トノ打之、
首本能寺ヘ上了
「晴豊記」(天正10年6月15日条)明智くび勧修寺在所にて百姓取候て出申候。本能寺
二むくろト一所首おかれ候。
0096人間七七四年
2011/12/07(水) 12:48:31.66ID:uJ2YhXZa農民たちにも嫌われちゃってる感じ。
0098人間七七四年
2011/12/07(水) 19:00:20.34ID:M68AeEmO0099人間七七四年
2011/12/07(水) 22:47:49.97ID:DLMw0EyKあとは、信憑性高いかどうかしらんけど尊経閣文庫の十五冊本信長記かな
「以鑓棒徘徊けるが、何者ともしらす、打臥田中之人、討頸、捧公所、日向面無隠」
0100人間七七四年
2011/12/08(木) 17:10:38.83ID:z8OCsfsd0101人間七七四年
2011/12/08(木) 18:06:02.53ID:5/EOy5Mu0102人間七七四年
2011/12/08(木) 20:29:02.48ID:zDEdpYQc0103人間七七四年
2011/12/11(日) 03:56:53.37ID:A9Ntv69l0105人間七七四年
2011/12/14(水) 05:53:40.83ID:uNBcnkPD光秀公は倹約家だったそうだし。
0106人間七七四年
2011/12/16(金) 17:37:29.53ID:8ddoz8Piあやふやな話しか出来ないからつらいよな。
史料のなかではホント、織田軍団の一員として名前が載ってる程度。
人柄なんて分かりやしない。
もしその件で史料が残ってるとしてもそれは悪口ばっかり。
0107人間七七四年
2011/12/16(金) 18:05:10.49ID:MFaPxQMv上洛スレ64事件
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/20.html
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