>>707
>>それはあまりにも武田よりな考えかな。
>>逆の立場だったらそうもいかないでしょ。 勝頼が判断を誤った方がでかい。

はいはいw織田チョン君はどうせまた懲りずに平気で軍記ネタである2万両の黄金とか
一次史料にないネタを持ち出してきて勝頼をムリクリ貶そうとして逆に恥を晒したいんだなw
なにが「金に目がくらんだ」として後世まで非難を浴びるこの行動だよwww
勝頼は上杉の内紛がソフトランディングするように あくまで両者の和解を模索しててバランサーの役割を演じていた。
危機に瀕した景虎への援軍を勝頼は出していて木田(上越市)へ派遣したりしてた。
その行為で景勝が自軍に「俺への援軍」と吹聴していた誤魔化していた景勝は「あれはあくまで表向きのことだ」と
むりくり弁明してる。
その一方で勝頼はぜんぜん援軍を出さない北条に
不満を表明し、はやく援軍を派遣するように交渉を指示してる。
北条の援軍を待つ続けて平和維持軍として越後駐留していて
8/20には「景勝と景虎の和平が理由なく破綻したら
双方への加勢を取りやめると宣言するなど
御館の乱での中立性を鮮明にしており
ここにいったん景勝と景虎間に和平を結ぶことに成功してる。
しかし北条の援軍が来るまでと無理して長期に渡り武田領を留守にしてたのも限界がきて
徳川に対応するために8/28に勝頼は帰国。
徳川も9/4には諏訪原まで撤退。
その後も戦国遺文4369には景虎が武田の支援を受けていると書いている。
家康はなおも諦めず田中城を攻め始めたので、
穴山をまずは高天神城まで派遣してから、自分も後詰めすると言っていて
(織田厨はこのことを歪曲して高天神城がやばくて岡部が援軍依頼したとかデタラメを吐いていたが)
9/24に景勝に対して、景虎との和平が破綻したのを勝頼が嘆いている。
10/7には武田軍の大熊と市川が越後和平のために津南市にあたる妻有・赤沢へ入城したが、
景勝の支援要請を拒否している。
勝頼は徳川攻めで出陣し牧の原から横須賀城攻めを開始したが
堅城だったので高天神城で休息を取ってから
嶋田や田中城を襲撃して回り11/25に帰国してる。
12月に富士大宮の遷宮を実施して諸将が神馬を奉納して天正6年は終わっている。
(天正7年に入っても大金を投資し続けている諏訪大社造営事業も継続されており金に心配はまったくないのが現実)