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長篠・設楽原合戦の真実 part3

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0001人間七七四年2011/07/26(火) 09:54:46.10ID:7XwJZnpG
近年、多くの新説が提唱されている長篠・設楽原合戦を語りましょう

■過去スレ
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153127427/
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1225641222/
0567人間七七四年2012/08/26(日) 14:04:02.62ID:HA6uIu2H
いや桶狭間の教訓を忘れた代償が高くついただけ
0568人間七七四年2012/08/26(日) 16:33:06.93ID:Sb/YiGBV
>>566
>>秀次奇襲軍は機動性が無くチンタラしてたから家康にしてやられただけ
>>無残に敗走したのも、無防備な食事の準備中を急襲されたため
>>あれは秀次があまりにもボンクラだったから
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
0569人間七七四年2012/08/26(日) 16:35:39.86ID:Sb/YiGBV
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

0570人間七七四年2012/08/26(日) 16:37:04.08ID:Sb/YiGBV
単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
0571人間七七四年2012/08/26(日) 16:39:04.08ID:Sb/YiGBV
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
0572人間七七四年2012/08/26(日) 16:39:44.04ID:Sb/YiGBV


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
0573人間七七四年2012/08/26(日) 17:39:18.97ID:7jI2H0nn
同じようなレスを何度も繰り返さないでちゃんと推敲してから送信しろよ。素人か。
0574人間七七四年2012/08/26(日) 17:48:23.45ID:snRnQl3G
ほんとに迷惑 死んで欲しい
0575人間七七四年2012/08/26(日) 17:54:46.17ID:Sb/YiGBV
秀吉厨の妄言垂れ流し馬鹿に比べればマシ
0576人間七七四年2012/08/26(日) 17:56:22.26ID:Sb/YiGBV
秀吉厨死ね
にどとくんなクズ
0577人間七七四年2012/08/26(日) 18:05:20.94ID:lYjGGEub
>>572
黒田官べえって
あかんべえみたいなもんなの
0578人間七七四年2012/08/26(日) 18:37:49.23ID:4oIvmq3b
チョンうぜえぇぇ
0579人間七七四年2012/08/26(日) 18:44:50.46ID:Sb/YiGBV
秀吉厨は馬鹿
0580人間七七四年2012/08/26(日) 20:48:37.05ID:qb890p4w
>>577
ピカピカぴかりんじゃんけんポン
0581人間七七四年2012/08/26(日) 21:02:17.64ID:hI/IAZQH
>>565

原文はこうだ。

設楽の郷は、一段地形くぼき所に候。
敵方へ見えざる様に段々に御人数三万ばかり立て置かる。
0582人間七七四年2012/08/26(日) 21:11:36.00ID:qb890p4w
つか、だがの主張するように織田軍が兵を隠してなかったとすると
勝頼は3倍の敵軍が立てこもる陣地に正面から仕掛けるクソバカタレだということにwww
0583人間七七四年2012/08/26(日) 21:14:46.64ID:d9nPKJiX
>>581
窪地に縦方向で何部隊かに分かれていたということだね
前の部隊が見えても、その後は発見しがたいね
0584人間七七四年2012/08/26(日) 21:41:11.89ID:hI/IAZQH
家康と信長は、小高い丘というか、円墳らしいのだが、頂上に陣取って、前線で指図した。
武田軍からも丸見え。
>>583の指摘どうり、後方の部隊が武田軍からは発見しがたい状態であれば、
武田軍としては「敵の数は少なく臆しているようだから、一目散に駆け寄って打ち破ることができよう」
と思ったであろう。
0585人間七七四年2012/08/27(月) 08:18:59.40ID:/dERfHBO
現地に行ってみると、言い伝え通りの布陣なら、確かに家康と信長の本陣は
前線だね。
武田から丸見えと言うか、本陣としてなら近すぎ。
家康の本陣跡は丁度内藤さんの陣前辺り、信長の出ての本陣は、土屋さんが
討ち死にした前にある小山で、勝頼の物見櫓の正面辺りか。
しかし、寡兵と判断する材料にはならない気が。
それほど武田の情報収集力がなかったと言う事なのか。
武田としては、前に誘い出したかったのかもしれないけど、激戦地と言われ
ている場所とは結構離れているかな。
しかし、激戦地でもない戦っていたかどうかもわからない一族衆は何故引き
上げたのだろう。
0586人間七七四年2012/08/27(月) 08:53:54.72ID:VmkzB37z
>>581
原文もなにも嘘長公記じゃんwww
0587人間七七四年2012/08/27(月) 10:04:18.94ID:LXHr39ur
>>585
裏崩れは良くある話
0588人間七七四年2012/08/27(月) 10:28:11.27ID:4P99nx3y
はっ?現地を見回ったことあるけ数万が隠れる窪地なんてどこにもないだろワロタw
0589人間七七四年2012/08/27(月) 11:57:02.43ID:LXHr39ur
陣構えた山一つ向こうがわ2・3箇所はある
塚田・溝添・慶蔵地辺り
0590人間七七四年2012/08/27(月) 12:25:28.90ID:/dERfHBO
>>588
隠すと言っても、そう言う隠すじゃなくて、旗とかを上げていないだけでも
人がいるかわからなくなるとは思うけどね。
個人的にはどっちかって言うと、山々で見にくいってのが正解かと。
でも、それで寡兵と思ってしまうには、歴戦の者が多い武田である話なのか
と思う。
0591人間七七四年2012/08/27(月) 18:02:50.58ID:1QO+2CA+
万どころか3000すら隠せる場所なんてないぞ。
そもそも信濃の渓谷で戦ってきた武田軍が敵が隠れてるのも分からないなんてあり得ない。
0592人間七七四年2012/08/27(月) 19:42:47.15ID:LXHr39ur
>>591
ビックサイトの数倍はあるが?
後、隠れているのが分かっても何人いるかはわからない
0593人間七七四年2012/08/27(月) 21:15:56.46ID:ZTJ610k1
勝頼はやっぱり自信過剰になっていたんだろうな。
少なくともこの点については軍鑑は間違いじゃないと思う。
まあ、ここで決戦を避けてもジリ貧って意見もあるしそれも確かに一理ある話なんだが決戦するなら1万5千では少ない。

重臣が反対していたのも事実だと思う。賛成した人間が誰か知らんがおそらく外様衆か親族衆だろう。
確かに勝頼、あるいはその側近のみ判断とは考えにくい。
実際信玄なら避けていたであろう戦いだし重臣は反対していただろう。
なぜあのような戦いぶりを示したか?それはたとえ反対でも武田家のために戦ったってことだろうな。
彼らの武田家への忠誠心は並大抵のものではない。
0594人間七七四年2012/08/27(月) 22:51:51.07ID:VnlAizpe
長篠で結構な打撃受けたのは確かなんだろうけど
その後の対北条戦とか見る限り重臣の壊滅で武田軍が激しく弱体化って感じでもないよな
信玄で言うところの上田原の負け戦みたいなもので口うるさい重臣が消えて
親類衆は早期離脱で面目失って勝頼の統制力が強化された感もある
ただ問題は上田原の時代と違って信長みたいな強大な敵がいたことだな
甲江和与が成功してればね
0595人間七七四年2012/08/27(月) 23:32:54.70ID:CixGL0fs
>>594 武田が滅んだのは、家臣が寝返ったのが大きな理由。
戦いがほぼ終わって、信長が褒美をあげたとき、筆頭は木曽氏(中山道方面)だったが、
2番目は小笠原氏(伊奈街道方面)、3番目は穴山氏(駿河街道)だ。
いずれも、織田の領地に接する最前線に位置する武田家臣だ。

長篠の戦い以後に、あらかじめ懐柔していたとみるべきだろう。
0596人間七七四年2012/08/28(火) 00:28:47.41ID:ZlFq0Diy
重臣は戦に賛成したと思うな。親類衆は戦に反対だったからそれみたことかと、さっさと退却したんじゃない?重臣は自分が血気盛んに戦を訴えたから意地になって退却が遅れたと。
0597人間七七四年2012/08/28(火) 01:00:21.75ID:Gm1l3doK
重臣達は先の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に圧勝してるから
当然織田・徳川如きは恐るるに足らずって感じ?
信玄でも落とせなかった高天神まで落としているし
親族衆の退却は何とも言えないけど敵前逃亡なのに
その後何のお咎めも無かった事が後に災いしたかと
秀吉の敵前逃亡を信長が厳罰に処さなかったみたいに
0598人間七七四年2012/08/28(火) 07:35:07.85ID:RJtqgbPh
日の出より未の刻まで、入れ替わり相戦い、
諸兵をうたせ、次第に無人になりて、何れも
武田四郎旗元に馳せ集まり、叶い難く存知候。
敵、鳳来寺さして、どっと廃軍致す。


次第に無人になりて、何れも武田四郎旗元に馳せ集まり、という表現から、
穴山などの部隊は、数はまだあっても攻撃をかけられるような部隊ではなかった
とみるべきだろう。
守備向きなんだろうね。歴戦でも、やや年齢がいっている兵とか。
0599人間七七四年2012/08/28(火) 08:22:22.75ID:uA8q33b5
>>593
少し前に同じような事が書いてあったような、コピペ?
このスレに信玄は関係ないだろうと書いた記憶がある。

>>595
いやいや、信長が本気で潰そうとしてきたのだから、家臣の裏切るなんて些細
な事。
裏切らなくても滅んでいたでしょ。
そのくらいの差が出来てしまったのがなぁ。
本能寺が1年早くおきて、外交を上手くやれば生き残れたのだろうか。
0600人間七七四年2012/08/28(火) 09:35:09.87ID:hnff96gp
>>589
>>塚田・溝添・慶蔵地
もしかして茶臼山駅チョイ北の矢部周辺を言ってるんじゃないだろうな?
おいおいそこら辺はむしろ山へ向かっていく麓みたいな場所で
海抜68Mから88Mへと
どんどん土地があげっていく平地部だから
むしろモロバレするエリアなんだが
お前はアホかw
ちなみに平野部は、川の周辺50Mから少し高い60M前後。
0601人間七七四年2012/08/28(火) 11:56:00.85ID:SyVfpVAB
>>600
上がっていくのは南から北へだろ
武田は東にいるのにどうしてモロバレと思う
0602人間七七四年2012/08/28(火) 12:21:22.05ID:5FwBJoCy
他の人間がどうだったか知らんが少なくとも勝頼は織田をなめていたんだろうな。

>>599
裏切らなくても滅ぶことは間違いないが史実ほど簡単には滅亡しなかったと思う。
0603人間七七四年2012/08/28(火) 12:38:46.11ID:Mbq2kiY6
>>602
舐めていたのは信玄では?
信長の領土があそこまで膨張するまで何もできなかったのだから
0604人間七七四年2012/08/28(火) 12:59:56.62ID:XM3tRah0
>>601
普通にモロバレじゃんw
>>602
天災が滅亡原因だから仕方ないしな。
>>603
信長が石山本願寺の大罪をすべて許すからと土下座して勅命連打して
石山戦争が終結したあたりまで
大して国力差なんてねーよ。
武田は6万動員できるが、
織田なんて長篠の戦い後も越前兵まで動員して3万じゃねぇか。
0605人間七七四年2012/08/28(火) 16:44:17.21ID:SyVfpVAB
>>604
南しか開けていないのに、東の敵にモロバレか
中々特殊な方向感覚の持ち主のようで
0606人間七七四年2012/08/28(火) 17:10:22.18ID:x8BU/VL5
武田6万人wて
嘘も言い続ければ真実になるとでも思ってるのか
0607人間七七四年2012/08/28(火) 20:04:36.97ID:5FwBJoCy
>>603
当初は信玄もなめていたのだろう。
ただ長篠の戦い直前の勝頼は明らかに織田をなめていたと思う。
0608人間七七四年2012/08/28(火) 20:06:05.75ID:5FwBJoCy
天災と木曽・穴山の謀反がなかったら織田の武田攻めもそう簡単には終わらなかったと思う。
もっとも、最後に武田が滅亡することは間違いないが
0609人間七七四年2012/08/28(火) 20:08:01.75ID:RJtqgbPh
なんでも鑑定団で、信長のすごい品が登場するという。何かなあ。
0610人間七七四年2012/08/28(火) 20:09:41.26ID:RJtqgbPh
謙信あての平信長の書状
0611人間七七四年2012/08/28(火) 20:14:46.36ID:RJtqgbPh
桶狭間の戦いの2年後の書状。
「長尾謙信輝虎殿」
本物かなあ?。ただいま鑑定中。
0612人間七七四年2012/08/28(火) 20:16:30.60ID:RJtqgbPh
ああっー!。5000円のニセモノやった!。
「謙信輝虎殿」という表現の仕方は絶対にない、とのこと。
0613人間七七四年2012/08/28(火) 22:47:52.62ID:CcjUY/NE
何か武田軍が尾張の熱田神宮まで侵攻して熱田神宮を焼き払ったって言ってる人がいるけど、その人が大好きな一次資料って何?

その頃の武田軍が尾張内部まで侵攻できたんなら長篠なんかにこだわらなくてもそのまま尾張を席捲できるんじゃない?

面白いから是非御高説を賜りたい。
0614人間七七四年2012/08/29(水) 04:11:47.89ID:RwLabG1A
新田次郎が描いてた、
勝頼は佐久間の寝返りを信じてた
ってのは完全な創作ですか?

そんな説や資料が少しでもあったりするのでせうか??
0615人間七七四年2012/08/29(水) 06:32:47.18ID:+gj9WYru
>>613
ポルナレフさんが過労死させられるレベル!
0616人間七七四年2012/08/29(水) 08:19:57.65ID:CYLvxCVU
>>602
簡単には滅ぼされなかっただろうね。
さすが武田、見事な引き際と後世言われていたかもしれない。

勝頼はなめていたとは思わないなぁ。
段々と不利になって行くし、むしろ焦っていたのではないかと。
長篠で勝負したけど、負けた感じかなぁ。
実際、後世からみれば長篠は分岐点になるが、当時はそこまで切羽詰まった
感じではなかったのかもしれない。
動員出来る1万を何故待たなかったのか、一旦引く事をしなかったのが疑問
だけど。

>>604
武田が6万も動員できるのなら、信長は20万動員は軽く動員出来る事に
なるぞw
春秋時代の中国じゃないんだから、膨張はよくない。
まあ、中国の場合、本当に100万人くらい生き埋めにしそうだけどw
0617人間七七四年2012/08/29(水) 08:34:35.72ID:vP/Ay2Xx
信長20万とかバカ過ぎて話にならないwwwwwwwww
捏造と歪曲自演の織田チョン死ねよマジで。
0618人間七七四年2012/08/29(水) 08:48:04.46ID:DgMybefG
チョンは自分をチョン扱いされると顔真っ赤になってチョン扱いした相手をチョン扱いするって本当だったんだな

まぁそれはそれとして武田6万なら織田20万って過小評価もいい所だな、当然織田側でw
0619人間七七四年2012/08/29(水) 09:26:47.14ID:2Yrl76W9
20万以上動員できるとする根拠は?
0620人間七七四年2012/08/29(水) 12:33:41.35ID:CYLvxCVU
>>617
まずは、話の流れを読んでから書き込んだ方が良くないか?
無条件反射で書き込んだのだのかもしれないがw

>>619
まずは武田が6万動員出来る根拠の方が先じゃないか?
話はそれからだ・・・と言ってしまえば良いのだが、武田の動員出来る兵数
は多くて2万5千程度だと思う。
その動員数を6万と言うなら、2倍以上になる。
信長の動員数は8〜10万、単純に20万になるとして書いただけ。
妄想にのっかってはじきだした数字だもん、根拠もへったくれもないわなw
0621人間七七四年2012/08/29(水) 12:42:38.59ID:2G9dh7SR
おいだが
コピペで荒らすなよ
0622人間七七四年2012/08/29(水) 13:11:00.21ID:cwvucv28
もう十分荒れとるがな(笑)
0623人間七七四年2012/08/29(水) 13:42:42.11ID:DgMybefG
>>620
援軍含めて25000だから20000ぐらいが限界でしょ
だから3倍
そうなると20万じゃ過少だと思う
0624人間七七四年2012/08/29(水) 20:55:51.71ID:sJy49nsS
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
なんとたった1万しか集まらず信玄に大敗してボロ雑巾の家康にすら近江に援軍を出すように哀願w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
0625人間七七四年2012/08/29(水) 21:34:07.44ID:2G9dh7SR
六万もの大軍を動かして、四ヶ月かけても織田どころか徳川すらも滅ぼせなかった体たらく
得たのはその軍事費に見合わない猫の額の領地と、織田信長の怒り
そりゃそんな負債背負わされたら息子も長篠で勝てんわな、しょうがない
0626人間七七四年2012/08/30(木) 00:23:01.80ID:D87G8JG7
つーか、6万動員できたら普通に上杉と正面決戦やって勝てるな
0627人間七七四年2012/08/30(木) 01:14:11.92ID:nRfIsLk/
長篠の戦の時には15000がやっとだったみたいだけど
残りの45000はどこいっちゃったんだよw
上杉の備えに10000でも35000が行方不明
長篠の戦以降行方不明になった重臣達と一緒やな
0628人間七七四年2012/08/30(木) 06:50:26.50ID:pQP9FHVX
織田チョン涙目w
でさ、早く織田20万以上動員できるとする根拠を出せよw
織田なんて長篠後ですら越前兵まで動員しても3万が限界だし、
岐阜から信濃へ侵攻する時は遠陣だからと兵力調整するほど超低能力兵站じゃんよw
0629人間七七四年2012/08/30(木) 06:52:50.67ID:pQP9FHVX
しかも長篠で武田が15000ってのは
甲陽軍鑑の記述だと散々指摘されてきてるのに
いまだに持ち出すキチガイ織田チョンwww
0630人間七七四年2012/08/30(木) 07:49:50.94ID:D87G8JG7
>>629
だからお前は6万の武田軍がはるかに少ない織田軍なんで勝てないか説明しろよ?
武田は糞雑魚だからでFA?
0631人間七七四年2012/08/30(木) 08:16:44.49ID:sqwxRhME
いやぁ、武田6万と聞いて、ついつい膨張過ぎだと思い煽るような書き込みを
し、結果的に荒れてしまい申し訳ない。
このスレ的に、武田や織田がどのくらい動員が出来たのかはあまり関係ないよ
ね。
話を戻すと・・・何の話だっけか?
何故援軍を待たなかったのか、倍以上の敵、構築した陣地に突っ込んでいった
のかだっけ?

0632人間七七四年2012/08/30(木) 08:24:48.53ID:8RITTtNt
甲陽軍鑑の記述じゃなくて信長公記だろ。
「一万五千ばかり」と書いてあるよ。
0633人間七七四年2012/08/30(木) 12:35:37.85ID:sqwxRhME
まあ、1万5千じゃないと言う決定的な資料もないしね。
実際、今の軍隊みたいにきっちり把握されているわけでもないし、どのくらい
の兵数だったかは見る人によって違うのかも。
個人的には、実際は1万程度ではなかっただろうかと思う。
長篠城落とす、家康をおびき出して撃退したいと考えての行動だったら、その
辺が妥当だと思う。
0634人間七七四年2012/08/30(木) 15:53:51.49ID:8RITTtNt
兵糧を運ぶ部隊など、武田の領地と長篠を
往復している人夫も数千人いるだろうね。

兵が一人1日1kg食べているとすると、1万の軍勢が必要な食料は、1日10トンにもなる。
船が使えないから、駄馬でひっきりなしに輸送していたことだろう。
0635人間七七四年2012/08/31(金) 04:29:50.80ID:NLeVyXNE
一キロも食べんじゃろ

米的なものを二百グラムほど現地の水で炊けば五百グラム程度になるんじゃね
0636人間七七四年2012/08/31(金) 07:48:10.45ID:PHF1sNn9
米の1合は、1人が1食分という基準でもあるけど、当時の農民は2合ぐらいは
食べてるよ。
1合は150g。2合なら300gであり、1日3食なら約1kg。コメだけ食ってたわけじゃ
ないだろうし、、陣地が山の上なら、水だって運ばねばならないだろう。

消費物資は一人1日1kgは必要だろう。
馬(騎馬用じゃなくて、荷物運びの駄馬?)は、
背の両側に1俵ずつくくりつけて運べたそうで、1俵60kgだから、ざっと100kgとすると、
1日10トンの物資を運ぶとなると、100頭が往復しなくちゃならない。
0637人間七七四年2012/08/31(金) 08:11:18.82ID:vZsLkS++
それも蓄積地に物資があればだよなぁ。
領地全体からとなると、かなりの人数、護衛も必要になるか。
ちなみに当時は2食だったはずなので、米だけで1Kgって事はないとは思うけ
ど、その他諸々で結局1日1Kgは必要か。
軍の1/5は輸送隊って話もどっかに載っていた気がするけど、あながち間違
いじゃないのかも。
0638人間七七四年2012/08/31(金) 08:44:39.72ID:PHF1sNn9
1/5じゃ、きかないですよ。食料運び以外にも、かぶと持ち、ヤリ持ち、など、
主人にお使えする人数もかなりいますから。使用人も脇差しくらいは持っているので、
戦うことは一応できるけれども。

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/img/nobunagahonjin3.jpg
長篠のときの信長本陣です。
白馬にまたがった信長(王子様かよ!)の右側に、南蛮兜をもったのがいます。その右側には
ヤリ持ち。さらに右に、本陣を示す旗持ち。今度は左側から、ヤリ持ち。白い服きて
ダビデの星を背中につけた3人は占星術師、というのは、ウソでもなくて、軍の方位などを占ったり
する参謀ですが、占いといえば迷信ぽいですが、情報を分析する当時のトップレベルの高官です。
写真右下に赤い円盤を背中につけたのは、母衣(ほろ)衆。親衛隊の中でもエリートです。情報の連絡をします。

ヨロイをつけた兵は戦闘員でもありますが、緑色や白色の服を着た連中は、基本的に戦わず、
戦うのは御主人様だけです。信長ね。
0639人間七七四年2012/08/31(金) 08:57:12.32ID:PHF1sNn9
一般的な武士でいえば、
騎馬一騎につき、足軽2人はつく。それら戦闘員に付属して、
中間(ちゅうげん)や、馬の口取り、食料運び(食べ物は自弁)、兜や鎧もち(ランドセルみたいな箱
に入れて、背中に背負う。お土産を入れて持ち帰ることもある)、ヤリ持ち(長過ぎて、主人が普段もつには邪魔すぎる。ヤリは
戦地では物干し竿としても便利)などなど、
戦いで、これら一族郎党のグループで集団行動をするわけですが、最前列に立たされた主人や
足軽がやられてしまうと、他のメンバーは人数からいえば過半を占めているわけですが、もう逃げ出すことになります。
0640人間七七四年2012/08/31(金) 10:54:19.46ID:FewJxgdL
>>632
>>627は1万5000にセットで
さらに上杉への押さえに1万置いていると書いてるから
明らかに甲陽軍鑑ネタ
甲陽も公記もどちらも軍記で信憑性ゼロ。
一次史料での武田動員力は6万。しかも二つの史料で信玄の時も勝頼の時も6万と記述。
>>605
お前さ、陣地配置と地勢とか知らんのかよwww
武田軍は信玄台地と呼ばれるところに陣を構えてるんだぞ。
そこは織田が構えていた台地よりも高いから、
数万を隠すようには、なんら遮蔽物になりえない。
しかもご丁寧に塚田・溝添・慶蔵地は北に向かって高くなっていく土地。
そもそも織田チョンは武田軍は周囲の山々に物見を一切置かずに平地から眺めているボンクラと盲信してるようだw
しかも塚田・溝添・慶蔵地は南側がぱっくり大きく開けているんだから、
金で雇う現地人や草を豊川の対岸から迂回させれば
南側から塚田・溝添・慶蔵地がばっちり一望できるわけだ。
織田軍は豊川の対岸も塩沢や日吉や鳥原や船着山や浅間峠まで
ばっちり物見が進入する隙がまったくないように兵力配置してたとでも?w
0641人間七七四年2012/08/31(金) 11:05:19.42ID:FewJxgdL
池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは各自に任されていた。
これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。従って武篇道と戦果が問題となる。
(中略)
信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を戦っていかなければならない。
拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていないからこそ生じた問題であろう。
それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
この問題の解決は秀吉の課題となる。

信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは
軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。

池上裕子
武田家の軍役衆は武田家直轄でそれを家臣に預けるだけ。
よって槍3人・弓3人などの賦課で軍役に応じて集結した彼らを解体し
兵種ごとに再編成することが可能。
これは武田が寄親寄子制からいち早く脱却したことを表している。
黒田基樹
信玄の永禄10〜12年年のものと思われる陣立書によって兵科別の編成が証明できる。

排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。しかし武田は6万動員してる。
武田や上杉や北条を見習った秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、
海外遠征まで実現できた。 また武田の制度を導入した家康が頭角を現しているのも納得できる。
織田のような略奪による現地調達方式からそういった
信玄や秀吉のように内政・軍政改革をして始めて3万の壁を越えて大軍を一戦場に集中できるようになるのか。
0642人間七七四年2012/08/31(金) 11:29:57.32ID:aFOMRCOA
森田善朗はどうした?w
0643人間七七四年2012/08/31(金) 12:24:01.47ID:vZsLkS++
>>640
その武田が6万とする一次資料って何?
非常にに興味がある。
石高的にも6万は盛ってるとしか思えないのだが・・・。

信玄台地を何処まで指すかは人によって違う気がするが、基本的には山県さん
と原さんの陣地があったところじゃないかな?
内藤さんや現在の資料館からは後ろの方までは見られない。
まあ、はげ山だったと言う話もあるし、勝頼の物見櫓からは見えたかもしれない。
しかし・・・そうなると余計突っ込んだのは何故なのかわからなくなるかな。
0644人間七七四年2012/08/31(金) 12:27:54.60ID:FewJxgdL
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし
4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。
このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記)
郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの
徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し
(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く
名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、
甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で
名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも
織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて
捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
0645人間七七四年2012/08/31(金) 12:50:58.63ID:FewJxgdL
>>643
山県さんと原さんの陣地は平削地であって
そこは信玄台地でも低いところ。
敵陣を見回すのに台地でも低いところから見渡そうとするほど
武田軍はバカばっかりだと言いたいのか?
つか信玄台地はどこからどこまでとか
そういう極めてくだらんところで絡もうとするのかね?
そもそも石高から動員数を出すなんて、
豊臣政権下以降の話で、太閤蔵入地の設定や大名と重臣の家族が上京生活・土木普請・畿内軍と同一武器統一や国元からの木材提供などの大負担の上で負課されていた動員義務数で
しかも秀吉への忠誠をアピールするため政宗などは義務兵数を超えて動員してるんだから
それ以前の時代へ適用なんて不可能だし、
豊臣政権下で兵農分離が達成された時代と兵農一致で惣村全兵と言われた時代の動員力はまったく違う。
しかも武田は甲斐だけでなく駿河金山収益や治水開墾や米が作れない季節の麦栽培などやってる。
しかし信長の場合は興福寺が信長の戦のせいで河内・摂津が田畑が荒れ果てたとか、
地震頻発時期の無理な大金の恐喝で大和一国荒廃と嘆くように
生活基盤そのものまで消滅させる略奪荒らしが織田軍の行動だぞ。
それで織田の石高なんて大減少はしても増えるわけないだろ。
さらに大和一国支配者の興福寺

1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
だいたい信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかったしソースは年代記抄節。
しかも織田の国人への動員とは違い
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
知識が40年以上前から進展せず、知恵が小学校低学年のまま進歩しないのが信長厨
0646人間七七四年2012/08/31(金) 13:05:03.38ID:3aR3qrAY
5月26日 織田信長(「信長」)、細川藤孝(「長岡兵部大輔」)へ去る5月21日の「合戦」の戦果について通知。
       その内容は武田軍を即時切り崩して数万人を討ち捕らえたが、武田勝頼(「四郎」)の首は未見であり、殆どを切り捨てたので
       河に漂っている武者の死体に紛れているかもしれないこと、武田軍の甲斐国・信濃国・駿河国・三河国の軍兵で生き残った者は
       さほどいないという見通し、織田信長はこの勝利で「近年之散鬱憤」したことを通知。

武田6万のうち、数万人を殺害したと信長の一次資料は示しております。わはは
0647人間七七四年2012/08/31(金) 13:07:55.52ID:FewJxgdL
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。


0648人間七七四年2012/08/31(金) 13:10:53.17ID:FewJxgdL
>>信濃国半分制圧
まったく具体性にかけていて、
テキトーに言ってるだけで信用性ゼロ
いつもの関東まで一遍に申し付けたとか
中国どころか九州まで属本意とかと同じ
信長の虚言癖。 つかその時点でまだ武田領国へ織田は足を踏み入れてないしw
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
信長がデタラメを吐いて言ったことを京に常駐してる
村井がそのまま伝えただけ
つうか2/7の時点でどう考えたって
信濃の半分を手に入れてるわけねーだろw
その2日後の2/9には秀吉が関東の太田へ織田は
すでに中国四国も手に入れたとか言ってるし織田の対外宣伝はまったく信用性ゼロwww
太田牛一の公記にも、あきらかに信長による対外宣伝を真に受けて書いてるようなシーンが何度も出てくる。
特に北陸情勢なんて明らかにそんな話ばっかりで
発信者が有利になるように操作された情報を公記に書いてるだけで事実確認なんてまったくなされてない。
叡山焼討ちでも織田の誇張を信じた言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
0649人間七七四年2012/08/31(金) 13:34:18.67ID:UqWYYIwG
岩村城の秋山信友は見殺しですかw
0650人間七七四年2012/08/31(金) 14:24:39.97ID:I8ohJTcw
家康が駿河に攻め入ったから勝頼が
駿河は甲斐への侵入ルートだから、
美濃の岩村より優先順位が高いと判断して遠江に出兵して家康を追い散らして、
高天神城に兵糧を運び入れたりしてる。
全てを守ろうとして兵力分散して各個撃破されるアホと違い、
二方面作戦を取らずに兵力集中する取捨選択をする能力が勝頼にはあった。
また長篠後に勝頼は武田興亡の一戦をしたいと動員をかけていたから長篠で戦力崩壊は起こしてないのがわかるし、
長篠後に織田が佐竹らに一緒に武田攻めようと提案してるが無視されているのは、
佐竹らが織田のデタラメ過大戦果を全く信じていないからだし。
実際、勝頼が乾坤一擲の勝負をしようとすると織田は甲江和与交渉をちらつかせ戦争回避に腐心してる。
0651人間七七四年2012/08/31(金) 15:35:51.38ID:uqE7KbCx
岩村落城は木曾義昌が勝頼の秋山支援命令を拒絶したのが原因
岩村城陥落の一ヵ月後に二俣城も陥落してるから
武田は明らかに徳川に対しても劣勢になっていた
長篠合戦以前は武田にとって徳川は織田の腰ぎんちゃく程度の存在だったのにだ
長篠の戦がいかに武田にとって致命的大敗だったかが良く分かる
実際合戦から僅か7年足らずで武田征伐で挙兵した信忠に瞬殺されて滅亡
0652人間七七四年2012/08/31(金) 16:13:02.59ID:9f86lBxH
都合の悪い事はーしらんぷりーぷりぷりッハハッ!

さすがだがさんやで
0653人間七七四年2012/08/31(金) 17:44:19.34ID:FewJxgdL
>>651
勝頼は来年春の当家興亡の一戦による決戦をタイムスケジュールに入れていて
軍役定書を出していて天正3年後半はそのための準備期間だった。
しかも同時期に義昭を通しての上杉・武田・北条の和睦外交もあった。
さらに来年初頭には信玄の仏事を大々的にやる予定でもあり援軍派兵は控えていた。
その期間に二俣城が落城したとする妄想もあるそうだが、
その根拠は徳川実紀の出典一覧にまったく存在しない著者不明・成立年代不明の
明らかに鈴木肇氏の妄想で書いた偽書認定されている浜松御在城記にしかないと聞いている。
しかも二俣城側が勝手に脱走しただけの話で家康が攻め落としたとは書いてない。
0654人間七七四年2012/08/31(金) 19:08:54.34ID:3aR3qrAY
句読点(くとうてん)「 、 」を
もっとたくさん入れてくれないかな。

読みづらくてしょうがない。
0655人間七七四年2012/08/31(金) 20:08:55.86ID:BQrPWuMb
ID:FewJxgdL

書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
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信玄・謙信・宗麟・輝宗・晴久
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】


08/31(金) 10:16〜〜08/31(金) 17:46の間に合計25の駄レスwwwwww
0656人間七七四年2012/08/31(金) 20:31:53.43ID:PrVwaR1L
圧倒的優勢を誇っている武田軍は、織田信長の美濃岐阜城を攻略するため兵を挙げる。
主力部隊5万余勢を美濃侵攻軍として美濃国境に隠蔽させ、陽動軍1万5千を長篠に進軍させる。
武田勢に恐れをなして動かない信長を挑発するため、先発隊が尾張内部に侵攻し何の抵抗も受けず熱田神宮に放火し引き上げる。
面目を潰された信長は、兵糧不足のまま出陣し徳川軍とともに設楽原に布陣する。
一生懸命馬防柵を作る徳川軍であるが、織田軍は何もしない。
武田軍にとっては織田軍を引き出す陽動軍であったが、織田徳川連合軍に攻撃を仕掛けると織田軍は総崩れとなり徳川軍の馬防柵に逃げ込む。
武田軍は織田徳川連合軍を散々打ち破り6000余を討ち取る大勝を挙げるが、日没のため甲府へ撤退することとした。
そこを織田徳川連合軍に攻撃され、少々の損害を受けるが無事撤退完了。
陽動作戦が成功したが、主力の美濃攻略隊は何故か動かない。
その後大損害を受けたはずの徳川軍が遠江に侵攻する。
武田軍は美濃攻略を中止し、美濃攻略部隊を遠江に回し、徳川軍を再び打ち破り高天神城に兵糧を入れ甲府に撤収する。

武田に恐れをなした織田徳川はその後武田に手出しができなかったが、浅間山が噴火し何故か武田氏は歴史上から消え去った。



0657人間七七四年2012/08/31(金) 22:02:20.60ID:lLkvmMGB
>>645
バカばかりだったから酒井別働隊の動きに全く気づかず奇襲喰らって壊滅したわけで
0658人間七七四年2012/08/31(金) 22:06:14.69ID:lLkvmMGB
>>650
格下で大損害を与えたはずの徳川なんて片手間ですむだろ?
秋山を見殺しにした理由にはならんな
0659人間七七四年2012/09/01(土) 09:21:06.22ID:dr2k/+3j
>>657
>>酒井別働隊の動き
へっ?なにそれ。一次史料で証明してください。
0660人間七七四年2012/09/01(土) 09:58:47.66ID:dr2k/+3j
まぁ実際、真田宝物館が大切に所蔵している
8/10付け勝頼→岡修理宛で
長篠で取り詰めたところ、
織田と徳川が後詰めに出てきたので
累年の願望だったので満足しました。
すぐ乗りかかり一戦して数多討ち取り、その利に乗って
信長の前まで押し寄せたところ陣城を構えて籠もっていたので
人数を入れたところ、私たちの先衆が利を失ったとのことでした。
近日には遠江へ出馬します。このたびこそ尾張三河へ乱入し
是非を決して本意を遂げれることは疑いなしです。

などと書いているから、なかなか勝負してこないヘタレ織田が
やっと長篠包囲でおびき出されてきて累年の願望が遂げれたのは確かなんだよね。
そしてさっそく決戦して野戦で織田軍を大敗させたのも間違いない話で、
家康の構城へ逃げ込んだ信長(滝川が陣城を作った記述は公記にしかない)
の目の前まで武田軍は侵攻してきてる。
さらに陣城への侵入にも武田軍は成功してるから
陣城内での乱戦で不利になったのだろう。
そこで大勝利できずに撤退したが、次回こそ遠江へ侵攻すると同時に
尾張三河へも乱入して勝負を決したいと言っていて
武田軍が崩壊してる姿はまったくない。
織田側の嘘情報宣伝で武田が大敗したと浸透していったんだろうね。
0661人間七七四年2012/09/01(土) 10:51:48.44ID:f9qJ/pjc
もっと推敲してから書き込んでくださいだがさん
読みづらくてしょうがないわ
0662人間七七四年2012/09/01(土) 10:59:02.42ID:Ul6E6nSu
甲江和与に騙されて
北条相手に無双しすぎた勝頼
0663人間七七四年2012/09/01(土) 12:19:11.34ID:dBwsXyLD
>>660
で、なんでその長篠後に予定されていた侵攻作戦で徳川と織田にとどめを刺さなかったの?

自分が負けたことを取り繕うために威勢のいいことを書いたようにしか思えないよ?
違うってんならなんでそれ以降まともに徳川の領域に進出できなくなったか説明してみ?
0664人間七七四年2012/09/01(土) 12:24:17.72ID:WMI8UOOD
まぁおびき出されたのか結果としてそうなったのかは分からないが
もし緒戦で織田の先鋒撃破して深追いしたのなら織田に釣り出されたとも見れるね
信玄なら先鋒撃破してそこで追撃止めると思うが
その後長篠落城させれば後詰に来て城は落とされるわ先鋒撃破されるわで散々な結果だと思うが
0665人間七七四年2012/09/01(土) 12:27:23.48ID:WMI8UOOD
まぁ結果として若い勝頼に信長の相手は荷が重かったんだろうね
追撃して陣内に突入しても兵力差が倍じゃ結局時間が経てば劣勢になったと
本当なら予備隊投入するところだが穴山は逃げちゃうし
0666人間七七四年2012/09/01(土) 12:46:20.73ID:Ul6E6nSu
城攻め中に日没を迎えて利が無かったって感じだなあ。
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