佐夜郡ではなく、小夜の中山と言う山にある急坂の場所が
宿場町の日坂(掛川)→宿場町の金谷(菊川)
の間にある道中の山の急坂を指しているって話なだけ。
地理まで曲解すんなよ・・・

なんでそれが佐夜郡の支配領域とイコールになるんだよ。
単に中山にある坂が佐夜郡への道だから名前が転化しただけだろ。

そこは榛原郡であって、佐夜郡はもっと西だから。
天正元年に諏訪原ができたってのは
牧野城がすでにあったことを知っている
江戸時代の作られた甲陽軍鑑のネタに引っ張られた間違った解釈だし
そもそも久野城や掛川城を制する位置に築城されたのは天方城のことだとされている。
諏訪原城がその両城を押さえる形にならないどころか
武田軍が大井川の南下して高天神城へ行く道を塞ぐように築城されてるのが牧野城。
見張り台目的で古い砦のような簡素なものが諏訪原にあっただろうが、
本格的な築城は徳川によってなされたと考えるべきだろう。
(特に家忠日記などでは天正6年以降やたら普請を繰り返している)
そして周の文王が牧野で武王を破った故事から築城するにあたり牧野城としたのであろう。