【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
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0001人間七七四年
2011/07/21(木) 06:43:19.61ID:o8YxOcq8専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。
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【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
0733人間七七四年
2011/11/27(日) 18:03:32.68ID:DF/Rs0F5代りに物流の中心を担ったのが河川などの水路(陸路がなくなったわけではないが)
そして平安末に武士が台頭して戦争が頻発してくるようになると、
進軍路としての陸路が再び整備されていくようになる
0734人間七七四年
2011/11/28(月) 08:57:33.83ID:K1ERT2yj街道に準ずる道となっていく。
これは「人の行き来」を目的としたもので
少し時代がズレるんだが古くから「こっそり移動用」
の道筋があったことは推定できる。
0735人間七七四年
2011/11/28(月) 15:45:02.52ID:XlM133ss数奇ごっこに招かれますが何か魅力あったのでしょうか?
遊んでみたらコイツ面白いって事ですか。それとも国元にいると陰謀企画するから
近くで監視状態なのか教えてください
0736人間七七四年
2011/11/28(月) 16:04:51.15ID:3OrtQZitというか招かれない方が問題。
0737人間七七四年
2011/11/28(月) 16:47:06.63ID:MyTdCdZU0738人間七七四年
2011/11/28(月) 18:10:53.42ID:R3FqHsyLなるほど、ありがとうございます。
主要街道を制圧して連絡網を断つって言いますけど、脇道があるわけだから意味ないですよね?
連絡なら軍勢や荷駄がいらないですし…
0739人間七七四年
2011/11/28(月) 19:40:22.87ID:K1ERT2yj連絡網を断つとはあまり言わないように思うけどね。
ってか、自陣のマイナーな小路は相手は知らないから
相手の知ってそうな街道ー道を断つというのは十分に有効とは思う。
要は自領かどうか、入るのか出るのか、という個別の問題がからむから
ケースバイケースにはなるよね。
敵陣を走っていたら普通は捕まるしね。
0740人間七七四年
2011/11/29(火) 00:27:16.77ID:N6ImEKS1拠点同士の補給や行軍が可能かどうかも意味するのだよ
連絡線を断つと言う事は、他拠点からの物資輸送や援軍を断つと言う意味に通じる
まあ、軍事用語でなくてもそう言う意味も含まれているけどね↓
れん‐らく【連絡/ × 聯絡】 国語
[名](スル)
1関連があること。「一見何の―もない 二つの事件」
2気持ちや考えなどを知らせること。情 報などを互いに知らせること。また、そ の通知。「―をとる」「本部に―する」
3二つの地点が互いに通じていること。 また、異なる交通機関が一地点で接続し ていること。「私鉄と―する駅」「―橋」
0741人間七七四年
2011/11/29(火) 11:42:04.93ID:Z0Fu1nsT一般論じゃなくて当時そういう作戦を建てたという記録は
あんまり聞かないなぁということ。
ゲームや仮想戦記の主人公がそういう風によく話してた
というのかなと思っててね。
0742人間七七四年
2011/11/29(火) 11:58:15.52ID:0kWIMvnc0743人間七七四年
2011/11/29(火) 13:06:38.77ID:D1ZK1C3s完全に封鎖は無論難しいが、移動、連結に不便な脇道の使用を強制するなら
時間もかかるし費用もかかるし危険も伴うわけでそれはそれで十分効果がある
極端な話、現代の大国アメリカや島国日本も国境を完全に封鎖できはしないが
不法移民や麻薬をフリーパスさせるか?させないだろ。という、
少しは常識で考えろよという話になる。
0744人間七七四年
2011/11/30(水) 22:50:11.02ID:FxWH8S+Gまた、どれくらいの人数の家臣がいたのでしょうか?
0745人間七七四年
2011/12/02(金) 19:03:41.90ID:axhTwQtP最大版図はどちらのほうが広かったのでしょうか?
0746人間七七四年
2011/12/02(金) 23:11:22.14ID:l7yZV8j60747人間七七四年
2011/12/02(金) 23:54:29.15ID:Alj1CJPI体制が違うから何とも言えないし
資料があるなら直轄地だけで考えれば何とか比較できるかもしれんが
0749人間七七四年
2011/12/03(土) 22:05:00.95ID:YaW2XNAx毛氈鞍覆ってのは座布団みたいなもんだと思うけと、白傘袋って? 雨の日にさす傘を入れる白色の細長い袋のこと?
0750人間七七四年
2011/12/04(日) 00:56:32.35ID:VlUtaLj8貴人の行列は必ず長柄の大傘が付いたから、それのカバーではないかな
江戸時代も大名行列には必ず立傘が付いた
雨天用であったり日傘であったりする
http://www.katch.ne.jp/~ans121-zyuzin/gyou.htm
0751人間七七四年
2011/12/04(日) 12:15:17.65ID:TabApGNd昔の用具だからどんだけ奇抜なもんかと勘繰ったけど
まあそらそうだわな
0752人間七七四年
2011/12/05(月) 12:39:24.49ID:rHMzMzlX名前とか調べてみても検非違使くらいしか見つからなくて、でもこれ鎌倉時代のものっぽいので気になりまして。
0753人間七七四年
2011/12/05(月) 13:01:05.45ID:aE+4fP+R0754人間七七四年
2011/12/05(月) 13:21:36.70ID:gCQ2o7yn戦国大名の権力のあり方も基本この延長線上にあり、戦国大名の義務として警察行為がある。
0755人間七七四年
2011/12/05(月) 13:23:19.81ID:kwJtP6aX第二条補足
場合によっては抹殺することも許される
というトンデモナイ条項があったらしいぜ
0756人間七七四年
2011/12/05(月) 15:28:16.61ID:6JIN1p6y0757人間七七四年
2011/12/05(月) 17:49:39.16ID:A1U4NQsTなるほど、守護が警察だったんですね。
という事は警察署みたいなのは無くて、その大名家に仕えるお侍さんに報告すれば出動してくれるみたいな感じで解釈していいんですか?
(ドラマとかでお奉行さまー!みたいな感じのノリでくるやつ)
>>755
戦国の時代なのであまり驚きはしないっすが、現代の考えだとものっそ恐ろしいっすw
無罪の人間でも殺したりするような悪い人も居そうだなあ。
0758人間七七四年
2011/12/05(月) 17:56:42.78ID:RYZw1RGu交番がなくて、市に警察署が1つだけみたいなイメージかと
要請するにも手間がかかるし、来てくれるのも手間がかかる、とにかく時間がかかる
だから村人が武装をして常に身構えてるわけです
0759人間七七四年
2011/12/06(火) 01:17:48.24ID:jPWWJiVEありがとうございます疑問が全て解けました。
となると解決の早い遅いや治安も大名の腕によるところも強そうですね。
0760人間七七四年
2011/12/06(火) 02:05:04.06ID:xlvWJKrK0761人間七七四年
2011/12/06(火) 15:28:06.27ID:prH4RoLn戦国の地方農村なんかと比べるとおかしくなるけけどね。
0762人間七七四年
2011/12/11(日) 16:01:38.66ID:jDhv03MIこの兄弟の官位とか通称とかっていうのはやっぱり伝わっていないのかな。
昔は諱じゃなくて通称で呼び合ってたんだから、記録に残るのも諱より通称だと思ったんだけど、ネットじゃさっぱり
0763人間七七四年
2011/12/12(月) 02:10:55.13ID:L2JmkxU+公式な書類のサインの時?
0764人間七七四年
2011/12/12(月) 12:31:26.97ID:WhvTvc1Y0765人間七七四年
2011/12/12(月) 12:51:17.24ID:NjpbSeSC0766人間七七四年
2011/12/12(月) 16:14:25.25ID:IGFJXMfyこの場合の手紙は、親と子の間で交わしたものだな。
0767人間七七四年
2011/12/14(水) 06:13:52.27ID:2bFIwkKw有名なのに諱は不明な武将とかいる?
0768人間七七四年
2011/12/14(水) 12:07:03.55ID:RBpRrwUp以前から武田信玄の後裔について調べているのですが、
どなたか信玄五男の仁科盛信の子(長男)とされる
「仁科信基」の実在に関する根拠資料について御存じありませんでしょうか?
ウィキペディアには、後に4100石の旗本になり現在も家系は続いている、
などと記載があるのですが、個人的に調べた限りでは、
史料上仁科信基が存在したというものが見当たりません。
「仁科」家という大身旗本の存在も確認できませんでした。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
このサイトの武田氏の項目の一番下に同じ疑問が呈されています。
もし仁科信基の典拠を御存じの方がいらしたらご教示くださるとありがたく存じます。
0769人間七七四年
2011/12/14(水) 16:01:35.98ID:yXh0I1Ks信玄の直系子孫だということと、家系図に信基を書き加えることを申し出て認められ、仁科を名乗り旗本に加えられた。
幕府もいいかげんな証拠では旗本に加えたりはしないだろうし、大正時代に叙勲もされないだろう。
旗本になったのは「寛永諸家系図伝」が完成した後と考えられる。
・信基が家康と対面した時は偽名を使っていた。
・子孫が名のり出るまでは、信基直系は歴史上消えていた(記録がない)。
(素直に考えれば)ということじゃないだろうか。
0770人間七七四年
2011/12/14(水) 16:38:29.46ID:RBpRrwUpご回答ありがとうございます。
ただ寛永諸家系図伝に記載がないだけなら、その理解でよいと思うのですが、
1812年完成の「寛政重修諸家譜」にも記載がないことの説明がつかないように思います。
(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
幕末も間近な1800年代以降に「仁科」と名乗りを変えたということがありうるでしょうか。
また自分が調べた限りでは、そもそも幕末時点でも「仁科」なる大身旗本がいたという史料が見当たりません。
こうなるとウィキペディアの「大正時代に叙勲」というのも何を根拠にしているのか…。
しかし、ウィキペディアの信基の記載は、「明治時代に大坂に移住」とまで書かれていて、
根拠もなくこんなことを書くだろうかとも思います。
ちなみに旧武田家家臣の子孫で作られている武田旧恩会の顧問を仁科盛信17世の方が務めていらっしゃいますが、
林姓なので、おそらく上総武田家を頼って落ち延びたとされる仁科信正の後裔だと思われます。
あと1812年成立の甲斐国史にも、仁科盛信の後裔については記載がありません。
実在が怪しいともいわれる、旗本でもなんでもない武田勝頼の三男勝三についても記載している甲斐国史が、
(仁科信基が実在するなら)4100石の大身旗本の系譜について記載しないとは考えがたいのですが…。
0771人間七七四年
2011/12/14(水) 16:49:56.27ID:RBpRrwUp上の6行目(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
は (寛政重修諸家譜にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
の誤記です。
申し訳ございませんでした。
0772人間七七四年
2011/12/14(水) 19:59:53.14ID:yXh0I1Ks少し調べてみたら
八王子史の武田宗家に関する記述では、
信玄の盲目の次男の一子(信正)と孫(信道)が、勝頼死去の後伊豆大島に流されたが、
家光13回忌の恩赦で江戸に戻ることができた。
その後、柳沢吉保(彼も武田の血筋)の口添えもあり、
信道の子・信興が500石・表高家として旗本に列せられた。
この家系が以後武田宗家として現在に至る〜とあった。
このことから考えると4100石は確かにあまりにも不自然だね。
信基のことは作られた歴史か・・??
0773人間七七四年
2011/12/14(水) 20:53:21.85ID:RBpRrwUpどうもありがとうございます。
武田一門関連の旗本では、寛政譜によると信玄の弟河窪信実の系統が、
信実の子信俊のとき1610石、後に加増されて最大5710石にまでなっている例もあるので、
信基の石高が高いことだけではなんとも言い難いところもあるのですが、
何の事跡もない仁科信基が、いきなり3100石というのは確かに不自然な気もします。
もっと言えば、信基の系譜はウィキペディアの記載以外ではそもそも事跡が全く分からないのが非常に疑問です。
「仁科信基」の名前自体は、吉川弘文館「戦国人名事典」の仁科盛信の欄に、
「子女に信基…がいるというが確認できない」と記載されているので、何かの史料に載ってはいるのだと思うのですが、
ウィキペディアの妙に詳しい仁科信基の経歴やら系図(「仁科氏」の項目に記載があります)は、
何を出典として書かれているのか、自分が調べた限りでは全くわかりません。
(過去の編集履歴には、信基の子孫は、「明治時代に子爵になり貴族院議員になった」という記載もありましたが、
調べたところ、「仁科」姓の貴族院議員は存在しませんでした。)
履歴を見てみると、仁科信基がらみの新情報は、どうも全部同じ人が編集しているようなので、
この人に聞ければ早いのかもしれませんが…。
スレ違いだったらすみません。
ずいぶん長いこと、疑問に思っていることなので、どなたか「仁科信基」の出典について
ささいなことでもご存知の方がいれば、教えてくださると助かります。
0774人間七七四年
2011/12/15(木) 12:52:26.84ID:jSOTpVV9三浦浄心の慶長見聞集、幕府編纂の慶長見聞録とは異なるもののようですが
0776人間七七四年
2011/12/17(土) 13:56:36.31ID:D6DL9JV6北にいる方が畠山って変じゃないですか?
0777人間七七四年
2011/12/17(土) 14:34:08.74ID:ZY4I4UKa0778人間七七四年
2011/12/17(土) 16:45:21.00ID:2L5Ivl1A0779人間七七四年
2011/12/17(土) 17:03:45.89ID:51M9sQB0あれは「きたじょう」さんであって、「ほうじょう」さんではありません。
血筋的には、安芸の毛利氏と同族です。
経歴的には、北条(ほうじょう)氏に寝返ったり、上杉に帰ってきたりを繰り返してます。
0780人間七七四年
2011/12/17(土) 17:04:00.96ID:ZY4I4UKa0781人間七七四年
2011/12/17(土) 18:52:36.41ID:MeZrXIOl喜多条なんて変えさせられてたりする
まあ紛らわしいからな…
0782人間七七四年
2011/12/17(土) 19:50:10.90ID:3DFjjHzu0783人間七七四年
2011/12/17(土) 20:05:00.48ID:1R6QVEl00784人間七七四年
2011/12/17(土) 20:16:26.39ID:51M9sQB0自分の名字を諸角、両角、室住と気ままに署名したり、
あんまり漢字の正確さにこだわりがなかったようにも思えるけどね
0785人間七七四年
2011/12/17(土) 20:33:44.66ID:3DFjjHzu0786人間七七四年
2011/12/18(日) 13:26:12.97ID:3rzzFW8W0787人間七七四年
2011/12/19(月) 00:03:13.27ID:dKBhxLhK上杉に足りないのは南条さん、東条さん、西条さん
0789人間七七四年
2011/12/19(月) 01:17:11.27ID:xF8F0E9I0790人間七七四年
2011/12/19(月) 05:09:41.91ID:dKBhxLhK上と下までいるのかよ
0791人間七七四年
2011/12/19(月) 09:34:53.21ID:LMmEXHUgおめーをこれから「ジョジョ」って呼んでやるぜ!
0792人間七七四年
2011/12/20(火) 17:04:13.93ID:IE0tZoem0793人間七七四年
2011/12/20(火) 17:59:03.07ID:TvgdCrGg「岩屋賓満を取立なば名城たるべしと〜」や「賓満を居城とし、岩屋を端城とせり。」といった文章がでてきます
文脈から城のような気がするのですが、この「賓満」って何だかわかる方いませんか?
旧字体でフォントつぶれてて読みにくいので「賓」じゃないかもしれません
0794793
2011/12/20(火) 18:21:08.87ID:TvgdCrGg0795人間七七四年
2011/12/20(火) 18:28:30.22ID:+lHyTqHAhttp://g.co/maps/g6hna
岩屋城は高橋紹運墓の近くで大宰府から西
0796793
2011/12/20(火) 18:43:31.72ID:TvgdCrGg風土記でも竈門山城の項目で宝満城について説明してたので疑問が解けました
0797人間七七四年
2011/12/20(火) 19:43:18.40ID:Gwfr4y+x上杉軍と武田騎馬軍団が最強とか無敗とか言われるけど逸話が無いせいで凄さが分かりません
むしろ織田鉄砲隊が打ち破ったとか引き立て役
島津軍の鬼の引き口とか
戦国じゃないけどスパルタ兵の300人でペルシャ100万の軍勢と三日間戦い四日目でようやく全員死亡とか
そういう凄い逸話を持った軍て関ヶ原の島津軍以外でありますか?
0798人間七七四年
2011/12/20(火) 19:45:09.02ID:B+ErHbqZ0799人間七七四年
2011/12/20(火) 19:56:21.38ID:XaSiufI9じょうじょうじょう
0800人間七七四年
2011/12/20(火) 19:56:51.33ID:Gwfr4y+xそれぐらい凄い逸話を持っているという意味でお願いします
つまり
「おいおいどこの最強部隊だよ、そいつら人間か!?」
みたいな感想になるような事を挙げていって欲しかったです
0801人間七七四年
2011/12/20(火) 20:09:24.82ID:gK8ZNiza0802人間七七四年
2011/12/20(火) 20:18:21.21ID:Z1lg78jbたぶん実際の歴史とコミックや小説、映画との区別がついてないだろうから
コミックスレや時代小説スレで聞いたほうがいいと思うよ。
ここは、逸話、なんて想像や妄想についてはあまり誰も
知らないだろうから。
0803人間七七四年
2011/12/20(火) 20:37:30.70ID:IE0tZoem酷い軍勢を少数で倒したかのような記述がありますし、
あまり詳しくないですが戦国時代でもかなり数字が脚色されているような
合戦は探せばあるでしょうね。
0804人間七七四年
2011/12/20(火) 22:45:45.06ID:2lhdLLq/関ヶ原の時に徳川秀忠率いる3万の軍勢を手玉に取って決戦に間に合わないようにした真田昌幸とか、
大阪夏の陣で家康の本陣に突撃してビビらせた真田幸村とか、そういう話でしょ?
0805人間七七四年
2011/12/20(火) 23:02:50.76ID:B+ErHbqZ島津の退き口もただの潰走に過ぎない。全滅しなかったのは運が良かったというだけ。
創作だからこそかっこ良く見えるだけで、現実では全く大したことはない。
0806人間七七四年
2011/12/20(火) 23:12:28.68ID:a2MpWj0Z0807人間七七四年
2011/12/20(火) 23:25:28.65ID:2lhdLLq/戦術なのか運なのかは問題ではないだろ。
0808人間七七四年
2011/12/20(火) 23:32:53.53ID:IE0tZoemあえて言えば凄そうな逸話を紹介するのが模範的な解答であって、
蘊蓄としては面白いかもしれませんが史実では云々、逸話の信憑性云々は
この質問の解答としては少し検討違いかと。
逸話の例としてスパルタの話を出しているんですし。
0809人間七七四年
2011/12/21(水) 00:17:14.92ID:7n5wYKxzスーパー殺戮マシーンが何人も出てくる。
0810人間七七四年
2011/12/21(水) 00:34:26.20ID:nPOVPZ8Y肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
0811人間七七四年
2011/12/21(水) 01:01:04.79ID:1pb3PAl9戦国時代はまだ呪術の類を信じている人がいたと思うのですが、
大名が敵対する人物を呪殺するために僧侶や山伏を集めて
大規模な祈祷をさせるようなことはあったのでしょうか?
0813人間七七四年
2011/12/21(水) 01:29:28.00ID:7n5wYKxz味方を鼓舞したり、敵への懲伏のための祈祷は一般的に行われていた。
上杉謙信には祈祷僧に対し「祈祷が足りない。こっちは命がけで戦っているのだからお前も寝ずに祈祷しろ!」
と叱責する書状が残ってる。
0814人間七七四年
2011/12/21(水) 06:35:19.16ID:aC8T5Ia40816800
2011/12/21(水) 09:01:51.69ID:1eD5GRVzレスありがとうございました
>>810
>肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
気を悪くさせたならすいません
ただ「その質問は○○へ行け」と書かれたりすぐついたレスが否定的なものだったので
場違いなのかと思って他の歴史関係のスレッドにも書きこんで質問しました
0817人間七七四年
2011/12/21(水) 15:21:09.39ID:6DcMLV2Vレスにあるようにやってたんだが、それで相手が滅亡したりすると
僧が「祈祷料値上げしろ」「勝ったのは僧だ」「領地くれ」と言い出すかもしれないし
あくまで儀式的なもので、大規模、というと鎌倉の時のような
ことはなかったんじゃないかな。
0819人間七七四年
2011/12/21(水) 17:44:46.15ID:1pb3PAl9>>813
>>817
>>818
ありがとうございます。
呪詛というよりかは怨敵調伏や戦勝祈願などをしていたのですね。
0820人間七七四年
2011/12/21(水) 19:22:37.65ID:ej0LArfF0821人間七七四年
2011/12/21(水) 20:04:06.79ID:Q/awfNtGとある映画の中で、戦国時代の最後の大戦、大阪夏の陣と大阪冬の陣での
豊臣家vs徳川家で、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」と
いうような印象を受けました
実際に真田丸や、真田家、その家臣達は大阪城(豊臣家)を守るために壮絶な死を遂げています
ここで質問ですが、それほどまでに真田は死ぬ覚悟で豊臣家に付いていく
ほどの忠誠を立てていた「史実」での主な理由は何でしょうか?
0822人間七七四年
2011/12/21(水) 20:16:58.99ID:Usg3Tb9Dこの部分が史実では確認できませんので、後に続くご質問もお答え出来ません。
0823人間七七四年
2011/12/21(水) 20:26:15.40ID:Q/awfNtG失礼しました
とある映画で、豊臣家滅亡後の大阪城を受け継いでいたのが何と真田家だったのです
これにより、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」
という考えに至りました
0825人間七七四年
2011/12/21(水) 20:31:58.23ID:A50RNlJVとなれば、その映画はフィクションという事なのではないでしょうか?
0826人間七七四年
2011/12/21(水) 20:35:25.01ID:mmSpBMdo真の実力者、毛利勝永ではなかろうか
0827人間七七四年
2011/12/21(水) 20:38:44.13ID:Of2UvCch0828人間七七四年
2011/12/21(水) 20:47:08.59ID:c7nPyfOO徳川本陣まで食い込んだこと、関が原での足止め、本能事後の抗争などなどで、徳川に抵抗して戦果を収めてるという逸話
忠義というのはむしろ後付
弱い忠義の士が壮絶な討ち死により、強い忠義の士が壮絶な討ち死にのほうがお話として悲壮感もあってもりあがる
と、いうながれで忠義っていう設定になってるんじゃなかろうか
まあ実際そういう忠義な話があるのかもしれないが、上みたいに考えても納得できるんじゃないか?
0829人間七七四年
2011/12/21(水) 20:59:33.28ID:Usg3Tb9D休戦期間中に信繁が大坂から義兄に宛てた手紙の中では
「思わぬことで戦になり大阪方に付きました。奇怪なことだと思われたでしょう」と書いている。
もちろん敵対することになり迷惑をかけている実家に遠慮しての言い回しではあるが
逆に言えば奇怪(おかしなこと)と書けるという事は、大阪方に味方するのが当然という理由や義理は、
姉の夫という身近なものでも知らない、もしくは無かったと推測することができる。
0830人間七七四年
2011/12/21(水) 21:06:13.07ID:nPOVPZ8Yタイトルをハッキリさせるべきだが、いずれにしても創作としか言いようが無い。
真田丸を作った真田幸村は史実では真田信繁であり、徳川についた兄、信之とは違って、
徳川の世には身の置き所の無い立場だった。豊臣とともに滅ぶしかなかった訳だ。
それは長宗我部盛親とか後藤又兵衛なども同じだが、真田程には有名でなかったので
映画の主人公にはなれなかったというだけの事。
>>816
スレ違い、板違いと言われるのはしょうがないね。史実を離れた話を所望したんだから。
それで俺が何処かに書いた宇梶剛士の話はどうなの?
0831人間七七四年
2011/12/21(水) 21:25:06.79ID:6DcMLV2Vどっちが勝っても家が残るようにしてた。
だから「忠誠」というよりは好戦的に「武功を狙った」というほうが
シンプルではあるだろう。
また、壮絶、覚悟、などやけに美化した表現が多いけど
戦いとは普通はそういうものだし数時間で負けてるから
そんなに言われてるほどたいしたことでもない。
撤退する時の言葉とかも妙にカッコよく捉えられてるけど
単に「負け惜しみ」というところ。
これは直江あたりにも言えることなんだけどね。
0832人間七七四年
2011/12/21(水) 21:57:38.51ID:NwiS4Ema豊臣への忠節と言うよりは、もう他に行き場もないから最後っ屁って感じだと思うぞ
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