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【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/07/21(木) 06:43:19.61ID:o8YxOcq8
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【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
0567人間七七四年2011/11/08(火) 23:16:56.44ID:PIloPmTj
>>566
ああ太閤桐って聞いたことあります。
太閤っていうぐらいだから、天下取る前と後で桐紋が違うという簡単なことだったんですかね。

ありがとうございます。
0568人間七七四年2011/11/08(火) 23:22:59.95ID:d0ZyDstj
>>567
秀吉の羽柴時代の紋は福島沢瀉だったと言われている

http://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/image/06724.jpg
これ
0569人間七七四年2011/11/08(火) 23:31:32.57ID:PIloPmTj
>>568
おお、これは初見。
ありがとうございます。
ちょっとググって楽しみます
0570人間七七四年2011/11/09(水) 00:33:54.27ID:f2RCi+IB
こち亀で、民が太閤桐を無断使用するもんだから禁止令を出したってあったけど本当?
0571人間七七四年2011/11/09(水) 00:53:01.01ID:G0Gdab2D
そんな甘っちょろい政権じゃないよ豊臣政権は。
そんな事する奴がいたら周辺住民まで含めて皆殺しだわ
0572人間七七四年2011/11/09(水) 01:01:34.57ID:5hH6dW84
江戸時代の桐紋のことだろ
0573人間七七四年2011/11/09(水) 01:13:44.89ID:G0Gdab2D
江戸期でも徳川も五七桐紋をつかってるわけだから、そんな物無断使用したら大変なことに成るな。
0574人間七七四年2011/11/09(水) 02:04:32.29ID:5hH6dW84
知らない事なら無理して答えなくていいよ
0575人間七七四年2011/11/09(水) 18:57:23.25ID:TRDRPKXu
民というか武家も含めてだが天正年間末に秀吉が菊紋と桐紋の故なき使用を禁じている。
0576人間七七四年2011/11/10(木) 08:30:57.82ID:ZVrJHl9m
菊紋は戦前まで無断使用禁止だったったけ?
あと諱に仁を入れるのもダメだったっけ?
0577人間七七四年2011/11/11(金) 00:42:26.38ID:sVCtl4wP
質問
なんか立花宗茂と伊達政宗で料理対決してたらしいってどこかで聞いたんだけど、ソース元が分からないんだが
誰か知ってる人いない?
0578人間七七四年2011/11/11(金) 12:21:13.48ID:D4Nk5wF8
>>573
徳川は桐紋下賜を拒否したんじゃなかったっけ?
0579人間七七四年2011/11/11(金) 16:13:05.18ID:ctd/C8xp
質問
土屋昌恒について詳しく知りたいんだけど、お勧めの本とかありますか?
0580人間七七四年2011/11/13(日) 10:52:22.71ID:rfN/2h9A
サッカーゲームで公家や大名のチームを作りたいと思ってます。
戦国当時、蹴鞠が得意だった人達を教えてください。
0581人間七七四年2011/11/13(日) 15:38:00.20ID:1S2s1492
>>580
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5895.html
0582人間七七四年2011/11/13(日) 17:05:55.42ID:A1SGMeju
南蛮人の船って九州どまりで
堺へは九州から別の船が来ていたと聞いたのですが本当でしょうか?
0583人間七七四年2011/11/13(日) 18:47:01.40ID:1JpItkdA
>>581
ありがとうございます!
0584人間七七四年2011/11/14(月) 09:47:52.98ID:v0hyesZd
大名家の役職・格式やら、軍の構成やら、組織構造が概観できるような参考書籍を教えてください
0585人間七七四年2011/11/14(月) 15:07:48.64ID:RFIN2+mf
>>584
「戦国大名家 家臣団組織図 (戦国大名血族系譜総覧)」

国立図書館にあるよ、ぜひ行ってくれ。
0586人間七七四年2011/11/14(月) 16:18:46.53ID:v0hyesZd
>>585
返答ありがとう。

これですか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016487841

歴史読本09-04に載ってるようなので、古本で買ってみます(交通費より安いので)
05872011/11/15(火) 19:19:53.85ID:h2xTNAq2
「はじめからわかる日本史」っていう参考書使ってるんだけど、誤植っぽいの見つけた

桃山文化のページなんだけど、
「今もなお続く茶道は、桃山文化期の人物 千利休が、村田珠光以来の侘茶を受け継ぎ、茶道として大成させました」

千利休って侘茶を確立した人じゃないの?
0588人間七七四年2011/11/15(火) 19:24:26.34ID:YAGnxBSk
誤植じゃねえよ。それで正しい
0589人間七七四年2011/11/15(火) 19:58:48.57ID:h2xTNAq2
教科書、語句集では、千利休は侘茶を大成したて書いてある
0590人間七七四年2011/11/15(火) 20:08:18.36ID:ahTww5yV
>>582
うん
とりあえず堺まで南蛮船が来たって事はほぼ無い
0591人間七七四年2011/11/15(火) 20:51:49.05ID:/ypy4Rzm
>>589
村田珠光が始めた侘茶を利休が大成した。
間違ってないな。
0592人間七七四年2011/11/17(木) 11:29:40.22ID:sHELwq4a
戦国武将下っ端ならともかく、それなりの地位の武将がが三国史演義の逸話に登場する武将みたいに
戦場で前線にたって無双するのはありえないとおもいます。
五分や劣勢の情勢で敵の猛攻や追撃で戦死することはしかたないにしても
勝ち戦なのに前に出て負傷したり討ち取られたら笑いものかと思います。
前線にしゃしゃり出て無様に討ち取られたり致命傷を負った間抜けな武将はどのくらいいるのでしょうか?
0593人間七七四年2011/11/17(木) 12:03:51.26ID:B6N5xRgl
おっと井伊直政の悪口はそこまでだ
0594人間七七四年2011/11/17(木) 12:05:43.65ID:+HAiG0aj
鉄砲に狙い撃ちされおっ死んだ島左近のほうが間抜けだな。
0595人間七七四年2011/11/17(木) 12:10:56.74ID:aZNWNgqu
>戦場で前線にたって無双するのはありえないとおもいます。
んー残念
0596人間七七四年2011/11/17(木) 12:45:08.72ID:os3ZlZ+V
謙信「ごめんね自ら太刀打ちしちゃってごめんね」
氏康「額に刀傷つくってごめんね」
信長「自ら首取りして、少数で突撃して、鉄砲撃ってごめんね」
家康「焼き飯漏らしながら弓無双してごめんね」
秀忠「遺骨調査したら骨に達する鉄砲傷あってごめんね」

ありえない時代でごめんねw
0597人間七七四年2011/11/17(木) 12:55:11.96ID:B6N5xRgl
まあでも、
二、三千くらいの部隊の場合は部隊長クラスも戦うことって結構多いよね
0598人間七七四年2011/11/17(木) 13:49:52.70ID:aZNWNgqu
日本の場合配下の者より危険な場所に身を置くってのは上官の宿命みたいな物だからね
上の人間が率先して相手の一番強い部分へ突っ込むしかないんだ
兵法の類にもそう書いてあるしな
0599人間七七四年2011/11/17(木) 14:48:16.63ID:os3ZlZ+V
>>592
無線などの連絡手段の無い時代だから
状況を的確に把握したいなら前線を見回らなければならないし
自身の指揮能力を最大限発揮したいならやはり前線付近に立たなければならない
その中では当然戦闘に巻き込まれることはあるし
率先して前に出れば士気爆上がり、臆せば味方に舐められる訳で、
戦国時代の戦いは先鋒同士の戦いで勝敗が決することがほとんどだが
そういう状況なら、前者は有力な選択肢になる。
部隊長クラスならなおさらであり、また一軍程度の士気や指揮が
問題にならないような大戦は戦国時代でも限られてるので
将が前線に立つのがあり得ないと言うのがそもそも間違い
0600人間七七四年2011/11/17(木) 15:56:56.35ID:NQeTn2Yh
歴史の雑学本に
侍でも馬に体型や技術的な問題で乗れない人はいて
そうした人は代わりに輿で移動することもあった
って記述があったのですが

戦国時代にも馬に乗れないから
輿で移動してたような大名や武将っていたんでしょうか?
0601人間七七四年2011/11/17(木) 15:59:36.49ID:eJ9GH13w
大谷吉継
0602人間七七四年2011/11/17(木) 16:19:09.70ID:t+3W3r+t
この時代は「日にち」をどのように言っていたのでしょうか?
例えば「一週間前」とか「三ヶ月後」とか。
こういう週、ヶ月というシステムは1800年代頃からでしたよね?
0603人間七七四年2011/11/17(木) 16:28:24.73ID:ycdYXdde
戦国期の商業や貨幣経済について、具体的な本が欲しいです
学者の持論を長々と語ってるのではなくて、具体例の多い本はありませんか
0604人間七七四年2011/11/17(木) 16:45:51.65ID:pfv9mNz/
>>600
龍造寺隆信
0605人間七七四年2011/11/17(木) 16:50:39.18ID:os3ZlZ+V
>>600
雷に打たれ半身不随と言う伝説のある立花道雪や、
ライ病だったといわれる大谷吉継
肥満のため、もしくは下に準じて見栄のため輿にのっていた竜造寺隆信
自身は戦場では普通に馬に乗っていたが
高い身分として輿で公の場に出ることを許されていて戦場にも携帯した今川義元
あたりが有名な所ですかね

>>602
月や日にちは普通にありましたが、太陰暦ですが。
曜日は安息日のあるユダヤキリストイスラム教圏の習慣ですので開国以後ですね。
0606人間七七四年2011/11/17(木) 17:08:23.82ID:t+3W3r+t
>>605
「一週間」の区切りが無いだけで「一日」「一ヶ月」のような言い回しは存在したのですね。
ということは今なら「二週間後」とかなら「十四日後」という表現になるのでしょうか。
ともかく後は自分で調べてみます。
ありがとうございました!
0607人間七七四年2011/11/17(木) 19:18:38.02ID:sCKVsJ7k
>>580
少し笑った
0608人間七七四年2011/11/17(木) 20:44:21.32ID:7e8r3tS9
安土城の大手門付近にも信長の屋敷はあったのですか?
本丸だけですか?
0609人間七七四年2011/11/17(木) 21:11:01.77ID:ure1ff5i
誰だったか大将が前に出るなって家臣に怒られてた気がしたけどなぁ。

>>606
10日毎の単位である旬は殷の時代から使われている。戦国時代の日本にもあった筈。
でもひと月30日を上旬・中旬・下旬に分ける使い方で1旬後みたいには言わないと思う。
0610人間七七四年2011/11/17(木) 22:25:50.08ID:SVFaI2Ip
>>602
>>606
当時は太陰暦基準だからねぇ。
現在使われてる十六夜(いざよい)とか十五夜(じゅうごや)とか三日月、弓張り…
といった単語も普通に使っていた様子。現代みたいに何日、だけじゃなく何夜、という表現も度々したようだ。

ちなみに毛利元就の三子教訓状には「霜月廿五日」と書いてあるが
伊達政宗が江戸時代に入って出した手紙には「十月十七日」と記されてるよ。
0611人間七七四年2011/11/17(木) 22:31:11.43ID:ure1ff5i
そういえば昔は昼と夜は違う時間なので数える時も別だった。
三日三晩と言えば昼が三日と夜が三晩という感覚。
0612人間七七四年2011/11/17(木) 22:37:17.41ID:Kh0kiZZu
干支や時間などもくわしく
0613人間七七四年2011/11/17(木) 23:36:03.11ID:SRbjiTFo
騎馬隊は敵の近くまで行ったら降りて戦ったとか輸送隊だったみたいなこと聞くけど、誰が言い出したの?
0614人間七七四年2011/11/17(木) 23:39:34.20ID:ure1ff5i
くわしくって言われても……。季節によって時間の長さが変わる不定時法とか?
夜明けと日暮れによって区分される昼と夜をそれぞれ6等分していた。
季節によって昼と夜の長さが変わるから、時間も伸びたり縮んだりする。
江戸時代はそうなんだけど、戦国時代はどうだろう?

干支も殷の時代からあるので普通に使われていた。いわゆる「えと」の動物とは
本来は全く関係がない。殷では王族の生まれた日の干を名前にしたらしい。
乙の日に生まれたら天乙とか太乙って感じ。
干だけだと10しかないので日付を表すのに不便なので十二支と合わせて使った。
これなら60日(二ヶ月)表示出来る。
0615人間七七四年2011/11/17(木) 23:48:08.09ID:G6y8FUWw
>>613
鈴木とかあのへんの馬鹿だろ
0616人間七七四年2011/11/17(木) 23:50:34.76ID:pfv9mNz/
>>613
甲陽軍鑑とかルイス・フロイスとか雑兵物語とか
もっとも雑兵物語が騎馬突撃を最近(江戸時代初期)では珍しいとしているので
徹頭徹尾そうだった訳ではない
0617人間七七四年2011/11/17(木) 23:52:31.39ID:+HAiG0aj
雑兵物語では西国の人間は騎馬隊の運用が解っていない、みたいなことも書いてるな。
0618人間七七四年2011/11/18(金) 00:07:26.94ID:LQKHX91o
>>615
>>616
センクス
鈴木でググったら投石云々と同じ人なのね
0619人間七七四年2011/11/18(金) 03:30:11.98ID:fUFUo62q
鈴木スレもなんか信者というよりは完全に「大先生」扱いなのが
多いもんな。鈴木大先生のいうことを知らないなんてシロウトですねとか
普通に言われる・・
0620人間七七四年2011/11/18(金) 06:25:36.63ID:ATuljyzi
織田研究者は妄想が入るから読む価値に値しない。
0621人間七七四年2011/11/18(金) 08:05:01.45ID:Lx4/uABD
>>617
でも東国武士は船戦が下手
とも言ってたな、雑兵物語で
0622人間七七四年2011/11/18(金) 14:51:10.83ID:GAsBLxDw
そりゃあ瀬戸内水軍ほどに育成する必要性が東国には無かったから仕方ないだろ
0623人間七七四年2011/11/18(金) 15:32:17.72ID:89yDSU13
当時関東平野は湿地や入り組んだ小川が多く、水軍がいたともいうぞ。
鹿島神宮や香取神宮が拠点になっていたとか。
それに江戸湾と利根川(現在の江戸川)の状況を考えたら里見や北条は
ある程度水軍もっていないと不利だろ、事実北条は房総南部の一部を一時領有していた。
0624人間七七四年2011/11/18(金) 16:20:00.30ID:Lx4/uABD
当時霞ヶ浦や印旛沼は大きかったし、
江戸湾の重要性も知ってる
当然法帖や里見を始め水軍を持ってたのも知ってる

でも瀬戸内に比べるのは烏滸がましいよ
0625人間七七四年2011/11/18(金) 16:28:17.46ID:+FfA8rVJ
水軍の大きな活躍の場が東京湾周辺しかない東国と
瀬戸内海他内海と湾だらけの西国を比較したら
雑兵物語で、東国武者は馬術すげーぞ、
いやいやその代わり西国の奴は舟戦うめーから
ちゅう記述も普通に納得できると思うけどな
0626人間七七四年2011/11/18(金) 16:33:31.72ID:+FfA8rVJ
武田が強力な北条水軍に対抗するための武田水軍創設の時に
わざわざ伊勢水軍ヘッドハンティングしてきたとかな
0627人間七七四年2011/11/18(金) 16:33:59.67ID:ivvhjxQM
馬の産地といえば東国だしな。
0628人間七七四年2011/11/18(金) 17:11:28.15ID:Lx4/uABD
北条も熊野水軍からヘッドハンティングしたり、
伊勢の豪商に軍船発注したりしてるからね
0629人間七七四年2011/11/18(金) 17:24:32.07ID:xuq/+ZVE
在来種の原産は殆ど西国
東国のは品種が絶えてよく分かってないものが多い
0630人間七七四年2011/11/18(金) 17:27:45.54ID:Lx4/uABD
汗血馬を手に入れた朝廷は速攻、信濃に送ってたけどなー
0631人間七七四年2011/11/18(金) 23:25:28.74ID:XGCFgvBl
>>629
西国でもウシウマとか居たがなぁ

そもそも日本の馬は大陸由来だろ。
早くから大陸と交流があった西国に入ったのが定着したのであって、
そこから派生したのを在来種と言うのならそりゃ原産は西国だわな。
ちなみに道産子は本州との往来が始まった後に奥州から南部馬が渡って適応したものだ。
今は立派な在来種。
そういや南部って虎貰ってたよなー。
アレ繁殖に成功してたら日本に在来種の虎が出来てたかも(笑

ちなみに今回の震災で大きく取り上げられた相馬の野馬追いも、元は平将門の軍事演習。
普段は畑耕してるおっちゃんが年に一度、鎧を着て颯爽と馬を駆る姿は
流石、坂東武者と言わざるおえまい。マジカコイイ。

0632人間七七四年2011/11/19(土) 00:54:09.76ID:Ely8dbuB
> そういや南部って虎貰ってたよなー。
元ダチョウ倶楽部のリーダー 南部虎弾を連想した
0633人間七七四年2011/11/19(土) 01:26:51.74ID:CKjBL0wh
流れぶった切って質問するが、「傳永」って名前、何て読めばいいんだ?
俺のご先祖様なんだが、家系図に読みが残ってない。
「つてなが」でいいんだろうか。
0634人間七七四年2011/11/19(土) 02:33:35.75ID:oZs//48J
>>633
「でんえい」じゃないのかなあ?法名っぽい。
0635人間七七四年2011/11/19(土) 06:33:08.96ID:55/YDnGg
小学館の漢和辞典によれば、人名で使う場合は以下の読み方がある
ただ、つぐ、つた、のぶ、のり、よし、つたえ、つとむ

ただなが、つぐなが、のぶなが、のりな、よしなが この辺りじゃないかな
0636人間七七四年2011/11/19(土) 07:57:18.95ID:Wt3lEaYq
>>631
細かいが魏志倭人伝には馬はいないとなってるが本当なんだろかね。
古墳時代にはいっぱい骨が出るからたくさんいたんだろうがその前の弥生で
確認出来ないというのはそれまでいなかったのがいきなり古墳時代にワサッと増えたんだろうか。
馬文化が流入して一気に広がったというのはわかるが同時に馬自体も入ってきたのかなぁ。
そう簡単に全国に増えない気もするが。
それと記紀には神話にも登場するからこれも後にいっぱいいるのを
昔からいたみたいに結びつけちゃったんだろうか、おもろいとこなんだよね。

虎が繁殖してたら日本人はなかったかもしれないな・・猛獣がいなくてヨカタ・・
0637人間七七四年2011/11/19(土) 10:18:22.07ID:Z1ny/Hlw
西国で馬の放牧で有名だった国ってドコなの?
そういや群馬県には野生化した馬がかなりいたから
群馬って名前が生まれたそうだね。
彦根城の博物館にある馬の群れの絵の解説だかに書いてた。
0638人間七七四年2011/11/19(土) 13:02:46.80ID:oZs//48J
>>637
諸国牧

下野国  朱門馬牧
常陸国  信太馬牧
下総国  高津馬牧、大結馬牧、木島馬牧、長洲馬場、浮島牛場
上総国  大野馬牧、負野牛牧 新屋牧
安房国  白浜馬牧、粉師馬牧
相模国  高野馬牛牧
駿河国  岡野馬牧、蘇弥馬牧
備前国  長嶋馬牛牧

近都牧

摂津国  鳥養牧、豊後国牧、為奈野牧
近江国  甲賀牧
丹波国  胡麻牧
播磨国  垂水牧
大宰府
0639人間七七四年2011/11/19(土) 14:22:12.03ID:mphb2X7D
甲斐や出羽や陸奥は?
南部の地名の八戸とか
0640人間七七四年2011/11/19(土) 14:33:33.25ID:oZs//48J
>>639
勅旨牧

> 『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(4ヶ所)の
> 計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所
> 増設されている。なお、追加された2牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。
> 特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に
> 何らかの関与したとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%97%A8%E7%89%A7
0641人間七七四年2011/11/19(土) 14:44:02.32ID:oMymUpjF
武将の正式な名前、諱は普段使われないと聞きます そこで例えば、長篠の戦いの時の
織田信長公を武田勝頼の家臣、山県昌景はなんと呼んでたかなあと思ったんですが、
みなさんの意見をお聞かせください ワタクシが考えて思いついたところは、

近江殿or様・・・・居城安土城が近江にあったので
尾張殿or様・・・・もともと尾張出身なので
弾正忠殿or様・・・当時の官位
信長or信長殿or様・・・敵なので諱の呼び捨てもアリ?
織田殿or様・・・名字で
上総介殿or様・・・昔名乗ってた官位?
その他 うつけ殿 第六天魔王 三郎 アホウ 鉄砲魔 上様 天下殿 
0642人間七七四年2011/11/19(土) 14:47:50.15ID:6cN1g2jN
>>641
敵だから諱を呼び捨てて「信長」で結構
0643人間七七四年2011/11/19(土) 15:33:49.05ID:VTtL2GS7
作者とか書かれた年代がアレなのであまり参考にはならないが
武田側史料の甲陽軍艦 記述

此女子は、信長父弾正忠在生の時、美濃国ない木勘太郎と云侍を婿に仕り、…とある。
0644人間七七四年2011/11/19(土) 16:49:33.08ID:Wt3lEaYq
山県が誰と話して呼ぶかにもよるな。
それと会話のニュアンスにもよる。
ただ結局自分がいろいろ思いついたことを自慢
したかっただけなんだろな。
0645人間七七四年2011/11/19(土) 16:49:47.88ID:c9qBJoka
>>641
よほど憎しみとかなければ、敵でも普通は敬意を払う
0646人間七七四年2011/11/19(土) 17:02:28.71ID:oIFC6aoR
岐阜公くらいかと
0647人間七七四年2011/11/19(土) 17:10:55.18ID:55/YDnGg
弾正とか弾正忠あたりじゃね
0648人間七七四年2011/11/19(土) 17:31:35.40ID:hXwX0FVz
信長の家臣は公記を読む限り
信長公・勝頼などと呼んでるようだから
実は戦国期も後期になると
諱とかも関係なかったんじゃね?
0649人間七七四年2011/11/19(土) 18:05:57.28ID:u8cQ3udG
後世に書かれたものは第三者視点なので諱でもかまわない。
0650人間七七四年2011/11/19(土) 18:31:44.98ID:hXwX0FVz
後世って言っても1611年だぞ。しかも織田家に仕えていた太田牛一だし。
0651人間七七四年2011/11/19(土) 18:47:11.10ID:u8cQ3udG
だから家臣時代に近いころに書かれた初期信長公記は
信長のことを上様と記述してるだろ
0652人間七七四年2011/11/19(土) 19:08:53.81ID:hXwX0FVz
いや初期なんて普通に「信長」と呼び捨てにしてるんだが・・・
0653人間七七四年2011/11/19(土) 19:22:51.96ID:u8cQ3udG
初期って首巻とかじゃなくて残存する公記の中では最も古いと考えられる安土日記の事
0654人間七七四年2011/11/19(土) 19:59:04.73ID:oMymUpjF
みなさんお返事いっぱいありがとうございます!
けっこう適当にその場その場で決まってたみたいなかんじでしょうか
よくわかりましたありがとうございました
0655人間七七四年2011/11/19(土) 20:57:33.21ID:zXokhk9S
雑賀孫市って忍者だったの?
0656人間七七四年2011/11/19(土) 20:59:23.54ID:P3QAiw6+
違います
0657人間七七四年2011/11/19(土) 21:15:44.19ID:scbvgryI
最初って?
安土日記って
天正6年1月1日〜天正7年8月6日までしか遺って無いだろ…
0658人間七七四年2011/11/19(土) 22:32:53.26ID:+5ZMSP4f
>>657
信長公記は複数あってそれぞれ内容が少しずつ異なる事は知ってるよね?
0659 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 2011/11/19(土) 22:38:54.96ID:v/C7jp6P
歴女のオニャノコたちはガチムチ男同士のアナルセック。。。じゃなくて衆道についてどう思ってるんでつか( ´・ω・)
0660人間七七四年2011/11/19(土) 22:51:43.15ID:nW/5jVVX
BLと同一視して盛り上がってます。
0661人間七七四年2011/11/19(土) 23:30:00.99ID:Wt3lEaYq
初期ってのは公記の最初、永禄11年あたりってことじゃないのか。
一般的な池田本は確かに最初は「信長」でだんだん「信長公」になってくる。
そしてまた「信長」になったりするが「御動座」とか将軍に使ってた表現になったり
系統によっていろいろではある。
「上様」ってのは73年以降に目立ってきてるが池田本ではあまり
使われてなかったんじゃないかな。

普通は死後だと本人に対する失礼という意味も減じてくるから
諱でも使われるけどね。
要はケースバイケースでルールなんかないってことだ。
0662人間七七四年2011/11/19(土) 23:46:12.15ID:u8cQ3udG
信長公記が何度か書き直されていることって意外と知られて無いんだな
0663人間七七四年2011/11/19(土) 23:52:52.01ID:Wt3lEaYq
今東大が税金使って調査しててその
中間報告みたいなのは見た。
記録の確認で「意味については知らない」と断ってるところが
さすがではある。
つまり都合の悪い書き直し、書き換え、事実が判明しても
知らないよってことだよね。
オマンマの食い上げになるからそのあたりは研究者の
好きにしてってことか。
0664人間七七四年2011/11/20(日) 10:10:58.11ID:6HyfvM6J
普通は死後だと本人に対する失礼という意味も減じてくるから
諱でも使われる

それはウソ。
信長は死後に
総見院殿と呼ばれるから。
0665人間七七四年2011/11/20(日) 12:30:18.50ID:gOj1xzGP
信長公記はパッチワークじゃね?
牛一が各時代に記録したものを後で再編集したとしたら
同じ人物を指す名称がまばらでも可笑しくない。
0666人間七七四年2011/11/20(日) 13:44:01.15ID:MHlhfLI4
牛一が編集指揮してれば統一するだろ
実際は太田は関与しておらず
織田家と関係ない売文家複数人による編集だろ。

同じ人物を指す名称がばらばらだと言う指摘に対して
返答が「パッチワークだから」って苦し杉www
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