【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年
2011/07/21(木) 06:43:19.61ID:o8YxOcq8専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。
―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
http://www.google.co.jp/
★自分と同様の質問がスレッド内(Ctrl+F)、過去ログ先に無いか必ずチェック。
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。
【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296473917/
0002人間七七四年
2011/07/21(木) 14:58:00.58ID:m09uMRje前スレで質問したのですがスルーされてしまって…
0003人間七七四年
2011/07/21(木) 15:42:37.55ID:FpH7iXc2それは置いといて、忍者って意味で使うなら「さいさく」で合ってると思う
「細作り」って送り仮名つければ「ほそづくり」で細く作るって意味だけど
0004人間七七四年
2011/07/27(水) 14:31:01.15ID:YZZmsLrL大島のほうから通ってきていた村上くんが「先祖が信長の野望に出ているかも」と言っていましたが
「村上いえば武田信玄の近くの武将だから嘘だろう」とみんなで相手にしませんでした。
今思うと海賊の方の村上がいたのを思い出しました。
村上くんの家はたしか酒屋だったとおもうので関係ないとおもいますが
海賊の方の村上って最後はどうなったのでしょうか?
0006人間七七四年
2011/07/31(日) 14:08:34.95ID:xE2VJVw6普通に当人の気持ちなんて資料に乗ってる筈がねえと思うんだけど。
一次資料は教科書作るには必要だが、IFスレやレスでこの人物が取るべき根拠として用いる物でもねえだろ。
当時の常識や過去の似た様な事例から推測することも必要だと思う。第一、改竄された物だったらどうすんだよ?
俺の親父なんて真実は公式文書には残らないとまで断言してる。
当時の人間が、「あ、この事実はそのまんま残したらやべえわwwwwww」で嘘を書いてる可能性は十分考えられるんだが?
0007人間七七四年
2011/07/31(日) 15:14:18.82ID:qcSnurm3空想で議論しても水掛け論になるだけだし
少なくともお前の親父の言葉よりは信頼できる
0008人間七七四年
2011/07/31(日) 15:21:49.03ID:wihRKvpL0009人間七七四年
2011/07/31(日) 15:42:58.13ID:xE2VJVw6じゃあ公式文書はほぼ確実に事実と受け取って何の問題も無い訳?
常識的に考えたらおかしい様なことでも?
0010人間七七四年
2011/07/31(日) 15:52:42.97ID:PcBAs8cc一次資料も当時の人の誤認や故意に異なる事を記述していることはある
ただし、それを否定するには別の一次資料を引き合いにだす事を求められる
二次資料を元に一次資料を否定するならば、それは膨大な検証作業と
なぜ、その一次資料が事実と異なる内容を記述したかという合理的な説明
さらに自論に対する批判を論破する理論構築を行わなければならない
0011人間七七四年
2011/07/31(日) 16:42:17.55ID:27QM8Dgn0012人間七七四年
2011/07/31(日) 18:49:44.01ID:Q+pzqqSu萩藩士として村上氏がやってきているなら末裔の可能性は充分あるわけですね。
ありがとうございました。
0013人間七七四年
2011/07/31(日) 21:54:35.87ID:9gS4Fmd0公文書ってのをそもそも勘違いしてると思われる
いついつに誰々を何々に任じる(辞令)、とか
誰々はこれこれいう罪を犯したので罰する(判決・判例)、とか
そういうのが公式文書って奴
その書類の性格上、嘘を付くメリットなんて殆ど無い
ただし、一次資料に公文書が含まれるのは確かだけど、私文書も当然含まれる
0014人間七七四年
2011/07/31(日) 23:50:30.95ID:wr+bHr8eこちらは執筆者の誤解や偏見から伝聞に改ざんまで様々
00156
2011/08/02(火) 10:38:56.17ID:IkY5qjWi公文書ってのはいわゆる当時の政権が纏めた歴史書みたいなのは入らないの?
後、判決文だけど、誰々が謀反を企んでいた為切腹を申し付けた、ってのがあったとして
その謀反を企んでいたと記された人物が、状況的に謀反をする状況とは考えらず、同時代の人間の
義理堅い云々と言う評価が残されていたら、無実や謀略の可能性の方が高い、と考えるのが自然じゃねえかな?
0016人間七七四年
2011/08/02(火) 12:31:03.98ID:o12crti/それは「事実」のレベルが異なる
そのたとえで言うのなら、公文書に記された
「人物Aは、謀反を理由に処刑された」ということが事実
事件(謀反)が本当のことなのかどうか、の真偽はまた別の問題
0017人間七七四年
2011/08/02(火) 12:33:28.99ID:lr5r6NgAお前は一次資料と公文書を勘違いしていると考えられる。
あと
> その謀反を企んでいたと記された人物が、状況的に謀反をする状況とは考えらず、同時代の人間の
> 義理堅い云々と言う評価が残されていたら、無実や謀略の可能性の方が高い、と考えるのが自然じゃねえかな?
そういう傍証が多くあればそうなる。ただ、この質問の意味はさっぱり解からん。
0018人間七七四年
2011/08/02(火) 12:42:18.26ID:4zFg7zfW河野は大名でありながら河野水軍は瀬戸内海に勢力を持っていたと聞きます。
村上水軍は河野の傘下ながら、厳島の戦いのように他家の争いにも関与するなど独立色が強く見えます
一方で、武田水軍といわれるように大名家の名を冠した水軍も存在しています。
こういう大名家の水軍も村上水軍のように単なる協力者的な立場だったのでしょうか?
それとも武田信玄の傘下の国人のような一定の支配下だったのでしょうか?
0019人間七七四年
2011/08/02(火) 12:59:11.56ID:izc3DB9v国人だって元々は自立性が強かったのが大名との力のバランスが変化して支配下に
組み込まれて行く訳で、それと同じでしょう。
0020人間七七四年
2011/08/02(火) 13:47:11.19ID:jnxqwzSdよって武田水軍は村上や九鬼のような土着のものではないので、信玄の支配下にあったと見ていい
0021人間七七四年
2011/08/02(火) 14:07:11.52ID:o12crti/0022人間七七四年
2011/08/02(火) 14:30:12.00ID:lr5r6NgA主家に完全に従属しているものまで様々。そのへんが徐々に整理され家中に統合されていく過程が
近世化という現象。
0023人間七七四年
2011/08/02(火) 18:15:07.08ID:ziu5X49r信玄が水軍を必要としたのは駿河に進出する前後だろうから伊勢や三河はともかく駿河の者は
土着じゃないの?それとも将来の駿河進出を期してあらかじめ招聘しといたの?
0024人間七七四年
2011/08/02(火) 18:35:24.51ID:Xyv6cBgZ自然、東海道では水軍同士がガチでやりあった例は少ない
0025人間七七四年
2011/08/02(火) 18:35:41.35ID:0IghadM4河野や村上、九鬼のように、水軍として完結した組織としての参入ではなく
出身がどこであろうがあくまで個々の技術者としての参加なんだから、話は全然
違うだろ。少しは考えろ。
0027人間七七四年
2011/08/02(火) 19:33:29.90ID:2zlQR8IA向井正綱・向井忠勝親子は今川水軍→武田水軍→徳川水軍となり
最終的には6000石の旗本だそうです。
おなじような海賊稼業で名を馳せた水軍武将でも
徳川に仕えた向井は大出世し、毛利に仕えた村上は辺境で没した。
戦国時代は運ですなあ。
0028人間七七四年
2011/08/02(火) 20:49:59.82ID:SuTAACId0029人間七七四年
2011/08/02(火) 20:52:41.07ID:K1mWLxAQ「それは私に関係のある話ですか?」の元ネタ(逸話?)がどんなものか教えてください。
0031人間七七四年
2011/08/02(火) 22:54:36.96ID:F7lQq65R大名の領地内で漁業の独占権を得てた代わりに有事には協力する。
町衆とそれ程大差はないかと。
0032人間七七四年
2011/08/02(火) 23:50:43.44ID:HEo8Ei4K0033人間七七四年
2011/08/03(水) 06:47:57.81ID:SHUBxNg5・もし竹中半兵衛が長生きしていたらどうなっていたでしょうか?
天下取っても、官兵衛みたいに野心もなさそうだから冷遇されそうにもないし、唯一朝鮮出兵を止めることが可能だったのかな?
もう一点は…
・前田利家がもっと生きていたら?
関ヶ原の戦いはなかったんでしょうか?
0034人間七七四年
2011/08/03(水) 07:18:41.22ID:CsbWvo1z0035人間七七四年
2011/08/03(水) 10:40:15.88ID:r1wRZeOi実態は良くも悪くも信長から秀吉に付けられた与力武将の一人にすぎん。
0036人間七七四年
2011/08/03(水) 12:40:12.83ID:BROvF78Z朝鮮出兵、というか唐入りは秀吉個人の野心はもちろんだけど、
治安改善・雇用対策という側面を持ってる、つまりは公共事業だね。
でなぜ治安が悪化したかといえば雇用が悪化したからで、
失業者が増えたのは国内で戦争がなくなって派遣社員ならぬ派遣武士がリストラされたから。
その問題に対する豊臣政権の答えが増税してその金で普請やら戦争やらの公共事業。
つまり放置の許されない重要政策なのであって、止めるとか止めないとかそういう問題じゃない。
ちなみにその問題に対する徳川政権の答えは、敗者の黙殺。
0037人間七七四年
2011/08/03(水) 12:51:09.90ID:DCJo884R>ちなみにその問題に対する徳川政権の答えは、敗者の黙殺。
全然違う、家康の頃は傭兵として海外に、その後は大開発による帰農が江戸幕府の回答
農民になるのが嫌で浪人していた奴も一杯いるけど
0038人間七七四年
2011/08/03(水) 15:56:46.12ID:DZw4xjWH0039人間七七四年
2011/08/03(水) 17:01:51.98ID:POzY5TNwきれい事言ってんじゃないよ腹黒たぬき
サラリーマンやってた人間が、
はい明日から仕事ないんで農業でもやって下さい
と言われて食っていけると思ってんの?
家康は腹の底では、あはは、邪魔くさいの死んで欲しいのら
と思ってた
0040人間七七四年
2011/08/03(水) 17:06:44.92ID:r1wRZeOiID:BROvF78Z
ID:POzY5TNw
0042人間七七四年
2011/08/03(水) 18:00:28.45ID:DCJo884R渡航を積極的に推し進めたという話はないが、渡航邦人が犯罪を働いたら好きに処分して良いとある
つまりそういった連中が海外に大量に流出している事を認識していたということ
0043人間七七四年
2011/08/03(水) 18:37:19.80ID:sJjdeuON当時はいまみたいに百姓が国にゆすったりたかったりできないから農作は大変だったろうなあ。
凶作は自己責任。工業や商業の税が再分配される現代はなんと幸せなことか。
0044人間七七四年
2011/08/03(水) 18:52:52.79ID:eMwORmEd豊臣政権は検地と共に税収向上のために
畿内の進んだ技術の全国への輸出をしていたし
豊臣大名も各地で導入してた。
城下町と治水などで石高の目覚しい向上があり
中間搾取の不正も無くしている。
対して徳川幕府は国内自給経済と海禁政策で商業を軽視し経済成長モデルによる資本主義の発達を阻止し
職にあぶれた不逞牢人が跋扈し世情不安で世直し待望で溢れ
その矛盾が島原の乱・寛永の大飢饉・由井正雪の慶安の変で爆発してる。
0045人間七七四年
2011/08/03(水) 18:57:08.87ID:DCJo884R0046人間七七四年
2011/08/03(水) 19:08:07.49ID:eMwORmEd石高の上に胡坐をかいていたら
時と共に貧しくなっていったのが徳川政権。
北条がなんら開発してなかった幕府の膝元たる
江戸近郊の田舎を開発しただけで
雇用対策なんて言い出すのは捏造。
そもそも江戸の人口増加こそが
地方の民力の大疲弊から農村が抱えられない人口の
首都への逃亡に他ならない。
豊臣時代には見られなかった地方の疲弊ぶりだ。
そして江戸開発は幕府の政争の具となって
老中の失脚狙いの事業停止などが相次いでいて
まさに失政続きの腐敗ぶりだった。
これも豊臣政権には見られないものだ。
0047人間七七四年
2011/08/03(水) 19:21:54.41ID:DZw4xjWHくだらない政争とヘタクソ外交と経済オンチと
無責任解決先送りや働かない公務員
なんて日本の体制を決定づけたからなー
0048人間七七四年
2011/08/03(水) 19:50:02.36ID:Z4lK3hT+0049人間七七四年
2011/08/03(水) 20:36:16.10ID:cVdoFE/Y・気候の温暖化で農業生産力が高まり地方の諸勢力が経済的に自立可能に。
・結果として従来の支配者(皇帝・教皇・領主・大名)以外の諸勢力(都市・傭兵集団・寺・たたら場とか)が武装し自治を確立
・戦争(小競り合いから大規模なものまで)も頻発したが一方で文化も発達(戦争遂行も文化の向上も生産力が高くないと不可能)
・宗教が自治確立や戦争の道具になった(石山本願寺による一向宗勢力拡大・領地獲得と支配の安定を狙った宗教改革)
・農業製品の数が過剰になると貨幣の価値が増大。商業に強い所が有利になる(これはこの時代に限った話ではないですけれど)
素人の浅知恵ですのでかなり的はずれな事を言っているかもですがこの認識はどうなのでしょうか?
もちろん戦国時代とルネサンスが全く同質の物だとは思っていません。構造として見た時に似ていると感じただけです。
0051人間七七四年
2011/08/03(水) 21:16:58.52ID:S6K4QzpT会田雄次さんはあんたと全く同じようなことを言ってたなぁ。
かなり古典的な説だけど。
まあ、室町時代から戦国にかけて少し気温が高くなったのは事実らしい。
0052人間七七四年
2011/08/03(水) 21:44:13.12ID:cVdoFE/Yそれに関しては中世末期の欧州も同じかなと思います。
ルネサンスに入る前から前兆はあったのだと思います。
同様に室町末期には戦国時代の前兆があったのではないかと。
欧州でも日本の朝廷と同様に教皇の権威が失墜していきます。
>>51さん
同じ事を言っている人がいた事自体ビックリです。浅知恵から出た質問なので・・・
しかも古典的なのですね。勉強し直します。
0053人間七七四年
2011/08/03(水) 22:33:40.40ID:DZw4xjWH特に90年代にはその流れは戦国史まで巻き込み
政教分離で中世から近世への扉を開いた革命児信長とか90年代の信長マンセーにつながった駄論。
西欧マンセ−思考で無理やり西欧史観を日本史に当てはめるのは20世紀だけで終わらせろ。
0054人間七七四年
2011/08/03(水) 22:54:29.50ID:POzY5TNwとりあえず、言いがかりと現実逃避はやめろ腹黒たぬき
秀吉と後北条の猿真似しかできない経済オンチ家康
これは大半の知識人の見解であり、変わりようのない事実だ
なんで捏造しようとするのか分からん
0055人間七七四年
2011/08/03(水) 22:57:18.71ID:cVdoFE/Y寧ろその逆で私個人としては日本のヒューダリズムや
西欧のヒューダリズムをそれぞれ別個の特殊な物と看做したり
どちらかに重きを置いて語る史観に反抗する意図を持って書いたつもりです。
同じ脳を持った人間ですから文化や生産力の発展には一定程度の共通性が
あるのではないかと思って建てた推論です。
0057人間七七四年
2011/08/03(水) 23:16:45.21ID:cVdoFE/Yなるほど。確かに唯物史観自体は西洋人であるマルクスが生み出した
思想ではありますが普遍性のある思想の様に思われます。
生産力に応じて社会が発展する。
別にこの考え方自体は何かを特別視したものではありません。
西洋を特別視して見るのと西洋生まれの思想を用いて推論を立てるのとでは
意味が大きく違うのではないでしょうか?現代の日本人が普通に扱っている
科学や計算方法も西洋やインド・中国等の外国由来の物ですし。
0058人間七七四年
2011/08/03(水) 23:29:51.60ID:599/Lz64同時に、会わない部分も当然ある
比較するのなら、似ている部分と似ていない部分の双方を挙げないと
都合のいい主観の論にしかならないよ
0059人間七七四年
2011/08/03(水) 23:41:31.74ID:5ksAIaWJごもっともな部分もある。でも数学を始め自然科学は普遍的だが、社会科学は必ずしもそうではない。
だからそれを比較研究する文化人類学が成り立つ訳で。
0060人間七七四年
2011/08/04(木) 00:08:07.85ID:WXGvyUz7仰る通りですね。違う部分を即座に持って来れない所に浅知恵と
私の論の稚拙さがあり反発を呼んでいるのでしょう。そこはやはり
勉強不足から生じている物です。長々と偉そうにすみませんでした。
>>59
そうですね。でもやはり文化人類学で得られた結果も唯物史観の修正・補強に
利用されている様に思います。というか唯物史観や社会学の定義・意義とかを
語り過ぎるとスレチになるのでこの辺にしておきます。
0061人間七七四年
2011/08/04(木) 00:17:55.97ID:86vVoblnそう何でもかんでも叩くのは建設的ではないよ。
>>49の見方にも、正しいところと、間違っているところがある。
どこが正しくて、ここが間違ってるとか言ってあげればいいんでない?
0062人間七七四年
2011/08/04(木) 00:35:40.65ID:WXGvyUz7間違っている部分を指摘してくれると有難いです。
批判の中から進歩というものは生まれると思うので。
>>61さん
会田雄次さん調べました。彼の主張(歴史以外)には共感出来るものが多くて
驚きました。こんな人も居るのですね。今日は眠いのでここまでにします。
0063人間七七四年
2011/08/04(木) 01:44:35.53ID:9dzV/rs50064人間七七四年
2011/08/04(木) 04:05:40.69ID:FKuFDjkf0065人間七七四年
2011/08/04(木) 04:19:45.30ID:kM6a1sr00066人間七七四年
2011/08/04(木) 05:10:22.50ID:wyX/u8dv【質問者の心得】
・まずは検索してみましょう。簡単な検索でわかるようなことも結構あります。
・質問してもすぐに回答は出てきません。ゆっくり待ちましょう。
・質問に対して必ず回答があるわけでも、必ず正解が存在するわけでもありません。
答えてもらえなくても粘着しない。
・「○○と××、戦ったらどっちが強い?」などの比較質問は、人によって評価が違うので正解無し。
「○○がもし長生きしていたら歴史はどう変わる?」などのifを問う質問も人によって評価が違うので正解無し。
よってこの手の質問は不毛な議論を招くので禁止。
【回答者の心得】
・なるべく出典、参考文献などを明らかにしましょう。
・正確さを欠く回答があっても煽らずに冷静に補足してあげましょう。
・回答を出すのにレスを多く使いそうな質問は、適切なスレに誘導してあげましょう。
・あくまで質問に対する回答なので、議論と考察はほどほどにしましょう。
こんな感じで
0068人間七七四年
2011/08/04(木) 10:33:08.00ID:gjgsfj310069人間七七四年
2011/08/04(木) 12:32:08.72ID:US6qeXlB蔵を封印して行くか
蔵の中の全てを持ち去るかによる。
命令者の指示が特になければ自己判断でOK
例
蒲生・上杉・黒田は全部持って移動
掘・細川は置いて行ったっぽい
転封費用がかなりかかるので持って行くのが当たり前のような気がするが。
ちなみに掘は転封費用を前田と上杉から借りてるほどバカで、
借金返済を上杉から促されて上杉の悪口を言っている。
細川も黒田にキレて、黒田家の船を略奪しようとした。
あとで悪口言ったりキレたりするくらいなら蔵の中のものは持って行くに限る。
誰も金を返してくれないし
蔵を封印した後にそこに移封してきた大名に請求しろと言われるだけだし
当然儲かった金は自分のものだから返すわけもない
0070人間七七四年
2011/08/04(木) 13:36:28.53ID:9dzV/rs5実はCSで功名ヶ辻を観ていて、一豊が50石の時には家来やその家族を食べさせる米がなくなるぐらい貧乏だったのに、信長から200石に加増された次の場面では馬も家来も増えていたので、信長から差額分の米か金をもらったのだと思ってました。
加増分を担保にお金を借りるのが普通だったのですね。
0071人間七七四年
2011/08/04(木) 16:01:13.45ID:mYhYutNS返事遅くなってすみません…
なるほど…国内の不安定な情勢を考えたら誰も止められなかったわけですね。
天下統一して武士が溢れて専業武士の維持費が厳しくなり雇用が悪化するのはわかりましたが。
なぜ治安悪化したのかは検討がつきません。
やはり雇用と被りますが職がなくなったことによる暴動や一揆が原因でしょうか?
0072人間七七四年
2011/08/04(木) 17:14:41.28ID:vb7fHqhq0073人間七七四年
2011/08/04(木) 17:37:06.28ID:2HCX4rPF暴行、盗み、押し買いのリスクが上がる
それに戦場では略奪をしてるわけで、
つまり強盗のプロがゴロゴロしてるようなもので
0074人間七七四年
2011/08/04(木) 19:46:40.67ID:JHz2X2O/大量に日本に密入国して各地に朝鮮人街をつくったけど
その地域を中心に暴力団が組織されて治安が悪化しているなあ。
0075人間七七四年
2011/08/04(木) 20:20:49.98ID:P73unRZS0076人間七七四年
2011/08/04(木) 22:02:28.03ID:mYhYutNSレスありがとうございます。
末端の足軽兵士なんてゴロツキと変わらなかったって言いますし。
現代で言うなら、ニートや浮浪者が犯罪行為を頻発に行ってたってことになりますね…
0077人間七七四年
2011/08/05(金) 15:08:33.29ID:mFrCJmlBニートや浮浪者は勤労意欲のないORできない状態にある人
リストラ強盗は勤労する気はあるけど職場の見つからない人のヒャッハー
0078人間七七四年
2011/08/06(土) 05:29:43.07ID:XKPfc6pZ全く正反対でなおかつ異教徒ではありますが。
0079人間七七四年
2011/08/06(土) 08:15:18.92ID:Tce+ocfF浅井長政の読み方は昔は「あさい」が一般的だったと思うのですが、今はそろって「あざい」
になっていますよね。何かある時期に新事実の発見でもあったのですか?
同じく北政所も昔は「ねね」が多かったのが今はみなが「おね」と読んでます。
0080人間七七四年
2011/08/06(土) 08:18:47.01ID:qfqeY8Sc宗論といって、どちらの教えが正しいか議論してた。
>>79
滋賀県に残ってる地名の読み方がアザイだから。
当時の文書にネネと書くものがないから。
0081人間七七四年
2011/08/06(土) 08:51:05.43ID:XKPfc6pZありがとうございます。
ググってみたら、ロレンソ了西っていうキリシタン宣教師が反キリシタン僧侶の朝山日乗と討論して論破して朝山日乗を怒らせたと書いてあったけど。
宗論する時キリシタンは仏教をどう論破したんでしょうかね?
0082人間七七四年
2011/08/06(土) 09:13:38.02ID:8EW34pzyギリシャだったかローーマだったかの時代からそういう技磨いてたし
0083人間七七四年
2011/08/06(土) 09:18:06.89ID:6dC85YIy0084人間七七四年
2011/08/06(土) 10:16:11.87ID:yqQw3NHY北政所は手紙の署名が「ね」の一文字だからって話だけど、イニシャルのような感じで
一文字しか書かなかったんじゃないの、というのが俺の意見だ。
0085人間七七四年
2011/08/06(土) 12:02:57.63ID:IAabU3Eq0086人間七七四年
2011/08/06(土) 12:09:33.12ID:nnxk/gJA> ググってみたら、ロレンソ了西っていうキリシタン宣教師が反キリシタン僧侶の朝山日乗と討論して論破して朝山日乗を怒らせたと書いてあったけど。
> 宗論する時キリシタンは仏教をどう論破したんでしょうかね?
論破ってのはキリシタン側の記録にしか無く、ほかの中立的な人間はそういうことを一切
記録していないことは認識しておくべき
0087人間七七四年
2011/08/06(土) 12:55:06.33ID:6dC85YIy0088人間七七四年
2011/08/06(土) 15:23:28.07ID:JzPmSMGVガチで議論したらキリスト教側の方が有利だろ。
それに神って人格ではなく=宇宙意志みたいなもんだし
そこに死んだ人間が帰るとか言われたら
現代人でも信じるやついるだろ
0089人間七七四年
2011/08/06(土) 15:51:11.62ID:tidTvBUU0090人間七七四年
2011/08/06(土) 16:38:35.51ID:6Dgv8Jyi百姓「信じない奴は?」
宣教師「地獄行キデース、デモ安心シテ下サイ、死ヌマデニ悔イ改メレバおkデス」
百姓「親父すっげぇ良い奴だったけど、もう死んでいない。親父は仏教徒だったから地獄行きか?」
宣教師「・・・」
みたいな話だったよな
たしかまとめサイトに詳しい話があったはず
0091人間七七四年
2011/08/06(土) 17:31:10.38ID:XKPfc6pZ結局は平行線だったのが現実なんだね。
キリスト教が広まったのは当時のアフリカ、インド、東南アジア、南アメリカなど原始的なとこでしか信仰が容易にに行き渡らなかっただけで。
0092人間七七四年
2011/08/06(土) 17:32:52.89ID:yqQw3NHYそういう流れではっきりとそうだと言うマホメットはある意味すごいよな。
>>88
そんな宇宙意思なんて話、中世の宣教師に言ったら鼻で笑われんじゃないのか。
0093人間七七四年
2011/08/06(土) 17:41:41.52ID:JzPmSMGV興味を持ってそう言うふうに疑問をぶつけてくるから日本人は聡明だと言ってるのが宣教師だぞ。
だいたい論破しようとやってくる仏教に詳しいやつほど一度納得されてしまうとキリスト教布教に熱心になってる。
0094人間七七四年
2011/08/06(土) 18:13:08.69ID:r7RCLov3ありがとうございます。よろしければ続いての疑問ですが
「アザイ」「オネ」読みであることが昔からある資料で分かっていたのなら、なぜ
「アサイ」「ネネ」と昔は発音されていたのですか?
それと、それがいつなぜ改められたのですか?
誰か影響力の強い人が、「これまで間違った読み方していたけど、今度からは正しい
読み方に改めようよ」と提唱したのでしょうか。割と最近のことだと思いますが。
0095人間七七四年
2011/08/06(土) 18:15:53.42ID:JzPmSMGV0096人間七七四年
2011/08/06(土) 18:21:29.18ID:XKPfc6pZ0097人間七七四年
2011/08/06(土) 18:25:46.06ID:nnxk/gJA「アザイ」は小和田が「現在地元ではそういう発音だから当時もそうだ」と言っているにすぎんよ。
あと「オネ」も文書でそう書かれているが、それが即そう呼ばれていたとは限らん。
はっきり言うとどれも確証のない想像の範疇でしか無い。
0098人間七七四年
2011/08/06(土) 18:32:19.05ID:6dC85YIyおみつ おふね おたえ
とかみたいに「お」をつけて「おね」って感じ?
だとしたらマ・クベ大佐が女で戦国時代なら「おま」になっちまうね。
0099人間七七四年
2011/08/06(土) 18:43:57.97ID:yqQw3NHY「おね」と書いたものは無い。「ね」と署名した手紙から本名は「ね」の一文字だろうという想定。
それで女性には「お」を付けて呼ぶのは慣習だから「おね」と呼ばれた筈、という話。
でもその説を受けて、名前の一文字だけ署名する事はあるけど「ね」なんて名前はあり得ない、
という反論もある。
>>98
女の子だったらそうだ。
0100人間七七四年
2011/08/06(土) 19:02:30.33ID:AlAtHCRJ構造として似ている、はちょっと不正確で、正しくは、
西洋史において、ルネサンスの意義・特徴的な事象と、対応するかのようなことがらが、
戦国期の日本にもある、ということではないでしょうか。
確かに西洋史と日本史は、部分的に切り取ってきて、ある観点の元に比較すると、
対応しているように見えることがよくあります。
この点について一番詳しく書いているのは、松岡正剛の『情報の歴史』だと思います。
ただ彼の場合、日本でのルネサンスに対応する事象を、江戸前期に見出してますけど。
大局的な観点から、日本史と西洋史を比較しているのは、梅棹忠夫の『文明の生態史観』です。
どちらの本も、あなたにとっては非常に参考になるかと思います。
0101人間七七四年
2011/08/06(土) 19:05:56.98ID:AlAtHCRJインドは当時の先進国なんだけどね。
0102人間七七四年
2011/08/07(日) 18:35:41.72ID:JlkAhTn30103人間七七四年
2011/08/07(日) 19:01:39.52ID:Yaf95qM8十匁以上の大口径銃は熟練技術が必要なので士分かそれに準じる専業軍人が使い
さむらい筒とよばれる。
三匁以下なら反動も少なく扱いやすいので農民兵に持たせて得れ
特に慶長の役では即席銃兵として大量投入した。
また早期の配備数が少ない時期は三匁でも家中で技量に優れたものに使わせていた。
0105人間七七四年
2011/08/08(月) 08:22:59.51ID:d2FyiNsHご丁寧な回答ありがとうございます。
まさか参考文献まで紹介してくれるとは有り難い限り。
早速Amazonで注文させてもらいます。
0106人間七七四年
2011/08/09(火) 01:29:28.71ID:A9aw8iTkhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/nhk/1312359464/l50
お題
8/12 24:15-25:15 戦国
予習クイズがデータ放送で毎日更新中
0107人間七七四年
2011/08/09(火) 12:04:22.20ID:RXc9VgBg宗教勢力を敵に回したリスクは本願寺の名前ばかり語られていますが
本願寺以外の寺社は兵の動員戦力は小規模だったのでしょうか?
延暦寺なんて武装化の先駆けなイメージですし
ずっと宗教勢力のなかで勢威を誇っていたわりに
あっさり織田信長に焼かれています。
0108人間七七四年
2011/08/09(火) 12:05:23.76ID:RXc9VgBg0109人間七七四年
2011/08/09(火) 12:17:21.38ID:9m1PEj9M守護や戦国大名の寺社領横領と、それに伴う寺社被官の武士化・武家被官化によって
著しく低下している。
延暦寺は信長以前に足利義教にも細川政元にも焼き討ちを受けている。
ここから見ても室町期の寺社の武力・及び権威の低下は自明のものかと。
0110人間七七四年
2011/08/09(火) 16:28:26.85ID:RXc9VgBgまさに生臭坊主どもに天罰が下ったわけですなあ。
そんな中で新興宗教の本願寺は独自の荘園を持たないので大寺社のようなダメージがない。
一方でうまく国人や政情不安を利用して信者を増やしたりして躍進したのは対照的ですね。
宗教面でも下克上みたいなことがおきてますね。
0111人間七七四年
2011/08/09(火) 17:24:09.08ID:9m1PEj9Mすぎないということは認識しておくべき。
比叡山を始めたとした当時の大寺は、僧だけでなく宗徒及び非宗徒の俗人まで包括した
実態として大都市であり、俗世的側面が大きいのも当然。
あと被支配民から見れば信長を始めとした武家の過酷な支配よりも、寺社の支配のほうが
諸権利の法的保護などがしっかりしていて、武士よりも寺社の支配の方がありがたかった。
そういう面も知っておくべき。
0112人間七七四年
2011/08/09(火) 17:55:57.77ID:hzDvANnXおおむね賛同だが、逆に武士階級への偏見も強まっているような
寺社の統治が武士よりも緩やかだったり優しかったりするとも限らないしねえ
むしろ、中世前期までは武士よりも寺の方が行政能力に優れていた面があるんだよ
言い換えれば、武士よりも支配は強く厳しかったということでもある
武士(俗世権力)の統治技術が向上して聖界権力に並び、さらに越えていく過程が戦国時代
あと、当時の寺社に堕落の傾向があったのもプロパガンダだけでなく事実
だからこそ鎌倉から室町戦国まで、仏教内部からも改革運動が起こっている
0113人間七七四年
2011/08/09(火) 18:52:54.53ID:DCFD4lIoその辺は各種意見があるという感じで良いと思う
一面的な結論は出ないし、出すものでもない
0114人間七七四年
2011/08/09(火) 21:48:27.40ID:14hd3oLD0115人間七七四年
2011/08/10(水) 11:36:32.26ID:Y+wHjsN9博士とかも武士は就任しないし
0116人間七七四年
2011/08/10(水) 12:05:21.40ID:4OzU3Hen0117人間七七四年
2011/08/10(水) 12:08:20.81ID:Y+wHjsN90118人間七七四年
2011/08/10(水) 12:45:20.66ID:xiojDyaQ武士にとって僭称する意味は殆ど無いし、武士で、同じく太政官官職である
左大臣右大臣、大納言中納言参議を名乗ったのは正式に官位を受けたものだけだ。
そして大名が正式に太政官官職を得る場合、最低でも四官等のうち二番目である次官(すけ)以上で、
それよりワンランク下の判官(じょう)のカテゴリにある少納言には当然任官することはなく、
また大名家臣も武士である以上、太政官官職を求める意味は無い。
そういうわけで少納言を名乗る武士がいなかったわけだ。
0119人間七七四年
2011/08/12(金) 06:47:41.06ID:blRCnz/Tそれでも朝廷から貰っていたのはなんでなんでしょうか?
0120人間七七四年
2011/08/12(金) 08:18:12.16ID:6W4iN03g0121人間七七四年
2011/08/12(金) 09:34:57.95ID:blRCnz/T戦乱の世に何かメリットはあったんですか?
平和な世なら価値はあると理解できますが。
0122人間七七四年
2011/08/12(金) 12:13:46.01ID:S42lCQTXその地を支配する事を幕府朝廷に認められたと示し
領国支配の正当性や侵略戦の大義名分に使われたり
0123人間七七四年
2011/08/12(金) 12:32:58.68ID:tO+kAS0Zいくら下克上とは言っても流石に何でもかんでもありだったという訳ではなく
正統性の確保は大切だったのでは。平和な社会とそうでない社会で用途が違うのでしょう。
0124人間七七四年
2011/08/12(金) 12:53:16.18ID:D3XekP+6戦国時代に「大義名分の無意味」という事例は多くあったけど中期には
まだ多少大義名分を戦略に利用する風潮があった。
西日本の火薬庫大名の大内は周防介の家系ながら
大陸貿易利権で対立していた細川と張りあうことに熱心だったので
細川の右京太夫に対抗して左京太夫を欲して
従三位大内義興、従二位大内義隆どちらも任官されている。
他にも少弐(武藤)と対立していたときは大宰大弐に任官されることで大宰少弐討伐の大義名分としている。
乱世といえど大勢力な上に大義名分があれば国人の懐柔も容易になる。
例えば田手畷の戦いで敗戦した大内は大宰大弐に就任後、龍造寺を懐柔して少弐を滅ぼしている。
戦術で負けて戦略で勝った例があります。いくら合戦がうまくても戦略的不利は覆すのは難しい。
そんなわけで大スポンサーの大内が健在なころは官位に需要があった。
なので後奈良天皇は「金で官位を任命するのは嫌」と上から目線だった。
ところが大内が部下に弑逆される事件が勃発すると、「やっぱ大義名分意味ないじゃん」
と周囲が再認識してしまい、大金を貢いでまで官位を欲するより軍備増強に目を向けられるようになった。
需要がなくなると朝廷は財政難が深刻化し、次の正親町天皇の時代になると
「官位買ってください」の年中閉店セールの紳士服屋状態。
即位式で2000貫献金をした毛利はものすごく感謝されて家系はたいしたことないので従四位どまりだったものの
死後、従三位を贈位されている。(明治以降どさくさに紛れて正一位にもなってますが・・・)。
献金しまくり、公家援助しまくりの大内親子が死後贈位されかったのと比較すると
朝廷の対応が雲泥の差です。
0125人間七七四年
2011/08/12(金) 20:26:03.24ID:pdkg/9hn今晩
0126人間七七四年
2011/08/12(金) 20:33:31.33ID:N6WYNreQベンツ買って自己満足みたいな
0127人間七七四年
2011/08/12(金) 22:19:09.93ID:7PA2spysそのベンツに憧れる女が多数いることもお忘れなく。
本州最果ての安東や南部といった辺境の勢力でさえ
朝廷や幕府から官位をもらうことに熱心だったわけで。
0128人間七七四年
2011/08/13(土) 13:28:42.88ID:3YBXq9in少し前には中央でも最大の権力者細川晴元が江口合戦の結果実質三好長慶にとって代わられた。
そして大内も部下に殺された。これは守護代などに取って代わられ、
再起を図って抗争中の守護大名たちを大きく落胆させたからな。
将軍を擁立しあっていた二大守護が揃って落ちぶれるとは誰が想像できただろうか?
0131人間七七四年
2011/08/14(日) 13:11:54.50ID:ou0mQLTMどこのお城でしょうか?
0132人間七七四年
2011/08/14(日) 13:22:31.82ID:8ApSEc4I0134人間七七四年
2011/08/14(日) 18:49:38.99ID:gHBeTanZ最近は廃城令に従わなかった「ずるい地域」と考えるようになった。
なんでも鑑定団である出品者の具足が数十万の値がついたのをみていた祖父が
「うちにも藩主様から賜った先祖代々の具足があったが戦時中に鉄の供出として差し出した。
蔵に隠して続けていたこういう持ち主の方が賢いんだろうけど感心はしない」
って愚痴っていたのを聞いてから価値観変わった。
完全なひがみだけどな
0135人間七七四年
2011/08/14(日) 19:17:54.12ID:JsVzeP31屋敷家財一切手放して国宝天守を後世に伝えた者の子孫は
俺の物にならない国宝残すより財産残してくれよと話し聞くたびに思ってるけどなw
0136人間七七四年
2011/08/14(日) 23:25:09.45ID:lbiseKdEそういう話を聞いた事があるんですが本当なんですかね?
0137人間七七四年
2011/08/15(月) 00:19:40.99ID:vYOXz3w90139人間七七四年
2011/08/15(月) 02:30:45.66ID:lWLS46eHうちの地元は戦国時代は無名ですが幕末では有名な長州の萩市です。
ところが城下町を観光名所にしているわりに幕末を観光にしているよそと比較すると人気はいまいちです。
せめて大河ドラマを誘致するか城に復元天守閣があればなあとはおもいます。
山口県知事と萩市長は高速道路の誘致しか眼中になく郷土史に全く関心を示しません。
先日も会津を支援した際に会津若松市長から嫌味を言われたのに会津観光史学の嘘を指摘するどころか
場を取り繕うためにぺこぺこ謝罪して先祖の英霊を冒涜していました。
萩は県庁所在地からも外れ開発から取り残されたおかげで偶然武家屋敷が多く残っていますが
一般的に歴史建造物が多く残っている地域は住民と行政が努力して保存している事が多いみたいです。
決して「ずるい地域」ではなく「みんなで守り抜いてきた素晴らしい地域」であると思います。
0140人間七七四年
2011/08/15(月) 09:02:31.76ID:p9qSTrsV政宗マンセーだけで喰っている人間だらけなので仙台観光史学は存在するが
そんなんで喰っていけない会津には会津観光史学など存在せず愚か者山口県民の妄想です。
0141人間七七四年
2011/08/15(月) 11:57:15.20ID:yjsBa3lZ捏造本を出しまくってボロ儲けできるのが政宗本。
0142人間七七四年
2011/08/15(月) 12:33:58.12ID:d1oXIkYF0143人間七七四年
2011/08/15(月) 14:00:39.35ID:AwIBUc1d0144人間七七四年
2011/08/15(月) 23:49:34.98ID:RA5fHkbg後世の我々からすれば、お上の目をごまかしてでも貴重な史料を残してくれた人に
感謝するものの、愚直に命令に従って取り壊したり破棄したりした人は、ある意味
バカを見た正直者ってわけで、それも報われない。
0145人間七七四年
2011/08/16(火) 00:19:33.79ID:Or4X5UZA安土城の焼失原因として有力な説として以前は織田信雄が放火した説が有力と聞きました。
最近ではどのような原因が考えられていますか?
0146人間七七四年
2011/08/16(火) 00:29:33.81ID:7rKKDA/c織田信雄の放火は俗説以外の何者でもない。
最近の一番有力な説は「誰がやったかわからない」。
まあ、安土城下で暴動が発生してそのあおりで燃えた、なんてことを考える研究者もあり、
個人的にもそんなものだろうと思っている。
0147人間七七四年
2011/08/16(火) 00:44:58.84ID:1YAUIuku確かもうひとつ証言があったような・・・
0148人間七七四年
2011/08/16(火) 12:48:01.36ID:+y0NZgiS「北条方を堅持していた上田朝直の軍勢が〜岩付太田氏の軍勢と合戦している」と書いてあったけど、
Wikipediaには「謙信に呼応し北条氏を離反している。〜謙信が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されている」と書いてある。
どっちが正しいの?
0149人間七七四年
2011/08/16(火) 13:05:29.10ID:7rKKDA/c0150人間七七四年
2011/08/16(火) 13:25:11.18ID:IN0zrivcWikipediaはあまり信用してはいけない代物
自分の知識が正義と思い込んでいる素人も書き込んでいる
そしてそれを判定する人も無知な人が多いという状態
本気で気になるなら史料を漁るが吉
0152人間七七四年
2011/08/16(火) 14:05:01.11ID:IN0zrivcお前馬鹿か?
Wikipediaの方が嘘だからこんな書き方しているんだろ?
松山合戦も知らない愚か者めが
0153人間七七四年
2011/08/16(火) 14:17:11.19ID:11TqLaqf0154人間七七四年
2011/08/16(火) 14:22:00.20ID:1YAUIuku0155人間七七四年
2011/08/16(火) 14:23:32.83ID:IN0zrivcID:+y0NZgiSは正解を判断する知識すらないから人の言うことは全て信じられないのだろうよ
それともID:+y0NZgiSはWikipedia信者なのか?
だとしたらどんなに素晴らしい答えを教えてあげても自分に都合が悪い答えは全否定だな
0156人間七七四年
2011/08/16(火) 14:53:58.77ID:+y0NZgiS正解を判断する知識が無いから質問スレに来ているのですし、そのための質問スレのはずですが?
>>150の書き方では一般論に過ぎないので正誤の判断はつきませんね。
Wikipediaが100%全て完全にデタラメだと主張するなら別ですが、
その場合、Wikipediaの上田朝直の項目に書いてある扇谷上杉に仕えていた事や三増峠の戦いに加わった事もデタラメになるのでしょうか?
あと、自分に都合が悪い答えとは何でしょうか?
上田朝直が一度北条に屈して以降、北条方であり続けたのか謙信に靡いたかにより、自分にどういう不利益が生じるのか想像がつきません。
>>154氏の言うとおりでしょう。
0157人間七七四年
2011/08/16(火) 14:58:38.34ID:IN0zrivc馬鹿につける薬無し
君の場合ここで質問にはまだ早いということ
もう少し基礎知識つけてから出直しておいで
そもそも君が読んだという黒田基樹氏の『戦国関東の覇権戦争』に出展があるはずだが?
そこは無視か?
Wikipediaに出展があるのか?
あるなら出してみろ
0158人間七七四年
2011/08/16(火) 15:10:11.87ID:+y0NZgiSどちらも参考文献は上げられていても出展までは書いてありません。
あなたは煽るだけが目的の残念な人のようなので、もうレスしなくていいですよ。
0159人間七七四年
2011/08/16(火) 15:23:45.17ID:IN0zrivc>どちらも参考文献は上げられていても出展までは書いてありません
参考文献があるならどちらが正解か自分で調べられるだろ
これで質問は自分で解決できるから終了
先に煽ってきたのはお前の方(>>151)だから人のせいにするなよゴミくず
何でも人に頼って自分で努力しようとしないゴミに限って文句は上から目線
そして人に教えを請う姿勢が微塵も感じられないのもお決まりのパターン
ID:+y0NZgiSは人として恥を学ばれよ
0160人間七七四年
2011/08/16(火) 16:07:36.57ID:+y0NZgiS最初に煽ってきたのはバカという言葉を使った>>149。
>>150はWikipediaに対する一般論で回答になっていない。
故に>>151は正論。
参考文献を入手して逐一当たるほどの時間は流石に無いので、ここで聞いているのですが?
そもそも>>159は質問スレの存在意義をどのようにお考えなのでしょうか?
あ、やっぱり答えなくていいですよ。
あなたは他人を口汚く罵るのが大好きなだけの人間なのは、よく分かりましたから。
レスしなくていいと書くのは、これで三回目になるので、いい加減学習してください。
0161人間七七四年
2011/08/16(火) 16:35:22.65ID:IN0zrivc涙目の必死のごねまくり発言乙!
>最初に煽ってきたのはバカという言葉を使った>>149。
ID見たら分かるがそれは俺ではない
ID:+y0NZgiSは俺が発言したと思って勘違いしちゃったんだろ?
可哀想なくらい恥ずかしい奴
>故に>>151は正論。
自己保身乙!
お前は
>あなたは煽るだけが目的の残念な人のようなので、もうレスしなくていいですよ。(>>158)
とか言っているが俺の書き込み(>>150)のどこに煽りがあるのか教えてもらえるかな?
まあお前の支離滅裂の思考では無理だろうな
>あなたは他人を口汚く罵るのが大好きなだけの人間なのは、よく分かりましたから。
お前よりも謙虚だから安心したまえ
さっきも書いたがID:+y0NZgiSは人として恥を学ばれよ
>いい加減学習してください。
もう質問なんかどうでもいいんだろ?
ただ単に知識が無くて悔しいから書き込んでいるだけなんだろ?
お前みたいな奴を荒らしというわけだ
それすら気が付かないとは哀れとしか言いようがない
ここは質問スレなんだがお前は悔しくてたまらないみたいだからあと1回だけ泣言を書きたまえ
さあどうぞ ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
0162人間七七四年
2011/08/16(火) 16:56:25.74ID:Or4X5UZAありがとうございます。
本能寺の変で統治が乱れた途端に北斗の拳のように火事場泥棒をする民衆・・・
近江のような都会でも当時の民衆は民度が低いんですね。
0163人間七七四年
2011/08/16(火) 18:35:17.57ID:7rKKDA/c> 近江のような都会でも当時の民衆は民度が低いんですね。
領民に滅んだ領主に心中する義理はない。特に近江は織田政権にさんざん搾取された
地域だし。安土城は信長が近江一国に大規模にかけた賦役で建設されたものだ。
関ヶ原の後だって、例えば石田三成の領地では、領民によって石田関係者への
襲撃が起こってる。支配権を失い没落するとは、そういうことだ。
0164人間七七四年
2011/08/16(火) 18:50:07.35ID:11TqLaqf0165人間七七四年
2011/08/16(火) 21:37:25.84ID:/t55SrjOと、言っても鎧兜よりもその下に着ている物だったり、鎧兜の素材だったりと言う少々ズレた所が知りたいのですが、なにか良い本はないでしょうか?
出来れば今でも手に入る本だと有難いです。
もしよろしければ皆様お勧めの本をお教えねがいます。
0166人間七七四年
2011/08/16(火) 21:40:16.05ID:SX122kkfこのあたりいいんじゃないかな?
戦国武器甲冑事典
http://comics.blog.shinobi.jp/Entry/582/
0167人間七七四年
2011/08/16(火) 23:15:51.41ID:/t55SrjO早速のレスどうも有難うございます!
なるほど解りやすそうですね!
写真が少ないのは残念ですが、写真が多い本はまた別に探したりして何冊か揃えたいと思います!
0168人間七七四年
2011/08/17(水) 10:44:31.48ID:+7YfkUTIhttp://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/matuyamazyo.htm
永禄4年(1561)関東管領山内上杉憲政から管領職を譲り受けた上杉謙信は、9万人ともいわれる大軍をもって松山城に来攻し、上田朝直は敗れて安戸城へ退いた。
上杉謙信は太田三楽斎資正に岩槻と共にこの城を守らせた。
上田朝直を中心とする北条方は上杉謙信が関東を引き揚げた同4年11月、北条氏康が北条相模守氏政・大石源三氏照・北条左衛門大夫綱成を将として、3万余騎をもって松山城攻めを行なった。
いったんは軍を引いた北条方であったが、翌5年11月、さらに松山城を攻め、かつ越後の上杉謙信を牽制するため甲斐の武田信玄の援軍を得ることになった。
信玄は2万5千余騎をもって9月に上野に侵入し、11月には武蔵へ進出して松山城に至った。
信玄が到来してから2か月後、武蔵国住人勝式部少輔を城中に入れて急ぎ和睦に成功し、城将の上杉憲勝は降伏した。
0169人間七七四年
2011/08/17(水) 11:04:01.23ID:Ez8p6PNr本当ですか。
0171人間七七四年
2011/08/17(水) 14:07:42.31ID:Ez8p6PNr「同心」って以外と身分が低かったのですね。
0172人間七七四年
2011/08/17(水) 14:49:57.93ID:3afE4Xiaだって町奉行所の同心の下には私的に雇ってる岡っ引きとか下っ引きしかいないんだよ。
町方の他にも千人同心とか伊賀同心とか色々いたけど。
0173人間七七四年
2011/08/17(水) 16:30:40.27ID:SW9nP3E7公共事業をやられせていたと経済関係の本にありましたが本当でしょうか?
ググってもそういう話は出て来なかったんですが・・・・
0174人間七七四年
2011/08/17(水) 17:06:52.46ID:1Yt09h4a城下町や治水灌漑の設計や造営などをやらせていた。
田中角栄の日本列島改造論みたいなもん。
だからバブル時代で茶道や絵画など文化的にも発展していたし
都市部での大量消費を支える流通のために河川流通網も発達した。
0175人間七七四年
2011/08/17(水) 17:18:54.05ID:H9u3GUfF0176人間七七四年
2011/08/17(水) 19:51:28.82ID:zzxvK4lp地方によっては差はあると思うけど、小勢力で大体100〜200、中規模勢力で、多くてやっと500ぐらい?
0177人間七七四年
2011/08/17(水) 20:14:40.00ID:IK31RLwp0178人間七七四年
2011/08/17(水) 22:24:50.96ID:i2QWR5i1肖像画などで眼鏡かけてるのをみたことないです。
しかめっ面で相手をみたりして、いろいろトラブルもあったと思いますが。
0179人間七七四年
2011/08/17(水) 23:17:47.15ID:3afE4Xia戦国時代には眼鏡無いからかけてる肖像画は偽物だ。現代と違って遠くを見る機会は多いし、
近眼の人は少なかったと想像する。
0180人間七七四年
2011/08/17(水) 23:23:52.86ID:SW9nP3E7秀吉自らが公共事業を行って
そこに大名が商人を送り込み自領内の産物を売っていたということですか?
0182人間七七四年
2011/08/18(木) 00:19:08.65ID:OOSlRiR/家康はメガネを所有していた
おそらくは大御所時代であろうが
ただ、当時のメガネは手で持つタイプなので、
肖像画には描かれない
0184人間七七四年
2011/08/18(木) 00:55:54.81ID:94lWaVIwそういや家康の側室の西郷局は極度の弱視だったというが
この人が家康の庇護のもとで、同じく目の悪い人を集めて面倒みる
今で言う介護施設を作ったと聞いた
0185人間七七四年
2011/08/18(木) 05:28:18.40ID:iI2sK1nr畿内の最新技術の全国への輸出のようなもんだね。
豊臣大名が各地に配置されて
治水灌漑した河川の近くを要害に城下町を造営し
城下町には町人や商人が住む区画を作り
商人を誘致し城下の活性化を図り
それを豊臣傘下に入った外様大名たちも三成らの指南で計画都市たる城下町を作り
豊臣政権から取次と支配の認可を受けたことを背景に独自勢力に近い傘下国人たちを各大名家は支配することで安定を図り検地を断行し
朝鮮出兵中の力の空白を利用し大名領国内で人口調査をして日本全土の形を理解把握した。
0187人間七七四年
2011/08/18(木) 11:33:37.05ID:uiONzrgf>>186
自作自演はいいから、具体的な史料を出せよ。
そんな政策の行われた具体的史料は一切無い。
日本における全国規模の自由流通経済の発展は、政策的に見ても江戸時代からだ。
秀吉のやったことは京にあった米相場を大阪にもってきて、大阪への富の集中を測ったことくらいだ。
秀吉の基本政策は富の収奪であり、拡散ではない。
違うというなら史料を出せ。勝手な妄想はいらないんだよ。
0188人間七七四年
2011/08/18(木) 13:10:38.08ID:RRjcYOE3在日と非難するなら史料持ってくれば一発じゃないか?
こういうときって必死だなwwwって言っている奴の方が必死なんだよな
0189人間七七四年
2011/08/18(木) 13:13:13.93ID:RRjcYOE3250 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:27:53.86 ID:NbwgiJ+h
>>249
じゃあ誰がカッコいいんだよw
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る3
966 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:30:51.56 ID:NbwgiJ+h
>>961
じゃあなんで父や兄が弟に対して
自分より地位が高い貴人のように実名敬避俗して
大本所様なんて呼んでるのか説明しろよw
【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
186 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:33:14.36 ID:NbwgiJ+h
>>175>>181
在日必死すぎワロタw
信長の政権構想
407 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:36:01.37 ID:NbwgiJ+h
史料を出すだがの方が信用されてるよな。
基本的に論破されてる方は人格攻撃やレッテル貼りで
悪印象をつけようと必死になってる敗者なのが戦国板の特徴。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
112 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:37:45.97 ID:NbwgiJ+h
そもそも北条厨が一次史料を出して論じたことは過去に一度もない。
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
0190人間七七四年
2011/08/18(木) 13:14:25.33ID:RRjcYOE3毛利厨=在日はしつこさだけは織田厨並みの無職だからねぇ。
毛利厨・北条厨のソースは軍記のみ
36 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:40:38.48 ID:NbwgiJ+h
軍記やwikiが一次史料だと思ってるのが毛利厨や北条厨や織田厨だからね。
城址巡りの旅 其の拾弐
489 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:42:01.01 ID:NbwgiJ+h
脳の疾患を疑ってみるべきだから
脳の検査をオススメする。
事実だとしたらいまの東北の太平洋側は幽霊だらけになってる。
【ジャイアン】家康ほど面白くない武将がいたか
234 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:44:34.84 ID:NbwgiJ+h
家康は火事場泥棒と弱い者イジメしてただけだからな。
秀吉と家康はどちらが悪者か? その3
813 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:47:35.55 ID:NbwgiJ+h
むしろ勝率はかなり高いし
機を失わない速決的な行軍と決戦をする迅速さは秀吉に似てる。
岡崎城が落ちたのも別に信秀が悪いわけじゃないし。
【佐竹・小田】常陸下野の戦国大名【宇都宮・小山】
791 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:50:25.77 ID:NbwgiJ+h
宇都宮城を見学に行ったら史料に
宇都宮城主に1年間だけ浅野がなってたけどマジ?
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
859 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 09:52:13.98 ID:NbwgiJ+h
軍記やwikiと一次史料の見分けがついてないから平気でレスするんだろうね。
【謙信】臼井城について【潰走】
141 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:21:30.82 ID:NbwgiJ+h
臼井城攻めの指揮官って誰なんだろうな。
顕景ってやっぱり上杉景勝の幼名なのかな?
他には
書状の署名の誤読なのか変名で顕景と名乗っていた事があるのか足利長尾顕長とする説
上野国から越後へ逃亡後にほとんど記録がない総社長尾顕景とする説
>>下平が感状をもらって賞されてる。
実は長岡市立中央図書館蔵で広居又五郎も顕景から4/20付けで白井城での戦功の感状をもらっている。
あと一部書籍で混乱があるようだが長尾顕景を長岡市の書状では総社では無くのちの景勝のことだとしている。
北条系の研究してる学者の記述って大半が顕景を総社長尾顕景って書いてる気がする。
個人的には越将も統御できる高い立場にいる者なので景勝だと思うが、
謙信が参陣を求めていた場所が足利長尾氏の館林城なので
早めに参陣した諸将を率いて先発した軍の指揮官として足利長尾氏だとしてもおかしくないんだよな。
0191人間七七四年
2011/08/18(木) 13:15:49.12ID:RRjcYOE3142 :人間七七四年[]:2011/08/18(木) 10:40:51.90 ID:NbwgiJ+h
キタジョウ高広は佐竹義昭から輝虎の越山への努力を賞して、輝虎と討った旧小田領の常陸国沼崎郷や前野郷を佐竹から宛行われた。
また高広は永禄12年の時点で、後北条に宛行われていたのか伊豆国稲取郷や片瀬郷をすでに領有していた。
他にも信玄とも私通してる。謀反してすぐに信玄から書状をもらってるし、越相同盟後も信玄と連絡してる。
長野を滅ぼして上野国西部を切り取った武田と入魂してんだよな。
謙信が利根川以西を防衛範囲に考えていないのか
高広からの誤報を信じていたのか、佐野や関宿方面ばかりを
気にしていて、佐竹の参陣を待ってる姿が情報伝達の混乱を示している。
しかも佐竹義昭死去の隙をみて小田が佐竹攻めしたので
謙信が義重支援で小田城を攻め落としてあげたのに
義重がその後に非協力的なのも理不尽。
謙信が高広を天魔の所業と怒ってるのもうなずける。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
114 :109[sage]:2011/08/18(木) 10:45:17.06 ID:NbwgiJ+h
>>113
それ俺が過去に一次史料を翻訳して書きこみしたやつだから。
俺が過去にレスしたのを再利用しただけなんだがwww
【輝宗】伊達氏を語ろう 2【稙宗】
922 :人間七七四年[]:2011/08/18(木) 10:55:09.68 ID:NbwgiJ+h
そうかが必死なだけだから。
武田厨と織田厨が争うスレ
96 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:57:04.45 ID:NbwgiJ+h
>>91
それコピペだし、その前の文章がコピペされてないから
冒頭からイミフになってる。
【吉川】毛利一族を語る【小早川】
546 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 10:58:39.92 ID:NbwgiJ+h
結城秀康死後に弱体化した時期の越前松平氏の奴隷になるなんて毛利貧弱すぎw
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
532 :人間七七四年[sage]:2011/08/18(木) 11:24:14.88 ID:NbwgiJ+h
>>530
日本語として意味不明。
現実が認められずに
お前ついに頭がとんだのか?
どう見てもとても必死です。本当にありがとうございました。
おまけにやっぱり馬鹿やってwikipediaからブロックされたsubでしたね。
0192人間七七四年
2011/08/18(木) 13:51:28.60ID:p6eo2ZTe0193人間七七四年
2011/08/18(木) 14:53:24.17ID:NbwgiJ+hいやぁストーカー気質は怖いねぇ。
わざわざ荒らし行為で他人への迷惑も考えないアスペ在日毛利厨って。
>>187
はぁ?自分はソース出さずに他人にはソース出せってw
そもそも秀吉が主導した天正検地→文禄の検地
そして関が原からまもなく行った慶長検地において
確実に各国の生産力が上がっているのは領内が開発され豊かになってきたから。
文禄の検地も人掃令による戸籍調査も抵抗勢力を朝鮮へ出してる隙にやってる間に調査してる。
在日くんが富の収奪と歪曲してるのは荘園の廃止や国人の陰田など不正蓄財を解体して
全国平等にしてる政策を曲解して富の収奪と言ってるだけ。
むしろ農業先進国の伊勢を中心に発達した農業技術が豊臣恩顧大名を通じて全国へ波及し
水攻めで用いた大土木技術や平地での防御力向上のための石垣技術などの軍事技術が民生用に転用され
隣国大名への領土拡張から領内開発への取り組みを促し
各地で豊臣恩顧大名を通じて灌漑技術がなかった地域まで領国開発ブームが起きた。
秀吉は一国一城令の前身になる破却令を出して無駄な軍事費の削減をさせて
平地に土木建築をさせて行政を整備させたりと中世から近世への扉を開き
秀吉により桃山文化が完成し朝鮮陶法も導入されるなど日本美術史に高く評価され
都市での大消費社会を作り文化の黄金期を現出させている。
家康は秀吉のやったことのただの劣化模倣に過ぎない。
0194人間七七四年
2011/08/18(木) 14:55:22.03ID:zP+tp6cTそれの揚げ足を取るだけのほうがいろいろ楽だよな。
0195人間七七四年
2011/08/18(木) 20:38:53.82ID:ISpUnTPQhttp://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/rekisi/data/azuchi_2.html
>蒲生氏郷(がもううじさと)や浅野長政(あさのながまさ)の勧めもあり、
>居城を岩手郡仁王(におう)郷不来方(こずかた)に南進させることを決定します。新都市「盛岡」の誕生です。
>盛岡が選ばれた理由は、(1)北上川の水運が利用できる交通の要衝であったこと、
>(2)北方の渋民(しぶたみ・盛岡市)や沼宮内(ぬまくない・岩手町)などを経由して九戸城に達する街道沿いであったこと、
>(3)北上川と中津川に囲まれた花崗岩(かこうがん)台地からなる天然の要害であったこと、などが挙げられます。
北国の最果ての南部家の築城や土木整備などにも
豊臣政権は関与してたよ。
0196人間七七四年
2011/08/18(木) 20:44:45.52ID:bDsIJ7NF0197人間七七四年
2011/08/19(金) 00:47:55.14ID:IbjPCE99どこのスレでも無視されて暇でいるから相手すると10年でも20年でも絡んで来るぞ
0198人間七七四年
2011/08/19(金) 01:22:18.40ID:gZwOFPTR揚げ足とって来ても、なんだsubか、で論破完了なんだから構うな。
0199人間七七四年
2011/08/19(金) 01:42:22.73ID:12COgRp3なっていますが、それらの国内の諸勢力が悉く子供をさらって強制的に洗脳して殺人マシーンにしたり、
女は性奴隷にしたり、支配下の部落を些細な理由で根斬りするような輩ばっかなのは何故でしょうか?
日本の戦国時代にしても捕らえた住人を奴隷として売ったり、住民ごと皆殺しにした事例はありますが、
根斬りは領内の場合は実際に幾度も蜂起したり、敵国の場合もこれからの戦を有利にする為の見せしめ的側面の方が
多いようですし、奴隷に至っては諸大名によって落差が大きく、大友や有馬のように派手にやった所と
謙信のように実際は買い戻させることを見越して嫌がらせ的に行った程度の大名も居ます。
信長はやってたんですかね?あまり聞きませんが。
とにかく内戦状態にしては実は一般市民はそこそこ平和だったとか、名君限定で法的な保護を受けれたとか
日本の戦国時代はそれほど悲惨では無かったらしいです。大名にしても自領の民が栄えていれば
他領の民衆を取り込むのに有利と言う側面もあって基本領民は大切にした方がいいと言う考えだったようです。
翻ってアフリカの国々は自勢力下、他勢力下関係なくの乱取りし放題の無秩序状態。名君0な状態。
こんなことやりまくってたら、仮に自勢力が天下取ってもそも民衆の支持は得られないし、また内戦時代に
戻るのは目に見えてるんですが?日本は戦国だったからこそ、乱世の英雄的人物が多数表れたのに
ソマリアやコンゴでは現れないのでしょうか?単純に民度の差なんでしょうか?
長々と書きましたが皆さんのお考えをお聞かせ下さい。
蛇足.そういや前中日新聞にソマリア内戦の記事があって読んでみたら「現代のソマリアは
いわば戦国時代である。だが悲しいことにこの国には信長も家康もいない。」と書いてあったのが印象に残ってます。
0200人間七七四年
2011/08/19(金) 04:03:15.98ID:0R8q54gQ奴隷狩りは島津がやってたことだ。
0202人間七七四年
2011/08/19(金) 05:59:06.91ID:2jG+oRmU620 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:45:34.08 ID:0R8q54gQ
層価毛利の捏造ぶりは異常
初期設定がチートな大名
48 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:47:58.54 ID:0R8q54gQ
織田厨必死過ぎw
武田信玄に天下統一が出来るの?
256 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 03:52:18.73 ID:0R8q54gQ
信玄の周囲は村上を始めとして領土が拡大を始めた勃興期に当たってるからね。
信長の周囲は応仁の乱後の混乱を制して富国強兵させ活躍した英主達が死んだりと衰退期に入った大名ばかりだったけど。
【疑問】スレ立てるまでもない質問8【戦国時代板】
200 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 04:03:15.98 ID:0R8q54gQ
大友や有馬はそんなことやってない。
奴隷狩りは島津がやってたことだ。
上杉謙信が戦国最強に決定(武田・北条・織田を圧倒)
475 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:14:51.06 ID:0R8q54gQ
>>474
謙信がやってることは誰でもやってるとするなら例えば同地域とも言える条件が揃う東日本エリアで他には誰がやってるのか列挙してくれないか?
あと妻子や親を埒って誰のことを言ってんの?
大友氏について語ろう2
478 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:19:02.44 ID:0R8q54gQ
財政難の打開策としてキリスト教保護による貿易と寺社領の没収は
大友の政策における両輪の関係だよな。
【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
124 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:23:01.80 ID:0R8q54gQ
北条厨って無知だから議論が成立しない
信長の政権構想
415 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 04:25:12.81 ID:0R8q54gQ
無計画、無秩序、無軌道な拡大で崩壊への道を無闇に突き進んだバカ大名信長
上杉謙信の真の宿敵は北条氏康・氏政
440 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 04:32:28.13 ID:0R8q54gQ
義昭と信長の上洛と京から三好松永の排除を謙信は支持してたからね。
そして義昭が信長と対立すると義昭は信玄を支持してたから不信感が謙信にはあったが武田を背後から攻める真似はしなかった。
信玄死後に義昭側近の六角義堯が謙信との関係を再構築したから上洛戦が開始された。
0203人間七七四年
2011/08/19(金) 07:53:51.55ID:8FCX6swf日記帳でやれ
0204人間七七四年
2011/08/19(金) 08:00:21.49ID:2jG+oRmU826 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 00:08:39.78 ID:8FCX6swf
>>821
さすがだがアンチ、自演汚いな汚い
829 :人間七七四年:2011/08/19(金) 07:52:29.17 ID:8FCX6swf
オフ会なんてする気がないんだから、なんとでも言えるわな。
0205人間七七四年
2011/08/19(金) 08:05:24.71ID:pZqzxJ920206人間七七四年
2011/08/19(金) 08:49:26.79ID:0R8q54gQウソだと主張するなら大友や有馬がやっていたと証明するソースを出してみろよw
いくら探しても絶対に無理だけどなw
そうやって自分にとって不都合な意見には
レッテル貼りや人格攻撃やストーカー粘着荒らし行為で対抗とは幼稚だな。
0207人間七七四年
2011/08/19(金) 08:54:18.47ID:2jG+oRmU0208人間七七四年
2011/08/19(金) 09:04:49.23ID:iQxX70yH0210人間七七四年
2011/08/19(金) 10:03:31.48ID:WWlfHKesむしろ宗麟は病院や学校や身寄りの無い子供のための施設を作ってる。
奴隷貿易やってたのは島津。
0211人間七七四年
2011/08/19(金) 10:50:13.19ID:2jG+oRmU442 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:01:28.35 ID:0R8q54gQ
>>441
病的ストーカー粘着偏執狂荒らしは非常に気持ち悪いねぇ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part16避難所
136 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:03:02.91 ID:0R8q54gQ
米子城の再建こそ急務
【中二病】 だがvsSub 【精神病】
831 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:06:25.68 ID:0R8q54gQ
以前にオフ会はどこでもいいと言ってたから
札幌すすきののサイバーシティビルで待ち合わせと指定したら逃亡したのがアンチだがの方じゃねぇかwww
秀吉が大苦戦した中国戦線【対毛利・両川】2
495 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:19:35.88 ID:0R8q54gQ
嫌いって言うより恨だな。
あの民族には時間の経過による風化と言う概念がない。
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
533 :人間七七四年[]:2011/08/19(金) 09:29:40.40 ID:0R8q54gQ
>>528
隆景や安国寺が義昭を毛利領に呼ぶのに消極的な一方で
積極的な元春が義昭との窓口をやってたから義昭も毛利が有利になるように各国を毛利方にしてたからね。
決断できない毛利に痺れをきらした義昭側近の六角義堯が義昭の越後行きを策したら
それを知った毛利は義昭の力によって今まで毛利方になった各国国人達が毛利に失望し一挙に離反するのを恐れて
急遽、義昭を毛利が奉ずるのはとても名誉があることだと言い出して義昭を急いで毛利領内に呼んだ。
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
861 :人間七七四年[sage]:2011/08/19(金) 09:39:04.08 ID:0R8q54gQ
Google先生に聞いてパクってきただけなんだろ。
だから陰徳太平記に書かれている内容だったなんて夢にも思ってない無知が毛利厨。
0212人間七七四年
2011/08/19(金) 11:24:07.89ID:WWlfHKes>>185
矢田俊文も謙信時代の越後にはまだ灌漑農業が伝播されてないと言ってるな。
その一方で広隆寺文書で永禄10年9/7に
細川昭元が広隆寺に対して植林灌漑を命じてるように畿内では開始されてるのがわかる。
0213人間七七四年
2011/08/19(金) 15:19:23.72ID:PeaZlTSuあまちゃんだねえ。
クリスチャンに改宗した者には保護を、改宗を拒んだ者には奴隷の道を、だよ。
文書としての証拠が残っていないのは、秀吉が人身売買禁止令を出して「ヤバイ」と殆どの証拠を隠したからだよ。
このあたりの当時の事情はいろいろな研究者が本で出しているから、
「ソースを出せ」君も一冊くらい読んだらどうかな。
0215人間七七四年
2011/08/19(金) 16:21:48.64ID:eVOJTyirオマエの悪事は露見しているわけだから黙ってろ
0216人間七七四年
2011/08/19(金) 17:38:59.97ID:eFUSD2G+0217人間七七四年
2011/08/19(金) 18:02:46.45ID:gZwOFPTR紀北の代表的国人が雑貨衆の鈴木氏や土橋氏や根来衆で
南紀代表は湯川氏や熊野水軍の堀内氏
0218人間七七四年
2011/08/21(日) 01:19:45.18ID:C1H78yUu弘前藩の実高ってどのくらいのもんだったんでしょう?
表高が4万7千石で実高が33万石とありましたが
他の大名に比べて乖離が激しすぎる気がするのですが。
0219人間七七四年
2011/08/21(日) 02:34:00.71ID:13SjjhjI0220人間七七四年
2011/08/21(日) 04:11:38.96ID:8rTQCL9Rまず、津軽の石高が30万石って言われるようになったのは4代信政の頃ね。
実高自体は25〜30万石位はあった。ただ凄まじく無理して開拓しまくった結果。
元々津軽は平野部が広く、また同時に大規模に工事せねば農地として使えない未開拓地が多かった。逆を言えば開発余力があった。
で、藩政が成立し、大規模なインフラ整備が可能となった後、限界以上まで開拓した。
おかげで豊作の時は良いけど水不足や冷害に極端に弱くなる羽目に。
0221人間七七四年
2011/08/21(日) 04:22:16.29ID:HQDO6Y8/家康は京都に寄ってて奈良経由だとしても、奈良街道だけでなく大阪城の東に出る八尾道・奈良道といった道もあると思うんですが…わざわざ準備万端な真田丸とかがある南側から攻めるのはどうかと
0222人間七七四年
2011/08/21(日) 05:18:31.94ID:YESlVsEc大軍を展開できる地形ではありません
0224人間七七四年
2011/08/21(日) 12:58:58.88ID:/cKrNZwF1,何故、大阪城周辺で豊臣に協力した村民などの家族を捕らえて、銃弾避けの
人間の盾として前田軍は利用しなかったのでしょうか?
利家の加賀での一向宗撫で切りや尼崎での荒木一族や重臣の家族を蒸し焼き
バーベキューにするなど住民虐殺は、お家芸だと思うのですが?
2、真田丸へあんな無様な攻撃をして死傷者続出させたということは、前田家は、
潜在的な豊臣派だったのでしょうか?
0226人間七七四年
2011/08/21(日) 14:10:25.27ID:/cKrNZwFありがとうございます。
1のFAは
前田家としては、意図はあったが上位者の徳川家の意向として
人間の盾作戦は禁止されていたということですね。
2のFAは
挑発されたために竹束などの防弾装備無しで攻撃してしまった
ということですね。
それにしても前田家では大筒などの遠距離攻撃兵器は用意して
いなかったのでしょうか?いくらドケチの利家の血を引くとはいえ
人と違って、経費はかからない報だと思うのですが?
0228人間七七四年
2011/08/21(日) 15:49:29.84ID:5ry5YKvH徳川への恭順の意をしめすための戦いだから、
武力の誇示に最適=大筒
そんなもん持っていたら、有無を言わせず確実に改易。
0229人間七七四年
2011/08/21(日) 16:02:08.23ID:/sD4WuKw「前田家譜」には家康が利常に塹壕を掘り、土山を築き、砲撃せよと命じているので
大砲は保有していた
0230人間七七四年
2011/08/21(日) 16:21:24.59ID:C1H78yUuでも余力があったといっても同じように
開発が進んでいなかった久保田藩ですら
表高との乖離は2倍でしたし、棚田などで頑張った長州藩ですら
3倍がいいところだったのに7倍ってのはどうなんでしょう?
0231人間七七四年
2011/08/21(日) 20:37:40.99ID:BMSBgfr+表高が上がると、一見して幕府はその藩への負担増加を命じることが出来るようになって有利になると思われがちだが、
江戸城における席次とかの格式の変動はしばしば大名間のトラブルになった(A藩が40万石から60万石に増えて、50万石のB藩を越してしまうと、B藩より上の待遇を要求するA藩とそれに不満なB藩がトラぶる)ため、
大名統制上却って不都合が多いと考えられるようになった。
だから、歴史教科書にもしばしば登場する1664年以後表高の引き上げはほとんど行われなくなる。
0232人間七七四年
2011/08/23(火) 02:02:18.59ID:SkdGpncy津軽の石高が飛躍的に上昇したのは、津軽平野北部(岩木川下・中流域)を拓いたのが大きい。
津軽平野北部はへたすれば並みの藩ほどの面積があるけど、戦国期から江戸最初期はほとんど未開地。
そこを限界以上に開発し、胸まで水に浸かるような不適な土地まで、使える土地は全て使う勢いで水田にした。
その結果があの石高。もちろん岩木流域以外の地域の開拓や殖産が進んだってのもあるし、検地が3年かけて念入りに行われたってのもあるかと。
久保田藩について言えば、銀・銅や木材など米以外の移出品があったおかげで
津軽みたいなコメ一辺倒の無茶苦茶な開発はしなかったし(つうか津軽がおかしかった)
銀等の枯渇以降の新田開発が必ずしも上手くいかなかったって事情もある。
0233人間七七四年
2011/08/23(火) 19:33:00.56ID:bgcvNuHW変な意味ではないのですが、あの時代の入浴はどういう概念だったのかと思って
0234人間七七四年
2011/08/23(火) 22:09:02.55ID:Q2Js0ELz偉い人は体を洗う係の人がいます。奥方とは入りません。
裸になるのはハシタナイので浴衣を着たまま入ります。
あれ、江戸時代はそうなんだけど戦国時代はどうかな。
0235人間七七四年
2011/08/23(火) 22:11:38.93ID:1s6zHRya0236人間七七四年
2011/08/24(水) 02:50:03.56ID:WQhwvaBR特に鎧を着たとき。
合戦中でなくとも鎧は着ないといけない時があると思うんですが・・。
ひょっとして某三河武士さんのような垂れ流し?
0237人間七七四年
2011/08/24(水) 02:59:41.04ID:qUytTXflよっぽど切羽詰まって無い限り漏らす心配は無い
0238人間七七四年
2011/08/24(水) 09:19:29.92ID:OL5NEIqw0239人間七七四年
2011/08/24(水) 11:20:20.73ID:NQCPxybx合わせ目をずらせば小も大も余裕
0240人間七七四年
2011/08/24(水) 11:56:02.16ID:kudEFQLYチンコ部分に穴を開けておき
どっかの先住民みたいにペニスケースをつけるんだ。
んで戦闘中に小便を発射して敵に先制攻撃をry
ここまで書いていて自分のあほらしさがいやになる
0241人間七七四年
2011/08/24(水) 12:44:34.77ID:8onPI8rEえらくなるとさすがに褌一丁でウロウロできないからね。
0242人間七七四年
2011/08/24(水) 13:24:30.23ID:J63ovrss館は大抵、応接間である会所と、生活スペースに分かれていますが、
政治は何処でやっていたのでしょうか?
会所や他の生活スペースじゃない殿舎に、会議室や書斎、各部署の部屋なんかがあったという理解でいいんでしょうか?
また、大名の館についていい本があったら教えて下さい。
0243人間七七四年
2011/08/24(水) 13:41:30.80ID:eG/ZbfIq室町時代であれば守護所は常御殿・主殿・会所の3つに分かれており、公的な事は主殿か会所で行われた。常御殿は
君主の私的空間。
> また、大名の館についていい本
吉川弘文館『史跡で読む日本の歴史7 戦国の時代』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b37974.html
0245人間七七四年
2011/08/24(水) 17:01:21.72ID:NQCPxybxだがな、雑賀の山口兄弟ってのが居てな
弟は武士らしく完全武装なんだが、
アニキは褌一丁に兜だけという素晴らしい格好で大坂夏の陣を戦ったそうなw
なんで兜だけはしていたかというと、討ち取られて首だけになったら武士として扱ってくれるからとか
0246人間七七四年
2011/08/24(水) 19:58:06.22ID:ss8fOGdH籠城戦ともなれば城の外も内もウンコだらけだろうな。
0247人間七七四年
2011/08/24(水) 20:08:02.96ID:3LEPh/kCあと、熱々の粥をぶっかけるとか 長期籠城でなけりゃ最強の武器だなあ
0248人間七七四年
2011/08/24(水) 20:16:56.73ID:kudEFQLY0249人間七七四年
2011/08/24(水) 20:26:42.01ID:3LEPh/kC0250人間七七四年
2011/08/24(水) 20:32:27.14ID:Ox1Fi84b0251人間七七四年
2011/08/24(水) 20:36:34.51ID:3LEPh/kC0252人間七七四年
2011/08/25(木) 00:31:09.73ID:JdOUxvTc大抵の人間はそれで下痢起こすからな。
0253人間七七四年
2011/08/25(木) 14:58:18.44ID:7ADDfEbw0254人間七七四年
2011/08/27(土) 17:12:42.21ID:2IniNcDS独眼竜など
竜と称した、称された武将は他に居ないでしょうか?
0255人間七七四年
2011/08/27(土) 17:15:39.01ID:pu00VaDj0256人間七七四年
2011/08/27(土) 22:20:29.85ID:Xdfa75ks0257人間七七四年
2011/08/27(土) 23:14:02.18ID:vioMhoaW0258人間七七四年
2011/08/28(日) 01:19:18.24ID:H0jY4/bA確かに息子達は癇癪持ちが多かったけど
本人はあまりそういうエピソードを聞かない。
実際のところはどうだったんすか?
0259人間七七四年
2011/08/28(日) 01:27:45.09ID:b849g2Fj短気になったら、作左がそれ以上に怒るけど
0262人間七七四年
2011/08/28(日) 11:09:37.45ID:+uY8046W浜松城で信玄を待ち構えてたらスルーされて、カッとなって釣り出されたから三方原で大敗北した。
「糞では無い、味噌じゃ!!」のエピソードの時の事だ。
0263人間七七四年
2011/08/28(日) 11:42:03.64ID:U8MvTJZP生簀をぶっ壊された時だったか、
ブチギレて奥に引っ込んだと思ったら、しばらくしたら出てきて
「お前の言うことは最もだから今後は改める」とかいう人だからな
生来は短気だろうが、意志の力で押さえ込める人
偉大なる凡人
0264人間七七四年
2011/08/28(日) 20:21:40.41ID:6/kYsAG90265人間七七四年
2011/08/28(日) 22:08:53.55ID:4GldpCZq0266人間七七四年
2011/08/29(月) 00:36:55.68ID:G7S70noy養女にした時点で実子とほとんど変わらない存在になるの?
0267人間七七四年
2011/08/29(月) 11:16:58.31ID:xy074avBあと、婚姻の目的は、要は家同士のつながりの問題。
嫁を介して嫁ぐ家の人間も大勢婚家に入ってくるのだ。
あまり個人の問題として捉えないほうがいい。
0270人間七七四年
2011/08/30(火) 14:39:05.78ID:gmlT74c8小田原が先に降服したのでうやむやになっただけで勝ったわけではない。
なんで甲斐姫が石田三成を倒したみたいな話になっているのでしょうか?
0271人間七七四年
2011/08/30(火) 14:41:24.53ID:40JhRlc70272人間七七四年
2011/08/30(火) 14:41:41.53ID:gmlT74c80273人間七七四年
2011/08/30(火) 14:55:50.51ID:ZstUeY06成田さんがうるせーなーと思いながらも放っておいて、黙々と籠城頑張ってるな
0274人間七七四年
2011/08/30(火) 14:57:41.65ID:tHRXCUMQその点に置いて決定的なボロ負けである。
0275人間七七四年
2011/08/30(火) 15:26:08.42ID:BfDmu/lj0276人間七七四年
2011/08/30(火) 18:53:53.18ID:5nDUwzTF0277人間七七四年
2011/08/30(火) 20:39:24.22ID:bRAQlOsb関白になれば豊臣を攻撃したら朝敵になるので徳川も手が出せないってあったんですが・・・
0278人間七七四年
2011/08/30(火) 20:47:44.44ID:ZstUeY06秀吉が武家関白制で豊臣家世襲にしちゃったのを
関ヶ原以降、徳川が関白権を朝廷に返したんだからなあ
また朝廷が豊臣にやるってのもどうだろう
五摂家にとっちゃ、関白権が戻ってきたのは喜ばしいことだし、二度とこんなことがないようにと
むしろ渡さない方向に行くと思うんだけど
朝廷がそこまで豊臣護る理由はないと思うんだが
0279人間七七四年
2011/08/30(火) 20:48:11.93ID:o7d314sJ関白に任命すると言っても、それはいつの段階なのか、また「朝廷」とは具体的に誰のことなのか、
関ヶ原後豊臣から関白職を取り戻した五摂家がそれに同調するとは全く思えん。
あと朝敵と言っても、武家政権というものはたとえ天皇上皇であっても「謀反」があれば討伐するもの。
それに関しては前例もある。ましてや関白など、意にも介さないだろう。
というかそれなんて雑誌だ?
0280人間七七四年
2011/08/30(火) 20:55:22.70ID:ZstUeY06鎌倉幕府を倒そうとして返り討ちにあって流罪だもの
天皇すらこうなんだから、一関白じゃあ恐れるべきでもないんだろうね
0281人間七七四年
2011/08/30(火) 21:11:08.24ID:bRAQlOsb歴史街道の9月号だったと思います
大坂の陣特集で義演準后日記に関白職にする気だったってあったんですが
あんまり信憑性ないんですかね・・・?
0283人間七七四年
2011/08/30(火) 21:30:36.08ID:ZstUeY06公家さんの日記は「聞いた話なんだけど、これこれこういうことがあったそうな」って言うのが多いし
0284人間七七四年
2011/08/30(火) 22:30:57.70ID:gmlT74c8地方の守護代ですら官位なんてクソ食らえだったのに
武家最大の実力者である家康にどれほど効果があったことやら。
0285人間七七四年
2011/08/31(水) 00:17:56.73ID:/1lOqFyt義演のほかにも、毛利輝元が国許に秀頼関白就任が近いらしいと報じていたり、
承兌が秀頼のもとに勅使が派遣された=関白就任か?と推測しているとのこと。
摂家(関ヶ原合戦後に関白となった九条兼孝の兄弟)出身の義演からして
「秀頼卿関白宣下之事、仰せ出さると云々、珍重々々」と書き記しているあたり、
当時の人々が慶長七〜八年頃にはかなり現実味のある話として秀頼関白就任の
可能性を認識してたんじゃないかな。
確かに武家関白制はここで崩壊するんだけど、秀頼のもとへは大坂の陣直前まで歳首を
賀する勅使が派遣されていたし、秀頼の家臣団が幕府を介さずに叙任されるなど、朝廷と
豊臣家との関係は良好に推移していたので、可能性のひとつとしてはありえたんじゃないか?
(もちろん年を経るごとに豊臣氏には不利になっていく状況ではあったが)
秀頼の立場については、徳川氏や諸大名、朝廷との関係など時期によってもかなり評価が変わってくるし、
一概には中々言いがたいとは思うけどね。
0287人間七七四年
2011/08/31(水) 15:25:36.03ID:zCy8ZROv後々、禁中並公家諸法度で、関白を選ぶのは将軍になる辺り
そういうのを危惧したのかと思っちゃうな
0288人間七七四年
2011/08/31(水) 23:56:57.35ID:WizKcHtF意外なことに最も容易に手に入れられる炭水化物である
ドングリの記述ってあまりないですよね?
もしかして忌避されていたのですか?
0290人間七七四年
2011/09/01(木) 00:35:10.83ID:CQsAp1Ya0291人間七七四年
2011/09/01(木) 01:13:43.50ID:6aZ2QESu0292人間七七四年
2011/09/01(木) 01:16:52.55ID:euntdNLg飢饉のときでもない限り食いたくない
0293人間七七四年
2011/09/01(木) 01:32:20.19ID:4xp8mB1D栗は兵士の携帯食にされたり、出陣の儀式に使われたりで目にするが
ドングリはみないっちゃみないな。やっぱりまずいからかな
0294人間七七四年
2011/09/01(木) 02:55:50.48ID:qr5v5ug2飢饉でもない限り食べないわな
0296人間七七四年
2011/09/01(木) 08:14:22.35ID:G6S1oyG10297人間七七四年
2011/09/01(木) 23:47:02.16ID:Ma+bjslp0298人間七七四年
2011/09/01(木) 23:53:40.26ID:4xp8mB1D夫を無くした母子が勝手に食っちまったので
村で相談して殺したちゅう記録があるとは、さっき読んだ本にあった。
0299人間七七四年
2011/09/02(金) 00:07:25.84ID:DmRk64gg0300人間七七四年
2011/09/02(金) 00:17:49.02ID:/tsr3TT+公家さんの奥さんは夫のことなんて呼んでたんだろう
0303人間七七四年
2011/09/03(土) 15:40:36.70ID:A4GFxQhYホントか知らんが。
0304人間七七四年
2011/09/03(土) 17:40:06.48ID:akHi88yC0305人間七七四年
2011/09/03(土) 20:18:46.72ID:bR1O3CSBそもそも縄文時代の味付けは判らん。
0306人間七七四年
2011/09/04(日) 07:18:17.80ID:S4apyYjm0307人間七七四年
2011/09/05(月) 11:27:40.04ID:2JZmdfBV滅亡した大名家の借金ってどうなっていたんでしょうか?
0308人間七七四年
2011/09/05(月) 16:07:40.36ID:njnPOJIw0309人間七七四年
2011/09/05(月) 16:52:42.85ID:oZme1fzC殿様が「借金返すのやーめた」て言ってもパーだし
商人も大変です
0310人間七七四年
2011/09/05(月) 17:35:18.75ID:2JZmdfBVそれなら傾いた家には金を貸せませんね。
大名の方も野戦などで大きく負けて信用不安になると再起を計ろうとしても
資金調達ができないので弱り目に祟り目。やはり信用第一ですね。
0311名無しさん@12周年
2011/09/05(月) 17:47:58.98ID:m84arMM+0312人間七七四年
2011/09/05(月) 18:13:54.10ID:2JZmdfBV0313人間七七四年
2011/09/05(月) 21:19:00.74ID:mrtimebo0314人間七七四年
2011/09/06(火) 04:17:54.02ID:3AGZ5d7J0315人間七七四年
2011/09/06(火) 10:23:50.29ID:xd+iknxR0316人間七七四年
2011/09/06(火) 12:29:02.85ID:LKFpRDpw0317人間七七四年
2011/09/06(火) 13:37:35.92ID:1cRdTjSe0318人間七七四年
2011/09/09(金) 17:59:27.29ID:4L0oEspe大内義隆とホモ関係になった隆元はいつの間にか安芸へ帰国しています。
そして毛利元就は大寧寺の変で陶晴賢に同調したものの、後に離反して厳島の戦いになるわけですが
その間、大内には人質を送っていなかったのでしょうか?
0319人間七七四年
2011/09/11(日) 23:10:41.00ID:Nm5zd+ft0320人間七七四年
2011/09/12(月) 00:36:23.73ID:TtmrQvAh後に嫁として大内義隆の養女(厳密には内藤興盛の実娘)を娶り婚姻関係もできてるね。
毛利側からその後も別の人質を出していたかどうかはわからん。
肉体関係を考慮すると陶晴賢と毛利隆元も穴兄弟。穴兄弟は義兄弟みたいなもんだから人質なんて野暮だよな。
0321人間七七四年
2011/09/12(月) 01:14:45.11ID:0u5vznczttp://www.kitahachi.com/diary/img/b2poster.jpg
●模擬合戦:甲冑を着て戦を体感!
●落ち武者狩り:街中で行う鬼ごっこ
●アニソンショー
●コスプレ撮影会
●萌えキャラ商品
参加者を募ってるでござる
0322人間七七四年
2011/09/12(月) 01:42:16.35ID:1SIU/0Ug姫や侍女はどうしているんだろうか
0323人間七七四年
2011/09/12(月) 01:43:56.31ID:ORTb75nW0324人間七七四年
2011/09/12(月) 01:48:50.51ID:1SIU/0Ug0325人間七七四年
2011/09/12(月) 01:52:02.88ID:Bttpa0/G0326人間七七四年
2011/09/12(月) 01:52:56.77ID:1SIU/0Ugという感じでしょうか
0327人間七七四年
2011/09/12(月) 02:12:53.49ID:z/EZ5cgl落城の場合も、監察が来る前に金目のものをかき集めるのに忙しく女をかまってる暇はないと思う
0329人間七七四年
2011/09/12(月) 14:34:09.69ID:a1/Lx+88降伏勧告や開城交渉をしているのならば、
当然籠城側の安全保障も条件に含まれてるから大丈夫
力攻めにしたって、人質たる奥方や姫の身の世話をする人は必要だし、
侍女は侍女でそのままだと思うぞ
0330人間七七四年
2011/09/12(月) 16:54:45.81ID:4yZ/5bmI逃がせられない時は自決する
身分の低い女らは自力で逃げるしかないから雑兵の餌食になる
だから家によっては家族が殺してしまう事もあったようだ
0331名無しさん@12周年
2011/09/12(月) 16:59:36.13ID:Lb6RnHsZ0333人間七七四年
2011/09/13(火) 01:09:53.24ID:v0ZnwD/G0334人間七七四年
2011/09/13(火) 23:46:10.35ID:dleuj1d5実際に骨が出てきて大騒ぎになったうちの地元。
0335人間七七四年
2011/09/14(水) 00:27:34.50ID:HIXkIEG60337人間七七四年
2011/09/14(水) 11:38:55.06ID:6B35RWbI戦国時代の発端の要因の一つなのに
「西の応仁、東の享徳」という風に同列扱いされないのはなぜですか?
0338人間七七四年
2011/09/14(水) 11:57:21.20ID:0SOlKv5h18歳ぐらいの若さで北信濃12万石に合わせて越後の大部分63万石をあわせて
実に75万石ももらってますよね?いくらなんでも貰いすぎじゃないですか?
なんかウラがあるんでしょうか教えて下さい
0341人間七七四年
2011/09/14(水) 13:17:15.70ID:XV/KFg4o家康の息子はどれもこれも官位高いから、官位にふさわしい扱いだったとかは?
0342人間七七四年
2011/09/14(水) 13:44:13.67ID:Nq22haQq0343人間七七四年
2011/09/14(水) 14:04:30.27ID:xLjmcO/l裏があるのかという質問に沿った方向で回答してみた。
>>341
官位は従五位下 上総介または従四位下 左近衛権少将。叙任の時期は判らん。
越後を加増されたのが慶長15年(1610)。その頃の他の兄弟はこうなってる。
2男の結城秀康は越前67万石を貰い下総結城郡と合わせて75万石。官位は従三位 権中納言だが既に
死んでる。嫡子の忠直が相続した。
4男の松平忠吉は尾張清洲52万石、従三位 左近衛中将・薩摩守だが既に死んでる。弟の9男徳川義直が
後を継いで尾張藩になる。
5男の武田信吉は甲州武田氏の名跡を継いで常陸国水戸25万石。官位は不明。既に死んでる。
7男の松平松千代は既に死んでる。長沢松平家を継ぎ、深谷藩主だったが兄の忠輝が後を継いだ。
8男の松平仙千代は重臣平岩親吉の養子となったが既に死んでる。
10男の徳川頼房は紀州藩祖だがこの頃は駿河駿府藩50万石、従四位下常陸介らしい。
11男の徳川頼房は水戸25万石、従四位下左衛門督。
0344人間七七四年
2011/09/14(水) 14:23:36.22ID:0SOlKv5h>>340
>>341
>>342
>>343
お返事ありがとうございます!
徳川兄弟を並べてよく見るとそんなに突出したあつかいでもなかったでしょうか
やはり天下人の息子だからこれぐらいはもらっても罰は当たらないってことですかね
よくわかりました ありがとうございました
0345人間七七四年
2011/09/14(水) 14:50:44.18ID:xLjmcO/l結城秀康と松平忠吉は関ヶ原の功績を評価されての事だから、
それ無しでの63万石加増はやっぱり大きい。尾張藩の表高が62万石、
紀州藩が55万5,000石だからね。
0346人間七七四年
2011/09/15(木) 06:12:06.07ID:jkGVRAM7これは江戸時代の大名と旗本などと並列しますが…馬廻りや旗本の方が大名より石高が少なくとも優遇はされていたんでしょうか?
外様だとしても城持ちの大名の方が物理的に優遇されてる気がしてならないのですが。
0347人間七七四年
2011/09/15(木) 10:24:14.37ID:YsrB+xbC物理的に優遇、とはいったい何を指すのか
この辺ちゃんと書かないと答えようが無いんじゃない?
0348人間七七四年
2011/09/15(木) 11:55:05.57ID:dluxoLWn0349人間七七四年
2011/09/15(木) 19:10:23.98ID:jkGVRAM7口が足りなくてすみません。
大名:信長
馬廻り:赤母布衆、黒母布衆
大名:秀吉
馬廻り:黄母布衆
などです。
0350人間七七四年
2011/09/15(木) 20:05:05.24ID:H8D0IDTH????
信長(大名)と前田利家(母衣衆)の待遇を比べるってこと?
利家の待遇を決めるのが信長だろ。
待遇を決める人と待遇を受ける人を天秤にかけて、
どちらが待遇がよかったのでしょうか?って、そんなアホな質問があるかよ。
羽柴秀吉(大名・長浜城主)と前田利家(母衣衆)のうち、
どっちが信長からよい待遇を受けてたかっていうのならわかるが。
0351人間七七四年
2011/09/15(木) 20:05:49.94ID:DJACFEZXwww
質問したいわけじゃないだろ?
元ネタを想像すると、
徳川時代の千石取りの大身旗本は1〜2万石程度の大名よりは裕福だったという世間話から
戦時下の馬廻りと大名の比較をしたいみたいだが、
戦時下なら、他国の奴が正確な石高なんて知る由もなく
ましてや大名の馬廻り程度の俸禄が本当のところ幾らなんて知る由もなし。
0352人間七七四年
2011/09/20(火) 21:07:11.16ID:wB7/x9eDヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
| | (・)。(・)| 服部半蔵って忍者だったの?
| |@_,.--、_,>
ヽヽ___ノ
0354人間七七四年
2011/09/20(火) 23:50:02.89ID:Jj7i2vbX織田信雄は伊賀衆は魔物だとか言ってたようですし
0357人間七七四年
2011/09/21(水) 04:06:13.22ID:COhcwgNe眼鏡を持っていた武将はどのくらいいたのでしょう。
0358人間七七四年
2011/09/21(水) 05:24:01.57ID:hKvUpGeU日本では製造できなかったから大名クラスや大身の武将に限られてたんじゃね
0359人間七七四年
2011/09/21(水) 15:29:01.81ID:zJ62T9Jt. 、___________
、> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | | ____________
| / ヽ/ ヽ | | /
. | | ・ | ・ | V⌒i | ケムマキは肝付家の
_ |.\ 人__ノ 6 | <
\ ̄ ○ / | お抱え忍者だぞ
. \ 厂 \
/ _____/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
0360人間七七四年
2011/09/21(水) 23:55:21.42ID:FFnOWAUA基本ゲリラ戦術。
大軍相手にはベトコン戦法。バンジステークやスパイクボールといった
戦術で大軍を相手取っていたと思われ。
0361人間七七四年
2011/09/22(木) 00:38:41.85ID:DlNWIy+R0362人間七七四年
2011/09/22(木) 01:40:43.98ID:lRk50TRFちょっと古いけど大和永享の乱の越智維通(1435討たれる)の戦い方だと
幕府の討伐軍来る(10月15日)→城を自焼して南部山間部に撤退
→討伐軍勝利宣言して都に凱旋→幕府軍の屯営を夜襲して壊滅(12月29日)
…みたいな戦い方してる、伊賀の乱もこんな感じじゃないかな
0365人間七七四年
2011/09/22(木) 08:57:00.66ID:BBBKz9+p島原の乱くらいの忍者は史料も多いしなんといっても千葉ちゃん影の軍団よか派手ww(汗
0366人間七七四年
2011/09/23(金) 00:08:23.49ID:qxT8YrZj少しに斜めに立てられて突っ張り棒があって、そのうしろに兵が隠れたりして
あれって名前あるんですか?
それともただの矢避けの板とか呼んでたんですか?
0368人間七七四年
2011/09/23(金) 00:14:51.23ID:qxT8YrZjまぁ日本には西洋みたいな盾なんてありませんし、日本の盾は設置型があたりまえだったのかも
再度質問ですがじゃあ唯一手に持つ盾と言えそうな、火縄銃を防ぐのに使った
竹を沢山束ねた物を持って移動したりしてるのを戦国漫画やドラマで
見るんですが、あれも盾ですか? 竹盾とか火縄避けとか別の名前ありましたか?
0369人間七七四年
2011/09/23(金) 00:17:45.34ID:4FmrEjlZ携帯用には「手盾」というものがあった。鉄砲に対処するため鉄板が貼られたりしてた。
竹を束ねたものはそのまま「竹束」と呼んだ。
0370人間七七四年
2011/09/23(金) 00:19:36.46ID:qxT8YrZj0371人間七七四年
2011/09/23(金) 01:35:30.03ID:Z6jSFUkIあの場所は稲があるからと避けてと、お互いの武将が戦地を決めて争う方が、米の収穫と経済は安定ですよね。
田畑を荒らして、誰が得?が質問の肝です。
0372人間七七四年
2011/09/23(金) 01:46:16.97ID:4FmrEjlZ> 非武装・民間人である農村農民
ここが既に根本的な間違い。農民はみんな武装していたし、「村」とは自治自衛の軍事組織である。
0374人間七七四年
2011/09/23(金) 01:50:17.38ID:obp8ehvr基本的に民間人に何の意味も無いし、非武装の農村など有りません。
武将の立場からすれば自分の領地でない所の米がどうなろうと知った事では有りません。
余所の田畑から刈り取ってくれば自分らの得です。
0378人間七七四年
2011/09/23(金) 02:13:03.62ID:Z6jSFUkI農村のイメージを改めた上での質問です。
百姓一揆は悲惨なイメージだったんですが、それだけ武具を備えていたのなら、領主と五分に渡る権力抗争と考えて良いのですか?
0379人間七七四年
2011/09/23(金) 02:18:34.09ID:4FmrEjlZそもそも惣村が領主権力と対立する勢力だと考えるのは間違い。
戦国大名権力を構成する一員が惣村だった。
0380人間七七四年
2011/09/23(金) 02:20:47.84ID:obp8ehvr戦国時代はそうです。名主に当たる有力農民と下級武士の区別はハッキリしたものでは有りません。
秀吉の刀狩りの時に農村の武器は取り上げられ、武士と農民の区別を明確化した、という事になってます。
実際にはそんなに徹底したものでは無かったような話も有り、よく判りませんが。
0382人間七七四年
2011/09/23(金) 11:05:37.85ID:6PeMQmkZ「息子を人質に差し出した弱い松平の当主」という雰囲気で語られています。
いくら先代から家を傾かせて今川の庇護下に入ったとはいえあまりに評価が低くないでしょうか?
織田らの侵攻も退けた勢力だし、
西三河だけでも石高では北東北の雄である津軽氏と比較しても勝っています。
相対的に激戦区だったから評価が低いだけで
絶対評価なら東北の大名勢には全く引けをとらない立派な勢力だとおもいます。
0383人間七七四年
2011/09/23(金) 11:40:37.90ID:tmW8Gn+7彼の場合は一代で三河を統一した清康と、江戸幕府を打ち立てた家康の間に挟まれた故の悲劇と言えます
0384人間七七四年
2011/09/23(金) 13:18:49.79ID:alkcyFKp「刀狩り」は武器を取り上げるのではなく身分的差異の可視化、つまり百姓身分の武器『携帯』の禁止
(保持自体ではなくあくまで携帯)が主眼だったと現在では考えられている。
その証拠に関ヶ原の時東寺領に木材の伐採に来た石田軍が、「武装した」百姓たちに追い払われている。
江戸初期でも、槍や弓どころか鉄砲まで揃えた村同士の紛争が記録されているし、そこから見ても
刀狩りは武器の排除が目的ではないし、そんな事は不可能だった。
おそらく刀狩りと豊臣身分法令はセットで、その目的も上からの支配の強要と言うより、村にありながら
武家被官として存在し、村の自治や権力構造を脅かす在村給人の排除があったと言われている。
つまり下からの要請があったということやね。
0385Q之助
2011/09/23(金) 14:02:00.88ID:Z6jSFUkI農村の質問者です。このスレは本当、勉強になりますね。
今後はQ之助として質問しますので、こんな基本的なことを…と笑ってやって下さい。
0386Q之助
2011/09/23(金) 14:12:37.49ID:Z6jSFUkI0387人間七七四年
2011/09/23(金) 14:14:30.87ID:H4EkceW/0388人間七七四年
2011/09/23(金) 17:34:55.08ID:cPVlTb2H0389人間七七四年
2011/09/23(金) 19:24:56.91ID:kfsFLG3z0390人間七七四年
2011/09/23(金) 19:40:36.88ID:rbNTb0ux武闘派とか文治派って小説の話だぞww
明智とか石田のクラスで武功で名を上げてないなんてありえない話
天下分け目の合戦の片方の主役をなんだと思って(ry
0391人間七七四年
2011/09/24(土) 01:07:47.65ID:iUNFe5cv0392人間七七四年
2011/09/25(日) 10:15:50.32ID:KpYhmCMY村上武吉の末裔は未だにその周防大島に在住しており
村上武吉の墓も周防大島にある。
明治以降に村上姓に便乗した可能性もあるけど本当に末裔の可能性も高いかと。
0393人間七七四年
2011/10/04(火) 00:09:45.23ID:4rQRUTn0蜂屋、金森の二人はこの頃から重要されていたのでしょうか?
0394人間七七四年
2011/10/04(火) 00:37:51.06ID:Vca+8Ae60395人間七七四年
2011/10/05(水) 02:01:50.39ID:HxwQFb0c大名によって色々違いそうですが……
詳しく紹介している本があれば教えてください。
0396人間七七四年
2011/10/05(水) 10:46:17.05ID:BQFh/pAN昔の人ってもの好きだったんだなw
とっとと降参して楽になりゃいいじゃねえか
0397人間七七四年
2011/10/05(水) 10:50:39.90ID:vCQvQ9L4生きるために戦ってるんだよ
0398人間七七四年
2011/10/05(水) 13:19:00.93ID:qOA1cRGoこれって本当なのでしょうか?
本田宗一郎がこの噂を受けて徳川家康を嫌っていたというエピソードもどこかで見ました。
詳しく紹介している書籍などあれば御教え頂きたいです。
0399人間七七四年
2011/10/05(水) 14:43:18.44ID:EKoMT8uD天下普請で外様大大名総動員で作った城の
末端大工殺して意味あるのか常識で考えてみよう
0400人間七七四年
2011/10/05(水) 14:50:33.99ID:fr86DeD6その時点でその噂を流した奴は無知ってのがわかるくらいの嘘。
築城・改修の工程を勉強しなおせって言っといて。
0401人間七七四年
2011/10/05(水) 15:14:04.55ID:yydEK/k4江戸城は家康の関東入府から何次にもわたって改築改修が繰り返された。
そのたびに大工殺すのか?って話w
0402人間七七四年
2011/10/05(水) 17:38:13.74ID:9VUXr1z3それが江戸城にもつけられたってだけでしょうね
0403人間七七四年
2011/10/05(水) 19:41:48.73ID:biUvn4kjくらいの嘘をつけよ
0404人間七七四年
2011/10/05(水) 20:15:38.82ID:YA5IzgGV徳川家康は城を建てるたびにかわいい幼女をいっぱい人柱として埋めてたって
いってめちゃくちゃ非難してましたよ
0405人間七七四年
2011/10/05(水) 20:33:38.65ID:vCQvQ9L40406人間七七四年
2011/10/05(水) 22:41:47.16ID:DNVD/nel0407人間七七四年
2011/10/05(水) 22:52:13.04ID:bfAkXqtW0409人間七七四年
2011/10/06(木) 12:12:29.79ID:x8l5XZv4現場の監督監修するのも武士であり、大工がやるのは作事
秘密の抜け穴とかならともかく、一大公共事業である城作りの
作事しかしない大工を皆殺しにしても無意味な上に
有益な技能職人である大工を大量に殺すのは損害でしかない。
0410人間七七四年
2011/10/06(木) 12:54:18.58ID:W0Huwsqj広範な軍役がかけられて作事に動員された。
0411人間七七四年
2011/10/06(木) 14:51:21.05ID:HSo2eGujそこが違う
作事のうち、土木工事は領民の仕事
江戸城クラスなら大工がもちろん入るけど、中世城郭だと領民が全てやって大工が入らないなんてこともザラ
だから大工だけを殺しても意味が無く、
殺すなら、江戸城の場合だと述べ何万人の自分の民を殺し尽くさねばならない
0412人間七七四年
2011/10/06(木) 14:54:05.73ID:sMnvK8lo0413人間七七四年
2011/10/06(木) 15:48:29.19ID:x8l5XZv4広義の普請のうち、建築が作事で、土木が狭義の普請というなら分かるが
作事に土木が含まれるってどういうこと?
0414人間七七四年
2011/10/06(木) 19:15:17.79ID:QI2r+2U/事故死した作業員を埋めただけでしょ。
0416人間七七四年
2011/10/06(木) 22:49:36.75ID:K/Xbl5EYそこに埋葬されていた人骨が出てきただけじゃね?
0417人間七七四年
2011/10/07(金) 00:26:47.10ID:X42R2b/f日本の騎士は戦う時は馬から降りるって書いてあったそうです。
武田の騎馬隊などは有名だけど歩兵戦が支流だったんでしょうか?
あと鉄砲隊は射撃はうまいが動きが非常に鈍いとも言ってたそうです。
0418人間七七四年
2011/10/07(金) 01:33:40.25ID:+vlfRV/D簡潔に書いてあるから直訳すればそんな感じだけど意訳するならば
我らの騎士は(下馬を恥辱と考えるのでいつも)馬上で戦う。
日本の武士は(防衛戦など下馬が有利な)戦闘時は(徒歩になることを厭わず)
下馬して戦う、なぜならば(昔からそうやっているので気にしない言わば)習慣だから。
という感じで完全否定しているわけでもない
0419人間七七四年
2011/10/07(金) 17:16:23.37ID:wU2z9yss0420人間七七四年
2011/10/07(金) 17:30:39.99ID:BBdjlda10421人間七七四年
2011/10/07(金) 18:30:43.73ID:dJXJ1ux4前田利家、加藤清正は槍で有名、雑賀孫一は銃で有名、武蔵や小次郎や新撰組は剣で有名
そうじゃなくて本当に剣も槍も弓もなんでもできて武芸十八般右に出るモノ無しみたいな
0422人間七七四年
2011/10/07(金) 18:33:40.29ID:BBdjlda10424人間七七四年
2011/10/07(金) 18:46:25.44ID:dJXJ1ux4知ってますけど剣や槍もできたんですか?
家康は完全に初耳です、あの人そんな武芸達者なんですか?
正直健康マニアの策略家としか思ってませんでした。
0425人間七七四年
2011/10/07(金) 18:49:27.16ID:7xbDpYH10426人間七七四年
2011/10/07(金) 18:49:53.45ID:MtmHJ/QG家康のwikiより
0427人間七七四年
2011/10/07(金) 19:42:34.30ID:+vlfRV/D実戦はというと弓の腕前は信長公記で賞賛されてたりする
0428人間七七四年
2011/10/07(金) 21:42:16.97ID:MtmHJ/QG太ってたってのも、力士のようにほとんど筋肉だったというからな
0430人間七七四年
2011/10/07(金) 22:19:37.14ID:MtmHJ/QG0431人間七七四年
2011/10/07(金) 22:31:12.87ID:AVw9fuY6(___)
| |〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜
0432人間七七四年
2011/10/07(金) 23:43:38.43ID:oiuYE2hb松本政信や塚原高幹はほとんどの武器が使えたようだ
それぞれが流派として残っている
元々は飯篠家直が完成させたそうだか、家直を武将と言っていいのかは分からん
0433人間七七四年
2011/10/08(土) 07:32:06.55ID:NwBpuUvHただ、周辺豪族からは一目置かれていたようだ
0434人間七七四年
2011/10/10(月) 00:23:21.73ID:29Z2QS9h0436人間七七四年
2011/10/11(火) 19:41:45.44ID:b16Ak0VHそのノウハウは豊臣政権がゲットしてたんじゃないか?
0438人間七七四年
2011/10/11(火) 23:17:34.09ID:ioS59G9O0439人間七七四年
2011/10/12(水) 04:46:10.20ID:+TH718fO毛利家家臣、国司元相についてなのですが
「槍の鈴の免許を与えられた」らしいんですが、これってどういう意味ですか?
「槍の鈴」っていう武器の使用許可?それともなんかの技や流派?
もしくは槍に鈴を付けることを認められたってこと?
分かる方は教えてください。
0440人間七七四年
2011/10/12(水) 10:45:03.32ID:W1fJxaI+槍に鈴をつけることの許可。
>>437
>>438
家康は小田原陣の段階で大筒部隊使ってるな。本多忠勝に率いさせて。
0441人間七七四年
2011/10/12(水) 10:50:51.37ID:HjMxor4Fありゃ軍記物の話
史実ではない
0442人間七七四年
2011/10/12(水) 11:13:37.96ID:W1fJxaI+軍記じゃないぞ?「新編武蔵風土記稿」だ。昌平坂学問所地理局によって実地調査された
綿密な学術書だぞ?
というか忠勝が鉢形城攻めで大筒を使用したことを否定した話は聞いたことがないが?
それは何処の誰が言ってたんだ?
0443人間七七四年
2011/10/12(水) 12:29:21.35ID:iAmcWc3I時代的にフランキ砲だと思うがすでに国産化してるので国産の可能性が高い
通常の軍備としてはフランキ砲5門は20万石には不釣合いだが、
関ヶ原後に摂取された佐和山城の金蔵は空だったと言う逸話があるように
この一戦に全てを賭けていたのなら揃えられも不思議ではない。
0445人間七七四年
2011/10/12(水) 17:24:20.63ID:o41V0kha0446人間七七四年
2011/10/12(水) 19:51:53.13ID:TTNUncco三成の大砲は戦後没収されて平和になった頃に農耕具にでもなったんでしょうな
大阪の陣の時に城に向けて使用された事があったとしたら実に皮肉です。
0447人間七七四年
2011/10/13(木) 10:43:39.33ID:F7db3KD5三成も鹵獲したか、もしくは豊臣家から下賜されたのではないだろうか
三成の分限と立場を鑑みるに、それが自然に思う
0448人間七七四年
2011/10/14(金) 22:11:13.72ID:8a8aPquF御連枝の今川家がこのような幕府を否定する背信行為を行ったのはかなり大事件だとおもいます。
討伐令とか発令されなかったのでしょうか?
0449人間七七四年
2011/10/15(土) 03:21:29.27ID:snwYC65p幕府の権力などは地方に及ぶものではなかった
全国各地の勢力は幕法などお構い無いに好き放題していたし(そもそも勝手な領地拡大や官位受領などは御法度もいいところ)
今更義元が何かしたところで幕府は相手にしている余裕などない
0450人間七七四年
2011/10/15(土) 09:52:46.05ID:rImv+iET0451人間七七四年
2011/10/16(日) 12:53:56.91ID:1jl+/a2qそれは違うだろ。それだけ国主の権威を強くならないと施行できない
0452人間七七四年
2011/10/16(日) 17:00:19.45ID:WBwSAiUb高台院は積極的に西軍を援助したが
淀殿は控えめだったのは妹のお江に
遠慮したのかと言う説を読んで
目から鱗が落ちる思いがした
某方面からフルボッコされそうな説だがこれ本当?
0453人間七七四年
2011/10/16(日) 17:13:33.96ID:V3Tkw5bE妄想の域だな
0455人間七七四年
2011/10/16(日) 22:41:19.85ID:Hn9jM1Cs書き手も突っ込まれたら困るだろうに
0456人間七七四年
2011/10/16(日) 23:13:02.32ID:vDBIl7Xa家督を継ぐ事が出来ましたけどこれってどうなんでしょう?
結果的に前田家は大大名まで成長しましたが
他の織田家臣から批判などはなかったんでしょうか。
いくら実力主義の時代とはいえ3人も兄達を押し退けさせた信長の対応は
どう考えてもやり過ぎだと思いますが・・・
0457人間七七四年
2011/10/16(日) 23:19:15.88ID:rcpRKC+Q0458人間七七四年
2011/10/17(月) 00:12:33.14ID:6/NtTHghぐらいやっちゃうところだからそれくらいは問題ない
もちろん力関係とどれだけの利益を得られるか天秤にかけての決断だし
0459人間七七四年
2011/10/17(月) 01:22:03.01ID:Sen0xpkc家の相続に介入して自分の都合のいい人物を当主に押し込もうとする
これは中世を通じて下は国人から上は大名までどこでもあったことです
特に上が臣下の家にやる場合は、それによって家来の家を服従させ
君主権力を増大させようという目論見からのもので、室町将軍は
守護大名家に同じことをやっているし、大名はその下にやるしで
で、介入によって排除された側は大人しく従うか、余所の協力を得て
家を割って内乱に突入するか
室町時代のお家騒動は大抵これ それが極まったのが応仁の乱
0460人間七七四年
2011/10/17(月) 11:08:34.48ID:BChysWUAそういった事はどこの大名もやっていたね
弟にすげ替えるぐらいならまだ好意的な方だ
0461人間七七四年
2011/10/18(火) 22:25:07.75ID:q/uRfrkF0462人間七七四年
2011/10/18(火) 22:37:21.89ID:5bBQCIu7真田昌幸も三男だから信玄の命令で武藤氏に養子に入ってるしなぁ。
長兄・次兄が死んだから真田家に戻ったけど。
0463人間七七四年
2011/10/19(水) 00:20:29.37ID:kytWeZ8h0464人間七七四年
2011/10/19(水) 00:38:47.78ID:P4a3WS2y0465人間七七四年
2011/10/19(水) 00:40:16.23ID:AaBeaVVp0466人間七七四年
2011/10/19(水) 00:46:35.48ID:kytWeZ8hこの時代は廃絶寸前の名家って結構あるよ
武藤家の家臣や扶養されてる女子老人からすれば
信玄お墨付きのスーパーエリートが上司、家長になるわけで、大歓迎だろう
0467人間七七四年
2011/10/19(水) 00:48:10.08ID:c/frY2zZ0468人間七七四年
2011/10/19(水) 00:51:55.25ID:AaBeaVVpその割に真田を継いだ後の武藤の家督は安堵されてないらしいが。(wikipediaソースだけど)
0470人間七七四年
2011/10/19(水) 00:56:26.53ID:P4a3WS2y昌幸返還後も適当な人物がいなかったのか60代の大叔父が継いでるし
0471人間七七四年
2011/10/19(水) 01:35:20.61ID:AaBeaVVp自分で
「武藤家の家臣や扶養されてる女子老人からすれば
信玄お墨付きのスーパーエリートが上司、家長になるわけで、大歓迎だろう」
と書いておいて形骸化していたと思われるとはどういう事だ?
0472人間七七四年
2011/10/19(水) 01:38:52.81ID:kytWeZ8hキミが>>465で言うような
昌幸の武藤家継承に文句を言うような奴はすでに武藤家にはいなかったのではないかという話だ
>>470の話もあわせれば、軍役に耐えられる男子はいなかったんだろ
0473人間七七四年
2011/10/19(水) 01:48:17.19ID:kytWeZ8h昌幸が武藤家の所領を持ったまま真田も継いだのではなくて
真田帰還にあたって武藤家の領地は返還したって話だと思うよ
で>>470になるんだろ
0476人間七七四年
2011/10/19(水) 02:28:06.16ID:AaBeaVVpお前さんの言う「武藤家の家臣や扶養されてる女子老人」からすればお先真っ暗だろう。
0477人間七七四年
2011/10/19(水) 02:44:56.15ID:kytWeZ8h武藤家について調べた人がいるようだ
そもそも武藤家は既に断絶していたが、信玄の代に大井氏を入れて復活させた
その子が夭折したので昌幸を入れた、という話だね
すでに名跡だけが残っている状態だったようだ。
いわゆる乗っ取りではないようだよ。
0478人間七七四年
2011/10/19(水) 03:25:42.40ID:AaBeaVVp0479人間七七四年
2011/10/19(水) 11:15:25.48ID:WWX9xAHhあわせてコンドーム藤
0480人間七七四年
2011/10/19(水) 20:05:27.23ID:zrwxfdR6そのまま長く続いたり、一代限りで結局また無くなったりと、こういうのも栄枯盛衰を感じる
お家を維持するって本当に大変なことなんだな
0481人間七七四年
2011/10/19(水) 23:17:23.49ID:w0qg+f8m0482人間七七四年
2011/10/19(水) 23:49:44.76ID:oF9lIl0gそれゆえに下からの圧力で藩主が押し込められたり、全く血縁のない養子が
次々迎えられたりというケースが出てくるんだよね
0483人間七七四年
2011/10/20(木) 00:03:28.05ID:72Gec9Ki星新一の殿様の日を思い出す
仕事は家老が全部やってくれるから、別に殿様って要らないのでは?
でも神輿のない祭りなんてないし 結局殿様は神輿・飾りのようなものなんだな
と淡々と脳内で殿様が言ってた
0484人間七七四年
2011/10/20(木) 00:23:12.75ID:lS/vZICK0485人間七七四年
2011/10/20(木) 01:23:57.30ID:2Qk9YAQk圧力もあるし、藩内人事にも恐ろしく気を使わないといけないし、何より諸事務の決済は
やはり殿様自身がしないといけない。
その上に幕府や藩の儀式儀礼の主催、私的な家としての祭祀などもあり、藩官僚のサポートがあっても
殺人的なスケジュールだった。
暇で時間を持て余している殿様、というのは、実際には殿様ではなく、隠居後の姿ですな。
0486人間七七四年
2011/10/20(木) 15:09:11.02ID:feoBhw4K0487人間七七四年
2011/10/20(木) 19:57:05.24ID:CBTwXWIs0488人間七七四年
2011/10/21(金) 00:13:47.10ID:r7txd6tf大企業や官僚に睨まれないようにしなければならない中小企業の社長みたいなもんで
0489人間七七四年
2011/10/21(金) 00:32:19.66ID:dhbAbzlO喜連川は殿様自ら伊達公をお出迎えするくらいだから結構忙しいんじゃないか。
大藩の支藩だと代官に全部お任せで仕事は無い場合も有る。
0490人間七七四年
2011/10/21(金) 07:14:55.88ID:WlvAoQMTわざわざ江戸まで追いかけてくるくらいだからなw
0491人間七七四年
2011/10/21(金) 09:57:29.66ID:HLT8mDzs0492人間七七四年
2011/10/21(金) 13:41:52.32ID:lGjBBHpz先輩から下人と変わらない扱いをされて、徹底的に殿様根性を叩き直されたのだそうな。
それに江戸中期以降はお勉強しないと家格だけではまともに出世できないから、毎日とにかく大変だったらしい。
0493人間七七四年
2011/10/22(土) 17:03:24.89ID:4FQ5FoZUそれ以前に家康がすでに他界していたら、または野心を持たなかったら、
豊臣公儀は存続できたのでしょうか。
0494人間七七四年
2011/10/22(土) 17:25:51.77ID:lMTZN3Jc0495人間七七四年
2011/10/22(土) 17:30:25.32ID:MInnI0Qd豊臣って何してたっけ?
0496人間七七四年
2011/10/22(土) 18:19:24.90ID:lMTZN3Jc0497人間七七四年
2011/10/22(土) 18:35:08.38ID:vTLLwXIw高台院が宇喜多の戦勝のために祈願したとする記録や孝蔵主一門の動向から実際は西軍を支援していたという説はない訳ではないが、
淀の話に関しては全く聞いたことが無い。
0498人間七七四年
2011/10/22(土) 22:57:23.28ID:KbY6IvKI歴史の本よんでたんですが壇直政っていう人は一時期、秀吉・光秀よりも出世頭で
3カ国守護だったってあったんですがこの人ってあんまり有名でないですよね
0499人間七七四年
2011/10/22(土) 23:34:18.79ID:/fID3Ug80500人間七七四年
2011/10/22(土) 23:46:03.43ID:pN8OVt3b0501人間七七四年
2011/10/23(日) 00:13:10.18ID:zlZStP2Q0502人間七七四年
2011/10/23(日) 18:04:54.26ID:cebuiqP0影薄いのは信長の全盛期前に戦死したからかな
M文庫から出てる織田信長の家臣団って本で詳しく書かれてるから、読んでみるといいかも
0503人間七七四年
2011/10/24(月) 03:00:39.04ID:nL9jXRrK質問というか、武将を取り扱った時代小説でオススメを紹介して下さい。
司馬遼太郎先生のは大体読んでしまったので、それ以外でお願いします!
後、出来れば青空文庫からオススメいただけると嬉しいです(>_<)
ちなみに、青空文庫の阿部一族は読みました!!
よろしくお願いします!
0504人間七七四年
2011/10/24(月) 03:07:09.20ID:khw6fITr阿部一族のような全くのフィクションで良ければ藤沢周平が良いかも。
0505人間七七四年
2011/10/24(月) 03:32:00.94ID:nL9jXRrK宮本武蔵!有名な作品ですよね!!
知名度が高すぎて逆に避けてました(笑)
この機会に読んでみます。
藤沢周平先生は江戸〜ってイメージが強いですね、戦国あるかしら。
フィクションでもノンフィクションでも構いませんよ!
0506人間七七四年
2011/10/24(月) 03:34:25.72ID:khw6fITr時代小説って言うと江戸時代のイメージが……。(俺だけかな)
0507人間七七四年
2011/10/24(月) 03:42:21.40ID:khw6fITr全くのフィクションかと思ったら史実に基づいて脚色してるらしい。
0508人間七七四年
2011/10/24(月) 07:47:17.68ID:36nKeSY3図書館行って隆慶一郎の影武者徳川家康か池波正太郎の真田太平記あたりか
0509人間七七四年
2011/10/24(月) 12:13:10.69ID:tPnACA/Y上の人が言う通り図書館の方がいいと思うよ
吉川英治、山岡荘八、海音寺潮五郎、新田次郎らの大御所あたりからとか
0510人間七七四年
2011/10/24(月) 19:31:08.58ID:36nKeSY3本のがいいよ
0511人間七七四年
2011/10/24(月) 19:39:37.46ID:uAZicEACやはり本が一番 話をまとめて販売されないかな
0512人間七七四年
2011/10/24(月) 21:41:09.43ID:nL9jXRrK言葉が足りなくてすいませんでした。
青空文庫あんまり無いんですね(゚o゚;;
助言下さった通り、図書館いってみます!
滝口康彦先生の小説あるかな〜
0513人間七七四年
2011/10/26(水) 18:50:09.00ID:xsMFpwuL塙の一族が信長によって悲惨な目にあってるから
太田も彼についてほとんど記述してないので
まったく目立たないのよ。
0514人間七七四年
2011/10/27(木) 11:44:51.06ID:UOxMaS6t一門衆が優先だったり年老いた老齢の武将が指名されやすいのでしょうか
又、居留守役は合戦で手柄を挙げられる訳ではないので指名された武将からは不満のようなものは出なかったのでしょうか?
0515人間七七四年
2011/10/27(木) 12:02:11.05ID:OILTKwKAその時その時の状況によるのだから一定の基準なんてない。
まあ基本、攻めこむ場合、その方面に関係の薄い人間が当てられることが多い、というのはある。
その選定に関しては、現代の人事も一緒だが、その人間の置かれている状況次第で
不満が出る場合も、でない場合もある。
0516人間七七四年
2011/10/27(木) 14:13:47.65ID:WW8IYM1c国元の采配や警備、後方担当等の多彩な仕事を行う必要があるので
それなりに老巧かつ有能な人物が求められる
そういう人物はそれなりに年食っているので、年長者が選ばれる例は多い
目端の利いた大名ならその重要性を理解しているので、功績として認められる
0518人間七七四年
2011/10/29(土) 19:53:22.66ID:t8dZ8fbV軽視するようなところは淘汰されて無くなる
0519人間七七四年
2011/10/29(土) 21:55:42.21ID:QCPNV+8x0520人間七七四年
2011/10/29(土) 23:03:22.22ID:M5wjq8MQ乱世で活躍した功臣を皇帝が色々な理由をつけて改易したり処刑することがありますが
戦国時代の終わり頃にもその後の憂いを絶つために
明らかにこじつけで改易や処刑された有名人はいるのでしょうか?
0521人間七七四年
2011/10/29(土) 23:47:26.93ID:Hz30HU7y豊臣恩顧の福島正則とか、加藤清正の息子とか。
家康の知恵袋本多正信の嫡子正純とか。
天下のご意見番大久保彦左衛門の大久保氏も大久保長安事件で一度改易されている。
0522人間七七四年
2011/10/30(日) 00:12:20.67ID:FD7GC37j織田-譜代のおじちゃん
豊臣-茶人
徳川-釣り天井
0524人間七七四年
2011/10/30(日) 01:32:08.52ID:cit3+9Ee質問すれだから深入りはなんだが
0525人間七七四年
2011/10/30(日) 03:07:33.07ID:+Sme72tS0526人間七七四年
2011/10/30(日) 09:38:18.94ID:HGbriStFそもそも肥後加藤家改易は家光の時代だぜ?粛清とか豊臣恩顧とかそんな政治的意味はもはや
さらさら無いわ。
あまつさえ改易当時の加藤家は家中がバラバラで天下のダメ藩として有名だった
あんなものを豊臣恩顧潰しなんて言うのは、豊臣中心視観か明治後の反徳川史観の戯言
0527人間七七四年
2011/10/30(日) 09:57:10.29ID:cit3+9Ee0529人間七七四年
2011/10/30(日) 16:55:25.76ID:17zPE6cdずっと一万石程度の扶持だったんだっけ
息子にも、あまり高い扶持を求めると破滅するから自重しろって言っていたのにな
0530人間七七四年
2011/10/30(日) 19:29:13.36ID:CXoqs80Z秀忠期以降の組織の一員として活動する時代になれば、功績に対しては恩賞を受け取らざるを得ない面もある
さらに言うと、領地というのは役職に関する経費も含まれているから、大権は握っているけど領地は少ないでは勤まらなくなった
0531人間七七四年
2011/10/30(日) 20:13:33.70ID:hk8m8xx80532人間七七四年
2011/10/31(月) 17:59:19.73ID:Xtk0Dpwf豊臣ともめるのは大きな損出であり、あえて事を大きくする必要は無いですね
また七手組は徳川方に情報を流す両属状態だったという説もあります
0533人間七七四年
2011/10/31(月) 18:25:56.97ID:npjyO3qz0534人間七七四年
2011/11/01(火) 11:48:21.90ID:ix7mGHUg植木悦は江戸時代前期に藤堂家に仕えた家臣との事ですが、
彼が記した「慶長軍記」はどれくらい信用できますか?
0535人間七七四年
2011/11/01(火) 11:55:46.87ID:32TslEVb普通に軍記として見るべきかと
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006996741
0536人間七七四年
2011/11/01(火) 12:08:29.28ID:Zg8l4xOI軍学書として書かれているので著者の思想を仮託している部分も多いと思われる
0537人間七七四年
2011/11/01(火) 20:14:35.70ID:32TslEVb書名を教えてくれませんでしょうか(できればページ数も)
0538人間七七四年
2011/11/01(火) 20:47:50.14ID:Zg8l4xOI0539人間七七四年
2011/11/02(水) 00:02:33.71ID:X6+u0ZRY0540人間七七四年
2011/11/02(水) 00:29:13.28ID:S7eZUr9+そういうソースや資料があるんでつか( ´・ω・)
0542人間七七四年
2011/11/04(金) 11:40:12.92ID:LtAOmLBE正確な統計を取れるようになったのは戸籍制度が施行された明治以後
数字を出してる研究家は恐らく過去帳から何人分かのデータを集めて統計を取っているかと
0543人間七七四年
2011/11/04(金) 16:07:13.30ID:Q1uuvDfd殿様の殿だし、なんか奥様みたいな感じなんですか?
0545人間七七四年
2011/11/04(金) 23:15:00.42ID:UyBPmfWHだから果たして時代劇みたいに家臣が君主の奥方に「築山殿」とか「淀殿」とか言うものなのだろうか?
「築山様」とか「淀様」などと呼んでいたのではなかろうか
0546人間七七四年
2011/11/05(土) 09:41:42.03ID:ruW94rpx逆に自分の主人やその奥さんでもないのに様付けるのはおかしい。
0547人間七七四年
2011/11/05(土) 12:49:24.00ID:P0/ABD0K>>546のいうとおり奥方様や、子がいれば御母堂様と呼んでいただろう。
築山殿も淀殿も後世の呼び名だろう。
本名も当然あるが、限られた者しか知らない。
そのため女性の本名が伝わりにくくなっている。
0548人間七七四年
2011/11/06(日) 12:34:40.57ID:nhorEP+V当時他者からでも淀殿、築山殿ではなく「淀の方」「築山の方」だっただろうな。
名前をはっきり言わないのが礼儀。
後世の呼び方が「殿」なのは無位無官なのが大きいだろうな。
0549人間七七四年
2011/11/06(日) 12:48:59.14ID:DKttp0DR何と言うか、直球
0550人間七七四年
2011/11/06(日) 15:27:22.00ID:xvX60fbv0551550
2011/11/06(日) 15:33:47.25ID:xvX60fbvhttp://chachahime.hanagasumi.net/prof_name.html
0552人間七七四年
2011/11/06(日) 20:40:40.08ID:uUY7vAKA0553人間七七四年
2011/11/06(日) 23:16:22.90ID:ophdQUoz0554人間七七四年
2011/11/07(月) 03:33:36.83ID:7Q2CemWW0555人間七七四年
2011/11/07(月) 09:06:42.40ID:diKLUiP6その頃の記録を残す主体が戦国後期には殆ど滅んじゃったわけで
0556人間七七四年
2011/11/07(月) 11:07:39.52ID:fwJRbPv+15世紀が隆盛期で16世紀には落ちぶれて細々と生き延びていた家も多い
まあ、資料が少ないのは間違いないが
0557人間七七四年
2011/11/07(月) 11:34:15.01ID:EgFeSe/A大名家としては没落しちゃってるから、大名としての記録が消えちゃってるんだよね。
記録を残すっていうのもものすごい労力と金のかかる仕事だから。
0558人間七七四年
2011/11/08(火) 00:13:28.62ID:5Agj6vgv0559人間七七四年
2011/11/08(火) 00:26:06.87ID:A12B+gG20561人間七七四年
2011/11/08(火) 11:34:07.07ID:ue5TiMdB0562人間七七四年
2011/11/08(火) 12:01:04.24ID:n09TjbWT小牧長久手の講和の後、青木一重が徳川家から秀吉の黄母衣衆、かつ1万石になってからとして、
おそらく早くて天正14年頃かな。
まあ豊臣家のこの手の組織は七手組に限らず、構想があってそうしたと言うよりなんとなくそんな実態が
出来たものが後から名前を付けられる、なんてものばかりなのでいつから七手組が成立したのかは
よくわからん。
0563人間七七四年
2011/11/08(火) 16:35:55.50ID:RfgzvGg9三成「上様、馬回り衆は八名おりますが・・」
秀吉「おお、そうであった、では速水を筆頭にして、以下七頭としようか」
「何となくかっこいいからだよ」ってCMがあったのを思い出した。
0564人間七七四年
2011/11/08(火) 17:11:13.62ID:ue5TiMdBそれより先は不明か
家康の大番が6組あるから、7組にしたのかな
0565人間七七四年
2011/11/08(火) 22:53:07.97ID:PIloPmTj肖像画とか見ると両方あるものでよくわかりません。
0566人間七七四年
2011/11/08(火) 23:04:18.03ID:OiTlmvfT0567人間七七四年
2011/11/08(火) 23:16:56.44ID:PIloPmTjああ太閤桐って聞いたことあります。
太閤っていうぐらいだから、天下取る前と後で桐紋が違うという簡単なことだったんですかね。
ありがとうございます。
0568人間七七四年
2011/11/08(火) 23:22:59.95ID:d0ZyDstj秀吉の羽柴時代の紋は福島沢瀉だったと言われている
http://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/image/06724.jpg
これ
0570人間七七四年
2011/11/09(水) 00:33:54.27ID:f2RCi+IB0571人間七七四年
2011/11/09(水) 00:53:01.01ID:G0Gdab2Dそんな事する奴がいたら周辺住民まで含めて皆殺しだわ
0572人間七七四年
2011/11/09(水) 01:01:34.57ID:5hH6dW840573人間七七四年
2011/11/09(水) 01:13:44.89ID:G0Gdab2D0574人間七七四年
2011/11/09(水) 02:04:32.29ID:5hH6dW840575人間七七四年
2011/11/09(水) 18:57:23.25ID:TRDRPKXu0576人間七七四年
2011/11/10(木) 08:30:57.82ID:ZVrJHl9mあと諱に仁を入れるのもダメだったっけ?
0577人間七七四年
2011/11/11(金) 00:42:26.38ID:sVCtl4wPなんか立花宗茂と伊達政宗で料理対決してたらしいってどこかで聞いたんだけど、ソース元が分からないんだが
誰か知ってる人いない?
0579人間七七四年
2011/11/11(金) 16:13:05.18ID:ctd/C8xp土屋昌恒について詳しく知りたいんだけど、お勧めの本とかありますか?
0580人間七七四年
2011/11/13(日) 10:52:22.71ID:rfN/2h9A戦国当時、蹴鞠が得意だった人達を教えてください。
0581人間七七四年
2011/11/13(日) 15:38:00.20ID:1S2s1492http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5895.html
0582人間七七四年
2011/11/13(日) 17:05:55.42ID:A1SGMeju堺へは九州から別の船が来ていたと聞いたのですが本当でしょうか?
0584人間七七四年
2011/11/14(月) 09:47:52.98ID:v0hyesZd0586人間七七四年
2011/11/14(月) 16:18:46.53ID:v0hyesZd返答ありがとう。
これですか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016487841
歴史読本09-04に載ってるようなので、古本で買ってみます(交通費より安いので)
0587
2011/11/15(火) 19:19:53.85ID:h2xTNAq2桃山文化のページなんだけど、
「今もなお続く茶道は、桃山文化期の人物 千利休が、村田珠光以来の侘茶を受け継ぎ、茶道として大成させました」
千利休って侘茶を確立した人じゃないの?
0588人間七七四年
2011/11/15(火) 19:24:26.34ID:YAGnxBSk0589人間七七四年
2011/11/15(火) 19:58:48.57ID:h2xTNAq20592人間七七四年
2011/11/17(木) 11:29:40.22ID:sHELwq4a戦場で前線にたって無双するのはありえないとおもいます。
五分や劣勢の情勢で敵の猛攻や追撃で戦死することはしかたないにしても
勝ち戦なのに前に出て負傷したり討ち取られたら笑いものかと思います。
前線にしゃしゃり出て無様に討ち取られたり致命傷を負った間抜けな武将はどのくらいいるのでしょうか?
0593人間七七四年
2011/11/17(木) 12:03:51.26ID:B6N5xRgl0594人間七七四年
2011/11/17(木) 12:05:43.65ID:+HAiG0aj0595人間七七四年
2011/11/17(木) 12:10:56.74ID:aZNWNgquんー残念
0596人間七七四年
2011/11/17(木) 12:45:08.72ID:os3ZlZ+V氏康「額に刀傷つくってごめんね」
信長「自ら首取りして、少数で突撃して、鉄砲撃ってごめんね」
家康「焼き飯漏らしながら弓無双してごめんね」
秀忠「遺骨調査したら骨に達する鉄砲傷あってごめんね」
ありえない時代でごめんねw
0597人間七七四年
2011/11/17(木) 12:55:11.96ID:B6N5xRgl二、三千くらいの部隊の場合は部隊長クラスも戦うことって結構多いよね
0598人間七七四年
2011/11/17(木) 13:49:52.70ID:aZNWNgqu上の人間が率先して相手の一番強い部分へ突っ込むしかないんだ
兵法の類にもそう書いてあるしな
0599人間七七四年
2011/11/17(木) 14:48:16.63ID:os3ZlZ+V無線などの連絡手段の無い時代だから
状況を的確に把握したいなら前線を見回らなければならないし
自身の指揮能力を最大限発揮したいならやはり前線付近に立たなければならない
その中では当然戦闘に巻き込まれることはあるし
率先して前に出れば士気爆上がり、臆せば味方に舐められる訳で、
戦国時代の戦いは先鋒同士の戦いで勝敗が決することがほとんどだが
そういう状況なら、前者は有力な選択肢になる。
部隊長クラスならなおさらであり、また一軍程度の士気や指揮が
問題にならないような大戦は戦国時代でも限られてるので
将が前線に立つのがあり得ないと言うのがそもそも間違い
0600人間七七四年
2011/11/17(木) 15:56:56.35ID:NQeTn2Yh侍でも馬に体型や技術的な問題で乗れない人はいて
そうした人は代わりに輿で移動することもあった
って記述があったのですが
戦国時代にも馬に乗れないから
輿で移動してたような大名や武将っていたんでしょうか?
0601人間七七四年
2011/11/17(木) 15:59:36.49ID:eJ9GH13w0602人間七七四年
2011/11/17(木) 16:19:09.70ID:t+3W3r+t例えば「一週間前」とか「三ヶ月後」とか。
こういう週、ヶ月というシステムは1800年代頃からでしたよね?
0603人間七七四年
2011/11/17(木) 16:28:24.73ID:ycdYXdde学者の持論を長々と語ってるのではなくて、具体例の多い本はありませんか
0605人間七七四年
2011/11/17(木) 16:50:39.18ID:os3ZlZ+V雷に打たれ半身不随と言う伝説のある立花道雪や、
ライ病だったといわれる大谷吉継
肥満のため、もしくは下に準じて見栄のため輿にのっていた竜造寺隆信
自身は戦場では普通に馬に乗っていたが
高い身分として輿で公の場に出ることを許されていて戦場にも携帯した今川義元
あたりが有名な所ですかね
>>602
月や日にちは普通にありましたが、太陰暦ですが。
曜日は安息日のあるユダヤキリストイスラム教圏の習慣ですので開国以後ですね。
0606人間七七四年
2011/11/17(木) 17:08:23.82ID:t+3W3r+t「一週間」の区切りが無いだけで「一日」「一ヶ月」のような言い回しは存在したのですね。
ということは今なら「二週間後」とかなら「十四日後」という表現になるのでしょうか。
ともかく後は自分で調べてみます。
ありがとうございました!
0608人間七七四年
2011/11/17(木) 20:44:21.32ID:7e8r3tS9本丸だけですか?
0609人間七七四年
2011/11/17(木) 21:11:01.77ID:ure1ff5i>>606
10日毎の単位である旬は殷の時代から使われている。戦国時代の日本にもあった筈。
でもひと月30日を上旬・中旬・下旬に分ける使い方で1旬後みたいには言わないと思う。
0610人間七七四年
2011/11/17(木) 22:25:50.08ID:SVFaI2Ip>>606
当時は太陰暦基準だからねぇ。
現在使われてる十六夜(いざよい)とか十五夜(じゅうごや)とか三日月、弓張り…
といった単語も普通に使っていた様子。現代みたいに何日、だけじゃなく何夜、という表現も度々したようだ。
ちなみに毛利元就の三子教訓状には「霜月廿五日」と書いてあるが
伊達政宗が江戸時代に入って出した手紙には「十月十七日」と記されてるよ。
0611人間七七四年
2011/11/17(木) 22:31:11.43ID:ure1ff5i三日三晩と言えば昼が三日と夜が三晩という感覚。
0612人間七七四年
2011/11/17(木) 22:37:17.41ID:Kh0kiZZu0613人間七七四年
2011/11/17(木) 23:36:03.11ID:SRbjiTFo0614人間七七四年
2011/11/17(木) 23:39:34.20ID:ure1ff5i夜明けと日暮れによって区分される昼と夜をそれぞれ6等分していた。
季節によって昼と夜の長さが変わるから、時間も伸びたり縮んだりする。
江戸時代はそうなんだけど、戦国時代はどうだろう?
干支も殷の時代からあるので普通に使われていた。いわゆる「えと」の動物とは
本来は全く関係がない。殷では王族の生まれた日の干を名前にしたらしい。
乙の日に生まれたら天乙とか太乙って感じ。
干だけだと10しかないので日付を表すのに不便なので十二支と合わせて使った。
これなら60日(二ヶ月)表示出来る。
0616人間七七四年
2011/11/17(木) 23:50:34.76ID:pfv9mNz/甲陽軍鑑とかルイス・フロイスとか雑兵物語とか
もっとも雑兵物語が騎馬突撃を最近(江戸時代初期)では珍しいとしているので
徹頭徹尾そうだった訳ではない
0617人間七七四年
2011/11/17(木) 23:52:31.39ID:+HAiG0aj0619人間七七四年
2011/11/18(金) 03:30:11.98ID:fUFUo62q多いもんな。鈴木大先生のいうことを知らないなんてシロウトですねとか
普通に言われる・・
0620人間七七四年
2011/11/18(金) 06:25:36.63ID:ATuljyzi0622人間七七四年
2011/11/18(金) 14:51:10.83ID:GAsBLxDw0623人間七七四年
2011/11/18(金) 15:32:17.72ID:89yDSU13鹿島神宮や香取神宮が拠点になっていたとか。
それに江戸湾と利根川(現在の江戸川)の状況を考えたら里見や北条は
ある程度水軍もっていないと不利だろ、事実北条は房総南部の一部を一時領有していた。
0624人間七七四年
2011/11/18(金) 16:20:00.30ID:Lx4/uABD江戸湾の重要性も知ってる
当然法帖や里見を始め水軍を持ってたのも知ってる
でも瀬戸内に比べるのは烏滸がましいよ
0625人間七七四年
2011/11/18(金) 16:28:17.46ID:+FfA8rVJ瀬戸内海他内海と湾だらけの西国を比較したら
雑兵物語で、東国武者は馬術すげーぞ、
いやいやその代わり西国の奴は舟戦うめーから
ちゅう記述も普通に納得できると思うけどな
0626人間七七四年
2011/11/18(金) 16:33:31.72ID:+FfA8rVJわざわざ伊勢水軍ヘッドハンティングしてきたとかな
0627人間七七四年
2011/11/18(金) 16:33:59.67ID:ivvhjxQM0628人間七七四年
2011/11/18(金) 17:11:28.15ID:Lx4/uABD伊勢の豪商に軍船発注したりしてるからね
0629人間七七四年
2011/11/18(金) 17:24:32.07ID:xuq/+ZVE東国のは品種が絶えてよく分かってないものが多い
0630人間七七四年
2011/11/18(金) 17:27:45.54ID:Lx4/uABD0631人間七七四年
2011/11/18(金) 23:25:28.74ID:XGCFgvBl西国でもウシウマとか居たがなぁ
そもそも日本の馬は大陸由来だろ。
早くから大陸と交流があった西国に入ったのが定着したのであって、
そこから派生したのを在来種と言うのならそりゃ原産は西国だわな。
ちなみに道産子は本州との往来が始まった後に奥州から南部馬が渡って適応したものだ。
今は立派な在来種。
そういや南部って虎貰ってたよなー。
アレ繁殖に成功してたら日本に在来種の虎が出来てたかも(笑
ちなみに今回の震災で大きく取り上げられた相馬の野馬追いも、元は平将門の軍事演習。
普段は畑耕してるおっちゃんが年に一度、鎧を着て颯爽と馬を駆る姿は
流石、坂東武者と言わざるおえまい。マジカコイイ。
0632人間七七四年
2011/11/19(土) 00:54:09.76ID:Ely8dbuB元ダチョウ倶楽部のリーダー 南部虎弾を連想した
0633人間七七四年
2011/11/19(土) 01:26:51.74ID:CKjBL0wh俺のご先祖様なんだが、家系図に読みが残ってない。
「つてなが」でいいんだろうか。
0635人間七七四年
2011/11/19(土) 06:33:08.96ID:55/YDnGgただ、つぐ、つた、のぶ、のり、よし、つたえ、つとむ
ただなが、つぐなが、のぶなが、のりな、よしなが この辺りじゃないかな
0636人間七七四年
2011/11/19(土) 07:57:18.95ID:Wt3lEaYq細かいが魏志倭人伝には馬はいないとなってるが本当なんだろかね。
古墳時代にはいっぱい骨が出るからたくさんいたんだろうがその前の弥生で
確認出来ないというのはそれまでいなかったのがいきなり古墳時代にワサッと増えたんだろうか。
馬文化が流入して一気に広がったというのはわかるが同時に馬自体も入ってきたのかなぁ。
そう簡単に全国に増えない気もするが。
それと記紀には神話にも登場するからこれも後にいっぱいいるのを
昔からいたみたいに結びつけちゃったんだろうか、おもろいとこなんだよね。
虎が繁殖してたら日本人はなかったかもしれないな・・猛獣がいなくてヨカタ・・
0637人間七七四年
2011/11/19(土) 10:18:22.07ID:Z1ny/Hlwそういや群馬県には野生化した馬がかなりいたから
群馬って名前が生まれたそうだね。
彦根城の博物館にある馬の群れの絵の解説だかに書いてた。
0638人間七七四年
2011/11/19(土) 13:02:46.80ID:oZs//48J諸国牧
下野国 朱門馬牧
常陸国 信太馬牧
下総国 高津馬牧、大結馬牧、木島馬牧、長洲馬場、浮島牛場
上総国 大野馬牧、負野牛牧 新屋牧
安房国 白浜馬牧、粉師馬牧
相模国 高野馬牛牧
駿河国 岡野馬牧、蘇弥馬牧
備前国 長嶋馬牛牧
近都牧
摂津国 鳥養牧、豊後国牧、為奈野牧
近江国 甲賀牧
丹波国 胡麻牧
播磨国 垂水牧
大宰府
0639人間七七四年
2011/11/19(土) 14:22:12.03ID:mphb2X7D南部の地名の八戸とか
0640人間七七四年
2011/11/19(土) 14:33:33.25ID:oZs//48J勅旨牧
> 『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(4ヶ所)の
> 計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。なお、承平年間には武蔵国で2ヶ所
> 増設されている。なお、追加された2牧は宇多院・陽成院の所持していた牧が勅旨牧に編入されたと言われている。
> 特に宇多院は信濃・武蔵両国を分国として国司の任免権にも関与していたと言われているために、勅旨牧の経営に
> 何らかの関与したとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%97%A8%E7%89%A7
0641人間七七四年
2011/11/19(土) 14:44:02.32ID:oMymUpjF織田信長公を武田勝頼の家臣、山県昌景はなんと呼んでたかなあと思ったんですが、
みなさんの意見をお聞かせください ワタクシが考えて思いついたところは、
近江殿or様・・・・居城安土城が近江にあったので
尾張殿or様・・・・もともと尾張出身なので
弾正忠殿or様・・・当時の官位
信長or信長殿or様・・・敵なので諱の呼び捨てもアリ?
織田殿or様・・・名字で
上総介殿or様・・・昔名乗ってた官位?
その他 うつけ殿 第六天魔王 三郎 アホウ 鉄砲魔 上様 天下殿
0643人間七七四年
2011/11/19(土) 15:33:49.05ID:VTtL2GS7武田側史料の甲陽軍艦 記述
此女子は、信長父弾正忠在生の時、美濃国ない木勘太郎と云侍を婿に仕り、…とある。
0644人間七七四年
2011/11/19(土) 16:49:33.08ID:Wt3lEaYqそれと会話のニュアンスにもよる。
ただ結局自分がいろいろ思いついたことを自慢
したかっただけなんだろな。
0646人間七七四年
2011/11/19(土) 17:02:28.71ID:oIFC6aoR0647人間七七四年
2011/11/19(土) 17:10:55.18ID:55/YDnGg0648人間七七四年
2011/11/19(土) 17:31:35.40ID:hXwX0FVz信長公・勝頼などと呼んでるようだから
実は戦国期も後期になると
諱とかも関係なかったんじゃね?
0649人間七七四年
2011/11/19(土) 18:05:57.28ID:u8cQ3udG0650人間七七四年
2011/11/19(土) 18:31:44.98ID:hXwX0FVz0651人間七七四年
2011/11/19(土) 18:47:11.10ID:u8cQ3udG信長のことを上様と記述してるだろ
0652人間七七四年
2011/11/19(土) 19:08:53.81ID:hXwX0FVz0653人間七七四年
2011/11/19(土) 19:22:51.96ID:u8cQ3udG0654人間七七四年
2011/11/19(土) 19:59:04.73ID:oMymUpjFけっこう適当にその場その場で決まってたみたいなかんじでしょうか
よくわかりましたありがとうございました
0655人間七七四年
2011/11/19(土) 20:57:33.21ID:zXokhk9S0656人間七七四年
2011/11/19(土) 20:59:23.54ID:P3QAiw6+0657人間七七四年
2011/11/19(土) 21:15:44.19ID:scbvgryI安土日記って
天正6年1月1日〜天正7年8月6日までしか遺って無いだろ…
0660人間七七四年
2011/11/19(土) 22:51:43.15ID:nW/5jVVX0661人間七七四年
2011/11/19(土) 23:30:00.99ID:Wt3lEaYq一般的な池田本は確かに最初は「信長」でだんだん「信長公」になってくる。
そしてまた「信長」になったりするが「御動座」とか将軍に使ってた表現になったり
系統によっていろいろではある。
「上様」ってのは73年以降に目立ってきてるが池田本ではあまり
使われてなかったんじゃないかな。
普通は死後だと本人に対する失礼という意味も減じてくるから
諱でも使われるけどね。
要はケースバイケースでルールなんかないってことだ。
0662人間七七四年
2011/11/19(土) 23:46:12.15ID:u8cQ3udG0663人間七七四年
2011/11/19(土) 23:52:52.01ID:Wt3lEaYq中間報告みたいなのは見た。
記録の確認で「意味については知らない」と断ってるところが
さすがではある。
つまり都合の悪い書き直し、書き換え、事実が判明しても
知らないよってことだよね。
オマンマの食い上げになるからそのあたりは研究者の
好きにしてってことか。
0664人間七七四年
2011/11/20(日) 10:10:58.11ID:6HyfvM6J諱でも使われる
それはウソ。
信長は死後に
総見院殿と呼ばれるから。
0665人間七七四年
2011/11/20(日) 12:30:18.50ID:gOj1xzGP牛一が各時代に記録したものを後で再編集したとしたら
同じ人物を指す名称がまばらでも可笑しくない。
0666人間七七四年
2011/11/20(日) 13:44:01.15ID:MHlhfLI4実際は太田は関与しておらず
織田家と関係ない売文家複数人による編集だろ。
同じ人物を指す名称がばらばらだと言う指摘に対して
返答が「パッチワークだから」って苦し杉www
0667人間七七四年
2011/11/20(日) 14:15:43.47ID:Ki0NGH8E織田家臣じゃないよなあ
0668人間七七四年
2011/11/20(日) 16:01:34.80ID:d7fD+WBX牛一さんが書いた時点?では秀吉の家臣になってるし
その後各家の求めに応じて編集し直した時点で先方とのかねあいが
でてくる。
だから、信長、家康公、とか無難な客観的な表現で通してるのは
そこから何かを読み取ろうとはなかなかできない、一種の記号みたいなもので。
太田は関与してない、というのは同一筆跡をどう説明するのかな。
0669人間七七四年
2011/11/20(日) 19:38:44.34ID:dEYclyI6そんな精査やってないぞ。
筆跡鑑定家って誰なの?
0670人間七七四年
2011/11/21(月) 00:06:23.27ID:ihnqvo5s少なくとも4つは自筆と言われてるでしょう。
自分で見ても鑑定もしてないからこれ以上は言えないが。
あと奥付もあったかな。
これが「精査」されてないというのならあやまるけど。
もしかして最新の精査で最も古い部類のものも「牛一」の
自筆でなくすべて写本とかになってるのか。
だったら、その「原本」とかに話は戻るわな。
0672人間七七四年
2011/11/21(月) 12:42:45.86ID:9Z3+hQxRそもそも牛一自筆の研究中って言うよりも、
そもそも信長研究がやっと正式にスタートしたばかり。
金子拓・横山住雄・谷口克広・和田裕弘・岡田正人・
高木叙子・竹本千鶴・松田之利・土山公仁などが先頭にたって
多くの信長記(公記ね)の保存先に頼んで見せてもらい、
世間一般にも呼びかけて信長の一次史料を
苦労しながら収集してる状態。
あんたも信長に一次史料を持ってたら連絡いれてやれ。喜ぶぞ。
いまの計画だと平成25年3月までに有る程度の結果を出す予定。
信長の文書は極端に少ないだけでなく、織田家自体が文書類発給が伝統的に少ない。
大日本史料などで編纂される上杉や島津や毛利などの大量文書が無いから
やっと信長についての収集が開始されたばかり。
いままでの信長研究なんて子供の遊びレベルで
90年代の信長革命児マンセーの妄想の残照でしかない。
本格的な文書研究にも至ってない状態。
いま信長研究家と言われてるヤツの大半はいい加減。
0673人間七七四年
2011/11/21(月) 23:10:15.53ID:T+h5Go0Q0674人間七七四年
2011/11/22(火) 10:30:15.51ID:iULrAdn+なかったんですか?
統一されて事実上、戦国終わって間もないので隣の領地同士の怨恨とか
江戸時代よりありまくりそうなんですが
0675人間七七四年
2011/11/22(火) 13:26:37.72ID:aBK5WX1u数年分、と4つじゃなかったっけ。
他に太田日記、くんきのうち、とか自筆と言われてるから
このあたりは共通した筆跡かと思ってた。
これら自筆と言われているのが「正式な鑑定してない」
というのは驚くが、それは自明だからってことじゃないの?
そういう「正式な鑑定」をしてないのを遊びというのなら
ぜひ鑑定してほしいものだけど。
それと自分はもってないが、知人の知人、で持っているのがいて
大学から問い合わせは来るそうだが公開済のしか見せないそうな。
どうしてかはおして知るべし。
「苦労しながら収集」というと自分たちが正義で見せない
旧家が悪いようだが「どうして見せてもらえないか」を考えない限り
永久に「遊びの研究」からは抜け出せないだろね。
安土日記ってのは行間にいろいろ書いてあるののことでしょう。
これは写本の中で一番古い、みたいに言われるけど自筆かどうか
ってのはそういえば聞いたことないなぁ。なんかいろいろ推測は
されてるんだっけかな。
0676人間七七四年
2011/11/22(火) 13:57:31.59ID:RU4N8mbH0677人間七七四年
2011/11/22(火) 14:26:03.02ID:aBK5WX1uというと史学において自筆とか言われるものは全て
鑑定してあるのだろうか。
それと「した」とは言えるが「してない」とはなかなか言い切れない
ものじゃないのかね。
この場合牛一自筆と呼ばれる4つの信長記の「精密筆跡鑑定」
がなされてないというのは一体何を主張するものなのだろう。
金子たちがそれを指して「今までは遊び」というのなら
本当にぜひ鑑定して確定してほしいものだ。
これは25年まで待たずにできるものだろうしね。
0678人間七七四年
2011/11/22(火) 17:53:27.18ID:FQN5cS57太田の自筆と言ってるだけだろ。
その時点でまともな調査をしてないのが露呈してて
完全に終わってる。
奥書の太田の無駄話まで
丸々写筆してる可能性を考慮してないし、
そもそも筆者が太田に仮託して書いてる可能性もある。
そもそも首巻からして仮託だし。
0679人間七七四年
2011/11/22(火) 18:15:16.96ID:G4TrwpSO処理する人達は誰かに雇われて対価が支払われたんでつか( ´・ω・)
もしかしてボランティアでつか( ´・ω・)
0681人間七七四年
2011/11/22(火) 22:20:04.93ID:SUwfsCgU負けた側の遺体は放置しておくと伝染病の発生源になるので
主に土地の持ち主である農民と僧侶が埋葬します
0682人間七七四年
2011/11/22(火) 23:28:51.34ID:aBK5WX1u略奪するんだよな。
0684人間七七四年
2011/11/23(水) 08:44:15.72ID:G2B1HuRS数が怪しい半島征伐は抜きで。
0685人間七七四年
2011/11/23(水) 08:45:31.30ID:t+A9w713野戦で一方的・・・ 長篠の戦いですかな?
0686人間七七四年
2011/11/23(水) 09:29:37.01ID:xH549lC50687人間七七四年
2011/11/23(水) 09:40:14.82ID:hXULUX+H0688人間七七四年
2011/11/23(水) 16:30:07.97ID:whMoY8Mf家康がいなかったら信長死んでた。
0694人間七七四年
2011/11/23(水) 18:02:25.29ID:+YVYc7v+すぐに双方軍を動かして志賀の陣が起きてるから
大損害の出たような戦いじゃないとは推測されてるが
0696人間七七四年
2011/11/23(水) 19:46:13.03ID:Foxw4HOm否定するのに根拠と新説は必須だよ。
新説のないものは否定とは言わない。ケチをつけているだけだ。
0698人間七七四年
2011/11/23(水) 19:55:17.70ID:jaNJglXVそもそも、否定の証明と親説の証明は別物だからね
定説を否定したからって新説が必ずしも正しいという根拠にはならないのだから
(定説も新説も両方間違っている可能性は普通にありうる)
0699人間七七四年
2011/11/23(水) 20:35:57.41ID:pVqALr/70700人間七七四年
2011/11/23(水) 22:11:32.50ID:lAy9M/ZE長時・・塩尻峠で大敗
貞慶・・石川数正とともに家康を裏切る
秀政・・無断参戦して重傷
忠脩・・無断参戦して戦死
長行・・長州征討で敵前逃亡し江戸幕府を滅ぼす
0701人間七七四年
2011/11/23(水) 22:32:37.49ID:35DGlZF/wikiiにもあるけど、通説通りの壊滅的大敗だとしたら
その後すぐに大規模な合戦やってる浅井・朝倉の立ち直りが早すぎるし
三河物語では和田惟政とか参加した事になってる武将が実際は京で政務に励んでて書状出してる記録が残ってたり
参加・不参加の実情すら怪しいという事になってるので
損害・参加兵力どっちも水増ししてるのは間違いない
0702人間七七四年
2011/11/24(木) 08:13:02.25ID:B2sIX7xKでは公記はどうかというとこれも大した勝利では
ない感じだ。
もっと圧勝ならそう書けばいいわけだし多くて
やっぱり1000ぐらい討ち取ったってとこかなぁ。
・・結構圧勝か・・
0703人間七七四年
2011/11/24(木) 11:50:02.27ID:IYQvsod4聞きたかったのは、
野戦での追撃殲滅戦の損耗率についてです。
籠城戦だと守備側全滅も稀ではないですよね、
その点、野戦だとある程度損害が出た時点で敗走がはじまります、
日本の野戦でも殲滅戦になることはあるのか?です。
0704人間七七四年
2011/11/24(木) 11:55:30.98ID:IYQvsod4桶狭間や沖畷では大将首とった時点で休戦したのか、
農民の落武者狩りの前に何故、追撃しないのか。
0707人間七七四年
2011/11/24(木) 13:09:52.57ID:sP7mHC0x楽そうでいいよなあ
0708人間七七四年
2011/11/24(木) 13:21:38.84ID:IYQvsod40709人間七七四年
2011/11/24(木) 14:20:00.87ID:F9F4EJHV前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
0710人間七七四年
2011/11/24(木) 14:20:15.40ID:foNt+8fr参加兵数や損害数の確かな史料は残ってないので
損耗率は正直出しようが無い
軍記物の不確かな数字に推測に推測を重ねて出すくらい
>>704
桶狭間:殲滅には兵力不足
沖田畷:乱戦であり、さらに地形的にも追撃は難しい
三方ヶ原:後半は夜戦なので追撃不可
長篠:片翼包囲な上に築城陣地戦で余力があり追激で大戦果
軍記物を参考すればこんな感じ
0711人間七七四年
2011/11/24(木) 14:50:42.77ID:F9F4EJHV3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、
信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
0712人間七七四年
2011/11/24(木) 18:42:31.46ID:B2sIX7xK0713人間七七四年
2011/11/24(木) 19:09:35.57ID:FovqXBf70714人間七七四年
2011/11/24(木) 19:21:09.37ID:PK1WymQnこの時点でうさんくささ爆発
0715人間七七四年
2011/11/24(木) 19:24:37.29ID:ezAP1k1j0716人間七七四年
2011/11/25(金) 02:27:59.51ID:PmwlmwGs0717人間七七四年
2011/11/25(金) 03:00:15.64ID:R5v//hbc無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
0718人間七七四年
2011/11/25(金) 08:24:45.49ID:M7IPTXQl遅くなったが回答ありがとう。
祖父の名前と音が通じる「ただなが」で名乗ることにするわ。
>>634
「藤原傳永」だから、多分諱じゃないかなと思う。
法名はちゃんと別に書いてるし、先祖で出家したらしき人はちゃんとそう書かれてる。
てかネット凄いな。
調べてみたら、先祖の上司まで特定できたぞ…
0719人間七七四年
2011/11/25(金) 09:00:32.51ID:+GBf8miE複数のサイト、テレビ、本の情報をまとめると
東日本最強本多忠勝、西日本最強立花宗茂、鬼の示現流島津義弘、豊臣の龍虎加藤清正と福島正則
など戦国ゲームでも有名な猛将英雄はたくさんいますがそんなの全部フィクションらしいんですよね
1.そもそも有名な人達は皆、当主や大名でそういう重要人物は前線に出ないで後方の本陣の
安全圏で指示を出したり前線の様子を聞くだけで自分で槍を持って戦わない、軍の勝利が本人の強さと評価されただけ
2.そもそも当時の戦死者の七割は弓矢で残り三割の槍も農民歩兵が隊列を組んだ集団長槍戦法で、所詮戦争は集団戦
一個人が槍を持って敵を一人一人倒すというの事態、フィクションである。
3.下級武士から武功を立てて大名に上り詰めた人でもそれこそ若い時にちょっと目立つ成果を上げたかもしれないが
やはり出世すれば前線から離れるし武功は運の要素もあるから、やはり皆がイメージする猛将ではない。
4.実際の戦死者のほとんどが農民から徴兵した歩兵なので、戦国時代は農民同士を殺し合わせて武家の人は高見の見物
で、ゲームや物語にあるような勇ましい猛将様なんていない。
5.戦国時代の資料の多くは江戸時代に描かれたモノで、戦国時代という凄絶な時代故に小説家が脚色したり、武士が後世に
カッコよく自分の事が残るようウソ記録を残した結果、今の猛将英雄イメージができたと言わざるを得ず
根本的に戦争というものは一個人の武力がどうこう言うものではない
自分は英雄好きなのでできればウソであって欲しいのですが、誰か弁護できませんか?
0720人間七七四年
2011/11/25(金) 09:18:04.86ID:6L4UV24m>鬼の示現流島津義弘
その頃示現流あったのかなぁ。
>根本的に戦争というものは一個人の武力がどうこう言うものではない
ウッディ大尉もアムロにそう言ってるじゃん。
0721人間七七四年
2011/11/25(金) 10:16:41.37ID:1K9C6qlz時代は違うけど圧倒的な戦績を誇る大村益次郎が常に後方にいて戦果をあげたように
前線にでなくても采配はできる。ただ士気高揚や情報伝達の兼ね合いで前にたつこともある。
でもグスタフ・アドルフのように圧倒しておきながら突出して戦死することもあるから戦場は怖いね。
0722人間七七四年
2011/11/25(金) 10:39:50.72ID:KrBvNm51>>719
関ヶ原の合戦で黒田長政と細川忠興が互いの軍功(馬入れ)を確認し合ってる
井伊直政と松平忠吉二騎で最前線に出て鉄砲打ちかけて一番槍を名乗ってる
どちらも”武将が最前線に出ること”を軍功としているわけで、1)には当てはまらないなぁ
つか武将が一番良い装備してんだよな、そいつが前にでないで雑兵が本気だすかというと……
0723人間七七四年
2011/11/25(金) 10:43:38.36ID:FUVqFeLa今度は逆方向に触れ幅が大きくなった感じか
両方修正してやら無いといけないからめんどくさい状況だなw
0724人間七七四年
2011/11/25(金) 11:43:23.79ID:a7C5qOKR0725人間七七四年
2011/11/25(金) 18:52:12.24ID:4m9QYn6Tとりあえず戦争や軍事、集団と個人、組織などなどについて圧倒的に理解が足りない
まずは組織論から始めて見るのが宜しいかと
0727人間七七四年
2011/11/26(土) 01:30:52.87ID:tw2UYmVi0729人間七七四年
2011/11/26(土) 08:14:52.50ID:/eLe8PUpそろそろそれ相応のスレに移動してやっとくれ
0730人間七七四年
2011/11/27(日) 01:20:18.50ID:XH8+ajgg道を確保するために築城や城攻めを行うって事は、それ以外は獣道なんでしょうか??
0731人間七七四年
2011/11/27(日) 13:18:11.94ID:qvVAizmfただ、そういった小路を必死で抑えた所で軍の機動にはあまり役に立たない
なぜなら軍隊ってのは大量の人と物資を行き来させるものだから
そして軍隊が通れる道ならば、物流の中心として経済も活発になる
大名が確保しようとした道は、そういった比較的大きい道
あと信長が道筋を変えさせたり、信玄や謙信が軍用道を作ってたみたいだけど、
基本的には昔からある道を使ったり、それを整備するくらいじゃないかな
0732人間七七四年
2011/11/27(日) 14:19:45.36ID:m+7MKXD60733人間七七四年
2011/11/27(日) 18:03:32.68ID:DF/Rs0F5代りに物流の中心を担ったのが河川などの水路(陸路がなくなったわけではないが)
そして平安末に武士が台頭して戦争が頻発してくるようになると、
進軍路としての陸路が再び整備されていくようになる
0734人間七七四年
2011/11/28(月) 08:57:33.83ID:K1ERT2yj街道に準ずる道となっていく。
これは「人の行き来」を目的としたもので
少し時代がズレるんだが古くから「こっそり移動用」
の道筋があったことは推定できる。
0735人間七七四年
2011/11/28(月) 15:45:02.52ID:XlM133ss数奇ごっこに招かれますが何か魅力あったのでしょうか?
遊んでみたらコイツ面白いって事ですか。それとも国元にいると陰謀企画するから
近くで監視状態なのか教えてください
0736人間七七四年
2011/11/28(月) 16:04:51.15ID:3OrtQZitというか招かれない方が問題。
0737人間七七四年
2011/11/28(月) 16:47:06.63ID:MyTdCdZU0738人間七七四年
2011/11/28(月) 18:10:53.42ID:R3FqHsyLなるほど、ありがとうございます。
主要街道を制圧して連絡網を断つって言いますけど、脇道があるわけだから意味ないですよね?
連絡なら軍勢や荷駄がいらないですし…
0739人間七七四年
2011/11/28(月) 19:40:22.87ID:K1ERT2yj連絡網を断つとはあまり言わないように思うけどね。
ってか、自陣のマイナーな小路は相手は知らないから
相手の知ってそうな街道ー道を断つというのは十分に有効とは思う。
要は自領かどうか、入るのか出るのか、という個別の問題がからむから
ケースバイケースにはなるよね。
敵陣を走っていたら普通は捕まるしね。
0740人間七七四年
2011/11/29(火) 00:27:16.77ID:N6ImEKS1拠点同士の補給や行軍が可能かどうかも意味するのだよ
連絡線を断つと言う事は、他拠点からの物資輸送や援軍を断つと言う意味に通じる
まあ、軍事用語でなくてもそう言う意味も含まれているけどね↓
れん‐らく【連絡/ × 聯絡】 国語
[名](スル)
1関連があること。「一見何の―もない 二つの事件」
2気持ちや考えなどを知らせること。情 報などを互いに知らせること。また、そ の通知。「―をとる」「本部に―する」
3二つの地点が互いに通じていること。 また、異なる交通機関が一地点で接続し ていること。「私鉄と―する駅」「―橋」
0741人間七七四年
2011/11/29(火) 11:42:04.93ID:Z0Fu1nsT一般論じゃなくて当時そういう作戦を建てたという記録は
あんまり聞かないなぁということ。
ゲームや仮想戦記の主人公がそういう風によく話してた
というのかなと思っててね。
0742人間七七四年
2011/11/29(火) 11:58:15.52ID:0kWIMvnc0743人間七七四年
2011/11/29(火) 13:06:38.77ID:D1ZK1C3s完全に封鎖は無論難しいが、移動、連結に不便な脇道の使用を強制するなら
時間もかかるし費用もかかるし危険も伴うわけでそれはそれで十分効果がある
極端な話、現代の大国アメリカや島国日本も国境を完全に封鎖できはしないが
不法移民や麻薬をフリーパスさせるか?させないだろ。という、
少しは常識で考えろよという話になる。
0744人間七七四年
2011/11/30(水) 22:50:11.02ID:FxWH8S+Gまた、どれくらいの人数の家臣がいたのでしょうか?
0745人間七七四年
2011/12/02(金) 19:03:41.90ID:axhTwQtP最大版図はどちらのほうが広かったのでしょうか?
0746人間七七四年
2011/12/02(金) 23:11:22.14ID:l7yZV8j60747人間七七四年
2011/12/02(金) 23:54:29.15ID:Alj1CJPI体制が違うから何とも言えないし
資料があるなら直轄地だけで考えれば何とか比較できるかもしれんが
0749人間七七四年
2011/12/03(土) 22:05:00.95ID:YaW2XNAx毛氈鞍覆ってのは座布団みたいなもんだと思うけと、白傘袋って? 雨の日にさす傘を入れる白色の細長い袋のこと?
0750人間七七四年
2011/12/04(日) 00:56:32.35ID:VlUtaLj8貴人の行列は必ず長柄の大傘が付いたから、それのカバーではないかな
江戸時代も大名行列には必ず立傘が付いた
雨天用であったり日傘であったりする
http://www.katch.ne.jp/~ans121-zyuzin/gyou.htm
0751人間七七四年
2011/12/04(日) 12:15:17.65ID:TabApGNd昔の用具だからどんだけ奇抜なもんかと勘繰ったけど
まあそらそうだわな
0752人間七七四年
2011/12/05(月) 12:39:24.49ID:rHMzMzlX名前とか調べてみても検非違使くらいしか見つからなくて、でもこれ鎌倉時代のものっぽいので気になりまして。
0753人間七七四年
2011/12/05(月) 13:01:05.45ID:aE+4fP+R0754人間七七四年
2011/12/05(月) 13:21:36.70ID:gCQ2o7yn戦国大名の権力のあり方も基本この延長線上にあり、戦国大名の義務として警察行為がある。
0755人間七七四年
2011/12/05(月) 13:23:19.81ID:kwJtP6aX第二条補足
場合によっては抹殺することも許される
というトンデモナイ条項があったらしいぜ
0756人間七七四年
2011/12/05(月) 15:28:16.61ID:6JIN1p6y0757人間七七四年
2011/12/05(月) 17:49:39.16ID:A1U4NQsTなるほど、守護が警察だったんですね。
という事は警察署みたいなのは無くて、その大名家に仕えるお侍さんに報告すれば出動してくれるみたいな感じで解釈していいんですか?
(ドラマとかでお奉行さまー!みたいな感じのノリでくるやつ)
>>755
戦国の時代なのであまり驚きはしないっすが、現代の考えだとものっそ恐ろしいっすw
無罪の人間でも殺したりするような悪い人も居そうだなあ。
0758人間七七四年
2011/12/05(月) 17:56:42.78ID:RYZw1RGu交番がなくて、市に警察署が1つだけみたいなイメージかと
要請するにも手間がかかるし、来てくれるのも手間がかかる、とにかく時間がかかる
だから村人が武装をして常に身構えてるわけです
0759人間七七四年
2011/12/06(火) 01:17:48.24ID:jPWWJiVEありがとうございます疑問が全て解けました。
となると解決の早い遅いや治安も大名の腕によるところも強そうですね。
0760人間七七四年
2011/12/06(火) 02:05:04.06ID:xlvWJKrK0761人間七七四年
2011/12/06(火) 15:28:06.27ID:prH4RoLn戦国の地方農村なんかと比べるとおかしくなるけけどね。
0762人間七七四年
2011/12/11(日) 16:01:38.66ID:jDhv03MIこの兄弟の官位とか通称とかっていうのはやっぱり伝わっていないのかな。
昔は諱じゃなくて通称で呼び合ってたんだから、記録に残るのも諱より通称だと思ったんだけど、ネットじゃさっぱり
0763人間七七四年
2011/12/12(月) 02:10:55.13ID:L2JmkxU+公式な書類のサインの時?
0764人間七七四年
2011/12/12(月) 12:31:26.97ID:WhvTvc1Y0765人間七七四年
2011/12/12(月) 12:51:17.24ID:NjpbSeSC0766人間七七四年
2011/12/12(月) 16:14:25.25ID:IGFJXMfyこの場合の手紙は、親と子の間で交わしたものだな。
0767人間七七四年
2011/12/14(水) 06:13:52.27ID:2bFIwkKw有名なのに諱は不明な武将とかいる?
0768人間七七四年
2011/12/14(水) 12:07:03.55ID:RBpRrwUp以前から武田信玄の後裔について調べているのですが、
どなたか信玄五男の仁科盛信の子(長男)とされる
「仁科信基」の実在に関する根拠資料について御存じありませんでしょうか?
ウィキペディアには、後に4100石の旗本になり現在も家系は続いている、
などと記載があるのですが、個人的に調べた限りでは、
史料上仁科信基が存在したというものが見当たりません。
「仁科」家という大身旗本の存在も確認できませんでした。
ttp://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/sub1-3.htm
このサイトの武田氏の項目の一番下に同じ疑問が呈されています。
もし仁科信基の典拠を御存じの方がいらしたらご教示くださるとありがたく存じます。
0769人間七七四年
2011/12/14(水) 16:01:35.98ID:yXh0I1Ks信玄の直系子孫だということと、家系図に信基を書き加えることを申し出て認められ、仁科を名乗り旗本に加えられた。
幕府もいいかげんな証拠では旗本に加えたりはしないだろうし、大正時代に叙勲もされないだろう。
旗本になったのは「寛永諸家系図伝」が完成した後と考えられる。
・信基が家康と対面した時は偽名を使っていた。
・子孫が名のり出るまでは、信基直系は歴史上消えていた(記録がない)。
(素直に考えれば)ということじゃないだろうか。
0770人間七七四年
2011/12/14(水) 16:38:29.46ID:RBpRrwUpご回答ありがとうございます。
ただ寛永諸家系図伝に記載がないだけなら、その理解でよいと思うのですが、
1812年完成の「寛政重修諸家譜」にも記載がないことの説明がつかないように思います。
(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
幕末も間近な1800年代以降に「仁科」と名乗りを変えたということがありうるでしょうか。
また自分が調べた限りでは、そもそも幕末時点でも「仁科」なる大身旗本がいたという史料が見当たりません。
こうなるとウィキペディアの「大正時代に叙勲」というのも何を根拠にしているのか…。
しかし、ウィキペディアの信基の記載は、「明治時代に大坂に移住」とまで書かれていて、
根拠もなくこんなことを書くだろうかとも思います。
ちなみに旧武田家家臣の子孫で作られている武田旧恩会の顧問を仁科盛信17世の方が務めていらっしゃいますが、
林姓なので、おそらく上総武田家を頼って落ち延びたとされる仁科信正の後裔だと思われます。
あと1812年成立の甲斐国史にも、仁科盛信の後裔については記載がありません。
実在が怪しいともいわれる、旗本でもなんでもない武田勝頼の三男勝三についても記載している甲斐国史が、
(仁科信基が実在するなら)4100石の大身旗本の系譜について記載しないとは考えがたいのですが…。
0771人間七七四年
2011/12/14(水) 16:49:56.27ID:RBpRrwUp上の6行目(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
は (寛政重修諸家譜にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
の誤記です。
申し訳ございませんでした。
0772人間七七四年
2011/12/14(水) 19:59:53.14ID:yXh0I1Ks少し調べてみたら
八王子史の武田宗家に関する記述では、
信玄の盲目の次男の一子(信正)と孫(信道)が、勝頼死去の後伊豆大島に流されたが、
家光13回忌の恩赦で江戸に戻ることができた。
その後、柳沢吉保(彼も武田の血筋)の口添えもあり、
信道の子・信興が500石・表高家として旗本に列せられた。
この家系が以後武田宗家として現在に至る〜とあった。
このことから考えると4100石は確かにあまりにも不自然だね。
信基のことは作られた歴史か・・??
0773人間七七四年
2011/12/14(水) 20:53:21.85ID:RBpRrwUpどうもありがとうございます。
武田一門関連の旗本では、寛政譜によると信玄の弟河窪信実の系統が、
信実の子信俊のとき1610石、後に加増されて最大5710石にまでなっている例もあるので、
信基の石高が高いことだけではなんとも言い難いところもあるのですが、
何の事跡もない仁科信基が、いきなり3100石というのは確かに不自然な気もします。
もっと言えば、信基の系譜はウィキペディアの記載以外ではそもそも事跡が全く分からないのが非常に疑問です。
「仁科信基」の名前自体は、吉川弘文館「戦国人名事典」の仁科盛信の欄に、
「子女に信基…がいるというが確認できない」と記載されているので、何かの史料に載ってはいるのだと思うのですが、
ウィキペディアの妙に詳しい仁科信基の経歴やら系図(「仁科氏」の項目に記載があります)は、
何を出典として書かれているのか、自分が調べた限りでは全くわかりません。
(過去の編集履歴には、信基の子孫は、「明治時代に子爵になり貴族院議員になった」という記載もありましたが、
調べたところ、「仁科」姓の貴族院議員は存在しませんでした。)
履歴を見てみると、仁科信基がらみの新情報は、どうも全部同じ人が編集しているようなので、
この人に聞ければ早いのかもしれませんが…。
スレ違いだったらすみません。
ずいぶん長いこと、疑問に思っていることなので、どなたか「仁科信基」の出典について
ささいなことでもご存知の方がいれば、教えてくださると助かります。
0774人間七七四年
2011/12/15(木) 12:52:26.84ID:jSOTpVV9三浦浄心の慶長見聞集、幕府編纂の慶長見聞録とは異なるもののようですが
0776人間七七四年
2011/12/17(土) 13:56:36.31ID:D6DL9JV6北にいる方が畠山って変じゃないですか?
0777人間七七四年
2011/12/17(土) 14:34:08.74ID:ZY4I4UKa0778人間七七四年
2011/12/17(土) 16:45:21.00ID:2L5Ivl1A0779人間七七四年
2011/12/17(土) 17:03:45.89ID:51M9sQB0あれは「きたじょう」さんであって、「ほうじょう」さんではありません。
血筋的には、安芸の毛利氏と同族です。
経歴的には、北条(ほうじょう)氏に寝返ったり、上杉に帰ってきたりを繰り返してます。
0780人間七七四年
2011/12/17(土) 17:04:00.96ID:ZY4I4UKa0781人間七七四年
2011/12/17(土) 18:52:36.41ID:MeZrXIOl喜多条なんて変えさせられてたりする
まあ紛らわしいからな…
0782人間七七四年
2011/12/17(土) 19:50:10.90ID:3DFjjHzu0783人間七七四年
2011/12/17(土) 20:05:00.48ID:1R6QVEl00784人間七七四年
2011/12/17(土) 20:16:26.39ID:51M9sQB0自分の名字を諸角、両角、室住と気ままに署名したり、
あんまり漢字の正確さにこだわりがなかったようにも思えるけどね
0785人間七七四年
2011/12/17(土) 20:33:44.66ID:3DFjjHzu0786人間七七四年
2011/12/18(日) 13:26:12.97ID:3rzzFW8W0787人間七七四年
2011/12/19(月) 00:03:13.27ID:dKBhxLhK上杉に足りないのは南条さん、東条さん、西条さん
0789人間七七四年
2011/12/19(月) 01:17:11.27ID:xF8F0E9I0790人間七七四年
2011/12/19(月) 05:09:41.91ID:dKBhxLhK上と下までいるのかよ
0791人間七七四年
2011/12/19(月) 09:34:53.21ID:LMmEXHUgおめーをこれから「ジョジョ」って呼んでやるぜ!
0792人間七七四年
2011/12/20(火) 17:04:13.93ID:IE0tZoem0793人間七七四年
2011/12/20(火) 17:59:03.07ID:TvgdCrGg「岩屋賓満を取立なば名城たるべしと〜」や「賓満を居城とし、岩屋を端城とせり。」といった文章がでてきます
文脈から城のような気がするのですが、この「賓満」って何だかわかる方いませんか?
旧字体でフォントつぶれてて読みにくいので「賓」じゃないかもしれません
0794793
2011/12/20(火) 18:21:08.87ID:TvgdCrGg0795人間七七四年
2011/12/20(火) 18:28:30.22ID:+lHyTqHAhttp://g.co/maps/g6hna
岩屋城は高橋紹運墓の近くで大宰府から西
0796793
2011/12/20(火) 18:43:31.72ID:TvgdCrGg風土記でも竈門山城の項目で宝満城について説明してたので疑問が解けました
0797人間七七四年
2011/12/20(火) 19:43:18.40ID:Gwfr4y+x上杉軍と武田騎馬軍団が最強とか無敗とか言われるけど逸話が無いせいで凄さが分かりません
むしろ織田鉄砲隊が打ち破ったとか引き立て役
島津軍の鬼の引き口とか
戦国じゃないけどスパルタ兵の300人でペルシャ100万の軍勢と三日間戦い四日目でようやく全員死亡とか
そういう凄い逸話を持った軍て関ヶ原の島津軍以外でありますか?
0798人間七七四年
2011/12/20(火) 19:45:09.02ID:B+ErHbqZ0799人間七七四年
2011/12/20(火) 19:56:21.38ID:XaSiufI9じょうじょうじょう
0800人間七七四年
2011/12/20(火) 19:56:51.33ID:Gwfr4y+xそれぐらい凄い逸話を持っているという意味でお願いします
つまり
「おいおいどこの最強部隊だよ、そいつら人間か!?」
みたいな感想になるような事を挙げていって欲しかったです
0801人間七七四年
2011/12/20(火) 20:09:24.82ID:gK8ZNiza0802人間七七四年
2011/12/20(火) 20:18:21.21ID:Z1lg78jbたぶん実際の歴史とコミックや小説、映画との区別がついてないだろうから
コミックスレや時代小説スレで聞いたほうがいいと思うよ。
ここは、逸話、なんて想像や妄想についてはあまり誰も
知らないだろうから。
0803人間七七四年
2011/12/20(火) 20:37:30.70ID:IE0tZoem酷い軍勢を少数で倒したかのような記述がありますし、
あまり詳しくないですが戦国時代でもかなり数字が脚色されているような
合戦は探せばあるでしょうね。
0804人間七七四年
2011/12/20(火) 22:45:45.06ID:2lhdLLq/関ヶ原の時に徳川秀忠率いる3万の軍勢を手玉に取って決戦に間に合わないようにした真田昌幸とか、
大阪夏の陣で家康の本陣に突撃してビビらせた真田幸村とか、そういう話でしょ?
0805人間七七四年
2011/12/20(火) 23:02:50.76ID:B+ErHbqZ島津の退き口もただの潰走に過ぎない。全滅しなかったのは運が良かったというだけ。
創作だからこそかっこ良く見えるだけで、現実では全く大したことはない。
0806人間七七四年
2011/12/20(火) 23:12:28.68ID:a2MpWj0Z0807人間七七四年
2011/12/20(火) 23:25:28.65ID:2lhdLLq/戦術なのか運なのかは問題ではないだろ。
0808人間七七四年
2011/12/20(火) 23:32:53.53ID:IE0tZoemあえて言えば凄そうな逸話を紹介するのが模範的な解答であって、
蘊蓄としては面白いかもしれませんが史実では云々、逸話の信憑性云々は
この質問の解答としては少し検討違いかと。
逸話の例としてスパルタの話を出しているんですし。
0809人間七七四年
2011/12/21(水) 00:17:14.92ID:7n5wYKxzスーパー殺戮マシーンが何人も出てくる。
0810人間七七四年
2011/12/21(水) 00:34:26.20ID:nPOVPZ8Y肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
0811人間七七四年
2011/12/21(水) 01:01:04.79ID:1pb3PAl9戦国時代はまだ呪術の類を信じている人がいたと思うのですが、
大名が敵対する人物を呪殺するために僧侶や山伏を集めて
大規模な祈祷をさせるようなことはあったのでしょうか?
0813人間七七四年
2011/12/21(水) 01:29:28.00ID:7n5wYKxz味方を鼓舞したり、敵への懲伏のための祈祷は一般的に行われていた。
上杉謙信には祈祷僧に対し「祈祷が足りない。こっちは命がけで戦っているのだからお前も寝ずに祈祷しろ!」
と叱責する書状が残ってる。
0814人間七七四年
2011/12/21(水) 06:35:19.16ID:aC8T5Ia40816800
2011/12/21(水) 09:01:51.69ID:1eD5GRVzレスありがとうございました
>>810
>肝心の質問者があちこちマルチポストしたあげく姿を消したようだ。
気を悪くさせたならすいません
ただ「その質問は○○へ行け」と書かれたりすぐついたレスが否定的なものだったので
場違いなのかと思って他の歴史関係のスレッドにも書きこんで質問しました
0817人間七七四年
2011/12/21(水) 15:21:09.39ID:6DcMLV2Vレスにあるようにやってたんだが、それで相手が滅亡したりすると
僧が「祈祷料値上げしろ」「勝ったのは僧だ」「領地くれ」と言い出すかもしれないし
あくまで儀式的なもので、大規模、というと鎌倉の時のような
ことはなかったんじゃないかな。
0819人間七七四年
2011/12/21(水) 17:44:46.15ID:1pb3PAl9>>813
>>817
>>818
ありがとうございます。
呪詛というよりかは怨敵調伏や戦勝祈願などをしていたのですね。
0820人間七七四年
2011/12/21(水) 19:22:37.65ID:ej0LArfF0821人間七七四年
2011/12/21(水) 20:04:06.79ID:Q/awfNtGとある映画の中で、戦国時代の最後の大戦、大阪夏の陣と大阪冬の陣での
豊臣家vs徳川家で、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」と
いうような印象を受けました
実際に真田丸や、真田家、その家臣達は大阪城(豊臣家)を守るために壮絶な死を遂げています
ここで質問ですが、それほどまでに真田は死ぬ覚悟で豊臣家に付いていく
ほどの忠誠を立てていた「史実」での主な理由は何でしょうか?
0822人間七七四年
2011/12/21(水) 20:16:58.99ID:Usg3Tb9Dこの部分が史実では確認できませんので、後に続くご質問もお答え出来ません。
0823人間七七四年
2011/12/21(水) 20:26:15.40ID:Q/awfNtG失礼しました
とある映画で、豊臣家滅亡後の大阪城を受け継いでいたのが何と真田家だったのです
これにより、
「豊臣側に付く大名の中で真田家が一番豊臣家(秀頼や淀殿)を守る意思が固い」
という考えに至りました
0825人間七七四年
2011/12/21(水) 20:31:58.23ID:A50RNlJVとなれば、その映画はフィクションという事なのではないでしょうか?
0826人間七七四年
2011/12/21(水) 20:35:25.01ID:mmSpBMdo真の実力者、毛利勝永ではなかろうか
0827人間七七四年
2011/12/21(水) 20:38:44.13ID:Of2UvCch0828人間七七四年
2011/12/21(水) 20:47:08.59ID:c7nPyfOO徳川本陣まで食い込んだこと、関が原での足止め、本能事後の抗争などなどで、徳川に抵抗して戦果を収めてるという逸話
忠義というのはむしろ後付
弱い忠義の士が壮絶な討ち死により、強い忠義の士が壮絶な討ち死にのほうがお話として悲壮感もあってもりあがる
と、いうながれで忠義っていう設定になってるんじゃなかろうか
まあ実際そういう忠義な話があるのかもしれないが、上みたいに考えても納得できるんじゃないか?
0829人間七七四年
2011/12/21(水) 20:59:33.28ID:Usg3Tb9D休戦期間中に信繁が大坂から義兄に宛てた手紙の中では
「思わぬことで戦になり大阪方に付きました。奇怪なことだと思われたでしょう」と書いている。
もちろん敵対することになり迷惑をかけている実家に遠慮しての言い回しではあるが
逆に言えば奇怪(おかしなこと)と書けるという事は、大阪方に味方するのが当然という理由や義理は、
姉の夫という身近なものでも知らない、もしくは無かったと推測することができる。
0830人間七七四年
2011/12/21(水) 21:06:13.07ID:nPOVPZ8Yタイトルをハッキリさせるべきだが、いずれにしても創作としか言いようが無い。
真田丸を作った真田幸村は史実では真田信繁であり、徳川についた兄、信之とは違って、
徳川の世には身の置き所の無い立場だった。豊臣とともに滅ぶしかなかった訳だ。
それは長宗我部盛親とか後藤又兵衛なども同じだが、真田程には有名でなかったので
映画の主人公にはなれなかったというだけの事。
>>816
スレ違い、板違いと言われるのはしょうがないね。史実を離れた話を所望したんだから。
それで俺が何処かに書いた宇梶剛士の話はどうなの?
0831人間七七四年
2011/12/21(水) 21:25:06.79ID:6DcMLV2Vどっちが勝っても家が残るようにしてた。
だから「忠誠」というよりは好戦的に「武功を狙った」というほうが
シンプルではあるだろう。
また、壮絶、覚悟、などやけに美化した表現が多いけど
戦いとは普通はそういうものだし数時間で負けてるから
そんなに言われてるほどたいしたことでもない。
撤退する時の言葉とかも妙にカッコよく捉えられてるけど
単に「負け惜しみ」というところ。
これは直江あたりにも言えることなんだけどね。
0832人間七七四年
2011/12/21(水) 21:57:38.51ID:NwiS4Ema豊臣への忠節と言うよりは、もう他に行き場もないから最後っ屁って感じだと思うぞ
0835人間七七四年
2011/12/21(水) 23:27:00.63ID:1eD5GRVz1対100で喧嘩したのはガチで凄いと思います、ありがとうございました
ちなみに板垣恵介の達人列伝という本だとスタミナの問題で達人でも30人
相手に勝つのがやっとらしいのでよほど相手が弱くない限り宇梶剛士の喧嘩術
は格闘技の達人のさらに上位に位置するのでしょう
バーリトゥードでもやっていたら有名選手になってたかもしれませんね
0836人間七七四年
2011/12/22(木) 00:12:21.10ID:F5GcXW5cバラエティ番組での話によると、向こうも数は多くても内心ビビってたんで、オリャーって行ったら蜘蛛の子を
散らすように逃げたらしいです。
0838人間七七四年
2011/12/22(木) 00:20:26.12ID:F5GcXW5cだから本当なら仕官を頼む以前に軟禁から解放されるように頼む所だろ。
許しを乞う事もしないで仕官したいなんて虫の良い話が有るか!!
0839人間七七四年
2011/12/22(木) 00:22:28.09ID:ASyxVd0S正確に言うと調伏は悪人を改心させ仏法に帰依させる行為のことだから
呪詛の類とは違うし仏典でもそこは明確に区別されてる
時として相手を殺す場合もあるがそれは
悪人をこの現世では命を奪い来世で仏法に帰依させ救うという調伏の仕方に過ぎないし
これは『涅槃経』などの経典にも説かれている
一応、調伏とは違って本当に相手を苦しめるためだけの行為である呪詛もあるけど
これはあまり表だってやってたとは思えない
それなりに仏教への教養があったはずの上杉や武田が
そこを混同してたとはちょっと考え難い
0840人間七七四年
2011/12/22(木) 09:24:52.36ID:ISwhaZPx0841人間七七四年
2011/12/22(木) 10:54:51.74ID:LfcX9W4Rちょっと考えれば分かる話なのにw
0842人間七七四年
2011/12/22(木) 13:56:44.63ID:Awg875Bhこれだとしたら確かに真田が大阪城と豊臣家を守って、あるいは継いでいるけど
なぜ原作者は真田にしたのかはわからないが世間の一般人の通説と同様に
>>828氏の書いている考えなのかも知れないね
大阪冬の陣、大阪夏の陣での真田信繁 (幸村) の活躍
http://www.youtube.com/watch?v=9A9mbDCnlPw
0843人間七七四年
2011/12/22(木) 14:00:54.19ID:HwiZYMdr関ヶ原の戦いとそれに続く大坂の陣は無かったと考えていいんだろうか。
それとも、その後淀との間に生まれる秀頼との間で結局は似たような
経緯を辿ったんだろうか。
冬休みに帰省してきた厨房の従兄弟に聞かれて自分でも気になった。
秀吉の配下で日本全国レベルでの政治ビジョン持っているような人材がいれば、
戦いに至らせずに豊臣の治世を成立させられたのかな。
0844人間七七四年
2011/12/22(木) 14:21:51.70ID:yFFNXlTl三成の政治手腕でできたのかどうか…
0845人間七七四年
2011/12/22(木) 14:32:27.57ID:wbCmUAohこれだと石田でも良かったんじゃないか
というか寧ろ石田三成じゃないとおかしい
豊臣家では五大老、関ヶ原での西軍大将
知名度と武勇で真田を選んだとしか思えない
0846人間七七四年
2011/12/22(木) 14:34:31.51ID:z74BLa2d0847人間七七四年
2011/12/22(木) 14:35:32.64ID:wbCmUAoh0848人間七七四年
2011/12/22(木) 16:44:33.02ID:ASyxVd0S私はあいつが個人的に憎いわけではありません
正義のために悪いあいつを神仏の力で救って欲しいんです
後、私たちは正しいことをしているので悪い人たちに負けないようにしてください
という名目でしてもらうのが調伏の類
あいつが憎くて仕方がないんです
どうにかしてあいつを呪い殺したいんです滅亡させたいんです
という名目でしてもらうのが呪殺や呪詛の類
少なくとも調伏と呪詛では祀る本尊も違えば儀式内容も違うため
寺院側は明確に使い分ける必要があることだから
仮にそこら辺を知らないで大名が適当に依頼してても
寺院側は文脈から判断してどっちかをしてるはず
普通は世間体を気にするなら調伏の名目で依頼すると思うけど
公的に「呪詛」や「呪殺」の名目で寺院に依頼している人がいた可能性もあるから
そこら辺は否定しきれないけどね
自分が知る限り、多くの大名は調伏の名義だったと思うんだが
0849人間七七四年
2011/12/22(木) 16:52:14.99ID:ASyxVd0S当時でも寺院や僧侶は意図的に使い分けていた言葉だから
調伏と呪詛が全く同じという認識は理解として間違いって話ね
当時の一般民衆や権力者がどれだけ意識していたか
もしくは知っていたかは全く別問題だけどね
少なくとも>>819はわざわざ呪詛と調伏を使い分けて話しているし
そういう認識の上で話してたんだろうから間違いってわけではない
0850人間七七四年
2011/12/22(木) 18:40:55.22ID:PfvOHCThこれに豊臣政権をまかせたんだが
裏切られた時点でアウト。
秀吉や秀頼にポコポコ男子がいたら別の話だろうが
それがうまく家康から人質とって裏切れないように
しててどうかというとこかな。
まったくイフなんだけどね。
ちょっとは面白いか。
0852人間七七四年
2011/12/23(金) 17:37:10.05ID:6aoiX+FV茶々との間に生まれた子は徳川に養子に出されたりして。
そうすると家康もまた作戦が難しくなったろうな。
0853人間七七四年
2011/12/23(金) 20:18:35.88ID:5ck8nFSA0854人間七七四年
2011/12/23(金) 21:22:15.68ID:7PU6Y+ewこれが無ければ外様の大大名が政権に参与する事は無くなり、
二頭体制の勢力争いが発端となる内紛である関ヶ原は起こりようが無い。
家康は豊臣政権内での権力を巧妙に利用して味方を増やし、且つライバルを潰していった。
いくら大封を領しているとは言え、一大名家であっては同じようには出来ない。
少なくとも彼一代で豊臣家を潰すなんていう真似は到底無理だろう。
秀吉死後に大大名たちが徐々に中央政権から離れて独立していく可能性はあるけど。
寧ろ問題なのは取次である浅野・増田・石田の三人。
取次として大大名を下につけた彼らが増長する方が危険。
0855人間七七四年
2011/12/24(土) 23:44:18.46ID:sFZQER3V統一を目論んでいた大名は信長以外、具体的に何家が挙げられるでしょうか?
0856人間七七四年
2011/12/25(日) 02:06:52.51ID:/2jv068B0857人間七七四年
2011/12/25(日) 14:29:06.75ID:E6Ei/OEs明日誕生日だ。
0858人間七七四年
2011/12/25(日) 19:14:32.39ID:8kvaR82B0859人間七七四年
2011/12/25(日) 20:56:21.42ID:SMAAy7mw考えられる。
0860人間七七四年
2011/12/25(日) 21:37:31.35ID:g2K58TyL0862人間七七四年
2011/12/26(月) 14:28:46.19ID:6ySSGuLWまず思いつくのは織田信秀。
名古屋城を奪取するにあたり、名古屋城主の今川氏豊と「歌」による文通を続け、
ついに氏豊からの招待を受けた時に屈強の配下を伴い入城し、即効で城を奪った。
0864人間七七四年
2011/12/26(月) 16:29:53.15ID:6ySSGuLW0865人間七七四年
2011/12/26(月) 16:34:51.57ID:6ySSGuLW俺は「戦国時代は明応の政変から説」を支持しているから、時代が違うと思ってね。
0866人間七七四年
2011/12/26(月) 19:06:22.42ID:9YtJ2Df80867人間七七四年
2011/12/26(月) 19:10:08.30ID:wWA4Qwthhttp://www.youtube.com/watch?v=0I67fdId6QY
0868人間七七四年
2011/12/26(月) 21:11:35.30ID:/5Ln4VyZ0869人間七七四年
2011/12/26(月) 21:17:56.44ID:NlUFjt6t漢詩というと直江兼続なんかも戦国武将のなかでは有名かな。
三好長慶などにしてもそうだけど、基本的に当時の武将はこういったスキルは
かなり高い
0870人間七七四年
2011/12/26(月) 21:18:07.78ID:9AaqD6BF俺も基本的には明応の政変論者だが、関東に関しては享徳の乱まで遡るのはありかと。
戦国時代の始期を応仁の乱から明応の政変に繰り下げたのは室町幕府中央の権威が存在していたから。
一方、関東は室町幕府の直接統制下になく鎌倉府の下にあった訳だが、中央の明応の政変に相当するのが関東管領上杉憲忠暗殺だと思う。
0871人間七七四年
2011/12/26(月) 22:00:37.09ID:IMacZv3A0872人間七七四年
2011/12/26(月) 23:13:33.53ID:9YtJ2Df8そういうのよく聞くね。
関東の学者は享徳に始まりを持っていって
西より先に戦国に突入した、進んでたみたいな。
武士の起源とかもそうだけど微妙に東西で学説とか
解釈が分かれてたりするのは根拠がわかったりするから面白い。
最近は東国の戦国大名の本がよく出てるけどなんか
ちと拡大解釈してるような感じはするんだ。
そんなに歴史の中心にいたり動かしてたわけでもないだろうにね。
0873人間七七四年
2011/12/26(月) 23:24:17.40ID:LdVEqifJ> 西より先に戦国に突入した、進んでたみたいな。
アホか。そんな解釈してるお前の方に関東コンプレックスしか感じないわ。
0874人間七七四年
2011/12/27(火) 00:19:51.80ID:tYipOkiR比較対象の西国大名が未だに研究不足でようわからん
0875人間七七四年
2011/12/27(火) 09:44:52.25ID:cNhEIrvT関東戦国時代の開幕だろう。
これで関東は修正不能の完全なカオスになった。
0876人間七七四年
2011/12/27(火) 13:05:00.39ID:O1/dARaZ完全な南北統一が終わる前に享徳の乱が発生しているんだよね
初めから混乱状態にあって、戦国時代も延長戦でしかない気もするのだが
0878人間七七四年
2011/12/27(火) 13:49:05.70ID:mhunsbe2関東の戦国への導火線になってるからね。
それで東日本が鎌倉府のもんだから自分勝手にやらせてもらうわ!
なんて鎌倉公方が思ってたし、義持もそれでいいやって放任。
そこにくじ引き将軍義教が全国は俺のもんじゃ〜とばかりに強圧的。
そんで鎌倉府を潰して、俺の子を鎌倉公方にするべw
そこで結城の乱が起きて、その戦勝祝勝の鴨の子を眺めて楽しむ会で
義教が殺され、越後上杉や利根川以東のやつらが
鎌倉公方を復興してくれー。じゃあ復興させっか!となったら成氏暴発だもんなw
そこに景春が山内上杉の勢力の半分近く引き連れて謀反し成氏と共闘し
その後のドンパチで早雲・為景・信虎が暴れ出すとか花火と燃料をあげすぎw
0880人間七七四年
2011/12/27(火) 14:58:07.89ID:2S9o3xOV別に自分の解釈じゃなくて普通の本に書いてあると思うが。
自分は877じゃないが少し極論っぽいが
戦国の定義によるとは思ってる。
それと東西で解釈が全然違うのは今後
大河で話題になるから面白いとは思うけどね。
0881人間七七四年
2011/12/27(火) 19:11:39.90ID:ZKo+/957「関東の戦国時代突入は、西より先」とは確かに書いてあるが
「進んでる」などと妄言はどこにも書いてはいないだろうな
0888人間七七四年
2011/12/28(水) 08:43:31.27ID:ax4lKcLn怒って噛みついてるだけの話だな。
0889人間七七四年
2011/12/28(水) 10:55:46.00ID:ytd0werF東西どちらががどれだけ優越してるかなんて話題は頻発してた
0890人間七七四年
2011/12/28(水) 11:47:10.20ID:S1d0v7sy0891人間七七四年
2011/12/28(水) 12:56:04.40ID:suNE31yeなんてどこにも書いてないんだけどね。
873や883がそういう解釈をすることこそ
コンプレックスだと思うのだけど。
自分は尾張出身だしどっちでもいいから
889のようなおっさんだが。
ところで権門という言葉自体が関東に多く見られる気がする。
なにかこう、朝廷とか将軍に対抗したいようなとこがあるというか。
0892人間七七四年
2011/12/28(水) 16:39:28.63ID:1gMNYxkkやっぱり当時は畿内が日本の中心でなにかと先行していたんじゃねえの?
0893人間七七四年
2011/12/28(水) 17:12:10.09ID:5jxEWvsw0894人間七七四年
2011/12/28(水) 21:31:53.99ID:qFyiZKB8嘘や間違いを書けば、そりゃ叩かれる。
質問スレなんだから。
ましてや、「西国住人がプライドを傷つけられ」だの、
「そういう解釈をすることこそコンプレックス」だの、
素人のエセ心理学で深読みするのは、全くの無内容としか言いようがない。
事実だけ書けばいい。
0895人間七七四年
2011/12/28(水) 21:42:52.94ID:suNE31yeいろんな説がある、というのが基本だと思うが。
事実かどうかの質問じゃなく、どう解釈するか、という
質問にはいろんな説を紹介するのが普通だろう。
おかしなチャチャが入ってあれなんだが
873みたいなレスが一番困ると言うことだな。
0896人間七七四年
2011/12/29(木) 00:47:36.70ID:51ZYrfic次の方どうぞ
0898人間七七四年
2011/12/29(木) 15:16:41.74ID:ex5iZjOT0901人間七七四年
2011/12/31(土) 11:56:10.40ID:hrBLKNkr0902人間七七四年
2011/12/31(土) 12:22:39.97ID:WGenGiM4幕府も鎌倉府も大空位時代を経て、
双方に幼君が擁立されて、
完全に権力が管領らに移ったから。
0904人間七七四年
2011/12/31(土) 13:40:38.01ID:7Dmr82ekそれ司馬遼太郎時代の通説だろ
最近じゃ小氷河期や災害時代説が解明されて
食料不足や秩序崩壊による混乱から各地で戦乱が起き、
(一昔前までは2毛作などは生産力の向上をあらわしているとされていたが、
近年では生産力減少を補うために開発されたやり方だというのが定説化されてる)
各地の地方大名達がそれぞれの地域を統合して地域秩序を形成していき、
やがてそれら地方大名達が形成していた地域秩序の上に乗っかる形で
豊臣政権が惣無事による日本統一を達成したというのが
現在の定説のはず
0906人間七七四年
2011/12/31(土) 14:35:32.53ID:tddURZHRこれ 詳しくわかる資料はありませんか?
つか二毛作成立は9-10世紀に遡るから小氷河期と一致しませんよね
そこらの解釈が知りたいので……
0907人間七七四年
2011/12/31(土) 15:08:35.49ID:BNFbhdyD0908人間七七四年
2011/12/31(土) 15:49:11.20ID:aEVH4OsCこれで大量の餓死が生じたが、これも商人による人災であり
商人・高利貸しが価格高騰に操作して被害拡大したものだとされている。
この日本弱体化が朝鮮軍による対馬攻撃を呼び込む。
基本的に人災によって餓死が起きるのであり
生産力自体がどんなに飢饉でも領民を喰わせるだけの地力はある。
現在の1億2500万人は無理だが。
あと西洋で起きた大噴火の火山灰が大気に舞ったから
天候悪化し小氷河期になったとする説もあるね。
ただ飢饉や餓死ってのは圧倒的に東国に多い。
一般的に東国の長雨と西国の旱魃が恐れられている気象だったが
西国では溜め池により解決できた反面で、
東国の特に標高が高い地での長雨ってのは冷害、
平野部では大洪水を発生させるため致命的。
基本的に畿内以西では司馬の説は正しいように思えるが
東国では信玄の土木河川工事に代表されるような
統一権力による治水が要求されたように思える。
堯舜禹の治水伝説なんてのもわかる話。
0909人間七七四年
2011/12/31(土) 16:35:02.08ID:hrBLKNkr権力が管領らに移ったからというのが戦国時代幕開けとなる切欠になったですね。
強大な存在が無くなり、権力が管領らに分散されたため、権力者同士が争うようになっていったとう感じでしょうか。
>>903
農業生産力の向上により、支配構造にも変化が生じたのですね。
当時の支配構造を想像するのに必要な知識がまだ当方乏しいものでして、
支配層の何の力が弱まり農民層の何の力が強まったのか、何か例がありましたら教えてください。
>>904-907
小氷河期/温暖化期説などもあるんですね。戦国時代となった要因に気候も関与してるなんて面白いです。
小氷河期説では、食料を求めて民衆が争ったという見解なのですね。
温暖化期説を採る場合は、どのような見解になるのでしょうか?豊作だと争いは起きなさそうですが、
温暖化すぎて作物不足だったのでしょうか?
>>908
金融市場の政策の失敗なども争いの種を生んだ原因の1つなのですね。
さらには自然災害もあったりなど、戦国時代は様々な要因が折りに折り重なってたんですね…。
勉強になります。
0910人間七七四年
2011/12/31(土) 16:55:07.88ID:OW60Be7N温暖化で生産力が上がる→土地を持つ農民の力が強くなる
↓
人員(軍事力)と年貢(税収)の根源である強くなった農民層(惣村)を
直接支配する国人層の力が強まる
↓
上に乗っかってるだけの幕府や守護の言うことなんか聞いてらんねー
俺らの方が力が強いんだから上に立ってやる
↓
全国的な下克上の時代
教科書的な戦国時代説明はこんな感じ
0911人間七七四年
2011/12/31(土) 17:04:55.64ID:aEVH4OsC畿内における惣村一揆や一向一揆のように
民間レベルで力を蓄えて、守護層の命令に対して
抵抗するようになったことが挙げられる。
これは農業技術の向上により
石高の飛躍的向上があったと考えられる。
それと共に渇水時の河川の水止め争いが近江などで頻発し、
その解決策を幕府が出すが、現状を把握してるわけでなく現地では無視される。
それを話し合いにより、円満解決した浅井などが
六角や京極ら守護権力に抵抗する惣村コミュニティーを形成する。
これは一向宗も同じで守護に対抗するために組織されたもの。
村単位での自主独立に近い感じ。
摂津や和泉などは逆に商業都市による自治に進化。
その一方で西国は将軍や大内へ意見・抵抗するための
国人一揆という古い体質が毛利手動で生きながらえているのは
大内氏などが彼らに弱腰で帰属してもらいたい側ゆえ
緩やかで、温暖な気候ゆえにぬるかったのだろう。
この大国に対抗するべく組織された国人一揆は南関東でも存在していたが、
いち早く戦国に突入していた関東ではさっさと解体されている。
0913人間七七四年
2011/12/31(土) 18:38:29.09ID:kM6X99Yn宇宙物理の最新ぽい説でガンマ線とかそういう宇宙線が
具体的に全地球的に影響を及ぼしたというのがかなりの短い
スパンでわかってきてて数年のうちにも細かい気温みたいなのが
説明できるのかもしれないのだよね。
異常気象みたいなのはそんなに突発で大被害をもたらしたわけで
もなくすべての原因を気象や飢饉に持っていくのは少し違う
解釈になっていくのかもしれない。
0915人間七七四年
2011/12/31(土) 21:36:24.94ID:E98n4YHv商業先進国の畿内の商力が、
自治権獲得の動きを示した。
地方では守護代が国人たちと組んで、
在京する守護への納税をチョロまかした。
管領家や将軍家の後継を巡って徒党、派閥化し闘争。
すると自派に付くなら守護代でも国人でも誰でも身分を引き上げる約束を乱発。
守護代を守護にしてやるなどと言い出して、
斯波の被官だった守護代の織田や朝倉らの立場が強化されていく。
0916人間七七四年
2012/01/01(日) 15:46:14.43ID:W2OMtoZJ手紙は現存しているし、日付は5月28日になっている。
愛宕百韻は24日だから直後だろ。
信長の命で秀吉に合力することと
その後でそちら方面に行くから、なにかおいしいものをよろしく・・・
こんな内容。
0917人間七七四年
2012/01/01(日) 16:13:13.69ID:RemgNBFE現存してないだろ
写しだろ残ってるの
だから「自」と「尉」のくずし字を誤写したんじゃないかって説がでてきたんだし
まあ個人的には天正十年だと思うけど
天正九年じゃ織田・毛利の状況に合致してないし
0918人間七七四年
2012/01/02(月) 08:27:30.39ID:NCBGxDXr藤田が九年説だっけ。
「証言〜」に載ってるのかな、それ、見てみないといかんな。
愛宕百韻も今は7〜28日ぐらいが一般的な説じゃないのかね。
だから降りてきてすぐに行動したみたいな。
これも実はよくわからないんだけどな。
0919人間七七四年
2012/01/02(月) 15:44:16.40ID:feNYyGQd逆に守護が領国に帰って大名になったケースも多いのかな? 今川とか畠山がそんなん?
0920人間七七四年
2012/01/02(月) 16:56:39.14ID:78FsLkHH0921人間七七四年
2012/01/03(火) 10:50:14.04ID:9QeJ8QKeつーか最近では海底地層学からの時代別温度の調査が行われ、
中世は偉く寒い時代だったって事が判明した事が小氷河期説の論拠だろ
0922人間七七四年
2012/01/03(火) 13:14:32.75ID:HQF+G/g0海底累積物コアから中世の小氷期が確認された、なんて話は聞いたことがないけど……
つか小氷期(LIA)てのは「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」(IPCC)
って定義されてるわけで、東京(年平均15.6℃)と新潟(13.2℃)の差ほどもなかったりする
現在、中世小氷期は局地的気候変化の範囲内、って判断されてると思うよ
0923人間七七四年
2012/01/04(水) 08:28:36.24ID:ywUyqCw3バウンドして射程外まで届き、草むらに水を流し込み沼地にしてバウンドを防ぐ
っていうシーンがあったけど鉄の砲弾って草むらでバウンドするんですか?
子供向けギャグ漫画でも一応は真面目な合戦場面での事なので質問しました。
0924人間七七四年
2012/01/04(水) 09:37:20.03ID:FznhNkcFhttp://www.youtube.com/watch?v=HUFTcrbRyEM
射角が低いとめり込まずに反跳する
0925人間七七四年
2012/01/08(日) 00:00:16.81ID:mgCYJcG20926人間七七四年
2012/01/08(日) 00:04:19.92ID:LRLmi7QB0927人間七七四年
2012/01/08(日) 13:23:32.56ID:lDaZ0YDe西洋も東洋も同じく、銃器の発達と共に鎧は廃れていく運命なのさ
0928人間七七四年
2012/01/08(日) 17:47:44.21ID:wc1iV5yB欧州では鎧が廃れる代わりに工兵や重火器が発達していくわけだが
0929人間七七四年
2012/01/08(日) 21:01:18.66ID:W/13sAdu0930人間七七四年
2012/01/08(日) 21:08:41.88ID:GJSROX7Y0931人間七七四年
2012/01/09(月) 00:27:16.61ID:ASeFSQgs草鞋なんかは基本使い捨てで、武士だとひとつの合戦で履きつぶす感じ。
0932人間七七四年
2012/01/09(月) 15:30:10.56ID:rMrhsbUm鼻緒が切れたら手ぬぐいを切って紐の代わりにして応急処置してた
って戦前生まれのじっちゃが言ってた
0933人間七七四年
2012/01/10(火) 17:30:22.73ID:5A/E64Ijどのように付けてるの。 接着材?
0935人間七七四年
2012/01/10(火) 17:41:38.48ID:1cggC8JG0936人間七七四年
2012/01/10(火) 17:47:32.13ID:k1jYGRTehttp://www.lets-go-aichi.jp/article/620/IMG_3067.jpg
横の棒に挿し込む。
差し込むと
http://www.hina.co.jp/5gogatuningyou/5112/5112syoumen.jpg
こんな感じになる
0938人間七七四年
2012/01/11(水) 08:26:19.06ID:dGtlP9Py何か地理的な理由があったのでしょうか?
0939人間七七四年
2012/01/11(水) 10:09:36.26ID:imi153d0らしいですね。
0940人間七七四年
2012/01/11(水) 10:43:48.36ID:5l+Vj7je城壁都市は国家間、民族間での戦争が頻発する地域でより発達するものであり
異民族による根こそぎ略奪や、他国家による総奴隷化を防ぐもので
日本も統一国家の出来る前は城壁都市の原型である環濠集落が基本であったが
その後の日本の戦争はほとんどが内戦であり、極端に言えばやくざの縄張り争いに近い物で
新しいシノギを壊滅させる馬鹿は居ないので、一時的な略奪暴行を回避できる規模の
城や寺や山などの避難所があれば城壁都市を築かなくとも事足りた訳だ
それを踏まえて質問の戦国時代は末期になると内乱から踏み出し国家乱立の体をなし
さらに城下町が発達し守るものが増えると、総構えという、簡易城壁都市が出てくるが
すぐに戦乱が終わり城壁都市まで発達する必要性がなく終わった。
2次的な要因として地震が多い、高温多湿なため城壁で囲ったら蒸し風呂になる等もある
0943人間七七四年
2012/01/11(水) 16:35:00.85ID:i+p19M1p0944人間七七四年
2012/01/11(水) 17:32:58.89ID:npDQ3DqI違う違う
近年における海水準曲線の変動推移調査によると
気候の温暖化における海水面上昇は1110年頃に最高潮を向かえ
これ以降の年代から海水面は急速な衰退期に入っており、寒冷期の始まりが示されており
やがれそれは戦国時代となる15、16世紀でバリア海退とよばれる海水面減退の頂点を迎えており、
戦国時代が寒冷時代であった事を示している
そして、16世紀末から海水面は再び上昇に転じていき、小氷河期は終わりを告げる、というのが
海水準曲線から見た日本戦国時代の気候的背景であって
これを見る限り日本戦国時代は寒冷時代の極点を背景としていた事がうかがわれるぞ
0945人間七七四年
2012/01/11(水) 18:26:55.65ID:n7higtCEパリア海退って鎌倉末期(14世紀)じゃない?
海水準曲線変動から見れば戦国時代(16世紀)は海進してる
だから戦国寒冷期の反証にしかなってないと思うのだけど……
0946人間七七四年
2012/01/11(水) 18:33:28.13ID:npDQ3DqIなんで?
バリア海退と戦国時代日本気候の関係は普通に山本氏とフォアブリッジ氏に基づいてるが
君のは何が論拠?
てか、こっちも16世紀末、つまり戦国時代終焉期には上昇してると書いてる
君のいってる事は正直、相手のいったことから抜き出して自分に都合よく反証とさせてるだけにみえるけど?
とりあえず論拠頂戴
0947人間七七四年
2012/01/11(水) 19:08:43.13ID:n7higtCE>戦国時代が寒冷時代であった事を示している
山本武夫先生、こんなこと言ってったっけ???
根拠も何も、戦国時代まっただ中(16世紀中旬)には海進おきてるじゃん
「これを見る限り日本戦国時代は寒冷時代の極点を背景としていた」
…なら、この海進の原因は何??
つか16世紀末から北半球の寒冷化が始まり、17世紀にはアルプスの氷河成長が問題になったのに
あなたの説(16世紀が寒冷時代の極点)によれば、暖かい時期はどこにあるの??
0948人間七七四年
2012/01/11(水) 23:12:06.71ID:UNKBaRjn樹の年輪を分析しても、文書から見た異常気象の分析でも、
どの時代が最も寒かったかとか、研究によって食い違う
0949人間七七四年
2012/01/12(木) 00:12:55.55ID:YRGr66DAどこが谷かはまだ確定はしていない
冷害の記録も暖かいことが原因の長雨だったりとかな
0951人間七七四年
2012/01/12(木) 15:08:21.77ID:Q0JlhDl9くぐればここに
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1057256495
0952人間七七四年
2012/01/15(日) 00:39:11.81ID:jhjNW+yMあと戦国と少しずれてるけど江戸時代の農民が閑農期に微分積分で遊んでたってのは本当なの?
たまに2chで聞くけどどうも信用できない
0955人間七七四年
2012/01/15(日) 09:06:56.05ID:Z3q2/nh7そういう農民さんがいたのは記録にあるけど
「みんなが」というわけではない。
微分積分というかパズルの解き方ってことで
自分で努力工夫したと言う話があるということね。
それと江戸時代の数学ー和算自体はかなり進んでいたのは事実。
だから寺子屋なんかで先生が「これはとけるかな」みたいなのは
やてたろうし、中には賢いのが自力で解いちゃったかもしれない。
そういうのは田畑の面積、年貢の歩合、と実用にもなったから
今のわしらよりよほど実用的であった、ということね。
このぐらいでいいかな。
0956人間七七四年
2012/01/15(日) 09:26:40.29ID:jhjNW+yM同じ2chでもvipとかνで聞いた話だからさ
>>955
ありがとう
おらが村の秀才ならまだしも、殆どの農民がかなりの数学できたんだぜ!的な書き方が信用できなかったんだ
0957人間七七四年
2012/01/15(日) 10:28:14.54ID:L4NFrw4P0958人間七七四年
2012/01/15(日) 19:46:43.37ID:OUNrAj+H山や海で働いてたから逆に数学と言うか
天文気象力学算数みたいなのは体で覚えた
必需ルールでもあってそれはある意味今以上って
言い方もできるかも知れないんだよね。
田畑の水運なんてのは村の運命にも関わるし
段々畑だと台形立方体の体積分割とかそういうのも
関係してくるかもしれない。
おらが村の秀才の尊敬のされ方は尋常じゃなかったろうなぁ。
0959人間七七四年
2012/01/15(日) 21:52:31.68ID:tIPswftlだが、基本的に和算はパズル以上のものでは無い。和算が出来ても同好の士以外には尊敬もされない。
実用って言ってもせいぜい鶴亀算みたいのくらいだろう。
0960人間七七四年
2012/01/15(日) 23:35:44.64ID:79GQvJVc0961人間七七四年
2012/01/16(月) 00:10:13.02ID:vJMlLGjE0962人間七七四年
2012/01/16(月) 12:08:54.52ID:CbQsCTY0必要でしょう。だから暦でなく気象天文にしたのだけど
そういう私暦みたいなのは計算はされてたとは思うよ。
0963人間七七四年
2012/01/16(月) 13:10:00.92ID:C//vCHAb年貢の換算や検地、堤防や水路などの土木計算、揚水装置の設計、天文や地図作成の測量など
色々な面で使用されていた
むしろ数学の研究が本格化したのは維新後に西洋数学が入って来てから
0964人間七七四年
2012/01/16(月) 13:13:57.33ID:ELgndS79自分の予定表作るのにExcelのマクロ計算使います、って言ってるくらい無理が……
0965人間七七四年
2012/01/16(月) 16:39:30.94ID:CbQsCTY0田んぼといっても日当たりは違うわ
場所、地域、地方によって違うし
同じ品種でも収穫手法が当然違ってくるでしょう。
だから村総出で順番に稲刈りする時でも
「もう3日あと」とか経験則で数えて判断してたということね。
早いと少なくなるし遅いと台風が来るかもしれん。
公式の暦とは別に実用段階でのマイ暦を作ってたろうな
ということで、別に無理とかそういう問題じゃないのだけどね。
0967人間七七四年
2012/01/16(月) 22:57:18.52ID:vJMlLGjE>経験則で数えて判断してたということね。
そういうのは種まき爺さんのような雪形などとして伝承してるけど、和算と何の関係が?
0969人間七七四年
2012/01/16(月) 23:58:58.89ID:0eQUYzYmわざわざ和算だのマイ暦だの使ってたら、逆にバカとしか思えないがw
0970人間七七四年
2012/01/17(火) 03:00:35.02ID:usP3r4si0971人間七七四年
2012/01/17(火) 03:12:48.94ID:ONrrEHat0972人間七七四年
2012/01/17(火) 20:53:38.04ID:lyjZIa1X剣の達人の公家ってどんな人がいる?
0974人間七七四年
2012/01/19(木) 15:35:16.66ID:9WEAwUVo北畠は代々そっち方面で有名。
公家でありながら、後に戦国大名に名を連ねる。代表格は北畠具教。
0975人間七七四年
2012/01/20(金) 09:02:38.93ID:DHmDQ/T8一丁1000両(1150万円) 量産化に成功した信長は一丁1000文(50万円)
ってやってたんですけど、これだと計算上は
1両が1万1500円、1文が500円ですよね? 小判一枚が一万円札、最低通貨の1文が500円玉感覚なんですか?
そうなると23文で1両になっちゃいますよね?
この時代の通貨単位や価値について教えてください
※以前本で読んだ時(これも内容メチャクチャ)
1文
1朱 (1部の4分の1、何文なんだよ)
1部=250文
1貫=4部=千文
1両=4貫=16部=4千文
(両は金貨銀貨の数え方なので銀1両、小判1両、大判1両かで変わる)
0976人間七七四年
2012/01/20(金) 14:49:22.19ID:aM4rQmP3一文は100円程度。
一貫文(1000文)が約10万円
一両に相当する金4匁〜4匁5分が30万円
*大判が金45匁で作られ、後にこれが小判10枚相当ということから
一両という貨幣は当時は無いから重さで取引されていた。
当然金の質に差があるからどこの産かで価値は違う。
銀は当時から金の5分の一ほど。
これで行くと>>974の金額はデタラメということになるが??
0977人間七七四年
2012/01/20(金) 14:52:40.06ID:aM4rQmP30978人間七七四年
2012/01/20(金) 15:03:00.25ID:UQIfc1yt戦国時代へそのまま適用はできない
大体、江戸時代の通貨も時代によって価値が全然違うし、
何を基準にするかで現代での価値も相当変わってくる
一両あたり、米価換算なら四万円、給与換算なら30〜40万円、そば代換算なら12〜13万円
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq.htms
0979人間七七四年
2012/01/20(金) 16:05:15.50ID:n2O+vQTX当時の金銀銭交換レートを反映してると思うからコレを元にして……
都(1582頃)豆腐一丁3文 ナス10個で一文 日払い日当20枚くらい
「時代を超えて野菜の値段はそうは変わらない」と思うので”ナス”基準で以下計算
現在スーパーで長ナス一本50円、つまり信長は一丁ナス10000個→50万円相当で購入
これは>>975の数字にあってるね
で、種子島時尭は1挺金1000両で購入(1543)これは銭150万ナス1500万個
つまりナス換算で一丁7億5千万円で買ったことに……
なんか「1000両=1150万円」の計算の元が気になるねぇ
0980人間七七四年
2012/01/20(金) 17:03:02.80ID:IXuB1Hw5魚も記録が残ってるからできそうだな、イワシレートとか。
江戸は長いしテレビなんかだとかなり後期のプライスだから
戦国には合致しないだろうなぁ、300年立ってるし。
ソバは固定で末期に値上がりしたからわかりやすいのだけど
やはり外食だからか米レートとは結構違ってくるよね。
信秀が寄進したのが3000貫とか信長が本願寺に
要求したのがそのぐらいとか、それだと一貫10万以上というのは
ちと高すぎるようにも思うのだよね。
仕事人さんは1両で引き受けるけどそれ思うとゴルゴさんは
ぼったくってるよな。
最初は1000万ぐらいだったけど最近はいくらぐらいになってるのかな、
ヒットマン料?
0981人間七七四年
2012/01/20(金) 17:06:48.05ID:HmIo6lKP金自体の価値も現代は下がってるし米等もエンゲル係数が馬鹿高かった時代
その中では職人の日給から算出した30万〜50万円が感覚的に一番しっくり来ると思うよ
ただ物価も現代と違って京と関東で2倍の差が付く場合があるとか
地域格差が大きいとかも考慮に入れないといけないが
0983人間七七四年
2012/01/20(金) 18:28:16.20ID:lrtMNomaこれじゃあ決済や持ち運びにも苦労するな。
外人との取引は高額決済(金や銀や米札)や相応の価値のある輸出品との物々交換だったのかなあ?
0984人間七七四年
2012/01/20(金) 20:15:24.78ID:mOG4Q2mM昔は私的に作った硬貨も価値が大幅に下がるだけで
市場で使用可能だったと描かれていたのですが
戦国時代にはそうした硬貨はどの程度出回っていたのでしょうか?
0985人間七七四年
2012/01/20(金) 21:41:51.05ID:UQIfc1ytいわゆる「びた一文まからない」のびた一文ってのが私鋳銭含むびた銭(=粗悪な銭)
それこそ、大名や時代によって換金率や使用の有無まで変わってくるから、
一概にどうとかは言えないな
0986人間七七四年
2012/01/21(土) 07:48:07.83ID:e9B5AfmV0987975
2012/01/21(土) 08:26:38.16ID:rEEHK+rjそれで、また別の番組で言っていた事で、信長は平氏の子孫だと言うのですが
とある歴史マンガにて「我が織田家は源氏の流れをくむ由緒ある家柄、それをあいつら〜〜」
夢幻の如く(信長がモンゴルにて)「俺の先祖の者がチンギスハンと名乗りかつてこの地を治めたのでな、子孫の俺がまた来たわけだ」
複数のマンガで織田家は源氏の子孫ということになっていますがどっちが正しいのでしょう? ちなみに番組では
平氏を倒したのは源氏、それを倒したのが平氏の子孫の北条、それを倒したのが源氏の子孫の足利
それを倒したのが平氏の子孫の信長、それを倒したのが源氏の子孫の光秀
それを倒したのが平氏の子孫を名乗った秀吉、それを倒したのが源氏の子孫の家康、と言ってました
秀吉も平氏じゃなくて「実は俺は源氏の子孫で」って言ってませんでしたっけ?
それで「俺は本来源氏の人間だから」っていう名分で足利家の養子になろうとしたんじゃ……
母親が将軍家に奉公に行った時に間違いが起きて母が身ごもってしまって、その時生まれたのが自分だと言ったとか
連続質問すいません
0988人間七七四年
2012/01/21(土) 08:51:22.31ID:/LEmYAYT0989人間七七四年
2012/01/21(土) 09:00:02.58ID:b5GfBEbl0990人間七七四年
2012/01/21(土) 12:27:33.41ID:GA35w0jv0991人間七七四年
2012/01/21(土) 14:33:52.84ID:OkTlvihO信長も尾張統一以前の文書には「藤原信長」の署名がある。
1571年には「平信長」となった。
平親実から始まる家系図もこのころ作られたんじゃないの?
家系図はホントにいいかげん。
0992人間七七四年
2012/01/21(土) 15:05:56.87ID:rJgb+r7o> 平親実から始まる家系図もこのころ作られたんじゃないの?
それはなんとも言えない。元々平姓だったのが何らかの理由で一時的に藤原を名乗っていた
という可能性もこの時代考えられる。
0993人間七七四年
2012/01/21(土) 17:28:13.54ID:LH+pqmVQ【疑問】スレ立てるまでもない質問 9【戦国時代】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1327134476/
0994人間七七四年
2012/01/22(日) 00:45:42.00ID:XP6yoERNレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。