戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0096人間七七四年
2011/07/22(金) 08:16:11.34ID:9nd5Zv+80098人間七七四年
2011/07/22(金) 21:38:46.02ID:1VXKm2mK0099人間七七四年
2011/07/22(金) 21:44:50.90ID:EB3ZWx9W0100人間七七四年
2011/07/22(金) 22:17:49.10ID:7b/ylI3U居城である茨木に退去。ここより大坂の陣が実質的に始まる。
さて、石川貞政は豊臣秀吉の馬廻りまで勤めた豊臣家生え抜きの武勇の士であったが、且元討伐を
命ぜられたもののこれを行わず逆に且元の元にいち早く知らせ、彼が無事退去する一翼を担った。
そのため主戦派から睨まれ、大阪城内では「貞政も誅するべきだ!」との風聞が盛んに流れた。
これを聞いた石川貞政は、「武人として逃げも隠れもせぬ、逆に主戦派である大野治長や渡辺糺を
討ち果たしてやらん!」と殿中に上り、多くの人々取り巻く中を、仁王立ちで睨みつけ、大音声でこう言い放った!
「この貞政に逆意があるによって、誅せらるるのだと承ったため、ここに参上いたした!
誰であってもその命令を受けたものは、この貞政の首を刎ねて上覧に備えるべし!」
が、誰からも何の言葉もない。貞政の迫力に気圧された、というのもあるであろう。しかし実際に
彼を誅せよという命令は出ておらず、誰一人として立ち向かい、勝負しようというものはなかった。
殿中の者たちもただただ戸惑うしかなかったのである。
それでも貞政は暫くそこで待っていたが、大野も渡辺も姿を表さず(こんなのに関わり合いたくなかったのだろう)
仕方なく殿中を下がり宿所に帰り、若党一人に薙刀を持たせて玉造口から大阪を出、堺へと向かった。
貞政が大阪を退去したことを知った彼の家臣たちは驚き、取るものも取り敢えず武器馬具のみを整え跡を追った。
家臣たちが追いつくと、貞政は河内路を経て片桐且元が籠る茨木城に向かい、そこで且元に対面して言うには
「間もなくここに、大野渡辺の軍勢が押し寄せるでしょう。それがしもあなたと共に、ここに籠城し
彼らの攻撃を防ぎたい。」
しかし且元は、貞政のこの提案に肯かなかった。
「朋輩を相語らって籠城いたせば、それは反逆です。
私は今はただ、大阪城の軍勢が攻め来たらば恨みの矢一つを射て切腹し、武士の名を汚すまじきと思っています。
そうであればこの城にあなたが有ることは、義において辱ずる所であり、幸いにも常眞殿(織田信雄)が既に京に
退去されているところですし、ここより直に京に上り、常眞殿と同じように、幕府の保護を受けるのが良いでしょう。」
貞政はこの説得を受入れ京に入り、幕府の京都所司代・板倉勝重の元へ行き大阪城の状況を伝える。
勝重はこれを聞き
「大阪が既に反逆の準備をしている中、あなたはそれを知ってこのように、その身を京に退かれました。
この事は将軍家においても定めてご満足なされるでしょう。」
と、彼に家屋敷を与え日々の賄いまで申し付けた。
大坂の陣の序盤、石川貞政の大阪退去についての話である。
(慶元記)
0101人間七七四年
2011/07/22(金) 22:41:29.58ID:RDxqX22T譜代格の石川貞政も退去したのは痛かったな。兵を率いる大将クラスが少なかったし
0102人間七七四年
2011/07/23(土) 00:28:18.87ID:YXHqHcZS0104人間七七四年
2011/07/23(土) 10:08:31.73ID:JGaRbagBこのゲーム、矢沢頼綱が名前のせいで某ロックンローラーにされてたり、鉄砲で討ち取られた三好義賢が松田優作そっくりに描かれたりしてるんだよなw
0105人間七七四年
2011/07/23(土) 13:17:29.28ID:NORClys8松山城の工事は難工をきわめ、男子もとより女子や子供、さらには、当時松前城主であった加藤嘉明の夫人も炊き出しに従事してまさに国を挙げての工事だった。
主命を受けて城の下見に来た足立重信は長者平(ちょうじゃがなる)にある祠を見つけ、山と祠の名前を近くの里人に聞いたそうである。
その翁は、「山の名は かつえ山。祠は八幡神社三嶋宮の末社である」
と教えてくれた。
それを嘉明に伝えたところ、「かつえ山でなくて、勝山の間違いだろう。城を築くのにこの上ないめでたい名だ」
と勝山という名前になったそうな。
このかつえ山の由来となる話もどっかで見たんだけうろ覚え、見つけたらまた投稿します。
ついでに、松山城の普請奉行は、ジミー加藤さんの家老、足立重信ですが、彼はあるとき大量の瓦を山の上に運ぶにあたって、近郊の農家より人をたのみ、人垣を作らせ、バケツリレーよろしく手ぐり渡しで一夜の内に全部を運ばせて嘉明を驚かせた。
なんて小話も一緒に上げときます。
0106人間七七四年
2011/07/23(土) 13:37:01.28ID:mNWTxXdA0107人間七七四年
2011/07/23(土) 14:20:19.27ID:gzB42OXuここに昔邸を構えていた長者、元はこの山の麓に住み、貧乏に苦しんで、毘沙門天に願をかけた。
毎日境内に茂る雌竹を一本づつ持ち帰り、庭に植えて貧乏脱出を祈りつづけた。
すると満願の夜、ついに夢中に毘沙門天が登場した。
「お前の熱意に感動した!よって福をあたえる。あ、竹は全部返しとけよ」
彼は喜んでその通りにした。その後とんとん拍子に成功し、日ならずして長者となった。
そうなると、貧乏時代にはペッされた遠縁の者までむらがり来てクレクレする浅ましさにあきれ果てた。
苦労ばかりだけど昔の生活の方がよかったなあと思うと、その財を湯水のように使い果たして一文無しになり、
長者平の邸でとうとう餓死してしまった。
人々はこの山を『かつえ(飢え)山』と呼び慣わしたという。
加藤嘉明は築城地の下見にいった足立重信からその話を聞くと
「かつえ山、というか…(縁起悪ぃな…そうだ!)
それは勝山の聞違いであろう、以後は勝山とよべ」と言ったという。
0108人間七七四年
2011/07/23(土) 14:49:08.25ID:NORClys8すんません良いともわるいともいえない話かと思いつつ>>94からの流れでこっちに投稿しました。
>>107さん
おおっ、その話です、フォローありがとうございます。
ちなみに勝山は築城候補の地の一つで幕府に候補地を三つ聞かれた時に二番目に出した候補地だったなんてどっかで聞いたような話もあります。
0109人間七七四年
2011/07/23(土) 15:04:34.96ID:dFl0ESv/幕府は一番目の候補地を採用しないだろうと思って
二番目に都合のいい候補地をのっけたら、
一番目を採用された話が伊達と毛利に
ジミ加藤さんの場合、もともと勝山にする気で二番目に出したんだろうか
0112人間七七四年
2011/07/23(土) 20:48:39.36ID:F2vopxvQ細川忠興は天下一気の短い人であった。逆に蒲生氏郷は天下一気の長い人であった。
「それならこの二人を一緒にしとけばお互い中和しあってちょっとはマシになるんじゃね?」と
両家の者達は考え、そのように取り計らった。
さて、計画通り二人はずいぶん親しくなった。そこまではよかったのだが・・・
氏郷「アイツは気が短いなあ。俺はああならないように気をつけようっと」
忠興「あのヤローの呑気さにはイライラするぜーッ!」
・・・というわけで、氏郷はますます気が長く、忠興はますます気が短くなってしまったという。
以上『三斎口伝書』より、なんかイソップ物語みたいな話。
0113人間七七四年
2011/07/23(土) 20:54:07.23ID:zcrujbN40114人間七七四年
2011/07/23(土) 21:18:56.09ID:Xn15rZ7B0115人間七七四年
2011/07/23(土) 21:55:32.76ID:gLCtFXDLって、題名からすると三斎さんなんで工場長と一緒になるのかわかってるならもう少し気を長くしてよwww
0116112
2011/07/23(土) 23:10:36.69ID:F2vopxvQすいません、言われて気づきましたがタイプミスです。正しくは「三斎"公"伝書」でした。
書いたのは松屋久重です。
スレ汚しのお詫びにもうひとつ三斎公がヤンチャした話を。
まだ忠興が熊千代といった時分、細川家の邸宅を京都の今出川に新造することになった。
工事は家臣の上野氏が取り仕切ったのだが、何かの拍子にこの上野家の者と
同じく家臣である荒川家の者との間で喧嘩が始まってしまった。
さて、我らが熊千代君、年は若いが気性は荒く(弱齢なれども稍豪強を好む)、
「喧嘩と聞いては黙っちゃいられねー!俺も混ぜろヒャッハー!」
とばかりに荒川氏側に加勢した。上野氏側はボコボコにされ、ほうほうのていで逃げ帰った。
これに怒ったのが父藤孝(幽斎)。熊千代は大目玉を食らい、以降父子は不仲になったそうな。
・・・いや、反省しろよ熊千代。
またこの時、藤孝は三淵(兄の三淵藤英?)たちと相談して事件を内密にしたらしい。
お父さんご苦労様です。
以上、永源庵記よりとして、後世に編まれた『綿考輯録』に載ったお話。
ちなみに『綿考輯録』によると、邸宅造営の時期を考えると当時熊千代は7歳のはずで
「いくらなんでもウソだろ常考・・・」と考察されています。
0117人間七七四年
2011/07/24(日) 09:40:56.28ID:dNZZMTow毛利輝元も呼び捨てにされやすいのかな?
福岡県史の近世史料をぱらぱらめくっていたら、目についた
慶長九年(?)正月十九日 黒田如水から真鍋次太夫宛書状
能申聞候、去年鯨をハ心懸取申候哉、(略)
次従 輝 元 参候船屋形取集、舟二可仕候間、損候ハん様二仕可置候、
筑前方へも此通可申候、恐々謹言
年不明五月廿六日 黒田長政から大嶋又衛門・毛屋主水・庄半大夫宛印判状
一書申遣候、中村藤兵衛所(略)
又 輝 元 へ大角弐其地有之由二候、彼地奉行へははや福越より被申遣候間請取、(略)
と黒田親子にまったく関係ない別の書状で呼び捨てにされてるんですが……
ちなみに上の如水書状ではちゃんと長政を「筑前」と書いていますし、
下の長政の書状では「中村藤兵衛」や「福越(福原広俊)」と諱呼びはしていません
他に諱が出てくるのは身内を除けば、長政書状に「秀頼様」とあるのが散見できるくらいです
しかし、輝元は呼び捨てです
ちなみに長政は再三再四息子やその守役に
「手紙の書き方がなってない」「字が汚い」「くだんねー用事に祐筆使うな、自分で書け」
と口うるさく注意しており、死ぬ直前にまで書状の中での人物の敬称について細かく注意しています
それなのに呼び捨てにされる毛利輝元って一体……
0118人間七七四年
2011/07/24(日) 10:49:13.09ID:WAkfEI4+他の改名してない人を調べたらあっというまに30人超え、関係なさそうだな〜と思って調べるのやめたんだけど、秀頼と輝元も改名してないね。
黒田長政もずっと同じ名前だけど、長政はいっぱいいてわかりにくいんで使わなそう。
0119人間七七四年
2011/07/24(日) 11:59:07.83ID:VoXGSr6O小田原征伐も終わり秀吉の天下が民衆の間にも広まると、
大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。
大名間では正宗や吉光が持て囃された。
(`・ω・´)「・・・(ウチにもなんかあったな・・・)」
さる大名「斯波家に繋がる最上様なら、童子切や鬼丸にも劣らぬ、なにか名物をお持ちでしょう」
(`・ω・´)「確か、オニギリ・・・丸?といった物があったと思います」
(´・ω・`)「・・・(鬼切・オニキリだっけ?)」
足利将軍家からなんの因果か斯波兼頼を経て最上家に伝わる名刀に、この前後に悲劇が起こる。
(´・ω・`)「・・・銘は安綱?聞いた事がある様な、無い様な・・・」
(´・ω・`)「国綱なら先日聞いたけど、有名なんだろうな・・・」
(´・ω・`)ノシシ < キン、カッ、ガキン、ガキッ
(´・ω・`)「・・・(「国」の字に読めるよね?)」
光安「いかがなさいましたか?」
(´・ω・`)「・・・なんでもない・・・」
北野天満宮に現在伝わる国宝「鬼切丸」
呼び名が幾度も変わり、持ち主も変わり、銘まで変えられた名刀の運の悪い話
0120119
2011/07/24(日) 12:15:04.23ID:VoXGSr6Oすいません、国宝でなく、重要文化財でしたorz
0121人間七七四年
2011/07/24(日) 13:28:53.08ID:mexSlrjb0122人間七七四年
2011/07/24(日) 13:34:06.26ID:Vo539qTr0123人間七七四年
2011/07/24(日) 14:23:18.61ID:3tg1QPFC0124人間七七四年
2011/07/24(日) 15:21:33.17ID:cHORGFgi0125人間七七四年
2011/07/24(日) 15:33:01.54ID:+pF4d+X5天正6年(1578年)1月29日。事の発端は織田信長の弓衆である福田与一の家が火事になった事から始まる。
この火事によって与一が安土の城下に妻子を住まわせるという決まりを守っていない事が判明したのであった。
親衛隊たる弓衆がこうした内規を守っていないという事に当然信長も怒ったが
織田家としても今まで気付かずにそのまま放置されていたというのもまた問題である。
信長は直ちに菅屋長頼に命じて台帳の制作を命じ、そのついでに他にも安土へ妻子を住まわせていない者が居ないかを改めさせた。
そして菅屋の調査の結果、馬廻衆・弓衆合わせて120人もの家臣が妻子を安土に住まわせず、国元に残し置いたままである事が明らかとなった。
よりによって弓衆の家が失火して安土の街に火事が起きたという醜態を晒しただけでも信長にとって許しがた事だが、内規の違反者の多さも実に罪深い。
信長はこれら120人に一斉に罰を与えた。
信長は織田信忠に命じて違反のあった者たちの尾張の家を残らず放火させ、庭の木などもことごとく切り倒させたのである。
住む家を無くした馬廻衆・弓衆の妻子はもはや安土へと移り住むしか無かった。
そして信長は更に違反者120人に安土城南の入江の新道の普請を行わせてようやく赦免を与えた。
0126人間七七四年
2011/07/24(日) 15:56:48.57ID:VoXGSr6O「安」綱の字が「国」綱の字に改竄された鬼切の銘
写真:茎(なかご)の部分
http://samidare.jp/yoshiaki/box/01.JPG
当時は国綱の方が知名度があり、人気だったとも言われる・・・らしい
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=38707
0127人間七七四年
2011/07/24(日) 15:57:08.34ID:oARlNuUU0128人間七七四年
2011/07/24(日) 15:57:13.81ID:zXP/0Y1Gそれ逸話じゃなくて創作だろ?
本当に最上がおにぎりみたいなこと言ったわけ?
マジで最上オタの創作うぜえわ。
0129人間七七四年
2011/07/24(日) 16:02:18.55ID:VoXGSr6Ohttp://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=38707
「鬼切」「鬼切丸」「オニキリ」「オニギリ」「オニキリマル」「オニギリマル」で最上家でも色々記述されてます。
0130人間七七四年
2011/07/24(日) 16:04:54.00ID:m/7cGdeh0131人間七七四年
2011/07/24(日) 16:29:49.09ID:zXP/0Y1G用語する馬鹿はそういうのもおもしろーいwとか思ってんのw
それともマジで腐女子で図星さされて火病ってんのかよ。
戦国武将なんだからヒャッハー系はまだゆるせるけど、キモイぶりっこみたいな改変と顔文字は、
正直侮辱されているように思えるわ。
どうして刀の二倍ある鉄棒振り回すオッサンが可愛い顔文字なんだよ。
現実を見ろw
0132人間七七四年
2011/07/24(日) 16:36:01.51ID:m/7cGdeh0134人間七七四年
2011/07/24(日) 16:50:45.05ID:m/7cGdehこの程度じゃネガキャン止めないだろうし、もっと性質の悪い荒らしが今後来ないともかぎらん。
0135人間七七四年
2011/07/24(日) 16:52:08.57ID:VoXGSr6O連投ながら、絵文字は否定するのに「w」は許容する人物。
アンサイクロペディアや戦国ストレイズ、戦国大戦、殿といっしょ、ひこにゃんとか「かわいいもの」や「自分のイメージに沿わない改変」は見ない方がいいらしい。
0136人間七七四年
2011/07/24(日) 17:01:25.23ID:VoXGSr6O暗殺のイメージが多かった武将だけに、シスコンは十分傍目から見て面白いと思うのだが。
手紙が書かれた当時既に40過ぎの兄と妹なら、そのギャップは尚更。
0137人間七七四年
2011/07/24(日) 17:09:57.14ID:m/7cGdeh0138人間七七四年
2011/07/24(日) 17:16:37.00ID:GFM3Ad8uhttp://meitou.gob.jp/index.php/%E9%AB%AD%E5%88%87
0139人間七七四年
2011/07/24(日) 17:43:46.87ID:VoXGSr6OWikiリンクの中にある髭切の「兄弟刀」扱い
流れを変えるために別な話を
壬生家の御家存続の為に
天正十八年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻撃の軍を率いて京都から出発した。
常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らは秀吉に応じて、反北条の意を決した。
それに対して、壬生義雄と皆川広照は後北条氏の元に参陣して小田原城に籠城。
しかし、七月小田原城は開城、壬生義雄はその直後に病死した。享年四十六歳。
義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって壬生家は所領を没収され滅亡してしまった。
しかし話はここで終わらない
壬生氏の旧領は結城領に吸収され、壬生の旧臣は他家への仕官より、帰農の道を選んだ。
江戸幕府が開かれ、京の藤原北家中御門流の「壬生」氏が権現詣で日光東照宮への道中、下野鹿沼の壬生旧臣が粗末ながらも身形を揃え、京・壬生氏の道中警護を申し出た。
京・壬生氏はこれを断ったものの、道中の共や用事を下野壬生旧臣に許した。
京・壬生氏と下野壬生氏は「縁も所縁もない」、単に苗字が「壬生」であっただけである。
2年3年と下野壬生旧臣からの申し出にから、道中の御供も当たり前のようになり、京・壬生氏からは下野壬生旧臣に金子や酒が用立てされた。
壬生義雄の娘、伊勢亀の婚礼も決まり、所領は無いながらも伊勢亀の嫡男誕生を待ちつつ御家再興を願った壬生旧臣たちだったが
そこは歴史のやるせなさ
伊勢亀には女子しか生まれず、壬生家の再興の願いは絶たれた
0140人間七七四年
2011/07/24(日) 17:47:40.45ID:VoXGSr6O○2年3年と下野壬生旧臣からの申し出から
見直しが不十分でした
0141人間七七四年
2011/07/24(日) 17:56:53.66ID:i5/SpOWB0143人間七七四年
2011/07/24(日) 18:39:17.42ID:LI5q77F0あまりに単純すぎるのではないだろうか
もっとこう、美しい日本の古典と掛けた銘を入れるなど」
0144人間七七四年
2011/07/24(日) 19:41:22.74ID:U87Ms8340145人間七七四年
2011/07/24(日) 21:21:07.66ID:EPitOerN0146人間七七四年
2011/07/24(日) 21:35:31.58ID:wXMyGxcrもえ、と名付けました
0147人間七七四年
2011/07/24(日) 23:07:12.45ID:VxQdvJ2m武田勝頼滅亡の端緒となった高天神城後詰の一件
主君に「高天神上の後詰は無用、捨て殺しにされよ」という書状を送ってひと月、城内の糧食も
尽きかけた今、甚五郎は、総攻めで城内に乱入した敵兵を如何に殺すかを考えながら城の図面
に目を通す甚五郎の元に同僚の相木市兵衛がやってくると耳元で囁いた。
「主将の岡部殿が、城を打って出るとのことでござる」
「馬鹿なことを、城を枕に討ち死にすると評定で決めたはず」
「それは、後詰がある時の話、後詰が見込めない今、飢え死に覚悟で籠城するより、城外に打って
出て華々しく死に花を咲かすもよし、あわよくば、敵中を突破して命を拾うもよしとの仰せじゃ」
「浅慮なことを、落城必死の今、一人でも敵を殺すのが我らの意地の見せどころのはず」
気色ばむ甚五郎に相木市兵衛が、さればでござると話を切り出した。
数日後、高天神城主将岡部元信が城兵と共に城を打って出て、さんざんに奮戦したが、ほとんど
の兵が殲滅された。しかし、その中に横田甚五郎と相木市兵衛の名前はなかった。
両名は、最後の突撃直前に間道から城外に脱出していたのだ。
「ではお館様に、良しなにお伝えくだされ」
そう言って躑躅ヶ崎館に向かう甚五郎に別れを告げ、相木市兵衛は本貫地の上州に向かった。
武田勝頼の前に帰還の報告を行った甚五郎は、高天神城からの脱出を賞賛され、感状と太刀を授けられ
ようとしたが、おめおめと生き残った自分が受ける謂れはないと断った。
しかし、高天神城から一人だけ抜け出し、おめおめと生き残ったという汚名は、生涯、甚五郎に付き纏い、
やがては逃げの甚五郎と大久保彦左衛門に嘲笑される羽目になるという横田甚五郎のちょっと悪い話。
余談
相木市兵衛のその後、武田滅亡後、北条に属すも徳川方の同族に攻められ、本拠の相木城を奪われ、
挙句の果てに木次原の戦いで討ち死にしたとさ
0149人間七七四年
2011/07/24(日) 23:48:15.00ID:A09FbhUj年寄りの武辺争い
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5077.html
正直現代にまで残ってる「武辺話」は彦左より横田の方が多いんだがな
0150人間七七四年
2011/07/25(月) 00:04:46.19ID:KcqYkZ3Hまるでねらー
0151人間七七四年
2011/07/25(月) 01:04:03.52ID:HBZTW1yt0152人間七七四年
2011/07/25(月) 06:19:31.86ID:gPW3f3Qf下野・小山秀綱と常陸・結城晴朝は実の兄弟である。
秀綱が兄、結城家に養子に入った晴朝が弟。
北関東も奥羽さながらに縁戚が入り乱れ、大小の戦が敵・味方を変え断続的に行われていた。
ときに天正年間。
越後上杉に与したとして下野の小山秀綱は北条勢に攻められ、父祖伝来の居城・小山城を追われた。
秀綱は北条氏照に小山城とは目と鼻の先の榎本城に入る事を許されたが、
氏照の家老・近藤出羽守綱秀の監視下に置かれることになった。
そのまま秀吉の小田原征伐が始まる。
兄・秀綱は北条方
弟・晴朝は豊臣方
将兵は顔見知り・親族同士も多いながら、北条・豊臣の軍監が見ているせいでワザと力を抜く事も出来ない。
榎本城には八王子方面に軍を向けた近藤綱秀の嫡男と城代、小山秀綱、藤岡山城、石島主水がいたが、結城勢をはじめとする豊臣の大軍を前に城は落ち、
秀綱はわずかな供に守られ埼玉柳生に落ち延びた。
小田原の陣後秀綱は秀吉に面会を許されたが、御家は取り潰しとなった。
弟の晴朝は太閤秀吉の養子於義丸(秀康)を継嗣にする事で豊臣期の大名としての存続は安泰かと思われたが
常陸結城から越前への移封で住み慣れた土地を離れねばならず、結城の家名も後代失った。
兄弟の違いは
出来?運?
0153人間七七四年
2011/07/25(月) 09:07:17.98ID:GlJEMa6p0154人間七七四年
2011/07/25(月) 09:45:11.60ID:5JTDhs9u0155人間七七四年
2011/07/25(月) 10:44:51.87ID:YnoUaIsD結城……同じく
長沼……宗家は戦国初期に滅亡?分家の皆川家は江戸初期に無嗣断絶
千葉……当主が相次いで家臣に暗殺される等ボロボロ 小田原陣後、正式に改易
宇都宮…http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1466.html
佐竹……唯一の勝ち組?
那須……O関「主君?なにそれおいしいの?」
小田……もういい…!もう休めっ…!
関東八屋形だけ見てもこんなんだから関東の名族に生まれること自体がハードモードと思われ
0156人間七七四年
2011/07/25(月) 11:11:01.19ID:EIbqhBoW0157人間七七四年
2011/07/25(月) 13:16:15.11ID:ad6ob3CR戦国時代中盤、香宗我部家は長宗我部家や安芸家によって圧迫を受けていた
隠居していた香宗我部親秀は家名を守る為に長宗我部家から継養子を迎えて連合体制を築こうと図ったが話は順調に進まなかった
弟 秀通が頑なに拒んだのである
秀通には後を継ぐべき男子もあり長宗我部家を畏れて迎合するを‘武門の恥’として反発した
家名を守る為に執心した親秀は弘治2年(1556年)に秀通を部下を使って暗殺
こうして長宗我部国親の三男が香宗我部親泰として家督を継ぐ事になったのである
親泰は秀通の遺児で歳の近い香宗我部泰吉を重用した
親泰の妻は泰吉の妹であるから尚更かも知れない
ちなみに泰吉が2歳年長
泰吉は親泰に仕える時点で姓を中山田に変えた
香宗我部家当主はあくまでも親泰であるという意思表示である
香宗我部改め中山田泰吉は本当に優秀な人物であったらしい
長宗我部家の外交官として飛び回る親泰の留守をそれはもう完璧なほどに守り、執務も代行していた
ところが泰吉には悩みの種があった
親泰「俺に何かあったら次は泰吉」
と親泰が公言してはばからなかった事である
長兄長宗我部元親を前にしても公言する
息子にも叔父さんに習えと言い聞かせる
と、親泰の義兄愛がとんでもなかったのである
確かに優秀な人材であり元々の香宗我部家の人間だが、長宗我部本家の血の結束からは外れた存在
人物、能力に惚れ込むあまりに血縁の重要さが親泰から吹っ飛んでしまったのである
このあたり、長兄とどこか似通っている
結果として親泰死後に次男貞親が後を継ぎ泰吉は重臣として香宗我部家に仕え続けた
関ヶ原後は香宗我部家の家名を守る為に奔走
香宗我部の家名は守れたが残念ながら貞親は土佐を退去した
泰吉一族は土佐に残り山内家に仕えた
今も中山田家は続いています
清和源氏の流れをくむ香宗我部と名乗る事もなく
0158人間七七四年
2011/07/25(月) 13:26:55.86ID:wRzmTnnJまあ茨城だからね
やっちゃったのかなとも思うし
天庵殿を抑えて常陸南西部を支配下に治めていたのも間違いではないけど
0159人間七七四年
2011/07/25(月) 17:34:32.79ID:ucWVWMfB小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされると、奥羽の地にも中央から役人は来て測量検地を始めた。
最上義光の所領の出羽山形の測量の割り当てになったのは忍城攻めでは良いところのなかった石田佐吉三成。
部下を叱りつけながらあれもこれもと細かく注文をつけつつ、測量の指示をしていった・・・ハズであった。
三成「これでおおよそこの辺の計測も終了か。
上山、蔵王、山形、天童、余目、こっちの完了分は小国と大石田か・・・」
部下「こちらの報告書はどこに置いておきます?」
三成「村山か・・・。表紙を付け、そっちに纏めておいてくれ」
部下「は、わかりました。・・・ん?今測ってきたのって最上だけど、殿は村山って言ってたよな。こっちの気のせいか・・・」
部下は最上地域の測量表に「村山」の表紙を付けた
従来、上山・山形・天童は「最上」地域
その北の新庄・村山方面は「村山」地域とされていた
現在、上山・山形・天童は「村山」地区
その北の新庄・村山方面は「最上」地区とされている
誰が悪いかはっきりはしないが、太閤検地で地名が入れ替えられたまま、誰も修正できなかったバツの悪い話。
0160人間七七四年
2011/07/25(月) 17:38:05.22ID:Pn7FhItc0161人間七七四年
2011/07/25(月) 17:47:59.54ID:ucWVWMfB>>160
「最上郡」「村山郡」の逆転と太閤検地関連
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%9C%80%E4%B8%8A%E3%80%80%E6%9D%91%E5%B1%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
0162人間七七四年
2011/07/25(月) 18:00:40.27ID:ucWVWMfB(´・ω・`)「キツネにつままれた気分だ・・・」
0164人間七七四年
2011/07/25(月) 19:40:47.81ID:5JTDhs9u結城城は下総にあるが、位置は見てのとおり、三国が接する場所にある。
常陸結城と言っても間違いではない。
0165人間七七四年
2011/07/25(月) 19:53:53.40ID:ucWVWMfB0166人間七七四年
2011/07/25(月) 20:42:04.91ID:fIxGWm4f0167人間七七四年
2011/07/25(月) 20:46:22.77ID:FLRTbt9v0168人間七七四年
2011/07/25(月) 21:55:43.22ID:glk2HMOV0169人間七七四年
2011/07/25(月) 22:20:12.00ID:bKV3qKUB0170人間七七四年
2011/07/26(火) 11:38:55.34ID:GQOne77X0171人間七七四年
2011/07/26(火) 12:27:54.27ID:uuLi1ZqZ0172人間七七四年
2011/07/26(火) 17:28:29.81ID:QPdtteeK0173人間七七四年
2011/07/26(火) 18:15:12.99ID:EeG8E2xt0174人間七七四年
2011/07/26(火) 20:48:38.55ID:gXcbMCUPいい話スレで大崎合戦の話が出ていたので…。
宮城郡八幡(やわた・現宮城県多賀城市)の領主、八幡景廉は幼少で家督を継いだ為、
叔父の下間景継の後見を受けていた。その景継は嗣子が居なかった為、景廉の異母弟である
業継を養子に迎え入れた。
景継の死から数年後、八幡家中では凡庸な当主の景廉ではなく、下間業継を擁立しよう
とする声が高まった。家中を押さえ切れなくなった景廉は、主家である留守家に助けを
求めて逃げ込んだ。これに応じた留守政景は景廉と共に下間城を攻め、たまらず業継は
逃亡し、姉の嫁ぎ先である伊達家臣・泉田家へ身を寄せた。泉田重光は業継の甥にあたる。
業継の亡命後、留守政景と泉田重光は対立する様になった。この両名が大崎氏の内訌を突く
べく大将として派遣されたが、伊達軍が集結した松山城での軍議の場でも意見が衝突する。
松山城主・遠藤出羽守は敵方の新沼城主が出羽守の姉婿である事から、これを素通りして
敵城・師山城に抑えを残し、一気に敵中深く中新田城まで攻め入る事を主張、これを重光
は支持する。対して政景は十分に敵情を調べた後に侵攻すべし、と慎重論を唱えた。
重光は政景の岳父である黒川晴氏が大崎方へついた事を挙げ、政景は消極的であると罵った。
結局、重光に押し切られ伊達軍は留守隊を抑えとして中新田城を攻撃するも、降雪により足元
を取られ、反撃に出た大崎方によって多くの死傷者を出した。分断され雪中に孤立した政景は
舅・晴氏に使者を立て、松山城までの撤退を許された。一方の重光は敵方の新沼城に
収容され、自らが人質になる事で将兵の解放が許された。
0175人間七七四年
2011/07/26(火) 21:44:40.24ID:/pLjZPZsある時、浅野幸長が古田織部から、狭い茶室での道具の置き方・所作の仕方等の稽古を受けた。
「よいですかな浅野殿、客も炉も自分の右側にある時はこうする。客が右、炉が左の時はこう。」
「ふむふむ。」
「客も炉も左の時はこう、客が左、炉が右の時は…って、この辺は前の稽古の時どう教えましたかな?」
「………済まぬ、忘れたようです。」
そこで二人は、前回の稽古で同席した上田宗箇を呼んで、この件について問いただした。
「………申し訳ござらぬ、それがし、師の教えを失念いたし申した!!」
「(え〜)………」
「………?」
「……………」
「…と、とにかく、こういうものはその場その場でやってみなけりゃワカランものにござるよ。」
(織部候云、兎角その座敷にて置合てみねば、たしかならず)
「なるほど、そういうものですか。」
「うむ、そういうものです。」
織部のおかげで一つ勉強になった
…わけもなく、こーゆーお人に「白黒つけろ」とか_にゴザルよ。
0176人間七七四年
2011/07/26(火) 21:47:28.97ID:p6SA2Qaz0177人間七七四年
2011/07/26(火) 22:59:04.41ID:yWvWCmKAある時、近江で密庵の墨蹟を見つけた利休は120貫文の大金で
これを手に入れた。
早速、利休は茶会で墨蹟を掲げたのであるが、
招かれた北向道陳と松江隆仙は墨蹟を褒めてはくれなかった。
(おかしいな・・・どうしたことだろう)と思い、利休は2人に尋ねてみた。
松江「だって・・・」
北向「これ偽物だよ」
利休「ナ、ナンダッテー!だったら、こんなもの!」
偽物と知るやいなや利休は墨蹟を焼き捨ててしまった。
0178人間七七四年
2011/07/26(火) 23:17:05.41ID:BFPwgWtt「日本人は馬鹿アル。中国産のものなら偽物でも高い金出して買うねw」
というのがあったと聞いたようなw
0179人間七七四年
2011/07/26(火) 23:42:02.03ID:TKLWVOazそのあと毟りまくりられたけど。
0180人間七七四年
2011/07/26(火) 23:53:28.05ID:hA1AN+MX0181人間七七四年
2011/07/27(水) 02:57:18.47ID:7K5appAh姉川の合戦での手柄を、主君浅井長政から誉められていい気になってるだの、
図体のでかさと怪力を妖怪よばわりされるだの、とかく中傷は半端なかった。
よほど腹に据えかねたのか17才の藤堂与右衛門は、噂を吹聴する山本嘉助と対峙し、
これを切り捨ててしまった。
「・・・もはやここにはいられまい。やがて追っ手がまいるだろう。」
与右衛門は、着ていた紺地に大紋の羽織を脱ぐと裏返し、茶色に無紋の羽織にして再び羽織った。
(リバーシブルだったわけだ)
そしてその場を立ち去った。
まもなく、嘉助の死を知った追っ手が与右衛門を躍起になって探し始めた。
与右衛門の着ていたはずの紺地大紋羽織を手がかりに、聞き込みを行う。
「紺地に大紋?見かけねえなあ。茶に無紋羽織ならいっぱいいるけどよ。」
流行色だったのである。
藤堂与右衛門高虎は慌てた素振りも見せず、悠々と逃げおおせ、
二番目の主君阿閉氏の門を叩くとになるのである。
0184人間七七四年
2011/07/27(水) 19:10:52.93ID:O5JhFgs20185人間七七四年
2011/07/27(水) 19:30:13.96ID:WBUAFs8e0186人間七七四年
2011/07/27(水) 19:38:13.40ID:Gb/IrSc2マニュアルも正答もない、どうやったら非礼にならずに人をもてなせるかという話なんだから。
当然正解なんてないよ
0187人間七七四年
2011/07/27(水) 19:46:37.99ID:O5JhFgs20188人間七七四年
2011/07/27(水) 19:57:05.26ID:Gb/IrSc20189人間七七四年
2011/07/27(水) 20:03:41.54ID:O5JhFgs2ちょっと悪い話
0190人間七七四年
2011/07/27(水) 20:43:32.16ID:YemAPnjX0191人間七七四年
2011/07/27(水) 21:32:09.63ID:r2+J8sfP0192人間七七四年
2011/07/28(木) 17:20:42.43ID:lRiOOi0Q『羽柴の名は信長が彼(秀吉)に与えたものにて、そは彼が山口王(毛利)に対してエムベロム(信長)の
有力なる軍隊を率いて発進せし時の事なり。
其時彼は新しき名を与えんことを信長に請いしかば、信長はこれを聴し、従来藤吉郎と
称せしを改め羽柴と呼ばしめたり。森の上に飛べよという意味にして、是によりて彼の成功を
祈りたるなり。
彼が対抗せんとする山口王は名を毛利殿といい、その始めの綴りは森の意味にして、
終わりの綴りは君の意味なり(”殿”のことか)。
すなわち信長は、新将軍が敵に勝ちて森の上を鳥の如く飛ばんことを欲せしなり。』
そんな、今現在まで謎の多い「羽柴」という苗字についての一説である
(モンタヌス日本史)
0193人間七七四年
2011/07/28(木) 17:34:30.64ID:mTpLAwEC0194人間七七四年
2011/07/28(木) 18:31:57.35ID:EjtLFIPm■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています