戦国ちょっと悪い話27
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0787人間七七四年
2011/09/08(木) 15:30:43.37ID:o3NfJ4+80788人間七七四年
2011/09/08(木) 21:10:13.98ID:lK534Zs3輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。
輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……
輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」
まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。
すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。
0789人間七七四年
2011/09/08(木) 21:35:22.93ID:rlYfoPek永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。
上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc
だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。
二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。
『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』
こよこよと →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
(「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋
奈良刀 →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋
みのながいとて→刀身が長いからといって 美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって
頼まれもせず →誰が買うもんか 頼みにならんわ(嘲笑)
辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?
0790人間七七四年
2011/09/08(木) 21:39:11.13ID:3zF9S54S0794人間七七四年
2011/09/08(木) 22:01:31.70ID:lK534Zs30796人間七七四年
2011/09/08(木) 22:48:50.45ID:/oWiGQY2そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…
0797人間七七四年
2011/09/08(木) 23:34:50.44ID:A4ZoQvuK0798人間七七四年
2011/09/09(金) 01:13:25.26ID:I8ULHjBE0799人間七七四年
2011/09/09(金) 01:17:13.74ID:GQDIxff8三好や義栄のこともあるし
0800人間七七四年
2011/09/09(金) 01:23:34.55ID:bG0sHAHAできないんですよー(棒)」って言ってきてるなw
0801人間七七四年
2011/09/09(金) 09:29:54.32ID:L3K9Pxy90802人間七七四年
2011/09/09(金) 09:56:12.94ID:OvixDAxaしたことあるよね
0804人間七七四年
2011/09/09(金) 12:56:47.64ID:PCPFy3SN0805人間七七四年
2011/09/09(金) 18:18:32.91ID:h6RlMJbq誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し
「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」
と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや
「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
次の機会に使えば宜しかろう。」
と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も
「くっ・・・・・・」
黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。
0806人間七七四年
2011/09/09(金) 18:24:49.39ID:GQDIxff8これはさすがのまーくんも言い返せなかったか
0807人間七七四年
2011/09/09(金) 18:32:46.91ID:rxC0jH8I0808人間七七四年
2011/09/09(金) 20:00:10.54ID:n7Z16FiT0809人間七七四年
2011/09/09(金) 20:13:01.03ID:Q4gMti3q0810人間七七四年
2011/09/09(金) 20:18:06.35ID:JUUlwqn30811人間七七四年
2011/09/09(金) 20:34:41.79ID:bS3KZemlつか、従兄弟になるんだっけ?
0812人間七七四年
2011/09/09(金) 20:42:37.72ID:nVAR94ip秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな
0813人間七七四年
2011/09/09(金) 20:50:29.35ID:GQDIxff8歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ
0814人間七七四年
2011/09/09(金) 20:52:48.37ID:No37d+WJさすが下々が「上様にはよく商いを遊ばさる」と評判しただけあるな。
米が上がると城の米蔵を開いて売って、下がると米を買って蔵に入れてたしな。
0815人間七七四年
2011/09/09(金) 20:59:15.32ID:PaRCRtRi0816人間七七四年
2011/09/09(金) 21:05:02.79ID:No37d+WJ0817人間七七四年
2011/09/09(金) 21:33:05.05ID:fSdvAoWz太閤になってからも蔵米算用状という、蔵入地から納められる米の量と
その相場価格を記した文書を見て、自ら買い時売り時を決めてたというから只事ではない
当時は畿内と東北地方では米価に8倍もの差がついてたというから、
公儀として米の流通販売権を掌握してたらボロい商売だったろうな
0818人間七七四年
2011/09/09(金) 21:45:10.69ID:bxd+qlrb・・・あれ、ここ悪い話スレか。
0819人間七七四年
2011/09/09(金) 21:52:22.64ID:bG0sHAHA出すまでもなく、秀吉や家康に限らず戦国大名なら普通の事。
タイミングや状況を間違えると「鳥取城渇え殺し」になるわけだがw
0820人間七七四年
2011/09/09(金) 22:13:00.17ID:fSdvAoWz秀吉や家康のように日本全国に直轄地を持ち、地方の米を都市部で独占的に販売し差益を得るとか、
米相場に介入して米価をコントロールするってのはやはり天下人じゃないとできないこと
貨幣価値があるため稲作に向かない土地でも無理やり米を作らせたという米作偏重が
江戸時代に頻発した飢饉の原因の一つとなったという見方もあるから、悪い話と云えなくもない
0821人間七七四年
2011/09/09(金) 22:20:04.36ID:SKGSreut0823人間七七四年
2011/09/09(金) 23:35:40.40ID:6wSFu4cE間道からの兵糧が多く運び込まれていたからだとか。
ある時、秀吉軍が塀際まで攻め寄ると、城内城外の兵が互いに悪口雑言を吐きあう口合戦となった。
城内の兵はその時、生魚を差し出して広言したのだが、それを見た秀吉軍は
「おいっ!なんで城内に生魚があるんだ!?さては・・・」
と、抜け道の存在を悟り、周辺を厳しく探索して抜け穴を発見した。
この道を止められ、遂に三木城は落城したという。
(播州太平記)
0824人間七七四年
2011/09/09(金) 23:51:14.83ID:/yAKlicF0825人間七七四年
2011/09/10(土) 00:19:00.87ID:nB0XvDKG「生魚」といってもさすがにコイやフナじゃなさそうな。
これの読み下し文が載っていた本によると、三木城には、城壁から生きた鯛を寄せ手に見せ、
食糧に困っていないことを示したという伝承があるそうです。
0826人間七七四年
2011/09/10(土) 00:21:25.19ID:Nvs96m2B0827人間七七四年
2011/09/10(土) 01:30:39.35ID:nB0XvDKGさらに棟木は銅の延べ棒、瓦も残らず銅でできており、まさに「函谷関もものならず」であった。
兵糧攻めによって城中には飢人ばかりだったが、秀吉軍はこの門をどうしても突破することができず、手をこまねいていたのである。
軍見分の役として遣わされていた明智光秀はこの難儀を聞くと、刃渡り8寸余り、柄の長さ5尺余りの大マサカリを担ぎ、
マッチョな兵(逞兵)300人余りには掛矢と大槌、鉄梃などを持たせて鉄門に向かい、それらを一斉に打ち下ろさせた。
これにはさすがの鉄門もメキメキと音を立てて歪んでいく。
そこに光秀が大マサカリを振り上げて、扉を続け打ちに薙ぎ払ったものだから、さすがの楠板も金具もろともバラバラに砕け散ってしまった。
驚いた守備隊が打って出てきたが、光秀はマサカリを真っ向に指しかざし、当るを幸いと敵兵を打ち砕き、たちまち城兵二十余騎を打ち落とし、
その他数知れぬほどの飢人に怪我を負わせたのだ。
これを見た秀吉は大いに喜び、「この虚に乗じて攻めよ!」と采配を打ち振ると、明智勢は下知に従って「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るい、
飢人達を追い立てたのである。
その様子に城兵は「地獄もかくばかりであるか」と恐れおののくばかりであった。
(播州太平記)
0828人間七七四年
2011/09/10(土) 01:31:46.87ID:H7j31K3R0829人間七七四年
2011/09/10(土) 01:39:54.50ID:nB0XvDKG秀吉の報告でこの光秀の抜群の働きを知った信長は大いに喜び、
「今に始まらぬ勇猛の働き、また、三木城の鉄門を破りしこと、稀代の手柄である!
よって、恩賞として越前永平寺領の内、130町を取り上げ、これを遣わす。
もし、寺僧が異議に及んだら誅罰せよ!」との書状を光秀に下した。
信長の一生のうちはかくの如く社領を没収して武士の知行となし、または沙門を殺すこと限りなし。
その罪、天に背きて人々にも見放され、狂いたまいける。
0830人間七七四年
2011/09/10(土) 01:40:34.90ID:sc9LLtbF「エイ!エイ!」と声を揃えて鉄梃を振るう姿はシュールすぎる・・・。
0832人間七七四年
2011/09/10(土) 06:33:26.79ID:Oaugt5Ep事実なら信長は体育会系マッチョ(スキンヘッド)な光秀をしばいたりしてたのか…
こりゃ死に際に是非も無し…って言っちまうわな
0833人間七七四年
2011/09/10(土) 07:48:37.08ID:oEYIne3m0834人間七七四年
2011/09/10(土) 08:30:21.60ID:C9BqRf5U0835人間七七四年
2011/09/10(土) 10:14:44.58ID:eRLa3vpP近江を手に入れたころには相撲に嵌まってたからなあ
けっこうそういった連中を好んで傍に置いてたんじゃないかな
0836人間七七四年
2011/09/10(土) 10:40:48.86ID:UyI0ka2x匍匐前進しないと通れねえwww
0837人間七七四年
2011/09/10(土) 10:54:46.80ID:FgxTN5EO0838人間七七四年
2011/09/10(土) 11:11:18.25ID:nB0XvDKGでも、掲載されている原文ではそのまま弐尺五寸となってます。
二十尺五寸と書きたかったのだと思うけど・・・
大げさが売りの軍記物だし、まあ雰囲気で読み替えてみてくださいな。
0839人間七七四年
2011/09/10(土) 12:07:38.97ID:VwN8Ej82で、出典は?
0841人間七七四年
2011/09/10(土) 19:37:01.06ID:+aqI29u/女房は間男と密通を重ねていた。
ある雪の夜、菜屋の女房を訪ねて来た男があった。間男が来たと思った女房は、使用人に言って自分の部屋まで
案内させると、みずから部屋の戸を開け、男の手を取った。部屋から漏れる明かりに照らし出されたその顔は、
間男のものでは無かった。
「わしは、そなたの亭主と懇意の者だ。ご亭主が帰って来たら、全て話してやろうか?」
「そ、そんな・・・金なら出します、どうか主人には!!」
しかし行商人姿の見知らぬ男は、女房の願いに承知せず、女房の部屋に上がり込んだ。
その後、主人が朝鮮から帰って来るとの報が入り、女房は家中の大掃除をさせた。自分でも主人の部屋の掃除など
していたが、そのうち菜屋の家宝である名笛が無くなっているのに気づいた。使用人たちにその事を聞くと、
「ああ、いつかの雪の夜に来た旦那様の知人とか言う男が、持って帰りました。」
女房は男を捜して会い、笛を返してくれるように頼んだ。
「何を言う。この笛を証拠に、そなたの密通のこと、詳細にご亭主に伝えてくれるわ。」
困った末に女房は、実父で同じく堺の豪商である臙脂屋(べにや)に相談した。娘の不始末が菜屋に知れたら、
最悪、娘の命に関わるばかりか、自分の堺衆への聞こえも悪い。やむを得ず、臙脂屋は男に会った。
「金でも物でも好きなだけ差し上げます。どうか、娘をお許しくだされ。」
「そうか。実はわしは今でこそ、このような行商人の姿をしているが、畠山政長公にお仕えしていた者だ。
政長公の遺児を奉じ、再起を図っておるが、金穀が不足しておる。臙脂屋どのの、お力を借りたい。」
大義名分を得た臙脂屋は、喜んで莫大な金穀を男に与えた。畠山尚順が紀伊で挙兵したのは、間もなくの事だった。
(応仁後記より)
菜屋の関係者によると男は「木沢」と名乗ったという。
畠山でKIZAWAというと、「あのお方」のパパとか親戚であらうか・・・
0842人間七七四年
2011/09/10(土) 21:05:02.14ID:GZBZ0WZW0843人間七七四年
2011/09/10(土) 21:13:41.64ID:FrvOW5Bq1573年、足利義昭を追放した織田信長は、幕府の権威を借りられなくなったため、今度は朝廷に急接近し、
「公家一統」なるものを唱え出した。
権大納言・三条西実枝などは喜び
「信長は公家一統の政治を500年前のように行うようであります。
鳥羽上皇以来の代々のご無念もこれで天運が改まるというものです。
悦びとおそれで薄氷を踏むような気持ちです」
と書いている。
安国寺恵瓊が信長について「明年辺(あたり)は公家などに成らるべく候かと見及び申し候」と書き送ったのも、ちょうどこの頃である。
翌1574年3月、天皇から信長に蘭奢待が下賜され、信長と朝廷の関係はいよいよ深まった。
この時のやりとりについて関係者は次のように明かしている。
「『奈良の東大寺に収蔵されている香木の蘭奢待をいただきたい』
と宮廷に申し出られたところ、3月26日、勅旨の日野輝資殿・飛鳥井雅教殿が、かたじけないことに、ご院宣を伝えられた。
奈良の僧徒らはかしこまってお受けした」
(織田家家臣 O田G一氏)
「相談もしてこないことを断るわけにも参らぬので、何なりともやりたいようにしたらよかろう。
公家一統にと、きれいごとを申した舌の根も乾かぬうちにこんな体たらくでは、先行き一体どうなることやら。
この一事にて万事が見えたというものだ。
こんなずさんな手続きで勅封の蔵を空けるとは、いにしえの聖武天皇の御憤りもいかばかりであろうか」
(日本国天皇 O親町氏)
そもそも、信長が部下の塙直政を派遣して蘭奢待の存在を確かめさせたのが3月22日。
切り取ったのは3月28日。
わずか6日という短期間で、正式の勅使も派遣されないまま、信長は蘭奢待を切り取ってしまったのである。
信長が朝廷の事をどう思っていたのか、なんとなく分かる話。
0844人間七七四年
2011/09/10(土) 21:17:52.25ID:futfDRv/0845人間七七四年
2011/09/10(土) 21:30:43.39ID:f+VavbC20846人間七七四年
2011/09/10(土) 22:31:19.42ID:zWnHOmf/0847人間七七四年
2011/09/10(土) 22:45:38.83ID:RIPsFW01三斎細川忠興の遺産 其ノ弐
http://www.shimada-museum.net/event.html
http://www.shimada-museum.net/img/event/005/back.jpg
> 【古典古物を楽しむ講座】
> □9月29日(木)
>
> 『ガラシャ夫人を見捨てた男、稲富一夢』
稲富さん(ノ∀`)
0848人間七七四年
2011/09/10(土) 22:53:31.29ID:L/I1HESf0849人間七七四年
2011/09/10(土) 23:17:39.46ID:kMx9XFc20850人間七七四年
2011/09/10(土) 23:19:24.10ID:1WnkfC7u0851人間七七四年
2011/09/10(土) 23:20:13.13ID:H7j31K3R0852人間七七四年
2011/09/11(日) 02:09:40.69ID:NUMYI2pc0853人間七七四年
2011/09/11(日) 04:21:21.09ID:ofsoMQ+Nここまであからさまにdisったタイトルつけるのは珍しいなw
0854人間七七四年
2011/09/11(日) 07:44:00.90ID:YWJa+l78元和8年、最上義俊の代に御家騒動から最上家は改易となる。
同年、鳥居元忠の子忠政が22万石をもって新たな山形領主となった。
忠政が山形に入ると鍵路や通りの要所要所に砦の様な寺社の軒が連なっていた。
「平穏な世にこの街構えはいけない。これではいつ一揆勢が城の内に集まるかわかったものではない」
三の丸内にあった三割の寺社が破却され、残った多くの寺社も山形城から離れた場所へと移築された。
寺社を大切にした義光の思いが鳥居家の移封にとっては邪魔となった悪い話。
0855人間七七四年
2011/09/11(日) 13:49:16.08ID:e56Rhpnz特によそ者の鳥居さんからしたらね。
逆に最上は戦国威風の残る鮭さまの時代から何一つ変われなかったから取潰されたとも言える。
馬鹿な家臣と馬鹿殿ファミリーのお家騒動だもんなあ…
0856人間七七四年
2011/09/11(日) 14:13:14.07ID:2NYFZg17その寺社等も防衛拠点にするつもりだったんだろうな。
でも、新規に入る側の鳥居側からは邪魔でしか無いよなぁ。
0857人間七七四年
2011/09/11(日) 20:03:09.14ID:+iXHpmGe0858人間七七四年
2011/09/12(月) 09:59:57.07ID:mvjzbvpi徳川四天王と言われた榊原でさえあの仕打ちだ
>>857
意味が解らない
0860人間七七四年
2011/09/12(月) 11:07:56.03ID:lbhPOM6K何もかも家康のせいにしないと気がすまない人って多いよね
0861人間七七四年
2011/09/12(月) 14:16:59.39ID:mROD1oIY0862人間七七四年
2011/09/12(月) 14:25:49.87ID:a1/Lx+88榊原康政に関しては嘘か本当かは知らないが、
関ヶ原後に加増の打診が家康からあったけど、武功が無いから受け取れないって断ったとか、
老臣権を争うは亡国の兆しつって自ら中央政界から身を引いたとか、
そういう話もあるからなあ。
本当なら、武人として潔くてかっこいいと思う。
0863人間七七四年
2011/09/12(月) 15:52:06.20ID:m2YsDk9P司馬さんは福島家・加藤家の取り潰しは家康の遺言によるものと断定したうえで
取り潰しは家康の「歯茎の臭さ」を表してるとか、訳のわからないことを言ってたな
家康の遺言なら秀忠の側近は反対しないだろうし、そもそも目障りな大名を取り潰して
なんの問題も発生させなかった秀忠の政治的手腕を褒めるべきだと思うんだがねぇ
0864人間七七四年
2011/09/12(月) 16:29:47.56ID:rFnfqXj7島原・天草の乱は加藤・小西浪人の一大蜂起だし、由比正雪の乱だって食い詰め浪人のクーデター
幕府の無茶な取りつぶしで浪人たちが押し込みに走り治安が猛烈に悪化した
浪人問題に関して秀忠のどこを褒めるべきなのかさっぱりだわ
0865人間七七四年
2011/09/12(月) 19:35:39.65ID:vGGWbGV7牢人問題ってのは戦国時代から繰り返し起こっているもので、滅びたり改易された家の牢人が
大規模一揆を起こしたり敵対勢力に味方したりして治安を混乱させることはいくらでもあった。
そこから考えれば島原や由井正雪の乱程度の、ごく局地的事件で押さえ込んだというのは凄いことだよ。
0866人間七七四年
2011/09/12(月) 19:54:54.21ID:5mIcbVS+戦が無いんだから能のない浪人は皆殺しがベスト
それが駄目だと言うなら逆にどうすりゃ良かったのか聞きたいくらい
0867人間七七四年
2011/09/12(月) 20:08:37.37ID:ORTb75nWどっちかといえば、秀忠の方が家康よりも非情な判断するよね
それと比例して温情な判断もするけど
0868人間七七四年
2011/09/12(月) 20:19:03.50ID:n+xFkh1y一度は跡継ぎにすえて、徳川からの嫁が縁付いた甥っ子を
自分の子が生まれたからって、閉じ込めて餓死させたりしたんだから。
そんな秀吉の悪いところは真似なくてもよかったのに。
0869人間七七四年
2011/09/12(月) 20:22:49.08ID:ORTb75nWそういやそんなことやってたな正則 あの話はかなり引いた
実子が生まれたら、養子が冷遇されるのはよくある話だけど
なにも餓死させなくてもよかろうに
0870人間七七四年
2011/09/12(月) 20:23:03.87ID:dyA0kRwO0871人間七七四年
2011/09/12(月) 20:45:33.26ID:fkp1UZIo大将の天草四郎は秀頼の遺児という説もある馬印が千成瓢箪だったと言うのが基らしいけど
0872人間七七四年
2011/09/12(月) 20:47:10.88ID:1drb3muR規模としては大きいが基本的には島原地域の外に広がったわけではなく、
その勃発の理由も含めて局地的事件である事自体は間違ってないと思う。
0874人間七七四年
2011/09/12(月) 20:54:20.16ID:5mIcbVS+0875人間七七四年
2011/09/12(月) 20:56:43.27ID:5mIcbVS+0876人間七七四年
2011/09/12(月) 21:11:53.90ID:5mIcbVS+0877人間七七四年
2011/09/12(月) 21:13:34.79ID:YFYOX2Pf家臣団が義俊を支えよという幕府の裁定すら蹴ってしまったからな。
家親が毒殺されただの、山野辺を擁立しようだのとごたごたが続いた挙句この有様。
>>856
上杉の米沢城なんてさらにその傾向が顕著だしな。
0878人間七七四年
2011/09/12(月) 21:25:47.67ID:1drb3muR藩翰譜にあったなあ。
事実がどうかはともかく関ヶ原以降の正則の徳川に対する態度を見れば、そういう意識はやはり
持っていたのでしょうね。
0879人間七七四年
2011/09/12(月) 21:26:42.56ID:qUuiY04c大名は潰す
浪人の失業対策もする
両方やらなきゃならんのが天下人だ
0880人間七七四年
2011/09/12(月) 22:15:15.04ID:5mIcbVS+まだまだ生産力が低く不安定な世の中なんだから必要ない人間は間引かざるをえない時もある
段々と生産力が高まって安定化して初めて弱者は救済される訳で
0881人間七七四年
2011/09/12(月) 22:16:41.24ID:YD4bMr0Z0882人間七七四年
2011/09/12(月) 22:33:03.62ID:bM3EUKHk0883人間七七四年
2011/09/13(火) 01:18:38.83ID:v0ZnwD/G大部分はおとなしく帰農してる訳で。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています