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戦国ちょっと悪い話27

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0001人間七七四年2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/

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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0487人間七七四年2011/08/20(土) 13:29:28.93ID:s+nwuQ5f
これは八兵衛というより榊原家の悪い話
藤堂玄蕃が大谷吉継の首を見逃してやったように、
武士の情けってものがあるのに強奪した奴にあっさり加増、
しかも信州へ形見ってことは味方の真田家との関係も悪くなる
0488人間七七四年2011/08/20(土) 13:32:26.12ID:qE58xJjl
馬の口取りの首で50石とかボロすぎ
0489人間七七四年2011/08/20(土) 13:38:59.09ID:Kp4PWgxR
馬の口取りですら戦果として喧伝せざるを得ないほど
榊原家に部隊としての手柄が無かったのかも知れん
0490人間七七四年2011/08/20(土) 13:57:14.23ID:UEijmiU1
これは悪いなぁ
0491人間七七四年2011/08/20(土) 15:27:22.74ID:ESku/hhC
こういうことを家康が耳にしたら最近の若い連中は・・・
ってしかめっ面になるだろうな
0492 忍法帖【Lv=1,xxxP】 2011/08/20(土) 16:20:55.78ID:tBupVv1n
関白高速茶道が特許申請を検討、独自技術によるものと主張(日本)


茶道具の一種に台子(だいす)というものがある。
ある茶会で、千利休がこれを使って秀吉に茶を立てた。

秀吉「あれ?前にやった時と作法が違うぞ」
利休「ええ、あれは師の紹鴎の作法なんですが、我流で少し変えたんですよ。
   かなり省略してみたのですが、いかがでしょう」
秀吉「そうか。ふーむ、なかなかいいな」
利休「ありがとうございます」




秀吉「んじゃ、これ許可制にするわw
   誰かに教える場合は俺に許可とってからにしろよ」
利休「」



この作法は豊臣秀次・蒲生氏郷・細川忠興・高山右近など、ごく一部の者にしか伝えられることはなかった。
晩年の利休は、台子の作法を誰かに聞かれると「台子のことは失念いたした」と言っていたという。
『利休は台子を遠ざけていたように見受けられ、利休が台子を使ったという記録はわずかに3回しか残っていない。』(ウィキペより)
0493人間七七四年2011/08/20(土) 19:12:43.72ID:8R+IDEYN
画像検索して初めて知った、あれ台子って名前だったんだ
宗教とかも始祖からかけ離れているように、たぶん茶道も当時と現在では違うんだろうね

ところでこれって作法を独占して伝授する権限をもって自身を権威付けしようってことだよね
信長も茶道を利用してたけど、そういうのって信長が発案したのかな、それともそれ以前からあることなのかね
0494人間七七四年2011/08/20(土) 20:28:41.26ID:3uflP1B0
単純に茶道の、和歌や作法と同じ古典権威化だろうね。
こういうのは秀吉の時代からでしょう。
0495人間七七四年2011/08/21(日) 01:32:56.24ID:AW0+JGuj
>>486
斬ったのは八兵衛とは別人じゃね?
好意で見逃したのに無駄になった八兵衛にとっても悪い話。
0496人間七七四年2011/08/21(日) 01:46:19.00ID:blvDlLUM
首取った榊原家の士ってのが八兵衛じゃなかったらスレタイどおりのちょっと悪い話だな
一度見逃したのに後で野心が鎌首擡げて口取りの首取ったなら本当に悪い話しw
0497sage2011/08/21(日) 10:30:49.97ID:O54MV1ow
tesu いけるなら長文なんで何度かに分けて投稿します
0498sage2011/08/21(日) 10:54:02.85ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い〜1

1559年人吉城詰衆の若侍、児玉・早田・深水の三人が、それぞれ人吉奉行である丸目頼美の屋敷に仕える侍女たちに惚れた。
互いに相思相愛となり密かに逢瀬を重ねていたが、見つかったら処罰を受ける。
女は欲しい、だが処分は嫌だ、何とか惚れた女を連れ出したいと考えた児玉たち。
丸目屋敷を取り仕切るのは丸目の母親で相良家中から「徳深き人物とあり、侍女を多く抱えていた」とある。
徳が多いから侍女が多かったのか、侍女が多いから徳深いのか、そのへんは解らないが、とにかく丸目の母がキッチリしてるので侍女を連れ出すなど到底無理。
困った三人は宗慶寺の僧組・智勝に相談した。

智勝「侍女らが仕える丸目と同役でライバルの東長兄を争わせ、その隙に侍女を連れ出せば良い」
三人は後先を考えず、その話に乗り手分けして実行に移した。

児玉が東長兄の元へ、早田と深水が丸目の元へ訪れ「○○が貴方様を陥れようとしています」とウソを吹き込んだ。
東と丸目の二人は同じ人吉奉行とはいえ元々不仲だったので、最初は半信半疑だったが相手の言動がイチイチ気になり、本当にケンカになったしまう。
そして二人の不仲が主君である相良頼房(後の義陽)と、その生母・内城の耳に届くころには、どちらも抜き差しならぬほど拗れてしまっていた。

0499sage2011/08/21(日) 11:04:39.55ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い〜2

主君の頼房は若干16歳、重臣同士のケンカを収める政治力は未だ無いため、
生母である内城が、丸目の縁戚である東直政(湯前城主)に仲裁を依頼した。

東直政は、どういうわけか「仲裁がダメなら丸目を討つということだな」と思い込んでいたらしく、
内城に「二人が元の鞘に収まれば、それで良いのです」と言われると、張り切っていた分、ガッカリ。

丸目の元へ出向くと「拙者は丸目殿へ味方致します!」と勝手な振る舞いをした。
仲裁役(のはず)東直政の言動は、丸目のケンカ相手である東長兄の耳に入った。
「このままではワシが不利」と危機感を覚えた東長兄は、相良頼房と内城に拝謁すると

東長兄「仲裁役が丸目の縁戚では、拙者を不忠者とするでしょう。このままでは某に残された道は謀反しかありませぬ!」
と、泣き脅しをかけた。
0500sage2011/08/21(日) 11:11:40.73ID:O54MV1ow
その3

謀反をチラつかれては、目の前の東長兄の言葉に従うほかない。
相良頼房と生母・内城は言われるままに仮病を使う羽目になる。
東長兄が頼房と内城に仮病を使わせたのは、二人に他者が目通りするのを防ぐ為で、
内城は「気分が優れない」、頼房は「腹の調子が悪い」として、屋敷の奥に引っ込み続け、
そして夜中に東長兄の手配で人吉城を出た。
主君と生母が赤池城へつくと、赤池城から人吉城へ向け篝火を焚いて「二人の無事確保」の合図を送った。
篝火を確認すると東長兄家臣60余人が、丸目屋敷に火をかけて攻撃開始!

人吉城下・丸目屋敷で火の手が上がったのにビビったのが、侍女を連れ出そうとした三人の若侍だ。
「ちょっとした騒ぎが起きてくれれば・・・」のつもりが「リアル市街戦勃発」。
三人は自分たちのウソがバレルのを恐れて職場放棄(人吉城・詰衆)し遁走する。
0501sage2011/08/21(日) 11:29:00.69ID:O54MV1ow
その4
突然の攻撃に、何の準備もない丸目屋敷では抵抗できず、丸目頼美は一族・郎党を連れて、
縁戚で仲裁役で「味方します」宣言してた東直政の湯前城に逃げ込んだ。
(ちなみに騒動の元になった侍女たちも同行)
東直政は驚いた、迷ったが自身の後見役にも諭され「主君に弓引く籠城戦」を決意する。

なりゆきで籠城になったで兵糧が足りない。
そこで兵糧を運ぶために人夫と護衛兵を出した。
その情報を入手した相良頼房は、帰り新参の犬童頼安に攻撃を命じる。

犬童は謀反に加担して敗れて逃亡、日向など転々としていたが1556年に帰参を許された。
彼にとって罪を許した主君への恩義に報いる絶好の機会。
犬童は「奥野一度橋」で兵糧を運ぶ湯前城兵を迎え撃った。

話が籠城前に戻るが、目が屋敷を逃亡した時に、丸目のもう一人の同役・深水頼金の末っ子左近が従っていた。
深水左近は湯前城に行く前に、友人の佐牟田の屋敷に出向き、最期の暇と手拭いを形見の意味で交換した。
で、湯前城でこれを同僚らにシミジミ〜と話すと、
同僚「敵として相まみえる可能性の者と形見の取り替えは聞いたことがない。むしろ差し違えるべきだったろう」と笑われ、
確かにそうだったと深水は納得し、心中深く決意した。

湯前城から出兵した兵糧の護衛兵の中には、同僚に笑われた深水左近がいた。
奥野一度橋で戦闘が始まると、深水は友人佐牟田の前で手拭い放って「自分がいる」ことを知らせた。
二人は互いに槍を合わせ、双方ともに討死したそうだ。



犬童は「奥野一度橋」でこれを迎え撃った。
で、兵糧が足りない。
0502sage2011/08/21(日) 11:45:25.59ID:O54MV1ow
>その4の下二行は間違い〜申し訳ない。

その5「獺野原の戦い」の前哨戦である「奥野一度橋の戦い」は籠城側の勝利となった。
犬童頼安は敗れ手傷を負ってしまう。
犬童が怪我したのは、殿の中にいた宮原(謀反⇒逃亡⇒流浪⇒帰参を共に行動していた仲間)が負傷し動けなくなったのを助けようとしたためだ。

兵糧は入手できたが、このままでは心許ない。
湯前城主・東直政は日向から那須氏を援軍に呼ぶ。
さらに東直政の元へ「人吉城から多良木城へ兵が入り、湯前城を総攻撃する」という情報(実は誤報)が入った。
東直政は攻撃される前に先手を打とうと、恒松蔵人を多良木城攻撃に向かわせた。

多良木城主は岩崎と言うのだが、実は甥が籠城する湯前城に入っていた。
岩崎の甥は「このまま不意打ちを受けたら叔父が討死するかもしれない」と心配し、
自身の侍女を城外へ出して「出兵情報」を多良木城へ漏洩してしまう。

内乱だから敵も味方も親戚・知人が入り乱れているので、何ともはや流れが悪い話。
多良木城側は、さっそく伏兵を配置したが、恒松蔵人は難なく撃破。
この勢いで多良木城を攻撃するが、落城までには至らず、已む無く獺野原に陣を布いた。
0503sage2011/08/21(日) 11:58:14.08ID:O54MV1ow
その6〜1559年8月16日、獺野原で東直政・丸目頼美・恒松蔵人・日向の那須氏の連合軍と犬童率いる人吉勢・深水(人吉奉行の深水とは別人)率いる多良木勢が激突する。

決戦前、犬童頼安は多良木城兵を率いた深水に「人吉衆が大軍に当たるので、多良木衆は横から攻めて欲しい」と言った。
すると深水は「これまで籠城して我慢してきた。自分らに先陣を任せてくれなければ、これから恥ずかしくて戦など出来ない」と反論する。
犬童は深水を説得しようとすると深水が逆切れした。
「なら勝手に攻め込んで討ち死にする!」犬童と険悪な状況になった。
だが犬童は帰り新参の上、奥野一度橋で敗退しているので、それ以上強く出ることが出来ず、深水に先陣を譲ることとした。


ヤル気満々の深水は戻った自陣で「討ち死にする覚悟のある人間」を呼び出した。
その者らに酒を一杯ずつ振る舞って出陣、途中にある川を「三途の川」に準える張り切りぶり。

深水率いる多良木衆は、その「三途の?川」を渡って獺野原の敵陣に向かう坂を登る途中で交戦!
緒戦で壊滅した。
気分を盛り上げすぎて注意力散漫になったのか、初めから死ぬ気だったのか、将の深水も討死したでござる。

「なにやってんだアイツらは・・」と犬童が思ったかは知らないが、彼は彼で行動していた。
0504sage2011/08/21(日) 12:09:54.38ID:O54MV1ow
その7
犬童頼安、自軍を率いて密かに敵の背後にある坂を登らせ、背後から敵を攻撃。
タイミングはバッチリだったのだが、交戦し始めたら互いに見知った顔ばかり。
ついこの間まで、杯を交わしていた友人・親戚らの腹へ槍を突きだす気になれない。
本気が出ないので決着がつかず、だらだらと交戦状態が続いたが、
そうこうしているうちに、連戦の恒松兵に疲れが出て腰が引いて来た。
そこへ人吉勢が押し出し、一気に乱戦となる。

東直政の軍が壊滅し、東直政と恒松蔵人を含めた180余人が討死する。
丸目頼美は戦場を脱出し日向へ落ち延びると、伊東家へ仕えたが「木崎原の戦い」で戦死したそうだ。
留守を預かる湯前城代は、敗戦の知らせに城に火をかけ自害。
丸目の母、件の侍女も自害した。
0505sage2011/08/21(日) 12:22:24.19ID:O54MV1ow
その8
翌年の1560年、そもそもの発端である、児玉・早田・深水の三人と、
彼らに入れ知恵した宗慶寺の僧侶・智勝が捕えられた。

若侍たちは、惚れた女が自分達の浅はかな行動の巻き添えで自害したので、完全に自暴自棄だったそうだ。
4人は人吉城下を引き回しの上、斬首。首は罪人として晒された。
これで一件落着・・・・のはずが困った事が起きた。

宗慶寺へ向かう道に、斬首された智勝が、生首だけの姿で夜な夜な化けて出るようになったそうだ。
智勝は僧侶だが、よほどの強い未練が残っていたのか、調伏することができず、
宗慶寺では止む無く寺を移転する羽目になったそうだ。

ソースは八代日記ですが、ネットから拾ったので細かいとこは相違があるかもしれません。
長文にお付き合い感謝です。
0506人間七七四年2011/08/21(日) 12:39:36.98ID:gM7ZYZWJ
ファミリー台子
0507人間七七四年2011/08/21(日) 13:30:27.48ID:PDvgSchI
一時間半もかかるとは思わなかった
0508人間七七四年2011/08/21(日) 13:49:20.49ID:UZKhShry
長いよッ!!w

しかしまあ、あんな四方敵みたいな立地でこんなアホこの上ない理由で
同士討ちまでしでかしたってのに大名として生き残ったのは大したもんだな
0509人間七七四年2011/08/21(日) 14:07:45.36ID:y78mz2mD
わかりやすくて面白い文章だったけど長いな
いくつかのエピソードに分割して続き物にした方が読みやすいかもしれない

しかし助言の件といい化けて出る事といい、どんだけよこの腐れ坊主w
0510人間七七四年2011/08/21(日) 17:51:42.11ID:yBhJ4BtY
情報を全部説明しようとするから長くなるんだよな
肝心なのは嘘がこじれて合戦になったくだりだけ
あいだあいだの小エピソードは省いてよし
0511sage2011/08/21(日) 18:22:15.29ID:vxpql5QG
>>510殿、参考になり申した。

発端のウソが拗れたのが1559年の5月の話で、
合戦になったのが8月のことなんで、
どこで区切るか迷って、つい欲張って小ネタも全部入れてしまいました。
構成力が及ばなかったorz
0512人間七七四年2011/08/21(日) 18:28:09.25ID:d77drEeQ
なげーよボケ
3行で説明しろよ
0513人間七七四年2011/08/21(日) 19:11:55.41ID:/tJ71kRE
由良氏誕生


横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。

家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。

成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。

成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。


こうして源姓由良氏は「作られた」。
0514人間七七四年2011/08/21(日) 19:22:04.77ID:A8v9Gtzt
明治時代に新田嫡流争いで岩松さんの方が嫡流と認められるんだよな、これ。
0515人間七七四年2011/08/21(日) 19:27:45.51ID:yBhJ4BtY
岩松守純って後に旗本になるんだけど、なんと
「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ
0516人間七七四年2011/08/21(日) 19:32:33.37ID:3mC0MeTQ
そりゃ得川さんからすればねぇw
0517人間七七四年2011/08/21(日) 19:36:52.51ID:1HVdExTT
今も昔も
男女関係で
戦いがおきる

良い例ですね

質問なんですが
侍女って
侍身分出身ばかりなんですかね?
本読んでると当たり前の如く侍女が描かれてるため侍女になるための採用試験みたいな古文書は残ってないんでしょうか?
0518人間七七四年2011/08/21(日) 20:26:20.01ID:ztD4EdN3
侍というか武家さんは基本世襲だよ?
採用試験とかワロスwww
0519人間七七四年2011/08/21(日) 20:31:36.53ID:AW0+JGuj
家臣の娘が行儀見習いのために侍女になったりするんだっけ。
0520人間七七四年2011/08/21(日) 20:31:45.34ID:5koniCUC
>>517
普通は家中の娘から選ばれる
0521人間七七四年2011/08/21(日) 21:06:03.76ID:uNLq3PQq
>>519
江戸時代だと武士じゃなくても病気などで両親亡くした子なんかも可也侍女になってるみたいね
戦国時代は知らん
0522人間七七四年2011/08/21(日) 21:36:03.91ID:k8c4/49+
侍身分じゃなくても侍女にはなれるよ「養女」という手段を使えばね。
でもそれなりに能力無いと無理でしょ。
0523人間七七四年2011/08/21(日) 21:40:52.99ID:HSLXF9Np
侍女は身元がはっきりしてないとやばそうだからな
民間から好みで選ぶと実は他家のスパイで当主が暗殺されるとかもあるかもしれんし
0524人間七七四年2011/08/21(日) 21:53:09.08ID:PO+to1Fl
>>515
戦国時代の有名な武将の子孫が大量に徳川の旗本になってるんだよね
あ、この家も旗本なのかって感じで見てて面白いw
0525人間七七四年2011/08/22(月) 00:01:26.84ID:RAp7ZhpK
>>515
家系図を徳川家に譲渡するのを渋ってそんな扱いになったんだけ?
wikipedia見ると、明治時代に男爵になってるじゃない。よかったな。
0526人間七七四年2011/08/22(月) 00:10:19.70ID:TRMP4aiu
由良に強奪されたから渋ったんじゃないのかこれ?
0527人間七七四年2011/08/22(月) 00:33:52.70ID:dCKjZKLD
ところで、「旅愁」
ふーけゆくー、あーきのよー、たーびのそーらーのー♪
をつくった犬童球渓はwiki見ると熊本県人吉出身だそうだが
>>501の犬童頼安の末裔かなんか何だろうか
0528人間七七四年2011/08/22(月) 00:50:33.03ID:HlRV/lUy
軽くググッた感じだと農家出身みたいだけど、帰農した一族なのか単なるあやかりなのか
実際のとこは知らないけど犬童が地名姓だったりするともうなんともかんとも
0529人間七七四年2011/08/22(月) 03:16:21.17ID:14mtRMja
黒田長政の嫡男・万徳丸(黒田忠之)4歳の年の暮れ、長政の伯父黒田図書の屋敷にて、袴着(幼年期から
少年期への移りめの儀式)が行われた。この時黒田家中の主だったものは皆罷出て、万々歳を唱えた。

ところで黒田家重臣・母里但馬守友信は万徳丸の蟇目(懐妊5ケ月目の15日に胎児の健康なる成長を祈って
弓を射る儀式)親であり、万徳丸は常に「祖父祖父(じい、じい)」と呼んで良く懐いていたそうだ。
この時も母里は万徳丸の頭をクシャクシャに撫でながら

「万徳丸殿、早く成人して武辺をなされよ?侍は他に何もいらない、武辺が専一です。とと様よりは武辺を能くしてくださいよ。」
これを聞いて当然ながら激怒したのが長政である。

「但馬何をいうか!このワシより能くせよとは!?わたしの武勇を悪しく思っているのかあっ!?
ワシが若い頃には備後(栗山利安)、次には其方を指図し、朝鮮でも度々、その後も神戸、関ヶ原の合戦と、
私は武辺を示してきた。その後は天下静謐となり合戦の場数を稼ぐことはできていないが、とにかく私は
其方共に見限られるような武将ではない!それを何だ!?とと様より能くせよとは!全く理解出来ない(一圓分別に能わず候)」

そう叫ぶと大脇差を抜いて母里を睨みつけた。その場の人々『これは何事だ、大事が起こるぞ!?』と
ハラハラしながら見ていると、母里は長政の脇を向き天井の方を眺めながら(つまり激怒している長政を
ガン無視である。失礼にも程がある)

「変なことに腹を立てる人がいるものだ。自分の子供が武辺を能くせよと言われるのが悪いことか?変な人が居るものだなあ。」
と、そのまま長政の方には見向きもせずに言った。この態度に(当然ながら)長政は治まらない

「万徳に武辺をせよというのが悪いのではない!しかし親より能くせよとな何事だ!?」
これに母里は冷笑し(ホントにそう書いてある)

「他人事ではありますが、御心を静めて聞いてください。武辺というのは図ることも出来ず、底も知れないものです。
何度合戦に挑んでも、やりきったと思うことはありません。合戦のたびに『やり足りなかった』と後悔しないことは稀です。
残念な働きだったと思っているのに、周りが『比類なき働きだった!』と言われれば、不承不承そういうものだとしておきます。
そうであるのに、殿は大名であって能き人を多く引き連れ、能き作戦の元に得たお手柄自慢、笑止ですな。
(大名にて能き人を引き連れ、能く計る所の御手柄御自慢、笑止に存候)
勝ち戦ばかりにお会いなされ、いつもこんな物だと思っていたら必ず不覚を取りますぞ!
まあその辺りの事はそれがしより備後に聞いたほうが詳しいでしょう。それはともかく万徳殿、どうか武辺を成し給え」

相変わらず長政をガン無視したままそう言いつつ万徳丸の頭を撫でた。

さてこの時、その栗山備後守利安は次の間で若い衆たちに酒を勧めて回っていたのだが、長政と母里が声高に
言い合っているのを聞きつけ土器と銚子を持って走ってやってきた。そして長政に

「さてさて勿体無い事ですがこれは私にくだされた盃です。憚りながらこれを拝上いたしたいと思います。」
これを長政の方に差し上げ、
「私が若年で小姓だった頃、如水様の御前でやった小笠原流のお酌を(ここは笑う所)、今ここで思い出しつつ、
昔を懐かしみながらお酌致します。」と盃に酒を注げば長政、

「栗山から盃をもらうのはいつものことだが、酌は珍しい」
と笑いながらこれを飲むと、栗山

「その返杯は但馬(母里)に下さいませ」と言って母里の方を向き
「おいキチガイ!こっちに出てきて杯を頂戴いたせ!(気違ひ罷出て、御土器頂戴仕候へ)」

これに母里も「畏れ入り候」と罷出て、頂戴仕った。これで長政も母里も何事もなかったかのようになり酒宴大いに盛り上がる。
ここで栗山一同に申し上げたことには

「若き者共、よーく聞け!お心掛けの深いのも殿様であり、無分別なのも殿様である!
そして大たわけで、かつ頼もしいのも母里但馬。どうだ当家の武勇、末頼もしいとは思わないか!?
平穏なときはこのように目出度い場で、高下の区別なく酒を飲み楽をし、一旦ことあれば槍を突きまくって
すべき事をしておけば、やがて主君になる人(万徳丸)も、何事も許してくれるぞ!さあ歌え舞え!」

これに長政すっかり機嫌も直り「備後の申すようにすべきことをした者には、許しもしてやらないとなあ」と言い、
そのまま夜明けまで酒宴をしたそうだ。(古郷物語)
0530人間七七四年2011/08/22(月) 03:30:09.33ID:i/FOXGZQ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1508.html
こっちは常山紀談の同じ話
古郷物語を元にしたのだろうか
0531人間七七四年2011/08/22(月) 03:33:28.48ID:i/FOXGZQ
まとめスレのリンク貼ったがよく見たら
いい話の>>165にもリンクが張ってあった
0532人間七七四年2011/08/22(月) 03:36:30.81ID:7Ea1Vr1Y
>>530を見ると常山紀談は表現がずいぶんマイルドになっているのが解るなw
0533人間七七四年2011/08/22(月) 05:57:55.03ID:m9SMr/es
 相良氏ネタをまとめブログで読んで飛んできました。

◆相良氏の内乱1:上相良氏と下相良氏

相良氏は遠江国相良荘(静岡県)の出身である。相良頼景は当初源頼朝の
挙兵に従わず、その後も不遜な振る舞いがあったために肥後国球磨郡(熊本県)
の多良木荘に追放された。頼景は後に、許されて多良木荘の地頭に任命される。
そして、頼景の長男の長頼も二俣川の戦い(畠山重忠の乱)で手柄を立て、
球磨郡人吉荘の地頭に任命された。

こうして、肥後球磨地方には多良木を支配する上相良氏と、人吉を支配する
下相良氏の二つの相良氏が並列することになった。南北朝時代では南朝・北朝に
分かれて争ったり南朝に付いたり北朝に付いたりとめまぐるしく陣営を変えた。

1443年に下相良9代目当主相良前続が亡くなると、子の相良堯頼は13歳で後を継いだ。
これに付け込んだのが上相良の相良(多良木)頼観・頼仙兄弟。1448年、頼観・
頼仙兄弟は人吉城を夜襲、堯頼は菱刈(鹿児島県)に落ち延びた。ここで立ちあがった
のが相良氏庶家の永留長続。長続は人吉城を攻め、多良木兄弟を人吉城から追い出した。

長続は「敵を追い払ったのでどうぞ帰ってきてください」と堯頼に帰城を求めた。
ところが、堯頼は「私には当主の資格がない。長続が後を継いでほしい」と言いだす。
そして、堯頼はまもなく菱刈で亡くなってしまった。
可愛がっていた子牛に股を角で突かれた傷が原因だと言うが……

堯頼の死によって家督を継ぎ11代目当主になった長続は多良木兄弟を討ち、
上相良氏を滅ぼした。これにより相良氏は統一されたのである。



まあ、堯頼が家督を譲ると言ってまもなく急死してしまうというのはできすぎな
気もします。庶家の長続による上相良氏・下相良氏への下剋上だったのかも?
0534人間七七四年2011/08/22(月) 05:59:37.91ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱2:相良長定の謀反

相良家の一族・相良長定は不満を抱いていた。

長定の父・頼金は11代当主長続の長男でありながら病弱なために家督を継げず、
頼金の弟の為続が12代当主となった。その後、為続の子長毎が13代、長毎の子
長祗が14代当主となった。

……というような事情から「俺が相良家の正統な後継者だ!」と長定は考えるように
なり、奉行の犬童長広らと謀反を画策し始めた。

ところが、謀反の噂が長祗の耳に届いてしまう。

1524年8月24日。長祗はこの件について家臣たちと相談する。
すると家臣の薗田又四郎が、
「たとえ今回無実でも、長定は危険です。後々のために奴を刺し殺してきます」
となかなか過激な意見を言う。
「まだ本当かどうかもわからんのに、何と無礼で強引な事を言うのだ!」
と長祗は激怒。他の家臣のとりなしで命は助けられたものの、薗田又四郎は追放されてしまった。

そして、長定に使者を送って詰問したところ、「逆心などありません」と誓文を出した
ので、長祗はすっかり安心してしまう。ところがその深夜、長定と犬童長広は兵60人ほどで
人吉城を奇襲。驚いた長祗は薩摩国の出水に落ち延びた。

その後、長定は「逆臣にそそのかされました。城を退去し逆臣を討ちますので
お許しください。それがだめなら水俣に隠居料を差し上げます」と出水に使者を送った。

どう見ても罠であるが、翌年1月6日に長祗は肥後国水俣城にやって来てしまった。
もちろん長定は津奈木の地頭・犬童匡政に長祗暗殺を命じていた。
そこに薗田又四郎が駆けつけて長祗に注進するも、とき既に遅し。
犬童匡政の追撃に遭い、長祗は又四郎の介錯で自害して果てた。
0535人間七七四年2011/08/22(月) 06:00:56.42ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱3:兄弟相克

長祗を討ち、家督を我が物にした長定であったが、長祗の二人の庶兄である長唯と瑞堅
が黙っていなかった。1526年5月11日、瑞堅が僧兵300を率いて人吉城に攻め入ると、
長定は妻子や犬童長広と共に落ち延びていった。

ところが、人吉城に入った瑞堅は権力欲にかられたのか、あるいは兄に家督を譲る気
などさらさらなかったのか、還俗して長隆を名乗り、家督相続を宣言。
今度は、長唯と長隆による家督争いが勃発してしまう。

しかし長隆は僧でありながら自分の寺を焼いてしまったことで一族や家臣の支持を
得られず、永里城に落ち延びた。長唯は長隆を討つため、従兄弟で一族の重鎮である
上村頼興に支援を求めた。

しかし上村頼興は支援を渋ったので「頼興の嫡男を私の養嗣子にする」という破格の条件で
ようやく支援を取り付け、長隆を討った。長唯は義滋と名乗り16代目当主になる。

一方、長定は長唯・瑞堅兄弟の追撃をかわし、筑後国(福岡県)に逃れる。

ところが1531年、長定は義滋の「帰っておいで〜」という誘いに乗って帰ってきてしまう。
長定は人吉の法寿寺の門外で暗殺。夫人と第二子も誘い出されて暗殺。筑後に残っていた
第一子も刺客に暗殺されてしまう。一方、犬童一族もほぼ皆殺しにされてしまったが、
幼かったために助命されたのが、後に相良義陽の重臣となる犬童頼安である。


自分が使った手にひっかかるなよ……長定。ちなみに一応15代目当主としてカウントされてます。
0536人間七七四年2011/08/22(月) 06:03:05.10ID:m9SMr/es
◆相良氏の内乱4:上村三兄弟

上村頼興は相良義滋を補佐し、辣腕をふるった。実の弟である上村長種を「有能で人望があるから
危険」と暗殺させ、義滋が亡くなり実子の晴広が17代目当主になると義兄の岡本頼春を暗殺、
遺領はちゃっかり自身の四男稲留長蔵に相続させた。

晴広が1555年に43歳で亡くなると、嫡男の義陽(当時の名は頼房)が18代目当主になる。
頼興は引き続き孫を後見したが、まもなく1557年に亡くなってしまい、若い当主が残された。

こうなると野心家が出てくる。具体的には晴広の弟である上村頼孝、頼堅と稲留長蔵。
つまり義陽の叔父たちである。頼孝が家督を奪い、三兄弟で相良領を分割支配しようともくろんだ。

しかし謀反は義陽側の家臣に察知され失敗。頼堅が討たれ、頼孝・長蔵は日向国飯野(宮崎県)
に逃れた。頼孝・長蔵は後に帰参を許されたものの、やはり危険と思われたか、1567年に義陽に
討手を差し向けられ頼孝は自害、長蔵も殺された。

この後も先日紹介された獺野原(うそのばる)の戦い
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5712.html
とか義陽が響ヶ原で甲斐宗運に敗死した後に異母弟の頼貞が家督を継ごうとしたり、
朝鮮出兵で20代目当主頼房が留守中に頼孝の遺児長陸が謀反を画策したり、と
やたらと内輪もめが絶えない相良家なのでした。
江戸時代にもお下の乱とか竹鉄砲事件とかあるしね……
0537人間七七四年2011/08/22(月) 06:47:48.80ID:xz0ll56K
侍女質問したものです

色々解答出して頂きありがとうございます

しかし不思議なのですが、侍女はそれなりに身分の高い家中の武士の娘(養女含む)から構成されているのがわかりましたが

皆様の鮭さまのいい話にもあるように若い侍と侍女が関係をもち、一度は切腹を言われかける話があるのですが、下手に侍女を殺っちゃうと、殺られた侍女の身内が謀叛または家を去っていくのでしょうか?
0538人間七七四年2011/08/22(月) 07:38:27.36ID:nRfXKEUV
>>537
ここは質問スレじゃないかな。
0539人間七七四年2011/08/22(月) 08:02:08.95ID:SbHaeYPR
>>536
先日紹介されたって、自分で書いたんじゃないの?
無駄に長いところがそっくりなんだけど
0540人間七七四年2011/08/22(月) 08:15:45.05ID:h4k20F8z
マイナー歴史紹介スレじゃなくて逸話スレだってことを
いまいち理解出来てない臭いがする
0541人間七七四年2011/08/22(月) 08:51:25.98ID:xP91P8Yp
>>533
文体も497-505そっくり。自作自演乙
まとめスレもこんなスレ違いの載せるなよ
0542人間七七四年2011/08/22(月) 09:01:48.45ID:HlRV/lUy
まとめのウソの話のコメで元ネタブログほとんど引用だみたいなのあったから
今回のは元ネタの主だったりしてなw
0543人間七七四年2011/08/22(月) 20:17:34.94ID:GozTgEYl
興味深い話ではあるんだけど、たしかに逸話ではないな
これにAA載せたら最上厨
0544人間七七四年2011/08/23(火) 00:16:10.89ID:NLEuPCXP
天正6年(1578)4月、要衝・上月城を山中鹿介をはじめとする尼子残党に奪われた毛利氏は、これを奪還せんと
大軍をもってこれを囲んだ。篭城側にも織田家から羽柴秀吉らが救援に駆けつけ、戦線は膠着した。

6月に入ると、毛利氏の重臣・杉原盛重が、配下を集めて檄を飛ばした。
「お前ら、高倉山の羽柴陣に『忍び討ち』をして来い。こういう時のために、お前らが時々他人の蔵を破り、
垣根を飛び越えて盗人のマネをしているのを見逃しているのだ。今こそ、羽柴の警戒を確かめて参れ。」

杉原播磨守盛重、彼こそが毛利忍び衆の頭目だった。
その檄に応じた徳岡久兵衛、別所雅楽允、佐田三兄弟など二十余人は、その夜半に羽柴陣へ忍び込んだ。


まず初めに羽柴陣へ忍び込んだ徳岡久兵衛が篝火の燃えさしを取り、寝ている羽柴兵の背中に突っ込んだ。
当然羽柴兵は転がって叫び声を上げ、騒ぎを聞きつけて他の兵も陣屋から顔を出した。
闇から姿を現した忍びたちは、顔を出した兵を手当たり次第に押し倒し、その首を次々に落としていった。

「おい雅楽允、何をまごついておる。遊んでいるヒマは無いぞ!」
ひとりいつまでも首の落とせぬ別所雅楽允に、佐田兄弟の長兄・彦四郎が声をかけた。
「待ってくれ、打っても打っても首が切れんのだ!」
「落ち着け。お主のデカい鍔の刀では、地に伏した者の首など、鍔がつかえて圧し切れんわ。掲げて切れ。」
「おおっ、なるほど!!」

納得した雅楽允、いったんは押し倒した羽柴兵を引き起こすと、頭をつかんで掲げ、切り落とした。
その後はスパスパと首を落として満足した雅楽允は、引き上げの際、大音声で言い放った。

「我こそは杉原播磨が郎党、別所雅楽允!当陣の真ん中に、忍び討ちして帰るなり。
畿内並びに美濃・近江の弱兵どもよ、普通の戦と思っていると、こうして不覚を取るぞ!」
あわてて羽柴兵は雅楽允を追ったが、忍びたちは高倉山の宵闇の中に消え去った。(陰徳太平記より)

その後も忍び討ちを受けた羽柴軍は救援どころでは無くなり、そのうち別所氏の離反への対応で撤退。
孤立無援となった上月城は7月に陥落するという、本当は怖い忍者の話。
0545人間七七四年2011/08/23(火) 00:26:22.34ID:FLdFN5GU
雑兵の首なんて放っておいて陣とか兵糧庫に火を燃やせよ・・・
0546人間七七四年2011/08/23(火) 00:52:38.11ID:VTkPb0vT
その辺は守りが固いからじゃね?
あと兵を怯えさせるのが目的だからなるべく直接的でないと。
0547人間七七四年2011/08/23(火) 01:02:13.86ID:jUl+cQiq
単に火をつけるだけじゃ普通は消されてボヤで終わるんじゃね
0548人間七七四年2011/08/23(火) 01:06:28.00ID:FLdFN5GU
つ 焙烙火矢
0549人間七七四年2011/08/23(火) 06:20:33.83ID:fvsyMy2u
小手調べでいきなり必殺技は使わない。
そういうことかもしれない
0550人間七七四年2011/08/23(火) 18:31:08.98ID:4Fcp0HYy
軍の攻撃は防げても、人ひとりの侵入は防げない
ってことかな
0551人間七七四年2011/08/23(火) 20:44:53.30ID:+5gSCeqg
軍記物で忍者の活躍をまともに書いてる珍しいシーンだったりするよな。
佐野兄弟は架空戦記とかで毛利忍者の頭目でよく出てくる。
0552人間七七四年2011/08/23(火) 21:13:50.89ID:tGAZY2F4
独立系伊賀
六角甲賀
北条風魔
0553人間七七四年2011/08/23(火) 22:28:15.17ID:XAckVRxH
職種上基本目立たない部分での活躍が多いだろうしな
たまに記述があったかと思えば失敗談だったり
0554人間七七四年2011/08/24(水) 00:18:24.49ID:lNY7Pigs
細川幽斎が京の東に馬を進めていた時、道の真ん中にゴロンと大石が転がっているのを見つけた。

「なんじゃこれは?これ、あの石には何か云われがあるのかね?」
突然の異様な光景が気になった幽斎は、近隣の住人に大石の事を聞いてみた。

「ああ、ありゃ蒲生飛騨守様のせいでさあ。」
「…ああ……アレ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2405.html)ね………」

そう、アレから怒りの収まらぬ我らが蒲生塾長、京洛に石を置きっ放しにしていったのだ。
「こんな事になっていたとは。」
さすがにあきれた幽斎は、歌を一首置いてその場を去った。

“大石を 道にかまふ(構う・蒲生)に 引き捨てて 飛騨の匠も 及ばざりけり”
(委細構わぬ蒲生飛騨が、巨石を置いていってしまった。飛騨の名工とて、どうする事も出来まい)


しばらくして後、石の横に落書が立てられた。

“大石を 道にかまふと 見るこそは 身にも掛からぬ しらをいふさい(幽斎)”
(面倒が自分の身に降りかからん思うて幽斎はん、しらばっくれた事言うてはるわ。
同じ大名として、他に言う事・する事あるんちゃいますの?)


「越後在府日記」から、蒲生巨石祭りの何だか冴えない後日談でした。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5561.html
も畿内の商人だろうし、幽斎さんなぜか都雀とは相性が悪いようで。
0555人間七七四年2011/08/24(水) 00:47:07.33ID:03e9R+xW
なんつーか、蒲生氏郷は本当に性格悪いというか器が小さいというか・・・
0556人間七七四年2011/08/24(水) 00:59:33.32ID:3LEPh/kC
性格悪いというよりも何だろう…アレな方向に忠義心が向いちゃった感じ?
あと幽斎さんも都人は扱い辛そうだな
0557人間七七四年2011/08/24(水) 02:12:08.69ID:J63ovrss
都雀くらいの嫌味レベルになってくると巨石位放置してもいいんじゃねwww
と思ってしまう俺は東ゑびす

でももともと使うから運んでたんだろうから、その後石が足りなくて困らなかったのかねえ
0558人間七七四年2011/08/24(水) 03:11:26.07ID:2Add00GI
>>554
上手い返しだなw

>>556
別に蒲生氏郷に太閤への忠義心なんてないだろ。信長には心酔してたみたいだが
0559人間七七四年2011/08/24(水) 08:49:54.00ID:gUkW2k5G
他の所なら、和歌を使ってちょっと気の利いたコメントを残せば「さすがインテリの細川殿」と
素直に感心してくれて終了なんだろうけどねえ
0560人間七七四年2011/08/24(水) 09:58:34.63ID:gLjyYOVb
京の人「格好つけてそんな下手なうた読んでる暇あったらさっさと石をどけてくだはりまへんか?」
0561人間七七四年2011/08/24(水) 10:12:59.30ID:FOUlokJo
>>485
信繁には葦毛の愛馬もいたんですね!
私の地元大分県にも、信繁の愛馬の墓と伝わっている真田栗毛の墓があります。
松平忠直が真田栗毛を貰って(奪って?)、豊後まで連れてきたとか。
地元民にも殆ど知られていませんので、真相は定かではないですけど。
0562人間七七四年2011/08/24(水) 16:04:21.25ID:qaLjzaUs
徳川実記によれば紀伊に潜んでいた信繁正室竹林院(大谷吉継の娘)が
浅野長晟に捕えられ二条城に引き渡された際に
彼女が家康に献じた信繁が秀頼から賜った来国俊の脇差と金五十七枚は
すべて長晟に与えられたそうなので
そういった持ち物を与えられるのはよくある話だったのかも。
0563人間七七四年2011/08/26(金) 00:28:22.77ID:XbV2Xl/5
>>561
真田隊の武将が乗っていた馬を戦利品ゲット。
それが名馬だったので寵愛、配流先まで連れていった、という話なら十分ありえる。
0564人間七七四年2011/08/26(金) 12:34:15.16ID:QDazOluS
保守
0565人間七七四年2011/08/27(土) 17:48:30.58ID:1ki89kUV
三河一向一揆の最中のこと。

永禄7年(1564)正月13日の早朝、上和田にあった家康方の大久保党は、その前日、
11,12日と一揆勢に押し寄せられたことに怒り、今度はこっちから押し寄せようと井内村まで下り
一揆の根拠地の一つ、針先の寺の近い浦地まで押し寄せると、一揆勢も同じようにそこまで
進出、双方鉄砲の打ち合いとなった。

この時大久保勢の大久保七郎右衛門忠世と一揆勢の本田彌三郎は正面で対峙し、互いに互いを鉄砲で狙う。
同時に発射!
と、彌三郎の弾は外れ、忠世の撃った弾は彌三郎の股をかすり、本田彌三郎、その場にうち倒れた。
が、浅手であったため味方に助け起こされ針崎の城内に引き入った。

こういった所に、針崎に籠っていた浄妙寺という一向宗の僧、これを見て進み出て、
重藤弓(全長170〜180cmの世界最大級の長弓)を持ち、三河での説法で鍛えた声で

「しゃらくさく堀を越えて戦に来たお前たちに、我らが大軍の武者をこれ以上手負わせてなるものか!
私が相手をしてやる!」

と、片肌も脱がずに弓を引こうとした。

この姿がどうにも似合わず可笑しいもので、寄せ手の者たちこれを見て

「弓を射る作法も知らないとは、いらざる法師の腕立てかな!」

と声をかけるとこの浄妙寺

「法師だからといって、弓を射る作法を知らないということがあるか!」

と片肌脱ぎにした。『右肩』を。

はい。弓を射る時脱ぐのは左肩であるのが常識です。浄妙寺さん、やっちまったわけです。
これには敵だけでなく味方も、戦の手を止め声を上げてどっと笑ったそうである。

三河一向一揆の中の、ちょっと可笑しなエピソード
(三州一向宗乱記)
0566人間七七四年2011/08/27(土) 19:38:16.34ID:xtbQWOIP
はずかしいw
後で思い出して悶絶しそう
0567人間七七四年2011/08/27(土) 19:58:51.64ID:GrrDZcSN
やっちまったな坊主!w
0568人間七七四年2011/08/27(土) 20:36:33.21ID:QfdOZ6Cm
>重藤弓(全長170〜180cmの世界最大級の長弓)

いやもっと長いよ、普通でも2メートル以上はあるはず。

この重藤弓というのは本来武将が持つような格式の高い弓のはずなんだが、
それを射方も知らない坊主が持ち出してきたところにおかしみがある。
0569人間七七四年2011/08/27(土) 20:38:47.56ID:/uyGzAn+
ここまだ笑われていざ射てみればものすごい威力と精度とかだったら伝説だったなw
0570人間七七四年2011/08/27(土) 20:46:28.09ID:eXZh1iW2
あれ相応の技術を要求されるから、それやったら天才どころの騒ぎじゃねぇよw
0571人間七七四年2011/08/27(土) 21:16:05.87ID:6pTFi6De
天地を喰らうの張飛並みだったら面白かったんだけどね
0572人間七七四年2011/08/28(日) 03:19:31.67ID:LqePyUMB
なんかもう太陽でも射れそうな弓だな
0573人間七七四年2011/08/28(日) 20:03:55.27ID:ls5hNM/b
文禄の役において、加藤清正は漢城(ソウル)攻略の後、さらに北部へ進軍し、諸将と連絡が取れなくなった。
糧秣が乏しくなった諸将は、漢城を離れ別の土地へ移動しようとしたが、ひとり加藤光泰が反対した。

「清正は、我らと離れて敵に向かっている。ここで我らが漢城を去れば、清正は捨て殺しになろう。
今ここを去る者は、男では無い!清正を捨てるは、日の本の恥ぞ!!」
「だが、食い物が無いのだ。どうしようもあるまい。」

すでにキレていたのか、光泰はムキになって答えた。
「砂を食えば良かろう!」
「いや、砂は食えんだろう・・・」
「へー!お前、砂の食い方も知らんのか?!じゃあ、オレが教えてやんよ!」

もはや絶好調の光泰、今度は福島正則を睨み、
「やい、市松!!いつの間にそんなにデカくなったんだ?!」
返す刀で宇喜多秀家を指差し、
「今までは『中納言殿』と敬ってやったが、お前なんか今日から『中納言め』だかんな!
どいつもこいつも、清正を捨て殺しにして、恥を異国にまでさらすヤツらだ!!」

そう言い捨てて光泰が座を立ったところに、清正が行く所まで行って戻って来たとの知らせが入った。
(常山紀談)

有名な話だけど、全部はまとめにもあがってないようなので。
残念ながら、光泰がその後どんな顔して諸将と付き合ったか、という記録はない。
0574人間七七四年2011/08/28(日) 20:24:29.28ID:huA4REKS
そのあとすぐ病死したからな
0575人間七七四年2011/08/28(日) 20:39:30.76ID:cqcruWx6
そういう逸話があったとすると本当に病死か気になるな
0576人間七七四年2011/08/28(日) 20:44:20.75ID:RIonVYmM
>>573
なかなか気持ちのいいやつじゃないかw
0577人間七七四年2011/08/28(日) 20:51:15.39ID:3T6T1f/I
光泰は当時から毒殺説が囁かれてたよね
0578人間七七四年2011/08/28(日) 21:30:43.23ID:dacXyYTQ
まあ享年57だから死んでもおかしくはない
でも息子がいきなり4万石に減封されてるしなあ
0579人間七七四年2011/08/29(月) 12:34:11.95ID:D61nGDrr
光泰殺害の主犯が、三成で、共犯者は宮部の息子は、明白。
0580人間七七四年2011/08/29(月) 12:38:55.15ID:CvhAk2z0
清正のために本当に砂を食ってみせたらいい話に…ならんか
0581人間七七四年2011/08/29(月) 13:40:40.31ID:ysX4tuUO
このひと自分の槍に倒韓槍とか名前付けちゃう、
ちょっとイタイじいさんだからな。
0582人間七七四年2011/08/29(月) 19:56:56.85ID:J74Cp+SV
ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て、船頭に本土の事を聞いた。

「ほほう、江戸へ荷を運ぶ舟か!して、どこからの荷を運ぶのだね?」
「はい、阿波からの荷を運んでおります。」
「阿波か……今、阿波のご領主は、どなたかな?」
「松平阿波守様でございますね。」

秀家は、小首をかしげた。
「……?聞いた事のない家だ。徳川殿のご親戚か?」
「おや、ご存じない。なァに、蜂須賀様のことですよ。公方様から、松平姓を下賜されておいでです。」

ますます秀家は、首をひねった。
「わしが離島に流されておる世に、蜂須賀の家はなぜ今も存続している……?」(想古録より)


一方その頃、蜂須賀家政は伊達政宗に『阿波の古狸』と呼ばれていた。
0583人間七七四年2011/08/29(月) 20:13:16.48ID:N3FqdAgo
>ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て

また酒をせびりに行ったのかと思ったよw
0584人間七七四年2011/08/29(月) 20:29:52.40ID:G7S70noy
>>582
蜂須賀家と宇喜多家って何か確執あったっけ?
0585人間七七四年2011/08/29(月) 20:30:31.28ID:q5Apfb6S
漂着した船に最初に近づくのは宇喜多秀家と決まっていたと想像させるなw
0586人間七七四年2011/08/29(月) 20:35:26.87ID:UeTBVAd1
>>580
 砂を食ったために死んだと正直に記録しない程度の情けは豊臣家中にも存在した。
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