永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆が二条御所の足利義輝を強襲した。所領の勝竜寺城にいた
将軍奉公衆の細川藤孝は、異変を聞くが早いか京洛に駆けつけたが、御所は既に焼け落ちていた。

そこで藤孝は一色義直らと相談の上、奈良へ向かい義輝の弟である興福寺一乗院門跡の覚慶をかつぎ出し、
伊賀・近江・越前と転々としつつ、諸大名を頼った。


京の別邸に、長男の熊千代を置き去りにして。


同族の細川輝経へ養子に出る話が持ち上がっていた熊千代は、家臣団からも置き去りにされた。
唯一、乳母のみが、夫が藤孝のもとへ去った後も残ってくれており、いよいよ危なくなると、身の証に
藤孝が熊千代に授けたお守りと脇差のみを持ち、熊千代と末娘を連れて逃げ出した。

乳母には三人の娘がいたが、長女と次女は置き捨てた。

田町という所の裏長屋に落ち着いた熊千代は、宗八と名を変えて潜伏生活を送った。
ようやく3年後の永禄11年、織田信長という後援者を得て覚慶改め足利義昭を奉じて上洛した父は
流浪中に母を呼び寄せており、頓五郎なる見知らぬ弟を連れていた。(細川家記より)


父母に見捨てられ、昨日まで一緒に遊んだ娘たちの犠牲のもとに逃げ延び、三好・松永の追っ手に
おびえて暮らした少年が何を思って過ごしたか、熊千代改め細川忠興は語っていない。

勝竜寺城主に復帰した藤孝は、乳母に一代限り百石、乳母の夫の中村新助にも百五十石を給したが、
所領が数十倍になった熊本藩の侍分限帳において、中村家は二百石。五十石の加増があったのみである。

ちなみに、同じ熊本藩侍分限帳に記載された侍のうち、藤孝の若い頃から仕えている事を示す
『勝竜寺以来』の家は、わずか10人にすぎない。