戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話26
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戦国ちょっといい話27
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0422人間七七四年
2011/08/15(月) 14:26:14.91ID:8bNDRU9e従いそうなのは摂津・山城の一部の地侍くらいしか思いつかんが
0423人間七七四年
2011/08/15(月) 14:31:08.14ID:2ON0MfmL交換して戦ったとか言う逸話を真に受けたから勘違いしてた
0424人間七七四年
2011/08/15(月) 14:52:25.51ID:sC2nee+uそれに加えて足利将軍は京都市民を動員することも出来た。
実際に足利義昭が信長に対抗して二条城に立てこもった際には、京都市民は将軍の命により
信長派の人間を襲撃している。信長はそれに対抗するため京都郊外の村々に、年貢免除の条件で
洛中への一揆を要請してる。
何のかんので足利将軍には、最後まで大大名クラスの動員力があったと考えていい。
だからこそ京兆家や三好や織田にとって厄介だった。
0426人間七七四年
2011/08/15(月) 19:59:45.89ID:1+nKOAXyんー、確かこの山科本願寺の話は山科言継さんがかなり奮闘していたような
>>421
長慶が死んだ事は伏せられてたけど直ぐに義輝は二条城の改修を始めているから
ぶっちゃけ不意打ちって程じゃない、義輝自信も解っててやってる。
>>424
京都市民を動員ってそりゃ無茶
当時の足利義輝に三好長慶を凌ぐだけカリスマと人格が備わっていたら別だけど
それだけ権威は残ってたら何度も朽木に逃げないし一・二回目の長慶暗殺未遂は成功してるだろう。
正親町天皇が長慶の改元を優先した時点で京にいようが朽木にいようが長慶>足利だから
だから長慶が死んでから三好義継+久秀・長逸は義輝の殺害に踏み切った(他にも理由があるし)。
守護・守護代・豪族を自由に動かす事が出来た足利
本当の意味での動員力を持ってた将軍は足利義植(義材)で終わり。
厄介だったのは勿論足利の権威が残ってたからだけど何より脅威だったのは
義輝が死兵だったから、長慶唯一の判断ミス、と言いたい所だけど本当にどうしようもなかったなぁ。
0427人間七七四年
2011/08/16(火) 03:24:07.03ID:z4JSUo4C北国勢は街道で三好勢を待ち受け、一人ひとつ車菱(まきびしの一種)を持たせた先行隊が
会敵後、逃げたふりをして後退して車菱を道に撒き、そうとは知らず追撃し車菱を踏んで慌てている
三好勢を一気に討ち取ってやろうという策を立てた。
かくして、先行隊は街道を行く三好勢を発見したのだが、これが思いのほか小勢だった。
(`・ω・´)「これなら俺達だけでやれるんじゃね?」
といった雰囲気になって先行隊の者は「こんなもん、もういらねぇ!」と車菱をその場に捨てて
三好勢に襲い掛かった。・・・の、だが
(´#)ω;`)「つ、強い・・・」
小勢の三好勢だったが、これがまた手強く北国勢は逃げ帰るしかなくなった。
しかし、先行隊に降りかかる悲劇はまだ終わっていなかった。
「 い っ て え ぇ ぇ ぇ ぇ っ ! 」
間抜けにも自分達が捨てた車菱を踏み抜いてしまい、大混乱に陥ってしまったとさ。
0428人間七七四年
2011/08/16(火) 08:44:31.32ID:Zz162r4Y0429人間七七四年
2011/08/16(火) 10:29:13.38ID:mKE8zd3Y0431人間七七四年
2011/08/16(火) 10:44:20.14ID:xKTzAyQU0432人間七七四年
2011/08/16(火) 13:15:44.08ID:eTAZCxQ/0433人間七七四年
2011/08/16(火) 14:21:24.52ID:bdDBXFmeついでに自分たちの持っている弓の射程外まで逃げてしまい、後続の味方の後退援護が出来なくなれば、完璧だな
0434人間七七四年
2011/08/16(火) 14:40:04.16ID:xV4RYj0U0435人間七七四年
2011/08/16(火) 15:41:03.27ID:kks16pNX0436人間七七四年
2011/08/16(火) 18:08:58.53ID:YUZMDWoI0437人間七七四年
2011/08/16(火) 18:51:27.85ID:ZC0qQaWj0438人間七七四年
2011/08/16(火) 20:58:44.34ID:SpdxUREkぐぐる画像検索したら三菱自動車が大量に出てきた
0439人間七七四年
2011/08/16(火) 21:10:12.94ID:z7F0s6iG3,4cmくらいだった
0440人間七七四年
2011/08/16(火) 21:21:58.10ID:SX122kkf0441人間七七四年
2011/08/16(火) 21:58:56.28ID:+6bZ7TYV踏んだら足の甲まで貫通しそうだな……
0442人間七七四年
2011/08/16(火) 22:27:55.31ID:kks16pNXそんなんじゃ敗走しても仕方が無いね
0443人間七七四年
2011/08/16(火) 22:45:28.97ID:KqC3Anry0444人間七七四年
2011/08/16(火) 22:56:49.62ID:QQ7lQYg70445人間七七四年
2011/08/17(水) 08:06:01.31ID:2is70TG2酒井忠勝と言えば、江戸時代初期に幕府の大老を務めた若狭小浜藩主が有名だが、
同時代にもう一人「酒井忠勝」がいた。
酒井家次の長男、つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり、酒井家の直系であるその人物は、
秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗った。
とりあえず、有名な方の「忠勝」はこの話には出てこないので、ここでは忠勝で通す
元和八(1622)年、最上義俊が改易されると、酒井忠勝は庄内への転封を命ぜられた。
幕府は山形城に鳥居忠政を配置し、その周縁を忠政の縁戚で固める方針をとった。忠勝は忠政の娘婿であった。
幕閣に説得されて庄内に移った忠勝は、鶴ヶ岡城(現鶴岡市)を本拠地として、最上氏の事業も引き継いで様々な政策を実施した。
しかし、大きな失策も犯してしまう。
寛永三(1626)年、領内で凶作が起き、さらに寛永七(1630)年にも不作が起きたのだが、年貢を減免しなかったのである。
庄内藩では定免法を実施していたため、租率が変わらなかったのだ。
寛永九(1632)年、生活に苦しんだ遊佐郷・荒瀬郷の農民が秋田領の由利・仙北に逃散。
藩はこれをそれぞれの大肝入の責任として、高橋太郎左衛門と池田刑部左衛門を牢に入れた。
幕府の巡検使が来る前年だったこともあり、藩としては大肝入の二人を殺して「問題なんてなかった」にするつもりだったという。
結局、釈放された二人だったが、殺されそうになったことを知った太郎左衛門は大いに憤った。
寛永十一(1634)年十一月、太郎左衛門は弟とともに江戸に行き、幕府に直訴。
十三条からなるその訴状は、知恵伊豆こと松平伊豆守によって受理された。
その結果、何と太郎左衛門と刑部左衛門は肝入に復職。
さらに太郎左衛門は後に二百石の家中に召しだされるという、異例の待遇であった。
庄内藩もおとがめなしということで、知恵伊豆の配慮により、ひとまず事件は穏便(?)に済んだのであった。
0446人間七七四年
2011/08/17(水) 08:08:42.92ID:2is70TG2忠勝の弟、長門守忠重が御家乗っ取りを画策したのである。
この忠重、白岩領(現寒河江市など)の領主だったのだが、これまた苛政を布いていた。
で、案の定百姓一揆が起きて、領地没収。没収後は、庄内藩の客分として暮らしていた。
客分とは言え藩主の弟である。忠重は権力を握り、遂には家老をもしのぐほどとなった。
そして忠重は「忠勝の子を廃し、自分の子を忠勝の長女に娶らせて二代目藩主の地位に就ける」という野望を抱くのである。
忠勝・忠重の弟である了次(玄蕃)は、忠重の讒言により後に幽閉され死亡。
忠重と対立した家老の高力喜兵衛一方は、讒言を受けた忠勝の命により追放。一族縁者も多くが追放・切腹などの処分。
この忠勝に讒言した人物は喜兵衛の同志であったが、忠重に脅迫されたらしい。
同じく家老の水野内蔵助重次は追手を差し向けられたが、寺院に潜伏して命は助かった。
かくして、ライバルたちを消した忠重は野望成就へとあと一歩まで近づいた。
しかし、喜兵衛一族を追い落とした翌年の正保四(1647)年。忠勝が病死したのである。
遺言により、忠勝の子である忠当が継いだため、ここに忠重の野望は頓挫。
忠重は忠当から義絶され、後に息女縁組の不始末により改易。改易の翌年、隠棲先で何者かに殺害されるのであった。
農民に訴えられたり(忠勝にも原因あるけど)、弟に家督狙われたりと、
そんな波乱の人生を送った、もう一人の「酒井忠勝」の話。
ちなみに、参考にした本によると、忠勝は短期だったらしく、手打ちにした人数三百人余り。
その内、自ら手にかけたのは 一 二 〇 人 から 一 四 〇 人 と伝えられてるそうな。
0447人間七七四年
2011/08/17(水) 09:00:16.68ID:p1JMQgO90448人間七七四年
2011/08/17(水) 09:14:28.17ID:XmSH+2r3>その内、自ら手にかけたのは
>一 二 〇 人 から 一 四 〇 人>と伝えられてるそうな。
今すぐ長可に改名しろwww
0449人間七七四年
2011/08/17(水) 14:50:20.99ID:8opW1zNp0450人間七七四年
2011/08/17(水) 17:44:47.81ID:H9u3GUfF京都二条城に籠城する。
これに対し信長はすぐに塙直政、柴田勝家、明智光秀などを派遣。
そして3月末、自身で兵を率い京の知恩院に陣した。
さてこの時。
信長は吉田神道流宗家・吉田兼見を呼び寄せて、聞いた
「そなたの父、兼右がかつて、『南都(興福寺)・北嶺(比叡山)が滅亡するなら王城にも祟りがある』
と述べていたというのは本当であろうか?」
「はい。その通りです。」
この答えに信長、我が意を得たとの表情で言った
「そうか、結構なことである!今度の焼き討ちはこれで決まったわ!」
そして4月4日、信長の悪名高い上京焼き討ちが起こる。
信長は上京の焼き討ちをかつての比叡山焼き討ちと関連付け、それは予言されていたことであり
神意であったと強弁したわけである。
信長の上京焼き討ち直前にあった、ひとつの逸話である。
(兼見卿記)
0451人間七七四年
2011/08/18(木) 10:25:18.38ID:CJQJx9dz0452人間七七四年
2011/08/18(木) 11:40:59.31ID:JZ+QGsBL朝倉家の当主義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、妻を通じて
親戚にもあたる(義輝の室と義景の継室が姉妹)義昭を粗略には扱わず、国を
あげて歓待した。翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。そして元服の一月後、代々の
足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、義昭の自邸への御成りを
実現した。この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、義昭に従う
御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、義景の館
に入った。
三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。
「おおっ!」
さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。義昭は立ち上がって
馬をよく見ようとする。座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の
声をあげる。彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。
この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、縁の下に置いてある
石の上に立っていたという。
見事な駿馬 立ち上がって眺める将軍(候補) 讃嘆の声をあげる庭の御伴衆
そして 将軍(候補)と御伴衆の中間で満足げに佇む管領(代理) 時は五月
なんとも絵になる構図ではないか!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
義景「いやあ、うちの庭じめじめしててさあ、足汚れるの嫌だったの
だからどーしよーかなーと思ったけど庭に下りるのやめちゃったあ」
「朝倉義景亭御成記」にはここまで書いてござりまする…
なんか執筆者の悪意感じられるのですけれども…
0453人間七七四年
2011/08/18(木) 17:22:34.41ID:U8ysjJKW真田六万石の城下町であるこの地を加賀の前田家の大名行列が江戸への上るために通った時のこと。
大名行列を見た真田の奥方小松姫は家来に命じて将軍家への献上品を奪い取らせた。
当然将軍家からお叱りがあったが小松姫は「親の物は子の物だから」と格別気にも止めていなかった。
そこでこういった乱暴を止めるために真田家は四万石を加えた十万石として
北国街道から外れた埴科郡松代へと移らせることになった。
―――
信憑性は低いというかありえないレベルだけどこういう事をやりかねないというイメージを持たれていたんでしょうか。
0454人間七七四年
2011/08/18(木) 17:32:19.04ID:bGEQedZYこのスレの人たちは持ってると思います
0455人間七七四年
2011/08/18(木) 18:17:16.14ID:OWmd0UbH0456人間七七四年
2011/08/18(木) 18:32:09.03ID:4GYXA+99こっちと同じ話じゃ、と思ったが、こっちはお咎めなしか
0458人間七七四年
2011/08/18(木) 18:44:05.83ID:B764rqvzそこまでの横暴が許されたんですか?それとも養子でも実の子供と同等の扱いになるんですか?
0459人間七七四年
2011/08/18(木) 19:13:12.61ID:ycknKA/j平八郎の子供の城下を通るときには注意が必要だな。
0460人間七七四年
2011/08/18(木) 20:27:33.91ID:bGEQedZY真田家が得したいい話では?
0461人間七七四年
2011/08/18(木) 20:28:38.81ID:bGEQedZY0462人間七七四年
2011/08/18(木) 20:44:08.12ID:BAxFDuf80464人間七七四年
2011/08/18(木) 22:50:00.26ID:HHKbd2C+天正十九年、千利休切腹。その時の様子を詳しすぎるほど詳しく述べた史料が幾つかある。
『綿考輯録』によれば・・・
最期の時を迎えた利休、床をふと見るとちょうど真ん中に脇差の乗った三方が置いてある。
「うーん、今日はこの置き合わせの方がいいでしょう(今日の置合ハ是かよからん)」と
三方をズラして置き直し、自分も床の上へあがって、脇差を腹に突き立てた。
さて、ここからが壮絶である。
利休は腹に脇差を突き立てたまま言い残したことを述べると(刺す前に言えなかったのだろうか)、
腹をかっさばき、皺の寄った腹の裂け目に指をズブリと突っ込んで
そのまま引き裂いて破ってしまった。そこで介錯が入ったという。
『三斎公伝書』によれば・・・
最期の時を迎えた利休、湯が沸いたのを機に四尺の床に腰掛ける。
しかし壁に近すぎて、肘がつっかえてしまった。
「この置き合わせはよくないですな(此置合にてハ無之)。」
自分を茶道具に例えたか、利休はそう言って床の真ん中に移り、介錯の人に
「やって、って言うまで待っててね、言えなかったら手を挙げるから」と言った。
さて、やっぱりここからが壮絶である。
脇差を腹に突き立てた・・・が、うまいこと刺さらない。
利休は一度脇差を引き抜き、もう一度同じところへ突き立てた。今度はちゃんと入った。
そこから腹に刺した脇差を引き回してハラワタを引っこ抜き
さらにそれを引きずり出して、天井から下がっている自在鈎にぶら下げた。
そこで介錯が入ったという。前代未聞のスゴい切腹であった。
ちなみに二つの史料があるように書きましたが、『綿考輯録』は細川家の公式記録であり
『三斎公伝書』は三斎が茶の湯の席で言ったことなどをまとめたものなので、
情報の大モトは同一人物だと思われます。
なんかあの人が「宗匠の切腹マジパねぇ!」と吹聴しまくっているさまが
思い浮かんでしまうのは私だけでしょうか。
0465人間七七四年
2011/08/18(木) 22:52:34.29ID:4GYXA+990466人間七七四年
2011/08/18(木) 22:54:11.26ID:4sfoy1I70467人間七七四年
2011/08/18(木) 22:58:37.50ID:xtTTXtt7だから介錯するんだろうけど
0468人間七七四年
2011/08/19(金) 00:32:08.71ID:QBUvILZD0469人間七七四年
2011/08/19(金) 00:52:35.59ID:WeEy62cB松代に移った後、家臣が集団で上田に帰って帰農する事件があったりするから
万々歳でもなかったようだ。
実質峠一つ越えれば上田領に帰れるというのもあるのだろうけど。
0471人間七七四年
2011/08/19(金) 09:35:27.88ID:nNdhUbN7確かに誰も傷つかないな
04721/2
2011/08/19(金) 16:43:36.67ID:1wq76Zlxすぐに普請を開始した。
この高取山、山の半分は既に豊前というまさに境界線の山で、黒田家では、『越中守(細川忠興)はこの築城に
必ず妨害してくるであろう。そうなったら、合戦だ!』と家中のものを残らず動員。侍分のものには完全武装させ、
合戦との違いは指物を差していないだけ、という状況だった。
さて、山の腰に小屋を懸け、黒田長政自身が縄張りをした。だが城主に予定の母里但馬と尽く意見が合わない。
長政が「石垣の高さは2間にしよう」と言えば但馬「いいえ、3間にすべきです」、長政が「では3間にしよう」といえば
但馬「いや、やはり4間にしましょう!」、長政が「切岸は5間にしよう」と言えば但馬「いいえ、10間必要です!」
尽く長政の言う事の倍の、大規模な普請を要求するのだ。
このため縄張りは全くまとまらず、栗山、井上といった重臣たちが但馬に意見したがそれも聞き入れない。
話の進まないことに長政も手持ちぶたさであったが、いつもの事なので腹をたてることもなく(例の事なれば腹も立てず)
色々と説得したものの、但馬は石垣が高くなくてはならない理由を断固として主張した。
これに長政
「但馬、おまえはよく解っていないようだ。この城は長く籠城するためのものではないぞ?当面の手当のための
要害なのだ。いかにも安々とした防備であったほうが良いのだ。」
母里但馬、これに激怒した
「この城をそれがしにお預けになると仰せになってから、私はこの地に自分の墓をつくりました!
一城を預けていただくのは武士たるものの本望であり、忝いことこれに過ぎるはありません!
そのため、偏にここを自分の墓所と存じ定めたのです!
ところが、先ほどおっしゃった事は何ですか!籠城をしない城である.から、もし敵が寄せてくればすぐに城を捨てて
引き退けと!?敵を見たら逃げるための城に、この但馬が居る必要はありません!
黒田の御家もずいぶん大きくなりました。敵を見たら逃げたいと思っている者も、捜せばきっと居るでしょう。
そういった者を、そういう城には置かれるべきでありましょう。私は嫌です!(某はいやにて候)」
そう言い捨てて自分の小屋に引き込んでしまった。
さてさて、これが普通の主君なら、こんな家臣はそのまま押し詰め成敗してしまっただろう。
しかしそこは黒田長政、腹を立てながらも
「あれを見たか!?備後(栗山利安)やわしが言ったことは、理由のあることなのだ。
皆も知っているように、今我々が植木(福岡県直方市大字植木)に大軍を駐屯させても大丈夫なよう
しているのは、いざ合戦となれば細川忠興は大敵であるからだ!
しかし黒崎と、この高取の城をそのままにしては、小倉から筑前に手出しはできない。
そのため細川は必ず、この城を攻めてくる。
いざ開戦となればわしは軍勢を集め植木に集結させ、細川が軍勢を出し高取の城を攻める準備をした所を、
ここから三里足らずの植木より駆けつけ、一撃で蹴散らすつもりなのだ。
一当てして敵がひるむのを見ればこの城の留守居を但馬から、旗本の確かなものに交代させて、
但馬は先手の右備えに据え置くので、この城に置くようなことにはならない。
こういう事を聞き分けず訳もなく腹を立て、全く沙汰の限りだ。嫌ならあいつ次第だ!」
と引き取ろうとすると栗山利安が止めて言った
04732/2
2011/08/19(金) 16:44:40.30ID:1wq76Zlx私が但馬殿を呼び出してきますので、その間にどうかご機嫌よく、御縄張りを完成させておいてください。
そもそもキチガイ同然になっている人間のいう事をまともに取り上げたのが良くなかったのですよ!
(気狂ひ同前の者の申上候儀を。御取上げなされ候事、然るべからざる)」
と長政に釘を差しておいて母里但馬の小屋に行き、長政の意図を説明し
「今に始まったことではないがその我儘、いい歳して不相応にも程があるだろ!まったく沙汰の限りだ!」
としたたかに叱りつけると、但馬
「そういう事ならワシも腹をたてることはなかったんだよ!あんなナゾナゾみたいに言わず、最初から考えていること
全部打ち明けてくれればいいじゃないか!全く根性曲がりが!(いな曲の男なり)」
と別方向に腹を立てつつも栗山と共に長政の御前に戻り、
「先程は敵を見かけたら逃げろとおっしゃったのだと思い、殊の外腹を立てました。しかし只今備前に御内意の趣を
承り、そういうことであれば私も聞き分けることが出来ます。
それがしが石垣を高くし、堀を深くすることを望んだのは、3日を5日、5日を7日なりとも攻め崩されること無く、
敵を百人殺す必要があるのなら、二百も討ち取り、大敵をこの城に受け止めて日数を送らせることこそ、忠節であると
考えたからです。
私は、死にさえすればご奉公に成るなどとは、考えたこともありません。
生きて与えられた使命を実行させるため、大規模な普請を望んだのです。これは全く臆病から言ったことでは
ありません!その事をよく理解していただきたい!」
これに長政、
「引く敵の相手などに、但馬ほどの人間は必要ない。申す所神妙である!」
そう声をかけ、その後君臣機嫌よく、城の縄張りを共に完成させたという。
この時長政は但馬のことを大変頼もしく思い、その目には涙がにじんでいたそうだ。
筑前高取城築城の際の逸話である
(古郷物語)
和解したのでいい話ではあるのですが、何より黒田家の連中の口の悪さがスゴイのでこっちにw
0474人間七七四年
2011/08/19(金) 16:59:22.49ID:gZwOFPTR0475人間七七四年
2011/08/19(金) 17:37:22.41ID:BtRlLjQX0476人間七七四年
2011/08/19(金) 18:53:08.67ID:7lDfepe40477人間七七四年
2011/08/19(金) 18:53:26.31ID:JcaNIPb70478人間七七四年
2011/08/19(金) 18:58:54.38ID:WaBORbi20479人間七七四年
2011/08/19(金) 23:14:50.30ID:PjQY/xX+【社会】 女子高生を小屋に連れ込みレイプ、作左部純容疑者(24)逮捕…秋田
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1313735450/
0481人間七七四年
2011/08/20(土) 00:01:42.85ID:62zkjdDv0482人間七七四年
2011/08/20(土) 00:04:37.45ID:922skP4V0483人間七七四年
2011/08/20(土) 05:20:33.83ID:c/o+oEED0484人間七七四年
2011/08/20(土) 07:51:57.35ID:aV3tdLDy0485人間七七四年
2011/08/20(土) 12:42:59.85ID:SFZEGbOX榊原康勝の臣、沼上八兵衛は確認のために越前勢の陣へと向かっていた。
途中八兵衛は口取りがただ一人で葦毛の馬を引いていくのに行き会った。
見ると馬の鞍は六文銭の金具で摺った黒鞍である。
呼びかけて馬の主は誰か、どこへ行くのかと尋ねると
口取りは「これは真田左衛門殿の馬であるが、ただ今討死なされた故城中へ牽いて帰るのである。」と答えた。
するとよい馬である、乗ってみようと八兵衛は馬を引き寄せ
乗ってみてから「かんのよい乗り具合静かな大将馬である」と誉めた。
その後口取りが「左衛門殿がこの馬はいかにしても信州へ形見として牽き行け、と申し付けられたから返してくれ」と嘆願してきたので
八兵衛は馬から降りて返した。
が、それから一丁ほど行き過ぎた時、口取りを斬ってその首を取った者があった。
それは榊原家の士であった。その者はその首で五十石の加増を得たということである。
信繁の形見の馬は信州へと届くことはなかったと思われる。
0486人間七七四年
2011/08/20(土) 13:18:43.37ID:ESku/hhC>それは榊原家の士であった。その者はその首で五十石の加増を得たということである
八兵衛ェ…
0487人間七七四年
2011/08/20(土) 13:29:28.93ID:s+nwuQ5f藤堂玄蕃が大谷吉継の首を見逃してやったように、
武士の情けってものがあるのに強奪した奴にあっさり加増、
しかも信州へ形見ってことは味方の真田家との関係も悪くなる
0488人間七七四年
2011/08/20(土) 13:32:26.12ID:qE58xJjl0489人間七七四年
2011/08/20(土) 13:38:59.09ID:Kp4PWgxR榊原家に部隊としての手柄が無かったのかも知れん
0490人間七七四年
2011/08/20(土) 13:57:14.23ID:UEijmiU10491人間七七四年
2011/08/20(土) 15:27:22.74ID:ESku/hhCってしかめっ面になるだろうな
茶道具の一種に台子(だいす)というものがある。
ある茶会で、千利休がこれを使って秀吉に茶を立てた。
秀吉「あれ?前にやった時と作法が違うぞ」
利休「ええ、あれは師の紹鴎の作法なんですが、我流で少し変えたんですよ。
かなり省略してみたのですが、いかがでしょう」
秀吉「そうか。ふーむ、なかなかいいな」
利休「ありがとうございます」
秀吉「んじゃ、これ許可制にするわw
誰かに教える場合は俺に許可とってからにしろよ」
利休「」
この作法は豊臣秀次・蒲生氏郷・細川忠興・高山右近など、ごく一部の者にしか伝えられることはなかった。
晩年の利休は、台子の作法を誰かに聞かれると「台子のことは失念いたした」と言っていたという。
『利休は台子を遠ざけていたように見受けられ、利休が台子を使ったという記録はわずかに3回しか残っていない。』(ウィキペより)
0493人間七七四年
2011/08/20(土) 19:12:43.72ID:8R+IDEYN宗教とかも始祖からかけ離れているように、たぶん茶道も当時と現在では違うんだろうね
ところでこれって作法を独占して伝授する権限をもって自身を権威付けしようってことだよね
信長も茶道を利用してたけど、そういうのって信長が発案したのかな、それともそれ以前からあることなのかね
0494人間七七四年
2011/08/20(土) 20:28:41.26ID:3uflP1B0こういうのは秀吉の時代からでしょう。
0496人間七七四年
2011/08/21(日) 01:46:19.00ID:blvDlLUM一度見逃したのに後で野心が鎌首擡げて口取りの首取ったなら本当に悪い話しw
0497sage
2011/08/21(日) 10:30:49.97ID:O54MV1ow0498sage
2011/08/21(日) 10:54:02.85ID:O54MV1ow1559年人吉城詰衆の若侍、児玉・早田・深水の三人が、それぞれ人吉奉行である丸目頼美の屋敷に仕える侍女たちに惚れた。
互いに相思相愛となり密かに逢瀬を重ねていたが、見つかったら処罰を受ける。
女は欲しい、だが処分は嫌だ、何とか惚れた女を連れ出したいと考えた児玉たち。
丸目屋敷を取り仕切るのは丸目の母親で相良家中から「徳深き人物とあり、侍女を多く抱えていた」とある。
徳が多いから侍女が多かったのか、侍女が多いから徳深いのか、そのへんは解らないが、とにかく丸目の母がキッチリしてるので侍女を連れ出すなど到底無理。
困った三人は宗慶寺の僧組・智勝に相談した。
智勝「侍女らが仕える丸目と同役でライバルの東長兄を争わせ、その隙に侍女を連れ出せば良い」
三人は後先を考えず、その話に乗り手分けして実行に移した。
児玉が東長兄の元へ、早田と深水が丸目の元へ訪れ「○○が貴方様を陥れようとしています」とウソを吹き込んだ。
東と丸目の二人は同じ人吉奉行とはいえ元々不仲だったので、最初は半信半疑だったが相手の言動がイチイチ気になり、本当にケンカになったしまう。
そして二人の不仲が主君である相良頼房(後の義陽)と、その生母・内城の耳に届くころには、どちらも抜き差しならぬほど拗れてしまっていた。
0499sage
2011/08/21(日) 11:04:39.55ID:O54MV1ow主君の頼房は若干16歳、重臣同士のケンカを収める政治力は未だ無いため、
生母である内城が、丸目の縁戚である東直政(湯前城主)に仲裁を依頼した。
東直政は、どういうわけか「仲裁がダメなら丸目を討つということだな」と思い込んでいたらしく、
内城に「二人が元の鞘に収まれば、それで良いのです」と言われると、張り切っていた分、ガッカリ。
丸目の元へ出向くと「拙者は丸目殿へ味方致します!」と勝手な振る舞いをした。
仲裁役(のはず)東直政の言動は、丸目のケンカ相手である東長兄の耳に入った。
「このままではワシが不利」と危機感を覚えた東長兄は、相良頼房と内城に拝謁すると
東長兄「仲裁役が丸目の縁戚では、拙者を不忠者とするでしょう。このままでは某に残された道は謀反しかありませぬ!」
と、泣き脅しをかけた。
0500sage
2011/08/21(日) 11:11:40.73ID:O54MV1ow謀反をチラつかれては、目の前の東長兄の言葉に従うほかない。
相良頼房と生母・内城は言われるままに仮病を使う羽目になる。
東長兄が頼房と内城に仮病を使わせたのは、二人に他者が目通りするのを防ぐ為で、
内城は「気分が優れない」、頼房は「腹の調子が悪い」として、屋敷の奥に引っ込み続け、
そして夜中に東長兄の手配で人吉城を出た。
主君と生母が赤池城へつくと、赤池城から人吉城へ向け篝火を焚いて「二人の無事確保」の合図を送った。
篝火を確認すると東長兄家臣60余人が、丸目屋敷に火をかけて攻撃開始!
人吉城下・丸目屋敷で火の手が上がったのにビビったのが、侍女を連れ出そうとした三人の若侍だ。
「ちょっとした騒ぎが起きてくれれば・・・」のつもりが「リアル市街戦勃発」。
三人は自分たちのウソがバレルのを恐れて職場放棄(人吉城・詰衆)し遁走する。
0501sage
2011/08/21(日) 11:29:00.69ID:O54MV1ow突然の攻撃に、何の準備もない丸目屋敷では抵抗できず、丸目頼美は一族・郎党を連れて、
縁戚で仲裁役で「味方します」宣言してた東直政の湯前城に逃げ込んだ。
(ちなみに騒動の元になった侍女たちも同行)
東直政は驚いた、迷ったが自身の後見役にも諭され「主君に弓引く籠城戦」を決意する。
なりゆきで籠城になったで兵糧が足りない。
そこで兵糧を運ぶために人夫と護衛兵を出した。
その情報を入手した相良頼房は、帰り新参の犬童頼安に攻撃を命じる。
犬童は謀反に加担して敗れて逃亡、日向など転々としていたが1556年に帰参を許された。
彼にとって罪を許した主君への恩義に報いる絶好の機会。
犬童は「奥野一度橋」で兵糧を運ぶ湯前城兵を迎え撃った。
話が籠城前に戻るが、目が屋敷を逃亡した時に、丸目のもう一人の同役・深水頼金の末っ子左近が従っていた。
深水左近は湯前城に行く前に、友人の佐牟田の屋敷に出向き、最期の暇と手拭いを形見の意味で交換した。
で、湯前城でこれを同僚らにシミジミ〜と話すと、
同僚「敵として相まみえる可能性の者と形見の取り替えは聞いたことがない。むしろ差し違えるべきだったろう」と笑われ、
確かにそうだったと深水は納得し、心中深く決意した。
湯前城から出兵した兵糧の護衛兵の中には、同僚に笑われた深水左近がいた。
奥野一度橋で戦闘が始まると、深水は友人佐牟田の前で手拭い放って「自分がいる」ことを知らせた。
二人は互いに槍を合わせ、双方ともに討死したそうだ。
犬童は「奥野一度橋」でこれを迎え撃った。
で、兵糧が足りない。
0502sage
2011/08/21(日) 11:45:25.59ID:O54MV1owその5「獺野原の戦い」の前哨戦である「奥野一度橋の戦い」は籠城側の勝利となった。
犬童頼安は敗れ手傷を負ってしまう。
犬童が怪我したのは、殿の中にいた宮原(謀反⇒逃亡⇒流浪⇒帰参を共に行動していた仲間)が負傷し動けなくなったのを助けようとしたためだ。
兵糧は入手できたが、このままでは心許ない。
湯前城主・東直政は日向から那須氏を援軍に呼ぶ。
さらに東直政の元へ「人吉城から多良木城へ兵が入り、湯前城を総攻撃する」という情報(実は誤報)が入った。
東直政は攻撃される前に先手を打とうと、恒松蔵人を多良木城攻撃に向かわせた。
多良木城主は岩崎と言うのだが、実は甥が籠城する湯前城に入っていた。
岩崎の甥は「このまま不意打ちを受けたら叔父が討死するかもしれない」と心配し、
自身の侍女を城外へ出して「出兵情報」を多良木城へ漏洩してしまう。
内乱だから敵も味方も親戚・知人が入り乱れているので、何ともはや流れが悪い話。
多良木城側は、さっそく伏兵を配置したが、恒松蔵人は難なく撃破。
この勢いで多良木城を攻撃するが、落城までには至らず、已む無く獺野原に陣を布いた。
0503sage
2011/08/21(日) 11:58:14.08ID:O54MV1ow決戦前、犬童頼安は多良木城兵を率いた深水に「人吉衆が大軍に当たるので、多良木衆は横から攻めて欲しい」と言った。
すると深水は「これまで籠城して我慢してきた。自分らに先陣を任せてくれなければ、これから恥ずかしくて戦など出来ない」と反論する。
犬童は深水を説得しようとすると深水が逆切れした。
「なら勝手に攻め込んで討ち死にする!」犬童と険悪な状況になった。
だが犬童は帰り新参の上、奥野一度橋で敗退しているので、それ以上強く出ることが出来ず、深水に先陣を譲ることとした。
ヤル気満々の深水は戻った自陣で「討ち死にする覚悟のある人間」を呼び出した。
その者らに酒を一杯ずつ振る舞って出陣、途中にある川を「三途の川」に準える張り切りぶり。
深水率いる多良木衆は、その「三途の?川」を渡って獺野原の敵陣に向かう坂を登る途中で交戦!
緒戦で壊滅した。
気分を盛り上げすぎて注意力散漫になったのか、初めから死ぬ気だったのか、将の深水も討死したでござる。
「なにやってんだアイツらは・・」と犬童が思ったかは知らないが、彼は彼で行動していた。
0504sage
2011/08/21(日) 12:09:54.38ID:O54MV1ow犬童頼安、自軍を率いて密かに敵の背後にある坂を登らせ、背後から敵を攻撃。
タイミングはバッチリだったのだが、交戦し始めたら互いに見知った顔ばかり。
ついこの間まで、杯を交わしていた友人・親戚らの腹へ槍を突きだす気になれない。
本気が出ないので決着がつかず、だらだらと交戦状態が続いたが、
そうこうしているうちに、連戦の恒松兵に疲れが出て腰が引いて来た。
そこへ人吉勢が押し出し、一気に乱戦となる。
東直政の軍が壊滅し、東直政と恒松蔵人を含めた180余人が討死する。
丸目頼美は戦場を脱出し日向へ落ち延びると、伊東家へ仕えたが「木崎原の戦い」で戦死したそうだ。
留守を預かる湯前城代は、敗戦の知らせに城に火をかけ自害。
丸目の母、件の侍女も自害した。
0505sage
2011/08/21(日) 12:22:24.19ID:O54MV1ow翌年の1560年、そもそもの発端である、児玉・早田・深水の三人と、
彼らに入れ知恵した宗慶寺の僧侶・智勝が捕えられた。
若侍たちは、惚れた女が自分達の浅はかな行動の巻き添えで自害したので、完全に自暴自棄だったそうだ。
4人は人吉城下を引き回しの上、斬首。首は罪人として晒された。
これで一件落着・・・・のはずが困った事が起きた。
宗慶寺へ向かう道に、斬首された智勝が、生首だけの姿で夜な夜な化けて出るようになったそうだ。
智勝は僧侶だが、よほどの強い未練が残っていたのか、調伏することができず、
宗慶寺では止む無く寺を移転する羽目になったそうだ。
ソースは八代日記ですが、ネットから拾ったので細かいとこは相違があるかもしれません。
長文にお付き合い感謝です。
0506人間七七四年
2011/08/21(日) 12:39:36.98ID:gM7ZYZWJ0507人間七七四年
2011/08/21(日) 13:30:27.48ID:PDvgSchI0508人間七七四年
2011/08/21(日) 13:49:20.49ID:UZKhShryしかしまあ、あんな四方敵みたいな立地でこんなアホこの上ない理由で
同士討ちまでしでかしたってのに大名として生き残ったのは大したもんだな
0509人間七七四年
2011/08/21(日) 14:07:45.36ID:y78mz2mDいくつかのエピソードに分割して続き物にした方が読みやすいかもしれない
しかし助言の件といい化けて出る事といい、どんだけよこの腐れ坊主w
0510人間七七四年
2011/08/21(日) 17:51:42.11ID:yBhJ4BtY肝心なのは嘘がこじれて合戦になったくだりだけ
あいだあいだの小エピソードは省いてよし
0511sage
2011/08/21(日) 18:22:15.29ID:vxpql5QG発端のウソが拗れたのが1559年の5月の話で、
合戦になったのが8月のことなんで、
どこで区切るか迷って、つい欲張って小ネタも全部入れてしまいました。
構成力が及ばなかったorz
0512人間七七四年
2011/08/21(日) 18:28:09.25ID:d77drEeQ3行で説明しろよ
0513人間七七四年
2011/08/21(日) 19:11:55.41ID:/tJ71kRE横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。
家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。
成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。
成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。
こうして源姓由良氏は「作られた」。
0514人間七七四年
2011/08/21(日) 19:22:04.77ID:A8v9Gtzt0515人間七七四年
2011/08/21(日) 19:27:45.51ID:yBhJ4BtY「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ
0516人間七七四年
2011/08/21(日) 19:32:33.37ID:3mC0MeTQ0517人間七七四年
2011/08/21(日) 19:36:52.51ID:1HVdExTT男女関係で
戦いがおきる
良い例ですね
質問なんですが
侍女って
侍身分出身ばかりなんですかね?
本読んでると当たり前の如く侍女が描かれてるため侍女になるための採用試験みたいな古文書は残ってないんでしょうか?
0518人間七七四年
2011/08/21(日) 20:26:20.01ID:ztD4EdN3採用試験とかワロスwww
0519人間七七四年
2011/08/21(日) 20:31:36.53ID:AW0+JGuj0521人間七七四年
2011/08/21(日) 21:06:03.76ID:uNLq3PQq江戸時代だと武士じゃなくても病気などで両親亡くした子なんかも可也侍女になってるみたいね
戦国時代は知らん
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