戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0222人間七七四年
2011/07/29(金) 12:11:22.99ID:ksYWSRUg今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…
0223人間七七四年
2011/07/29(金) 12:31:05.15ID:sXhaq0AA0226人間七七四年
2011/07/29(金) 22:02:25.91ID:iaTFq7c60227人間七七四年
2011/07/29(金) 22:29:05.78ID:MPw+mlX70228人間七七四年
2011/07/29(金) 22:46:06.50ID:JXXNu7+t朝鮮人<もしかしてそれは「示」のことでは?
作者<おお、まぎれもなくこの字に違いない!ちなみになんて読むのですか?
朝鮮人<ああ、それはgi、siって読むんですよ
作者<なるほど、では示康と書いてギシアスと読むのか
同感w
0230人間七七四年
2011/07/30(土) 03:49:32.32ID:HkL5D/QP『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。
彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。
治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。
この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。
彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。
しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。
刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。
様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。
彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。
摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)
日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。
0231人間七七四年
2011/07/30(土) 07:04:56.92ID:Ph5z2QvA0232人間七七四年
2011/07/30(土) 07:27:26.92ID:Q8q2ORIl0233人間七七四年
2011/07/30(土) 07:54:44.45ID:UWCYjXCFおお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。
0234人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:52.80ID:a15vGj++その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。
0235人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:58.04ID:V8fb9BAd0236人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:25.06ID:FvcDezSX0237人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:50.15ID:Ph5z2QvAたぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう
0238人間七七四年
2011/07/30(土) 10:13:46.48ID:buoFAfWc一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)
0239人間七七四年
2011/07/30(土) 10:25:23.53ID:SdbJLH6S0240人間七七四年
2011/07/30(土) 10:27:33.61ID:RMxcrKRc0241人間七七四年
2011/07/30(土) 11:44:11.04ID:mc/ELILf実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw
0242人間七七四年
2011/07/30(土) 15:29:06.54ID:EZqkUVWf甲斐守がCainecanis
Canine Canisなら犬の犬か
ところで安国寺がAncocugisってことは
上で出てきたGiciasuはジシヤスなのか
0243人間七七四年
2011/07/30(土) 18:08:16.03ID:0Y9hlBW/ttp://i.imgur.com/dU8Gq.gif
祇園社、つまり八坂神社の護符を図案化したというが、肝心の八坂神社は特にこの紋を使っていない。
ttp://i.imgur.com/6NM6N.jpg
この紋について疑問に思った松浦静山は、実際に家紋としている池田定常(松平冠山)に由来を聞いてみた。
「某も詳しく知りませんが、当家の言い伝えでは、この紋は天王(牛頭天王、八坂神社の祭神)より
授かったものと聞きます。
…が、それは表向きの話で、本当は『王』ではなく『主』から授かったのでしょうな、ふふ…」
(軽いネタ話のつもりが、とんでもない事を聞いてしまった……)
『天王』ではなく『天主』、すなわちキリシタンのデウスとやらに関係するものだと言うのだ。
すると因州池田家は、摂津池田家とのつながりか、それとも戦国のころ、信長傘下にいたキリシタン大名の
影響か何かでキリシタンと縁があるのか?キリシタンが『邪宗門』と呼ばれる、この時代にも?
(と、すると)
やはり祇園守紋を使っている柳川藩立花家は、旧主・大友家への義理でキリシタンをかばっているのか。
同じく岡藩中川家に至っては、家祖の中川清秀自身がキリシタンだったではないか。
ならば意外にもキリシタンご禁制のこの時代、信者をかくまっている大名は多いのか?こうなると島津家の
丸に十字紋も怪しく思えてくる。いや、あれは昔からの紋だ、関係ない。いや、分からんぞ……
(いかん、頭がおかしくなりそうだ。やめよう。)
「ハハ、ご冗談を。」何とか定常に笑みを向けた静山は、早々に話を打ち切った。(甲子夜話より)
宗茂とか瀬兵衛の子あたりがキリシタンをかくまったいい話…かもしれないが、真相は霧の中だし
松浦静山の胃に悪い話、ということで。
0244人間七七四年
2011/07/31(日) 00:45:58.56ID:tsHHT7NTさすが甲子夜話、江戸中期のネタの宝庫である。
たしか、13人の侍の元ネタの事件も甲子夜話にあったな。
0245人間七七四年
2011/07/31(日) 01:12:23.06ID:OFnW17nu長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。
忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。
といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。
0246人間七七四年
2011/07/31(日) 03:40:59.38ID:S2j9Mxkv宗茂は、育ったのが博多近辺で祇園信仰が盛んだったから祇園守を家紋にしたみたいだけどな。
宗茂が考案した初期のは、扇に祇園守っていう十字とは全く別の形の物だったりするし。
0249人間七七四年
2011/07/31(日) 12:12:43.90ID:caHuuPC+あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ
0250人間七七四年
2011/07/31(日) 13:20:14.49ID:yBQ/CJuL織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん
0252人間七七四年
2011/07/31(日) 16:22:02.46ID:oalwK8VI中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
あれも祇園守紋の一種なのか
そういえば、宣教師が来日した当初、島津の家紋を見て
キリスト教徒に違いない、と喜んでいたらキリスト教に改宗した大友氏と
戦いまくってがっくりしたとか
0253人間七七四年
2011/07/31(日) 16:55:26.63ID:SFAnWIgpやっぱキリシタンと間違えられたりしたんだろうか?
0254人間七七四年
2011/07/31(日) 20:14:06.67ID:vWgKz8ng>「中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
中川久留子を「なかがわくるこ」と読んで一瞬なんのこっちゃと思ってしまった。
0255人間七七四年
2011/07/31(日) 20:51:31.06ID:DdpvUGy5別にキリスト教だけの特権ではない
同様にスワチカもナチスの特権ではない
0256人間七七四年
2011/07/31(日) 23:01:13.14ID:oP920H3bこれって、ただの偶然?
0257人間七七四年
2011/08/02(火) 00:55:59.90ID:3fDiVw/m加藤嘉明・明成親子が会津を治めていたころ、猪苗代城の城代は堀部主繕という者が任されていた。
寛永17年(1640)12月の夜、主繕が一人で座敷にいると、どこからともなく禿(かむろ)がやって来て告げた。
「お前がこの城に来て久しいが、未だご城主に挨拶をしておらぬ。本日、ご城主が目通りを許された。
急ぎ身を清め、衣服を改めて参れ。先導するゆえ、お目見え仕れい。」
主繕は禿をにらみつけ、反論した。
「この城の主人は、加藤候。その代理として、わしが預かっておる。それ以外に主などおらぬわ!!」
主繕の反論を、禿は笑った。
「姫路の刑部姫・猪苗代の亀姫を知らんのか。一つの天運尽き果て、一つの天運改まるを心得ず、
みだりに過ぎ去りし事を話す者よ、汝の命運も尽き果てたぞ。」
そう言い残すと、禿は来た時と同じように、どこへともなく消え失せた。
明けて寛永18年元日の朝、主繕は猪苗代勤番の諸士より年頭の挨拶を受けようと、城の大広間へ向かった。
広間の、己の座すべき上座には、棺桶と葬礼道具が置かれていた。またその日の夕方、人の気配もないのに
大勢で餅をつく音が聞こえてきた。同月18日、主繕は厠で倒れ2日後に死んだ。(老媼茶話より)
2年後の寛永20年、『一つの天運尽き果て』会津藩加藤家は改易された。
泉鏡花の戯曲『天守物語』では亀姫は刑部姫の妹という事になっており、猪苗代城主の生首を手土産に
姉のところへ遊びに行く、という描写が存在する。
02581/2
2011/08/02(火) 05:03:49.02ID:lr5r6NgA上方にて調える役目をしていた。そんな久兵衛が国元に帰った時のこと。家中のものたちの集まる御前において、
長政からこんな事を尋ねられた
「上方にては私のことを、どのように取り沙汰しているか?」
久兵衛これに「いえ、何という取り沙汰も承っておりません」と答えたが、長政「人である以上、善悪など言わないと
いうことは無いものである。その方を上方に置いたのは、そう言った町人たちの評判も聞いていきたいため
だったからだ。それを聞いていないというのは、緩がせ者ではないか!」と叱りつけた。
ところが久兵衛、これにカッとしたのか言い返した!
「殿様は軽薄である!…京童共はそう言っていると聞き及んでおります。ですがこんなたぐいの事は意味のない
ことだと思い、申し上げませんでした!その他にはどう言った評判も聞いておりません!」
が、長政はこれを聞いて激怒した
「口幅ったいようだがこの筑前(長政)に、軽薄の気持ちで世を渡る覚悟は一切無い!それを、なんという悪しき
評判であろうか。なんと腹の立つことだろう!」
その評判が久兵衛のせいであるかのように、より一層叱りつけた。久兵衛は「無益のことを言ってしまった…」
と顔を赤くして汗を流している。…と、
ここに口を挟んだのが家老・井上周防守之房である。
「久兵衛、よくぞ申し上げた!京童の言うように、殿は間違いなく御軽薄である!」
長政は当然これにも腹を立てた
「何だと周防!わしを軽薄ものだと!?全く信じられない!不遜ながら私は軽薄ではない!」と怒鳴ると
大脇差に手をかけ今にも斬りかかりそうな目付きで睨んだが、井上は少しも怯まず、長政の挙動を用心する風でもなく、
普段と変わらない風情で語りかけた
「殿がどれだけ御腹立になっても、御軽薄であることには間違いありません。」「理由を述べよ!」「…は。
先ず、御心を静められ、その上でお聞き下さい。
我が黒田家の、江戸の御出頭衆や御老中が御前において良い働きをしている間は、殿は彼らをまるで神仏のように
崇め敬せられます。そして彼らの働きにどんな報酬を与えても惜しくないかのように、不断に残るところ無く
お心遣いをされます。今の世はそのように良い働きをする家臣がいなければどうにも上手く動かぬのですから、
殿がそうなさるもの御尤もだと、私もそう思います。
…ですが、さて、そういう者でも殿の意に沿わず一旦御前を下げられれば、殿はそのまま打ち捨て遠ざけられ、
その者が死んでも、彼の息子たちに何の心遣いもなく、全くお構いされることはありません。
殿、解っているでしょうが、これは誰々の事ですぞ!」
と名指しして言えば、長政はその理に屈しながらも主人に対して何たる物言いかとさらに腹を立てて叱りつける。
が、井上は事ともせず「いかように腹を立てられても、殿の今ような御作法では、軽薄の悪名は止みませぬぞ!
殿は武儀を始めとして他の事が能くお出来になるからこそ、その身の御傷にはなっていませんが、仮にそれらが
普通程度なら…、まあ、とても一人前にはなりませんな!」
井上周防、言いたい放題である。本人を前に。
この主従の口論に居合わせた老若の家臣たち、すっかり興ざめをし、大事が起こるのではないかと冷や汗を流しながら
押し黙って聞いていると、ここに衣笠因幡と申す老臣、彼も譜代であり、功の入りたる者として三千石を知行し、
中老並みに召し使われ、年寄たちの座にも心やすく列するほどの者であったが、これがしたたかに大声を発して
立ち上がった!
02592/2
2011/08/02(火) 05:06:54.98ID:lr5r6NgA止めようとしないので、衣笠は涙を拭い、2つ3つ大きく息を吐いてから、叫んだ!
「さてもさても目出たき御事かな!!この場に居る老若も皆、同じように思うだろうが、殿様がこれほどご機嫌悪く
立腹なされているのは、近年見たことがなかった。とこどが、それに全く臆する景色もない、周防殿の只今の
申し上げよう、臣たる者、いつもその真似であってもさせたいものである!
その身の不利益であることは解っていても、主君の御為ならば一命を捧げかねない周防殿のこと。
たとえ御手討にもされるならされろ、命は軽いと存じ定めたる御覚悟、誠に神妙である。
申し上げていることは、はっきり言ってけしからぬ内容だが、命を投げ出した覚悟、天晴良き臣下かな!
殿!今の世にこのような臣下を持たれた大名衆はおりませんぞ!偏に御家長久の基であります。
そしてあの周防殿、他家にはあるまじき良き臣下を、殿の意に逆らうからと言って、彼をお側から遠ざけ
御為良き事を申し上げられない様にしてしまえばそれは、あのような家臣が無いことよりも劣ります!
さて、私が愚案を廻らせて見たところ、周防殿の言葉は彼の心から出たものではなく、皆殿様の御心の内から
発せられた物だと思い至りました。これも又、御家長久の第一です。目出度い事ではありませんか!
老いも若きもこの事を頼もしく思って、能くご方向仕れ!」
長政、これにすっかり毒気を抜かれたか、衣笠の言う事を素直に尤もだと思い
「因幡が申すように、主を諫め意見をする人間を持たない家は、悪いことが多いと度々思う。
わしが若い頃、心任せに仕置きを申し付け、まあ、自分では良い仕置を申し付けたと思っていたのに、
栗山備後や井上周防などがそれを押さえて意見をし、わしの思うようにはさせてくれなかった。
当時は殊の外無念に思ったものだが、後に思案してみれば、わしの分別が間違っていたことに気付いたものだ。
若い頃は気も強く、第一無分別で我儘を申し付けたいと思うものだが、老巧の意見が入れば入るほど、
自分の思う事は採用されないものだ。
能き人を持ちたることこそ幸いである!
最近は、たまさかの在国の間、楽をするのが得だと思って、近年は公私のことも年寄どもや(小河)内蔵允に
任せて、ずいぶん楽をしているよ。」
と、そのあとは終日、機嫌よく語ったそうである。
(古郷物語)
いい話といえばそうなのですが、長政があまりに言われたい放題なのとあまりにうまく丸め込まれすぎてる
気もするのと、そもそもこういうのを平然と記録しているという長政へのあまりな気の使わなさに少し涙したので
こっちにw
0260人間七七四年
2011/08/02(火) 06:23:08.28ID:kODSooY00261人間七七四年
2011/08/02(火) 09:20:12.42ID:qPptHUK/奥方が長政の母方の従姉妹だったり、周防の次男に長政長女が嫁いでいたりと、
ほとんど準一門と言えるくらいの重臣だからなあ
0262人間七七四年
2011/08/02(火) 09:24:39.03ID:dXURIbth0263人間七七四年
2011/08/02(火) 09:45:14.17ID:WplGRG5ehttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
0265人間七七四年
2011/08/02(火) 22:33:13.66ID:dhsypo1c映ってたけど、そこに書かれてた毛利輝元の名前が「輝元」って
呼び捨てになってた。w
家康は「家康公」って書いてたのに。
やっぱり呼び捨てには何かあるのかな?
0266人間七七四年
2011/08/02(火) 22:41:17.41ID:KwxfFYhg0267人間七七四年
2011/08/02(火) 22:44:33.27ID:3Es4cdLL0269人間七七四年
2011/08/02(火) 23:22:05.12ID:yDsQ3rRc北条幻庵宗哲と伊勢早雲庵宗瑞の2人からとったような号だし
明らかに狙ってるとしか思えないわw
0273人間七七四年
2011/08/03(水) 10:04:37.20ID:qElR3MOD0274人間七七四年
2011/08/03(水) 18:26:01.77ID:Z4lK3hT+これは仏僧の司る場所で、600年の間平和に所有していたものである。
この学校には多くの修道院が付属し、住院者は千人に及んだ。
信長は何かの口実を構えてこれを破壊したいと考えていたが、ついにそれを見出した。
有る時賊があって尾張を劫掠し、その捕獲物をハクサンギン僧に持ち込んだ、という事件があった。
信長はこの機会を捉えた。
そのころ信長には差し当って従事すべきことはなく、エムベロム(足利義昭の事であろう)との間も平和な時期で
あったため、自分の思いを果たすには適当な時であると考え、ここにおいて突然ハクサンギンを襲い、仏僧を殺し、
日を華って建物の大半を焼いた、時は1573年にて、彼がエムべロムとなったのと同年である。
(※注:ちなみに比叡山焼き討ちは1571年(元亀2年)、1573(天正元)には足利義昭追放がある)
このような信長の行為は、彼がエムベロムとなった時僧侶の激しい反発を買ったが、そのなかでも
甲斐国(Cai no chuno)の王信玄は最も激昂した。
信玄は父を逐い、兄を幽閉し自ら王位に登った人物であり、正当なる権利に欠けていたが故に、彼の地位を
強固にすべき方法を採択した。すなわち彼は法衣を以て王衣とし、彼の笏を神聖化し、頭髪および髭を剃って
僧籍に入り、全ての儀式および宗教上の勤を行い、常に600人の僧を従えていた。
この評判は日本の諸地方に広まり、日本人はこの甲斐王が僧となって勤行し、しかも1日3回に及んでいるのを見るや、
彼こそは動揺せる教会を再建し、衰微した教法を古代の隆盛に復す事のできる人物だと信じ、各地より
彼の宮殿に集まり来るものが多くなった。
彼は宣言して比叡山の殿堂、寺院を復興し、有名なる観音の殿堂をも再建せん、と言った。
このような約束、および美しい口実は俗耳に入りやすいものである。信玄は祖先が日本に植民して以来、この地に
平和に存在した純粋なる古き宗教を力説・確立して、かの釈迦その人にも超越したと誇っていた。
彼の事業は準備され、その基礎は固められた。彼の賞嘆者は各地において自分自身とその城塞を提供し、
彼の指揮に従って生命財産をもなげうとうと言った。
彼は俄に有力となり、ほとんどエムベロムの如き観を見せた。
信長は彼の勢力が日に日に増大するのを見、また信玄自身からの書簡によって少なからず動揺した。
信玄はその書に自署して、タインデノ・タスサモン・信玄(Taindino Taxuxamon Xinguen 大僧正の事か?)と書いた。
諸王の王、全ての宗教の管長信玄、と言う意味である。
信長はこの書に答え、署名して、ダイノキン・テンノマウォン・信長(Dainoquin Tennomavou Nobunanga これは
第六天魔王であろう)と書いた。魔の大指揮者、漂浪せる霊の総大将信長、と言う意味である。
以上『モンタヌス日本誌』にある、信長の比叡山焼き討ち(?)と信玄との対立の描写である。
0275人間七七四年
2011/08/03(水) 18:34:57.81ID:uPvqreYoハクサンギン→白山寺(giはジノ発音)
タインデノ・タスサモン→天台座主沙門(xuはシュの発音)っぽいが
0276人間七七四年
2011/08/03(水) 18:56:51.47ID:XfaWntL10277人間七七四年
2011/08/03(水) 19:33:19.91ID:S6K4QzpT0278人間七七四年
2011/08/03(水) 20:23:22.65ID:mYcU0O1W0279人間七七四年
2011/08/03(水) 20:29:02.88ID:fGbdDR3B0280人間七七四年
2011/08/03(水) 20:46:07.24ID:LAr+UizF0281人間七七四年
2011/08/03(水) 20:49:50.74ID:XfaWntL1英語のブラザーと一緒で兄と弟が同じ単語だったりするんじゃないかな。
0282人間七七四年
2011/08/03(水) 20:49:53.12ID:uPvqreYo弟と解釈できるのかもしれない
0283人間七七四年
2011/08/03(水) 20:59:14.22ID:BROvF78Z正当な王権がないとか、
弟じゃ話が通じなくね?
0284人間七七四年
2011/08/03(水) 21:21:08.82ID:edU6X0drモンタヌス日本史に書かれている信玄というのは信廉のことだったんだよ!
0285人間七七四年
2011/08/03(水) 21:24:44.88ID:2o1ZAHGWしかも日本に来た事無いとか、もう何が間違ってても納得できる
0287人間七七四年
2011/08/03(水) 21:44:56.03ID:bJF+sPRp何かの連作小説で、翻訳家が何巻目かで突然、今まで12年間妹だと思ってそう訳してきたけど、
実は姉だったのねってあとがきでカミングアウトしていたなぁ。
0289人間七七四年
2011/08/03(水) 23:35:46.35ID:XfaWntL1そのあたりの解釈自体がモンタヌスが元資料を兄と弟で勘違いしてた可能性があるんじゃ?
男の兄弟を幽閉して自らが家を継いだ、と書かれてるものを読めば弟が兄を、と解釈してしまうのは
不思議じゃない。
0290人間七七四年
2011/08/04(木) 00:01:03.72ID:baArw8rk0292人間七七四年
2011/08/04(木) 00:30:15.63ID:FhBJRpFP0296人間七七四年
2011/08/04(木) 10:22:09.01ID:Cc3O2g0g信長に壊されてたのか?
モンタヌスが比叡山と間違えたって事か?
0297人間七七四年
2011/08/04(木) 13:18:20.63ID:u2f/Q5rFそれなら朝倉滅亡後に起きた一向一揆の際連中に焼き討ちかけられたはず。
なんか地元民にかなりうらまれてたらしい。
0298人間七七四年
2011/08/04(木) 13:38:33.36ID:PWI6RAj/0299人間七七四年
2011/08/04(木) 18:57:02.74ID:3qrqWmnBこれは、東征した神武天皇から分派した清和源氏の末裔という意味なのか、新羅三郎義光が渡来人と勘違いした結果なんだろうか?
0300人間七七四年
2011/08/04(木) 23:12:44.22ID:86vVobln白山平泉寺のことでしょ
福井県勝山市による平泉寺紹介・発掘調査報告
http://www.city.katsuyama.fukui.jp/bunka/heisenji/indexhaiden.html
平泉寺六千坊といって、福井の人に言わせれば、比叡山や高野山を凌駕する、日本一の中世宗教都市があったらしいよ。
それから、平泉寺が民百姓に恨まれてたから焼き滅ぼされたという説には、根拠がない。
一昔前のマルクス主義史学の中に、虐げられた大衆による古い圧制者の打倒と自治の好例として、
一向一揆を無闇に高評価する人がいたのは事実だけどね。
浄土真宗大好きの司馬遼太郎なんかが、小説やエッセイで繰り返しその説を広めた。
史実では、当時の越前一向一揆は、他宗派のありとあらゆる寺院を攻めて焼き滅ぼした。
・天台宗真盛派の一乗谷盛源寺は焼き尽くされ、石仏も破壊された。
・曹洞宗本山永平寺は、一向一揆の退去命令に素直に従って本山を明け渡したために、辛うじて焼亡を免れた。
・本願寺派の最大の仇敵だった真宗高田派は、信長勢に味方して抗戦した。
それら全ての宗派が腐敗してたり、民を収奪してたから民衆に攻められたかどうか、考えれば分かることだ。
0301人間七七四年
2011/08/04(木) 23:41:46.46ID:4ilOAZBl西軍として田辺城攻めに加わった後、本拠・但馬竹田城で謹慎していた赤松広英(広秀・広通)。
日ごろ入魂の亀井茲矩の「家康に取り成すから、鳥取城攻めに加勢してくれ」という援軍要請に勇躍して出陣した彼を待っていたものは、
城下焼き討ちの罪を広英に被せる亀井の讒言と、家康からの切腹命令であった。
そして、広英は鳥取真教寺で自刃する。
広英は赤松政秀の子で、秀吉公播州下向の始めより篤く仕えたので、秀吉公の恩顧世の常ならず、さらに軍功も華々しかったので、
始めは僅かな身上だったが、恩録次第に加わり、龍野より竹田に移り、3万8千石を領した。
その人となりは文武の道に志篤く、常に四書五経を講じ、文名高き者を多く抱えいた。
その頃の書物は古めかしい註によってばかりであったのを、藤原惺窩と共に新たな訓点を加える作業を進め、宋学を世間に広めたのである。
また、朝鮮捕虜の姜とも交遊し、帰国の便宜を図ってやった。
このように諸道に通じ、その才、世に超えたる人であったが、思わざる兵乱に遭い、不遇にして身を空しくしてしまったのだ。
広英と正室・宇喜多秀家の姉との間には娘しかいなかったが、側室が懐妊しており、広英没後に男子を出産。
しかしこの子も14歳で果て、家は絶えてしまった。
0302人間七七四年
2011/08/04(木) 23:43:36.49ID:4ilOAZBl人々の恐れることは甚だしかった。
池田備中守の頃には、町の地下人・作右衛門というものが暗夜に一人歩いていたところ、
晴天だった空がたちまちかき曇るや、露のようなものを吹きかけられたので、眼も口も開けられないように思われた。
その背後から、白装束に鉢巻をした身長一丈(約3m)ばかりなる大男が馬に乗って現れ、作右衛門を抱え上げると
1町ばかり進んで彼を投げ捨てた。
投げ捨てられた作右衛門は気絶していたが、明け方になってようやく正気づき、ほうほうの体で逃げ帰ったものの
そのまま病気付き、3ヶ月ほどして死んでしまった。
この頃には同様のことが頻繁に起こっていた。
池田光政の頃には徳安という法体の者が、深夜、一人で城の道辺を歩いていると、凄まじい大男が
「我こそは赤松左兵衛尉よ!」と名乗って切りかかってきた。
徳安は脇差を抜き合わせ、受け止めたのだが、高股を切り落とされたと感じて、道端に倒れ伏してしまった。
たまたま通りかかった友人に介抱された徳安は、事の次第を話したのであるが、友人が股を見ても
傷すら見当たらないではないか。
こうして友人の肩に担がれて家に帰り着いた彼もまた、7〜8日後には死んでしまったのである。
このような不思議な事が相次いだので、夜などは湯所の山の広英の墓の前を通る人もいなくなった。
人々は恐れおののき、神に祀り、祠を経て、歳時には神饌などを厳かに供えたので、憤恨は次第に薄まっていったのか
近年はこのような事は無くなった。
祠も次第に造り更へ、今はいかめしくなっているので、神霊もお喜びになっていると思われる。
(因幡民談記)
0303人間七七四年
2011/08/05(金) 00:17:58.00ID:n6/6xD6y「瓶割り柴田と評されるゃうに、勇猛さは比類なき〜」
なんで瓶を割ると勇猛の証しになるんだよ…
0304人間七七四年
2011/08/05(金) 00:34:03.43ID:y85jJSw+ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-310.html
勝家の知略と統率力の高さが伺える逸話
0305人間七七四年
2011/08/05(金) 00:38:00.22ID:4OtuQa6A武骨なだけでなく漢籍の素養があったのかもしれん
0306人間七七四年
2011/08/05(金) 01:51:15.98ID:pUm9VU3d有名どころだし、煽るには一番だ。
0307人間七七四年
2011/08/05(金) 03:41:07.58ID:lKtUtqnT織田秀信の代で取り立てられるまでは無名なのに筆頭家老に上り詰めるとか。
0308人間七七四年
2011/08/05(金) 05:14:43.44ID:RzrEyQsBコメントには出てくるのに記事がなかったので書いてみます。
一般書からの、孫引きかひ孫引きかわからない内容なのでより確かな記述ができる方いれば上書き更新してほしい所存。
堀主水は地味加藤家の重臣だったが、2代目明成とそりがあわず、退転することになった。
退去の際、主水は鉄砲隊を引き連れ、明成の居城に向かってぶっ放して憂さをはらした。
それだけでなく、幕府に明成の罪科11条を提出して、俗界の権力不介入を約束されている高野山に入った。
明成はどうにかして主水を捕らえて仕返ししたかったが、高野山に手は出せない。
幕府を通じて、懇願した。そしてそれはかなえられた。
主水とその一族は高野山を追放された上で捕らえられ、会津にひきわたされて、むごい運命を迎える。
皆殺しにしてすっきりした明成だが、ほどなくツケを払わされる。
幕府からの通告、領地召し上げ。理由は家中不取締り、ではない。
幕閣「先年ずいぶん無理なお願いをされましたが、そのおり、四十万石と引き換えてもいいから、とおっしゃいましたな。お言葉どおり封土を受け取るのですが、何か?」
こんな理由で改易された例はそうないんじゃなかろうか。幕府だけがニヤニヤ笑いのとまらない、そんな話。
0309人間七七四年
2011/08/05(金) 08:03:33.18ID:f56n1GWuアンサイクロペディアで小田氏治(天庵様)の関連項目が「ぬこ」のおまけだけってどうなんだ?
ここの住人なら伊達政宗を超える膨大な記述が出来るだろうに。
0310人間七七四年
2011/08/05(金) 08:21:02.24ID:r7jQsH/C0311人間七七四年
2011/08/05(金) 08:25:23.09ID:5pMjYtta0312人間七七四年
2011/08/05(金) 09:24:39.51ID:MuCF22wf0313人間七七四年
2011/08/05(金) 10:22:17.66ID:BZQVVG5K亡き弟家久の旧領である日向佐土原にたどり着いた。
早くも噂を聞いた農民が牛馬に家財を乗せ逃げて行く等、物々しい空気の中、家久次男・忠仍らの
出迎えを受けた義弘は、佐土原城内で家久夫人と一礼を交わした。
「このたびは、大変ご苦労なことでした。それで、私の息子は遅れて来るのでしょうか?」
「……………」
彼女の息子とは家久の長男、島津中務大輔豊久のことである。
その後、伊東氏の不穏な動きもあり、義弘は鹿児島から迎えに来た重臣の樺山紹剣の勧めに従い
早々に佐土原を発つことにした義弘の袖に、すがりつく女性がいた。家久夫人だった。
「あなたは……あなたは豊久を見捨てて、上方よりお下りになったというのに!
(中書を打捨候而御下候、)今また、この佐土原の地をお見捨てになるというのですかっ!!」
夫人の実兄である紹剣が、「あなたは先に『息子に後れは取らじ』と申されたではないですか。
ならば、ここで果てることこそ名誉では?」
などとさんざん夫人をなだめた末、やっと出発することが出来たという。(樺山紹剣自記)
ァ千代、慶ァ尼、妙林尼と女傑の多い戦国九州女性だが、皆が皆そうなれる訳ではない、そんな話。
0314人間七七四年
2011/08/05(金) 21:37:44.58ID:obmmQ6gnこの頃、斎村政広という呼称が一般的になっている感があるけど、
この「政広」という諱の出所ってどこなんだろう?
系図とか、赤松関係の書籍とか、それらに掲載の資料とかでも見たことがありません。
以前から気になってて。
0315人間七七四年
2011/08/05(金) 22:51:29.13ID:CWDD+0Be0316人間七七四年
2011/08/06(土) 00:16:05.75ID:yYPzfiDJ平壌城を落とした李如松も碧蹄館で大敗し、日本と明の間で和平交渉が始まった頃。
朝鮮軍に「日本軍が晋州城を攻撃する」という情報が入ってきた。
しかし、籠城を主張する者あり、これを拒む者ありで、方針が決まらない。
ともかくも、朝鮮の都元帥・金元明は明に援軍を請うことにした。
金「というわけで晋州救援のために兵を出して頂きたい」
李如松「やだ」
金「えっ」
李「そもそも、それは朝鮮軍が日本兵を殺し、和平交渉を妨害しているのが原因ではないのか?」
金「(゚Д゚)」
沈維敬「そうだ、いっそのこと空城にしてしまえばよろしいのでは」
李「そうだ、それがいい!」
金「(゚Д゚)」
…こうして朝鮮軍は籠城し、単独で日本軍と戦うことになった。
攻める日本軍は宇喜多秀家、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、島津義弘、小西行長、宗義智など、約9万。
守る朝鮮軍は1万にも満たない。
結局、晋州城は1週間ほどで陥落。
金元明は川に身を投げて自殺した。
以上、アテにならない宗主国の話。
0317人間七七四年
2011/08/06(土) 01:30:08.25ID:ibc4OVOQで、秀吉の命で牛馬まで皆殺し。
0318人間七七四年
2011/08/06(土) 10:39:59.97ID:rpEGowMiそれなら「やってらんねぇ」ってなるのもわかる
0319人間七七四年
2011/08/06(土) 13:48:05.86ID:+0R9K6Saコソコソ隠れて害をなすところは鼠と一緒だわな。
宗主国が出てきて和平交渉をしていると強気になって、コソコソ襲いだす。
その結果、戦になろうとすれば、宗主国さま〜と逃げて泣きつく。
李如松将軍の行動をみるに、大国同士を争わせて、その影でコソコソ動き
回る存在に嫌気さしたんだろうなと
0320人間七七四年
2011/08/06(土) 15:01:23.45ID:7A6dB43M0321人間七七四年
2011/08/06(土) 18:21:55.61ID:DTmgtdkH李如松は日本軍の漢城撤退も朝鮮の反対を押し切って交渉で決着をつけてしまったりと
日本軍に正面からやり合う気はすでになかった。
まあ明の本土が侵されたわけでもないし、日本軍はけっこう強いし
明の南方もきな臭くなってきたし、そもそも万暦帝の浪費で国家財政がヤバいしで
講和できるならそれで良いって感じだろうね。
まあ朝鮮も晋州城に立てこもったのは
「晋州城が落ちると俺たちの故郷がヤバい」という全羅道出身の義兵将と
日本軍の攻撃の2日前に赴任した新任の牧使と
晋州城以外に行き場のない数万の避難民というお粗末さだったんだけど。
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