戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0166人間七七四年
2011/07/25(月) 20:42:04.91ID:fIxGWm4f0167人間七七四年
2011/07/25(月) 20:46:22.77ID:FLRTbt9v0168人間七七四年
2011/07/25(月) 21:55:43.22ID:glk2HMOV0169人間七七四年
2011/07/25(月) 22:20:12.00ID:bKV3qKUB0170人間七七四年
2011/07/26(火) 11:38:55.34ID:GQOne77X0171人間七七四年
2011/07/26(火) 12:27:54.27ID:uuLi1ZqZ0172人間七七四年
2011/07/26(火) 17:28:29.81ID:QPdtteeK0173人間七七四年
2011/07/26(火) 18:15:12.99ID:EeG8E2xt0174人間七七四年
2011/07/26(火) 20:48:38.55ID:gXcbMCUPいい話スレで大崎合戦の話が出ていたので…。
宮城郡八幡(やわた・現宮城県多賀城市)の領主、八幡景廉は幼少で家督を継いだ為、
叔父の下間景継の後見を受けていた。その景継は嗣子が居なかった為、景廉の異母弟である
業継を養子に迎え入れた。
景継の死から数年後、八幡家中では凡庸な当主の景廉ではなく、下間業継を擁立しよう
とする声が高まった。家中を押さえ切れなくなった景廉は、主家である留守家に助けを
求めて逃げ込んだ。これに応じた留守政景は景廉と共に下間城を攻め、たまらず業継は
逃亡し、姉の嫁ぎ先である伊達家臣・泉田家へ身を寄せた。泉田重光は業継の甥にあたる。
業継の亡命後、留守政景と泉田重光は対立する様になった。この両名が大崎氏の内訌を突く
べく大将として派遣されたが、伊達軍が集結した松山城での軍議の場でも意見が衝突する。
松山城主・遠藤出羽守は敵方の新沼城主が出羽守の姉婿である事から、これを素通りして
敵城・師山城に抑えを残し、一気に敵中深く中新田城まで攻め入る事を主張、これを重光
は支持する。対して政景は十分に敵情を調べた後に侵攻すべし、と慎重論を唱えた。
重光は政景の岳父である黒川晴氏が大崎方へついた事を挙げ、政景は消極的であると罵った。
結局、重光に押し切られ伊達軍は留守隊を抑えとして中新田城を攻撃するも、降雪により足元
を取られ、反撃に出た大崎方によって多くの死傷者を出した。分断され雪中に孤立した政景は
舅・晴氏に使者を立て、松山城までの撤退を許された。一方の重光は敵方の新沼城に
収容され、自らが人質になる事で将兵の解放が許された。
0175人間七七四年
2011/07/26(火) 21:44:40.24ID:/pLjZPZsある時、浅野幸長が古田織部から、狭い茶室での道具の置き方・所作の仕方等の稽古を受けた。
「よいですかな浅野殿、客も炉も自分の右側にある時はこうする。客が右、炉が左の時はこう。」
「ふむふむ。」
「客も炉も左の時はこう、客が左、炉が右の時は…って、この辺は前の稽古の時どう教えましたかな?」
「………済まぬ、忘れたようです。」
そこで二人は、前回の稽古で同席した上田宗箇を呼んで、この件について問いただした。
「………申し訳ござらぬ、それがし、師の教えを失念いたし申した!!」
「(え〜)………」
「………?」
「……………」
「…と、とにかく、こういうものはその場その場でやってみなけりゃワカランものにござるよ。」
(織部候云、兎角その座敷にて置合てみねば、たしかならず)
「なるほど、そういうものですか。」
「うむ、そういうものです。」
織部のおかげで一つ勉強になった
…わけもなく、こーゆーお人に「白黒つけろ」とか_にゴザルよ。
0176人間七七四年
2011/07/26(火) 21:47:28.97ID:p6SA2Qaz0177人間七七四年
2011/07/26(火) 22:59:04.41ID:yWvWCmKAある時、近江で密庵の墨蹟を見つけた利休は120貫文の大金で
これを手に入れた。
早速、利休は茶会で墨蹟を掲げたのであるが、
招かれた北向道陳と松江隆仙は墨蹟を褒めてはくれなかった。
(おかしいな・・・どうしたことだろう)と思い、利休は2人に尋ねてみた。
松江「だって・・・」
北向「これ偽物だよ」
利休「ナ、ナンダッテー!だったら、こんなもの!」
偽物と知るやいなや利休は墨蹟を焼き捨ててしまった。
0178人間七七四年
2011/07/26(火) 23:17:05.41ID:BFPwgWtt「日本人は馬鹿アル。中国産のものなら偽物でも高い金出して買うねw」
というのがあったと聞いたようなw
0179人間七七四年
2011/07/26(火) 23:42:02.03ID:TKLWVOazそのあと毟りまくりられたけど。
0180人間七七四年
2011/07/26(火) 23:53:28.05ID:hA1AN+MX0181人間七七四年
2011/07/27(水) 02:57:18.47ID:7K5appAh姉川の合戦での手柄を、主君浅井長政から誉められていい気になってるだの、
図体のでかさと怪力を妖怪よばわりされるだの、とかく中傷は半端なかった。
よほど腹に据えかねたのか17才の藤堂与右衛門は、噂を吹聴する山本嘉助と対峙し、
これを切り捨ててしまった。
「・・・もはやここにはいられまい。やがて追っ手がまいるだろう。」
与右衛門は、着ていた紺地に大紋の羽織を脱ぐと裏返し、茶色に無紋の羽織にして再び羽織った。
(リバーシブルだったわけだ)
そしてその場を立ち去った。
まもなく、嘉助の死を知った追っ手が与右衛門を躍起になって探し始めた。
与右衛門の着ていたはずの紺地大紋羽織を手がかりに、聞き込みを行う。
「紺地に大紋?見かけねえなあ。茶に無紋羽織ならいっぱいいるけどよ。」
流行色だったのである。
藤堂与右衛門高虎は慌てた素振りも見せず、悠々と逃げおおせ、
二番目の主君阿閉氏の門を叩くとになるのである。
0184人間七七四年
2011/07/27(水) 19:10:52.93ID:O5JhFgs20185人間七七四年
2011/07/27(水) 19:30:13.96ID:WBUAFs8e0186人間七七四年
2011/07/27(水) 19:38:13.40ID:Gb/IrSc2マニュアルも正答もない、どうやったら非礼にならずに人をもてなせるかという話なんだから。
当然正解なんてないよ
0187人間七七四年
2011/07/27(水) 19:46:37.99ID:O5JhFgs20188人間七七四年
2011/07/27(水) 19:57:05.26ID:Gb/IrSc20189人間七七四年
2011/07/27(水) 20:03:41.54ID:O5JhFgs2ちょっと悪い話
0190人間七七四年
2011/07/27(水) 20:43:32.16ID:YemAPnjX0191人間七七四年
2011/07/27(水) 21:32:09.63ID:r2+J8sfP0192人間七七四年
2011/07/28(木) 17:20:42.43ID:lRiOOi0Q『羽柴の名は信長が彼(秀吉)に与えたものにて、そは彼が山口王(毛利)に対してエムベロム(信長)の
有力なる軍隊を率いて発進せし時の事なり。
其時彼は新しき名を与えんことを信長に請いしかば、信長はこれを聴し、従来藤吉郎と
称せしを改め羽柴と呼ばしめたり。森の上に飛べよという意味にして、是によりて彼の成功を
祈りたるなり。
彼が対抗せんとする山口王は名を毛利殿といい、その始めの綴りは森の意味にして、
終わりの綴りは君の意味なり(”殿”のことか)。
すなわち信長は、新将軍が敵に勝ちて森の上を鳥の如く飛ばんことを欲せしなり。』
そんな、今現在まで謎の多い「羽柴」という苗字についての一説である
(モンタヌス日本史)
0193人間七七四年
2011/07/28(木) 17:34:30.64ID:mTpLAwEC0194人間七七四年
2011/07/28(木) 18:31:57.35ID:EjtLFIPm0195人間七七四年
2011/07/28(木) 18:45:52.79ID:P7JCUFJY秀吉は最初『元吉』と名乗っていたが、放浪中に六角義秀に召抱えられた時、
その偏諱を賜って『秀吉』となったという。天正三年のことである。(『江源武鑑』より)
いつ六角氏に仕えてたんだよとか、天正三年にはとっくに織田家にいただろとか、
六角義秀って同じ書物で永禄十二年に死んでるんですけど、とかツッコミ所はいろいろあるけど、
『江源武鑑』自体、六角氏嫡流(定頼・義賢・義治とは違う血筋)をでっちあげてるかなり怪しい代物なので仕方ない。
とにかく、秀吉が死人に偏諱を賜ったという信憑性の無いお話。
0197人間七七四年
2011/07/28(木) 20:28:51.92ID:txmAfNQi「殿」までが名前だと思ってそうな書き方してあるし
0198人間七七四年
2011/07/28(木) 20:38:22.02ID:so2/+sZG毛利と森は毛利勝信とかの話もあるからまあ
0199人間七七四年
2011/07/28(木) 20:57:24.94ID:UpmeoxaS0201人間七七四年
2011/07/28(木) 22:12:15.41ID:QQkhXWBq伊達も「いだて」だったとか
0202人間七七四年
2011/07/28(木) 22:25:05.34ID:Tpn0qyBS0203人間七七四年
2011/07/28(木) 22:28:00.46ID:5e6o5z94当時は今みたいに統一された形での言語なんてなかったと思うんだが
0204人間七七四年
2011/07/28(木) 22:31:49.32ID:so2/+sZG単純な間違いとかまあいろいろ有るわな。
0205人間七七四年
2011/07/29(金) 00:01:07.70ID:uTik07+G『日本人改名の習慣
日本人の習慣として貴族は種々の出来事に遇いて名を改む。
大御所は家康(Jyavasu)およびギシアス(Giciasu)と称せられしが、
のちこれらの三者を捨てて内府様(Daifusama)と改めたり。』
ギシアスって、何?w; 徳川ギシアス…。
0207人間七七四年
2011/07/29(金) 00:16:20.68ID:RWEKH+bz0208人間七七四年
2011/07/29(金) 00:23:40.43ID:uTik07+Gそう。こんなのw
http://sageuploader.vs.land.to/1upload/src/sage1_29901.jpg
0209人間七七四年
2011/07/29(金) 00:30:16.04ID:29MKGV4V0210前だけ弄ろうとします ◆OVNYPzgZN2
2011/07/29(金) 00:31:45.74ID:58XjjXxb寧ろギシアス=ギシギシass assで,権現様の衆道趣味をフィーチャーして
いるんだよっ!!1!
0211人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:31.13ID:wN2p/29Cこのサイトでも紹介されているね
ところでgiciasuの発音って、イタリア語っぽくジチヤスとか
どっちにしても意味不明か
0212人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:53.02ID:6aTo8SgS「内府様」って「だいふさま」なんだ。「ないふさま」だと思っていた。
内裏と同じなのか。
>ギシアス
なんだろ。次郎三郎?家康(Jyavasu)と内府様(Daifusama)がけっこう正確なだけに気になる。
0213人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:54.45ID:uTik07+G0214人間七七四年
2011/07/29(金) 02:32:20.85ID:c/cQRjG2イエヤスは発音しにくいんだと思う
北米の大学で歴史学勉強してた時の教授、
イエヤスのことをアイヤスって発音してたわ
0215人間七七四年
2011/07/29(金) 02:46:51.62ID:i4v/yBBGってのは言えないんじゃない?
「藤原」を「ふじはら」って読む方が山陰だとメジャーだったりするんだ。
0217人間七七四年
2011/07/29(金) 05:41:55.05ID:A95/jvdE0218人間七七四年
2011/07/29(金) 06:45:13.47ID:dMezI5EAうーん、何となく知っているつもりだった日本とは微妙に違うけど・・・。
なんせ相手はその時代に実際に居て記録した訳だから、そっちの方が正しいんだろうね。
0219人間七七四年
2011/07/29(金) 11:00:43.45ID:ksYWSRUg0220人間七七四年
2011/07/29(金) 11:37:06.66ID:ksYWSRUg矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。
@里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
A里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
Bもう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。
あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。
巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。
0221人間七七四年
2011/07/29(金) 12:01:43.83ID:swGyjQ3yからめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね
だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。
0222人間七七四年
2011/07/29(金) 12:11:22.99ID:ksYWSRUg今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…
0223人間七七四年
2011/07/29(金) 12:31:05.15ID:sXhaq0AA0226人間七七四年
2011/07/29(金) 22:02:25.91ID:iaTFq7c60227人間七七四年
2011/07/29(金) 22:29:05.78ID:MPw+mlX70228人間七七四年
2011/07/29(金) 22:46:06.50ID:JXXNu7+t朝鮮人<もしかしてそれは「示」のことでは?
作者<おお、まぎれもなくこの字に違いない!ちなみになんて読むのですか?
朝鮮人<ああ、それはgi、siって読むんですよ
作者<なるほど、では示康と書いてギシアスと読むのか
同感w
0230人間七七四年
2011/07/30(土) 03:49:32.32ID:HkL5D/QP『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。
彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。
治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。
この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。
彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。
しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。
刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。
様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。
彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。
摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)
日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。
0231人間七七四年
2011/07/30(土) 07:04:56.92ID:Ph5z2QvA0232人間七七四年
2011/07/30(土) 07:27:26.92ID:Q8q2ORIl0233人間七七四年
2011/07/30(土) 07:54:44.45ID:UWCYjXCFおお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。
0234人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:52.80ID:a15vGj++その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。
0235人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:58.04ID:V8fb9BAd0236人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:25.06ID:FvcDezSX0237人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:50.15ID:Ph5z2QvAたぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう
0238人間七七四年
2011/07/30(土) 10:13:46.48ID:buoFAfWc一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)
0239人間七七四年
2011/07/30(土) 10:25:23.53ID:SdbJLH6S0240人間七七四年
2011/07/30(土) 10:27:33.61ID:RMxcrKRc0241人間七七四年
2011/07/30(土) 11:44:11.04ID:mc/ELILf実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw
0242人間七七四年
2011/07/30(土) 15:29:06.54ID:EZqkUVWf甲斐守がCainecanis
Canine Canisなら犬の犬か
ところで安国寺がAncocugisってことは
上で出てきたGiciasuはジシヤスなのか
0243人間七七四年
2011/07/30(土) 18:08:16.03ID:0Y9hlBW/ttp://i.imgur.com/dU8Gq.gif
祇園社、つまり八坂神社の護符を図案化したというが、肝心の八坂神社は特にこの紋を使っていない。
ttp://i.imgur.com/6NM6N.jpg
この紋について疑問に思った松浦静山は、実際に家紋としている池田定常(松平冠山)に由来を聞いてみた。
「某も詳しく知りませんが、当家の言い伝えでは、この紋は天王(牛頭天王、八坂神社の祭神)より
授かったものと聞きます。
…が、それは表向きの話で、本当は『王』ではなく『主』から授かったのでしょうな、ふふ…」
(軽いネタ話のつもりが、とんでもない事を聞いてしまった……)
『天王』ではなく『天主』、すなわちキリシタンのデウスとやらに関係するものだと言うのだ。
すると因州池田家は、摂津池田家とのつながりか、それとも戦国のころ、信長傘下にいたキリシタン大名の
影響か何かでキリシタンと縁があるのか?キリシタンが『邪宗門』と呼ばれる、この時代にも?
(と、すると)
やはり祇園守紋を使っている柳川藩立花家は、旧主・大友家への義理でキリシタンをかばっているのか。
同じく岡藩中川家に至っては、家祖の中川清秀自身がキリシタンだったではないか。
ならば意外にもキリシタンご禁制のこの時代、信者をかくまっている大名は多いのか?こうなると島津家の
丸に十字紋も怪しく思えてくる。いや、あれは昔からの紋だ、関係ない。いや、分からんぞ……
(いかん、頭がおかしくなりそうだ。やめよう。)
「ハハ、ご冗談を。」何とか定常に笑みを向けた静山は、早々に話を打ち切った。(甲子夜話より)
宗茂とか瀬兵衛の子あたりがキリシタンをかくまったいい話…かもしれないが、真相は霧の中だし
松浦静山の胃に悪い話、ということで。
0244人間七七四年
2011/07/31(日) 00:45:58.56ID:tsHHT7NTさすが甲子夜話、江戸中期のネタの宝庫である。
たしか、13人の侍の元ネタの事件も甲子夜話にあったな。
0245人間七七四年
2011/07/31(日) 01:12:23.06ID:OFnW17nu長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。
忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。
といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。
0246人間七七四年
2011/07/31(日) 03:40:59.38ID:S2j9Mxkv宗茂は、育ったのが博多近辺で祇園信仰が盛んだったから祇園守を家紋にしたみたいだけどな。
宗茂が考案した初期のは、扇に祇園守っていう十字とは全く別の形の物だったりするし。
0249人間七七四年
2011/07/31(日) 12:12:43.90ID:caHuuPC+あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ
0250人間七七四年
2011/07/31(日) 13:20:14.49ID:yBQ/CJuL織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん
0252人間七七四年
2011/07/31(日) 16:22:02.46ID:oalwK8VI中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
あれも祇園守紋の一種なのか
そういえば、宣教師が来日した当初、島津の家紋を見て
キリスト教徒に違いない、と喜んでいたらキリスト教に改宗した大友氏と
戦いまくってがっくりしたとか
0253人間七七四年
2011/07/31(日) 16:55:26.63ID:SFAnWIgpやっぱキリシタンと間違えられたりしたんだろうか?
0254人間七七四年
2011/07/31(日) 20:14:06.67ID:vWgKz8ng>「中川清秀が自家の家紋とした中川久留子は十字架を図案化したものと言われているが
中川久留子を「なかがわくるこ」と読んで一瞬なんのこっちゃと思ってしまった。
0255人間七七四年
2011/07/31(日) 20:51:31.06ID:DdpvUGy5別にキリスト教だけの特権ではない
同様にスワチカもナチスの特権ではない
0256人間七七四年
2011/07/31(日) 23:01:13.14ID:oP920H3bこれって、ただの偶然?
0257人間七七四年
2011/08/02(火) 00:55:59.90ID:3fDiVw/m加藤嘉明・明成親子が会津を治めていたころ、猪苗代城の城代は堀部主繕という者が任されていた。
寛永17年(1640)12月の夜、主繕が一人で座敷にいると、どこからともなく禿(かむろ)がやって来て告げた。
「お前がこの城に来て久しいが、未だご城主に挨拶をしておらぬ。本日、ご城主が目通りを許された。
急ぎ身を清め、衣服を改めて参れ。先導するゆえ、お目見え仕れい。」
主繕は禿をにらみつけ、反論した。
「この城の主人は、加藤候。その代理として、わしが預かっておる。それ以外に主などおらぬわ!!」
主繕の反論を、禿は笑った。
「姫路の刑部姫・猪苗代の亀姫を知らんのか。一つの天運尽き果て、一つの天運改まるを心得ず、
みだりに過ぎ去りし事を話す者よ、汝の命運も尽き果てたぞ。」
そう言い残すと、禿は来た時と同じように、どこへともなく消え失せた。
明けて寛永18年元日の朝、主繕は猪苗代勤番の諸士より年頭の挨拶を受けようと、城の大広間へ向かった。
広間の、己の座すべき上座には、棺桶と葬礼道具が置かれていた。またその日の夕方、人の気配もないのに
大勢で餅をつく音が聞こえてきた。同月18日、主繕は厠で倒れ2日後に死んだ。(老媼茶話より)
2年後の寛永20年、『一つの天運尽き果て』会津藩加藤家は改易された。
泉鏡花の戯曲『天守物語』では亀姫は刑部姫の妹という事になっており、猪苗代城主の生首を手土産に
姉のところへ遊びに行く、という描写が存在する。
02581/2
2011/08/02(火) 05:03:49.02ID:lr5r6NgA上方にて調える役目をしていた。そんな久兵衛が国元に帰った時のこと。家中のものたちの集まる御前において、
長政からこんな事を尋ねられた
「上方にては私のことを、どのように取り沙汰しているか?」
久兵衛これに「いえ、何という取り沙汰も承っておりません」と答えたが、長政「人である以上、善悪など言わないと
いうことは無いものである。その方を上方に置いたのは、そう言った町人たちの評判も聞いていきたいため
だったからだ。それを聞いていないというのは、緩がせ者ではないか!」と叱りつけた。
ところが久兵衛、これにカッとしたのか言い返した!
「殿様は軽薄である!…京童共はそう言っていると聞き及んでおります。ですがこんなたぐいの事は意味のない
ことだと思い、申し上げませんでした!その他にはどう言った評判も聞いておりません!」
が、長政はこれを聞いて激怒した
「口幅ったいようだがこの筑前(長政)に、軽薄の気持ちで世を渡る覚悟は一切無い!それを、なんという悪しき
評判であろうか。なんと腹の立つことだろう!」
その評判が久兵衛のせいであるかのように、より一層叱りつけた。久兵衛は「無益のことを言ってしまった…」
と顔を赤くして汗を流している。…と、
ここに口を挟んだのが家老・井上周防守之房である。
「久兵衛、よくぞ申し上げた!京童の言うように、殿は間違いなく御軽薄である!」
長政は当然これにも腹を立てた
「何だと周防!わしを軽薄ものだと!?全く信じられない!不遜ながら私は軽薄ではない!」と怒鳴ると
大脇差に手をかけ今にも斬りかかりそうな目付きで睨んだが、井上は少しも怯まず、長政の挙動を用心する風でもなく、
普段と変わらない風情で語りかけた
「殿がどれだけ御腹立になっても、御軽薄であることには間違いありません。」「理由を述べよ!」「…は。
先ず、御心を静められ、その上でお聞き下さい。
我が黒田家の、江戸の御出頭衆や御老中が御前において良い働きをしている間は、殿は彼らをまるで神仏のように
崇め敬せられます。そして彼らの働きにどんな報酬を与えても惜しくないかのように、不断に残るところ無く
お心遣いをされます。今の世はそのように良い働きをする家臣がいなければどうにも上手く動かぬのですから、
殿がそうなさるもの御尤もだと、私もそう思います。
…ですが、さて、そういう者でも殿の意に沿わず一旦御前を下げられれば、殿はそのまま打ち捨て遠ざけられ、
その者が死んでも、彼の息子たちに何の心遣いもなく、全くお構いされることはありません。
殿、解っているでしょうが、これは誰々の事ですぞ!」
と名指しして言えば、長政はその理に屈しながらも主人に対して何たる物言いかとさらに腹を立てて叱りつける。
が、井上は事ともせず「いかように腹を立てられても、殿の今ような御作法では、軽薄の悪名は止みませぬぞ!
殿は武儀を始めとして他の事が能くお出来になるからこそ、その身の御傷にはなっていませんが、仮にそれらが
普通程度なら…、まあ、とても一人前にはなりませんな!」
井上周防、言いたい放題である。本人を前に。
この主従の口論に居合わせた老若の家臣たち、すっかり興ざめをし、大事が起こるのではないかと冷や汗を流しながら
押し黙って聞いていると、ここに衣笠因幡と申す老臣、彼も譜代であり、功の入りたる者として三千石を知行し、
中老並みに召し使われ、年寄たちの座にも心やすく列するほどの者であったが、これがしたたかに大声を発して
立ち上がった!
02592/2
2011/08/02(火) 05:06:54.98ID:lr5r6NgA止めようとしないので、衣笠は涙を拭い、2つ3つ大きく息を吐いてから、叫んだ!
「さてもさても目出たき御事かな!!この場に居る老若も皆、同じように思うだろうが、殿様がこれほどご機嫌悪く
立腹なされているのは、近年見たことがなかった。とこどが、それに全く臆する景色もない、周防殿の只今の
申し上げよう、臣たる者、いつもその真似であってもさせたいものである!
その身の不利益であることは解っていても、主君の御為ならば一命を捧げかねない周防殿のこと。
たとえ御手討にもされるならされろ、命は軽いと存じ定めたる御覚悟、誠に神妙である。
申し上げていることは、はっきり言ってけしからぬ内容だが、命を投げ出した覚悟、天晴良き臣下かな!
殿!今の世にこのような臣下を持たれた大名衆はおりませんぞ!偏に御家長久の基であります。
そしてあの周防殿、他家にはあるまじき良き臣下を、殿の意に逆らうからと言って、彼をお側から遠ざけ
御為良き事を申し上げられない様にしてしまえばそれは、あのような家臣が無いことよりも劣ります!
さて、私が愚案を廻らせて見たところ、周防殿の言葉は彼の心から出たものではなく、皆殿様の御心の内から
発せられた物だと思い至りました。これも又、御家長久の第一です。目出度い事ではありませんか!
老いも若きもこの事を頼もしく思って、能くご方向仕れ!」
長政、これにすっかり毒気を抜かれたか、衣笠の言う事を素直に尤もだと思い
「因幡が申すように、主を諫め意見をする人間を持たない家は、悪いことが多いと度々思う。
わしが若い頃、心任せに仕置きを申し付け、まあ、自分では良い仕置を申し付けたと思っていたのに、
栗山備後や井上周防などがそれを押さえて意見をし、わしの思うようにはさせてくれなかった。
当時は殊の外無念に思ったものだが、後に思案してみれば、わしの分別が間違っていたことに気付いたものだ。
若い頃は気も強く、第一無分別で我儘を申し付けたいと思うものだが、老巧の意見が入れば入るほど、
自分の思う事は採用されないものだ。
能き人を持ちたることこそ幸いである!
最近は、たまさかの在国の間、楽をするのが得だと思って、近年は公私のことも年寄どもや(小河)内蔵允に
任せて、ずいぶん楽をしているよ。」
と、そのあとは終日、機嫌よく語ったそうである。
(古郷物語)
いい話といえばそうなのですが、長政があまりに言われたい放題なのとあまりにうまく丸め込まれすぎてる
気もするのと、そもそもこういうのを平然と記録しているという長政へのあまりな気の使わなさに少し涙したので
こっちにw
0260人間七七四年
2011/08/02(火) 06:23:08.28ID:kODSooY00261人間七七四年
2011/08/02(火) 09:20:12.42ID:qPptHUK/奥方が長政の母方の従姉妹だったり、周防の次男に長政長女が嫁いでいたりと、
ほとんど準一門と言えるくらいの重臣だからなあ
0262人間七七四年
2011/08/02(火) 09:24:39.03ID:dXURIbth0263人間七七四年
2011/08/02(火) 09:45:14.17ID:WplGRG5ehttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
0265人間七七四年
2011/08/02(火) 22:33:13.66ID:dhsypo1c映ってたけど、そこに書かれてた毛利輝元の名前が「輝元」って
呼び捨てになってた。w
家康は「家康公」って書いてたのに。
やっぱり呼び捨てには何かあるのかな?
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