戦国ちょっと悪い話27
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0001人間七七四年
2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話27
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1307622844/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0143人間七七四年
2011/07/24(日) 18:39:17.42ID:LI5q77F0あまりに単純すぎるのではないだろうか
もっとこう、美しい日本の古典と掛けた銘を入れるなど」
0144人間七七四年
2011/07/24(日) 19:41:22.74ID:U87Ms8340145人間七七四年
2011/07/24(日) 21:21:07.66ID:EPitOerN0146人間七七四年
2011/07/24(日) 21:35:31.58ID:wXMyGxcrもえ、と名付けました
0147人間七七四年
2011/07/24(日) 23:07:12.45ID:VxQdvJ2m武田勝頼滅亡の端緒となった高天神城後詰の一件
主君に「高天神上の後詰は無用、捨て殺しにされよ」という書状を送ってひと月、城内の糧食も
尽きかけた今、甚五郎は、総攻めで城内に乱入した敵兵を如何に殺すかを考えながら城の図面
に目を通す甚五郎の元に同僚の相木市兵衛がやってくると耳元で囁いた。
「主将の岡部殿が、城を打って出るとのことでござる」
「馬鹿なことを、城を枕に討ち死にすると評定で決めたはず」
「それは、後詰がある時の話、後詰が見込めない今、飢え死に覚悟で籠城するより、城外に打って
出て華々しく死に花を咲かすもよし、あわよくば、敵中を突破して命を拾うもよしとの仰せじゃ」
「浅慮なことを、落城必死の今、一人でも敵を殺すのが我らの意地の見せどころのはず」
気色ばむ甚五郎に相木市兵衛が、さればでござると話を切り出した。
数日後、高天神城主将岡部元信が城兵と共に城を打って出て、さんざんに奮戦したが、ほとんど
の兵が殲滅された。しかし、その中に横田甚五郎と相木市兵衛の名前はなかった。
両名は、最後の突撃直前に間道から城外に脱出していたのだ。
「ではお館様に、良しなにお伝えくだされ」
そう言って躑躅ヶ崎館に向かう甚五郎に別れを告げ、相木市兵衛は本貫地の上州に向かった。
武田勝頼の前に帰還の報告を行った甚五郎は、高天神城からの脱出を賞賛され、感状と太刀を授けられ
ようとしたが、おめおめと生き残った自分が受ける謂れはないと断った。
しかし、高天神城から一人だけ抜け出し、おめおめと生き残ったという汚名は、生涯、甚五郎に付き纏い、
やがては逃げの甚五郎と大久保彦左衛門に嘲笑される羽目になるという横田甚五郎のちょっと悪い話。
余談
相木市兵衛のその後、武田滅亡後、北条に属すも徳川方の同族に攻められ、本拠の相木城を奪われ、
挙句の果てに木次原の戦いで討ち死にしたとさ
0149人間七七四年
2011/07/24(日) 23:48:15.00ID:A09FbhUj年寄りの武辺争い
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5077.html
正直現代にまで残ってる「武辺話」は彦左より横田の方が多いんだがな
0150人間七七四年
2011/07/25(月) 00:04:46.19ID:KcqYkZ3Hまるでねらー
0151人間七七四年
2011/07/25(月) 01:04:03.52ID:HBZTW1yt0152人間七七四年
2011/07/25(月) 06:19:31.86ID:gPW3f3Qf下野・小山秀綱と常陸・結城晴朝は実の兄弟である。
秀綱が兄、結城家に養子に入った晴朝が弟。
北関東も奥羽さながらに縁戚が入り乱れ、大小の戦が敵・味方を変え断続的に行われていた。
ときに天正年間。
越後上杉に与したとして下野の小山秀綱は北条勢に攻められ、父祖伝来の居城・小山城を追われた。
秀綱は北条氏照に小山城とは目と鼻の先の榎本城に入る事を許されたが、
氏照の家老・近藤出羽守綱秀の監視下に置かれることになった。
そのまま秀吉の小田原征伐が始まる。
兄・秀綱は北条方
弟・晴朝は豊臣方
将兵は顔見知り・親族同士も多いながら、北条・豊臣の軍監が見ているせいでワザと力を抜く事も出来ない。
榎本城には八王子方面に軍を向けた近藤綱秀の嫡男と城代、小山秀綱、藤岡山城、石島主水がいたが、結城勢をはじめとする豊臣の大軍を前に城は落ち、
秀綱はわずかな供に守られ埼玉柳生に落ち延びた。
小田原の陣後秀綱は秀吉に面会を許されたが、御家は取り潰しとなった。
弟の晴朝は太閤秀吉の養子於義丸(秀康)を継嗣にする事で豊臣期の大名としての存続は安泰かと思われたが
常陸結城から越前への移封で住み慣れた土地を離れねばならず、結城の家名も後代失った。
兄弟の違いは
出来?運?
0153人間七七四年
2011/07/25(月) 09:07:17.98ID:GlJEMa6p0154人間七七四年
2011/07/25(月) 09:45:11.60ID:5JTDhs9u0155人間七七四年
2011/07/25(月) 10:44:51.87ID:YnoUaIsD結城……同じく
長沼……宗家は戦国初期に滅亡?分家の皆川家は江戸初期に無嗣断絶
千葉……当主が相次いで家臣に暗殺される等ボロボロ 小田原陣後、正式に改易
宇都宮…http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1466.html
佐竹……唯一の勝ち組?
那須……O関「主君?なにそれおいしいの?」
小田……もういい…!もう休めっ…!
関東八屋形だけ見てもこんなんだから関東の名族に生まれること自体がハードモードと思われ
0156人間七七四年
2011/07/25(月) 11:11:01.19ID:EIbqhBoW0157人間七七四年
2011/07/25(月) 13:16:15.11ID:ad6ob3CR戦国時代中盤、香宗我部家は長宗我部家や安芸家によって圧迫を受けていた
隠居していた香宗我部親秀は家名を守る為に長宗我部家から継養子を迎えて連合体制を築こうと図ったが話は順調に進まなかった
弟 秀通が頑なに拒んだのである
秀通には後を継ぐべき男子もあり長宗我部家を畏れて迎合するを‘武門の恥’として反発した
家名を守る為に執心した親秀は弘治2年(1556年)に秀通を部下を使って暗殺
こうして長宗我部国親の三男が香宗我部親泰として家督を継ぐ事になったのである
親泰は秀通の遺児で歳の近い香宗我部泰吉を重用した
親泰の妻は泰吉の妹であるから尚更かも知れない
ちなみに泰吉が2歳年長
泰吉は親泰に仕える時点で姓を中山田に変えた
香宗我部家当主はあくまでも親泰であるという意思表示である
香宗我部改め中山田泰吉は本当に優秀な人物であったらしい
長宗我部家の外交官として飛び回る親泰の留守をそれはもう完璧なほどに守り、執務も代行していた
ところが泰吉には悩みの種があった
親泰「俺に何かあったら次は泰吉」
と親泰が公言してはばからなかった事である
長兄長宗我部元親を前にしても公言する
息子にも叔父さんに習えと言い聞かせる
と、親泰の義兄愛がとんでもなかったのである
確かに優秀な人材であり元々の香宗我部家の人間だが、長宗我部本家の血の結束からは外れた存在
人物、能力に惚れ込むあまりに血縁の重要さが親泰から吹っ飛んでしまったのである
このあたり、長兄とどこか似通っている
結果として親泰死後に次男貞親が後を継ぎ泰吉は重臣として香宗我部家に仕え続けた
関ヶ原後は香宗我部家の家名を守る為に奔走
香宗我部の家名は守れたが残念ながら貞親は土佐を退去した
泰吉一族は土佐に残り山内家に仕えた
今も中山田家は続いています
清和源氏の流れをくむ香宗我部と名乗る事もなく
0158人間七七四年
2011/07/25(月) 13:26:55.86ID:wRzmTnnJまあ茨城だからね
やっちゃったのかなとも思うし
天庵殿を抑えて常陸南西部を支配下に治めていたのも間違いではないけど
0159人間七七四年
2011/07/25(月) 17:34:32.79ID:ucWVWMfB小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされると、奥羽の地にも中央から役人は来て測量検地を始めた。
最上義光の所領の出羽山形の測量の割り当てになったのは忍城攻めでは良いところのなかった石田佐吉三成。
部下を叱りつけながらあれもこれもと細かく注文をつけつつ、測量の指示をしていった・・・ハズであった。
三成「これでおおよそこの辺の計測も終了か。
上山、蔵王、山形、天童、余目、こっちの完了分は小国と大石田か・・・」
部下「こちらの報告書はどこに置いておきます?」
三成「村山か・・・。表紙を付け、そっちに纏めておいてくれ」
部下「は、わかりました。・・・ん?今測ってきたのって最上だけど、殿は村山って言ってたよな。こっちの気のせいか・・・」
部下は最上地域の測量表に「村山」の表紙を付けた
従来、上山・山形・天童は「最上」地域
その北の新庄・村山方面は「村山」地域とされていた
現在、上山・山形・天童は「村山」地区
その北の新庄・村山方面は「最上」地区とされている
誰が悪いかはっきりはしないが、太閤検地で地名が入れ替えられたまま、誰も修正できなかったバツの悪い話。
0160人間七七四年
2011/07/25(月) 17:38:05.22ID:Pn7FhItc0161人間七七四年
2011/07/25(月) 17:47:59.54ID:ucWVWMfB>>160
「最上郡」「村山郡」の逆転と太閤検地関連
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0%E3%80%80%E6%9C%80%E4%B8%8A%E3%80%80%E6%9D%91%E5%B1%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
0162人間七七四年
2011/07/25(月) 18:00:40.27ID:ucWVWMfB(´・ω・`)「キツネにつままれた気分だ・・・」
0164人間七七四年
2011/07/25(月) 19:40:47.81ID:5JTDhs9u結城城は下総にあるが、位置は見てのとおり、三国が接する場所にある。
常陸結城と言っても間違いではない。
0165人間七七四年
2011/07/25(月) 19:53:53.40ID:ucWVWMfB0166人間七七四年
2011/07/25(月) 20:42:04.91ID:fIxGWm4f0167人間七七四年
2011/07/25(月) 20:46:22.77ID:FLRTbt9v0168人間七七四年
2011/07/25(月) 21:55:43.22ID:glk2HMOV0169人間七七四年
2011/07/25(月) 22:20:12.00ID:bKV3qKUB0170人間七七四年
2011/07/26(火) 11:38:55.34ID:GQOne77X0171人間七七四年
2011/07/26(火) 12:27:54.27ID:uuLi1ZqZ0172人間七七四年
2011/07/26(火) 17:28:29.81ID:QPdtteeK0173人間七七四年
2011/07/26(火) 18:15:12.99ID:EeG8E2xt0174人間七七四年
2011/07/26(火) 20:48:38.55ID:gXcbMCUPいい話スレで大崎合戦の話が出ていたので…。
宮城郡八幡(やわた・現宮城県多賀城市)の領主、八幡景廉は幼少で家督を継いだ為、
叔父の下間景継の後見を受けていた。その景継は嗣子が居なかった為、景廉の異母弟である
業継を養子に迎え入れた。
景継の死から数年後、八幡家中では凡庸な当主の景廉ではなく、下間業継を擁立しよう
とする声が高まった。家中を押さえ切れなくなった景廉は、主家である留守家に助けを
求めて逃げ込んだ。これに応じた留守政景は景廉と共に下間城を攻め、たまらず業継は
逃亡し、姉の嫁ぎ先である伊達家臣・泉田家へ身を寄せた。泉田重光は業継の甥にあたる。
業継の亡命後、留守政景と泉田重光は対立する様になった。この両名が大崎氏の内訌を突く
べく大将として派遣されたが、伊達軍が集結した松山城での軍議の場でも意見が衝突する。
松山城主・遠藤出羽守は敵方の新沼城主が出羽守の姉婿である事から、これを素通りして
敵城・師山城に抑えを残し、一気に敵中深く中新田城まで攻め入る事を主張、これを重光
は支持する。対して政景は十分に敵情を調べた後に侵攻すべし、と慎重論を唱えた。
重光は政景の岳父である黒川晴氏が大崎方へついた事を挙げ、政景は消極的であると罵った。
結局、重光に押し切られ伊達軍は留守隊を抑えとして中新田城を攻撃するも、降雪により足元
を取られ、反撃に出た大崎方によって多くの死傷者を出した。分断され雪中に孤立した政景は
舅・晴氏に使者を立て、松山城までの撤退を許された。一方の重光は敵方の新沼城に
収容され、自らが人質になる事で将兵の解放が許された。
0175人間七七四年
2011/07/26(火) 21:44:40.24ID:/pLjZPZsある時、浅野幸長が古田織部から、狭い茶室での道具の置き方・所作の仕方等の稽古を受けた。
「よいですかな浅野殿、客も炉も自分の右側にある時はこうする。客が右、炉が左の時はこう。」
「ふむふむ。」
「客も炉も左の時はこう、客が左、炉が右の時は…って、この辺は前の稽古の時どう教えましたかな?」
「………済まぬ、忘れたようです。」
そこで二人は、前回の稽古で同席した上田宗箇を呼んで、この件について問いただした。
「………申し訳ござらぬ、それがし、師の教えを失念いたし申した!!」
「(え〜)………」
「………?」
「……………」
「…と、とにかく、こういうものはその場その場でやってみなけりゃワカランものにござるよ。」
(織部候云、兎角その座敷にて置合てみねば、たしかならず)
「なるほど、そういうものですか。」
「うむ、そういうものです。」
織部のおかげで一つ勉強になった
…わけもなく、こーゆーお人に「白黒つけろ」とか_にゴザルよ。
0176人間七七四年
2011/07/26(火) 21:47:28.97ID:p6SA2Qaz0177人間七七四年
2011/07/26(火) 22:59:04.41ID:yWvWCmKAある時、近江で密庵の墨蹟を見つけた利休は120貫文の大金で
これを手に入れた。
早速、利休は茶会で墨蹟を掲げたのであるが、
招かれた北向道陳と松江隆仙は墨蹟を褒めてはくれなかった。
(おかしいな・・・どうしたことだろう)と思い、利休は2人に尋ねてみた。
松江「だって・・・」
北向「これ偽物だよ」
利休「ナ、ナンダッテー!だったら、こんなもの!」
偽物と知るやいなや利休は墨蹟を焼き捨ててしまった。
0178人間七七四年
2011/07/26(火) 23:17:05.41ID:BFPwgWtt「日本人は馬鹿アル。中国産のものなら偽物でも高い金出して買うねw」
というのがあったと聞いたようなw
0179人間七七四年
2011/07/26(火) 23:42:02.03ID:TKLWVOazそのあと毟りまくりられたけど。
0180人間七七四年
2011/07/26(火) 23:53:28.05ID:hA1AN+MX0181人間七七四年
2011/07/27(水) 02:57:18.47ID:7K5appAh姉川の合戦での手柄を、主君浅井長政から誉められていい気になってるだの、
図体のでかさと怪力を妖怪よばわりされるだの、とかく中傷は半端なかった。
よほど腹に据えかねたのか17才の藤堂与右衛門は、噂を吹聴する山本嘉助と対峙し、
これを切り捨ててしまった。
「・・・もはやここにはいられまい。やがて追っ手がまいるだろう。」
与右衛門は、着ていた紺地に大紋の羽織を脱ぐと裏返し、茶色に無紋の羽織にして再び羽織った。
(リバーシブルだったわけだ)
そしてその場を立ち去った。
まもなく、嘉助の死を知った追っ手が与右衛門を躍起になって探し始めた。
与右衛門の着ていたはずの紺地大紋羽織を手がかりに、聞き込みを行う。
「紺地に大紋?見かけねえなあ。茶に無紋羽織ならいっぱいいるけどよ。」
流行色だったのである。
藤堂与右衛門高虎は慌てた素振りも見せず、悠々と逃げおおせ、
二番目の主君阿閉氏の門を叩くとになるのである。
0184人間七七四年
2011/07/27(水) 19:10:52.93ID:O5JhFgs20185人間七七四年
2011/07/27(水) 19:30:13.96ID:WBUAFs8e0186人間七七四年
2011/07/27(水) 19:38:13.40ID:Gb/IrSc2マニュアルも正答もない、どうやったら非礼にならずに人をもてなせるかという話なんだから。
当然正解なんてないよ
0187人間七七四年
2011/07/27(水) 19:46:37.99ID:O5JhFgs20188人間七七四年
2011/07/27(水) 19:57:05.26ID:Gb/IrSc20189人間七七四年
2011/07/27(水) 20:03:41.54ID:O5JhFgs2ちょっと悪い話
0190人間七七四年
2011/07/27(水) 20:43:32.16ID:YemAPnjX0191人間七七四年
2011/07/27(水) 21:32:09.63ID:r2+J8sfP0192人間七七四年
2011/07/28(木) 17:20:42.43ID:lRiOOi0Q『羽柴の名は信長が彼(秀吉)に与えたものにて、そは彼が山口王(毛利)に対してエムベロム(信長)の
有力なる軍隊を率いて発進せし時の事なり。
其時彼は新しき名を与えんことを信長に請いしかば、信長はこれを聴し、従来藤吉郎と
称せしを改め羽柴と呼ばしめたり。森の上に飛べよという意味にして、是によりて彼の成功を
祈りたるなり。
彼が対抗せんとする山口王は名を毛利殿といい、その始めの綴りは森の意味にして、
終わりの綴りは君の意味なり(”殿”のことか)。
すなわち信長は、新将軍が敵に勝ちて森の上を鳥の如く飛ばんことを欲せしなり。』
そんな、今現在まで謎の多い「羽柴」という苗字についての一説である
(モンタヌス日本史)
0193人間七七四年
2011/07/28(木) 17:34:30.64ID:mTpLAwEC0194人間七七四年
2011/07/28(木) 18:31:57.35ID:EjtLFIPm0195人間七七四年
2011/07/28(木) 18:45:52.79ID:P7JCUFJY秀吉は最初『元吉』と名乗っていたが、放浪中に六角義秀に召抱えられた時、
その偏諱を賜って『秀吉』となったという。天正三年のことである。(『江源武鑑』より)
いつ六角氏に仕えてたんだよとか、天正三年にはとっくに織田家にいただろとか、
六角義秀って同じ書物で永禄十二年に死んでるんですけど、とかツッコミ所はいろいろあるけど、
『江源武鑑』自体、六角氏嫡流(定頼・義賢・義治とは違う血筋)をでっちあげてるかなり怪しい代物なので仕方ない。
とにかく、秀吉が死人に偏諱を賜ったという信憑性の無いお話。
0197人間七七四年
2011/07/28(木) 20:28:51.92ID:txmAfNQi「殿」までが名前だと思ってそうな書き方してあるし
0198人間七七四年
2011/07/28(木) 20:38:22.02ID:so2/+sZG毛利と森は毛利勝信とかの話もあるからまあ
0199人間七七四年
2011/07/28(木) 20:57:24.94ID:UpmeoxaS0201人間七七四年
2011/07/28(木) 22:12:15.41ID:QQkhXWBq伊達も「いだて」だったとか
0202人間七七四年
2011/07/28(木) 22:25:05.34ID:Tpn0qyBS0203人間七七四年
2011/07/28(木) 22:28:00.46ID:5e6o5z94当時は今みたいに統一された形での言語なんてなかったと思うんだが
0204人間七七四年
2011/07/28(木) 22:31:49.32ID:so2/+sZG単純な間違いとかまあいろいろ有るわな。
0205人間七七四年
2011/07/29(金) 00:01:07.70ID:uTik07+G『日本人改名の習慣
日本人の習慣として貴族は種々の出来事に遇いて名を改む。
大御所は家康(Jyavasu)およびギシアス(Giciasu)と称せられしが、
のちこれらの三者を捨てて内府様(Daifusama)と改めたり。』
ギシアスって、何?w; 徳川ギシアス…。
0207人間七七四年
2011/07/29(金) 00:16:20.68ID:RWEKH+bz0208人間七七四年
2011/07/29(金) 00:23:40.43ID:uTik07+Gそう。こんなのw
http://sageuploader.vs.land.to/1upload/src/sage1_29901.jpg
0209人間七七四年
2011/07/29(金) 00:30:16.04ID:29MKGV4V0210前だけ弄ろうとします ◆OVNYPzgZN2
2011/07/29(金) 00:31:45.74ID:58XjjXxb寧ろギシアス=ギシギシass assで,権現様の衆道趣味をフィーチャーして
いるんだよっ!!1!
0211人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:31.13ID:wN2p/29Cこのサイトでも紹介されているね
ところでgiciasuの発音って、イタリア語っぽくジチヤスとか
どっちにしても意味不明か
0212人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:53.02ID:6aTo8SgS「内府様」って「だいふさま」なんだ。「ないふさま」だと思っていた。
内裏と同じなのか。
>ギシアス
なんだろ。次郎三郎?家康(Jyavasu)と内府様(Daifusama)がけっこう正確なだけに気になる。
0213人間七七四年
2011/07/29(金) 00:35:54.45ID:uTik07+G0214人間七七四年
2011/07/29(金) 02:32:20.85ID:c/cQRjG2イエヤスは発音しにくいんだと思う
北米の大学で歴史学勉強してた時の教授、
イエヤスのことをアイヤスって発音してたわ
0215人間七七四年
2011/07/29(金) 02:46:51.62ID:i4v/yBBGってのは言えないんじゃない?
「藤原」を「ふじはら」って読む方が山陰だとメジャーだったりするんだ。
0217人間七七四年
2011/07/29(金) 05:41:55.05ID:A95/jvdE0218人間七七四年
2011/07/29(金) 06:45:13.47ID:dMezI5EAうーん、何となく知っているつもりだった日本とは微妙に違うけど・・・。
なんせ相手はその時代に実際に居て記録した訳だから、そっちの方が正しいんだろうね。
0219人間七七四年
2011/07/29(金) 11:00:43.45ID:ksYWSRUg0220人間七七四年
2011/07/29(金) 11:37:06.66ID:ksYWSRUg矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるらしいのだが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。
@里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
A里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
Bもう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。
あと矢切りの渡しの付近(現在の江戸川)の浅い場所を「からめきの瀬」というんだが、
どうやら「からめての瀬」の訛りらしい。浅くて渡りやすい場所を城の「搦め手」に例えたらしい。
巻き込まれる農民にとっちゃ悪い話なので、こっちに投下。
乱文失礼いたしました。
0221人間七七四年
2011/07/29(金) 12:01:43.83ID:swGyjQ3yからめきの瀬には一説には、
がらめきの瀬ともいってそこにある石ががらがらと音を立てるから、
みたいな話もあったね
だから第二次国府台合戦で北条の大群が夜飲に紛れて渡河しても、
渡河の音がその音にかき消されて気づけなかったとか。
0222人間七七四年
2011/07/29(金) 12:11:22.99ID:ksYWSRUg今はあり得ないほどのどかな場所なんだけどね。
完璧に余談ですが、うちの近所に里見氏の御子孫が住んでいらっしゃるそうな…
0223人間七七四年
2011/07/29(金) 12:31:05.15ID:sXhaq0AA0226人間七七四年
2011/07/29(金) 22:02:25.91ID:iaTFq7c60227人間七七四年
2011/07/29(金) 22:29:05.78ID:MPw+mlX70228人間七七四年
2011/07/29(金) 22:46:06.50ID:JXXNu7+t朝鮮人<もしかしてそれは「示」のことでは?
作者<おお、まぎれもなくこの字に違いない!ちなみになんて読むのですか?
朝鮮人<ああ、それはgi、siって読むんですよ
作者<なるほど、では示康と書いてギシアスと読むのか
同感w
0230人間七七四年
2011/07/30(土) 03:49:32.32ID:HkL5D/QP『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。
彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。
治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。
この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。
彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。
しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。
刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。
様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。
彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。
摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)
日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。
0231人間七七四年
2011/07/30(土) 07:04:56.92ID:Ph5z2QvA0232人間七七四年
2011/07/30(土) 07:27:26.92ID:Q8q2ORIl0233人間七七四年
2011/07/30(土) 07:54:44.45ID:UWCYjXCFおお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。
0234人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:52.80ID:a15vGj++その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。
0235人間七七四年
2011/07/30(土) 07:58:58.04ID:V8fb9BAd0236人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:25.06ID:FvcDezSX0237人間七七四年
2011/07/30(土) 08:15:50.15ID:Ph5z2QvAたぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう
0238人間七七四年
2011/07/30(土) 10:13:46.48ID:buoFAfWc一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)
0239人間七七四年
2011/07/30(土) 10:25:23.53ID:SdbJLH6S0240人間七七四年
2011/07/30(土) 10:27:33.61ID:RMxcrKRc0241人間七七四年
2011/07/30(土) 11:44:11.04ID:mc/ELILf実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw
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