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戦国ちょっと悪い話27

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0001人間七七四年2011/07/12(火) 22:18:10.41ID:tSU9HVMm
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0002人間七七四年2011/07/13(水) 01:44:26.14ID:LV0lCEPE
>>1
0003人間七七四年2011/07/13(水) 07:55:34.75ID:cUHqLdLC
>>1乙!
おにぎりの毒味はすべてそれがしが済ませておきました!ゲフ
0004人間七七四年2011/07/13(水) 18:14:26.34ID:zXZRlqOA
『徹斎、諸国における試合の覚え』

 タイ捨流の開祖、丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)。晩年には徹斎と号し、齢九十の長寿を全うした剣士の生涯を記録した文書が、「徹斎於諸国仕合之覚」として今も熊本県球磨郡の丸目家に現存する。

 この文書。表題の通りに摂州の「仮名田熊左衛門」との仕合から、真剣勝負を望む「豊後の鎌仕の名人」を刀の棟で打ち倒すまでの戦歴が記載されている。
 
 中には、薩摩国菱刈郡大口の「快鏡」という大勢の弟子を抱える兵法仕(へいほうつかい)が、様々詫び言して仕合を免れた不戦勝の記録まで網羅されている。

 そんな中、十条目にさりげなく、このような文章が。

「摂津の国において、上泉伊勢守の弟子になる時。

上泉門下に諸侯から参じていた弟子、およそ六十数名。徹老(若き日の蔵人助)は一度に七〜八人ずつまとめて打ち伏せ、小休憩してからまた複数を同時に打ち伏せ、対には兄弟子が全て新参の徹老に指南される事となった」

 実際。足利義輝の御前で伊勢守の打太刀役を(新参にも関わらず)つとめているので、蔵人助が強かったのは事実でしょう。

 が、さりげなく「上泉伊勢守の弟子に成り居られ候時」と記述していますが、どうして弟子入りしたかはスルーしている事に疑問を抱くのは、勘繰りすぎでしょうか?
0005人間七七四年2011/07/13(水) 20:34:04.56ID:zXZRlqOA
『成功報酬?』

 島津家久(忠恒)の治世は、未だ乱世の余習、除かれず。

 これの故に、凶暴謀反の叛徒。頻る多し。とは、『東郷氏支族系図』にも掲載されている当時の薩摩。

 ……乱世の習いが消えていないのは誰かとか、凶暴なのは何方の事でしょうかとか、色々と突っ込みたい事は少なくないですが…。

 それはともかく。

 十九回とも十数回とも、義久ないし家久の命令で上意討ちを行い、一度も仕損じた事がない東郷重位。

 この日、新たな命令を賜る。

「橋口小藤太、これは我が家中でも凶暴の最たる者じゃ。頼むぞ、重位!」

「ははっ!」

 介添え役の鎌田左京政徳と共に、平伏する重位。

「此度は、特別にこれを授ける」

 家久が差し出したのは、則光の銘刀。

 普段、重位が何か事の後に拝領する副え刀(脇差)ではなく、大刀である。

「頼むぞ、重位。(……死ぬなよ!)」

 言葉には出さず、則光の刀で気持ちを表現する、珍しく「綺麗な」家久。

(続き)
0006人間七七四年2011/07/13(水) 20:42:22.78ID:zXZRlqOA
(続き)

 さて、当日。則光の銘刀を佩いた重位は……いつもと変わる事のない鮮やかさで、たちどころに小藤太を斃す。

「重畳至極。流石は重位じゃ!」

「いえいえ。これも、殿より賜りたる則光のお陰でごわす」

「おお、良く切れたであろう、則光は!」

「はい。この刀の鋭さは、比較できるものはごわさん(其刀の利、ならべ比する者無し)」

「……そんなに、凄かったのか」


『事を以て公に聞ゆ。因りて又、命じて之を還さしむ』

 一旦、上げた物を後になって(しかも、成功した報酬を)還せという、島津家久(忠恒)の悪い話。

 ……そんな事しなくても、重位も後代の東郷家の人々は拝領刀ばかりか自腹購入の銘刀をも、島津家の祝い事などで何度も献上しているのに。
0007人間七七四年2011/07/14(木) 00:45:36.47ID:qp517aZb
>>十九回とも十数回とも
そんなにやっているのか.
上意討ち始めましたって看板がかかっていて
「今年ももうそんな時期なんだね〜」みたいな光景が思い浮かぶ。
0008人間七七四年2011/07/14(木) 08:02:12.16ID:Et3T7gq7
それだけ殺ってるのに返りうちにあわず復讐もされず口封じされてないから凄い
東郷と目があっただけで勘違いして殺しに来る輩だっていそうなもんだし
0009人間七七四年2011/07/15(金) 06:26:04.77ID:pgxrf9e9
最上義光公霊屋の悪い話

山寺立石寺には最上義光の霊屋がある。
霊屋とは、死者の霊を祭る建物のことで葬儀の前にしばらく死体を安置しておく場所である。
お墓と同様に扱われる場合もある。

場所は中性院の手前辺りにある。気づかないで通り過ぎる方が多い。
説明板とかは何も無し。

数年前まではトタン屋根が増設され、ビール瓶やら雑貨が詰まれ、外は物置代わりにされていたらしい。
今は有志による市と寺への陳情で、トタン屋根や雑貨は撤去され、平穏な建物に戻っている。
仙台の瑞鳳殿と比べると扱い・知名度共に雲泥の差である。

山形市もこういう所を観光に活かせばいいのに。
0010人間七七四年2011/07/15(金) 09:16:10.63ID:oa8mKdz1
現代では「そもそも霊屋って何?」という人が大半だろうから観光資源になるかどうか…?
0011人間七七四年2011/07/15(金) 18:38:58.07ID:AYsxw/lD
>>10
ちがうちがう「そもそも霊屋ってなんて読むの?」だろ
0012人間七七四年2011/07/15(金) 20:20:11.26ID:movMjuWE
『東郷の本音』

 東郷重位。13歳にして短刀で狼藉者を刺殺し、六十歳を過ぎて「家中、凶暴の最たる者」橋口小藤太を屠る。

 背丈は鴨居に余る巨漢で、眼は小さいが光り鋭く、角顔。立腹すれが総身の毛が逆立つ常人ばなれした人物と記録される。

 但し、平素は温厚で沈着。誰に対しても礼儀正しく、稽古に訪れた幼少の門人と雖も、必ず玄関まで見送った。

 武芸以外にも、和歌は阿蘇玄与に師事。

 善吉和尚に出会わなければ、後藤一門に入門する予定だけあって金工・蒔絵にも通じ、自作の刀の鍔や蒔絵の椀も残している。

 戦場では初陣で敵の首級を挙げ、琉球出兵においては坊津の地頭として後方兵站の任に当たり、島津家や重臣達にも信頼され、内密の相談事も多かった。

 そんな人物が、生涯十数回の上意討ちについて語り残している。

「上意討ちの一事は、書き残さない。何故なら、自ら好んで為した事にはあらず」

 と、自分から暗殺役を買って出たのではないらしい。

「且つ、仰せを蒙るとも誉れならず。有り難くも無し」

 島津義久の命で上意討ちをした時、大騒ぎになると思い城内の櫓で見物していたのに、一瞬で終わり拍子抜けしたと言われる。

 その時、見せ場がなくて申し訳ござらんと、聴き様によっては反抗的な答えを返している。

「自分は是非なく為したる事にして、親類兄弟などにはどんな存念あるやも知り難し」

 義久や家久の主命なので、自分としては断る訳にも行かず、でも周囲や身内の事を考えると……。

 戦場での手柄話と違って、自慢する気にはなれなかったらしい。そんな、東郷の本音。
0013人間七七四年2011/07/16(土) 06:33:20.41ID:NxRUfE0U
悪い話かなぁ?
0014人間七七四年2011/07/16(土) 09:35:26.46ID:BzhqUx0y
まあそうやって「好きでやったワケじゃねえ」とか言えるのも東郷さんだからであって

鍋島勝茂の家臣、石井縫殿助の組下に石井与左衛門という侍がいた。この与左衛門が、裏で悪事を働いていた
という事実が発覚し、上司の縫殿助に勝茂から、上意討ちの命が下った。

縫殿助は、この件が与左衛門に漏れぬよう家族にも内緒にして、郎党の伊東彦右衛門ただ一人に打ち明け、
深夜になって二人だけで与左衛門邸へ向かった。
玄関先で家の主を呼び出すと、与左衛門は一人で松明を持ってやって来た。

「与左衛門よ、先日より問題となっているお主の行状の件、有罪になると聞き及んだ。申し開きする事など
あれば、今のうちに申せ。相談に乗ろう。」
「わざわざのお越し、かたじけない。酒など用意いたしましょう。どうぞ中へ。」

そう言って与左衛門が邸内に案内しようと振り返った瞬間、縫殿助が切りかかった。与左衛門もさる者で、
松明を取り落としつつも縫殿助の一撃を受け止め、切り合いになった。
伊東彦右衛門も抜刀して主人に加勢せんとしたが、落ちた松明からは火が消え失せており、暗闇の中で
彦右衛門は、あろう事か縫殿助の腰に切りつけてしまった。

「ぐわっ!お、オレだ、縫殿助だ!!」
自分の仕出かした事に気づいた彦右衛門は、すっかり動転して外に飛び出し、腹を切ってしまった。
傷つきながらも縫殿助は奮戦し、ついに与左衛門を倒して首をかき切ったが、そこで力尽き命を落とした。

葉隠より、達人ならぬ身による上意討ちの話。
さすがに哀れに思ったか、勝茂の命で縫殿助の跡目を養子が継ぐ事になったようですが…
0015人間七七四年2011/07/16(土) 09:51:24.57ID:YiRCj5pu
動転して腹切るってのもすげぇ話だな
というかせめて終わってから切れよw
0016人間七七四年2011/07/16(土) 11:11:41.44ID:aE4MNz35
やっぱ討ち取るにゃだまし討ちが確実よね
0017人間七七四年2011/07/16(土) 16:10:24.68ID:WwRZUzBC
>>5,6
体言止めが多すぎるし、句読点がめちゃくちゃだし、
どれが誰のセリフかわからんし、すげー読みにくい。

小学生からやり直せ。
0018人間七七四年2011/07/16(土) 18:32:44.75ID:GVprF+th
登場人物二人しかいないのに誰の台詞か分からないお前の方がどう見ても問題。
0019人間七七四年2011/07/16(土) 19:27:49.42ID:N/5tXDqe
こう蒸し暑い夜をスカッと爽やかに過ごせる悪い話は無いかね
0020人間七七四年2011/07/16(土) 19:36:43.41ID:f/wwxMmH
>>19
そういう時はやっぱり直家さんだな

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1764.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-640.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-430.html

直家さんの暗殺謀殺話は酷いというよりもはや感心する域に達しているのがすごいw
0021人間七七四年2011/07/16(土) 20:50:00.92ID:UuZl0C3E
ああ解る解る、なんかもう暗殺芸術的な何かになってるよな
どこかの探偵物のライバルみたいな人だわ
0022人間七七四年2011/07/16(土) 20:50:43.08ID:TzUyqRWo
でもなんか直家さんの場合はスカっとするのとはまた違うような……
0023人間七七四年2011/07/16(土) 21:34:24.37ID:d2nX3xIn
流石直家さんだ、そこに痺れるry 的な感覚を覚えるのは否定しないw
0024人間七七四年2011/07/16(土) 21:52:41.32ID:Q4gjw6EX
>>22
なーに、スカッと首を獲ってるじゃないか
0025人間七七四年2011/07/17(日) 11:06:25.63ID:WbTfnz/u
直家さんそのまま放浪して尾張で仕官していたら…

才能年齢的に秀吉抜いて中国軍団長とかになってたろうか?
配下に 秀吉 如水を抱える

0026人間七七四年2011/07/17(日) 11:52:16.37ID:Lwujg6ar
秀吉が誑し込んで直家が毒殺する……
恐ろしいコンボだ、回避できる気がしない
0027人間七七四年2011/07/17(日) 11:56:57.33ID:J2P+idiO
でも、信長さんに突如さよなら〜されそうな気もする・・・
0028人間七七四年2011/07/17(日) 12:48:47.51ID:12+4XvrS
久秀「うむ、やつは信用できん」
村重「ですね」
0029人間七七四年2011/07/17(日) 13:11:24.92ID:1J2aF1RY
松永も直家も未来では新たな資料が見つかって評価が変わってるかもしれん
0030人間七七四年2011/07/17(日) 14:06:33.37ID:12+4XvrS
直家は特にソースのほとんどが軍記物だからね
0031人間七七四年2011/07/17(日) 15:28:47.21ID:dL1UR5g1
では暑い夏を涼しくする爽やかなお話を。名将言行録ソースながら、細川忠興公の名言

『家来どもには二度まで教え申候。三度目には切り申候』

三斎様による堂々の3アウトチェンジ(家来の人生が)宣言である。
0032人間七七四年2011/07/17(日) 15:30:08.78ID:ds58LzQG
(家臣の肝が)冷える話
0033人間七七四年2011/07/17(日) 15:31:55.15ID:olYbGGqf
そういえば可哀相がられているガラシャさんも
「気の利かない下人は斬られても当然」くらいなこと
言ったか書いてたかしていたような
0034人間七七四年2011/07/17(日) 15:59:26.15ID:tksZpkAb
切るって殺すってこと?
解雇するとか、見限るとかいう意味でなく?
0035人間七七四年2011/07/17(日) 16:49:16.82ID:KgUt+02A
killだろ
0036人間七七四年2011/07/17(日) 19:51:31.44ID:TfY3F8AJ
怖いのう
0037人間七七四年2011/07/17(日) 21:35:33.13ID:Hft/qoTe
備前金川城主・松田左近元堅は、領内に日蓮宗を強制して領民に疎まれていたが、家臣に恵まれており、
敵にも薬を配る仁将・横井土佐守や、知謀をもって知られる宇垣市郎兵衛・与右衛門兄弟などが家中を固め
その勢力、磐石であった。

永禄11年(1568)のある日、元堅が長男の舅、宇喜多直家とともに鹿狩りに出た時、事件は起こった。
何者かが鹿と誤って(?)宇垣与右衛門を狙撃してしまい、与右衛門が即日死亡してしまったのだ。
松田家は、大いに揺れた。

「与右衛門の死は、宇喜多の手の者の仕業に相違ない!」
「何を言うか、若殿のお舅どのを疑うのか!」

家中は揺れ続け、納得の行かない与右衛門の兄・市郎兵衛は松田家を出奔してしまい、事態収拾を図って
元堅が領内を説得のため渡り歩く日々が続いた。

そして、7月5日の夜。「…?!城内に火の手が上がっておるではないか!何事だ、出あえーぃ!!」
横井土佐が驚くのも無理は無い。近隣の領主・伊賀久隆の兵が城内からの手引きにより、
堂々と大手門より侵入していたのだ。横井が気づいた時には、すでに先鋒が本丸に迫っていた。

その日も城外にいた元堅は知らせを受けて、あわてて搦手門から城内に入り、伊賀久隆その人の姿を
認めると、櫓の上から身を乗り出して罵った。

「久隆よ、そなたも直家殿の婿。縁戚たるわしに何をする?!卑怯者め、何を考えての狼藉だ!!」
「答える必要は無い。やれ。」

櫓から身を乗り出していた元堅は絶好の的となり、伊賀勢の鉄砲隊によって射殺された。
残された横井土佐以下の家臣は全員討ち死に、何とか城外に逃れた元堅の長男・元賢も伊賀勢の追っ手に
阻まれて斬り死にし、その一報を聞いた妻である直家の娘は、自害したという。(備前軍記より)


まぁスカッとするかはわからんけど、何回も話題になってる話のハズなのに、逸話そのものは
まとめに上がってなかったようなので。

ちなみに直家さんに「キミと同じ、オレのムコ殿を滅ぼしたいんだけど、どう思う?」と聞かれて
「あー、イイんじゃないスか。オレ手伝いましょうか?」と即答して先鋒までやってしまった
伊賀久隆がその後どうなったか、言うまでもない。 >>20
0038人間七七四年2011/07/17(日) 23:23:42.06ID:q41uQ2uQ
悪名がまさに悪い方へ響いた話、かなぁ
穿った見方をすれば直家さん大勝利!だけど
0039人間七七四年2011/07/18(月) 01:23:33.27ID:a9bWFGIg
ガラシヤ夫人にも、膳に髪の毛を混入させた料理人を庇った逸話が。

で、奥方が他の男の髪の毛を袖に隠すのを目撃した旦那は、料理人の「おかしら」を食膳に…。
0040人間七七四年2011/07/18(月) 02:35:56.46ID:0JQCOz0C
来年大河の平家から


清盛に歌や才覚を愛された仏教を信心した仏御前という見目美しい白拍子の少女がいました
清盛に寵愛されましたが
都の栄華に嫌気が差し郷里い戻りました。

20才であまりに美しく。里の男達からいつもチヤホヤされてた仏御前。
嫉妬に狂った里の妻や女達は、寝静まった真夜中に仏御前を集団で虐殺しました
0041人間七七四年2011/07/18(月) 02:40:51.02ID:xLwokWz1
書く場所間違ってるよ
0042人間七七四年2011/07/18(月) 05:04:05.51ID:2/+Us52I
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

こっちかね?少なくとも戦国時代じゃないから、ここじゃないのは間違いないが。
0043人間七七四年2011/07/18(月) 16:08:23.97ID:TMknKUek
室町時代でもないしね
0044人間七七四年2011/07/18(月) 17:27:41.38ID:dCrgbTfm
永禄8年(1565)5月19日、松永久秀と三好三人衆が二条御所の足利義輝を強襲した。所領の勝竜寺城にいた
将軍奉公衆の細川藤孝は、異変を聞くが早いか京洛に駆けつけたが、御所は既に焼け落ちていた。

そこで藤孝は一色義直らと相談の上、奈良へ向かい義輝の弟である興福寺一乗院門跡の覚慶をかつぎ出し、
伊賀・近江・越前と転々としつつ、諸大名を頼った。


京の別邸に、長男の熊千代を置き去りにして。


同族の細川輝経へ養子に出る話が持ち上がっていた熊千代は、家臣団からも置き去りにされた。
唯一、乳母のみが、夫が藤孝のもとへ去った後も残ってくれており、いよいよ危なくなると、身の証に
藤孝が熊千代に授けたお守りと脇差のみを持ち、熊千代と末娘を連れて逃げ出した。

乳母には三人の娘がいたが、長女と次女は置き捨てた。

田町という所の裏長屋に落ち着いた熊千代は、宗八と名を変えて潜伏生活を送った。
ようやく3年後の永禄11年、織田信長という後援者を得て覚慶改め足利義昭を奉じて上洛した父は
流浪中に母を呼び寄せており、頓五郎なる見知らぬ弟を連れていた。(細川家記より)


父母に見捨てられ、昨日まで一緒に遊んだ娘たちの犠牲のもとに逃げ延び、三好・松永の追っ手に
おびえて暮らした少年が何を思って過ごしたか、熊千代改め細川忠興は語っていない。

勝竜寺城主に復帰した藤孝は、乳母に一代限り百石、乳母の夫の中村新助にも百五十石を給したが、
所領が数十倍になった熊本藩の侍分限帳において、中村家は二百石。五十石の加増があったのみである。

ちなみに、同じ熊本藩侍分限帳に記載された侍のうち、藤孝の若い頃から仕えている事を示す
『勝竜寺以来』の家は、わずか10人にすぎない。
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