信長領国離反録

近年ゲーム脳たちによって現実と乖離しまくりな信長像がぶちあげられ、
しかしそれが史実によって悉く間違いだという事が周知になりつつある昨今であるが
信長厨たちの次なるトレンドは「信長はろくに部下に離反や反乱された事が無い」というものであるらしい
「秀吉のせい」とかいうものもいたのには驚愕したものである
さて、彼らの信仰とは別に史実における信長領国の離反・反乱はどんなものだったのか?
資料をもとにしてその実態に迫ってみよう

1552年 織田信秀死亡 信長は家督を継承する 
その生涯にわたって繰り広げられる離反録の始まりであった

そのあまりの素行の悪さに守役平手が絶望し、「守り立てる甲斐なし」といって自害した
守役にすら見放される絶望的な素行であった

清洲の坂井大膳、信長の城を攻撃し、敵対の意思を表す

1553年 鳴海城主山口左馬助・九郎三郎親子は信秀に目をかけられていたが、
信長からあっさり離反する

深田の織田右衛門尉、信長を見限って清洲につく

1553年末、尾張寺元城が信長から離反

1554年正月、村井攻めにおける軍議でいさかいが起こり、宿老の林佐渡・美作兄弟が離反