次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 5
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001人間七七四年
2011/07/03(日) 17:54:02.54ID:fcz44HVi長篠鉄砲三千挺はない
桶狭間は奇襲ではない
武功夜話は偽書
徳川御用史観は嘘だらけ
>>2-5の辺りに関連スレなどのテンプレ
●過去ログ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1109562623/
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1222456299/
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1286968038/
0896人間七七四年
2012/06/16(土) 00:35:14.34ID:MWup8n5Y唐入りはオールスターどころか
九州の中堅大名達+小早川&宇喜多くらいしか実際の戦いには参戦してないぞ。
0897人間七七四年
2012/06/16(土) 01:20:24.31ID:S483dnlU関が原で東軍7万、西軍8万
朝鮮の役で16万
大坂冬の陣で徳川20万、豊臣10万
といったところだろう
0898人間七七四年
2012/06/16(土) 01:32:44.27ID:S483dnlUよくマーストンムーアで双方合わせ4万人動員できたなと感心するわ。
こいつらのNew Armyは大砲がある上、ピストル騎兵とパイク兵は日本の備の騎馬組、長柄組を上回るだろう。
マスケット銃は正直微妙すぎるが・・・
0899人間七七四年
2012/06/16(土) 01:50:01.82ID:MWup8n5Y源平の合戦(大きい戦いで双方5〜6万程度)とか
弘安の役の幕府軍(九州軍4万、長門軍2万、幕府本隊6万の合計12万)とか
筑後川の戦い(南朝方4万、北朝方6万)とか
応仁の乱(細川方16万、山名方11万)とかは当時の人口から考えて割と妥当な数字だと思う。
0900人間七七四年
2012/06/16(土) 02:06:22.46ID:MWup8n5Y日本も幕末の戊辰戦争なんかは戦国時代の規模が嘘みたいに兵数少ないよね。
西南戦争はそれなりに多いけど。
0901人間七七四年
2012/06/16(土) 05:26:34.01ID:gpEec/Wiピストル騎兵はまずドイツとスペインで普及して仏にも広がったけど
英軍の普及はもっと後だよ、艦船は大陸諸国と違い戦闘専用の最新鋭の大型船を建造し
大砲も破壊力は弱いが長射程の軽量砲が主体で海戦に最適化されてるけど
陸上戦力は微妙の一言、空き巣狙いで沿岸部を略奪した時も少数の相手に結構負けてる。
0902人間七七四年
2012/06/16(土) 06:40:43.82ID:MEQFHb/Lそりゃ兵器弾薬の数による。
あの当時すでに新鋭の武器を持っていないものは兵隊として役に立たなかった。
銃弾の的をたくさん集めてもしょうがあるまい
0903人間七七四年
2012/06/16(土) 09:34:10.35ID:9w9fswZRそして役に立たなかったからそれ以降は極端に言えば洋式ライフルの数+抜刀隊だけが
まともな戦力として数えられるようになったからな
0904人間七七四年
2012/06/16(土) 11:42:21.98ID:9HV4NDsB結局、あなたが言う一次史料って何だったんだ?
公文書以外に正確な数字がわかるものってよく分からないんだが。
イングランド側の公文書か何か?
0905人間七七四年
2012/06/16(土) 11:56:30.74ID:9HV4NDsBイングランドでは、1588年の時点で騎兵の15%がピストル騎兵だよ。それ以外の騎兵にもピストルを装備したものが結構いる。
0906人間七七四年
2012/06/16(土) 12:56:52.13ID:OGl9BuAi【同時代】欧州、オスマン、中国、日本の兵たち【比較】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1288455624/l50
いや個人的には興味深いんだが、さすがに残り100を切った状態で
スレ違いのことが続くのはちょっとね。鈴木さん藤本さんも怒ってるよ。
0907人間七七四年
2012/06/16(土) 13:40:06.62ID:MWup8n5Y鈴木真哉じゃなくて鈴木眞哉だよね。
0908人間七七四年
2012/06/16(土) 13:46:48.95ID:wUGsP73Sまあ頻繁にID変わってる時点で怪しかったけどさ。
>>906
まあ、比較したら日本の武士のあまりのしょぼさに泣けてくるよな。
どう見ても16世紀末期の日本は戦術でも装備の質でもヨーロッパより100年くらい遅れてる。
まあ、それ以前は300年くらい(鎌倉末期〜室町時代で11〜12世紀のヨーロッパレベル)遅れてたから
少しはましになったが。
0909人間七七四年
2012/06/16(土) 14:05:51.56ID:9HV4NDsB何日か前から煽ってる奴だと思うが、お前に>>864を罵る資格はない。
自分自身は史料も出さず、人の書き込みに便乗してるだけのお前には。
>>864は若干挑発的な書き方だったが、内容は結構正しいことも多い。
多分、史料の読み方が少し違ったんだろう。
どっちにしろ、ちゃんと数字を出してきただけ議論できる。
お前は、ひとつでも史料や数字が出せたのか?
>>906
申し訳ないね。
0910人間七七四年
2012/06/16(土) 14:16:31.10ID:MWup8n5Y0911人間七七四年
2012/06/16(土) 15:36:57.94ID:gpEec/Wi一気呵成に勝敗を決する日本勢の戦術は
だらだらと砲撃による睨み合いと小競合いを繰り返していた西欧諸王国の2世紀以上先を
5人10人、20〜30人の小部隊を基礎として自在に運用出来た諸大名の軍編成は
区切りが大きく硬直した隊列を保持し展開するにも1日掛けるのが日常的で
下士官と士官の数が少なかった西欧諸王国の半世紀くらい先を
装備も、工夫された火縄銃を量産し支給防具や武具を量産していた日本が少し上だよ。
>>905
スペイン軍は16世紀末には大半の騎兵がピストル装備だから
それに比べると普及は遅れてる、まあ馬上ピストル自体が結構微妙だけど。
0912人間七七四年
2012/06/16(土) 15:47:11.41ID:9w9fswZRまぁ射程が違うから落ち着いて対応されればどうしようもないんだけど。
0913人間七七四年
2012/06/16(土) 17:11:57.36ID:9g2W8RxO0914人間七七四年
2012/06/16(土) 17:15:06.91ID:9HV4NDsB許してね。
次のスレでは書き込みません。
>>911
>5人10人、20〜30人の小部隊を基礎として自在に運用出来た諸大名の軍編成
正直、戦国時代の軍編成はまだまだ研究段階だからそんなことは言えないと思うが?
あと、
>下士官と士官の数が少なかった西欧諸王国の半世紀くらい先を
何をもって多い少ないとするのかわからない。
戦国時代の軍隊の士官比率って何%と考えてるんだ?
1575年の上杉家軍役張から見ると、騎馬を全て士官と考えれば10.3%。
対して1571年のフランドル軍の4つのスペイン人テルシオの士官比率は6%。
騎馬兵をすべて士官とみなしてこれだから、実際どっちが多かったかなんて言えないと思うが?
因みに、1596年のフランス侵攻時は11%に達してる。こんなに多くてどうするんだろう。
>>912
ピストル騎兵のピストルは飛び道具ってより、ランスの代わりだからね。
10mも有効射程があれば十分だよ。重騎兵のランスやパイク兵をアウトレンジ出来て威力も高い。
逆に歩兵の銃兵の射撃や軽快な騎兵の抜刀突撃には不利だから、こちらが主体になると廃れていった。
0915人間七七四年
2012/06/16(土) 17:19:14.97ID:MWup8n5Yアンリさんの頃からサーベルでの騎兵突撃が復活して
それがグスタフさんの三瓶戦術に繋がっていくんじゃなかった?
0917人間七七四年
2012/06/16(土) 17:29:42.62ID:UJe5Hj+n対重装騎兵◎(速度勝ち、コスト安い、射程勝ちで完勝できる)
対マスケット×(射撃兵科としては無意味)
結果重装騎兵とともにパイクが要らない子になった
0918人間七七四年
2012/06/16(土) 17:37:54.20ID:9HV4NDsB計算し直したら10.8%だった。
>>915
ピストル騎兵は重騎兵やパイク兵には有効だったけど、騎兵本来の突撃力を失ってしまったんだね。
だから、重騎兵を駆逐した時点でカラコールは不要だったんだろうけど、中々変えられなかったんだろう。
16世紀末の各国軍の銃装備率は35%から45%に達していて、17世紀初めにはパイク兵との比率を逆転する部隊も出てきてる。
こうなってくると益々、ピストル騎兵の出番は無くなるんだけど暫く続いたやり方を変えるというのは中々難しいんだろう。
このへんの話は、火器の誕生とヨーロッパの戦争って本に書かれてなかった?ちなみにこの本Amazonで今買おうとするとえらい高いな
0919人間七七四年
2012/06/16(土) 19:52:34.29ID:bHaUrnqH軍末端での下士官は、永禄年間の北条家の編成が14人当たり1騎
16世紀末のスペイン軍の編成が、火器兵槍兵共に24人に1人の下士官で
時代の遅い16世紀末で比較しても、日本と比べ下士官の割合が少ない。
その頃の西・仏軍の主力は火器装備率4割5割になるけど
一時雇用の雑兵も依然多く均すと3割強程度。
>>916
孫子曰く軍を囲むには空きを残せって言うじゃん、言質も取れたし浜松城は囲まなくてもw
0920人間七七四年
2012/06/16(土) 20:02:29.29ID:MWup8n5Yあんたら二人の意見の食い違いは一体どこから生まれたのかな〜って。
見たところ読んでる史料は同じっぽい感じだし。
0921人間七七四年
2012/06/16(土) 20:12:29.16ID:MWup8n5Y銃騎兵なんかは三木城攻防戦の一例や伊達さんのアレを除くと
あまり一般的ではなかったみたいだが。
0922人間七七四年
2012/06/16(土) 20:50:13.61ID:9HV4NDsB>16世紀末のスペイン軍の編成が、火器兵槍兵共に24人に1人の下士官で
12個中隊編成のテルシオの場合、士官定数は159/3000で5.2%、10個中隊編成のテルシオの場合、137/3000で4.7%。
ところが、これは定数上の数字で実際はもっと多かったようだ。
上でも書いたとおり、1596年のフランス遠征でのテルシオは4,910人中530人が士官だった。
これは、10.8%に達するし、1601年のフランドル方面軍のあるテルシオでも10.8%。
1622年のテルシオオブロンバルディアでは12.6%。
>その頃の西・仏軍の主力は火器装備率4割5割になるけど 一時雇用の雑兵も依然多く均すと3割強程度。
フランス軍の編成は手元にないからすぐにはわからないが、スペイン軍は定数上で46.6%、実数はこれ以上。
比較的陸軍の軍備が遅れていたイングランドでも>>860で書いたとおり、33,444/79,798でおよそ42%。
>孫子曰く軍を囲むには空きを残せって言うじゃん、言質も取れたし浜松城は囲まなくてもw
それは、ちゃんと勝ってる側が言うこと。
逃げ回っているうちは、ただの敗走だぞ。そちらが一次史料を出せば対等になる。
出せてない時点で、脱糞して敗走した家康と同じ状態だぞ。
まぁお互い煽っても何も生まれないし、せっかく興味を持ってくれてる人もいるからスレが終わる前に
一次史料の名前を出してくれ。
0923人間七七四年
2012/06/16(土) 21:06:42.76ID:9HV4NDsBせっかくこういったことに興味を持ってるなら少しでも新しい知識が欲しくなるものじゃないか?
あんたがもし面白い史料を持ってるなら興味あるし、調べてみたい。
スペインの公文書は、量が膨大だから読めばいろいろ出てきて面白いぞ。
同時期のイングランド側の公文書と比較すると、お互いどういった情報をどう分析してたのかといったこともわかるだろう。俺はまだ、そこまで調べてはいないが。
それにこんだけスレ違いなネタを続けて、正直迷惑してる人もいるだろう。
それでも、この話題に多少なり興味を持ってくれている人が居るみたいだから
せめてどういった資料を見ているのか教えてあげるのが礼儀じゃないか?
0924人間七七四年
2012/06/16(土) 21:23:34.62ID:9HV4NDsB正直、戦国日本で装備まで分かっている詳しい兵数がのった史料がほとんど無いから
一般的な装備率を出すのは難しいと思う。
比較的、史料が残ってる北条家でも何人かの武将の着到状から推測に留まっている。
上杉家軍役張は、1575年時点での全軍が載っているという意味でよくまとまっているけど弓がいないなど謎が残る。
あと、一体どこから出てきたのかわからないが歴史群像の大阪の陣190頁に
夏の陣の伊達勢の兵数が載っていて、それによると騎馬628、鉄砲3,420、槍1,360、弓100とある。
もしこれが本当なら、少なくとも伊達勢の戦闘員に対する鉄砲比率は60%を超えてるね。
0925人間七七四年
2012/06/16(土) 21:53:57.24ID:bHaUrnqHあーあ、大人しくしてればこれ以上突っ込まないでやろうと思ったのにw
>>894-895に関して、何度も言った通り英語訳か日本語訳された物や
スペインで公文書集として出された本ならその書籍名を
素の書簡集なら元のままの表記を書いてくれと言ってるよね
16世紀後半に限ったって公文書集はいくつも出されてるのだから。
あとフェリペ2世関係の公文書集はマドリーとサラマンカの所蔵の物が多い
シマンカスはフェリペ2世と関係薄いから公文書集出すほど所蔵が無く
フェリペ2世やパルマ公関連でシマンカスに所蔵されてる公文書集が出される事は無い。
ちなみに俺「も」公文書集は持ってないからそこは安心していいよw
0926人間七七四年
2012/06/16(土) 22:09:38.52ID:bHaUrnqHフェリペ2世時代後半の歩兵の基本編成は火器兵8(192):槍兵9(216)
雑兵の割合は金と戦況の見通し次第だけど大体全軍の1/3。
給与面での待遇上の下士官扱いと実際の役割は別
脱走や損失や補充不足で下士官の割合が上がることはあっても
スペイン軍の歩兵部隊の制度は24人毎に1人の下士官を置くもの
その上の下士官も含めると割合は上がるが、それは戦国大名の軍隊も同じ。
0927人間七七四年
2012/06/16(土) 22:16:59.46ID:9HV4NDsBBritish History Online にシマンカスの全文があるよ。
見てご覧。
そこの、1587-1603の1588年4月29日のものを見たらフランドル方面軍の総数が載ってるよ。
ちなみにこれはパルマ公が一ヶ月にフランドル方面軍にいくらの資金が生じているか報告したものね。
他にもいろいろあるので興味があるなら見てみることをおすすめする。
二次資料というか、16世紀のスペイン関連の本でもシマンカスの文章は引用されてるよ。
正直、出どころのわからない数字も結構あって一次史料を見つけるのはかなり困難だから
シマンカスの公文書を見つけたときは嬉しかった。
あなたは一体何を見ていたわけ。別に公文書集じゃなくてもいいので知りたいんだが。
0928人間七七四年
2012/06/16(土) 22:18:42.85ID:MWup8n5Yその話は知ってる。
多分、島津家文書とかも島津義弘とかの編成が載ってると思うんだが
あれは実物読むのは結構面倒な手続きいるっぽい。
>>925
その手の記録は英訳版とか結構気軽にネットのデータベースで見れなかった?
俺は英語苦手だからパスするけどw
0929人間七七四年
2012/06/16(土) 22:54:19.39ID:9HV4NDsBincluding infantry, cavalry, mercenaries of all nations, artillery, navy, stores, &c. ;
together with a Statement of the Strength of the Forces at the last muster of 29th April 1588 :―
Spanish Infantry.
Crowns.
8,718 men in 89 standards62,239
Italian Infantry.
5,339 men in 59 standards35,225
Burgundian, Irish, and Scotch Infantry. (fn. 4)
3,278 men in 29 standards20,591
Walloon Infantry.
17,825 men in 144 standards79,341
High German Infantry.
11,309 men in 50 standards86,691
Low German Infantry.
8,616 men in 34 standards51,195
Light Horse (Italian and Spanish).
3,650 men in 41 standards38,631
Castles.
Antwerp 600 men, Ghent 350 men, Charlemont 230 men = 1,180 men
Statement from the Duke of Parma to the King, showing the Cost of Maintenance for a month of the Army in Flanders,
適当にコピーしたので見にくいかもしれないけど許して。
0931人間七七四年
2012/06/16(土) 23:05:11.70ID:9w9fswZR大坂の陣、関ヶ原、豊臣諸役、北条武田軍役と逆算していけばその姿は明確になっていくだろう
ただし戦史の地位が低い(と言うか学問じゃないらしい)日本じゃ
まともにやってる学者ので文献には頼れない
ちょっとづつ調べてはいるがなかなかはかどらないな
0935人間七七四年
2012/06/17(日) 00:19:14.48ID:nU8Lpmv9>>931
個人的には尼子経久とか北条早雲が活躍してた
15世紀後半〜16世紀初めの編成についても色々知りたいな。
更に言えば南北朝〜応仁の乱もだけど流石にスレチか。
0936人間七七四年
2012/06/17(日) 01:11:03.64ID:6OAS1qAQおーいいね、ありがとう
>16世紀のスペイン関連の本でもシマンカスの文章は引用されてるよ。
いや、あまり引用されないよ。
まずシマンカスの文章というのが意味不明、シマンカスは文書を所蔵している文書館の名前。
そして王室に関係する書簡や文書は主にマドリーやサラマンカの図書館・文書館所蔵で
スペイン王国本の参考史料にはそれらの出した公文書集が多く引用される。
低地諸国に展開する軍の情報が精緻な割に、前後や周辺の情報を知らないのは
てっきり戦史関係の書籍に局部的に詳しいい情報が乗っていて
それを論拠にしてると思っていたけど、これは勘違い。ただまあ、結論は同じで
何度も云う様に、そこにワロン人と書かれてるフランダース人の兵18000は低地諸国戦線における
対新教のみの条件、ドイツ兵も雑兵。
一番のネタ本は「スペイン黄金の世紀の虚実2 」「ブローデル歴史集成1」
0937人間七七四年
2012/06/17(日) 01:48:38.22ID:6OAS1qAQ全軍が低地諸国に出張った鎮圧軍から英遠征へ転用する予定だった27000人と
リスボンから出航した英遠征軍31000、低地諸国、フランダース、本土、伊半島に残した
守備隊4000人、8000人、8000人、6000人に含まれる、これは上の2冊からの数字。
低地諸国の軍が41000から32000へ減っているのは
遠征の前後に略奪三昧で評判の悪いイタリア兵を伊半島へ戻し留守番にした事と
パルマ公が英軍との講和によって一時雇用のドイツ人雑兵を整理した結果。
結局>>927の勘定だと平時の常備軍と英遠征・反乱鎮圧部隊のうちの常時雇用分が重複。
0938人間七七四年
2012/06/17(日) 01:57:32.04ID:TVTFi9yI0939人間七七四年
2012/06/17(日) 02:05:12.68ID:Sz2cOiQZ薀蓄のある人に好きに使ってもろーとけ
0940人間七七四年
2012/06/17(日) 02:08:44.87ID:TVTFi9yI0941人間七七四年
2012/06/17(日) 02:13:04.02ID:6OAS1qAQ自重します。
0942人間七七四年
2012/06/17(日) 02:45:19.96ID:nU8Lpmv90943人間七七四年
2012/06/17(日) 09:43:10.40ID:I7L15ooP>>931
それすごく興味深そうなテーマだな。そういう本読みたいわ
0944人間七七四年
2012/06/17(日) 10:37:32.11ID:7qcK1aKE>>936、937
色々言いたいことはあるけど、取り敢えずここでお開きでw
こちらの資料は上記のBritish History Onlineの他は、
The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567 1659
The Grand Strategy of Philip II
ospray seriesのいくつか
1588年のスペイン軍はテルシオサイトのこの一文からとった
In 1588, an exceptional year when the monarchy was using all his resources for the english invasion, the Spanish had 4 Spanish Tercio in Flanders (8720 men), 3 Spanish Tercios in Italy (7000 men),
5 Spanish Tercios with 32 independent companies in the Armada (18 000 men), some 29000 men in independent companies to garrison Spain, Portugal and the North African presidios (garrisons),
at last with have some 8 000 men with the Armada of America and 5 000 men in Asia, well in total we find some 134 000 men of which 76 000 are probably Spanish or Portuguese.
スレ住民には本当にご迷惑おかけしました。
0945人間七七四年
2012/06/17(日) 21:02:40.00ID:sjdGvl46ここまで無駄にスレ消費するとはね。
0946人間七七四年
2012/06/18(月) 00:13:54.45ID:R8nhKEDMみんな戦国以外にかじった分野ってある?
俺は古代カルタゴとモンゴル帝国、ナポレオン戦争はかなり執心したな。
0947人間七七四年
2012/06/18(月) 00:56:18.82ID:CbfFk/kX自重しろ。
0948人間七七四年
2012/06/23(土) 20:11:08.24ID:YTQPZzWv0949人間七七四年
2012/06/23(土) 20:40:41.23ID:ngUm5mEl0950人間七七四年
2012/06/23(土) 21:50:05.72ID:Xbf9xxB9http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1309683242/
鈴木眞哉史観を疑う 参太刀目
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1288138555/
合流しようかと思ったらあっちも次スレの時期だった
0951人間七七四年
2012/06/23(土) 23:48:36.89ID:YTQPZzWvじゃあバイバイだな。なんかスレ違いの話題も多かったし。
>>950
合流ってことでいいんじゃない?藤本氏の話題も大分少なくなってたから。
0952人間七七四年
2012/06/24(日) 07:52:30.84ID:i74paTz00953人間七七四年
2012/06/24(日) 07:57:15.36ID:iqNQHlhIくらいのド直球なスレタイならどんどんお客さん来そうだけど、
煽るのが楽しいだけでレベルの低いスレになりそうだな。
0954人間七七四年
2012/06/24(日) 22:03:08.24ID:FoLBkLQj>>953
それだと一時的に人は来てもすぐ廃れそうだな。
0955人間七七四年
2012/06/24(日) 22:29:10.03ID:5jf7RkM+0956人間七七四年
2012/06/25(月) 02:07:09.67ID:iqWMEKIk次々と珍説・妄言を垂れ流す鈴木眞哉について
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1340557514/
0957人間七七四年
2012/06/25(月) 21:03:47.89ID:idaFkuId0958人間七七四年
2012/06/30(土) 12:25:10.04ID:febJPb1g0959人間七七四年
2012/06/30(土) 21:47:07.53ID:Nn8Wh2Dfhttp://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1341014191/
339 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/06/30(土) 11:04:56.78 ID:M0Zfq0ib0
槍と刀剣では槍のほうが圧倒的に有利
東西問わず槍の種類が豊富なのはまあそういう事
安いし手入れもほとんどいらないし軽いし速いし力も強い
刀剣では馬上の敵に致命傷すら与えられないからな
また元寇の時に日本刀は蛮刀(青竜刀)に文字通り太刀打ちできなかった
大陸の刀は打撃武器だから重い
その重さに勝てなかった
斧と剣でやったら斧のが勝つだろう
棍棒と剣でも棍棒のが勝つだろう
素人同士が剣と短剣で戦っても短剣が有利だろうな
刀剣が有利な相手は素手くらいのもの
410 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/06/30(土) 11:49:54.22 ID:M0Zfq0ib0
>>401
検死だよ
関が原が終わったあとで転がってる遺体を医師が調べたんだよ
有名だろ
刀傷は一太刀二太刀だよ
全遺体中でだ
0960人間七七四年
2012/06/30(土) 22:49:36.11ID:bGUHSJwM0961人間七七四年
2012/07/14(土) 19:37:54.98ID:erags2jT0962人間七七四年
2012/07/15(日) 00:22:26.53ID:5LFHeYzS0963人間七七四年
2012/07/15(日) 11:41:24.68ID:uowk1SXf0964人間七七四年
2012/07/23(月) 22:01:52.53ID:OwxbdqXhという説は、もう絶滅したかと思っていたら、
数日前のバラエティー番組でもろに再現フィルムでやってた。夜7時からの
有名?番組。タイムスリップして、武将が記者会見を開いたりする番組。
バラエティーだから、それでべつにいいけど。
0965人間七七四年
2012/07/23(月) 22:56:20.67ID:26EptZ1w信長記がアレなせいでわかりにくくなっているよなぁ。
桶狭間が起きたのは1560年で信長はすでに尾張を統一して上洛し
将軍に謁見している尾張の国主なのに、なぜか信長公記では1552年と書かれていて、
その時の信長の勢力に合わせた兵力を持つように描写されているし。
んで、信長記ではそんだけ兵力少なければ、当然奇襲だったでしょって感じで
書かれていて…
0966人間七七四年
2012/07/24(火) 07:36:42.58ID:UI0Zkepp桶狭間も文献史学の手法みたいなのに
耐えられるとは思わないけど、なぜかどえりゃぁ
細かくみんな検証してるわなぁ。
0967人間七七四年
2012/07/24(火) 14:47:05.57ID:GfaPs2Sj勝ったとかあるわ。奇襲説はかなり流布してたんじゃない?
0968人間七七四年
2012/07/24(火) 17:19:08.42ID:06HEpbvc斉藤を無視して全軍を今川に回せる根拠を教えてくれよw
0969人間七七四年
2012/07/25(水) 07:01:49.69ID:bCFleot2首巻は、あとになってから、信長が若い頃の話のメモをまとめ書きした形式だろ。
つづり間違えちゃったんだよ。時間列が狂っちゃった。だから、
「信長公記」が桶狭間の合戦年を「天文21年」(1552年)と「記述を誤っている」ことに対して、
単に「永禄3年(1560年)の誤り。後世の加筆であろう。」
ということにされてしまってる。
0970人間七七四年
2012/07/26(木) 00:37:49.95ID:fm1Qo0Ezそりゃ、信長記では奇襲って描写されているんだから、江戸時代初期には奇襲説は広く
流布されていたでそ。
>>968
斉藤への抑えの兵を残しておいたとしても、それでも信長公記に書かれている動員兵力
では少なすぎるわけだが。
0971人間七七四年
2012/07/26(木) 00:42:29.42ID:7uT4Rbk/0972人間七七四年
2012/07/28(土) 11:29:46.97ID:DkQ9hBrE正面にしろ奇襲にしろ実際は兵数にはそんなに差はなかったんだろう。
それだけのこと。
勝ったほうが大げさにいうのは当然だしまさか45000を信じて
いるのはいないだろうし。
奇襲というのはなんかそれらしくて逆に卑怯とかいう
イメージにもなるしそんなに褒めた今風の意味もないかもしれない。
0973人間七七四年
2012/07/29(日) 18:42:33.57ID:wGYadxZ0今川軍は、45000と過大な数だと思っていたのは一つ。
一騎がけの道(狭い道)を信長が行こうとしたのを、家老たちが、引き留めている。敵から丸見え
なのもあるが、兵の数が優勢ならとめるわけがない。劣勢なのだから、とりすがって止めようとするだろう。
敵が攻めたら引け、敵が引いたら押せ、という訓示は、やはり劣勢。でもこの表現からは
そんなに少数でもない。
前線での兵力は五分五分でなく、4;6ぐらいか。
0974人間七七四年
2012/07/29(日) 18:46:37.65ID:wGYadxZ0黒煙あげて走り出す描写を見ると、この時点で
優勢、勝てる!と兵たちが思っているのがわかる。
熱田神宮の御加護つまり、ものすごい追い風、風雨があったことが勝因。明白ですね。
0975人間七七四年
2012/08/10(金) 10:37:25.96ID:B1T2Bpzu0976人間七七四年
2012/08/17(金) 21:59:07.55ID:3wSh/+SY0977人間七七四年
2012/08/17(金) 22:07:43.08ID:3wSh/+SY桶狭間の戦いと六角氏
永禄三年(一五六〇)五月二十日の桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)で、
六角氏が織田信長方に援軍を出して協力したという記事が『江源武鑑』にある。
そのときの六角義秀軍功状(17)が『甲賀郡志』に紹介されている。
前年信長が上洛した時に密約ができていたのかもしれない。
『六角佐々木氏系図略』や沙々貴神社本、さらに『江源武鑑』によれば、
この義秀が徳川公に相当する人物である。
去月八日於清州織田上総介加勢池田前田両将差越處、同十九日
三尾之境於桶羽佐間為下知、義元四万余騎乗崩之働不可勝計、
為其賞甲賀之内二千貫之所、別有目録、仰付候上者、専可抽
忠義者也、仍如件、
永禄三年六月五日 義秀(花押)
馬杉丹後守殿
この書状によれば、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、義秀は
甲賀武士の池田氏や前田氏を織田信長方に派遣している。『江源武鑑』では
六角義秀が池田恒興や前田利家を援軍として派遣したと伝えている。
たしかに旧家に伝わる義実直状や義秀直状には偽文書と判断されるものが多く、
この文書も慎重に真偽を判断する必要がある。
0978人間七七四年
2012/08/17(金) 22:14:54.86ID:qM2zftlZ手伝い戦で頑張ったから、二千貫の恩賞って高すぎるだろ、常識的に考えて。
今川の4万の軍勢ってのもどう考えても軍記物の影響だし。
0979人間七七四年
2012/08/17(金) 23:24:31.13ID:tQPxsk4K0980人間七七四年
2012/08/19(日) 00:49:49.90ID:H+xnRFsVとのことで、調べてみた。
要約
記録に残っていて確認できる範囲になりますが、朝廷に献金した金額ランキング。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、彼は何と「ライバル」である
今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
石高に換算しますと、おそらく2万石相当の収入を一度に献金したことになります
手伝い戦で、1万石の恩賞を与えた、というのは、高いな。
0981人間七七四年
2012/08/19(日) 01:34:27.91ID:oZD7bVla0982人間七七四年
2012/08/19(日) 08:44:37.55ID:6Ddg7qZA0983人間七七四年
2012/08/19(日) 16:37:20.68ID:mobnZZVfレス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。