戦国ちょっといい話27
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0001人間七七四年
2011/06/09(木) 21:34:04.26ID:CcULw6oU戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1304362000/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0004人間七七四年
2011/06/10(金) 06:22:23.96ID:7DcfzJTA0005人間七七四年
2011/06/10(金) 12:17:06.81ID:nUeHQszj秀吉はかねてから茶の湯に入れ込んでいたが
黒田官兵衛は「狭い一室に刀を持たずに数人で入るなんて無用心すぎる」
として秀吉に不満だった。
ある日、官兵衛が秀吉から茶の湯の誘いを受けてしぶしぶ出かけると
そこに茶は出ず、次の合戦についての戦略会議だけが二人の間で行われた。
密談の後、秀吉は「これが茶の湯の一徳だ。
お前と俺が密談をしていたら他人は疑いを持つ。
茶の湯と言えばいらぬ疑いを持たせず安心させられるだろうが」と言った。
これに孝高は感服し、以後茶の湯をたしなむようになったという。
0006人間七七四年
2011/06/10(金) 14:41:57.76ID:PI6LRClA0007人間七七四年
2011/06/10(金) 18:47:43.47ID:uPGc/BcP大名間の裏話を知りすぎていたから消されたようだ
0009人間七七四年
2011/06/10(金) 21:33:46.18ID:CUqHgxSu「茶の湯は風雅な集まりだというから出かけて行ったら、茶碗がいくら、茶釜がいくらと金の話ばかりしている。
あんなくだらないものには参加しない」
と拒絶反応を示したのがあるんだが、雑学本で茶室での密談で政治的なトラブルに巻き込まれるのを
防止したかったんじゃないか、と書いてるのがあった。
隆景さんなら茶の湯に大金を投じるなんて認めないだろJK、とも思うし、うかつに豊臣内部に関わると
ろくなことがないのを隆景さんならわかってただろうな、とも思う。
0010人間七七四年
2011/06/11(土) 00:33:26.60ID:FUQoIxhh0012人間七七四年
2011/06/11(土) 02:28:44.23ID:FUQoIxhhそれとも記憶違いかな
0013人間七七四年
2011/06/11(土) 02:59:22.24ID:8slzaeny石川五右衛門が南禅寺山門から京都の街を見下ろし、
「絶景かな」と見得を切ったのは、歌舞伎の一幕。
その南禅寺山門(三門)の修繕について、このようなやり取りがあった。
藤堂高虎と金地院崇伝は、高虎の嫁が崇伝と同じ一門ということもあり
たいそう仲が良かった。
また二人に共通するのは、家康がらみの謀りごとにかなり関与し、
その信頼も厚かったという点であった。
彼らが話し込んでいると陰謀の香りすら漂うが、これはもはや晩年のことである。
「しかしなんですな、藤堂どの。
仏道を修行する身とはいえ苦しいのは、色の乱れに常に心が乱れることですな。」
ある日、崇伝が何となく言った。
「と、申されますと?」
と、藤堂。
「わが南禅寺の山門のことです。文和年間に建立し、『太平南禅寺』と天皇直筆の額を
掲げたほどのものなのに、応安2年に山法師らの悪意によって打ち壊され、
跡形もなくなってしまいました。いまもって、それは打ち捨てられたまま。
心が痛みます。」
それを聞いて、高虎が言った。
「そのご苦労はそれがしが無くしましょう。」
「や、いやいやいや、そういうつもりで申したのではございません!(なんちゃって)」
「崇伝どの。それがしはかねてから望むところがありました。
過ぎ去った昔、大阪夏の役で、それがしが計画を失敗したがために多くの従軍将士が討死しました。
あれからずっと悔やんできました。
彼らの魂の成仏を願い、その名声と業績を広め留める建物を建立したいと
平素から思っていたのです。
南禅寺の山門。彼らの名をその上に刻み、
この世で二つとない忠義を表しとうございます。いかがでありましょうか。」
「願ってもないことでございます!(よっしゃー!)」
かくして、伊勢、伊賀の領下から諸職人の役夫数千人が馳せ上がり、
寛永5年(1628年)、ついに落成となったのである。
(高山公言行録、宗国史祀典録)
0014松下家1
2011/06/11(土) 03:42:32.31ID:JGJ7Fe4lやり術に優れ兵法にも通じていた松下之綱は豊臣秀吉の一番最初の主君として有名であるが、
従来の最初の秀吉の主君だけであるイメージと違いずっと秀吉とのかかわりを持ち続けた人間である。
秀吉に字や学問を教えたのは之綱だと言われる。また秀吉が仕えたのは長則とも言われる。
秀吉は彼から具足購入のために預かった5両を持ち逃げし尾張に出奔したとの逸話もあり、
このことを深く後悔していたのかはたまた最初の主君として恩義を感じていたのか
1574年に長浜城主となっていた秀吉は松下之綱を召抱え長篠の戦にも秀吉の
先陣として100騎を預けられた。
1582年、本能寺の変後も秀吉に従い続け1583年、
賤ヶ岳の戦いの後に秀吉から3000石の領地を与えられている。
その後も出世を続け、1587年、従五位下・石見守に叙位・任官し同年、
秀吉から丹波3000石を加増され6000石を与えられる
1590年、小田原合戦の後、遠江久野1万6000万石を与えられ大名となった。
秀吉はずっと松下家から受けた恩を忘れなかったのである。
1598年、秀吉に先立つこと7ヶ月前、2月16日に死去した。秀吉と同い年である62歳であった。
0015人間七七四年
2011/06/11(土) 04:01:11.84ID:Q0Epd0Ko(´ω`)
0016松下家2
2011/06/11(土) 04:05:52.11ID:JGJ7Fe4l松下重綱は之綱の次男として生まれ豊臣秀次に仕えた。
秀次事件で松下家が連座させられなかったのも松下家と秀吉の絆がわかるものだ。
1598年には父が死んだため重綱が松下家の家督を継いだ。
豊臣恩顧と言ってもいい彼であるが
関ヶ原の戦いでは東軍に属し岐阜城攻撃、
水野勝成属下で大垣城攻撃、石田三成隊50の首級を挙げるなど活躍。
1603年石垣の無断改築による常陸小張に移封となるが同じだけ領地は与えられているので東海道筋に
豊臣系の大名がいるのを嫌がったためであろう。
1614年からの大坂の陣で自ら槍をとり戦うなど奮戦。
毛利勝永隊に撃破されるもののその功績により2万8000石に加増された。
なお余談であるが
1627年、加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、娘婿だった重綱も陸奥二本松藩5万石に加増移封され、嘉明の与力大名となり
転封直後に死亡した。父と同じ出世街道を歩み続けた。
0017人間七七四年
2011/06/11(土) 06:08:29.32ID:cSCD/b6u0018人間七七四年
2011/06/11(土) 08:45:45.99ID:+6aR8bgs0019人間七七四年
2011/06/11(土) 10:03:28.40ID:UxP52dbI小早川隆景は、かつて茶の湯を好んでいた。
がやめてしまった。その理由を尋ねるとこう答えたそうである。
「茶の湯は俗世の煩わしさから逃れ岩栖野居の趣向、水雲鳥魚の閑さをなぞって
自然に帰って心を安らかにするものであるから何よりも嗜んできた。
ところが、よくよく世の愛好者を見ると茶器の値段が高いの安いのと言い、
千金の価値の器を百金で購入した者を目利きであると褒めて羨んだり、
または安く買って売ろうとしたりが主な目的となって茶の湯の本来の意味が消え失せてしまった。
そうでなくても人の心は物のために動かされやすいものであるというのに。」
0020人間七七四年
2011/06/11(土) 10:25:50.02ID:UxP52dbIなお、6月12日は小早川隆景の命日であり毎年この日に近い日曜日には
地元の三原で小早川隆景を偲ぶお茶会が開催されている。
0023人間七七四年
2011/06/11(土) 13:50:15.46ID:YgYTkvc90024人間七七四年
2011/06/11(土) 13:51:35.41ID:4AjsWeEZ0025人間七七四年
2011/06/11(土) 14:53:07.00ID:JGJ7Fe4l天下人豊臣秀吉の側室として知られている京極竜子の話である。
彼女は大変な美貌として知られ、政略結婚にて武田元明の後妻となるが
1583年、夫である武田元明が明智光秀と同心したため明智光秀が天王寺の戦いで敗れた後、
丹羽長秀に夫が殺害されてしまう。命が助かりたいがために弟である
京極高次により秀吉に側室として差し出されることとなる。
彼女は当時、20歳を超えたばかりでありこの年にして以後16年に及ぶ側室生活が決定したのである。
さて秀吉は彼女を大変気に入っていたようで彼女が体調を崩したときは奥さんに内緒で、
医者に指示を与えたり秀吉と名護屋城や小田原征伐に同行京極高次がどんどん出世していくことからも彼女がどれだけ気に入っていたかわかるのである。
彼女もまんざらではなかったらしく醍醐の花見で淀と杯の順位を争ったりの逸話は大変有名である。
1598年の秀吉死後は彼女は京極家に退去するが度々大坂に贈り物をしていたり秀頼に会いに来ていたり
豊臣家への愛着が感じられ、頻繁に手紙や往来をしていたことからも彼女が国松の養育をしていたと考えられるのである。
1615年、国松が大坂の陣の後殺害された後国松の遺体を引き取り淀の侍女菊を引き取った。
そして自らの生前墓を建てるなど最後まで豊臣家のことを想っていた一生だった。
余談
ちなみに記録上元夫武田元明の墓参りや京極家への
以前お世話になった人間もいるであろう旧武田家臣団の受け入れなどがされていないように
女は金で買えるというのを体現した女性である。
0026人間七七四年
2011/06/11(土) 14:59:14.10ID:NI8pXwbQ0027人間七七四年
2011/06/11(土) 15:00:27.34ID:JGJ7Fe4l0028人間七七四年
2011/06/11(土) 15:25:24.61ID:l9zhlXRIいい話をNGワードにした
0029人間七七四年
2011/06/11(土) 15:27:42.07ID:JGJ7Fe4l残念だったね
0030人間七七四年
2011/06/11(土) 15:38:34.89ID:fCvcMMjL0031人間七七四年
2011/06/11(土) 15:40:33.10ID:JGJ7Fe4l0032人間七七四年
2011/06/11(土) 15:40:49.00ID:aQs2TSgX0033人間七七四年
2011/06/11(土) 15:46:01.89ID:rYNbFvYhで、こいつの書き込みをまとめに入れちゃうの?
0034人間七七四年
2011/06/11(土) 15:47:53.06ID:JGJ7Fe4l凄く気に入ったからこれからも執筆をドンドンしていこうと思います
0035人間七七四年
2011/06/11(土) 15:57:27.08ID:Ai8udemA何年も前からいたんだ?いま中学生くらいだろうからそのころ小学生だったならまあ
文才ある方だと思うしがんばれよ。
0036人間七七四年
2011/06/11(土) 15:59:26.96ID:xfJf0V6oちなみに記録上元夫武田元明の墓参りや京極家への
以前お世話になった人間もいるであろう旧武田家臣団の受け入れなどがされていないように
女は金で買えるというのを体現した女性である。
意味がわからん
0037人間七七四年
2011/06/11(土) 16:00:53.74ID:JGJ7Fe4l(もしくはこの程度の日本語を不自由だと感じるくらいだから日本語も理解していない可能性がある)かわいそうなので逸話を書いて
慰めてあげようと思います
0038人間七七四年
2011/06/11(土) 16:06:39.10ID:W295usra0039人間七七四年
2011/06/11(土) 16:11:01.63ID:XxL4g5MV小さいプライド傷ついて嫌がらせ・・・まあ典型的なアレだな
0040人間七七四年
2011/06/11(土) 16:12:25.52ID:JGJ7Fe4l豊臣家で秀吉に側室として寵愛され側室ナンバー3の地位を得ていた京極竜子は、
猿顔の中年秀吉に男性的な魅力を感じていたとは考えづらく
秀吉の元での贅沢な生活や物品的利益に強い感謝をいだいていたからこそ
元夫がいた武田家と違い秀吉死後も豊臣家への強い繋がりを持ち続けたのだろうと考えられる。
ちなみに元夫の旧武田家関連に竜子がした行為の史料や逸話が出てこないように
彼女自体は全く義理を大切にするタイプではなくただ「贅沢な生活させてくれた豊臣家が気に入っていた」からだと判断できるのです。
まさに女は金についてくる!ということなのです
0041人間七七四年
2011/06/11(土) 16:15:32.31ID:8AXro2Yr0042人間七七四年
2011/06/11(土) 16:16:45.05ID:JGJ7Fe4l0043人間七七四年
2011/06/11(土) 16:23:57.08ID:XxL4g5MVリアルの周りが迷惑する
0044人間七七四年
2011/06/11(土) 16:34:07.80ID:py43glzw0045人間七七四年
2011/06/11(土) 16:41:55.14ID:ZbsVbo7N0046人間七七四年
2011/06/11(土) 16:45:22.15ID:JGJ7Fe4l今度似たような逸話探して書いておくか
0047人間七七四年
2011/06/11(土) 16:48:24.79ID:W295usra0048人間七七四年
2011/06/11(土) 16:49:58.96ID:l9zhlXRI久しぶりに専ブラの便利さを感じたな
0049人間七七四年
2011/06/11(土) 16:52:58.76ID:aQs2TSgX0050人間七七四年
2011/06/11(土) 16:54:24.43ID:NI8pXwbQ0051人間七七四年
2011/06/11(土) 19:12:10.54ID:ZdSyEAEDこの時秀吉は徳川家康、前田利家などの大名、公家など総勢5千名を引き連れた。
彼らは吉野山に数寄を凝らした茶屋を建て、様々な扮装をするなどしてこれに参加した。
さて、ここには伊達政宗も参加していたのだが、
政宗とその一行はそろって檜笠・鈴懸の衣・金剛杖で大峯山の山伏、という扮装。そういえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5342.html
この逸話でも政宗は山伏の格好をしていたし、お気に入りのコスプレだったのだろうか?
この山伏コスプレ集団が通りかかると、とある一軒の茶屋には右大臣菊亭晴季、大納言徳川家康、
中将前田利家の3人が座っている。その向かいの茶屋にもまた歴々の武家・公家の面々が腰をかけて
休んでいる。
「はてさてどこに入ろうか」
そんな風情で山伏集団、そこを通りすぎようとするとその時、あたりに轟く大声で
「お客の僧よ、立ち寄ってください!私はこの茶屋で召し使われている下人です。お茶でもその他でも、
お代次第で何でもお望みのものを出しますよ!」
そう『天下三大声』と言われた声を響かせ唐人うちわで政宗たちを招いたのは誰あろう、太閤秀吉である。
これに政宗、いかにも芝居じみた形で
「そうか!我々は大峯からここまで駆け出てきたため足も疲れ、漸く休もうというところだ。
茶などよりも良き燗で、酒をひとつ飲みたいものだ!」
そして供をしている五郎という家臣に「法螺貝を吹け!」と命ずると、この五郎も何の躊躇もなく
持っていた法螺貝を2つ3つ吹き、
「斎料を下さい」
と言い出す。
この政宗一行の山伏コントに、秀吉始め一同腹を抱えて大笑い。
しかし向かいの茶屋に座って居た前田利家、こんな雰囲気は良くないと思ったのか、あるいは
政宗の笑いを理解できなかったか、居住まいを正し
「さてさて、今日のお花見はひとしおのどかで、草木心無しと申しますが、花にも心があるように見えますな。」
と申し上げる。
この利家の空気を読まない真面目くさった発言が却って更に面白く、皆爆笑し、笑いが止まらなくなったという。
そしてしばらくしてから秀吉、政宗に
「さてさて、今日の花見で扮装が見事だったのはわしとお主だけじゃ!茶の物数寄天下一はこれで決まったな!」
と笑って言ったという。
伊達政宗、大面目である。
しかしせっかくの山伏コントは、前田利家が変なところで爆笑をかっさらって行ってしまい少々残念。
そんな伊達政宗の吉見の花見のお話
(木村宇右衛門覚書)
※原文では『醍醐の花見』の出来事となっていますが、状況などから明らかに吉野の花見のことであると考えられるので
そのように改めました。
0052人間七七四年
2011/06/11(土) 19:17:40.18ID:pQ5kLkgcそれは悪い話に類する話なので、
「数奇な運命から豊臣秀吉の側室となった竜子だが、
生涯豊臣家に対し誠意をもって接した」という話とはわけて
悪い話スレに投下すればよかったと思うよ
あと>>40みたいに、最初から説明できればよかったね、
忍法帖めんどくさいけど小分けにして頑張ってね
投下者の主観が強すぎる悪い話は叩かれたりするかもしれないけど
それは個々人の意見の違いだと思って、
すぐにキレて自演とか言い出さないように気をつけてね
前よりずっと読む人にわかりやすいように説明できるようになってると思うよ
頑張ってね
0053人間七七四年
2011/06/11(土) 19:47:37.13ID:FUQoIxhh権力者になってからの秀吉はあまり好きじゃないが
こうした無礼講の仮装大会をしばしば催した逸話は
なりあがり者の稚気が偲ばれて好きだな
0054人間七七四年
2011/06/11(土) 20:39:58.25ID:sXeuW1Ar片眼の修験者、満海上人の生まれ変わりと主張するために
好んで山伏の格好をしたとか、そういう意味ではないのかな
0056人間七七四年
2011/06/11(土) 21:40:15.30ID:V6uXdMlY0057人間七七四年
2011/06/11(土) 22:24:51.73ID:90YCyxt+0058人間七七四年
2011/06/11(土) 22:51:16.16ID:ZcAGaUAm0059人間七七四年
2011/06/11(土) 22:57:18.84ID:9EWMlgVCというわけで三斎様
0060人間七七四年
2011/06/11(土) 23:44:33.13ID:ZbsVbo7N36人斬ったから銘も三十歌仙な!なんてキレた感性の人間がなぜ生まれたのか・・・
0061人間七七四年
2011/06/11(土) 23:56:39.55ID:7d3GuWWT0062人間七七四年
2011/06/12(日) 00:08:49.18ID:+dAo55Yrいい話スレに悪い話を
悪い話スレにいい話を
書いていこうと思います
0063人間七七四年
2011/06/12(日) 00:24:04.53ID:axYSqfbcよかったな
0065人間七七四年
2011/06/12(日) 01:43:04.86ID:zsqSr56n好きにやって少しは過疎スレを盛り上げてくれ
0066人間七七四年
2011/06/12(日) 01:47:48.80ID:VW0GIZAKつーか一日にボチボチレスがあるスレを過疎ってどうよ
0067人間七七四年
2011/06/12(日) 02:11:11.34ID:+dAo55Yr徳川家康の争いである関ヶ原の戦いにおいて家中には東軍派も多かったが
三成率いる西軍に直々に秀信が三成と面談し祖父の旧領である美濃尾張を約束され三成に同心することとした。
東軍が小牧評定の後に福島や池田を先鋒として美濃に攻めかかり
美濃は西軍派が多かったにも関わらずあっという間に防衛戦を突破されてしまう。
秀信は岐阜城に東軍の大軍が迫ってくると3500人で木曽川を用い1万7000人を迎え撃ち川の手で鉄砲を打ちかけたり
百々綱家が伏兵を用いたりで奮戦するものの大軍に勝てるわけもなく敗北、秀信軍は撤退して岐阜城に籠城した。
岐阜城はけして堅固ではない城であるが、東軍と西軍は相当な激戦となったようで秀信の家臣である飯沼長資が一騎打ちで
東軍の一柳家の勇士大塚権太夫を討ち取ったり正面から攻めてきた福島隊相手に上格子門で
またその他の東軍にも砦や施設でも奮戦を見せたようである。
しかし岐阜城は大軍相手にはとても支えきれず一日で本丸に追い詰められで38人が籠城してるだけとなった。
秀信はここにいたり家臣の軍功を褒めた感状を書き記し最期まで付き従っていた家臣全員に与えたのである。
感状は再仕官の際の証明書のようなもので、その内容により仕官の可否や禄が決まるということで禄を失った家臣への
秀信の最後まで従った家臣への優しい配慮であった。またそれを書き終えたあと自害しようと秀信はしたのであった。
東軍の池田輝政の降伏勧告もあり秀信は岐阜城を開城開城、助命されることとなった。
どうでもいい余談
せっかく感状を書いてもらったであろう秀信家臣の38人は落城時に切腹、現在でも血痕が残っている。
秀信家臣の多くは福島家に仕えるものの福島家は旗本となってしまったり元秀信家臣の中にはキリシタンで処刑されたのがいたり、
歌人になった人間がいたり秀信自身は高野山を追い出され仕官すら出来なかったようで感状はあまり役に立たなかったようである。
0069人間七七四年
2011/06/12(日) 03:17:56.83ID:lv47T30d寝返りの機会なんざいくらでもあっとぁ訳だし・・。
0070人間七七四年
2011/06/12(日) 03:54:29.58ID:SQTIMzee0071人間七七四年
2011/06/12(日) 04:12:22.67ID:3ylVv9Q6決して堅固でない城でもそう簡単に落ちなかったと思うんだが
なんか討って出なきゃあいかんという事情でもあったのかな
0072人間七七四年
2011/06/12(日) 04:15:22.27ID:G8BFWHS/0073人間七七四年
2011/06/12(日) 04:18:54.17ID:+dAo55Yr彼らは独立心旺盛な国人でもあり三好長慶、後に織田信長に敵対し続けた。
1568年の織田信長上洛後には甲賀と共闘し信長と戦い続けている。
伊賀は、伊勢、近江、山城等に近い要所であり特に信長の治世後半は信長の領国のど真ん中に位置する
土地であるにもかかわらず長い間、独立を保ち続けた。
反信長の朝倉、浅井、別所、一色、六角らが滅亡していく中、伊賀の国人は独立を保っていたのである。
織田信雄が大軍を持って攻めてきた時も撃退し、伊賀忍の実力を見せつけている。
しかし織田信長の宿敵であった武田信玄、上杉謙信が滅亡した後、邪魔者はいなくなったと
信長軍は4万の大軍で伊賀の里を攻撃し田畑や建物を燃やし尽くし老若男女にいたるまで殺害し尽くした。
比叡山焼き討ちや長島一揆皆殺しと同等の凄惨な殺戮と風景が展開されたのである。
所謂天正伊賀の乱である。
伊賀国人達は1万しか集められず丹羽長秀に謀略を看破されるなど数の違いもあり次々と征服されていき砦は落とされていった。
伊賀一揆が追い詰められついに最後の砦になったとき、なんと織田信長が伊賀と和議を結んだのである。
最後の砦で敵を根絶やしにせず和議を結ぶという信長の慈悲が見られる素晴らしい話である。
0077人間七七四年
2011/06/12(日) 11:52:11.30ID:q5lLECum戦術や兵器の発達についてこれなかったのか?
0078人間七七四年
2011/06/12(日) 11:57:47.37ID:19LERXsA0079人間七七四年
2011/06/12(日) 14:45:48.36ID:Eli4ItIo伊達・真田・立花・成瀬etc...と、とても濃い面子が揃っていたので
「他にもないかなぁ、そういう年?」と思って色々と調べていたら……。
見つけた!
1558年生まれの武将
森長可 菅谷範政 蜂須賀家政 大友義統 織田信雄
織田信孝 別所長治 桂忠詮
うむ、(このスレ的に)濃い面子。
0083人間七七四年
2011/06/12(日) 15:47:51.63ID:G8BFWHS/その様子を熟視した勘助は、鉄製の五徳を銅製の物に取り替えて動かない事を確かめた上で、国中の山伏を招集。
「この現象を止められる者はいないか。」
と尋ね、名乗り出た山伏が祈祷を行って五徳の動きを止めると、犯人として縛り上げた。
問い詰められた山伏は
「武田信玄公に取り立ててもらうには勘助殿と知り合うのが得策と考え、料理人を抱きこんで天井に強力な磁石を仕掛けさせました。」
と白状した。その後この山伏がどうなったかは不明である。
名探偵、山本勘助怪奇現象を見事解決したお話。
0084人間七七四年
2011/06/12(日) 16:04:00.15ID:9HKX78Bg0085人間七七四年
2011/06/12(日) 16:25:38.43ID:Zocw9gU7アジアでも中国は宋の時代に、沈括という学者が磁石化した針を
水に浮かべて指南針として活用する方法を記述している。
戦国時代ならもう伝わってたんじゃないかなあ。
学研の漫画で忍者が水溜りに針を浮かべて方角を確認するって
一コマがあったような。
0086人間七七四年
2011/06/12(日) 16:37:10.61ID:e36bx8l+その山伏はどうなったか知らないけど間諜として採用されたのか
あるいは敵国のスパイなのか審議され加藤段蔵のように始末されたのか
0087人間七七四年
2011/06/12(日) 17:00:04.47ID:hEbo1ic+戦国の完璧超人”立花左近将監”こと宗茂を彦左衛門が嫌っていることは
世間周知の話であった。
酒の席でも度が過ぎると憤怒に駆られて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4314.html
と愚痴ることがあった。
さて、豊臣と徳川が手切れして、大阪冬の陣が始まる直前、彦左衛門の元に
大久保家と同じ三河安祥以来の譜代の旗本である、某家の孫が訪ねてきた。
孫と言っても齢三十に近い青年武士である。
彦左衛門は、大いに喜び武士を書院に通すと戦死した某家の祖父や父の武功を
語りだした。武士は、終わるのを待って、おもむろに懐から一通の封書を取り
出すと彦左衛門に差し出した。
「これは?」
「連判状にござる」
彦左衛門が封書を開けてみると十数名の旗本の血判が押された連判状が出てきた。
封書の内容に目を通すと以下のことが書かれていた。
「立花左近将監は、関ヶ原の折りに徳川家に謀反したにも関わらず、言葉巧みに
大御所様、将軍様に取り入り、寵愛を欲しいままにしてきた姦人である。あまつさえ
このたびの大阪との手切れに際して、密かに豊臣と通じ大御所様、将軍様を害せんと
の噂さえある。しかるに、このたび大御所様の御差配にて、将軍様の采配を預かると
のことである。我らは左近将監の真意を糺すべく詰問する所存、ご同意願いたい」
連判状を読み終わるや彦左衛門は、武士を大喝した。
「左近将監の首は何処にあるや!」
「く、首でござるか」
「左様、首じゃ。かかる姦物、詰問など手ぬるかろう。三河武士なら既に首にして
首桶持参で当家に来るものぞ。さ、首桶を見せよ」
「ご無体な。我ら、大久保様の血判を添えて左近将監を詰問する・・・・・・」
「この痴れ者がぁぁ!左近将監に不審があれば、その場を去らずに切り捨てるのが
誠の三河武士じゃ、上方侍のように詰問などと・・・・・・恥を知れ恥を!」
彦左衛門は、連判状を武士の目の前で破り捨てると続けた。
「そもそも、大御所様、将軍様の眼鏡にかなえばこそ、敵対した左近将監が大名に
再び取り立てられたのだ。天下を差配される御両所の人を見る器量に瑕瑾があるが
ごとき物言いは無礼千万!左近将監を詰問するは、大御所様、将軍様に謀反するも
同然。連判状など言語道断!疾く疾く立ち返って左近将監の首を持参せよ」
と武士を屋敷から追い出すと家来に愚痴った。
「三河武士の弓矢も衰えたものよ。左近将監がごときものが采配を預かるのも時の流れ
というものか」
大久保彦左衛門、情けない三河武士を説諭する良い話
0088人間七七四年
2011/06/12(日) 17:04:11.20ID:yfwXSmmG0089人間七七四年
2011/06/12(日) 17:32:18.05ID:cVBfUEk80090人間七七四年
2011/06/12(日) 17:34:02.39ID:lGRTwqw7のちの妖怪首持ってこいである。
つーか完璧超人の首取ろうと思ったらどっかの謀将みたいに
武器をことごとく使用不能にしてかつ数百人動員しないと無理だろ。
0091人間七七四年
2011/06/12(日) 17:51:20.24ID:zO2N73170092人間七七四年
2011/06/12(日) 18:14:46.54ID:8parbAvw「どういうつもりだてめー、そういう言葉はオレたち三河武士には無いんだぜ」
「そんな弱虫の使う言葉はよ……『ブッ殺す』…そんな言葉を使う必要がねーんだ」
「なぜなら、オレやオレたち三河武士は、その言葉を頭に思い浮かべた時に!」
「実際に相手を殺っちまって、もうすでに終わってるからだッ!」
「だから使った事がねェーッ」
「孫よ、オマエもそうなるよなァ〜〜〜、三河武士なら…」
「わかるか?オレの言ってる事…え?『ブッ殺した』なら使ってもいいッ!」
0093人間七七四年
2011/06/12(日) 18:33:29.90ID:cVBfUEk80094人間七七四年
2011/06/12(日) 18:35:02.45ID:B4WEzNzFだが立花を認めた大御所様を疑うような事は許さん!
しかし大御所様が認めた立花が二心があるようなら斬れ!斬っちまえ!
斬る決断力も無いなら黙ってろ!若僧情けないわ!
…って事?
もうわけわかんね。
0095人間七七四年
2011/06/12(日) 18:44:17.00ID:cVBfUEk8の大和魂が三河武士の上に発現すると彦左みたいになるんじゃね?
鈴木大拙的に言えば
0096人間七七四年
2011/06/12(日) 20:55:53.03ID:72VfEWOQましてや離反となるなら、一刻の猶予が命取りになるかもしれない。
ことの正否、もしくは成否は関係なく、全くの私心なければ武士たるもの命をかけろ。
結局は自分は安全なところにいて、他人の足を引っ張りたいだけなんだろ?
情けない奴だ。
って逸話だろ?
教育って時代に影響を受けて、常に生き死にを意識していた人間と、
そこまで意識はしない世代だと、若干の差が生まれてくる。
ゆとり教育とかいうけど、どの時代でも世代間のギャップはあって、
上の世代は下の世代を歯がゆく感じる。
こういった逸話を読むたびに、ゆとり教育がなくても、
にたような感じに育ったんだろうなって思う。
0097人間七七四年
2011/06/12(日) 21:47:11.13ID:preDo5sm一介の青年武士が十数人集まった位で大名の足引っ張れるわけないだろ
つか徳川家中ですらない相手の足引っ張ったって仕方ない
0098人間七七四年
2011/06/12(日) 21:53:03.48ID:PdqTeQ/J0099人間七七四年
2011/06/12(日) 22:16:19.35ID:tUAqVqB3この話、連判状を破り捨てる=証拠隠滅してあるのが彦左の心遣いに見えるお。
戦の前にこんな紙がどこかの手に渡ればメンドクサイじゃ済まないもんねぇ。
0100人間七七四年
2011/06/12(日) 22:29:35.87ID:4luwmglzひこざがしかる
0101人間七七四年
2011/06/12(日) 22:59:18.75ID:deuJxTZi0102人間七七四年
2011/06/12(日) 23:03:16.13ID:BRULKumd常連の癪に障るポイントだったんだな、かわいそうに…変な荒れ方すんなよ
0103人間七七四年
2011/06/12(日) 23:12:28.53ID:7sD7+wUmこのスレ>>62を読めばわかると思うが、前スレでも「いい話」といっておきながら
わざと「悪い話」を投稿。その上>>25>>34だ
まあ、かわいそうかどうかは自分で判断してくれ
0104人間七七四年
2011/06/12(日) 23:59:43.32ID:hge0EgEuただWikiとかの情報を羅列してるだけ
管理人さん、まとめから削除してやって
0105人間七七四年
2011/06/13(月) 00:58:42.52ID:GHNfg9920106人間七七四年
2011/06/13(月) 01:37:33.43ID:vXk3doXE既出な逸話ばっかだったぞw
0107人間七七四年
2011/06/13(月) 01:42:25.40ID:PZcHnFrfいや、嵐でしょどうみても…
不定期だが、以前にもほぼ同じ文体のバカが湧いてたんだから。
Wikipedia程度の文章羅列しただけの纏め方とか、最初から貶めるだけを目的にして、隠す気も無いようなとって付けただけの全然余談でもない「余談」とか。
0108人間七七四年
2011/06/13(月) 01:46:00.96ID:zmsWybXy近代デジタルライブラリーで、「国史叢書」か「日本歴史文庫」で検索すると
幸せになれるかも知れない
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
0109人間七七四年
2011/06/13(月) 01:51:38.27ID:HpL5/4NZ自分で宣言もしてるし。
0110人間七七四年
2011/06/13(月) 01:55:46.51ID:ZCUxnsrt0111人間七七四年
2011/06/13(月) 02:36:39.11ID:U6jKcBn31590年、日本の過半を苦戦しつつも支配下に収めた豊臣秀吉は、
氏政が既に上洛準備をしていたが有名な惣無事令違反である名湖桃山城事件が起きたため
邪魔だったこともあるのだろう、小田原北条家を大軍で持って攻め滅ぼし日本を統一しようとしたのである。
秀吉のもとには奥州からも日本全国の大名が馳せ参じ、20万もの大軍となった。
豊臣軍は大きな損害を出しながらも重臣などを死なせつつ秀次軍は山中城を一日で落城させ、
加賀の前田利家や越後の上杉景勝が率いる北陸軍は本多忠勝が持ち寄った
大砲を用い北条氏邦が篭る武蔵鉢金城がパニックになったところを攻め落とし北陸軍は小田原城に迫ったのである。
さて秀吉はその小田原城に迫った前田利家や上杉景勝率いる北陸軍に命じ城主である北条(大石)氏照が小田原に兵を持ち寄ってるため
ろくに兵がいない八王子城を攻めさせ女子供まで皆殺しにさせたのである。絶望した女たちは自分から崖に身を落とし自害することとなり
悲惨な断末魔が聞こえたという。その小田原城に情報を流すことで
歴戦の秀吉ならではの士気を落とし城攻めを有利にする作戦に出た。ちなみにこのせいで現在でも供養が行われている。
そして城の前で華麗な大宴会を行い続け味方軍の士気を上げ城方の士気を落とす見事な作戦を行い、
ただでさえ苦しい豊臣軍の補給が更に苦しくなりながらも一定の効果があっただろう。
何より80日間じっくり立てた城を小田原城から見えるように木を落とし一夜で秀吉軍が城を立てたと見せかけ
上方の力と関東の力の違いを見せつけようとしたのである。戦略的には全く無意味な城だったが、一定の効果はやはりあった。
そういったことをしてるうち、北条の上総や下総の城が落とされ女房衆や武将が捕らえられる事態となる。
その女房衆や武将を秀吉は船に乗せて晒し者にし、北条の士気を落とす作戦に出た。
こうやってジワジワとジャブのようにダメージを蓄積させ士気を落とすやり方や、一気に攻勢に出て城を攻め落とすやり方はやはり城攻め名人だけあって見事である。
0112人間七七四年
2011/06/13(月) 02:50:11.62ID:U6jKcBn3そろそろ頃合いと見てラッシュをかけたのであろう。
その頃小田原北条家は次々と城が落ち続け味方と期待していた徳川家康や伊達政宗が豊臣方に付くこととなり、
秀吉軍には余裕があり自軍は残虐な目に会い続け総攻撃もあり城の損害は馬鹿にならず
勝ち目が全くなくなってしまったと判断したのであろう。(誤りだったが)
降伏か籠城を続けるかの絶え間ない水掛け論が続けられ小田原評定の故事を残すこととなってしまったのである。
絶望的な情勢となった北条家は氏規が交渉を行い続け、上総、下総の領土安堵及び武将、城兵の安堵を交渉にして確約しそれを
信じた氏直は家康の陣に出頭し降服したため小田原城を開城することとなった。
その氏直は流石にこのままでは済まないと感じたのか「自らが自害するから城兵及び一族の命の保証」を主張するものの秀吉は聞き入れず
秀吉は氏照、氏政を切腹、主家のために交渉してた松田憲政を内通の罪にして切腹させ小田原北条家の領土を全部奪い氏直は高野山に
追放されたのである。しかも小田原攻めがうまくいかず秀吉は脅威に思ったか怒ったか知らないが
北条氏直が半年後不審死、また翌年には名護屋城で北条一族が2名死んでいることからも北条氏は粛清されたと考えられる。
豊臣軍の小田原城総攻撃は失敗しており補給難もあったためあのまま城攻めを続けていれば失敗したと思われる。
宴会も一夜城も大して役に立たず、見事な騙し討ちを決め小田原城を落としたのであった。そんな秀吉の見事な城攻めのいい話。
0113人間七七四年
2011/06/13(月) 03:18:21.29ID:XDKX34qG×鉢金城 ○鉢形城
×松田憲政 ○松田憲秀
0114人間七七四年
2011/06/13(月) 03:21:30.12ID:U6jKcBn30115人間七七四年
2011/06/13(月) 05:36:28.35ID:W8ztJXQj0116人間七七四年
2011/06/13(月) 05:46:29.38ID:fVxVkkug県史とか市史はローカルな話が載ってて面白い
0117人間七七四年
2011/06/13(月) 06:48:18.33ID:NPX4vMe/0119人間七七四年
2011/06/13(月) 07:47:04.16ID:U6jKcBn30120人間七七四年
2011/06/13(月) 07:50:26.68ID:U6jKcBn30121人間七七四年
2011/06/13(月) 08:00:53.25ID:VoGFiJA90122人間七七四年
2011/06/13(月) 08:03:47.29ID:IcctrTM20123人間七七四年
2011/06/13(月) 09:00:00.76ID:VUFOISIEそれを特定しやすい文体だからって荒らし扱いするから相手もキレたんじゃないか
ああ気を取り直して普通に投稿することにしたんだなって思ってたのに
これでまた荒らしのふりを続けるようになるんだろうな…
0124人間七七四年
2011/06/13(月) 09:32:18.79ID:zmsWybXy加藤清正は屋敷の前の川に船を浮かべて、そこで秀頼一行に食事のもてなしをした。
この時清正は屋敷の前の橋(肥後殿橋)から川下まで三町(約330メートル)ほど、
川の左右を竹にて虎落(もがり)を結び金屏風を隙間なく置いて、外から船中を見られないようにした。
その上で秀頼のお供の衆のうち下々にまで残れず馳走をした。
そのころ都に梅春という料理人があった。
清正はこの馳走のため彼を呼び寄せ料理を作らせたのだが、秀頼のお供下々までに出す
料理の献立の中に「蒲鉾」と書かれているのを人々見て、
「秀頼公のお供は大人数である。その人数に行き渡るほど魚の身をすりつぶすのも、また
板につけて炙ることも、短時間行でうのは難しいのではないか?」
と懸念した。
が、梅春は魚を取り寄せると大勢で一斉にさばき、骨を取ると大きな臼を2つ3つ並べ、
杵でこれを突けば即座にすり身となった。これを板に付け、一方庭の中を長く掘り、この中で
大量の炭火を炊いて左右に畳を並べ蒲鉾を段々に挿して炙った。
これにより蒲鉾は少しも滞り無く秀頼一行に出された
これを見た人々「扨も扨も良き才覚仕りたり」と感心し、その頃の大阪伏見での話題となったそうだ。
今ではなんてことのない話であろうが、慶長年中の頃まではこう言ったことも珍しかったのである。
(續撰清正記)
0125人間七七四年
2011/06/13(月) 09:42:12.51ID:ZDebk3jM0131人間七七四年
2011/06/13(月) 19:13:20.30ID:d9cVlXY50132人間七七四年
2011/06/13(月) 19:19:50.52ID:X0P1icwF戦国時代は鎌倉時代にくらべて仏家がパッとしないような・・・
オレが知らないだけで名僧いるのかもしれないが
0134人間七七四年
2011/06/13(月) 19:54:19.58ID:qZS7vHjR江戸時代初期までかぶると、安楽庵策伝とか鈴木正三とかもできるか。落語の祖と言う説でしかしらなかったが策伝って、金森長近の弟だったんだ。
0135人間七七四年
2011/06/13(月) 19:59:41.75ID:XoGIYf9Dでは有名な文化人の話で。
応永の頃、一人の若い坊主が寺に預けられていた。
お寺での生活といえばお経を読んだり、雑用をこなしたりするものなのだろうが、彼はいつも絵ばかり描いて、勉強をしなかった。
これを見かねた和尚さん、彼を柱に縛り付け、懲らしめとした。
時間も経ってもうよかろうと思って様子を見に行くと、彼の足もとに一匹のねずみがいた。
和尚さん、これを追い払おうとするが、ねずみは動く様子を見せない。
よく見ると、ねずみは絵だったのだ。
両手を使えない少年は、涙を流し、足を使って絵をかいていたのだった。
しかも、その出来は一見生きているように見えるほど素晴らしいものであった。
これに感心した和尚さんはついに彼に絵を描くことを許す。
水墨画の泰斗、雪舟の若いころの話である。
0136人間七七四年
2011/06/13(月) 20:17:17.46ID:NeD+cXI9一休はいちおう戦国時代にもかぶる。最晩年だけだけどさ。
>>135
雪舟も室町期のイメージが大だけど、戦国時代にかぶるんだよなぁ。
0137135
2011/06/13(月) 20:22:30.77ID:XoGIYf9Dおっしゃる通り迷ったんだけど、応仁の乱の頃くらいからはOKな流れのようだし、最晩年は1500年を過ぎてるから許容範囲かと思って書きました。
0138人間七七四年
2011/06/13(月) 20:39:44.21ID:qQDOzjsF将軍足利義輝を暗殺した国崩し(国を傾けるほどの大悪人)の松永大膳が
雪舟の孫娘、雪姫を口説こうと金閣寺に縛って監禁するが、
雪姫は桜の花びらでねずみを描いて、そのねずみに縄を食いちぎらせ、
小田春永の部下で、此下東吉と変名を使って松永にとりこんだ
真柴筑前守久吉と、その部下の佐藤正清に助けだされる、とかなんとか
松永大膳、小田春永、真柴久吉、佐藤正清が誰かはあえて書かない
0141人間七七四年
2011/06/13(月) 21:03:24.62ID:YIMK5opnさすが芝居、年代とかガン無視やでぇ
0142人間七七四年
2011/06/13(月) 21:11:57.10ID:5Q58zHZb0143人間七七四年
2011/06/14(火) 01:40:51.12ID:GM+9QXME大内義隆の記事とかネタ記事の笑顔動画の大百科と内容ほぼ一緒だし
両刀なのに男色オンリーになってるし、おさいの方への寵愛は無視かよとか
酷いのは隆房・隆景以外の、隆元やら冷泉やら相良まで男色対象になってるし
どうせそれもどっかからのコピペだろうけど
0144143
2011/06/14(火) 01:41:51.56ID:GM+9QXME0145人間七七四年
2011/06/14(火) 09:51:25.43ID:rcHi6w221585年、豊臣秀吉が関白就任の前年に出された自筆の豊臣家掟書では
「秀吉やおねに侍女が口答えをしたり調子に乗った扱いをしたときは、
一日中縛り付けたり、鞭で叩く」と書いているのである。
つまり秀吉やおねに無礼な振る舞いしたものを厳罰に処することを示していることとなる。
元来は秀吉がおねに口答えをしたときはおねが秀吉を
一日中縛り付けると書いてあると思われていたようだが事実は違ったようだ。
女性に鞭と縄で責め苦を行うのはSMを連想させる行為であるが、秀吉はサディストだったに違いない。
0146人間七七四年
2011/06/14(火) 10:00:53.75ID:eRhlJ1XW0148人間七七四年
2011/06/14(火) 10:09:44.39ID:msAMosVA0151人間七七四年
2011/06/14(火) 11:34:14.26ID:90BUd8A5これか
よほど無礼な振る舞いが目に付いたか、関白就任を前にコンプレックスが爆発したか微妙なところ
0152人間七七四年
2011/06/14(火) 17:20:14.01ID:geQ44YMC山本常朝
「横尾内蔵之丞は天下無双の槍の使い手で、
直茂公から大変気に入られていた。
直茂公はお孫の元茂様に、
『内蔵之丞が若い時の武勇をお前にも見せたかった。
誠に惚れ惚れとする武士であったぞ。』
と語り聞かせるくらいであったのだ。
内蔵之丞も直茂公のお心を有り難く感じ、
公が亡くなられたときは一番に腹を切りお供をしますと約束の誓紙を差し上げていた。
ところがある時、内蔵之丞が百姓と揉め事を起こし裁判沙汰になった。
この裁判によって内蔵之丞のほうに無理があることがわかり、
裁判は内蔵之丞の負けということになった。
これに内蔵之丞はひどく腹を立て、
『百姓に味方され見捨てられた拙者が、どうして殿の後を追いましょうか。
差し上げていた誓紙をお返しください。』
と申し上げたところ、直茂公は、
『一方が良ければ、一方が悪くなる。
武勇は良いが、世間知らずが良くない。惜しいことだ。』
と、つぶやき誓紙を返されたとのことである
0153人間七七四年
2011/06/14(火) 22:08:17.64ID:Css2O/Mp大軍での遠征だったため兵糧が足りなくなった。
「おおそうじゃ、あれを兵糧として取り寄せよ。」
毛利元就が兵糧として取り寄せたもの、それは干し柿であった。
広島原産の西条柿が島根や山口に広く伝播したのはこの時期であると言われている。
0155人間七七四年
2011/06/15(水) 01:08:05.59ID:mc1NcsSh働き振りを調べる事にした。演習に集まった約1000人の兵は演習場になった陸奥国野崎(青森県弘前市)
という小さな村になだれ込み、合図に従って民家に一斉に放火した。村人達は事前に命令を受けて避難していたが、
辺り一面焼け野原になってしまった。しかし翌日、為信は大工を派遣して以前よりも立派な家を建てさせ、さらに
家具や食料も与えたので村人はかえって為信に恩を感じるようになったという。
以上、津軽為信村を焼き払って人望を得たお話。為信19歳頃の話である。
0156人間七七四年
2011/06/15(水) 01:12:24.85ID:q7Tspmx50158人間七七四年
2011/06/15(水) 06:53:18.89ID:CKmxyuW+全く新しい公共事業である
0159人間七七四年
2011/06/15(水) 07:33:59.12ID:3IEcJc/Qん?なんで? >>154は彦左の人間の小ささを指摘してるんだろ?
そもそも彦左は戦場で大した手柄も立ててないしな。
小さな戦功をことさら大きく言ってるだけで。
0160人間七七四年
2011/06/15(水) 08:19:44.86ID:gghOnDHjその狭量さを今更あげつらって、ナニをしたいんだって思う。
突っ込むところはソコかよ!?的な返しが欲しかったのか?
0161人間七七四年
2011/06/15(水) 11:16:52.99ID:hLFukjj8グッとこらえて波風立てない器もあれば、
武勇に関したこととなれば真っ先にとびこんでいく器もある。
>>152の直茂さんは両方求めてるけどなw
0162人間七七四年
2011/06/15(水) 12:14:37.24ID:lTHquxx4って言ってるだけで彦左の器は特に関係ないな
0163人間七七四年
2011/06/15(水) 12:44:18.08ID:cAM40i0w高い忠勝如き、兄ちゃんの忠世に比べりゃ
屁みたいなもんと思っていたからな。
忠勝に匹敵する程度の宗茂に将軍家の采配
を預けざるえない徳川の弱体化を象徴する
ような三河武士の情けない振る舞いに切れ
たって話しだろ。
0164人間七七四年
2011/06/15(水) 13:23:49.10ID:hLFukjj8無分別であればそれでいいらしい。
生きるか死ぬかは結果でしかないそうだ。
ソースは葉隠
0166人間七七四年
2011/06/15(水) 14:19:06.05ID:hLFukjj8野球ファンやサッカーファン感覚で言い合ってたらキリがねぇw
0167人間七七四年
2011/06/15(水) 16:58:56.89ID:0tT2xfz60168人間七七四年
2011/06/15(水) 17:40:22.04ID:wDtDmnXDそう蔑まれてはいない。
ただの一欠片も信用されなかっただけ。
当初は秀吉から、vs家康のキーパーソンとして期待されたが、
清洲同盟、小牧長久手までの世間的信用と家康の徹底的な臣従ぶりが相まって、
秀吉の中で、宇喜多>前田=家康>毛利>>上杉>異次元の壁>昌幸となっただかのこと。
すごい名誉だと思うよ。あの太閤様に「一欠片も信用できない。えげつなくて、こす辛い野郎」って
言われたんだから。
0169人間七七四年
2011/06/15(水) 17:52:49.67ID:hKufVc6Cその人質は気がついたら出奔して秀吉のところに行きやがりましたF○CK」
0172人間七七四年
2011/06/15(水) 22:22:28.43ID:ilY6mScY関白秀吉は九州征伐の後、天下を仕置する政調として豪華絢爛な聚楽第の建設に取り掛かったのである。
聚楽第は第というが平城であり長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなりという秀吉の造語と考えられてるので、
それだけ秀吉の気宇壮大なが理念が篭っている建物でありまさに日本の本拠地として建てられた豪華な城だ。
各大名屋敷も当時、秀吉の片腕であったあの千利休の屋敷もこの聚楽第の中に建てられていた
白漆喰総塗籠造りの最初の天主でありこれは近世城郭の代表となる。
瓦は金箔が貼っており金殿の豪華さと利休に代表される茶屋敷の侘寂が表現されている、
典型的なコントラストで美を表現している安土桃山時代の建物である。
しかしその豪華な夢の城の建設には苦労があったのだ。
宣教師オルガンティーノの書簡(天正15年4月15日付け)
において聚楽第普請をはじめとする労役挑発の模様を記して
「それがためにすべての人々が貧乏になり、借金だらけで、
質に身を縛られております。兵士たちはすべて持物を売り
尽くし、飢餓に悩まされていますので、都やここの(大阪か)
街道では、公然とすこぶる奇怪な盗賊をはたらいています。
すべてのものが一人の例外もなくこの暴君(秀吉)はまもなく
滅びてしまうだろうと叫んでいます」とルイス・フロイス がその著書において紹介している。
(三戦板のスレより引用)
そうまでして建設された聚楽第は8年後、
秀次事件により徹底して破壊され秀吉事件の栄華と暗雲を悲劇的にコントラストのように構成することとなる。
そしてみなの叫びが叶い通りわずかあれだけ豪華な本拠を持っていた豊臣政権は13年後に、豊臣家は28年後に滅亡していくこととなった。
0173人間七七四年
2011/06/15(水) 22:54:40.57ID:oRr56f0E0174人間七七四年
2011/06/15(水) 22:55:15.02ID:gghOnDHj> 彦左は大御所の決定にケチつけるな!それでも文句あんならさっさと行動しろ!
自分もケチつけて、自分も行動してないじゃん。
その解釈なら自分のことを棚に上げて、他人を叱る彦左の悪い話しだろ?
彦左は彼らの行動を非難してるんであって、文句をいうことじたいを重視してないと思う。
その程度のことなら他家はもちろん、三河武士でもしてる。
0175人間七七四年
2011/06/15(水) 23:10:54.64ID:C5v0tfRnもうちょっと頑張れよ・・・
0176人間七七四年
2011/06/15(水) 23:16:08.07ID:oRr56f0E宣言どおり続けられるかな?
0177人間七七四年
2011/06/15(水) 23:23:42.47ID:bQ8NG3+Z0178人間七七四年
2011/06/15(水) 23:52:50.72ID:lp2z3JYzいわゆる黒田騒動に対し、幕府では黒田家の取り潰しを決行しようとした。
だが、その席で井伊直孝が反論を唱えた。
「大膳の訴状を読みましたが、特に領地を没収せねばならんような罪科はないですよ?
大船建造のことも忠之公本人でなく先代の長政公の時のことでしょう、今更咎めるのは無茶でしょう。」
更に直孝は指摘する。
「大体忠之公の謀反自体がデマでしょうこれは。
大膳がしばしば諫言したから、城中に呼び出されて毒殺されかけたと書いてますけど…
そもそも家臣に罰が与えられないからって、毒殺しようとする奴が幕府に謀反なんて無理でしょうw」
と主張した。その直孝の主張に対し、将軍・徳川家光は冷やかした。
「おい直孝、お前忠之を贔屓すんのかね?」と。直孝の返答は以下のとおりである。
「贔屓なんてしませんよ。忠之公は蜂須賀蓬庵(家政)と不和です。
私は蓬庵の娘婿ですが、辿れば私にとっても恨みはありますよ。
私は、理あるところを以て、公論を申し上げただけに過ぎません。」と。
黒田家の取り潰しは、この閣議によって沙汰止みとなったとされる。
(名将言行録巻之六十一より)
0179人間七七四年
2011/06/16(木) 02:35:23.66ID:GGJWKNrl武具を見せて「武士の道具はコレじゃ!」と言ったことがありましたな。
ところがこれを本当に実践していた茶道流派がありました。
茶道 上田宗箇流(の伝来道具)
http://www.ueda-soukoryu.com/index2.htm
上田宗箇が造った茶室「和風堂」の全体図もありまして、これがどうみても
「防御施設つき殺る気まんまんな茶室」なんですな。虎口も搦め手もちゃんとついている。
ここは、本当に生半可な気持ちで茶道を学んではいけないようです。
0180人間七七四年
2011/06/16(木) 02:44:45.17ID:hO131Qevちょっと無理があるんじゃないか?
これが「殺る気まんまんな茶室」なんて言ったら
ありとあらゆる武家屋敷は全てキリング・ハウスってことになっちゃうのでは?
0181人間七七四年
2011/06/16(木) 12:29:17.98ID:1dRCDXkH前に畳の敷き方とか調べようとしてぐぐってたら
「天井板は、相手が刀を振りかぶって襲って来た時に
刃先がひっかかる方向にはる事」とか書いてあって
エエエってなった
普通の和室の話ですよ
0182人間七七四年
2011/06/16(木) 12:42:25.13ID:1UmKF+II西洋のドアが内開きなのは暴漢対策とか聞いた事あるぞ
0183人間七七四年
2011/06/16(木) 13:12:38.54ID:n0XnG8jU0184人間七七四年
2011/06/16(木) 13:45:35.94ID:OkZ3MenE時の藩主南部利直は、信愛が老齢で目を患い、楽しみの少ないことを哀れみ、
鷹野にでも出て気を慰められるよう、一羽の鷹を与えた。信愛はこれを喜び、その鷹を鷹匠に預けた。
ある日のこと、鷹匠のひとりが山野に出て、その鷹を放っていた。
鷹は一羽の鳥を捕らえると、そのまま近くの農家のそばに降り立った。
するとそこへ、たちまち一匹の犬が駆けてきて鳥もろとも鷹をかみ殺してしまった。
驚いた鷹匠はその犬を捕らえ、辺りの者を集めて飼い主をただしてみると、門右衛門という百姓の犬であった。
鷹匠は門右衛門を捕縛すると、これを同道して花巻城に引き返し、おそるおそる事の次第を信愛に言上し、
門右衛門とともに罪に服したいと願い出た。
それを聞いた信愛はいつになく立腹の体で鷹匠を叱りつけた。
「お前はなんと無分別なことをするのか。
この門右衛門は飼い犬をそそのかして鷹を噛ませたものではない。またお前とて、
鷹を犬に噛ませようとして放ったわけではあるまい。
元来、犬はその性分として鳥獣を噛もうとするのは当たり前のことだ。鷹は他の鳥類に優れて
眼も羽も速いものであるから、滅多に犬などに噛まれたりするものではない。
それが噛まれたというのは、鷹のほうに油断があったのであって、その命運が尽きたものである。
一体、あの鷹はその門右衛門に比べて、これまでどういう働きをしたというのか。
あの鷹は拝領の鷹である故、お前が責めを重んじてそのような処置をとったことは
一応無理のないことであるにしても、わずか鷹一羽のために、大事な百姓を痛めるわけにはいかぬ。
お前は粗忽にも門右衛門を捕らえてきたが、はやくその縄を解いて、門右衛門に謝罪せねばならない」
鷹匠はこれを聞いておおいに恥じ、門右衛門に深く詫びて帰宅させた。
この話を聞いた稗貫・和賀の人々は、いずれも信愛の仁徳に感じ入り、その信望はいや増すばかりであったという。
0186人間七七四年
2011/06/16(木) 21:35:43.52ID:m3RFcGVk押し込まれるのは、体力に差があっても多少は耐え易いし、物を置いたりできるからじゃない?
引かれるのはなかなか耐えられないと思う
0187人間七七四年
2011/06/16(木) 21:43:49.92ID:cAB8nhctこれは当時の鷹が現代で言えば高級スポーツカーとか、そのくらいの価値観で見られていたことを
考えると一層味わい深いな
0188人間七七四年
2011/06/16(木) 21:52:05.59ID:hO131Qev弱い鷹だな。地上で戦えばそんなものなのか。
参考動画:モンゴルの鷹を使った伝統的狼狩り
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm7233456
0190人間七七四年
2011/06/16(木) 23:52:09.11ID:iZVa/P0Kどきどきしたけど、あ〜よかった。いい話で。
0191人間七七四年
2011/06/16(木) 23:55:05.61ID:mnA3Jpo60192人間七七四年
2011/06/17(金) 00:10:01.58ID:EMCM8gZ20193人間七七四年
2011/06/17(金) 00:20:39.30ID:NF/zSc6j0194人間七七四年
2011/06/17(金) 00:33:36.62ID:Omjbpnkk0196人間七七四年
2011/06/17(金) 09:36:17.26ID:GmgcOAQhどっちかっていうとその娘さんに胸キュンなんだけど
0197人間七七四年
2011/06/17(金) 10:06:09.10ID:NF/zSc6j0198人間七七四年
2011/06/17(金) 10:10:31.01ID:9Hz2fsCK領民のどろんこ祭りみたいなものにおしのびで参加したってこと?
0199人間七七四年
2011/06/17(金) 15:23:22.00ID:RVbQrmXvhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4751.html
この逸話のことやね。
0200人間七七四年
2011/06/17(金) 15:27:28.46ID:T8Wp+0WD0202人間七七四年
2011/06/17(金) 20:33:30.20ID:ToXtkX3b彼は銃の名手であり、九戸没落ののちは一旦津軽へ逃亡したが、南部信直への恨みから
信直の居城となった福岡へ潜伏し、これを討たんとその機会を窺っていた。
天正20(1592)年の正月12日のこと、正月の賀儀を終えた南部信直は
その日の夜半、わずかな供を連れて窟の観音(岩屋観音堂)に詣でることとなった。
それを知った業綱は銃を持って待ち伏せる。
燈灯を持った間盗役(忍者)の唐式部を先頭として、信直が供の葛巻覚左衛門・大光寺左衛門らと下堂する時、
そばを流れる白鳥川の対岸から大声で信直を呼ばわる声がする。業綱だ。
「我は九戸左近政実を頼りし工藤右馬助業綱と言う者なり。それなるは信直公と見えたてまつる。
ただ今九戸が仇を報ずる間、お覚悟めしませ!」
供の者達が矢先に立ちふさがり「燈灯を消せ!」と狼狽する中
唐式部は冷静に、囮となって飛び出し「大丈夫だ、君はここにおられる!」と燈灯を振り回して大声で護衛に呼びかける
業綱は銃を持ち直して放つ。弾は燈灯に当たってこれを撃ち落としたが、
信直はその隙に危地を脱出、福岡へ帰城した。
その日はあいにく雪が降っていたが、捕縛の為に数百人が集まり、遂に業綱は生け捕られた。
信直の前に引き出された業綱は
「九戸の仇を討つ為に君を狙いたてまつること既に十余度、天運も既に乾いてこの次第となりました。
早く命をお召しください」と請うた。
信直はこの優れた武士を殺すのが惜しいと思ったか、
「旧怨を捨てて我に使える意があるなら、すみやかに命を許し相伝の家人に列し、長く恩顧を与えよう」
と言い、業綱を許して二〇〇石・三十人の足軽の頭として取り立てた。
家臣達はこの厚遇に「お屋形様のご思慮とはいえ、いかなることか」と怪しんだが、
帰服した業綱はその後君臣の礼を守り、忠義を尽くしたという。
0203人間七七四年
2011/06/17(金) 21:39:33.99ID:d1NdsFiW九戸政実の乱のエピソードを聴くたびに、余程慕われた男なんだろうなぁと思う。
その遺臣達を懐柔する南部信直の器量の広さも大したもんだな。
0204人間七七四年
2011/06/17(金) 21:58:43.25ID:d1NdsFiW関ヶ原合戦の後、西軍の将だった石田三成は捕らえられ、大津城へと連行された。
東軍の将、井伊直政は命を受けて三成をもてなしたという。
直政は主君、徳川家康が仕える豊臣家の重臣であった三成に対し、往日の禮を違えず、それを人々は評したという。
(名将言行録 巻之五十六より)
先日放送してたBSTBSの番組でこのエピソードが取り上げられていたが、
石田三成は北近江の土豪の次男、井伊直政は滅亡した遠州の名家の生き残りから
それぞれ天下人の腹心まで成り上がったという似通った境遇である。
この席で二人がどのような心境だったのか、興味深い逸話。
0205人間七七四年
2011/06/17(金) 23:11:43.88ID:bEEWcw+u信直さんはこれで殺されかけたの何度目だよ…
それにしても、九戸の乱のとき伊達政宗に「俺が仲立ちするから九戸と和睦すれば?」と言われて全力で拒否っていた信直が、
乱後津軽に逃げたり各地で潜伏したりしてた九戸の残党をまとめて再雇用してるんだよなー
けっこう治安が問題になってたらしい
0208人間七七四年
2011/06/17(金) 23:31:13.49ID:Q/cViTAy吉川元春と小早川隆景が大内義隆に謁見した。
義隆「隆景ちゃんこっちおいで。でも元春くんにはお引取り願おうか。」
時は移り
吉川経言(のちの広家)と小早川元総(のちの秀包)が羽柴秀吉へ人質に差し出された。
秀吉「小早川くんはここに残りなさい。吉川くんはもう帰っていいよ。」
さらに時は移り
「殿〜、さっさと裏切り者の吉川を潰しちゃいましょうよ。」
輝元「絶対ダメ!吉川家の断絶は許しません!」
かくして毛利は末永く続きましたとさ
0209人間七七四年
2011/06/17(金) 23:31:38.24ID:ISRMMvsl津軽あたりには九戸の乱で逃れた者が家臣として雇われているし、政実の末裔を名乗るひともいるそうで
0210人間七七四年
2011/06/17(金) 23:37:51.34ID:UuaFzrRx実際のところ一城一人残らず全滅、ってケースは日本だとなかなか無いよね
0212人間七七四年
2011/06/18(土) 00:02:01.62ID:58WiPK7p0213人間七七四年
2011/06/18(土) 00:06:13.56ID:Ag/wtQSTつーか原城にこもった連中はむしろ自分から殉死を望んでいた面が強い。
こう言っちゃ何だが、アレは一種の集団自殺だな。
0214人間七七四年
2011/06/18(土) 00:21:30.96ID:a+E9kFqc俺が無知だったらごめん。なんで東北なのに福岡?
0215人間七七四年
2011/06/18(土) 00:24:37.97ID:7W0dkHN1筑前福岡じゃないよ
0216人間七七四年
2011/06/18(土) 00:30:19.30ID:ZjbzSMm60217人間七七四年
2011/06/18(土) 01:33:17.06ID:cjmrupvN「どんなイメージですか」のチェックほとんどついちゃうんだよね・・・
「かわいい」「斬新な」「腹黒い」「騒々しい」とか
0218人間七七四年
2011/06/18(土) 01:53:47.39ID:joVhJyrg0220人間七七四年
2011/06/18(土) 03:37:10.95ID:ZH5z0RS30221人間七七四年
2011/06/18(土) 03:52:34.77ID:e0Jidhd00222人間七七四年
2011/06/18(土) 05:54:32.95ID:bCL/F9/70223人間七七四年
2011/06/18(土) 07:38:34.32ID:f+ir8bSL他のメンバーみたいにアレンジを加える事も無く
クソ真面目に教えられた通りに踊るから一見ドン臭く思えるが
アイドルにありえないくらい誠実で
面倒臭い三河武士みたいな小西真奈美や夏川結衣 似の
俺の結婚したい有名人3位の娘が居るよな。
0224人間七七四年
2011/06/18(土) 08:32:14.34ID:WfJwQP/40225人間七七四年
2011/06/18(土) 09:23:12.22ID:ZjbzSMm6昨日の夜中にテレビでやっとった
0226人間七七四年
2011/06/18(土) 10:08:51.18ID:iCBXOsEE定良は伊勢長島の菅沼氏の一族であったが
寛永3年に徳川家光が後水尾天皇の二条行幸のために上洛した際
その列の中から見出され、嗣子のなかった旗本の養子となって家光に近侍した。
家光の死後4代将軍徳川家綱は当時600石であった定良を1000石に昇進させると共に
日光にある家光の廟を守ることを命じた。
以後47年定良は一日も欠かすことなく廟に詰め、後に寛文の五賢人のひとりに数えられたという。
0228人間七七四年
2011/06/18(土) 16:09:20.37ID:oYdh+7Xo名古屋栄版AKBだろ。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%B0%8F%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E6%B1%90%E8%8E%89
>どうでもいいがバー丸九って一体何?
何それw
0229人間七七四年
2011/06/18(土) 17:50:28.57ID:8Hkdh+cg前日、必要な道具を買い求めて帰宅した道安の前に、使用人が転げ出て来た。
「だ、旦那さま大変です!大旦那さまが!」
「?父上がどうした?」
「まずは、茶室をご覧ください。」
茶室に駆け込んだ道安が眼にしたのは、炭を撒き散らされた畳に、壊され念入りに灰をかき混ぜられた囲炉裏だった。
「・・・・・・!!」
「大旦那さまが突然来られて、私どもが止める間もなく・・・」
しかし道安は少しも騒ぐこと無く、囲炉裏を取り外し畳を敷き換え、風炉(囲炉裏を用いない五徳式の炉)を
用意して、無事に翌日の茶会を成功させた。
のちに事情を知った細川忠興は感銘を覚え、『細川三斎茶書』の中で、この道安の対応を特筆している。
『花の慶次』では親の七光りを背負ったDQNのように描かれた道安だが、利休の烈しいイジm、もといシゴキにも
耐える並々ならぬ茶人だった、という話。
0230人間七七四年
2011/06/18(土) 20:28:15.16ID:W7PIT0GC0231人間七七四年
2011/06/18(土) 21:10:40.67ID:FMYgWFDE0232人間七七四年
2011/06/18(土) 22:41:59.13ID:fBBJxEr5日本の伝統的教育法、かつ、しごきw
0233人間七七四年
2011/06/18(土) 22:56:10.95ID:9zf6lfkM0234人間七七四年
2011/06/18(土) 23:02:06.63ID:eTwlDxX4大野治房は後藤又兵衛・真田信繁・明石全登・毛利勝永を呼び寄せ今後の展開を相談
後藤又兵衛曰く『徳川軍は大和から河内を必ず通る、そこを崩せば7・8割方勝てる』
堀を埋められたしまった豊臣方に大坂城籠城戦という選択肢は消え、前に出て行くしかない状況
≪生駒山脈を越え河内平野に出てきた徳川軍を待ち伏せし、先方部隊を叩く≫
真田・毛利・明石・大野は又兵衛の作戦に賛同し作戦は即日、明朝に行われた。(この会議は又兵衛が他諸将との仲次第で見解が変わる)
先方:後藤又兵衛・薄田兼相・明石全登etc=6400 後方:真田信繁・毛利勝永etc=12000
5月5日、河内平野で野営していた豊臣軍の作戦は
道明寺村に後藤・真田・毛利隊が着陣後に大和川のすぐ東の狭地、国分村にて徳川幕府軍を攻撃する
この手筈で進む予定であった。
5月6日、後藤又兵衛が道明寺村に到着し後衛を待つが真田・毛利・明石・薄田などの諸将は一向に現れない
後衛部隊ならともかく、前衛部隊ですら道明寺村に姿を見せていない、流石に又兵衛は焦った
『このままでは不味い』と思う束の間、偵察から国分村に既に幕府軍が陣を取っているとの情報が入る。
又兵衛の取れる策は『後退』・『道明寺村にて前衛薄田・後衛真田を待つ』・『渡河し国分村の前、小松山に向かう』
考えられる限りこの3つである―
後退:仮に援軍が来ている可能性もある、論外
待つ:援軍が来ていれば、来なければ×
渡河:小松山は砦として機能する、時間を稼ぎ援軍の到着を待つ
又兵衛は勝つ為の選択を取った、通常の将ならば援軍が来るまで待つ可能性が高かったであろう。
『仕方あるまい、しかし、早く来てくれ…』又兵衛は小松山に陣を張る為に渡河を決行した、後方を見るがやはり援軍が来る様子はない…
小松山に陣取った後藤又兵衛軍に徳川軍が気づかない筈がない、直ぐに小松山包囲戦が開始された。
0235人間七七四年
2011/06/18(土) 23:05:26.33ID:eTwlDxX4小松山後藤又兵衛2800 大和口先鋒:水野勝成3800 二番手:本多忠政5000 三番手:松平忠明3800 4番手:政宗10k
『やはり又兵衛、まんまと釣られたか!』
後藤又兵衛の小松山進入は、嘗て同じ時間を共にした水野勝成にはお見通し、勝成はすぐさま小松山に攻撃を仕掛ける
しかし又兵衛は釣られた訳ではなく端から小松山で時間を稼ぐつもり―
『やはり勝成か―皆の者!援軍が来るまでの辛抱ぞ!』
AM 4:00 〜開戦〜
一番隊先導役で大和衆の奥田忠次が小松山に突撃してくると又兵衛隊は直ぐに応戦し奥田忠次は戦死した…
松倉重政が奥田と戦う又兵衛隊の隙を突き小松山の南に入る
後藤隊は後方を断たれてしまうが又兵衛隊の猛攻は凄まじく松倉隊も壊滅的な被害を受ける。
(まだ来ぬか!薄田隊!明石隊は何をしておるのだ!)又兵衛の焦りは徐々に増すがまだ姿すら見えず―
―(少数部隊では埒が明かぬ)水野勝成は等々自ら後藤又兵衛の守る小松山に向かう
しかし又兵衛隊の奮戦・勢いは水野隊が加わっても全く怯む様子が全く無く結果的に水野は予想とは違う苦戦を強いられることとなる
そして本多・松平隊も包囲に加わり又兵衛を囲む幕府軍の軍勢が12600となり…開戦から5時間後―
政宗『待たせたな!』 10kの政宗軍が包囲に加わり
西:水野 南:松倉 北:政宗 東:本多・松平の波状攻撃に又兵衛隊は曝される事となる
又兵衛(援軍が何処まで来ているかは見当もつかぬ・・・せめて道明寺村まで来ていれば)
戦いは伊達軍が参戦したAM9:00から更に3時間が経った時
『死にたくない者は去って平野の本営に合流しろ』しかし又兵衛の言う事は誰も賛同しない。
その後又兵衛の前に現れた片倉隊により又兵衛は腰を撃たれてしまう。
大坂方唯一と言って良い歴戦武将、後藤又兵衛は小松山に散った(異説あり)
残った又兵衛隊は又兵衛の死を知ると殆ど逃亡する事無く敵陣へと散り殉死していった。
後藤又兵衛2800 幕府軍22600 と8倍の兵力に臆することなく戦った又兵衛が稼いだ時間は大凡8時間
しかし午後になっても援軍は来る事はなかった、更には幕府軍は追撃戦で石川の渡河も終えてしまう。
豊臣援軍は道明寺にすら辿り着けていなかったのだ。(薄田隊400『だけ』は河原に陣取っていた)
これ以降豊臣方では『策』を用いった戦いは無くなり将個人の力による場当たり的な戦いだけが頻発してゆく。
今福の戦いで又兵衛と共に指揮を執った木村重成も又兵衛の後を追うように散る。
余談だが、後藤又兵衛の突出と援軍の遅れは霧の原因とされているが、やはり不自然な点も否めない部分もあるが
別の話であるように又兵衛は徳川家康との『和睦』を求めていたのであれば、遅かれこうなる運命となったのかもしれない。
真田・明石・毛利隊が何故遅れたのか、その理由は謎に包まれたままである
0236人間七七四年
2011/06/18(土) 23:11:40.76ID:eTwlDxX4後藤又兵衛〜その生き様〜
でお願いします。
0237人間七七四年
2011/06/18(土) 23:12:50.58ID:Qb9BoD0f0238人間七七四年
2011/06/18(土) 23:13:51.09ID:DJBY6jCh0239人間七七四年
2011/06/18(土) 23:21:15.29ID:qtVGwtOC0240人間七七四年
2011/06/19(日) 00:54:28.62ID:LboOFVgG逸話じゃなくて単なる歴史つーか戦記だよね、これ。
0241人間七七四年
2011/06/19(日) 01:48:43.20ID:6hwlqXyK0242人間七七四年
2011/06/19(日) 02:48:45.15ID:yRsRAmkG文章表現に自信がなくて、残念さんと混同される恐れあり、なので。
0243人間七七四年
2011/06/19(日) 04:29:32.62ID:aKZ+KMG+残念さん、被害妄想乙です
でも逸話の意味をよく理解してから書き込んでくれよ
ただ歴史の事象を書き連ねるだけだったのを指摘されて逆切れして叩かれて
次は事象に自分の主観と偏見を織り交ぜて叩かれて
今度は仮想戦記風で叩かれても凹まないその気概で頑張れや
0244人間七七四年
2011/06/19(日) 07:39:11.96ID:CIUHZSas0245人間七七四年
2011/06/19(日) 08:09:16.12ID:9skMAiLQ0246人間七七四年
2011/06/19(日) 08:30:51.60ID:2A2D/Uyw0247人間七七四年
2011/06/19(日) 10:32:35.94ID:yRsRAmkGありがとうございます。頑張ります。
>234,235 これ、自分じゃありません。
そもそも文字と漢字が多くて途中でリタイアしました。情けない話です。
0248人間七七四年
2011/06/19(日) 14:14:16.10ID:jsPAk0aa片倉小十郎
「若様の片目は目の玉が下がり出てとても見苦しい。
それだけなら良いですが、戦場での御働きに必ず邪魔になります。
万一、組討ちになれば下がり出た目の玉を敵に握られ必ず敗れましょう。
このように、その片目は不要どころか、却って武士として害になります。
ですから切捨ててしまってはどうでしょうか。
切捨てて、御命にもしものことがあれば、
この小十郎も切腹し冥土へお供いたしましょう。」
政宗「至極なり」
こうして政宗は目の玉を切捨てたが出血はひどく、激痛におそわれた。
さすがの政宗もまだ幼少。その苦しみにたえかね、今にも絶えてしまいそうな様子だった。
そんな政宗の耳元に小十郎は、
「若様、未練がましく弱り果てていますな。
その昔、鎌倉景政公は敵に目から頭を射ぬかれても、
その矢を抜き取らずそのまま射た敵を追いかけ遂に討ち取ったと聞きます。
片目を切捨てたくらいで、ここまで弱る大将では話にもなりませんな。」
小十郎が言い終わると同時に、政宗の残る目に生気が宿り立ち上がり、
「我おもわず不覚をとったり」
と叫んだ。
なお、この出来事は晩年まで、あの時の不覚は生涯の不覚なり、と政宗は語り続けたということである。
0249人間七七四年
2011/06/19(日) 15:19:44.49ID:KpUK6QOJ今史料とか読んで充電してるし、それ終わったらこいつらのガキっぽい本能とかにむかついたからスレ潰すレベルで書きこむからよろしく。
文章表現ってこいつらの文章の書き方とか全部同じでテンプレ化しててうまくもなんともないし
まとめのアホはこのスレを「自分のスレ」とかと勘違いしてそうだし。
こいつらの「敵対してるから何でもかんでも相手を攻撃する」って幼稚なベクトルには同じことをやり返すだけ
0250人間七七四年
2011/06/19(日) 15:31:40.36ID:hSNL/tB2君が来てからスレが酷くつまんなくなった。
スレ住人が残念って思ってて構わないから永久に充電し続けてくれ。
あーほら多分才能あるよ。こんなスレで君みたいな逸材が才能をすり減らすのは勿体無いから溢れて零れ落ちた才能をいかし、自分のホームページでも立ち上げて思う存分書き連ねたらいいんじゃないかな。うん。
0251人間七七四年
2011/06/19(日) 16:20:03.14ID:ikNQ1K7J0252人間七七四年
2011/06/19(日) 17:01:08.99ID:aiDw2hDUいや面白い話を書いてくれれば良いだけなので、潰すとか厨二病的な考えは捨てていただきたい。
京極竜子の話にしても「金で女が買える」話なんて蛇足をつける必要はないと思うよ。
それと悪い話スレに良い話を投下とかするつもりならやめてほしいな。
よく書かれた話でも、投下場所が違うと評価されないどころか、場違いって点だけが、叩かれて話の
内容が評価されなくなる。
ちゃんと書いてくれるなら、真面目に評価します。そういう読み手もいるのを理解して話を投下してくれる
ことを期待しています。
0253人間七七四年
2011/06/19(日) 17:35:01.28ID:Fm+Xucay出来るもんならやってみろよwwwwwww
0254人間七七四年
2011/06/19(日) 19:01:34.83ID:KpUK6QOJ0255人間七七四年
2011/06/19(日) 20:12:25.00ID:NXsH5+NQ一時的に恭順しても恨みを忘れず、後に本望を遂げた、もしくは失敗して
処刑された奴もいるんだろうな。
0256人間七七四年
2011/06/19(日) 22:30:19.84ID:rFTtxaeG再び襲うも果たせず、2度は許せないとして処刑されるが、その義心と
立派な最期、一度許した狙われた側の度量を皆が褒め称える。
これって、史記の丸パクリじゃないのかね?
戦国期の武士ならともかく、江戸期の武士なら史記を読んでるのが基本だし、
戦国期の逸話を読んで「これパクリじゃん、ワロスwww」とか思わなかったのかな?
0257人間七七四年
2011/06/19(日) 22:55:44.53ID:oW/t4yK/0258人間七七四年
2011/06/19(日) 22:56:40.49ID:5xTnPYFn0259人間七七四年
2011/06/19(日) 22:57:23.76ID:jsPAk0aa0260人間七七四年
2011/06/19(日) 22:59:19.46ID:iPlvyo4J0261人間七七四年
2011/06/19(日) 23:03:10.87ID:M3WYPi/P付け狙っているのがバレ、仕えるように言われたまでは同じだが自決しているし
このくらいの似たような話なら実話であってもおかしくはないと思うが
0262人間七七四年
2011/06/19(日) 23:16:22.79ID:28oiz4Ey0263人間七七四年
2011/06/19(日) 23:20:01.41ID:jsPAk0aaこの話はこういう意味のものだと決め付ける必要性はないだろ
0264人間七七四年
2011/06/19(日) 23:40:27.69ID:KpUK6QOJ1796年、天明の大飢饉により田沼意次が失脚し松平定信が老中となった。
それに伴う改革の失敗で起こった急激な不景気のせいで治安が悪化したため
長谷川平蔵が火付盗賊改方となったのである。
長谷川平蔵は、犯罪者を取り締まるもののいくら取り締まっても犯罪者がいなくならないことに悩んだのである。
そして悩んだ挙句に「犯罪者捕まえるだけでは駄目だ。失敗者を見捨てずに社会復帰させることが必要だ」と考え
幕府に訴え人足寄場を創り上げたのである。
人足寄場とは無宿人や犯罪者をここに送り、社会復帰させることを目標とした設備である。
無宿人は保証人がないため雇ってもらえずに治安悪化の原因となっていたため
そこで、長谷川平蔵は人足寄場に無宿人などを送りそして人足寄場で社会復帰訓練を経た人間を
幕府が身元保証することで社会で生活していけるようにしたのである。
長谷川平蔵は火付け盗賊改方の長官に就きながら、人足寄場の代表までやる「二足のわらじ」を履くこととなった。
そして平蔵が人足寄場を作って3ヶ月後、まず第一弾の3000名が
人足寄場から社会に解き放たれ社会で生活していけるようになったのである。
ただ取り締まるだけでは意味が無いという長谷川平蔵のちょっと良い話。
0265人間七七四年
2011/06/19(日) 23:44:20.82ID:xFFGWPpe0266人間七七四年
2011/06/19(日) 23:46:23.23ID:KpUK6QOJこれなら史料もいっぱいある
0267人間七七四年
2011/06/19(日) 23:48:10.03ID:jsPAk0aaオマエはイジメられっ子のネット番町か?
0268人間七七四年
2011/06/19(日) 23:49:58.84ID:qCMXRXSg0269人間七七四年
2011/06/19(日) 23:51:53.77ID:Zb3PZibo0270人間七七四年
2011/06/19(日) 23:55:41.44ID:cJ3YxNDb0271人間七七四年
2011/06/20(月) 00:05:07.36ID:9TeMMTP0豊臣秀次が死んだ後、豊臣秀保まで謎の死を遂げているが
死因は不明であり諸説あるのが実情である。
落馬で死んだ、小姓に抱かれて飛び込まれたなどの諸説があるが、
現在の政治事件と同じ要領での変死が実情であっただろう。いつの時代も政治はきな臭さを残す。
しかし豊臣秀保には秀次と同じよな乱行が世間への風説として流れていくこととなる。
これは恐らく自説となるが豊臣秀吉が秀頼可愛さに、邪魔となる一門の秀保を排除したものであろうと考えている。
流石に秀次と同じような乱行のパターンは考えづらいためワンパターンなそして王道の秀吉による印象操作だろうと考えられる。
そうすることによって秀吉は「大和豊臣家の取り潰し」をすることができたのであった。
後見の藤堂高虎はそれを見て、高野山に隠遁し責任をとったのである。
これは藤堂高虎は大領の連座を出した秀次事件と同じく自らも後見の責任で連座させられると感じたのか、
高野山に隠遁し処罰を受けないようにしたと考えられる。高虎の見事な処世術といえる。
秀吉は高虎を必要だと感じたのか秀頼のもとに有能な士を残しておきたかったのか
藤堂高虎を6万石の大名に取り立てたのである。藤堂高虎の見事な処世術のいい話。
余談
当然藤堂高虎は豊臣家大嫌いになったようであり豊臣家を滅亡させるのに功があった。
いや秀保も望んでなかっただろうけど。
0273人間七七四年
2011/06/20(月) 00:07:34.64ID:9TeMMTP00274人間七七四年
2011/06/20(月) 00:09:57.54ID:FnTO0oCq0276人間七七四年
2011/06/20(月) 00:12:34.12ID:9TeMMTP0世界史とか日本史の話を書こうと思います。
0277人間七七四年
2011/06/20(月) 00:12:46.11ID:s4zN9REbほっといたらまた息切れする
0278人間七七四年
2011/06/20(月) 00:19:56.41ID:HKucmY1Vこいつ忘れたころに来てはこんなこと繰り返してる確信犯の真性だから
構わずほっとけよ
0279人間七七四年
2011/06/20(月) 00:26:55.49ID:FnTO0oCq0280人間七七四年
2011/06/20(月) 00:35:11.02ID:FlgeKXAW高野山に入った高虎を処世術という面だけでとらえた、いい話としては
非常にドライな解釈だと思う。もっとその背後にあるものをいろいろ
収集して読み込むと、みんなをうならせるいい話が書けたのでは。
もっとも、改心後初の戦国物として高虎をチョイスしたのは良いかもね。って添削してどーすんのよ、オレ。
0281人間七七四年
2011/06/20(月) 00:40:33.84ID:9TeMMTP0支配者に立ち向かって事例はあれど、雑賀の傭兵集団のようなイメージで語るのは間違っていると言える。
上忍、中忍、下忍なんて山田風太郎が考えたものであり、
抜け忍が禁止だとかに至ってはどこの小説家や映画監督が考えたのかってくらいの史実とは違う設定である。
そもそも伊賀国は地質が悪く作物がとれにくいために大量に他国に抜け出るものがでて
大名に仕え他国に優れた技を残した。全く抜け忍など禁止されていないことになる。
甲賀は六角氏の家臣であり、独立した国人ですらなかったのである。
現在ではwikipediaなどで史実とは違う俗説が信じられ、アニメや映画などでもそれらが引用され世の通説となるに至っている。
しかし史実ではないと否定するのではなく世は戦国時代を素晴らしく想像し創り上げた、素晴らしい物にしていったに違いない。
実際の戦国時代は、封建制の時代であり拷問や身分があり宗教的であり
つまらないものであるから戦国板のここのスレの住人からしてみれば幻滅すること請け合いなのである。
なのでここのスレの住人のとっての戦国時代は竹中が数人で城を落とし、鉄甲船があった――
そんな時代に違いない
0282人間七七四年
2011/06/20(月) 01:15:47.30ID:3T0dgJ260284人間七七四年
2011/06/20(月) 01:28:15.30ID:9TeMMTP00285人間七七四年
2011/06/20(月) 01:32:20.72ID:87ijaqPT決して味方に先んじられまいと決意せよ。
また、戦陣を何度重ねたとしても、初心に帰り、初陣の気持ちで掛かれ。
戦傷を恐れてはならない。怪我をするかしないかは運次第である。
矢や鉄砲弾が飛び交う戦場であっても、運が強ければ怪我などしないのだ」
…初陣の話はともかくとしても、
一番槍を譲るなとか、運さえあれば怪我しないよとか、
結構無茶な事を言っているように思う。
行き過ぎると勝成みたいになるけど。
が、まぁ心構え的には怖がらず戦えって事なのだろう。
そんな前スレに出てきた戦国武士である大井右近さんが、
江戸期に生きる若者に送った、戦争の時の心構えについての話。
0286人間七七四年
2011/06/20(月) 03:44:49.10ID:ROiPWiP40287人間七七四年
2011/06/20(月) 05:54:12.47ID:2ePMzutb0288人間七七四年
2011/06/20(月) 06:02:48.58ID:nMvAAMxG自演認定して終わらせてるから死ぬまで治らない
0289人間七七四年
2011/06/20(月) 09:53:15.98ID:HbeDwmr9美濃の大井という地を行き過ぎたところ、道端で盲目の女が乞食をしていたが、
大名が通るということを聞いて、清正の行列の先で、歩行の者たちに銭を乞うていた。
清正、これを馬上から見てこの乞食に、「お前は何者か?」と尋ねる。
すると乞食、自分はこうやって乞食をして、年老いた親を一人で支えているのだと、その身の上を
語った。
清正これを聞くと
「さても可哀想なことだ。盲目の女の身として、年をとった親を養うとは立派なことである。
だがそれは金を得るための偽りかも知れぬ。お前たち、そのことを詳しく調べて参れ!」
と、家臣に命じ畑仕事をしている百姓たちに尋ねさせれば、乞食の言うことは確かにその通り、
偽りないことが解った。そこで清正は乞食に金銀の銭を少々与え、さらに供の者たちにも
「少々与えよ」と言う。
すると彼らも一人残らず、この女乞食に百文、二百文づつ与えたため、最終的におびただしい金銭が
女乞食のもとに集まった。
これを見て清正は
「これはいかん!これだけ銭をあの盲目にそのまま渡せば、不埒な者がそれを強盗して
かえって仇になるだろう。」
と、その在所の名主を召し出し、「この金を盗人に取られぬようにして、乞食を保護せよ」と
直に命じ、名主にその銭を渡したという。
これを見た人々は清正を、「まことに慈悲深き御大名である、孝行を感じられて、乞食非人にまで
お情け深いこと、古今稀なる大将だ」と、尊卑老若の区別なく感じ入ったということである。
信長にもよく似た逸話がありますが、当時の大名に求められていた「善行」の内容が
少々見えてくる、加藤清正と女乞食のお話
(續撰清正記)
0290人間七七四年
2011/06/20(月) 10:06:49.90ID:H0yZtnAV久秀さんのいい話はコオロギだかキリギリスの話もそうだっけ?
0291人間七七四年
2011/06/20(月) 10:42:26.70ID:XpHklXdC0292人間七七四年
2011/06/20(月) 12:22:25.29ID:HJuOqNce生まれながらの大名ではない成り上がりの清正ならこれぐらい普通にやるだろ
0293人間七七四年
2011/06/20(月) 13:27:28.54ID:6sK6CohIうちだせる名君だったんだなあ
0294人間七七四年
2011/06/20(月) 17:20:05.55ID:FlgeKXAWまわりの支援を得て、この乞食女もうまくしたら自立できるかもしれん。
0295人間七七四年
2011/06/20(月) 17:39:57.73ID:KmitDpnN0296人間七七四年
2011/06/20(月) 17:57:27.04ID:Z7DljC7K0297人間七七四年
2011/06/20(月) 18:11:10.65ID:2ePMzutb0298人間七七四年
2011/06/20(月) 18:23:32.16ID:ErNDm2BDまあ、神になった武将ってんならこのスレでも過去に出てた甲斐親英とかいるけど。
取り上げ方で言うと
清正>>>細川氏>>菊池氏>>佐々成政・阿蘇氏・相良氏以下略
とりあえず少なくともこんくらい。
そして、ライバルだったせいか黙殺されてきた小西行長も、再検証の本とか出版されてきてたり。
0299人間七七四年
2011/06/20(月) 19:15:42.51ID:pSRubQBT0300人間七七四年
2011/06/20(月) 20:30:04.53ID:xIb9y9br若いときに勉強なんぞする暇なんか無かったはずだのにな。
秀吉の一族が貧乏な農民てのはほんまの話か?
中村や御器所あたりに言い伝えとか残っておらんのか?
0301人間七七四年
2011/06/20(月) 21:22:45.01ID:x+xehhJJ嫁の弟とか又従兄とか妹が嫁いだだけの百姓とか使うくらいだからホントに身一つだったんだろう
0302人間七七四年
2011/06/20(月) 21:33:19.38ID:waVj5HWB幼少から教育を十分受けられたはずの大名の二代目三代目が凡庸な出来になったり
個人の才能の差と言えばそれまでなんだろうけど
0303人間七七四年
2011/06/20(月) 21:42:26.46ID:j+ourzQx努力しないでも何の不便も不安もない人間の差だよ
前者が上昇志向旺盛なら猶更その差は広がる
0304人間七七四年
2011/06/20(月) 21:50:31.42ID:bYJR+S3q散々家臣にフルボッコされてたNGMSは、何だかんだ言って立派に務めを果たしてたと思う。
問題はその次の代だが……。
0305人間七七四年
2011/06/20(月) 22:11:55.07ID:9TeMMTP0対匈奴戦争や反乱鎮圧に功があった。
彼は戦争中に泉を見つけても部下が全員飲み終わるまで泉の水を飲まず。
食事中にも部下が全員食べ終わるまでは食事にも手を付けなかった。
また兵士がずぶ濡れになっているときは彼も一緒に兵士と共にずぶ濡れになっていた。
最後の対匈奴戦争で功をたてられずに自噴したときには大勢の人間が涙を流した、
そのような逸話がある人格に優れた将軍であった。
そんな彼がある時に公爵を授与されない事に悩み占い師の王朝に相談した。
李広「何故私は公爵になれないのだろう」
占い師「自分の中で考えてください。なにかあるはずです」
李広「わしが若い頃に隴西の太守だった頃、羌族が背いたときに、
降伏を呼びかけた。降伏した者をその日のうちに騙し討ちにした。800人余りだった。今でも心が痛む」
占い師「それです。ふったものを騙し討ちにすることが一番悪いことです。それが公爵になれない原因です。」
人格に優れた飛将軍が降服した羌族を騙し討ちにした。そんな悪い話である。
0306人間七七四年
2011/06/20(月) 22:14:50.41ID:IQtirSfxそれに対して、ものいいまくりで自ずから人に避けられる奴がこのスレに
0307人間七七四年
2011/06/20(月) 22:32:27.74ID:8JktMGSN0308256
2011/06/20(月) 22:34:50.49ID:E1IXRovu書かれてないかなー、とか思ったんだけど。
下手にそういう突っ込み入れると、逸話の人の末裔に喧嘩売るようなもんだからみんな自重してたのかな?
0309人間七七四年
2011/06/20(月) 22:37:18.61ID:Bb+8MuyXけっこう実務的な知識が得られたのかもしれない
0310人間七七四年
2011/06/20(月) 22:46:02.57ID:8VVy8ye50311人間七七四年
2011/06/20(月) 23:16:44.27ID:E1IXRovu0312人間七七四年
2011/06/20(月) 23:20:21.14ID:x+xehhJJ0313人間七七四年
2011/06/21(火) 00:35:21.50ID:D4MH2drP先人の例があり、それをなぞらえた逸話があるとして、
先人の例を話としてなぞった可能性もあれば、
先人の例を正しく実行でなぞらえた可能性もある。
一級史料の無さを元に否定や議論がしたいのであれば
君のいるべき場所はここでなく日本史板だ。
0314人間七七四年
2011/06/21(火) 02:25:37.75ID:MwCbMHQ2高虎は餅ただ食いの放浪時代には、建設現場で人足とかのバイトやってそう。
で、実地で覚えた部分もあると。
いつの時代も体力自慢が手っ取り早く稼ぐ方法は同じというか・・・。想像ですが。
0315人間七七四年
2011/06/21(火) 03:40:05.25ID:F/7Hlk/Kつまるところ、うまいこと専門知識を生かす力と、
>>289みたいに物事に対する明察が鋭かったってところか
0316人間七七四年
2011/06/21(火) 07:10:37.64ID:IHHrsGjx0317人間七七四年
2011/06/21(火) 14:33:29.02ID:C6FMrNMQわざわざ構うのはネタが少ないからかね。
0319人間七七四年
2011/06/22(水) 02:41:52.13ID:yyitA/Zdかつて、高虎が浅井家の足軽だったころ。
高虎は山口茂左衛門という小頭の部下だった。
高虎は貧しく、朝めしも食わず出仕してくることがよくあった。
茂左衛門の妻はこれをことのはか不憫に思い、たびたび茶漬けなどを食べさせた。
「このご恩は後々まで忘れません」
高虎はそう言ったという。
時が移り、ようやく高虎も城持ち大名になった時、
浪人していた茂左衛門は高虎のもとに呼び寄せられた。
そして、三百石取りの客分として召抱えられたのである。
藤堂家中で茂左衛門は「殿」付きで名を呼ばれ、丁重に扱われたという。
(おきく物語)
0320人間七七四年
2011/06/22(水) 20:25:32.91ID:w0d/BnPG文明15年、赤松政則の領国は山名政豊の猛攻に曝されていた。
まず備前の福岡城が窮地に陥ったが、政則は宿老・浦上則宗らの意向を無視。
兵を備前ではなく、但馬との国境に向けたのだった。
そして真弓峠で雪に動きを封じられた政則は、山名の本隊に襲われ、政則も一時行方不明に
なるほどの大敗を喫することとなり、さらには福岡城も陥落。
政則は浦上則宗らによって主君の座を追われ、赤松領の大部分も山名に奪われてしまった。
(この後、政則は堺から入京し、幕府の有力者の間を回って将軍から家督を安堵され、
やがて密かに浦上則宗と和睦し、突如戦線に復帰することになる。)
だが、政則は「無双之勇者」だ。
文明17年閏3月27・28日に垣屋一族が籠もる山名勢の拠点「森岡之城」(蔭木城?)を
攻め落とし、大勝利を収めたのだ!
0321人間七七四年
2011/06/22(水) 20:28:40.28ID:w0d/BnPG「我に力を貸してくれるのであれば、一村を寄付しよう」
それも、山名が横領した我が興福寺の旧領の返還した上にである!
そして戦いが始まった。
そこには城中へと、凄まじい勢いで突入する者の姿があった。
春日大明神の御遣いである「神鹿」が現れ、山名勢に突撃したのだ!
城内はたちまち大混乱に陥り、大打撃を受けて落城。
垣屋という名字のものはことごとく討ち取られたのである!
興福寺に備前肩背郷の一部が寄付されたのは何を隠そう、
当社の大明神の御神徳によるものなのである!!
(神鹿馳入敵之城中、其以来山名方城中無正体落畢、垣屋名字悉終了、
依之別而披寄附之条、当社大明神之御神徳也)
興福寺=春日神社の、なんとも調子のいい話。
(多聞院日記)
0322人間七七四年
2011/06/22(水) 20:35:05.92ID:FY1c3s4t0323人間七七四年
2011/06/22(水) 22:36:21.20ID:yQpav8Tb歴史学者ではなく心理学者である
故河合隼雄による批判が面白かった。
0324人間七七四年
2011/06/22(水) 23:17:16.85ID:NYISfxRj0325人間七七四年
2011/06/23(木) 00:26:05.07ID:fT968J4e多聞院日記に対する批判というより、
多聞院英俊(多聞院日記の主な筆者)に対する批判だった…。
まぁ一応、妙恵とその夢の記録について書かれた本の、
最初の方に少し触れられてる。要約すると…
英俊は夢を多く記録したが、
夢に対して具体的な意味を持たせようとしすぎ、
自分の願望と現実の区別を冷静に判断出来ていない。
一例を挙げるなら、天正14年正月元旦の日記に
「昨夜夢ニ発句、誰トモ知レズニ、花ちりて色も香もなき梢哉、とありしニ、
愚、おとづれ帰るかりの一つら、ト付ケ了ンヌ。夢ノ如クンバ、
三月末ニハ当国衆古里へ帰ルベキカト解キ了ンヌ」
(昨夜夢で誰かは分からないが、「花ちりて色も香もなき梢哉」と発句があり、
私はその続きに「おとづれ帰るかり(雁)の一つら」と付けた。
この夢は三月末に筒井氏が大和の国へ戻ってくると解釈する)
とありその下に小さい字で「後日云、少シモアワズ、雑夢々々」
と書き加えている。
これは(英俊が嫌っていた)秀長が筒井の代わりに大和に入った事に関係した夢であるが
英俊は雁が帰る様をイメージした事を、
直接的に当国衆(筒井氏)が大和に戻ってくる事と結びつける。
しかしこれは間違った解釈で、筒井氏関連で解釈したとしても、
英俊自身が筒井氏に戻って来て欲しいと思っている、という事だけである。
夢は多義的である為、それを判断するなら一度現実に戻って考え、
実際に筒井氏が復帰する可能性があるかを検討すべきである。
それを雑夢と夢の方を非難して夢を見た自分の反省をしていない。
(後略)
大体こんな感じ。
他にも長年修行を積んだ僧の持つイメージとしては物足りないとか、
夢の咀嚼力が足りないとか、
臨床心理学的な立場から散々な評価をしてる。
0326人間七七四年
2011/06/23(木) 00:33:03.48ID:colwvU2rしかし、あの時代の人間は総じてロマンチストが多いからなぁ
これは俺の願望、これは夢、なんて野暮な分析はせんだろうに
0327人間七七四年
2011/06/23(木) 05:56:31.58ID:DZ1Yd4zz「他にも夢を記録していた僧はいるが、みんなすごいわけではない」
という例に英俊さんが引っ張り出されてしまったw
0328人間七七四年
2011/06/23(木) 07:48:34.06ID:KZqkjcSv0329人間七七四年
2011/06/23(木) 08:56:52.37ID:j22Eelg/0330人間七七四年
2011/06/23(木) 20:18:55.15ID:/Kl6Gu2p0331人間七七四年
2011/06/23(木) 22:50:39.33ID:70Z4hefz夢の話ならまだあるぞ
信長と聖徳太子
三河の僧侶・可心が10年前(天正元年)に見た夢を法隆寺の学侶・栄甚経由で多聞院栄俊が聞いた話と
して紹介されている。
内容は「可心の夢の中に聖徳太子が出てきて『天下を治められそうなのは朝倉義景・武田信玄・織田信長
の3人である。しかし、義景には才能がなく、信玄には慈悲の心がないから、信長しかいない。私(聖徳太子)
が源頼朝に遣わした太刀が熱田神宮にある。それを早く信長に遣わすように。」と言ったところ、可心は聖徳太
子のお告げ通りに熱田神宮から太刀を信長のもとに持参した。太刀を見た信長は「ワシも確かにその夢を見た
とてもめでたいことである。」と大いに喜び、栄甚の寺の再興を約束したという。
(多聞院日記 天正10年3月10日条)
ちなみに以上の夢想譚は織豊時代の王権論についての学術論文で紹介されている。
0333人間七七四年
2011/06/24(金) 02:08:06.44ID:toclH5O3こんな話あったんだ
近衛前久の話で、武田征伐の帰り道、三河の聖徳太子由来の寺に泊まったら
そこで太子由来の話だか物品だかを見聞きして、後日そのことを信長に話したら
「天下が落ち着いたら二人で見に行こう」と約束した。しかし本能寺の変であの
約束は二度と適えられなくなってしまった、と嘆いたという
細かいところうろ覚えなんだけど、こんな話が前久の日記だか手紙だかにあるそうだ
0334人間七七四年
2011/06/24(金) 09:18:11.06ID:mCcEOogm当時、友人になり得たのは立場が違う人だけだろうからねぇ
0335人間七七四年
2011/06/24(金) 09:55:00.50ID:sEXZdTcG天然系には信長さんは割と甘いっていう印象www
0336人間七七四年
2011/06/24(金) 10:03:58.29ID:cpnCkQ16信長公が東海道を通って帰ると聞いて
同行したいと言ったところ「おめーは中山道から帰れよ」と
断られたのは仲良かったから
0338人間七七四年
2011/06/24(金) 20:53:24.69ID:IdPMOG+4黒田官兵衛と仲が悪かったと言われている高虎さんですが、あるとき、その事を知っている側近と高虎さんがお話していた時のこと。
色々雑談でもしていたのだろうか、話の最中に黒田官兵衛の名前が出てくることとなった。
その時、高虎と官兵衛の仲が悪い事を知っていた側近は、色々おべっかをつかって悪口をつらつらと言ってご機嫌を取ろうとするのだが、
彼は黒田官兵衛について色々と悪口を言っておべっかを使う側近に対し、こんな事を言った。
「そんな事で俺が喜ぶと思っていたか。おべっかを使ってご機嫌を取ろうと思ったつもりだろうかそんなことで俺は喜ぶようなことはない。お前なんぞクビだ」(内容は少しうろ覚えですスマソ)
といい、側近をクビにしてしまったという。
柔軟な性格だと思われていた高虎さんですが、意外と頑固な一面があったようです。また官兵衛さんとも仲が悪かったというのも驚きです。
0339人間七七四年
2011/06/24(金) 21:01:18.58ID:RTNHZ4Noもしかしたら黒田長政のことが官兵衛さんの話になったのかも知れないな。
長政に関しては三斎様が
「黒田の奴、藤堂殿とも関係悪くしやがったwww!」
と大喜びで息子に報告してるから。
0340人間七七四年
2011/06/24(金) 21:02:22.65ID:bwWU0vBN如水さんバージョンもあったとは知らなかった
0341人間七七四年
2011/06/24(金) 21:04:29.99ID:7ph5dKKC0342人間七七四年
2011/06/24(金) 21:19:45.30ID:s6y0vVqT0344人間七七四年
2011/06/24(金) 21:21:20.83ID:mjL1+B0oで、七度主人を替えることに
0345人間七七四年
2011/06/24(金) 21:48:29.28ID:lzBTSYpaんで長政は高虎と犬猿の仲の加藤嘉明と仲良し
領土接してるからいざこざ耐えんのだろうけど
北九州 忠興 vs 長政
| |
伊 予 高虎 vs 嘉明
ちょうどこんなイメージ
0348人間七七四年
2011/06/25(土) 01:28:07.07ID:j+KHzWlE0350人間七七四年
2011/06/25(土) 03:43:47.23ID:rYzsurJA一応親しかったみたい。
(参考ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2045.html)
ただ地味加藤さんも地味にひねくれ者だから
賞賛の言葉も額面どおりに受け取って良いものやら…
余談だけど長政の元を飛び出した後藤又兵衛は嘉明と仲が良く、
(叔父が伊予長生寺の住職をしていた関係か?同寺には伝又兵衛の墓(首塚)がある)
大阪の陣前に家族を預けていったとか、
生き延びてその領内で農民として大往生した、などという逸話が残る。
又兵衛同様、主の嘉明と喧嘩して出奔した塙団右衛門の墓(樫井古戦場の五輪塔とは違う首塚)は
細川家菩提寺の京都大徳寺高桐院にあると伝わる。
(一般未公開。掃除夫さんに尋ねてもよく知らない様子だった)
忠興と団右衛門の関わりが全く分からないけど、親しい嘉明に仕えていたときに面識があったのかも。
0351人間七七四年
2011/06/25(土) 03:53:45.49ID:rYzsurJA×長生寺 ○長泉寺
0352人間七七四年
2011/06/25(土) 14:55:31.33ID:QGtViKmp佐沼城に木村親子を押し込めた。いわゆる葛西大崎一揆である。
直ちに近隣大名へ一揆鎮圧の命が下り、これを受けた蒲生氏郷は同年11月初旬、陣触れを家中に発した。
しかし、
「この寒さ、かなわぬのう。わしら近畿者には、たまらんわい。」
「ほんに。しかも今年は、この大雪じゃ・・・」
伊勢松坂から会津にやって来た蒲生武士たちは、奥州の冬を前に士気が下がるばかりだった。
「汝ら、何をヌルいことをぬかしおる。わしを見よ!」
「おおお、殿!そ、そのお姿は・・・!!」
“而も其日、大雪降りて寒かりしに、氏郷諸勢を見せしめとや思はれけん、直膚に鎧計りをぞ着せられける”
(氏郷記)
マッパの上に鎧着用という、武田“素肌攻め”勝頼さんもビックリの斬新なファッションである。
「や、やはり殿は違う。我らも見習わねば・・・!」
大将の雄姿に気力を取り戻した蒲生軍は寒風の中を突き進み、11月16日には早くも名生城を奪還した。
0353人間七七四年
2011/06/25(土) 16:35:00.25ID:pzR3pCxo0354人間七七四年
2011/06/25(土) 17:14:47.70ID:xSBznJQA0355人間七七四年
2011/06/25(土) 17:58:47.85ID:YEgy5ewX0356人間七七四年
2011/06/25(土) 19:28:50.52ID:ZRqnCaRm0357人間七七四年
2011/06/25(土) 19:31:13.27ID:+XTkAdVHあ、皮なのかなw
0358人間七七四年
2011/06/25(土) 19:34:05.12ID:R0KZGGb70359人間七七四年
2011/06/25(土) 19:42:14.73ID:tH8QJcPj和紙は暖かいし
0360人間七七四年
2011/06/25(土) 20:25:08.53ID:qwcrzbAt日本にはあったのかな。
0361人間七七四年
2011/06/25(土) 20:57:10.33ID:CwXE4ukE冬のマラソン選手みたいな感じで
0362人間七七四年
2011/06/26(日) 00:46:44.61ID:k9duF8mx彼には「こまつ」という姫があり、忠勝は彼女を大変可愛がっていた。
姫は大変利発で、周りからもたいそう可愛がられすくすくと育ち、いつの頃からか剣術にも熱中し、
城の庭からは「えーい!」「やあー!」というような可愛い声が聞こえてきて、大多喜の人々は
それをとても微笑ましく思い、いつも姫のことを話題にしていたそうだ。
そんなある日のこと
姫が城下に遊びに出かけ、あぜ道を歩いていると突然、叫び声が上がった
「狂いシシだー!!」
なんと、巨大な猪が猛然と駆けてきたのだ。
人々は慌てて逃げ出す。ところが猪の走ってくる方向の畦に、赤ん坊の入った竹籠が!
「誰か、子供を!子供を!」
母親が叫ぶ。迫る猪。と、その時である!
姫はとっさに赤ん坊をだきかかえ母親に渡す。そして振り向きざま、迫ってきた猪に
『ガッ』
一閃!猪に一太刀を浴びせる!
大猪は叫び声を上げ竹やぶへと逃げた。姫、さらにこれを追いかけ竹やぶに入り猟師の仕掛けた
猪罠の方向にこれを追い込み、見事捕らえた。
そして姫は人々に
「これで大丈夫。もう心配しなくていいよ。」
と、声をかけた。
この時竹やぶ越しに陽の光が姫にそそぎ、キラキラと輝いているように見え
「なんときれいなんだ。輝くように美しいとはまさにこのことだ。」
と、城下の人々は感嘆し、彼らはこの日から、姫のことを「かがやく姫様」と呼ぶようになり、やがて言葉が縮み
「かぐや姫」となった。
このような事もあり、姫は城下の人々から大変慕われ、彼女が信州上田の真田信幸との結婚が決まり
大多喜を離れる時には、城下の人々皆が見送ったという。
そして、姫が去った大多喜では、この姫様のことを忘れないよう、筍をつかった炊き込みご飯を「かぐやご飯」と
呼ぶようになった、と云う。
大喜多に伝わる、『こまつ姫とかぐやご飯』というお話。
(浅井清恵 ふるさと民話さんぽ「広報おおたきNo.427」より)
0363人間七七四年
2011/06/26(日) 00:49:41.69ID:k9duF8mx×大喜多 ◯大多喜 です。
0364人間七七四年
2011/06/26(日) 01:09:16.55ID:htS1QpnDこまつ姫についたあだ名が真田家繋がりで小松明・・・な訳ネーか
0365人間七七四年
2011/06/26(日) 01:11:34.46ID:MSxHVO8u小松明のような恐ろしい存在がいなくなった、という意味だったのか
0366人間七七四年
2011/06/26(日) 01:47:41.54ID:gyuGdQe10367人間七七四年
2011/06/26(日) 08:08:46.59ID:legXsIAX『こまつ姫とかやくご飯』に空目してしまいました・・・
0368人間七七四年
2011/06/26(日) 09:06:49.73ID:yxoy3sXTお腹すいてんだろ
0369人間七七四年
2011/06/26(日) 09:46:29.28ID:legXsIAXさっき遅めの朝食を取ってきました。
お腹が満たされたところでこんな逸話を。
朝鮮の役では補給が途絶えがちであり、 兵糧不足に悩まされることも度々であった。
慶長の折、五島氏の使いが「兵糧が幾らか不足しており、分けて頂きたい」と島津義弘の陣を訪れた。
兵糧不足はどこも同じであり、五島氏の使いが方々で断られていたことを家臣達は知っていたので
「お気の毒ですが断るしかありますまい」という意見が大勢であった。これに対し義弘は
「他家へ使者を出すということは余程兵糧に困っているのであろう。その困窮は『幾らか』どころではあるまい。
当家の兵糧も些か心もとないが、コメの一粒も余裕がないわけではなかろう」
といったが家臣たちは承服しがたい様子。
島津家が秀吉に九州制覇の野望を挫かれたに対し、
五島氏は即座に秀吉に属し本領を安堵されていたことも関連していたかもしれない。
だが義弘は続けた。
「かの家と当家はいきさつこそ違えど、今は供に太閤殿下の下で戦う間柄ではないか。
過去の事を槍玉に挙げて、窮地にある味方を見捨てたとあらば、今後当家と友誼を結ぼうとする者はおるまいぞ。」
この言葉に承服した家臣に重ねて義弘は命じた。
「少しでもよい、分けて進ぜるように」
そこで兵一人あたりの一食の量を少しづつ削ることで兵糧を工面し、五島氏の陣へ届けさせた。
「過去に拘って今の味方に仇をなすな」と五島氏を助けた義弘が
後の関ヶ原で立花宗茂に同じような言葉で救われていることを思うと
いろいろ考えさせられる逸話です。
0370人間七七四年
2011/06/26(日) 12:45:22.35ID:V6rKFqJA0371人間七七四年
2011/06/26(日) 13:21:11.46ID:c5tRMKNJ0372人間七七四年
2011/06/26(日) 15:35:01.48ID:0b95RVOt高虎加藤は会津行きの件で和解した話があったけど
高虎長政も和解した話あったっけ?
藤堂黒田の縁談が破談になって3歳様が国許への手紙で笑ってる話はあったけど
0373人間七七四年
2011/06/26(日) 16:37:06.31ID:Lb+cSQ1C島津の情けある行為は、朝鮮在陣の諸将の間で評判になったはず。
当然、完璧超人の耳にも届き、記憶に残る。
これが関ヶ原後の、親の仇は過去のこと、今は味方の島津を助けよ
につながるんだろうね。
0374人間七七四年
2011/06/26(日) 17:26:41.77ID:Af5ek8/E黒田と藤堂が和解したというのは、長政晩年の話のようだ。
忠利の手紙の中にその話が噂として出てた。
藤堂黒田の縁組と破談の話は、忠之の代に起こった話だな。
0376人間七七四年
2011/06/27(月) 12:25:41.46ID:5OzUQKns(如水は事毎に、馬鹿の行を好み、無造作なる生付なり。)
如水が中津川の下屋敷に、作事を申し付けたことがあった。
ところで手塚久左衛門という者、吃りが大変ひどく、口で物を伝えることは殆ど出来なかったが、
心立てが正直であるということで如水はこれを可愛がり、徒の者(下級の侍)とも
無足(知行の無い奉公人)とも解らないような形で召し使っていた。
そんな手塚が、この下屋敷の作事の奉行を申し付けられた。
ある時、如水は工事の模様を見て回ってから帰り、広間を開け放して、上座にあって
碁を打っていた。そこに手塚が、何か用のある様子でやって来る。
その間が6〜7間(約11〜12メートル)も隔たっているときに如水声高に問うた
「何か用か!?」
これに手塚、歩きながら4,5語呟いたが、吃りで何を言ったか解らぬものであった。
ところが如水、碁を打ちながら
「材木がないのなら買え」
と、申し付けた。そう、手塚は材木が無くなったので、買うべきか役人に言って切り出させるべきか、
それを尋ねに来たのである。
これを聞いて手塚、物も言わずにまた戻って行った。
この類は如水にとっていつもの事であった。彼は戸障子を立てたり、屏風などで自分の周りを
囲むことを嫌い、部屋をいくつも開け放しにし、お目見えのものが来ればすぐに見つけ、言葉を
かけるようにしていた。
なので冬のどんなに寒い日でもだいたいは、夏の住居の方に居たそうである。
如水の無造作、というお話
(古郷物語)
0377人間七七四年
2011/06/27(月) 12:46:04.77ID:/mCieMKb0378人間七七四年
2011/06/27(月) 14:25:34.49ID:Do/OPPY80379人間七七四年
2011/06/27(月) 17:02:16.99ID:wAnmUXar0380人間七七四年
2011/06/27(月) 17:44:16.12ID:khBq5lIB戸障子を閉めていると何か謀って居るのではと思われてしまうのだ」
しかしこの前の基地外呼ばわりといい
黒田の大殿は家臣からどんだけ気兼ねなく思われて愛されてるんだよw
0381人間七七四年
2011/06/27(月) 19:23:09.22ID:Ehm+OxDs0382人間七七四年
2011/06/27(月) 21:39:42.99ID:qiRBJaFl隠居の世話なんぞ難点のある奴でも十分だ、それにオレなら余裕で使いこなせるし
みたいな感じだったのかも?
単に変わり者ってのももちろんあっただろうが。
0383人間七七四年
2011/06/27(月) 22:13:00.03ID:khBq5lIB持て余した才気が溢れ過ぎてやり場がないから助言魔になってしまったのかも
ワザとそういう奴らばかり集めて誰かが何かやらかしたら
待ってました〜♪とばかりに飛び出してきて
いいかお前ら〜とか言いたくてウズウズしているとしか思えんw
0384人間七七四年
2011/06/27(月) 23:40:44.99ID:C5IoS2NX0385とんち三題 1/3
2011/06/28(火) 01:08:06.71ID:uGaN+LFH秀吉は千利休を呼ぶと、「この鉢に、その梅を生けてみよ。」と指し示した。
見ていた秀吉の小姓たちは「これは難題じゃ。」とざわめいたが、利休は平然として梅の枝をつかむと、
鉢の水に梅を浸した。そのまま利休は枝をしごき、花の落ちた枝を鉢に静かに沈めた。
枝から離れた花とつぼみは水面に浮かび、あたかも湖面に梅花散る如き、実に趣ある風情となった。
小姓たちはうなり、秀吉も「利休め、何を申し付けても困らぬやつじゃわい。」と言って上機嫌だった。
(茶話指月集より)
0386とんち三題 2/3
2011/06/28(火) 01:10:54.88ID:uGaN+LFH直孝が主税助邸の門をくぐると、一匹の唐犬が飛び出し、猛然と吼え騒いだ。普通ならあっぱれ忠犬よ、
と褒めるところだが、直孝にはその犬に見覚えがあった。自分が主税助に下賜してやった犬だった。
「こやつ、旧主の恩も忘れおって・・・誰かある!この犬の耳を刈り取ってやれい!!」
聞いていた重臣の岡本半介が主税助邸の厩に駆け込み、大バサミを持って来ると、直孝の前に差し出した。
「なんじゃ、それは。」
「はっ、馬のたてがみを切り揃えるハサミにございます。」
「それは知っておる。わしは『誰か』に犬の耳を刈れ、と言ったのだ、わしが刈るわけではない!」
「いえ、ですから、まずは殿が範をお示し下され。それ、殿が江戸の御城に出仕されれば『犬』など
いくらでもおりましょう。あれからお刈りになられては?」
「・・・・・・っ!!半介、よくぞ申した。」
冷静になった直孝は、機嫌良く主税助邸に入って行った。(雨窓閑話より)
0387とんち三題 3/3
2011/06/28(火) 01:13:21.55ID:uGaN+LFH「天下泰平の折、当家も他家との付き合いが増える。よって、貧乏臭く見栄え悪い紙子羽織等の
着用を禁ずる。守れぬ者は、わしへの目通りを許さぬ。」
ところが、しばらく経った冬の日のこと、近習の児玉三助が紙子の衣服を着て信之の前に参上した。
「三助、その服は紙子ではないか?」
「いかにも。」
「紙子を着る者は、目通り不要と申したではないか!」
「しかし殿、拙者のような貧乏人は一片の理あって、紙子を用いておるのです。」
「・・・ふん。では、その『理』とやらで一首詠んでみろ。確かに理あれば、金をくれよう。」
「では、一首。えー、“いにしへの 鎧にまさる 紙子には 風の射る矢は 通らざりけり”
(貧乏人には、紙子とて寒風という名の矢から身を守る、名工の品に勝る鎧です)
いわば、泰平の世の鎧にござる。武士が鎧を着たところで、見苦しくはありますまい?」
「うーむ、でかした三助!!それ、約束の金だ。」
信之は三助に小判五両を与えたが、三助は不満顔であった。
「さてさて、殿には例の如く吝きことかな。始めの約束を違えるとは。」「なんと、三助!この期に及んで何を申す!?」
「殿は最初に『金をくりょう(九両)』と申されました。これではまだ足りませぬな。」
「・・・こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ」信之は笑って、残りの四両を払ってやった。(真田家御事蹟稿より)
以上、殿様が思わず苦笑するとんち三題でした。長々失礼。
0388人間七七四年
2011/06/28(火) 01:46:25.21ID:ydDYDTtU0389人間七七四年
2011/06/28(火) 06:07:00.61ID:43gWEWjW悪い話になったかもしれんな
0391人間七七四年
2011/06/28(火) 07:14:22.11ID:/ple+JRY0392人間七七四年
2011/06/28(火) 07:15:05.37ID:J8cId5GDとかな
0393人間七七四年
2011/06/28(火) 07:17:21.10ID:S0FYNHot0394人間七七四年
2011/06/28(火) 08:55:52.85ID:thxe7RRd江戸城にいる大名を、豊臣の恩を忘れた罪で耳を切ってきたら俺もこの犬の耳を切ってやんよ。
ということではないか。
0395人間七七四年
2011/06/28(火) 09:41:38.36ID:fSm/WGTc0396人間七七四年
2011/06/28(火) 13:19:28.57ID:UhAllmNE0397人間七七四年
2011/06/28(火) 15:37:07.17ID:iirCi1zh0398人間七七四年
2011/06/28(火) 17:43:50.65ID:pzigmYUZ情けなや豊臣恩顧つう話だな。
0399人間七七四年
2011/06/28(火) 18:53:57.11ID:LRkFKml/http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5025.html
これですね
0400人間七七四年
2011/06/28(火) 22:20:30.18ID:7zbVm9lT篭城側がもはやこれまでと爆薬使ったら(爆弾正ではない)
城の天守が浮き上がった話って誰(どの城)の逸話だったっけ?
0401人間七七四年
2011/06/28(火) 22:28:08.68ID:pWVt0quE天守、爆破で調べたら
北之庄城
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4769.html
弘前城(ただし、落雷のため)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2140.html
がでてきた、でもどっちも違うか
0402人間七七四年
2011/06/29(水) 00:34:29.06ID:uRTYjHgl火事親父で酷い目にあった城ってあるの?
0403402
2011/06/29(水) 00:36:17.51ID:uRTYjHgl0405人間七七四年
2011/06/29(水) 00:56:25.92ID:UbOkl55Z0406人間七七四年
2011/06/29(水) 01:02:24.40ID:sBD2NjZy戦国ではいっぱい居るしなぁ
0407人間七七四年
2011/06/29(水) 01:15:18.21ID:nR+sDuJE0408人間七七四年
2011/06/29(水) 07:51:55.24ID:PFSIqWVh0409人間七七四年
2011/06/29(水) 09:18:13.75ID:yk+nYHkhさて清正の船が着くと知ると、五畿内中の馬喰(馬商人)たちは大阪・伏見で売る馬をすべて、
清正のもとに引き連れて行くほどであった。
清正は馬数寄であるため馬の目利きも大方上手で、集まった幾多の馬を見て、気に入った馬を
10疋も15疋も選びとり、それらをまとめて幾ら程と値段を決めて一度に買い取った。
そのため個々の馬がいくらほど、と言うことは知らず、過剰に代金を払ってしまった馬があっても
解らない、と言う事だったそうだ。
ある時伏見において、三人の馬喰が合わせて18疋の馬を清正のもとに引き連れてきた。
清正はこの内9疋を気に入り買い取ったのだが、一人の馬喰は7疋引き連れてきた内、
6疋を買い取られた。その時この馬喰申し上げるは
「今日、お買い上げいただいた馬たちの中で、私の馬は6つ、御意に入って買い取っていただきました。
そのため私のもとには1疋残ったのですが、7疋引いてきてお目に懸けた中で、1疋だけが御意に入らず
連れて帰ったとあれば、私も大変外聞が悪いのです。
商いにも忝と言うものがあります。この馬を、忝に差し上げ申します。」
そうして残った馬も清正の厩に入れて帰っていった。
この事は珍しい商いの忝の例であると、当時の京童たちの話題となったそうだ。
(續撰清正記)
0410人間七七四年
2011/06/29(水) 14:25:49.91ID:mCBrGbLd0411人間七七四年
2011/06/29(水) 17:36:27.72ID:ihTp9cQlそれは知らなかった、さんくす。
てか長政て高虎より早死にだったのかよ!?
>>345
友人関係で加えるなら忠興組に政宗、長政組に市松かな?
何と豪華な6人タッグマッチw
0412人間七七四年
2011/06/30(木) 11:26:53.45ID:6ccb+V0w片棒をかつぐ家臣が慣れない作業で転んだり、妻のまつに
「大納言の身で、もっこをかつぐのですか?」とからかわれたりしたが、利家は笑いながら働いた。
一人、前田利長は父たちの笑い声に背を向けていた。(其時肥前殿、後むきに御座候)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5171.html
の騒ぎを起こした父が、何事もなかったかのように笑って働いているのが許せなかったのだ。
前田親子の不仲の噂は、ついに太閤秀吉の耳にも届き、秀吉は二人を呼び寄せた。
「この騒動、喧嘩両成敗とする。まず大納言、名物の雁の絵を持っておったな。没収する。」
「・・・はっ。」
利家は、しぶしぶ秘蔵の雁の絵を差し出した。
「次に肥前守。この雁の絵を授ける。以って戒めとするように。」
(はて、こんな物をもらえば、かえって褒美になるのでは?・・・・・・!!)
雁の親は芦の葉をくわえて渡り、休息の際には葉を子に口渡しする。子はその葉を水辺に浮かべて
足がかりとして休む、という伝説がある。
また、この時代広く読まれた『曽我物語』には、曽我十郎が雁の渡りを見て、
「雁さえも家族で生きているのに、我らには父がいない。」と父親無き身を嘆き、父の仇・工藤祐経への
復讐の誓いを新たにする、という下りが存在する。
「も、申し訳ございません殿下!」
「分かればよろしい。」
三年前にわが子を亡くし、二年前に孝行を尽くした母を亡くした天下人は、それ以上は前田親子を
責めようとはせず、仲直りした親子と世間話などした後、帰っていった。(利家夜話より)
0413人間七七四年
2011/06/30(木) 16:58:45.51ID:74zMf8970414人間七七四年
2011/06/30(木) 16:59:16.98ID:W3/dDKsa0417人間七七四年
2011/06/30(木) 19:03:12.28ID:4F7OT/lL失われているなあ。
0421人間七七四年
2011/07/01(金) 20:40:30.77ID:Fns/x3NW直孝「誰か旧主の恩も忘れた唐犬を殺せ!」
家臣「まずは貴方が手本を示してくれ、
幸いお城(江戸城)に出仕すればイヌ(豊臣の旧恩を忘れて徳川に寝返った者達)などいくらでもいるでしょ?」
こんな唐犬殺す前にそいつら殺せば?」
つまり
「そんな犬殺したってどうにもならないし、
旧恩忘れたイヌだって(今は徳川に付いてるわけだから)殺せばタダでは済まない。
もうちょっと冷静になれよ」
という諫言。
0422人間七七四年
2011/07/02(土) 01:18:55.30ID:D7vAOSug慶長3年(1598年)第一次蔚山の戦いの時、日本軍諸将は救援の為釜山から出て蔚山へ進軍した。
1月2日、明将高策率いる明軍2万2千、朝鮮軍3万は日本軍本陣を急襲するために釜山へ進軍、
般丹に現れたとの報せがあった。本陣の宇喜田秀家は、固城の守備についていた立花宗茂に出動を要請した。
折からの寒気の中、「宇喜多殿は、小勢の立花なら、此度の戦で潰れてもかまわんと言われたそうな」
と噂が飛び交い、さすがの立花勢も動揺していたが、その夜、宗茂に率いられた800ほどの兵が固城を密かに出撃し、
明、朝鮮連合軍を夜襲し、首級700を挙げる大勝利を得た。
世に言う「般丹の戦い」である。
0423人間七七四年
2011/07/02(土) 01:48:52.96ID:D7vAOSug時は移って三代将軍家光の御代、ある幕臣が般丹の戦いについて尋ねた
「5万もの軍勢をわずか800で破るとは、さすが左近将監殿ですな」
「5000でしたな。5万とは虚報にござる」
「しかし、明兵は算を乱して逃げ出したとのこと、しょせん日の本一と言われた立花家の強者に
比べれば、弱兵の極み」
「何を言われる。明兵は体躯強悍、馬は巨馬で我らが及ぶところではありませんぞ。ただ寝入りばなを
襲えば万夫不当の勇士とて周章狼狽して役に立たない点を突いたに過ぎません」
「しかし、兵をまとめ切れない将ですな高策は」
「心得違いされておりますな。彼地の真冬に5000もの野戦軍を動かせる将は猛将ですぞ。城攻めの
将と違って付城もない野天に軍を進めるなど、並の将にはできますまい」
「な、なるほど」
「高策が猛将故に我らは勝てたのです。夜襲をかけ、捉えた捕虜に小勢の我等を見せた後、敵に向かって
放てば、高策は、屈辱をはらさんと反撃するはず、伏兵を設けた我らの策に、明軍が嵌ったのも、高策が
猛将だったからです」
とかく相手を貶めても自分の手柄を誇る時代にあって、馬鹿正直に相手を評価する立花宗茂の良い話。
0425人間七七四年
2011/07/02(土) 02:16:52.42ID:jPAYzvru騙し合いにも一種の信頼関係みたいなもんはある、と。
全然畑違いになるけどF1なんかで時速300キロで走りながら超接近戦やってるのも互いの技術に
信頼があるからで、どこでブレーキ踏むか分からん素人相手じゃ絶対無理とかそんな感じ?
0426人間七七四年
2011/07/02(土) 03:05:40.39ID:HytyWQVC「朝鮮兵は何度打ち倒してもあきらめずにこちらに攻めかかってきました。弱兵といって
侮れるものではございません。」と弱兵と認めつつも、一応評価して答えてたなw
0427人間七七四年
2011/07/02(土) 03:25:38.48ID:12QBTWzY日本兵の奮戦ぶりをほめるのと一緒。
勝ったから言えるということでもあり、
そんな強い敵を倒した俺たちはすごいだろと二重に自分を褒める意味も無論ある。
0428人間七七四年
2011/07/02(土) 09:18:53.13ID:+dccMeYY一般的には弱兵とは言わないけどなw
家光が軽々に弱兵と言ったのを嗜めてる所もあるんじゃないか。
0429人間七七四年
2011/07/02(土) 09:21:52.04ID:VXe1zNWM0430人間七七四年
2011/07/02(土) 10:30:57.42ID:sCJrW8yk南にはろくな兵がいなかったとか。
漢城が落ちた後、北から来た朝鮮軍の精鋭が日本軍と戦うも
指揮官が直前に任命された文官だったせいで
あっさりと敗れたなんて話も。
0432人間七七四年
2011/07/02(土) 13:12:55.46ID:J3/Wfo6O0433人間七七四年
2011/07/03(日) 00:01:30.16ID:RqtYNknM0434人間七七四年
2011/07/03(日) 00:53:54.33ID:tRLFD0/r首がとぶわ
0435人間七七四年
2011/07/03(日) 01:23:21.41ID:v1pCNFka小西行長相手にソウルやピョンヤン落とされてるわけだから実際弱かったんだろうし
0436人間七七四年
2011/07/03(日) 01:43:09.91ID:worcmj55その基本さえ守れてなかったのが、旧帝国軍。
アメリカ兵は、女といちゃついて、上手いものばかり食ってる惰弱な奴らだ。
精神力では、われわれ日本人より、遥かに劣る。故に潜水艦のような、強靭
な精神力を有する兵士しか乗員できないような軍艦をまともに動かせない。
だから対潜水艦戦など考慮する必要なしw
結果、大鵬、信濃、金剛、日本の輸送船団、ことごとく米潜水艦の餌食にされた。
0437人間七七四年
2011/07/03(日) 01:57:50.17ID:worcmj55まあ、朝鮮正規兵は弱かったの確かだが、義兵は、タリバン並みに強かったんじゃないか。
それと明国軍は、それなりに強かったのは確か。特に将軍の私兵は精強。
碧蹄館の戦いでも明軍19000vs日本軍20000で、勝利したといえ追い討ちをかける立花
軍を小早川隆景が、逆襲を食らうという理由で止めるなど、けして侮れる敵ではなかった。
0438人間七七四年
2011/07/03(日) 02:18:45.52ID:UrMNa2FD0439人間七七四年
2011/07/03(日) 02:42:14.72ID:j4pXKFST「へー、そうなのかー」と普通に思えるところが
なんかすげえって話だし
0440人間七七四年
2011/07/03(日) 02:57:38.04ID:dqpz5Iml> 司馬懿が諸葛亮を「彼は天下の奇才なり」と評したようなものですな
それは本音かもよ。
司馬懿クラスになれば、相手の力量もわかる。
その上で、力量以上の成果を出そうとする奴には、頭が下がる思いはしたと思う。
実際、司馬懿は諸葛亮に負けたことがあるようだし。
正史、三国志の記述を検証すると、陳寿が書けなかったんじゃないかと思える節はある。
軍事的才能の欠如を、努力で補えた人物を、讃えられないほど器が小さいとも思えない。
0441人間七七四年
2011/07/03(日) 03:02:52.01ID:glfxrlwZこの「奇才」の部分を「ヘンタイ」と訳した酒見賢一は天才だと思った。
0443人間七七四年
2011/07/03(日) 03:35:56.15ID:UrMNa2FD0444人間七七四年
2011/07/03(日) 04:14:41.69ID:ByKWXYm80445人間七七四年
2011/07/03(日) 04:45:04.98ID:2J4i5cUxで、詳しくみていくと、ここぞという重要な局面での局地戦は、常に司馬懿が取っている
0446人間七七四年
2011/07/03(日) 07:16:25.59ID:HuELklh80447人間七七四年
2011/07/03(日) 07:28:08.34ID:dqpz5Imlただ、諸葛亮は言われてるほど戦下手じゃなくて、司馬懿相手に領土を増やしてるよ。
対魏戦略、対蜀戦略とを比べて、明確に司馬懿が勝っているとは思えないが。
敗者を讃えるのは何も、その相手に勝った自分は凄いだなんて、必ずしも思ってないと思う。
俺、空手やってたけど、早くやってたから試合に勝てたけど、
スピードもあるし、すぐに抜かれるなって奴いたもん。
実際に俺より強くなったし。
純粋に敗者を讃えたくなることって、そんなに珍しいことじゃないと思うよ。
勝っても尊敬できない奴はいるし、ダメな奴は必ず負けるわけじゃないし。
0448人間七七四年
2011/07/03(日) 07:53:58.38ID:UjassZP50449人間七七四年
2011/07/03(日) 11:59:28.94ID:E2wmUfER日本語読めんか?
0450人間七七四年
2011/07/03(日) 12:57:34.27ID:MiyNVDE+「日本の張飛」とか半兵衛の三顧の礼とか
0451人間七七四年
2011/07/03(日) 13:01:42.43ID:tyZJxXOG0452人間七七四年
2011/07/03(日) 13:06:30.54ID:n8KgtLOXそれに三国志関連限定にしちゃうのは勿体無いというか趣味に過ぎるよ
0453人間七七四年
2011/07/03(日) 13:45:45.54ID:djbU8BEC孫権→家康、周泰→井伊直政
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2612.html
趙雲or孔明の空城の計→家康空城の計
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4953.html
朝鮮征伐に関羽登場
三国志関連じゃなきゃいろいろあるが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4296.html#view_comment
呉起の膿吸い→三成or秀吉の大谷吉継膿入り茶
田単の火牛の計→北条早雲の小田原攻め
後、ちょっと前に話題になったのは仇討の刺客を許す話(予譲と趙襄子)とかだが
これについては似た事例がいろいろあり
0454人間七七四年
2011/07/03(日) 14:42:51.81ID:RF1SfPGDまぁ当時は四書五経とか基本だった訳で、
そりゃ逸話にも同じような話が出てくるのも当然だけど。
0455人間七七四年
2011/07/03(日) 15:13:27.01ID:UrMNa2FD守護代の家老の信秀くらいでも京から連歌師呼んだり朝廷に献金したりと見識が高い
息子はあんなんに育っちゃたけど
0458人間七七四年
2011/07/03(日) 16:49:35.84ID:worcmj55中国の故事を早雲や元就や家康が再利用したと
例えば、早雲の火牛の計は、田単→木曽義仲(倶利伽羅峠)→早雲と
伝承されたも考えられる。
元就のご先祖は、朝廷の文書博士大江家出身の大江広元、当然ながら
三矢訓の話くらい、家の基礎教養で叩き込まれてるだろう。それを元就が
子供に教えるのは、ありえる。
さらに家康は、今川家の幹部候補生として英才教育を受けていたから、三国志
のエピソードは知っていた。だから一か八かで空城の計を仕掛けたと。
0459人間七七四年
2011/07/03(日) 17:06:48.22ID:LSfwDPCx敗残兵収容の為に門開けてたのと武田が最初から攻める気無かっただけで
0460人間七七四年
2011/07/03(日) 17:16:44.26ID:nc1hWOmh軍神に散々に打ち破られた天庵様がいたような気がする
0461人間七七四年
2011/07/03(日) 23:25:36.00ID:8/krpIjs市松が酒で失敗するのを踏襲してるな
0462人間七七四年
2011/07/03(日) 23:33:43.44ID:ndhRQjs70464人間七七四年
2011/07/04(月) 00:01:50.21ID:KOiSTM/Y0465人間七七四年
2011/07/04(月) 05:31:38.80ID:VPdEQ8WQちなみに『将門記』は平将門を呂布に例えている。
0466人間七七四年
2011/07/04(月) 07:18:28.60ID:3JQA4VCG筑後国にも大友義鑑の時代から大友家に仕えた国人領主・問註所氏があった。
筑後というところは昔からこれといって突出した大勢力がいない国で、室町時代初期から
大友氏が守護職を得て(途中、今川了俊や菊池氏に守護職が移った時期もあるが)
代々大友氏の影響が強い地域ではあったが、大友氏は守護代を置いて任せる程度の緩やかな支配で
筑後十五城主と呼ばれる小勢力が点在していた(ちなみにその中で一番の勢力だったのは蒲池家)。
そんな筑後国も戦国時代の荒波の中で小勢力たちは翻弄されていくことになる。
大内氏や毛利氏の筑前侵攻、立花鑑載・高橋鑑種の反乱、筑紫や秋月はしょっちゅう裏切る。
問註所氏は秋月領に近いこともあり、秋月の動きを大友に伝える監視役として働いた。
しかし大友氏が耳川の合戦で大敗、筑後国は竜造寺氏の台頭により風雲急を告げる。
大勢力の蒲池氏を始めとして筑後勢力のほとんどが龍造寺方につく中、当主の問註所統景は
本当によく頑張った。一族で龍造寺側についた鑑景や、龍造寺方についた星野氏、
筑前からは秋月氏などが連合して何度も領内に攻め入るも、その度に撃退。守るだけでなく
星野氏の白石城を攻め取ったりもした。そんな中「肥前のクマー」龍造寺隆信が蒲池鎮漣を誘殺、
蒲池一族を皆殺しにし、筑後勢力の多くが龍造寺に反感を持ち始める。
さらにクマーが沖田畷で戦死、そうなると今度は龍造寺を離れて島津方につく勢力が頻出。
筑後国内は龍造寺方・島津方・大友方(問註所氏と五条氏のみ)の3勢力に分かれていった。
そうする内に今度は島津軍が本格的に北進を開始。島津方についた勢力どころか、
龍造寺本家も島津に味方して大友家を攻めることになったため、筑後国内で問註所氏は孤立。
しかしそんな絶体絶命の状況でも統景は孤軍奮闘。島津本隊が筑紫広門の篭る肥前の勝尾城や
高橋紹運の筑前岩屋城を辛くも陥落させ立花山城に攻め入る。ここで豊臣本隊の九州上陸の報を受け
島津軍は本国へ退却するが、この間統景は長岩城に籠城して島津方の攻勢から居城を守りきったのだった。
大友家臣として島津の侵攻に耐えた「忠臣」として筑前の紹運・宗茂父子、豊前の志賀親次は
よく取り上げられるけど、筑後に問註所統景という武将がいたことも覚えておいてあげてください。
0467人間七七四年
2011/07/04(月) 08:07:37.26ID:E2DI015g0468人間七七四年
2011/07/04(月) 09:04:45.09ID:3JQA4VCG筑後入国した小早川の家臣となりますが、太閤検地の際にさらに転封を命じられ本領を明け渡すことになり、
泣く泣く居城・長岩城を明け渡します。その後朝鮮の役で戦功を挙げるも、当地で弟の正白とともに戦死。
嫡男に政連がいましたがなぜか父の領を継ぐことができず浪人します。どうやら豊臣政権下で国人領主に対する
締め付けが厳しくなり(検地で大きな不満が出て肥後国人一揆が勃発したように)筑後国でも同様だったようです。
問註所氏もあるいは計画的に潰されたのかもしれません。元々の小早川家臣への領地も必要ですからね。
しかし、立花家や筑紫家が大名に取り上げられているのにこの仕打ちはひどい・・・。
ちなみに、小早川家臣にはならずそのまま大友家臣の身で朝鮮の役に臨んだという話もあります。
この場合統景の死とともに主家・大友義統の例の敵前逃亡による改易で、政連は浪人になることに。
政連は後に筑後を治めた立花宗茂に仕官し家臣となります(統景のおばが道雪継室で、ギン千代の母。
さらに統景の正室・政連の実母が宗茂の実方従姉妹という関係)。政連は宗茂に従い関ヶ原にも参戦、
戦後宗茂は改易され、政連は他の家臣らとともに加藤家のお世話になります。
その後、宗茂が赦されて筑後に戻ってきた際に再仕官、問註所は柳川藩士として続くことになります。
0469人間七七四年
2011/07/04(月) 12:09:31.11ID:i83WCuqg肥後も国人の力が強かったけど阿蘇とか甲斐とかいたし
他にも国人領主がめいめいに支配していた国ってあったっけ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html
蒲池さんとこは家兼じいちゃんとクマーを大友側にも関わらず助け
「義心は鉄のごとし」と言われた鑑盛さんがその名に偽らず大友氏の殉じ耳川で戦死
それを機に以前から龍造寺と手を結びたがってた鎮漣(鎮並)がすぐに動いたわけだけど
(母の姉妹が龍造寺家臣の田尻鑑種、妻が隆信の娘というのもあって)
隆信は大友の頃みたいに緩やかじゃない直接的支配を目指したもんで反発したようだ
それにしてもクマーは・・・>>467じゃなく龍造寺自重しろって話だ
0470人間七七四年
2011/07/04(月) 12:51:24.84ID:i83WCuqg滅亡に近いくらいまで衰退しているね
一部は子孫の代で立花、鍋島あたりの藩士になったりもしてる
高橋紹運の高橋家もこの筑後十五城なんだけど統増は立花に改姓して高橋家も消滅
まあ全国の国人領主も似たようなもんかもしれん・・・
0471人間七七四年
2011/07/04(月) 14:58:50.52ID:4v6XOxaM朝鮮で死んでも死に切れないよなあ
0472人間七七四年
2011/07/04(月) 15:14:13.10ID:4v6XOxaM河崎の居城が犬尾城というのに対抗して、新しく建てた黒木の居城は猫尾城と名付けたほど
犬猫の仲だな
0473人間七七四年
2011/07/04(月) 20:22:43.81ID:dVFz3ghY三方ヶ原の戦いにおいてのこと。
細井勝宗は徳川家康に付き従って奮戦していたが、武運つたなく討ち取られてしまった。
しかし細井の家僕、木梨新兵衛は「主の仇!」とばかりに奮戦、身に7箇所もの傷を負いながらも主の仇を討つことに成功した上、首を取り返すという武功を上げた。
家康「お前は実に見事だ。永楽銭一貫文を褒美に与える。聞けば、黒い馬に乗って武功を立てたと聞く。向後は『黒』と姓を改めるが良いぞ」
新兵衛「ははーっ」
長久手の戦いにおいてのこと。
氏井孫之丞と渡辺忠右衛門守綱は、池田勝入の軍兵を弓で射ていたが、守綱は槍を落としてしまった。
それを見た氏井は馬で突撃して敵を突き倒し、槍を拾い、守綱に返したとのこと。
家康「この戦いぶりはかの武蔵坊弁慶にも勝る。これより武蔵と姓を改めるがよい」
孫之丞「ははーっ」
小田原の戦いの時のこと。
松平義正は家康に箱根山中を案内し、大いに手柄を挙げた。
家康「お前の目は侍の眼だ。これより後は本目と氏を改めるがよいぞ」
義正「ははーっ」
徳川家中にて武功を挙げた皆さんのお話。
別に大権現のネーミングセンスが悪い話ではない……多分。
(織田信長も似たような命名を家臣にしてるっぽいんで、当事の常識だったのかもしれないが)
0474人間七七四年
2011/07/04(月) 21:29:20.14ID:TWKerPc8そうやって子孫代々誇れるんだよ
0475人間七七四年
2011/07/04(月) 22:02:08.76ID:/SjCvnUH0476人間七七四年
2011/07/04(月) 22:16:26.87ID:L8jQAhO2三枝の「新婚さんいらっしゃい」で
秀吉から貰った姓と言う所縁があるという
「猿」さんが出てた。
0477人間七七四年
2011/07/04(月) 22:17:10.46ID:hWZ7+f9N図書館で借りてきた常山紀談に、
多分まとめに載ってないいい話があったので初投稿です。
なにぶん古い本(印刷・発行:大正7年)からなので誤訳等あったらサーセン
なお、「石田」・「治部」は「三成」、「東照宮」は「家康」に統一します。
○石田が子の僧助命の事
関ヶ原の戦いの後、家康は本多正信に
「妙心寺で永壽院の弟子の僧になっている三成の子を、寺の者どもが
『重罪人の子と言えど幼い頃から出家しているのだからお許しください』
と言ってきているが、こいつをどう思う?」
と尋ねた。正信は
「すぐにもお許しになるべきだと思います。三成は徳川家に大功をなした者。彼が勝ち目のない戦を起こし、西国・中国の大名を巻き込み敗北したからこそ
日本六十余州みな徳川家に帰服致したのです。三成が思い立ってくれなければ日本全土が従うことはありませんでした。これは徳川家に大功を成したとは言えませんか?」
と答え、家康もそれに納得する。
その僧は赦されて岡部美濃守宣勝と懇ろになり
和泉の岸和田で余生を送ったという。
「ある意味三成のおかげで日本を纏められたんだから
その立役者の子は助けるべき」
そんな佐渡さんのいい話。
0479人間七七四年
2011/07/05(火) 00:09:16.27ID:g60gBxWE豊後と筑後は山はさんで東西だけど、肥前と筑後は筑後川挟んで真向いだからなあ
隆信としても筑後で自由にやられるのも困ったもんだったんじゃないのかしら
0480人間七七四年
2011/07/05(火) 08:05:16.57ID:YkL4qCA4なんかテレビでやってたなぁ
子孫の方が現代にもいるけど苗字のせいでいっつも鬼ごっこの鬼やらされてたとかw
0481人間七七四年
2011/07/05(火) 08:47:31.37ID:WOOaPz9j三成が主に個人の才覚で出世した人物だったのが幸運だったのかな。
もとから大名の家系なら斬られてたろうに。
0482人間七七四年
2011/07/05(火) 09:12:07.74ID:ELe65oin0483人間七七四年
2011/07/05(火) 10:39:17.60ID:QS1v1eUm上杉だけをボコボコにして、
安全に天下取るほう選ぶだろうなw
戦後に大名家に因縁つけて行けば良いんだしw
0484人間七七四年
2011/07/05(火) 12:51:10.58ID:sIf5AJj1そうだろうね
蒲池討伐には嫡男の政家を差し向けるくらいだったし
肥前は山と海に囲まれてて身動き取りづらいから
直接筑前・肥後・豊後へ自由に動ける筑後を
どうしても手に入れたかったのは間違いない
大友は筑後への進軍が難しく影響力を出そうとしても出せなかったのかも
それにしてもだよ・・蒲池への酷い仕打ちのせいで
どんどん悪い方向に向かったしなあ
0485人間七七四年
2011/07/05(火) 13:54:17.70ID:iqB3pKqH相良に対して援軍送らなかったのがでかいってのも聞くなあ
島津が肥後の方に勢力伸びてくれば有馬がひよるのもわかるし
0486人間七七四年
2011/07/05(火) 21:33:07.72ID:7j+HBVsd0487人間七七四年
2011/07/05(火) 22:16:32.52ID:DM7OvZWh徳川実紀見たら出典は霊岩夜話って書いてあった
ついでに同じく徳川実紀より
家康が二条に居る頃、落書きをする者が多かった。所司代板倉勝重が書いた者を捜索しましょう、と言ったが、
家康は「そのまま捨て置くべし。そもそもどう言ったことが書いてあるのだ。見せてみなさい」と言うので、
御所柿の枝に短冊状のものがついたものを持ってくると、それにはこう書かれていた
御所柿は ひとり熟して落ちにけり 木の下に居て拾ふ秀頼
これを見た家康は、「それでも落書きを禁止するべきではない。ひどいことながら、心得になることもある。そのままにせよ」と何度もご覧になって言った。
(古人物語)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5554.htmlの827にある落首の話
0489人間七七四年
2011/07/05(火) 23:31:35.77ID:O07eooBE0490人間七七四年
2011/07/06(水) 02:49:23.56ID:2QDqu86+当時としてはいつポックリ逝ってもおかしくない年齢だしな家康
耐えていれば秀頼にもチャンスが巡ってきたのかもしれないが…その前に家康に付け入る隙を与えてしまったのが致命的
0491人間七七四年
2011/07/06(水) 07:40:46.93ID:pf2X5jad福島と違って清正は豊臣方で動いてくれる可能性もある
0492人間七七四年
2011/07/06(水) 07:57:06.50ID:NnztSRol平和なままなら挙兵する気なんて無かったであろう豊臣家を挙兵させた家康の狡猾さが凄いんだ
0493人間七七四年
2011/07/06(水) 12:04:02.29ID:kxY6H+c30494人間七七四年
2011/07/06(水) 12:25:04.44ID:6FsKodvi> 福島と違って清正は豊臣方で動いてくれる可能性もある
タラレバを議論するのもあれだが、個人的には清正が生きていても豊臣方に付くことは
絶対になかったと思ってる。
嫡子忠広の正室は秀忠養女だし、清正の娘は徳川頼宣、榊原康勝に嫁ぐなど、
清正は正則以上に濃厚に徳川家に取り込まれている。
むしろ幕府的に清正の存在は、なにするか解らない福島正則の押さえだった空気すらある。
死んだ人間が生きていたらどうだったかなんてもちろん未知数だが、幕府軍の一員として(おそらくは
婿である徳川頼宣の補佐として)豊臣を攻める、という可能性のほうが高いだろうね。
0495人間七七四年
2011/07/06(水) 12:30:44.18ID:yUGjguV80496人間七七四年
2011/07/06(水) 12:54:31.20ID:6FsKodviそんなだったから大阪の陣でするっと幕府に付いたことに世間の失望を買ったわけだ。
普段大きなことを言ってたくせにいざとなったらこれか、と。
一方清正は徳川家・幕府に対して終始、忠臣ポジションを崩してないな。
0497人間七七四年
2011/07/06(水) 13:08:30.02ID:L1Hz9ya6いざとなれば俺が豊家嫡流という考えもあったんじゃないかな。
0498人間七七四年
2011/07/06(水) 14:00:24.65ID:Bm0wOuqRあの糞いまいましい治部さえいなけりゃ
0499人間七七四年
2011/07/06(水) 15:08:16.02ID:hWFIuQ+Xまぁ付け込み易い人だわな。
0500人間七七四年
2011/07/06(水) 15:53:11.54ID:1grolS240501人間七七四年
2011/07/06(水) 17:32:14.36ID:YitGtSYmそもそも清正の嫁がどこかの日向守の妹で家康の養女
むしろ、反徳川意識があったのは嫡子の忠広(側室腹)みたいだね
こいつは徳川の嫁やその息子とも不仲だったみたいだし
清正自体はかなり親徳川だから、秀頼の味方しても徳川に刃向かうことはなかったかと
浅野池田は言うに及ばず
所謂豊臣恩顧大名で徳川に反抗的だったのは福島くらいだったかも
0502人間七七四年
2011/07/06(水) 17:35:16.61ID:NnztSRol自分が家康に肩入れしなければここまで豊臣家は没落はしなかったと
自分の三成嫌いを上手く利用されたと後で気づいただろうし
0503人間七七四年
2011/07/06(水) 17:55:03.71ID:EU1fIGWp後悔も何も、三成ら奉行派と正則ら武将派の対立は、既に秀吉末期から
潰すか潰されるかの構造的な対立になっているから、正則個人の好き嫌いの
問題ではなくなっている。
はっきり言えば秀吉の体制の構造問題なので、どちらかが一方を屈服させないと
どうにもならない。その意味で正則は、むしろ家康を自分たちの派閥が優勢になるため
利用したと言っていい。
まあ後悔というか誤算は、一旦は強制隠居という形で屈服させたはずの三成が
クーデターを起こして復権をはかったことだろうね。これで正則は自分たちが盟主として立てた
家康の元、自分自身のためにも戦わざるを得なくなった。
0504人間七七四年
2011/07/06(水) 19:54:24.93ID:J9yJlWdO0506人間七七四年
2011/07/06(水) 22:26:04.84ID:icp62j3N0507人間七七四年
2011/07/06(水) 23:06:36.93ID:B6TqPKCM^^;
0508人間七七四年
2011/07/07(木) 13:18:52.76ID:oUGccgTe0509人間七七四年
2011/07/07(木) 18:08:17.88ID:zQVnU6i7このとき石田三成の陣には前方に柵を作り城戸を立て守りを固めてあったが、
ここに黒田長政の部隊が攻めかかった。
すると石田陣の柵の内より、石田家の侍大将・島左近が片手に槍をかかげ、片手に采配を持ち、
かかれかかれと100名ばかりの徒武者を引き連れ出撃してくる。
この時どういうわけか左近は6・70人ほどを柵際に残し30人ばかりを二十間(約36メートル)ほど
先に進ませ、いかにも静かに攻めかかった。
黒田長政も三十騎ばかりを下馬させこれに当たらせ、槍の穂先が触れ合うほど接近し、互いに
睨み合う。しかし後ろの備えを含めれば人数は石田隊のほうが多く、黒田隊の不利は明らかであった。
と、その時である
黒田隊において鉄砲隊を預かっていたのは菅和泉(六之助)であったが、彼は部隊を
右手にあった小高い場所に駆け上がらさせ、50挺の鉄砲を隙間もなく撃ちかけた。
これにより石田隊の先に進んでいた兵たちは多くが撃ち殺され、あるいは負傷し、島左近も
生死不明ながら銃弾の餌食となった。
ここに敵のひるんだところを、黒田隊は得たりと勇み、即座に突き崩し多くの首を得た。
島左近は深手を負って下人たちが肩に担いで引き退いたため、後ろに備えてあった70名ほどの兵も
一戦もせずに引き上げた。
黒田隊はその勢いのまま石田陣の柵の中にまで乱入し、難なくその陣を突き崩した。
さて、この一戦において黒田隊に勝利を呼び込んだのは鉄砲隊の活躍だったが、
彼らが活躍したのも当然理由があった。この鉄砲隊に選ばれた足軽たちは特別に選別され、
又者(陪臣)であっても鉄砲の上手で、なおかつ心の健やかな者を選んで編成された部隊であった。
そのため、効果的な攻撃が可能だったのである。
後にこの鉄砲隊の者に「敵との距離はどれほどあったのか?」と尋ねたところ、
「あの時は一町四・五反(およそ150〜60メートル)以上ではないと判断し、そこを少し計算して
撃ちました。」と言っていた。
関ケ原において島左近を撃つ殊勲をなした、黒田軍の鉄砲隊についての話である。
(古郷物語)
0510人間七七四年
2011/07/07(木) 18:42:54.67ID:fj6QAun00511人間七七四年
2011/07/07(木) 18:54:29.56ID:P81RcVYBライフル以前に100m強でも効果的な射撃可能な部隊はかなり稀だと思うが。
0512人間七七四年
2011/07/07(木) 19:09:13.13ID:rXMn4VBO0513人間七七四年
2011/07/07(木) 19:14:54.00ID:GnDXGwXb0514人間七七四年
2011/07/07(木) 19:23:26.40ID:Jq7R90zB0515人間七七四年
2011/07/07(木) 19:51:56.05ID:Q5zVrQ42鉄砲は最初から「貫」が高レベルで実現してるのが大きいよなぁ
0516人間七七四年
2011/07/08(金) 21:38:19.97ID:A2xBlLDI途中、白河は滑津まで来たところで武装した集団に出会った。伊達政宗が、陣を構えていた。
「さては旧怨を報いんとてか、それとも別の魂胆あっての事か?誰ぞ政宗に談判して参れ!」
義重は家臣に伊達軍との交渉を命じたが、苛烈をもって知られる政宗と、背後に控える軍容を恐れて
誰も名乗り出ようとしない。
ついに、末席に控えた小姓の和田十二郎が、しばしためらった後に使者の役を買って出た。
ただ一騎、十二郎は思い切って伊達軍の中を駆け抜け、中央に位置する陣幕の中へ乗り入れた。
「狼藉者め、何奴じゃ!?」
床机に腰掛け、眼光鋭く睨みつける政宗を前に、十二郎は馬を飛び降り、平伏した。
「突然の無礼、失礼致しました。拙者、佐竹義重配下の者。ただ今、義重が秋田へ向かうに及び、
大勢で待ち受けるは、野伏り等が追剥ぎせんとの企みなり。追い散らせとの主命により、参った次第。あに図らんや、伊達殿のかかる振舞いは、義重を妨げ、通さずとの心にございますか?」
「いや、これは義重殿が途中にて不慮の事あれば、政宗これを保護せんとの心。いざ心安く通られよ。」
「武門たる家が、他家の保護を受けて秋田へ赴いたと言われては、末世までの恥辱になり申す。
ご好意の程は主にお伝え致しますゆえ、速やかにお引き取りあるべし。もし引かずば、義重もこの道を
動くまじ。さすれば、互いに遺恨が残りまする。」
政宗は十二郎を見据えて考え込んでいたが、やがて立ち上がった。「よし、引き上げじゃ!この政宗に異心なき事、お主の口から義重殿によーく伝えよ。それにしても、
お主は年若く見えるに、大事の使者を良く成し遂げた。名を聞いておこう。年はいくつじゃ?」
「拙者は、和田昭為が孫・十二郎。生年は十八!!」
「家老の和田安房が孫か!道理で・・・よし、これをやろう。」
十二郎の態度に感心した政宗は、褒美としてみずからの替鎧を与えた。
堂々たる大将の鎧をかつぎ、意気揚々と佐竹家の一団に戻った十二郎は、事の次第を義重に報告した。
「よくやった!しかしお前確か、年は十六じゃろ?なぜ十八歳などと偽ったのだ?」
「はっ、えー、いや、そのぅ、十六歳と言って、もし政宗に小僧扱いされたらシャクだと思い・・・」
破顔一笑した義重は、厚く十二郎を賞してやった。(秋藩温故談より)
0517人間七七四年
2011/07/08(金) 22:00:44.99ID:Dh3NzgPM佐竹との遊び収め?
0518人間七七四年
2011/07/08(金) 22:05:51.67ID:DTb+47mN0519人間七七四年
2011/07/08(金) 22:07:55.34ID:huLOkJw50520人間七七四年
2011/07/08(金) 22:08:05.61ID:K7A2lEAMまあ史実かどうかはともかく、キャラクター的に言えば政宗のことだから、
半ば嫌がらせでそれに対し佐竹が怒ってなにか仕掛けてきたら、これ幸いと
自分の勢力拡大のために何らかの手をうとうとした、ってあたりかねw
0521人間七七四年
2011/07/08(金) 22:16:43.84ID:CUF0qj+e地方に飛ばされていく旧敵を眺めてにやにやしたかっただけだろうな。
0522人間七七四年
2011/07/08(金) 22:21:52.33ID:QAJpI4rjでも、ただの嫌がらせが、ちょっと対応間違えると血腥いことに。
0523人間七七四年
2011/07/08(金) 23:29:06.70ID:Kc80vtsS0524人間七七四年
2011/07/08(金) 23:36:44.40ID:05Kpxf630525人間七七四年
2011/07/09(土) 01:39:29.15ID:AxlGhnwt0526人間七七四年
2011/07/09(土) 01:42:21.45ID:Jykh43aOまぁ、居なくなってもらった方が政宗には都合が良いか。
これが叔母(義重室)への敬慕故の行動だったらロマンティックなんだけど。
実際はニヤニヤするために出張って来た、ってのが妥当かな。
義宣と従兄弟なんだから仲良くしろw
0527人間七七四年
2011/07/09(土) 04:18:39.45ID:56pNIyFm大仰に事を構えたように見せかけて実質的には東北らしい馴れ合いで済ませたぜ
なんて所じゃないかね
政宗時代の伊達家中ってノリも主君に毒されているような気がしてならん
0528人間七七四年
2011/07/09(土) 07:51:01.09ID:Py3a/zpv今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ × (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ × (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
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(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
0530人間七七四年
2011/07/09(土) 09:48:36.34ID:QiBUq4G7彼は毎日近所のお地蔵さまにお参りをして、とても神心深い人であった。、
村の世話を進んでしてくれるし、親切な人だったので村民からとても頼りにされていた。
ある日、太郎左衛門は殿様からの命令により、部下を連れて隣の八幡村へ出かけた。
しかし、なかなか話し合いが纏まらず、いざ帰ろうとした時には既に日が暮れかけていた。
「さて、用事も済んだ。帰ると致そう。」
馬に乗った太郎左衛門の後ろに家来が続き、急ぎ足で駆けながらついに本野が原へ差し掛かった。
そこは人の背ほどある草が生い茂り、木が疎らに生えており家は一軒も見当たらず、
牛久保へ帰るには一番寂しく気味の悪い道であった。
「もう一息じゃ。皆の者、足元に気をつけよ。」
太郎左衛門が、そう声をかけた時だった。
突然辺りの草むらから野武士が二十人ほどワラワラと現れ、道を塞いでしまった。
0531人間七七四年
2011/07/09(土) 09:51:42.40ID:QiBUq4G7頭と思われる男が大声で言った。
しかし太郎左衛門は殿様のお使いの帰りであり、騒ぎを起こしたくなかった。
「何者だ。わしは、牛久保の太郎左衛門じゃ。名を名乗れ。」
太郎左衛門は落ち着いた様子で野武士たちに尋ねた。しかし、
「うるせえ、ずべこべ抜かすな。
貴様らの持ち物は俺様のモノなんだよ!お前らやっちまえ!」
と全く取り合う様子もなく、太郎左衛門らは取り囲まれてしまった。
「くっ、こうなっては仕方ない。南無地蔵大菩薩、私共をお守下され!
これよりは侍の意地にかけて戦うのみよ!」
太郎左衛門は馬を飛び降り松の木を背に刀を構え野武士共を相手に、
南無地蔵大菩薩を一心に唱えながら戦った。だが、相手は大勢である。
次々に攻め込まれ、もうこれまでかと思われた時である。
突然、数人の若侍が風のように現れた。
0532人間七七四年
2011/07/09(土) 09:53:45.91ID:QiBUq4G7言うが早いか、若侍はいきなり野武士どもに斬りかかって行った。
「おお、これはかたじけない。」
片手に杖を持った侍が太郎左衛門を守る。すると、一人の野武士が太郎左衛門に斬りかかって来た。
「危ない!」
野武士の剣筋は、太郎左衛門を庇った侍の肩にざっくりと入った。
「大丈夫か。」
「肩をやられたが、これしきの傷大した事無いよ。」
若侍は気にする様子も無く、次々と野武士を倒していった。
ついに野武士の頭を松の木に追い詰め、杖で足を打ち動けなくさせると
手下たちは、もうこれまでと思ったのか、頭を抱えて逃げて行った。
「貴殿らの助太刀によって命を拾った。先程の傷は…」
太郎左衛門が振り向いた時には、若侍たちの姿はなくなっていた。
次の日の朝早く、村人たちが太郎左衛門の家に駆け込んで来た。
「大変でございます。お地蔵様が切られてござる。肩から胸にかけて血がべっとりと付いています。」
話を聞いて太郎左衛門は涙を流した。
「そうか、あの侍はお地蔵様だったのか。私の身代わりになって助けて下さったようだ、
有難いことだ。南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩・・・・。」
人々はそれ以来、肩から胸にかけて傷のある
このお地蔵様を「けさがけ地蔵」(みがわり地蔵)と呼ぶようになった。
地元の伝説・民話集を纏めたサイトにあった話。ソースのソースは「牛窪物語」です。
0533人間七七四年
2011/07/09(土) 10:23:23.09ID:VxV2s3wN戦国時代の刀って、野武士レベルの持ち物でもそこまで切れるのか。
0534人間七七四年
2011/07/09(土) 11:26:16.07ID:pDQPVeAA0535人間七七四年
2011/07/09(土) 12:29:42.86ID:HVPaoWbY0536人間七七四年
2011/07/09(土) 12:38:33.28ID:/GVclcJg0537人間七七四年
2011/07/09(土) 13:49:53.69ID:Kj8zPXyA0538人間七七四年
2011/07/09(土) 15:15:11.16ID:Jykh43aO0539人間七七四年
2011/07/09(土) 15:43:07.40ID:pbGFzFMM毎日大根を二本食っている男がいた。
ある時賊に襲われそうになったところ、二人の武士がやってきて
賊を追っ払ってくれた。
名を聞こうとすると
「われわれは日ごろあなたが食べてくださっている大根です」
と言って去った、という話が
食われる側の大根でさえこれなら、地蔵様が助けないわけがない
0540人間七七四年
2011/07/09(土) 15:58:58.48ID:cAGeeCAjこういうのがあの時代にどれだけ跋扈していたのか知らないけど、怖いわ
0541人間七七四年
2011/07/09(土) 16:11:43.20ID:N6vUyEva0542人間七七四年
2011/07/09(土) 16:38:57.38ID:Ia/wwm8t0543人間七七四年
2011/07/09(土) 17:11:06.15ID:/GVclcJg0544人間七七四年
2011/07/09(土) 18:06:36.65ID:riBeJ5m+0545人間七七四年
2011/07/09(土) 18:23:54.98ID:oCfSSAA9寺や神社が武装し始めたのは
野武士が山賊になって神聖な場所だろうがヒャッハーしてたのが原因の一端でもあるらしい
0549人間七七四年
2011/07/09(土) 19:35:58.65ID:fWaMIQ720550人間七七四年
2011/07/10(日) 09:07:09.75ID:HkdM0/oXおろして米とか麦に混ぜて食うとか
練って餅みたいにして食うんだと思う
それだと、二本なんて余裕
0551人間七七四年
2011/07/10(日) 09:22:31.19ID:eHOPkbqX0552人間七七四年
2011/07/10(日) 10:01:13.15ID:tbauvVkfきっと当時のダイコンとほぼ同じものが出来るんだろうなあ
0553人間七七四年
2011/07/10(日) 10:17:28.28ID:Tu83M5wE炊いていたぞ。大根飯って。貧しそうだったぞ。
0554人間七七四年
2011/07/10(日) 10:27:35.79ID:5wpd8CeC0555人間七七四年
2011/07/10(日) 10:35:11.90ID:uqLSKw+D0556人間七七四年
2011/07/10(日) 10:38:48.09ID:uFdFY52q撮影のたびに食べてたらやっぱり不味かったと、おしん役の人が言ってたな
0557人間七七四年
2011/07/10(日) 11:48:32.79ID:ppYkKHJx0558人間七七四年
2011/07/10(日) 13:04:37.23ID:C5saOIz60559人間七七四年
2011/07/10(日) 13:31:47.39ID:XuBsUytl食感が豊かに感じられるので一品おかずが少なくて済みます
でも麦も稗も粟もそれ単体で食べるとやはり白米には勝てませんねw
冷めたものはおにぎりにするとほんのり塩味と
この食感が絶妙に合うのでお昼のお弁当や夜食に重宝します。
0561人間七七四年
2011/07/10(日) 18:42:49.83ID:uqLSKw+D昔の小説に芋粥食えたら死んでもいい公家、ってのがあったっけな
0562人間七七四年
2011/07/10(日) 22:22:08.62ID:ktV8s8B2主家が駿府14万石をつかむきっかけとなった山中城攻めにおいても、一番乗りの大功を立ててのけた。
ところが、この攻城戦に同じく一氏に仕えていた渡辺勘兵衛も参加しており、その大半月の前立が
関白秀吉の目にも止まり、勘兵衛こそ一番乗りということになってしまった。
事実を知っていた一氏は転封後、内匠に5千石、勘兵衛に3千石を給したが、勘兵衛はこれを不満とした。
そんなある日、勘兵衛から内匠に書状が届いた。
“拙者儀、貴殿存じよりの子細ありて、中村家を立退く。ついては顔を合わせたく、町外れにて待つ。”
内匠は、ただちに両刀を携えると、町外れに向かった。そこには、完全武装の勘兵衛が愛馬に乗り、
抜き身の長刀を引っさげて待ち構えていた。
「おぅ来たか。わしはこれにてご当家を立退くが、一言の挨拶も無く去るのは、わしの本意ではない。
…が、わしが足を止めてまで頭を下げようと思うのは、お主の他におらなんだわ。」
「ふん、言うてくれるわ。」
「まぁ、これまでの我らが間柄に臆せず、良くぞ来てくれた。これを置き土産にくれてやろう。」
勘兵衛は、手に持った抜き身の長刀を内匠の目前に突きつけた。
「ならば、わしも餞別せん。」
内匠は全く動じる事なく自分の脇差を抜くと、同じく勘兵衛の鼻先に突きつけた。
「かたじけなし。」「痛み入る。」
長刀と脇差を取り換えた二人は丁寧に礼を交わしつつも、互いに油断無く睨み合いながら立ち別れた。
(明良洪範より)
その後、渡辺勘兵衛は増田家・藤堂家と仕えた後、牢人となるも、天下の名士として知られた。
藪内匠正照は中村家改易後、細川忠興に仕え、その子孫は細川家・紀州徳川家で重く用いられた。
0563人間七七四年
2011/07/10(日) 22:26:36.06ID:wxEGIBHV0564人間七七四年
2011/07/10(日) 23:08:03.18ID:q/mwT7a60565人間七七四年
2011/07/10(日) 23:40:38.01ID:MOeCiGZF今更恨みはないけど、去り際に何かやってやりたいって感じなのかな
0566人間七七四年
2011/07/11(月) 00:57:04.82ID:EqiZO4Y20568人間七七四年
2011/07/11(月) 18:01:41.69ID:X1eOcevK大根は外来種を日本人が今のような形に品種改良したらしい
元々はもっと細くて小さかったらしく、今の大根とはだいぶ見た目が違う上
いつごろ伝わって、あのような太った形になったのかよく分かっていないので、
実質日本原産みたいな扱いを受ける場合もあるみたい
(ブランド化するほど品種改良して今の形になったのは江戸時代だけど)
0569人間七七四年
2011/07/11(月) 19:30:51.45ID:sCQBajbC0570人間七七四年
2011/07/11(月) 21:43:04.93ID:5GaIqG/L0571人間七七四年
2011/07/12(火) 02:12:40.97ID:v3xbTjYAあと、市原悦子が「藤吉郎、ほれ、だゃ〜こん」って。
0572人間七七四年
2011/07/12(火) 07:50:59.51ID:hfheNVecだとすれば中世日本の大根人気もうなずける
0573人間七七四年
2011/07/12(火) 22:58:42.09ID:wDXLDvxV肩代わりして、博多商人・河内屋に三百両の負債を抱える身となった。
大膳は、友のために借金の弁済を試みたが、誇り高い宗右衛門は、申し出を受けようとしなかった。
ある日、大膳は宗右衛門の屋敷を訪れた。客間に通された大膳は、床の間に掛けられた軸に目を止めた。
「なかなか良い物をお持ちではないか。」
「大したものではないが、御意にかなえばお持ち帰りあれ。わしが持っていても意味は無い。」
「…では、遠慮なくいただこう。」
翌日、宗右衛門のもとに大膳から絹の包みが届いた。包みの中には陶器の花入と、書状が入っていた。
“先日の掛け軸の返礼に、この花入れを進呈いたす。もしお好みに合わねば、何人なりともお譲りあれ。
お出入りの河内屋など数寄に執心との事、しかも河内屋は貴殿ご所望の色紙も持ち合せと聞き及ぶ。
色紙と花入を交換するも良し、貴殿のご随意になされたし。”
「はて、俺は色紙など欲しくは…!色紙とは借用証文の事か。掛け軸を所望したのも、わしを救わんがため、
この花入と交換するために、わざと言った事か。大膳殿、すまぬ……」
さっそく宗右衛門は、花入を持って河内屋に駆け込んだ。「この花入、質に入れれば値はいかほどだ?」
花入を鑑定した河内屋は、仰天した。
「そ、宗右衛門様、こ、この花入をいったいどこで?!」
「ある人に譲ってもらった。良い物なら、借金の足しにしたいのだが。」
「これこそ名物花入・銘『旅枕』。かの利休居士が作らせ、太閤秀吉公みずからの命名になるとか。
太閤からご当地先代・長政公に、長政公から栗山家に下賜された、門外不出の逸品と聞きますが……」
「…仔細あって譲り受けた。して、いかほどになる?」
「これなら三百両を帳消しどころか、逆に三百両お支払い致しますぞ!」
「いや、借金を帳消しにするだけで良い。このわしに、富貴に浸る資格はない。」
花入と証文を取り替えた宗右衛門は帰り道、大膳の屋敷の前まで行くと、深々と頭を下げた。
家宝を捨てて友を救い、身を捨てて主家を救った男・栗山大膳の生きた証、『旅枕』の花入は今現在、
大阪和泉の久保惣記念美術館が所蔵している。国指定重要文化財である。
0575人間七七四年
2011/07/13(水) 18:58:51.42ID:zXZRlqOA東郷肥前守重位。示現流の開祖であり、薩摩では諱を「しげかた」ではなく「ちゅうい」と読む、この人物。
「温厚で沈着、目下の者に対しても慇懃で礼儀ただしく、領民に温情ある」と言う、薩摩では存在するだけで周囲の総スカンを食らった挙句に抹殺されそうな為人(ひととなり)を貫き通しただけあって、強い。
初陣(十八)で敵の首を挙げ、十数回(一説には十九)の上意打ちは全て介添え役の手を煩わせず完遂し、天真正自顕流を善吉和尚に授けられて以降は四十数名の挑戦者を悉く撃破。
そんな達人を、おそらく最も悩ませたであろう存在は、自身が指南役を勤めた島津忠恒かもしれない。
なにしろ、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-611.htmlな逸話がある人物である。
現在でも東郷家には、この時の琉球扇子(黒染骨18、高さ1尺、八部折れ五つ、扇面は草花画金泥書、古詩を墨書)が保管されているぐらい。
但し。この時の忠恒。決して仕合の勝者である重位に、首に刀の引き出物(未遂)だけで返した訳では無い。
「和上者!」
と一括され、腰を抜かした忠恒に三間さがって平伏する重位に、その時に腰に副えていた脇差(薩摩鍛冶・藤原氏長1尺6寸2分)を手ずから授けている。
刀身には「南無大慈悲観世音菩薩」の九字彫刻と、忠恒が首取りに際してつけた切り込む傷のついている業物だった。
0576人間七七四年
2011/07/13(水) 19:21:30.01ID:zXZRlqOA慶弔九年。四十四歳で忠恒の指南役となった重位。
……実際には↑のような逸話の後も、刀で切れる訳がない碁盤を両断しろとパワハラされ(碁盤どころか、床板まで切って見せる)、
風呂上りに話があると呼び出され、隠していた木刀で奇襲をされ(前回と同様、扇子で迎撃。左手の腫れた忠恒、数日は薬湯で療養し寝込む)たりと、
気苦労の耐えない日々である。
そんな、ある日。
島津義久、義弘の両公の御前に召し出された重位は、義弘から直に労いの言葉をかけらる。
且つ、両公自作の和歌を自筆した短冊と、来国光の短刀(9寸5分)を拝領した。
「これを以て汝の功を賞す」
……体育会系の教師に、父兄がうちの息子は駄目な奴ですが先生の尽力でと依頼しているような、銘刀拝領のお話。
0577人間七七四年
2011/07/13(水) 19:38:22.38ID:zXZRlqOA慶長十一年三月。京都で仙洞御所の普請に参加していた島津家久(忠恒)は、淀川を遡っていた。
目的は、江戸に参覲して江戸城の普請に働く家臣と合流する為である。
伏見を目指し、大船から小船に乗り換えた家久。お召し舟の同乗者は、侍では重臣の玉川伊予守(後の本郷伊予義則)と護衛役の重位。
他は、船頭・船子・小者の類で、他の重臣や家臣は別々の舟に分乗している。
淀川の流れを、時に棹を使いながらも、その殆どを岸から曳き縄に曳かれて遡上するお召し舟。
乗船人数が少なく、曳き手の数は多いので、後続の舟を引き離して独走状態。家久は上機嫌だった。
「殿、後ろの舟が遅れております。舟の足を緩めては?」
「その必要は無か。船頭、もっと早う走らせぃ!」
重位の提案は逆効果。
「公の舟、独り進みて従者の舟、未だ及ばす」と記録される事態に。(続く)
0578人間七七四年
2011/07/13(水) 19:52:48.15ID:zXZRlqOA「構わん、このまま行け!」
家久、加藤家家臣の舟を追い越す。
……その時、加藤家の舟と岸の間には曳き縄が存在し、それが自らの舟の上を経過しようとした時。
家久は、船子に命じて縄を両断させた。たちまち、淀川の勢いに屈して岸に乗り上げる加藤家の舟。
「はっははははは!」
高笑いの家久。青褪める周囲。当然、加藤家の側は激怒する。
舟から降りた加藤家の家臣達は、家久の召し舟を曳いていた縄を奪い、陸に向かって引き寄せ始めた。
「……拙いかな、これ?」
「危難です、はい」
薙刀の鞘を外す家久に、弓に矢を番える伊予守。島津の家臣団を乗せた船団は、遥かに後方。
と、遂に岸に引き寄せられてしまったお召し舟から、さっと立ち上がる重位。(続く)
0579人間七七四年
2011/07/13(水) 20:00:55.92ID:zXZRlqOA「……あ、あの。重位、さん。ここ、伏見だから。騒動を起こすと両家とも無事じゃ済まな…」
剣を抜き、今にも岸に降り立とうとする重位。聞いていない。
「待て。暫し、待て!」
薙刀の石突で、必死に重位の袴の裾を押さえる家久。
加藤家の家臣団、目の前の修羅(場)に圧倒され、棒立ち状態。
……結果。
双方、睨み合いの間に島津の家臣団を乗せた船団と、加藤家の重役の乗った舟が到着。
双方の重役同士が挨拶をすませて、事は穏便に解決した。(続き)
0580人間七七四年
2011/07/13(水) 20:15:45.62ID:zXZRlqOA「今日の事、幸いにも難に及ばず」
(一体、どなたの所為だったのでしょうか?)
「やむを得ぬ場合、衆寡敵せぬ以上、加藤の主だった者(魁の者)を視て、これを撃ち殺すつもりだったぞ」
その時、重位は答えた。
「臣にはそのような他意は無し。手に随って悉くこれを斃さんのみ。
いずくんぞ、敵する者を択ぶ暇あらん」
主要人物を真っ先に片づける事で、敵の崩壊を誘おうとしていた家久に対し。
重位は、刀の間合いに入っている者は全て斬り殺すつもりだった。
……逆に言えば、その殺気が伝わる事で、加藤家の家臣団は全員が動けなかったのかもしれない。
「……」
圧倒された家久。副え刀(脇差)の中で、
「この副え刀、よく剛を断つに堪えん事。公、平日自愛する所」
の、関禅定兼吉が鍛えた1尺3寸(刀身に蓮花を彫刻)を賜る。
0581人間七七四年
2011/07/13(水) 20:23:07.06ID:zXZRlqOA元和八年、夏。
江戸において六十二歳の東郷重位、柳生門下の高弟である福町七郎右衛門、寺田勝介と対決。
両名は重位に敗れ、入門誓詞を差し出す。福町は三日後、打撃が元で死亡する。
家久、大喜びして備前物の脇差を下賜する。
こうして見ると、事ある毎に脇差を拝領しているようです。
実際には、大刀を拝領した事もあるそうですが……そちらは、悪い話の方で。
長々と書き込んで、失礼を致しました。
0582人間七七四年
2011/07/13(水) 20:29:58.87ID:jt+UT2zR0583人間七七四年
2011/07/14(木) 00:32:08.29ID:03siNorf陣を見回っていた光秀は、久秀の備えの一部が突出しているのを見つけ、久秀に忠告した。
「松永殿、貴殿の備え、少し出張り過ぎたところがあるようだ。今のうちに、備えを立て直されよ。」
「おお、これは面目ない!・・・しかしのぅ明智殿よ。この松永も日ごろ茶人、数寄者と呼ばれる身。
それが人前で二の湯を継ぎ足し、茶を『点て直す』などという見苦しきマネは思いもよらぬ。
あの一備え、廃るというなら捨てるまでよ。それ、かかれ―――ぃ!!」
そう言ってそのまま敵陣に突き入れ、勝利してしまった。(茶窓閑話より)
0584人間七七四年
2011/07/14(木) 00:43:27.97ID:FGiOzc4D弾正のこの行動は少々無茶ではないのかと
0585人間七七四年
2011/07/14(木) 00:56:23.71ID:7hNSG0It光秀も>>584も裏を掻かれておろう」
0586人間七七四年
2011/07/14(木) 08:11:55.58ID:R+j7jN03さすが、ノブさま!そこに痺れる、憧れるぅ!
0588人間七七四年
2011/07/14(木) 10:57:56.31ID:TIhvGKAz0589人間七七四年
2011/07/14(木) 16:10:39.52ID:PYxpvjOh急がざるべからず
不自由を常と思えば発達なく、
心に緩み生ぜば成功したる人を思い出すべし
負嫌いは開運立身の基、因循は敵と思え
守るばかりにて進まざれば、害、其身にいたる
己に依頼して、人に依頼するな
過ぎたるは及ばざるに勝れり
遠藤周作の『決戦の時』の解説に出典はかなり怪しいとしながらも紹介されている一説。
こういうのも面白いかなと思ったので。
もちろん織田信長を表した一説です
0590人間七七四年
2011/07/14(木) 20:16:06.01ID:aVAR+d05これは有名な家康の「人の一生は重き荷を〜」の書き直しじゃないかw
言葉の使い方から見ても、どう見ても明治以後、多分戦後の作だろうね。
というか遠藤周作の創作だろうよw
0591人間七七四年
2011/07/14(木) 21:32:46.86ID:Y2w/EqcN0592人間七七四年
2011/07/14(木) 21:53:24.71ID:1zvMS8mpいくら逸話スレだからって作者の創作だったり主観で登場人物やオチが
変わってることがある歴史小説の話なんてソースにされちゃ困るんだよ
0593人間七七四年
2011/07/14(木) 22:10:22.63ID:Mejawji4ここに収録された逸話なんて99%以上、後世の作り話なんだしw
0594人間七七四年
2011/07/14(木) 22:17:54.97ID:lLEEmUm6それを後世の作り話だと指摘しても良い
0595人間七七四年
2011/07/14(木) 22:20:12.08ID:v/tfisY30596人間七七四年
2011/07/14(木) 22:25:15.40ID:nKBiehcr0597人間七七四年
2011/07/14(木) 22:27:16.74ID:KSRRuLKt0598人間七七四年
2011/07/14(木) 22:47:12.31ID:VOqdReaEここ学問板じゃないんだから
0599人間七七四年
2011/07/14(木) 23:15:21.76ID:PYxpvjOhもちろん、人生は重き荷を〜、を意識して作られたものなのはわかって投稿していますw
0600人間七七四年
2011/07/15(金) 00:54:33.50ID:o0+b1hLnフィクションが元だと指摘したいなら普通はソースを示すだけなのに
遠藤がーとか明治期にーとかやるからああ知識をひけらかしたいだけか、ってわかっちゃうのにね
つか逸話だって明らかに創作の奴だって紛れてるんだし、細かい考証ただ不毛なだけだ
0601人間七七四年
2011/07/15(金) 01:16:27.58ID:Bh1+m6Wn0602人間七七四年
2011/07/15(金) 03:36:44.22ID:w4WKCjbmこの両名、実に仲が悪かったという。
ある時のこと、母里但馬の屋敷にて人々集まり武辺話をしていたとき、但馬がこんな事を言い出した。
「周防は名人臭く、みたくもない分別面も甚だしい者であるが、先年豊後石垣原(関ケ原九州戦線での
大友氏との戦い)では一人狂言をしたよ」
人々、但馬と周防が仲の悪いことを知っていたので『またいつもの悪口をいうのだろう』と困っていると、
その中の但馬と心安いものが聞いた
「一人狂言とは、一体どういう事を言っているんだ?」
これに母里但馬
「それはな、あの合戦で周防は人を能く使い、自由自在に駆け引きをし、その上自身で槍を突き残るところなく働いた。
仕手(軍の運用と作戦立案)と脇(戦場での働き)を続けて一人でやったのだから、これは一人狂言ではないか。」
これに、ある人が口をだす
「あなたの甥である隼人殿も、戦場では同じ程の働きを、しかも朝鮮と石垣原で二度もされている。
脇ということならば、隼人殿は周防殿の上を行く勇者ではないだろうか?」
但馬、この指摘に
「あいつは私の甥だからなんとも言い難いが、脇という面であれば悪くいうことは出来ないな。
しかし周防は軍陣という物も見ず、軽はずみなこともせず喧嘩もしないので、終に刃を交えるような事もなく、
子供の頃から用に立つべき者であると、優れて功の入った人である宗円様に見つけられ、如水様、そして
今の殿にいたるまで3代共に、仕手として重用されていた。
しかるに豊後では、あのような実戦は初めてのはずなのに、そのたった一度、一度も一度の場であれだけの働きをした。
なるほど、いよいよあいつは殿の御重宝である。」
そういって井上周防を殊の外褒め上げた。
これを聞いた人々は
「但馬殿と周防殿はずっと不和で、今周防殿が他に居るのをいいことに、何事かを聞き出して悪口を言うのだろうと
困った思いでいたが、なんという正直な物言いだろう。」
と、皆感じ入ったそうである。
母里但馬、不仲の井上周防にツンデレる。と言うお話。
0603人間七七四年
2011/07/15(金) 06:00:36.19ID:0F+VrMKM「脇を合わせる」と出てくるけど、どうしてそういう言い回しになったのか謎だったんだが
能狂言の仕手・脇に例えて言ってるのか。すごい納得した。
戦用語っておもしろいな。
0604人間七七四年
2011/07/15(金) 09:06:07.88ID:dlX7iE/Eというか、完全に支配体制が確立してにないと上意討ちとは言わないのかな?
0605人間七七四年
2011/07/15(金) 09:54:00.13ID:VtFOTEhj栗山は母里に長政にと面倒見なきゃいけないのが多くて大変そうだ
0606人間七七四年
2011/07/15(金) 10:06:58.53ID:oc7vWgGf0607人間七七四年
2011/07/15(金) 11:35:44.98ID:bKsBipV7支配体制確立してたら、腹を切れって言うだけで切ってくれるけど
この時代は素直に腹を切るくらいなら、
実力で抵抗するか出奔するやつがいるので上意討ちは大事。
0608人間七七四年
2011/07/15(金) 12:40:15.54ID:VtFOTEhj0609人間七七四年
2011/07/15(金) 20:33:53.09ID:movMjuWEでも、後者の場合は密殺や毒殺も含みますし。
伊予松山藩では、江戸期に「御意討ち」として主君が反抗的な家臣を討たせています。
理由ですか?
家禄永代安堵の家柄の家臣
→財政難につき、特別扱いすると周囲が反発するからと、安堵状を反古に
→当人、仕方ないと納得
→周囲、いい子ぶりやがってとイジメ開始
→殿も、後ろ暗いのでイジメを黙認
→当人、それでも真面目に仕事する
→殿と家臣、アイツは謀反を企んでいるに違いないと決め付ける
→御意討ち。
戦国時代だったら、悪い話スレに投稿したい位です。
0610人間七七四年
2011/07/15(金) 20:54:27.39ID:4ZQlyy59トラブったら出奔するという手もあるし。
0611人間七七四年
2011/07/15(金) 21:05:35.87ID:UeC+Zs0W0613人間七七四年
2011/07/15(金) 21:43:32.60ID:movMjuWEイジメに参加していない横目付が、武士として無用心であると注意すると「ご忠告、忝い」と慇懃に一礼したらしい。
が、打ち手が作法を無視して物陰から無言で襲い掛かった瞬間、抜く手も見せずに抜刀。しかも、手加減して鍔で討手の額をカチ割って気絶させるに留める。
気を取り直した添え役が、数百メートル走って追っかけて、作法どおり「御意討ちである」と口上を述べると、静かに路上に正坐して「斬れ」と告げ、堂々と刃を受けた。
これ、戦国末期から江戸初期なら「劇場版・魔界転生」の柳生宗矩さながら暴れまわっていたかな?
0614人間七七四年
2011/07/15(金) 21:53:14.29ID:pyOYKMun後世での名誉回復に身を委ねたのだろう
0615人間七七四年
2011/07/15(金) 22:55:27.30ID:iVLhlcEA「上意討ち」となると、逃げても末代までの浪人覚悟だし。
藩の方もただ逃がすわけには、面子とか。
なんか、逃げるのってめっちゃくっちゃ面倒臭そうだなぁ。
0616人間七七四年
2011/07/15(金) 23:58:42.69ID:f5+lp7f5「成敗」というのは手討ちなのか上意討ちなのかどちらも入るのか
0617人間七七四年
2011/07/16(土) 00:11:53.20ID:zh1H/o0Oだから、君主の勢いでバッサリとって感じで近いところにいる近習がよく手討ちにあうと・・・
上意討ちというのは、主君の命によって配下の者を討つってことで、
差し向ける人間にちゃんと命令がでてるってことなんじゃないかな〜
0618人間七七四年
2011/07/16(土) 00:15:07.23ID:FHvIk0a2自信なければ上意打ち
0619人間七七四年
2011/07/16(土) 01:22:46.36ID:P52k2i+f0620人間七七四年
2011/07/16(土) 06:26:38.76ID:NxRUfE0U0621人間七七四年
2011/07/16(土) 10:06:33.14ID:2OOwg9pO0622人間七七四年
2011/07/16(土) 13:35:12.54ID:q06OVCpV慶長8年3月24日、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開府した年、立花左近将監宗茂が、
5000石で将軍親衛隊たる御書院番頭に任じられ、屋敷を賜った。
屋敷と言っても徳川家の旗本屋敷は、屋根は板葺き、壁は荒土塗りがデフォで狭苦しい割には、敷地が広かった。
しかし、翌年には棚倉1万石、数年後には同地で3万5千石に加増された立花家では、加藤清正に預けていた家臣
を再雇用したり、江戸や棚倉で新規雇用したりして3万5千石にふさわしい家臣団を揃えた結果、屋敷は足の踏み場
もないほどの狭さになってしまった。
どれぐらい狭くなったかというと、重臣である十時摂津が、棚倉から江戸に来た際に、寝る部屋がなく側近たちと一室
で雑魚寝したほどである。
「これではいかん。奥の侍女と若い侍連中が間違いを起こして不義を起こしかねない。よし!」
立花最強家臣団中、最も小物の十時摂津とはいえ、言う時は言う漢である。宗茂のもとに伺候すると早速切り出した。
「殿、3万5千石の大名の屋敷にしては、いささか手狭になりましたな。世上では、立花殿は、吝嗇故に屋敷を広げない、
いや関ヶ原の一件を未だに遠慮して屋敷を建て替えないなど噂になっております」
「馬鹿な事を!」
「世上とはそのようなものでござる。幸いにも当家の庭は、広うござる。庭を潰して屋敷を広げませぬか?」
「無用!」
0623人間七七四年
2011/07/16(土) 13:36:15.24ID:q06OVCpV「はぁ?今のままでは、当家の若侍と奥方様の侍女との間で、不義密通が起きかねませんぞ。そうなればお家の恥」
「不義密通? 国法を犯すを不義、敵に密かに通じるを密通と言うのだ。男女のことは、奥に任せている。そう言えば、
奥の差配で婚儀が数件あったな」
不惑を超えても男女のことに疎い主君の一言で、一瞬、十時摂津が脱力した瞬間を捉え、宗茂が、得意の説諭を始めた。
「そもそも、立花の軍が強い所以は、如何に?」
「言うまでもなく一和にござる。家臣を家族のごとく殿が慈しむゆえ、我らも戦場において殿のために一命を捨てて戦うのでござる」
「ふむ、さすが摂津、よくわかっておるではないか。それゆえに屋敷は広げんのだ」
「???」
「かの関ヶ原にて、わが立花家は一度潰れた。その際、浪々の身になった我を見捨てずに養ってくれ家臣は、わが家族も同然。
家族なら毎日、顔を合わせるのが当たり前ではないか。屋敷を広げれば、家臣と主君の間が隔たって、毎日顔を合わせることも
なくなる。ましてや新規に召抱えたものの性根など、顔を合せる機会が無ければ、わかるはずもなかろう。一和がならねば、立花の
武威など朝露のごとく消え去ろう」
「しかし、家臣が一室で雑魚寝とは、他家への聞こえが良いとは」
「つまらぬことを申すな。雑魚寝することで、自然に互いに他をいたわり、気を使いあうようになるのではないか。そもそも我が立花の
3千が他家の1万に勝ると言われるのは、道雪公以来の一和の精神によるものぞ」
と言って、宗茂は摂津の意見を取り上げなかった。
0624人間七七四年
2011/07/16(土) 13:40:45.60ID:f/wwxMmH筋が通っているような、あさっての方向に行っているような。
0625人間七七四年
2011/07/16(土) 16:23:48.01ID:KYKKdG2d0626人間七七四年
2011/07/16(土) 16:34:03.45ID:RaQ4xt57殿様以外とのセックルは禁止なわけ。
ところがこの時の立花家では侍女と侍のカップルが何組か出来てしまい、
殿様にバレて処罰せざるを得なくなる前に結婚させたということ
0627人間七七四年
2011/07/16(土) 16:38:37.07ID:q06OVCpV5000石の旗本の奥方なら、それぐらい気がきかなきゃやっていけない。
問題は3万5千石の大名の奥方になっても、それが変わらなかったってことだ。
宗茂本人も変わってるが、ァ千代といい二度目の奥方のはちといい、嫁さんも
変わり者だよ。
0628人間七七四年
2011/07/16(土) 17:01:23.84ID:mX5mKpDA将軍家に知られて、「流石は宗茂!よーし
旧領10万石あげちゃうよ♩」ということになるという落ちなんでしょうか。
0629人間七七四年
2011/07/16(土) 17:14:31.03ID:bVMpI4H70631人間七七四年
2011/07/16(土) 17:47:37.09ID:KxMg+Ila宗茂の男女間の疎さを考えるにこの人は子供の作り方すら知らなかったんでは…
父連中もパーフェクトマシーンを作りあげたはいいが重要な部分が抜けていようとは思いもしなかっただろう
0632人間七七四年
2011/07/16(土) 19:06:23.01ID:RaTcBl160633人間七七四年
2011/07/16(土) 19:18:06.02ID:Bexc6EGY0634人間七七四年
2011/07/16(土) 19:20:55.25ID:f/wwxMmH0635人間七七四年
2011/07/16(土) 19:31:31.20ID:TzUyqRWo0636人間七七四年
2011/07/16(土) 19:56:53.38ID:d3lt3EOM何人子作り出来るかだなその辺太閤殿下はへたくそだった
0638人間七七四年
2011/07/17(日) 00:05:07.07ID:zgi9ymjgそんなことさせるよりガキの一人でも抱かせてばいいものを
種無し以前に唯の朴念仁なのが問題なんじゃねーのか?
0639人間七七四年
2011/07/17(日) 00:54:49.95ID:DV/FpV1wそういや『無茶』とか『無茶苦茶』とかの言葉はお茶からの由来した言葉なんだよね。
頻繁に使ってる言葉だから再認識させられた。
0640人間七七四年
2011/07/17(日) 01:55:28.83ID:VQfNLz4L元々実子が継ぐことにこだわりがないんだろうな。
当時としてもかなり独自の価値観を持ってた人っぽいし、
0641人間七七四年
2011/07/17(日) 01:59:18.99ID:dL1UR5g1注意した人だしなあw>宗茂
0643人間七七四年
2011/07/17(日) 07:14:59.97ID:fihEQnos自分含めての周囲が他所の家継ぎまくってるの見て育ったせいもあるかもな
子供がいなけりゃ養子に継がせればいいじゃない、って。
0644人間七七四年
2011/07/17(日) 07:40:28.82ID:g/0qsKr8高橋家は、一万田→吉弘(紹運)だし、立花家も戸次(道雪)→高橋(宗茂)だから
養子を取ることに抵抗はないよな。しかも超優秀な弟の子供を生まれた日に養子
にして、乳飲み子から育ててるんだから、実質わが子と同じ。
どうも宗茂は、初婚の
0645644
2011/07/17(日) 07:51:22.30ID:g/0qsKr8どうも宗茂は、 初婚で懲りたのか、後に正室になるはちさんを側室に迎えた時
はちさん26歳。現在の感覚で言えば、アラフォー婚してるからな。端から子供を
作る気なかった節がある。
0646人間七七四年
2011/07/17(日) 10:33:28.00ID:DV/FpV1w三人の兄貴は他家へ養子に行った訳ではないのに納得したのかな?
0647人間七七四年
2011/07/17(日) 11:01:50.21ID:kAijQE80それこそ宗茂くらいじゃないか
0649人間七七四年
2011/07/17(日) 11:22:11.01ID:V6Bn3W680650人間七七四年
2011/07/17(日) 13:15:50.93ID:7SlTi8S1祖父道雪紹運、父宗茂、母ぎん千代なんてのが産まれたらと夢見てた時期もあったろうな家臣団。
0651人間七七四年
2011/07/17(日) 13:20:37.48ID:1qWNHHre0653人間七七四年
2011/07/17(日) 14:19:16.17ID:5+iYlTo5長男(母は筑紫広門女)は直次のあとを継いだ種次だね。
あと次男種俊は旗本、三男政俊と五男種元は柳川藩士になっている。
0654人間七七四年
2011/07/17(日) 20:38:01.80ID:VSlZDXPi立花宗茂と伊達政宗の料理大会って実際のところあったの?
友人から聞いたんだがソースが不明なんだ
もし実在してたら内容も頼む
0655人間七七四年
2011/07/17(日) 20:44:19.21ID:tksZpkAb0656人間七七四年
2011/07/17(日) 21:34:20.62ID:ld3/3H92>つまらぬことを申すな。雑魚寝することで、自然に互いに他をいたわり、気を使いあうようになるのではないか
ものはいい様すぎるww
さすがは相伴衆をつとめただけあるわ
0657人間七七四年
2011/07/17(日) 23:18:02.90ID:VSlZDXPi本当に申し訳ない
調べたら宗茂wikiに実際行われたって載ってたよ
さすがに内容までは無かったが
きちんと質問スレを探さなくて悪かった
次からは分別をつけるようにするよ
06581/2
2011/07/18(月) 18:36:44.23ID:AYRFFBTe黒田家では村田出羽と堤九郎兵衛という二人が、白切裂の指物を差していたのだが、
村田が堤のところに使いをやって申すには
「白切裂の指物は私が久しく差していたのだが、ご存じなかったのだろうか?
戦場で紛らわしいので、あなたはその指物を止めていただきたい。」
これに対し堤の返答は
「昔のことはよく知りませんが、先年の治部少輔(石田三成)の乱の時、如水公が九州に出兵された折、
私はこの白切裂の指物を差していましたが、貴殿は金の半月の指物をしておられました。
そうであった以上これは私の指物と決まったようなものです。あなたの方こそ白切裂の指物を使うのを
止めていただきたい!」
村田はこれに反論
「あの乱の折私は御使番を仰せ付けられていたため、使番の指物を差していたのだ!
ただいまは立身つかまつり足軽頭を仰せ付けられた。そのため指物も元のものに戻したのである。
この事に疑い有らば家中の古参の人々に尋ねられよ、私が昔から白切裂の指物を使っていたことを
証明してくれるだろう!貴殿は早々に別の指物に取り替えられよ!」
堤もそんな事で納得しない
「昔はそうだったかも知れないが、私にとって既に一陣を勤めた指物である!これを指すことを止めるわけには
いかない!」
以上のようなことで、村田と堤の関係は一気に悪化した。
村田は「堤のところに行って指物を踏み折ってやる!」と言ったと云い、包も同じことを言ったと云い、
双方「踏み折れるものなら折ってみろ!」と指物をわざと屋敷の軒下の方に置いている、などと云われ、
もはや二人が道で行き逢えば刺し違えることに成るだろう、とまで言われた。
さらにはこの事を聞いた双方の親しいお調子者たちがそれぞれに「何かあったらお味方いたす!」などと
言ってきたりと、非常に面倒くさい事態へと発展してしまった。
これは流石に良くないと、双方の親類縁者、友人などが間に入って和解させようとしたが聞く耳持たず。
次に黒田家の中老たちが上司の立場から意見したがそれも聞き入れない。
双方異口同音に
「人間としてもし今の指物を止めれば、大いなる恥辱となります!
そんなことをしたら相手が『踏み折るなどと言いながら未だに踏み折らない。口ほどのこともない。
大した人物ではないな。』などと世間に言い回るでしょう!
ですから、御老中の意見は申すに及ばず、例え殿の上意であっても、その意見をお受けすることは出来ません!
切腹を仰せ付けられても、あの指物を止めることはありません!」
こう言い切った。
周りの人々はさすがにあきれ果て、終に黒田家の最高幹部である年寄衆に事の解決を願い出る事にし、
丁度、栗山備後守利安の屋敷にて年寄衆の寄り合いがあったため、そこに出向いてこの件を訴えた。
06592/2
2011/07/18(月) 18:37:11.91ID:AYRFFBTe「あの二人が指物について口論しているという話は聞いていたが、大したことでもないと思っていたのに、
そこまで話が大きくなっているとは」
と驚きいたが、村田、堤両名が、これ又同じように
『たとえ殿様の御意であっても指物を止めることはありません。御扶持を放たれれば上々の幸せ。
切腹を命ぜられようとも後悔しないと決心いたしました。
御老中の命令といえども、こればかりは承知することは出来ません。
私の決意はこれにて、解って頂けるでしょう。』
と言っていると聴き、「さてもさても苦々しい話だ」と言葉もなく静まり返った。
─と、この時それまで奥の間に居たこの屋敷の主人、栗山利安が戻ってきた。
栗山は話を聞くと「あっはっは」と笑い出し
「何だそんな事か。もっと早く聞かせてもらえればここまで難しい話にはならなかったのに。
まあいい。とにかく村田も堤もここに呼べ。私が両人に申し聞かそう。」
その場の人々「どういうつもりなんだろう?あの二人はもはや、どんな意見も聞くことなど無いのに。
話の内容をよく理解していないんじゃないのか?」と怪訝に思った。
呼び出された村田、堤は座敷に通された。そこで栗山は家人に「私の具足箱を持ってこい」と命じた。
その具足箱を開くと中から、なんと、その両名が命をかけて争っている当の物、白切裂の指物が出てきたではないか。
それを手に持ち、栗山は言う
「お前たち二人は指物のことで口論をしているとか。その争っているのがこれと同じものなら、それは無益の
争いだぞ。
これはな、わたしが若い頃、ずっと差して度々手柄を立てた指物なのだ。
その後成長して、小馬印には別の指物を指すようになったが、これは風に引っ張られることもなく、
まあ何より老後に、若い頃の事を思い出そうとしてな、この筑前に入国の翌年に拵え置いたものなんだ。
わが子大膳には、形見の品とも成るだろう。
お前たちは無用の議論をやめよ。もし未だやるきなら、指物に付いて俺と公事(裁判)をするかい?」
そうカラカラと笑った。
これに村田、堤両名は目が覚めた思いで
「さてさて是非に及ばぬ口論をしてしまい、面目もありません」と同じように答えたため、栗山
「元々二人に遺恨があったわけではないだろう。大急ぎで仲直りするんだな。
まったくお前たち二人は意地が強すぎて、いつも物事を難しくする。かなり宜しくない心得だぞ!」
としたたかに叱りつけると両名「仰せのごとく、我ら二人は遠い親戚でもあります。心やすく
付き合っていたはずなのですが、今回は石車に乗り(調子に乗ること)、是非なく命をかけた果し合いを
するところでした。さてさて、危ないところでした。
今や何の意趣遺恨も残ってはおりません」
と二人して大笑いし、同道して帰っていったという。
栗山利安、指物争いを和解させる、と言うお話
(古郷物語)
0660人間七七四年
2011/07/18(月) 20:31:49.57ID:+IeTplzg0661人間七七四年
2011/07/18(月) 22:46:04.09ID:GCqXaR700662人間七七四年
2011/07/18(月) 22:46:46.34ID:yu/UT1Di0663人間七七四年
2011/07/20(水) 09:32:01.09ID:rWDgz7ebQ,敵陣と対陣したり、敵城を取り囲んでいます。でも、敵陣付近の地形がよくわかりません。
何かいい方法はないでしょうか?
A,そういう時は鷹狩を利用するのだ。
地形を知りたい場所の辺りに鳥がいるから鷹に獲らせたいと申し入れると、大抵の場合は許して貰える。
もちろん、許してもらえたら鷹狩に夢中にならずにしっかりと地形の把握に努めねばならん。
それから、鳥を獲ったなら相手方にも送るのを忘れてはならんぞ、そうすれば次に申し入れたときにもいい返事が貰えるのだ。
古から大将というのはこういった謀のためにも鷹を準備していたというのに、最近の者と来たら(ry
0664人間七七四年
2011/07/20(水) 15:01:14.18ID:HGqzFHuL0665人間七七四年
2011/07/20(水) 15:04:50.62ID:3nweDEJ/0667人間七七四年
2011/07/20(水) 20:52:44.47ID:e065msoyそれを見てる足軽「('A`)」
0668人間七七四年
2011/07/20(水) 21:14:55.35ID:vVgqoxCo0669人間七七四年
2011/07/20(水) 21:25:35.43ID:EOOcmynDこれとか攻められてる方も人を出してるし、戦の最中の狩りは想像以上によくあることだったんじゃ……
0670人間七七四年
2011/07/20(水) 21:41:25.86ID:0MP9jKzS戦国末期の九州とかでは通用しないだろう
0671人間七七四年
2011/07/21(木) 00:45:43.94ID:KViVScmK兜を譲り受けた。この時鹿介は
「今日から30日以内に武功が立てられます様に。」
と夜空の三日月に祈った。程なく、主家の尼子家と山名家との間で行われた尾高城の戦いに出陣した
鹿介は、豪傑として名高い菊池音八を見事に討ち取った。一説には鹿介の名はこの兜に由来しているとも言われ、
これをきっかけに生涯にわたる三日月を信仰するようになったのだという。
0672人間七七四年
2011/07/21(木) 00:49:59.44ID:HfZ0zXNX0673人間七七四年
2011/07/21(木) 01:03:05.63ID:A8XjPBnF0674人間七七四年
2011/07/21(木) 01:20:56.99ID:KViVScmK0675人間七七四年
2011/07/21(木) 01:48:51.56ID:hOAzNE6H0676人間七七四年
2011/07/21(木) 08:00:28.16ID:B7oixXvV市松t
0678人間七七四年
2011/07/21(木) 17:56:32.35ID:8ZhpGiK40679人間七七四年
2011/07/22(金) 00:33:02.69ID:MyGGRZ9I大御所徳川家康のもとに諸大名が集まった時のこと。
「近ごろ、珍しい物を手に入れましてな。」伊達政宗が異国の貨幣を取り出し、家康に見せた。
「これは面白い。やはり我が国の貨幣とは違うのう。どれ、皆にも見せてやってくれ。」
政宗は家康の言葉に従い、貨幣を諸大名の回覧に付した。末席にいた直江山城守兼続にも回されたが、
兼続はこれを扇子を開いて受け、手に取ろうとはしなかった。
遠慮していると思った政宗が「山城守よ、直に手に取っても構わんぞ?」と声をかけると兼続、
政宗をジロリと見て、
「このような汚らわしき品、景勝様に代わり上杉の軍配を握る拙者の手にするべき物ではござらぬ。」
と答えた。
政宗は赤面して返す言葉もなかったが、上座から兼続に鋭い問いが飛んで来た。
「あぁそうかい。では山城よ、お前さんどうやってションベンを切ったりケツを拭いたりするんだね?
(原文:山城は何にて両便の取捌きするや。)絶対に手を汚さず生きていると言えるのかね?」
怒気すら発して問う家康を前に、兼続も言葉に詰まり顔を伏せるしかなかった。(想古録)
有名すぎる話ですが、こんなバージョンもある、という話。
0680人間七七四年
2011/07/22(金) 03:02:03.82ID:rFPoq8vv兼次「何で徳川殿はそんなに怒ってんの?綺麗な手で軍配を握る心構えっておかしい事?何で怒ってんの?何で糞小便の話までとぶの?ねぇ何で?」
と言いたいのを我慢して顔を伏せざる得なかったという
〜民明書房より〜
0681人間七七四年
2011/07/22(金) 06:59:41.91ID:E6M3PFcZそして焼味噌の話題に定評のある権現様。
0682人間七七四年
2011/07/22(金) 07:03:37.48ID:6XDo5rwE0683人間七七四年
2011/07/22(金) 07:09:47.57ID:uB0t4Aw80684人間七七四年
2011/07/22(金) 07:26:54.55ID:Bqvk6PDJ流石に伊達はその辺の見分けが付いているみたいだけど。
0685人間七七四年
2011/07/22(金) 07:56:26.78ID:GVFiWex80686人間七七四年
2011/07/22(金) 09:35:59.07ID:tQN+xXY90687人間七七四年
2011/07/22(金) 09:43:06.32ID:QDWUTPQT思ったには違いないからなあw
>>684
> 不浄と不潔の見分けが付かない家康
この時代それは一致してるよ。不浄と不潔を分離したのは科学的衛生観念が生まれた
近代以降だね。トイレを「御不浄」と何故呼んだのか、って事。
0688人間七七四年
2011/07/22(金) 10:09:34.87ID:rFPoq8vvでも焼き味噌菌で汚染された物体を遠慮したい直江の気持ちも分かるよ
限界ギリギリの断り方で直江にしては十分配慮してるし
まあ、一番の被害者は宝物を汚染された事に気づいて俯いた政宗なんだけど
0689人間七七四年
2011/07/22(金) 11:48:59.71ID:yvPFdgCR現代でも他人の自慢話、知識のひけらかしほどうっとうしいもんはないからな
そんな汚いもん触りたくない、って言う直江の気持ちもよくわかる
0690人間七七四年
2011/07/22(金) 11:49:30.72ID:hSN2Eqok国内の貨幣だって、敗走兵の便を通過して再利用されている可能性もあるらしいから
そうとうヤバいよ。大丈夫か、兼続。
0691人間七七四年
2011/07/22(金) 12:18:12.83ID:qFiIBI56そういう感情を表に出してああいうこと言っちゃうんじゃ、
もっとうっとうしくて、汚らしい人間だと思うけどなあ
0692人間七七四年
2011/07/22(金) 12:20:16.17ID:QgLcg/Oy近年美化されてるが
0693人間七七四年
2011/07/22(金) 12:48:35.48ID:dA8Nkcq0直江「くっ、静まれ、俺の愛染明王…!」
とかやるわけだな…
0694人間七七四年
2011/07/22(金) 16:07:31.04ID:KvRccKRUいちいち場を荒立てる山城にイラッとする家康
どっちも解るな
0695人間七七四年
2011/07/22(金) 16:26:31.55ID:tpTUAeij0696人間七七四年
2011/07/22(金) 16:49:43.34ID:NGQ3VZEz0697人間七七四年
2011/07/22(金) 21:44:14.25ID:yvPFdgCRいや、潔癖だからいわでものことがついつい口に出るんだと思うよ
汚い、というか人間関係に計算が働く奴なら流した方が得だってわからないわけないからね
直江さんは洒落の通じない真面目委員長タイプと思われ
0698人間七七四年
2011/07/22(金) 22:12:03.29ID:nugZd22c0699人間七七四年
2011/07/22(金) 22:12:35.50ID:qFiIBI56この場でのこういう発言は損得以前の問題として人としての常識に欠ける
浪人なら好きにしてくれればいいが、
本人の発言が主君にも影響をあたえるんだからこんな発言しちゃ駄目だろ
実際こんなことを兼続がいったとも思わんが、
兼続の逸話でのキャラってこういう独善的なものが多いよね
秀吉の評のまんまのキャラといったところか
0700人間七七四年
2011/07/22(金) 22:30:27.11ID:tpTUAeij0701人間七七四年
2011/07/22(金) 22:34:48.97ID:wwcRHk7k武人的に見たら貨幣は汚らわしいという観念はあったのだろうが
実際的な意味ではどうだったんだろうか?
本当に絶対触らないような心構えでいたらやってけないような気がするんだが
0702人間七七四年
2011/07/22(金) 22:44:05.83ID:EhZl2g8W金は不浄とか言い出すとこじゃないw
海外の貨幣が珍しいという話なのに
突然見当外れなこといいだしてる。
0703人間七七四年
2011/07/22(金) 22:56:58.58ID:yvPFdgCRそういう人間だ、って割り切って景勝も使ってるんだと思うよ
この手の欠点があってもそれを補えるだけの能力があるから重職についてるんだろう
第一、ホントに口喧しいだけの人間なら実力社会の戦国で生き残れないと思う
仮に直江がこの癖で景勝に不利益をもたらしたとしてもそういう人間を重用した景勝の自己責任
0704人間七七四年
2011/07/22(金) 23:02:47.46ID:rFPoq8vv采配を振るう手で不必要な振る舞いを自重する行為は間違って無いし
この場を仕切ったのが秀吉だったら兼続は知恵が足らんな〜って思いながらも
「その程度の事で武運が落ちる山城守でもあるまい、この場にいる全員がその様な者と儂は信じておるぞ、とは言え儂も伊達も考えが浅はかだったな、三成お前なんか一発芸でもやって場を盛り上げろ」
ってな具合に誰1人として面目を潰す事なく丸く収めたと思う
0706人間七七四年
2011/07/22(金) 23:22:16.62ID:ey+6MQlOまず、有名な天正大判の方の話が生まれて、そこに権現様を参加させて…
って経緯でできた話だと思う。
0707人間七七四年
2011/07/23(土) 01:06:53.58ID:XP9Herdo0708人間七七四年
2011/07/23(土) 01:14:30.54ID:FQR0oXNkそのへんを調べていけばこの逸話の成立時期も見えてくるかもな。
0709人間七七四年
2011/07/23(土) 05:29:07.93ID:fIpRQ7GY0710人間七七四年
2011/07/23(土) 09:15:57.41ID:vZaB3BWG結局、権現様以下の諸大名みんなを侮辱してるし。
0711人間七七四年
2011/07/23(土) 09:53:01.17ID:5VX8CelC高虎から数えて16代目の末孫である藤堂高弘氏は、
太平洋戦争末期、見習い士官として釜山の四条台という高射砲陣地に勤務していた。
敵機の襲来が激しく、戦友がバタバタと倒れていく。
しかし、高弘氏は大きな岩陰にいて襲撃を免れたり、
機銃掃射が目前1メートルをかすめたり、九死に一生を得たことが何度があった。
終戦後、この四条台はそのときから330年前慶長の役で
藤堂高虎が陣をかまえていたところだとわかった。
「先祖のおかげで命拾いしたと思っております」
高弘氏はしみじみ語っているという。
0712人間七七四年
2011/07/23(土) 11:43:15.50ID:xGREYCfR0714人間七七四年
2011/07/23(土) 11:53:22.55ID:mNWTxXdA0715人間七七四年
2011/07/23(土) 11:56:25.58ID:0pGC4MKj0716人間七七四年
2011/07/23(土) 12:30:09.65ID:gzB42OXu0717人間七七四年
2011/07/23(土) 13:42:18.35ID:YJfpXIHC0718人間七七四年
2011/07/23(土) 18:11:50.00ID:gqqriYxWアメリカは朝敵
0719人間七七四年
2011/07/23(土) 19:17:35.65ID:3jrkvGLP0720人間七七四年
2011/07/23(土) 19:27:56.99ID:hKpcd8bfもしかして今年のも・・・
0721人間七七四年
2011/07/23(土) 21:43:59.53ID:xHrLkkoJ大坂の陣の夜のこと。藤堂高虎の陣に、風に乗ってキリキリと何かがきしむ音が聞こえてきた。
「面妖な。城方の伏兵あたりが弓を試す音か、それとも何かの怪異か?よし、玉置太郎助を呼べ!」
家中において、弓の名手として知られる豪の者を呼んだ高虎は、太郎助に命じた。
「あの『音』を射よ!!」
真っ暗闇の中、音だけを頼りに的を射ろ、というなかなかムチャな命であったが、ともかく太郎助は
闇に一筋の矢を放った。格別に当たった音もしなかったが、それだけで音は止んだ。
「はて。伏兵ならば、うめくなり逃げる音なりが聞こえよう。するとやはり妖しの類であったか?」
翌朝、矢の飛んだ辺りを見に行って、高虎の疑問は氷解した。
「・・・なるほど!!」
そこには一本の柳の木があり、枝が大きく裂けていた。裂け目に風が当たって、きしんでいたのだ。
今、その裂け目には、玉置太郎助の放った矢がピタリと挟まり、柳のきしみを止めていた。
音だけを頼りに、物の見事に的に当てた太郎助を、高虎はじめ皆が賞賛した。(甲子夜話より)
この玉置太郎助、矢で敵の内股を狙い撃ち、倒れたところを首を取って、弓の腕を認められた。
「まぐれ当たりじゃ。」と、太郎助をそしる者もいたが、その後も彼は弓をもって手柄を立て続け、
その愛弓には
『此弓、弱しといへども敵七人を射倒す』と、誇らしげに銘が刻んであったという。
0722人間七七四年
2011/07/23(土) 22:51:10.46ID:0DouNrPo0723人間七七四年
2011/07/23(土) 22:58:53.19ID:yXO/EUC8なんとなく、源平合戦の頃みたいな話だなー。
0724人間七七四年
2011/07/23(土) 23:04:57.32ID:wLDQHydk0725人間七七四年
2011/07/23(土) 23:05:29.14ID:zpt9TYrPみたいにすぐ言い返して喧嘩するのが市松
ぐちぐちと嫌味を返すのが直江
ムキになって勝負に持ち込むのが黒田
三本まとめて折るのは吉川
合戦で背後から射殺して誤射だと言い張るのが――おっと誰か来たようだ
0726人間七七四年
2011/07/23(土) 23:41:01.64ID:szxML2ca逆に信康に恨みを持たれていた。ある日、康政の諫言に激怒した信康は、近くにあった弓を手に取り
矢を放とうとした。しかし康政はこれに全く動じる事もなく、
「信康様の事を思って申し上げている者を殺すような事があれば、お父上の怒りは計り知れず、
結果として貴方の為になりませんぞ。」
と懇々と諭し、信康に冷静さを取り戻させると共に、反省を促したのだった。
「武功夜話」より。
0727人間七七四年
2011/07/24(日) 07:47:59.57ID:IOf/xS7n多分過去に挙がっていないと思うので一筆
大崎合戦では妻の家の家督相続を留守政宗と言い争った伊達家臣泉田重光だが、政宗に仲直りの意味も兼ねて政景と二人大崎攻めの先鋒の大将にされてしまった。
二人には兵1万が与えられたが、大崎陣でも口論が絶えることは無く、兵5000を率いて先に出た重光は、後詰めの政景と大崎の大軍に分断され、兵を撤退させる講和の条件に自らが人質になる事を呑んだ。
大崎軍中
一栗放牛「これはこれは、まぁ話を聞こう」
黒川月舟「某は黒川月舟、覚えがあろう」
延沢満延「某、最上家中延沢能登と申す」
泉田重光「!?なぜ最上の家中がここにいる?」
(´・ω・`)「だって、大崎家と最上家は親族だもん。援軍出すのは当たり前でしょ?囲まれた時に旗印でわからなかった?」
*大崎も最上の旗も丸に二引き両。丸の大きさや二の間隔で区別する
留守政景と兵は講和によって無事伊達領に戻されたが、重光の身柄は大崎家から最上義光に引き渡された。
山形城
(´・ω・`)「・・・家臣にならない」
重光「お断り申す」
(´・ω・`)「鮭食べる?」
重光「・・・それはそれで頂戴致します」
(´・ω・`)「伊達家って鮎貝君も愚痴言ってるけど、そんなに良いの?」
重光「奉公に足る御恩がござる」
伊達家に嫁いでいた義姫の助力もあり、やがて重光は政宗の許に帰された。
泉田重光は朝鮮出兵にも政宗に付き従い、家中の序列は後藤・亘理家と同格とされる。
0728人間七七四年
2011/07/24(日) 10:21:03.26ID:a8ELJTZl0729人間七七四年
2011/07/24(日) 10:35:47.91ID:tw3uP27z0730人間七七四年
2011/07/24(日) 12:15:07.67ID:nGGM+b9G東北は相変わらず縁戚で混沌としてるな。
0731人間七七四年
2011/07/24(日) 12:40:50.60ID:9vduconp0732人間七七四年
2011/07/24(日) 12:47:21.11ID:VoXGSr6O正・妻の家の家督相続を留守政景と言い争った
0734人間七七四年
2011/07/24(日) 13:42:51.30ID:th1p3b5Vあと自分の願望入れての改変や
話付け足してくるのは止めて欲しい。
このネタはどうか知らんけど最上エピソードの投稿では頻発してるので。
0735人間七七四年
2011/07/24(日) 13:49:08.05ID:m/7cGdeh0736人間七七四年
2011/07/24(日) 13:54:20.65ID:mexSlrjb逸話より鬱陶しいわ
0737人間七七四年
2011/07/24(日) 14:02:06.22ID:Vo539qTr0740人間七七四年
2011/07/24(日) 14:16:19.82ID:m/7cGdeh逸話における顔文字などは長い間無反応だった
だがある日突然ケチを付ける読者が現れ、禁止事項にされ今はこの状態が続いている
0741人間七七四年
2011/07/24(日) 14:22:18.16ID:ZdTZ11Mtなんだ、てっきりそういうイメージの逸話の積み重ねで定着したとか、そういうのじゃないのね…
最初「誰この顔文字」って思ったから、せめて名前併記とかすればケチも減ると思うけど
0742人間七七四年
2011/07/24(日) 14:38:41.29ID:IQIPu3sC顔文字=脳内オナニー小説 みたいな扱いされてる
0743人間七七四年
2011/07/24(日) 14:54:15.52ID:t9JlJw2Fそんな嫌なら顔文字NGにしとけばよろし
0744人間七七四年
2011/07/24(日) 14:55:22.31ID:IQIPu3sC0745人間七七四年
2011/07/24(日) 15:00:04.07ID:tXLrOXS40746人間七七四年
2011/07/24(日) 15:00:25.05ID:t9JlJw2Fそもそもここは2ちゃんだし顔文字位でうきーってのは元から向いて無い
俺としては「良い話だ!」の奴の方がウザいけど我慢してるぞ
0747人間七七四年
2011/07/24(日) 15:14:53.83ID:ZdTZ11Mtじゃあ顔文字キャラ付けへの批判にも我慢しなよ
2ちゃんで赤の他人宛ての批判にうきーってなるのも向いて無いんじゃない?
0748人間七七四年
2011/07/24(日) 15:16:52.43ID:t9JlJw2Fお前らが(´・ω・`)よりウザいと言う事だけは言いたかっただけだから
0749人間七七四年
2011/07/24(日) 15:17:41.21ID:tw3uP27z顔文字2chうんぬんは筋違い。
0752人間七七四年
2011/07/24(日) 15:25:33.87ID:t9JlJw2F0753人間七七四年
2011/07/24(日) 15:35:42.43ID:nGGM+b9G逸話がそれなりに面白いのに突っ込む奴は正純極まりない。
三斎様に斬られるぞ。
0754人間七七四年
2011/07/24(日) 15:52:59.85ID:m/7cGdeh長く叩かれるとつまらない話扱いにされてしまうぞ
0755人間七七四年
2011/07/24(日) 15:54:56.39ID:zXP/0Y1G関係ないのに鮭ネタねじこむのがうぜーんだよ。
鮭なんて今回の逸話全然関係ないだろ。腐女子の考えたかわいい鮭様wみたいなノリがはてしなくキモイ。
テメエのブログででもやっててくれ。こいつのせいで最上本人まで嫌いになるわ。
0756人間七七四年
2011/07/24(日) 15:57:42.26ID:4ubjBfyl0758人間七七四年
2011/07/24(日) 15:59:29.72ID:4ubjBfyl>>119
それ逸話じゃなくて創作だろ?
本当に最上がおにぎりみたいなこと言ったわけ?
マジで最上オタの創作うぜえわ。
0759人間七七四年
2011/07/24(日) 16:20:04.23ID:we9AcFZ50760人間七七四年
2011/07/24(日) 17:42:55.71ID:d0wF/H3b自分の思い通りの流れにしたければブログなりでやるしかないよ
おまえも顔文字無しでたくさん投稿すれば流れが変わるよ
0761人間七七四年
2011/07/24(日) 17:54:20.71ID:m/7cGdeh0762人間七七四年
2011/07/24(日) 17:59:51.72ID:LI5q77F0場の空気を読んで支持を集めた者が勝つと言うことだな」
0763人間七七四年
2011/07/24(日) 18:19:28.80ID:VoXGSr6Oとりあえず貼っておきます
http://samidare.jp/yoshiaki/note?p=log&lid=38707
0764人間七七四年
2011/07/24(日) 18:30:40.57ID:UnJ9uTYxだったらもうこのスレ来ないほうがいいよ
ここでは三河武士=面倒くさいだし、秀吉はラスボスと
明らかに作為的なキャラ付けされてんじゃん
気に入らないなら、真面目な解説だけ読んでれば?
0765人間七七四年
2011/07/24(日) 18:35:56.22ID:m/7cGdeh0768人間七七四年
2011/07/24(日) 21:08:07.36ID:7DkXsQkm0769人間七七四年
2011/07/24(日) 21:11:10.24ID:Vo539qTrそんな大騒ぎするほど不快ではないが愉快だ、とはやはり言えない
これは真面目とか不真面目ではなく、個人の嗜好の問題だから黙ってたけどさ
悪い話スレで嫌な奴は出ていけ、というコメントがあったが
特定個人の嗜好で場を占有しようとするのは掲示板の在り方として間違ってる
今回大暴れした人以外にも、顔文字や過度なネタ化を不愉快に思ってる人間がいることは承知していてほしい
ただ少しは創作して語られないと盛り上がらないのも事実なのはわかる
だから、これを教訓として逸話を投稿する時には演出はなるべく控えめにしてくれると嬉しい
0770人間七七四年
2011/07/24(日) 21:30:40.62ID:Z8kO6cJW他で戦国逸話のところ探せばとしかいいようがない
自分のレベルにあった人を見つけて、戦国逸話好きのネットワーク作るしか無いと思う
0771人間七七四年
2011/07/24(日) 21:33:04.74ID:W71kSqPH0772人間七七四年
2011/07/24(日) 21:34:48.03ID:2NqElGtw0773人間七七四年
2011/07/24(日) 21:54:34.11ID:g7Qq3+5V0774人間七七四年
2011/07/24(日) 22:02:30.02ID:Z8kO6cJW1 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/02/23(金) 22:33:24 ID:OA17Uaqt
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/02/23(金) 22:39:51 ID:h1u8d7l0
お前たぶん負けるから絶対喧嘩売るなよ! 一応兵糧やらの関係で邪魔にならない程度の兵を送ってやるから
そんな忠告を無視し無謀にも3倍の兵力に喧嘩を売りボロ負けして奮戦したものの武将1人死んで壊滅状態で帰ってきた自分の軍
普通はここでブチ切れるか見捨てるかなのに何も言わず更にはそいつがピンチに陥った時に大軍を率いて駆けつける・・
信長マジいい奴じゃん
3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/02/24(土) 02:05:11 ID:4R0Iz8uw
( ´゚ω゚` )
4 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/02/24(土) 03:13:27 ID:mG1IIf9w
母里友信は黒田家臣。
無類の大酒飲みで福島正則にすすめられた大盃の酒を見事に飲み干し名槍・日本号を賜った逸話は『黒田節』(『筑前今様』とも呼ばれる)として今も語り継がれる。
無分別で向こう見ず、わがままな性格で武辺一筋の男だったが主君の如水は必ず役に立つ漢だと信じて重用し、生涯で76の首級をあげた家中随一の猛将として黒田家の筑前入国後に18000石を得た。
死の間際に少壮の頃に如水に「兄と思い、兄弟一体となって奉公せよ」と命じられたその兄貴分の栗山利安の見舞いを受けた。
その時友信は「これまではおこがましいと思い口にはせなんだが、御身の恩により人となることができた」と言って手を取り共々に号泣したと伝えられている。
母里と栗山は、張飛と関羽みたいな間柄だったのかな?ムチャクチャな母里を栗山がいつも制して面倒を見て、みたいな…
それを考えたら母里の臨終の際の逸話は何だかホロリと来ます。
5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/02/24(土) 07:03:58 ID:YLe8txzl
,.-‐''^^'''д
; ' ヽ
.;' ヽ ヽ
; ヽ )
; .,, ノ ,.==- =; ☆
( r| j. 'uー、 ,,.=f ∠
': ヽT  ̄ i } ___×
ノ . i ! .r _ j / \〜〜/
彡 | \ 'ー-=ゝ/ =ャ =ャ ノ') |(ヽ
人、 \  ̄ノ / /. | |ク
-‐  ̄ ' ーイ ̄ー-- 、 ノ 入.|.|( }
母里太兵衛(1556〜1645)
0775人間七七四年
2011/07/24(日) 22:08:20.29ID:m/7cGdeh0776人間七七四年
2011/07/24(日) 22:14:09.48ID:kl7E2pyD逸話の中にまぜているわけじゃないじゃん。
最上厨がまずいのは、あきらかに同一人物が
「殿、帰りますよ」とか同じ顔文字とか何度も使って、自分のイメージをおしつけようとしているとか、
しつこく鮭鮭くりかえすとか、押しつけがましいからなんじゃないん?
まとめサイトのコメント欄にまで出没するからホントもうね…なんでそこまで必死なんだろう。
いっそコテハンにしてくれればNG登録できるからありがたい。
0777人間七七四年
2011/07/24(日) 22:18:00.73ID:m/7cGdeh0779人間七七四年
2011/07/24(日) 22:24:13.02ID:m/7cGdeh0780人間七七四年
2011/07/24(日) 22:26:16.62ID:kl7E2pyD二行以上しゃべる知能がないのはなんで?
まあもうやめるけどw 他にすることないのかねw 潔癖厨とかいうけどそっちのがよほど自治厨だわ
0781人間七七四年
2011/07/24(日) 22:31:13.56ID:UPDoQLvZ0782人間七七四年
2011/07/24(日) 23:28:53.46ID:Zndz1/DFまた気に入らない逸話にケチを付けて来ると思うし。
0783人間七七四年
2011/07/25(月) 00:00:21.34ID:tw3uP27zいい加減スルー覚えろよ
0784人間七七四年
2011/07/25(月) 00:06:49.69ID:V0qWwRu2AA使ってるからとかは問題じゃないと思うよ
>逸話(いつわ、英:anecdote)とは、世間や世人にあまり知られていない興味深い話、世人の目から逸した(逃れた)話のこと。特定の人物や物事に纏わる興味深い話として逸話が語られることが多い。
>一般的には、その人物の性格をよく表している逸話として紹介されることが多いが、逆に、人物の意外な側面を示す話であることもある。また歴史上の人物の場合には、その当時の時代背景をうかがわせる話であることもある。
史実でもとんち話でもいいわけだけど、昔から広く語り継がれてる話ならともかく、
人物や事実にさっき考えたような肉付けをして見せられても、それは創作スレでやんなさいよとしか言えない
0785人間七七四年
2011/07/25(月) 00:08:32.30ID:KcqYkZ3Hそっちで創作でもなんでも自由にやればいいのに
0786人間七七四年
2011/07/25(月) 00:10:14.03ID:DuK0U9Qa0787人間七七四年
2011/07/25(月) 00:15:11.07ID:BMs+0I8N0788人間七七四年
2011/07/25(月) 00:20:52.42ID:Se/peAFI最上の逸話は好きだが顔文字と勝手な創作は自重してくれ
0789人間七七四年
2011/07/25(月) 00:24:32.28ID:FyOBtDJo日にちが変わった途端にいきり立っているし
とりあえず今日は>>784から注目してみるか
0790人間七七四年
2011/07/25(月) 00:25:46.39ID:PReqEq8iスレ荒らしたくないなら学習してくれ、頼むから
0792人間七七四年
2011/07/25(月) 00:29:54.23ID:3v+ROvnk0793人間七七四年
2011/07/25(月) 00:34:35.88ID:Ekgi8H55・汎用顔文字なこと
・文章中に顔文字=最上義光だとの言及がないこと
・義光の台詞だけ現代口語的すぎること
・台詞の掛け合いだけで話を進めすぎなこと
・その台詞が多分に妄想混じりなこと
ってあたりがいろいろ混ざり合った気持ち悪さのせい。
逸話というよりもVIPあたりの素人SS見てる気にさせられる。
たとえば政宗なら眼帯替わりに目に●が使われていたりするのでそれなりに納得できる。
AAみただけで「あぁ、そいつだな」って判るかどうかだけでかなりイメージは変わってくるよ。
0794人間七七四年
2011/07/25(月) 00:36:04.42ID:7jdxZ5RO0795人間七七四年
2011/07/25(月) 00:42:40.63ID:V0qWwRu20796人間七七四年
2011/07/25(月) 00:53:53.57ID:Se/peAFI0797人間七七四年
2011/07/25(月) 00:54:56.56ID:MkPYXrrH0799人間七七四年
2011/07/25(月) 00:56:50.99ID:YNh1bZSsそれがしは顔文字とか現代口語とかあっても、逸話の内容は分かるから、どーでもいい
0800人間七七四年
2011/07/25(月) 01:02:04.21ID:zL0uktlX顔文字固定はやめてほしい。
八の字眉毛な肖像が残ってる金吾とかngmsの顔文字になるならまだ分かるんだ。
気弱な逸話が色々出てきてキャラ付けされていくならいいけど、そういう背景抜きで
勝手にキャラ化するのは史実の最上義光への侮辱だと思うよ。
0801人間七七四年
2011/07/25(月) 01:04:13.38ID:V0qWwRu2ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2969.html
こういう漫画話はどっかでやんなさいよってだけ
別に最上ネタでもAA使ってもいいけど
0802人間七七四年
2011/07/25(月) 01:05:33.23ID:Se/peAFI個人的には許容範囲だが、毎度荒れるからよせと言ったのでござる
書き手側とて空気を読むことも肝要かと存ずる
0804人間七七四年
2011/07/25(月) 01:14:10.77ID:BMs+0I8Nテンプレにでも書くのか?「顔文字の逸話が来たら荒らしが来るのでスルー推奨」って。
0806人間七七四年
2011/07/25(月) 02:01:43.59ID:l4wZU1Zf方向性は違うけど「いい話だ」で全然いい話じゃない投稿しまくるあいつと大して変わらん
0807人間七七四年
2011/07/25(月) 02:09:43.91ID:7Kf3aIRr0808人間七七四年
2011/07/25(月) 02:10:09.59ID:FyOBtDJo0809人間七七四年
2011/07/25(月) 02:19:03.68ID:l4wZU1Zf目立ってる事を自覚して欲しいんだが
0811人間七七四年
2011/07/25(月) 02:31:10.07ID:DuK0U9Qa0812人間七七四年
2011/07/25(月) 03:08:34.18ID:ivtr3vJTあからさまな改変や間違い、場違いな逸話以外は目くじらたてなくていいじゃん
間違いが無い様に原文通りに載せてもスレ的につまらんと思うし
0813人間七七四年
2011/07/25(月) 03:28:48.40ID:FyOBtDJo0814人間七七四年
2011/07/25(月) 03:39:29.06ID:4VkCtzV0好きなようにaa逸話書けばいいさ、嫌なら自分がもっといい逸話書けってだけだからなあ
そもそもこんな顔文字ごときに文句言う神経が不思議で堪らん
どれだけaa憎んでるんだよ・・・・
0815人間七七四年
2011/07/25(月) 04:21:01.95ID:ivtr3vJT1…母親が自分を邪険にしてaaを溺愛してた
2…aaが当主証明の家宝を最期まで渡してくれなかった
3…雇ったaaが自分の妻に見とれていた
4…門にいたaaが仕事熱心だった
なら、是非もなしか…
0816人間七七四年
2011/07/25(月) 05:51:02.85ID:KcqYkZ3H0817人間七七四年
2011/07/25(月) 06:34:26.88ID:FyOBtDJo0820人間七七四年
2011/07/25(月) 08:00:35.42ID:aTokk3V70821人間七七四年
2011/07/25(月) 08:11:46.11ID:QXMarHfgそのキモい顔文字逸話が消えてなくなるわけじゃないんだから
反論としては頓珍漢だと思うんだけど
それなら「うるせえ嫌なら出てけここは俺たちのもんだバーカバーカ」の方が
まだ反論としては理解できる
0822人間七七四年
2011/07/25(月) 08:45:39.08ID:7jdxZ5RO0823人間七七四年
2011/07/25(月) 08:58:48.85ID:vG/Wb+xF0825人間七七四年
2011/07/25(月) 12:51:17.53ID:bSPieA0N0826人間七七四年
2011/07/25(月) 14:23:16.34ID:laguWhq9まあこうやって言うと
「お前も俺の発言に気にしてる」っていつもの屁理屈出るんだろうけど(´・ω・`)
0827人間七七四年
2011/07/25(月) 14:33:43.93ID:BI874/78兼続「お前俺の事気にしてんだろ?」
政宗「…(うぜえ!つーかそれお前だろ?)」
こういう事だな
0828人間七七四年
2011/07/25(月) 14:33:46.49ID:laguWhq90829人間七七四年
2011/07/25(月) 16:59:43.43ID:mSaNDnPh流れをコントロールしたければ自分のブログやサイト開いてやるかしかないよ
色々な人が見てるし書き込んでるんだから自分の思い通りにしようなんて無理
0830人間七七四年
2011/07/25(月) 17:08:02.39ID:bSPieA0Nあるいは感想レス全てに(´・ω・`)をつけるルールとかにすれば?
0831人間七七四年
2011/07/25(月) 17:49:06.42ID:N4Jb/Yfy0832人間七七四年
2011/07/25(月) 17:58:30.03ID:Y5bty+LB鮭様の顔文字が豚はまずいだろーが
( ̄(エ) ̄)ノ これに変えろよ。
0833人間七七四年
2011/07/25(月) 18:04:22.40ID:Y5bty+LB泉田重光「!?なぜ最上の家中がここにいる?」
\(・`(ェ)・)/「だって、大崎家と最上家は親族だもん。援軍出すのは当たり前でしょ?囲まれた時に旗印でわからなかった?」
*大崎も最上の旗も丸に二引き両。丸の大きさや二の間隔で区別する
留守政景と兵は講和によって無事伊達領に戻されたが、重光の身柄は大崎家から最上義光に引き渡された。
山形城
〔´(エ)`〕「・・・家臣にならない」
重光「お断り申す」
(* ̄(エ) ̄*)「鮭食べる?」
重光「・・・それはそれで頂戴致します」
( ̄(エ) ̄)ノ 「伊達家って鮎貝君も愚痴言ってるけど、そんなに良いの?」
重光「奉公に足る御恩がござる」
伊達家に嫁いでいた義姫の助力もあり、やがて重光は政宗の許に帰された。
泉田重光は朝鮮出兵にも政宗に付き従い、家中の序列は後藤・亘理家と同格とされる。
これぐらい使い分けろよ。
0834人間七七四年
2011/07/25(月) 18:07:21.02ID:TwdWhP720836人間七七四年
2011/07/25(月) 18:54:24.91ID:tb+R7PlF0837人間七七四年
2011/07/25(月) 19:14:23.60ID:FLRTbt9v0838人間七七四年
2011/07/25(月) 19:19:26.49ID:BI874/780839人間七七四年
2011/07/25(月) 19:49:03.13ID:zd1FWOfm0840人間七七四年
2011/07/25(月) 19:55:53.02ID:LQfbwAS80842人間七七四年
2011/07/25(月) 20:52:06.66ID:FLRTbt9v0843人間七七四年
2011/07/25(月) 20:56:49.11ID:Aujn1RWL史実に則って「まさ」と呼ぼう。
他の正や政がつく連中と区別がつかなくなるが。
0844人間七七四年
2011/07/25(月) 21:18:26.15ID:ivtr3vJT0845人間七七四年
2011/07/25(月) 23:18:38.93ID:aTokk3V70846人間七七四年
2011/07/26(火) 00:39:11.35ID:91NENu9F(´・ω・`)m9 次の逸話いってみよー
0847人間七七四年
2011/07/26(火) 02:22:51.19ID:pbfQ7dC10848人間七七四年
2011/07/26(火) 02:27:53.72ID:rtUA8Se9狐もしくは虎だったからな。熊はない
0849人間七七四年
2011/07/26(火) 02:44:02.42ID:pbfQ7dC1ま、2chだしこのくらい殺伐としながら逸話を楽しむのがちょうどいいかもね。
0850人間七七四年
2011/07/26(火) 05:07:30.93ID:KHQpGhcD0851人間七七四年
2011/07/26(火) 06:07:52.96ID:2oTKtnMu0852人間七七四年
2011/07/26(火) 06:25:53.26ID:GTB0JmDlでも自身の創作なら創作だと最初に書いてくれ
0853人間七七四年
2011/07/26(火) 06:43:57.14ID:RLOml3b6デカいaa貼られまくると携帯で読みづらくなるから、今まで通りで…
>>851
aaを使った文章を肯定してんじゃ無くて、aa使ってる人が僅かしかいないのに目くじら立てるなって話
こういう掲示板なんだし、どうでもいい事じゃん
0854人間七七四年
2011/07/26(火) 07:33:47.14ID:91NENu9F(´・ω・`)脚色ぐらいならいいけど、原典も何もない創作書き込んでくるからなぁ
0855人間七七四年
2011/07/26(火) 07:43:45.30ID:k00nqU+B0856人間七七四年
2011/07/26(火) 07:45:23.08ID:k00nqU+B0857人間七七四年
2011/07/26(火) 08:00:37.06ID:cudQDTbM自演連レス必死過ぎ。
0858人間七七四年
2011/07/26(火) 08:02:55.40ID:k00nqU+B>大崎合戦では妻の家の家督相続を留守政「景」と言い争った伊達家臣泉田重光だが、
家督相続の問題ではなく、ただ仲が悪かっただけかも知れない
>政宗に仲直りの意味も兼ねて政景と二人大崎攻めの先鋒の大将にされてしまった。
大将だが、仲直りの意味はあったのか?<要出典>
>二人には兵1万が与えられたが、大崎陣でも口論が絶えることは無く、
戦い方で揉めたといった記述が奥羽永慶軍記
>兵5000を率いて先に出た重光は、後詰めの政景と大崎の大軍に分断され、
伊達勢はコテンパンニやられ篭城中に和議勧告
>兵を撤退させる講和の条件に自らが人質になる事を呑んだ。
>大崎軍中
>一栗放牛「これはこれは、まぁ話を聞こう」
>黒川月舟「某は黒川月舟、覚えがあろう」
>延沢満延「某、最上家中延沢能登と申す」
こんなやりとりがあったのか?<要出典>
>泉田重光「!?なぜ最上の家中がここにいる?」
>(´・ω・`)「だって、大崎家と最上家は親族だもん。援軍出すのは当たり前でしょ?囲まれた時に旗印でわからなかった?」
援軍は出したが、親族だからが理由か?<要出典>
>*大崎も最上の旗も丸に二引き両。丸の大きさや二の間隔で区別する
成実の竹に笹と、仙台笹の様に比較画像希望<要出典>
>留守政景と兵は講和によって無事伊達領に戻されたが、
>重光の身柄は大崎家から最上義光に引き渡された。
奥羽Ak並びに伊達治家記録
>山形城
>(´・ω・`)「・・・家臣にならない」
>重光「お断り申す」
奥羽Ak?大河「独眼竜政宗」にも出てくる。ネタ元は山岡荘八?<要出典>
>(´・ω・`)「鮭食べる?」
>重光「・・・それはそれで頂戴致します」
半年も捕まってれば鮭くらい出るかもしれんが鮭うぜえ<要出典>
>(´・ω・`)「伊達家って鮎貝君も愚痴言ってるけど、そんなに良いの?」
>重光「奉公に足る御恩がござる」
<要出典>
>伊達家に嫁いでいた義姫の助力もあり、やがて重光は政宗の許に帰された。
義姫にそれだけの力があるのか?<要出典>
>泉田重光は朝鮮出兵にも政宗に付き従い、家中の序列は後藤・亘理家と同格とされる
後藤と亘理の伊達家内の序列のわかる史料を出せ<要出典>
創作うぜえ
絵文字うぜえ
脚色うぜえ
鮭うぜえ
最上厨うぜえ
こうですね、わかります。
0859人間七七四年
2011/07/26(火) 08:52:27.70ID:2oTKtnMu0861人間七七四年
2011/07/26(火) 10:14:43.08ID:9aumIy+1彼の義光の印象が強い俺としては
やはり、→(´・ω・`)「・・・」は違和感感じるな。
まあ、政宗のお陰でちょっと知られてるけど、すぐ消滅した
地方のマイナー大名なんて勝手にイメージ付けできると考えるのも理解できるがな。
0862人間七七四年
2011/07/26(火) 11:40:19.65ID:3gIEtyc1それが癒えてから忠勝が登城すると、小姓たちが忠勝を取り囲んだ。
驚いた忠勝が何なのかと尋ねると「病みあがりゆえ冷えては体に障るとの御上意なれば」と火鉢を持って忠勝を温め始めた。
家光の御前に出ると、家光自ら自分の後ろの屏風を忠勝の後ろに引きまわし
さらに自身の頭巾を与えたうえで「わしの前で許されたのだから、今後は誰も前でも頭巾をかぶっても良い。」と言葉を添えた。
『酒井空印言行録』
0863人間七七四年
2011/07/26(火) 13:24:07.98ID:bE4QyERVであり、また仕物(命令で人を斬ること)も4度、このうち2人は豊臣秀吉が黒田如水に仰せ付けられた者を
利安が実際に斬った。
これほどの戦働きをしたが合戦で怪我を負ったということはなく、ただ一度、朝鮮の役で左の小脇に矢がかすり、
血が少し滲んだ事のみが例外であった。
このように大剛の栗山利安であったが、普段は自身の戦の話など、まるですることの無い人であったという。
時に彼は81歳で死ぬ。その前日のことである。
利安はすでに、呼吸をするのがやっと、という状態であり、子どもたちをはじめとした看病をしている者たちは皆、
枕元でその時を覚悟していた。と、この時
利安は不意に、カッ目を見開いた。そして
「馬だ!鉄砲だ!
あそこに敵が出たぞ、味方の人数をここに出せ!あちらに出せ!
鉄砲をあの山に上げて撃たせろ!
敵は馬で駆け寄ってくるぞ!味方は馬から降り芝生に座れ!采配次第に、いかにも静々と懸かれ!」
うわ言に、合戦での指揮を叫び始めたのだ。
看病の者たちは皆大いに驚いたが、そのうちの一人が利安の耳元で
「かしこまり候」
と答えれば、おとなしくなり再び寝入った。
栗山利安はその一晩の間に5度合戦の指揮を叫び、夜明け頃、儚くなった。
戦国の世に生まれ育ったいくさ人の、臨終の模様である。
(古郷物語)
0864人間七七四年
2011/07/26(火) 17:26:42.06ID:QPdtteeK0865人間七七四年
2011/07/26(火) 18:02:44.93ID:DNW25RW4http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3914.html
0866人間七七四年
2011/07/26(火) 20:20:51.03ID:Mc/6qgJL真田信吉の正室は夫の死後、落飾して松仙院と号し、実家の酒井家に戻っていた
彼女の目に側室の子と実家の甥が高齢の義父と争っている光景はどう写ったのであろう
松仙院は死後、彼女の母の眠る曹渓寺(麻布)に葬られた
松仙院が生前に建立した真田信之の供養塔もその姿を残している
この供養塔、松代藩歴代藩主が祀られた長国寺の信之の墓(本墓ではない)と大きさが大差ない立派なもの
信之次女見樹院の建立説もありますが
0867人間七七四年
2011/07/26(火) 21:17:15.52ID:fAdi3KO1↑に関連しての話。ウチの社報にこの逸話がちゃんとソース付き(武功夜話より)と記載されていたんだが、その時の半兵衛さん紹介文の二つ名に「両兵衛」、「二兵衛」と有名なものが載ってた。ここまでは普通なのだが、面白いのはそのあと。
なんと、漢王朝開祖に使えた陳平(文書では兵)とか、南北朝時代の楠木正成にならって「今楠木」とも言われていたそうな。本当なのかな?
社報での半兵衛の会話には「焦ってのちのちに後悔するような策はたてたくない云々〜だから牛に乗ってゆっくり云々」だそうな。
0868人間七七四年
2011/07/26(火) 21:31:57.98ID:cTM1hIzO半兵衛は張良で、陳平は官兵衛の方じゃないの?
知余りあり、されど一人任じ難しだっけ
0869人間七七四年
2011/07/26(火) 21:38:20.93ID:BFPwgWtt独眼竜もそうだが、
史実でも180越える目つきの鋭い偉丈夫、
敵には謀略を使いこなし、
鉄棒で相手を撲殺したり、
白鳥を自ら斬り殺したりもするマッチョ野郎。
そんな戦国武将が、どうして「鮭食べる? 鮭ないの?」と
池沼みたいなばっかり台詞を吐いているうえに、あの顔文字なのか理解できない。
0872人間七七四年
2011/07/26(火) 21:51:43.04ID:3WQfONRR逸話を捏造してまで鮭や顔文字を無理矢理毎回ぶち込む奴など理解できんよ。
最上ヲタの妄想は隔離スレでやってほしいものだよな。
0873人間七七四年
2011/07/26(火) 22:00:17.51ID:BFPwgWttそういうおまえが相手しているわけだが。
>>872
こういう場所を勝手に洗脳の場みたいに使われても、最上厨の印象が悪化するだけでいいことなんかないのにな。
0874人間七七四年
2011/07/26(火) 22:11:24.79ID:mGTM9vwNそうやって触れるから余計喜ぶんだ
0875人間七七四年
2011/07/26(火) 22:28:08.70ID:QPdtteeK張良に楠木か。張良はいいとして楠木は策士的なイメージじゃないなぁ
韓信や白起のような不器用な軍人って方が近いと思うんだが
0876人間七七四年
2011/07/26(火) 22:31:40.76ID:QPdtteeK兄嫁と密通したり賄賂を堂々と要求したりする陳平に準えられちゃ半兵衛も立つ瀬がないだろうにw
0877人間七七四年
2011/07/26(火) 22:57:34.99ID:Z+RJyFRXなんか戦国後期の武将は古代中国の人物に例えられることが多い気がする
0878人間七七四年
2011/07/27(水) 00:55:59.44ID:Gb/IrSc20879人間七七四年
2011/07/27(水) 07:12:04.86ID:6FUQmGIJ0880人間七七四年
2011/07/27(水) 09:45:51.26ID:B2x7D/KL0881人間七七四年
2011/07/27(水) 12:54:50.45ID:q+D12z+uバースの再来とか言われるようなものか
0882人間七七四年
2011/07/27(水) 12:59:22.01ID:aGdoqhex0883人間七七四年
2011/07/27(水) 13:13:23.60ID:jwTRdTbcつう発想はなんか腐女子臭い・・・気のせいか?
0885人間七七四年
2011/07/27(水) 14:19:16.70ID:GvZnW9xg0886人間七七四年
2011/07/27(水) 14:21:29.59ID:aGdoqhex0887人間七七四年
2011/07/27(水) 14:27:15.65ID:6MfUjd1/0888人間七七四年
2011/07/27(水) 16:05:42.82ID:0s9tss8b0890*
2011/07/27(水) 19:56:23.96ID:UXoEZohV,xッ、}彡'''"´ ̄ ̄`丶、
ゞ''゙´ \
〃 ヽ
/ミ{ -‐-ミ,_‐- -‐ _,彡‐ ',
ミミシ ,..、 `ニニ´ ,.-、 i!
ミミ. =彡'゙⌒_,_,ノ ヽ,,ィシ^ヾミ |}
ミミ , ‐… 、 、 ,. , …‐、 リ
ゞミ. { O } }} {{ { O } .lヽ
′ `'ー一'゙ノ.::i i ヾ'ー一゙ .| :} なんとふにゃんとしたAA!
:{.( .:::j l 、 | ,′
:.じ r _ r:、 r:ッ _.-、 j/
>ri ゞ=ぐ シ_ッ/
|ハ. ヾー=ニニ=ァ゙ /
. r:| ヽ 、ヾミェェェァ゙ /j、
/:fj: \ `'ー 一'゙ ,:' ハ.\_
: :|ハ ::..ヽ、 ,/.:: / j: : :ヾヽ
:..:Vハ :::. `¨¨¨´ .:: / |: : : :|::
: : .Vハ :::. .::: / |: : :..:|::
0891人間七七四年
2011/07/27(水) 20:26:50.42ID:YemAPnjX0892人間七七四年
2011/07/27(水) 20:32:55.73ID:DUYdmXJp0893人間七七四年
2011/07/27(水) 20:51:14.85ID:7RULno1i0894人間七七四年
2011/07/27(水) 22:26:37.78ID:Ky5L4Cvlhttp://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1311772657/
0895人間七七四年
2011/07/27(水) 23:36:03.46ID:MJbUw/6Qそもそもお互いの名前を知ってたんだろうか
0896人間七七四年
2011/07/27(水) 23:43:25.40ID:FfhXt9Xjただ政宗が信繁に対してどれほど知ってたかは不明
むしろ長男の秀宗の方が信繁を知ってたと思う
0897人間七七四年
2011/07/27(水) 23:57:35.67ID:FlIU94BJ幸村の名前は100ぱー知らんだろう
だってそんな名前じゃ(ry
0898人間七七四年
2011/07/28(木) 00:02:21.87ID:uaak63G70899人間七七四年
2011/07/28(木) 00:04:37.41ID:smLh6ZiW0900人間七七四年
2011/07/28(木) 00:10:17.28ID:o4fJo7Fh0901人間七七四年
2011/07/28(木) 00:49:44.12ID:kDcc4XM+尼子家再興を図る山中鹿介は、当時畿内に勢力を拡大していた織田信長に接近し、その家臣の
明智光秀の配下に組み込まれた。この頃交友を結んだとされるのが光秀の家臣の野々口丹波である。
鹿介はある時、丹波から
「私は3回、敵の首を取った事がありますが、緊張のあまりその事を良く覚えていません。1度きりの戦功を
つぶさに語る者もいますが、彼らは生来の勇者なのでしょうか?」
と、打ち明けられた鹿介は彼の正直さに感心し、
「私も首を4〜5回取るまでは貴殿と同じ様な心境だったが、10回を越えると平常心で
敵の顔がはっきりと見えるようになった。大口を叩くような者は、実際にはたいした事はしてはいないものだ。」
と答え、それを聞いた丹波も安心したという。 「武将感状記」より。
0902人間七七四年
2011/07/28(木) 01:04:18.65ID:cN496b0d既出
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2218.html
0903人間七七四年
2011/07/28(木) 01:21:40.01ID:XgsXEDNdある時、信玄配下の忍者数十人が離反し山小屋に立てこもった。
信玄はこれを策略をもって制圧しようと、信玄の下に残った忍者を呼んだ。
信玄「忍び込みにくい城というのはどういったものか?」
忍者「いかにも厳重に守っているようでも、夜警の者の声が頻度に聞こえるようでは
返って相手の油断も分かり易いものです。」
信玄「ほう、では今回の場合はどうだ?」
忍者「奴らはそういったことを熟知しており、決して物音を立てないでしょう。
これは難しうございます。」
信玄「そうか、わかった。」
すると、信玄は山小屋に向け陣を張り、いかにも厳重に守っているように夜警の者などをしきりに廻らせた。
そうして数日が経ち、ちょっと隙を見せると山小屋の忍者達が夜襲をかけて来た。
もちろん、それは信玄の罠であるわけで忍者達は伏兵によって討ち取られてしまった。
0904人間七七四年
2011/07/28(木) 02:46:08.15ID:z5+cWov3http://www.youtube.com/watch?v=YP5YoQbMx9g&feature=related
ただし一般郵便だと無視される可能性があります。
とぼけられないように一般書留+配達証明=770円で郵送したほうが確実です。。
これをすると、犬hkから電話がかかってきます、できるだけ録音しておいたほうがいいでしょう。。
丸め込まれないためにも、理論武装、犬hkの不祥事事件の知識が必要となります。
十分に準備を整えてから実行しましょう。
私の実際の経験では、1時間ほどの電話×2日ほど掛かりました。
あまり好きな手段ではないのですが、担当者の胃に穴を開けるつもりでクレーマーに徹しました。
デジタル移行の今がチャンスです。
0905人間七七四年
2011/07/28(木) 03:29:41.09ID:hdp8VyN60906人間七七四年
2011/07/29(金) 01:02:04.84ID:f06NnlDt0907人間七七四年
2011/07/29(金) 13:48:21.08ID:uTik07+G『内府様(家康)の軍勢を荒らせし者で、明石掃部(Acasicamon)と薩摩の如く甚だしい者は
無かった。
その中でも明石掃部は退却せずして敵中に突入し、自害するよりも敵の手にかかることを望み、
しだいに敵に追い詰められもはや逃れるすべのない事を知ると、甲斐守(黒田長政)の軍隊に
乱入して最後の血戦を試みんとした。
甲斐守は乱入してきたのが、その挙動、及び軍装によって掃部であることを知り、声高に下知を伝えた
「おまえたち、彼を助けよ!殺してはならない!私が彼を生け捕りにする!」
この叫びに黒田軍は皆動きを止め、甲斐守は自ら明石の方に進み近づくと、その頭に手をかけて
抱擁し、涙を流して語りかけた
「我が友よ!我ら互いに敵となってここに見参することの苦しさよ。
勝ち誇る我軍によって敗れたと言っても、あなたの名誉は隠れ無いものである。」
これに明石は
「あなたが真の友ならば、その刀で今すぐに私を斬ってくれ!」
と答えたが、甲斐守はその言葉に従わず、それどころか自分の馬を明石に与え、
それに騎らしめて戦場を脱出させ、敵の命を救った。』
(モンタヌス日本誌)
日本の記録では見たこともない、関ケ原における黒田長政と明石全登のエピソードである。
0908人間七七四年
2011/07/29(金) 19:35:31.71ID:ZzTF9sjv0909人間七七四年
2011/07/29(金) 20:13:21.79ID:xsW++Brm確かに可能性はあるなw
0910人間七七四年
2011/07/29(金) 20:35:16.08ID:CRDb1V4L大谷吉継が石田三成に対して言った言葉
「必ず金銀にて人を使はんと思はるるは、人心の離るる本なり」
(金で人を動かすのを習慣化させると、だんだん金銀だけの繋がりになってしまい、
かえって人の心が離れていく原因になるから気をつけろよ)
関ヶ原のときも「お前は人望がないから裏方になれ」とか注意してたけど
これはいつどんな状況で言ったのか気になる。
0911人間七七四年
2011/07/29(金) 23:23:11.12ID:B0lO/CyEどういう文脈なのかわからないけど、お金で精算しちゃうと相手ももう済んだことってなるかもね
逆に僅かな金ならおごりにしちゃって恩着せたほうがかえって得な場面は今でもあるよね
0912人間七七四年
2011/07/29(金) 23:28:49.83ID:fGBQb4vB0913人間七七四年
2011/07/30(土) 00:18:40.86ID:wYYxCefJ0914人間七七四年
2011/07/30(土) 00:24:07.55ID:a15vGj++そういう人材を集められる三成は相当の人物だったのだろう。
0915人間七七四年
2011/07/30(土) 00:29:45.47ID:AXS+99fYいつ頃のやりとりなのかなあと。
左近スカウトする前にこういうやりとりしてるんだったら面白いなと思ってさ。
0916人間七七四年
2011/07/30(土) 00:33:21.87ID:xn3MJGMk島左近を2万石で雇ったことに対する話ではなかったっけ?
高給で雇ったって、人間関係がうまくいかなかったら元も子もない、みたいな。
勘違いだったらごめん。
0917人間七七四年
2011/07/30(土) 00:33:33.30ID:TVuk6+na0918人間七七四年
2011/07/30(土) 00:34:28.41ID:kRyBlpXjしばらくは黒田親子の下で厚遇されてたはず
長政としては自分で優秀な人間をスカウトしたい時期だったし
血の繋がりがある明石全登はうってつけだったんだけど
領内でのクリスチャンへのあたりが強くなった時に放置してたら
出奔されて又兵衛と一緒に大阪方に付かれるハメに
0919人間七七四年
2011/07/30(土) 00:43:53.59ID:Zjf9EnAm0920人間七七四年
2011/07/30(土) 10:23:38.66ID:SdbJLH6S話としてはとくにないと思うけれど。
0921人間七七四年
2011/07/30(土) 10:25:31.23ID:KWackV3J0922人間七七四年
2011/07/30(土) 10:48:02.85ID:j9t9/O/A鬼武蔵とかはどうでしょう?
0924人間七七四年
2011/07/30(土) 11:32:45.89ID:r+VBTW+J0925人間七七四年
2011/07/30(土) 12:34:37.15ID:izvS3ht+0927人間七七四年
2011/07/30(土) 14:55:39.64ID:fDjtHE7Pつまり、家康のの実母伝通院は彼女にとって実の祖母にあたります。
慶長七年(1602年)、伝通院は北政所や後陽成天皇に拝謁するために上洛、
筑前で新婚生活を送っていた栄姫も祖母に会うために上洛します。
そして、上洛中に彼女の懐妊が発覚します。
この報を聞いた家康は栄姫に帯を贈り、伝通院からは
「せっかくなので京で出産してはどうか」と提案します。
これを受けて黒田如水、
「長政にとっては初子となるので、筑前で産ませたいです」
(厳密には長政には前妻との間に娘がいるのですが、筑前の太守としては、という意味かと思います)
と帰国する旨を伝えれば、家康は彼女のために養安法印を付けさせます。
更に伝通院は自分が家康を出産する時に神社を参詣したら安産だったいう話を受けて、
栄姫は舅の如水と共に安産祈願のために清水に参詣したそうです。
そんなわけで、黒田如水、息子の嫁と仲がいい話。
出典は黒田家譜ですが、家譜には秀忠とその母とあるところを
これは家譜の間違いだろうと判断して(秀忠の母は関ヶ原以前に他界)、
家康とその母伝通院、とさせていただきました。
0928人間七七四年
2011/07/30(土) 15:07:52.23ID:fDjtHE7Pところで、伝通院はこの年の8月28日に亡くなっており、
懐妊の発覚した栄姫が帰国したのが9月になってからとあるのは、
おそらく祖母の葬儀のためであったと思われます。
しかし、彼女はその年の暮れ12月22日に福岡城にて万徳丸(後の忠之)を出産しています。
つまり、栄姫は大体妊娠7カ月の身で京都から福岡に戻ったということになるわけで……
結構な無茶ぶりですね、黒田家
0929人間七七四年
2011/07/30(土) 15:12:01.53ID:xPnWy7Re0930人間七七四年
2011/07/30(土) 16:39:38.66ID:bDpcnlUl0931人間七七四年
2011/07/30(土) 17:47:54.61ID:QhGr4zXHそして京でそのまま出産
元気ですな
0932人間七七四年
2011/07/30(土) 17:58:37.77ID:gSbsTe4qhttp://www.youtube.com/watch?v=EbdadY95Gkc
産経新聞以外、他のマスコミは一切報道しない菅直人と北朝鮮の関係!
まだ見てない方はぜひご覧下さい。
0937人間七七四年
2011/07/31(日) 00:38:30.97ID:EPi5f3lu戦国大名の部下なんて大部分がそんな奴ばっかだろ
織田家で見ても、羽柴秀吉・柴田勝家・明智光秀のいずれも上司部下からの信頼は厚いが同僚同士ではライバル心むき出し
三成だって孤立してたって言うけど実際は派閥を形成してたわけで珍しくもないな
0938人間七七四年
2011/07/31(日) 13:16:02.34ID:rJT2nFqY0939人間七七四年
2011/07/31(日) 18:45:27.76ID:u/hXnqVW日本人で初めて花火大会を見物したのは誰だかご存知だろうか?
狼煙や合図として中国で発明された花火はヨーロッパに渡り、赤、青、黄色などの色彩を持つ美しい現代の花火に改良される。
その花火を見物した人物として初めて文献に記録されたのが、大御所となった徳川家康だった。
勿論それ以前にも花火を見物した人物はいただろうけど名前が出たのは家康が初めて。
家康は花火を見て非常に気色を良くしたらしく、職人を育て大量の花火を作ったとのこと。
一説には、自分の死後は久能山から一晩中花火を打ち上げろと秀忠に遺言を遺した。
現代人が花火を楽しめるのも家康公のお陰かなと思いながら花火大会を楽しんでいる。
0940人間七七四年
2011/07/31(日) 18:54:55.39ID:u/hXnqVW自分の死後、一晩中花火を打ち上げろと秀忠に命じた時、『自分が死んでも徳川の天下は既に揺るぎようがない事を万民に知しめよ。太平の世を喜び祝え』と遺言した。
0941人間七七四年
2011/07/31(日) 18:57:33.19ID:oalwK8VI鎧を二枚重ね、砲術では百発百中の腕前を誇った稲富さんの
技術の賜だっけ
0942人間七七四年
2011/07/31(日) 19:21:42.34ID:afEx/Ka80943人間七七四年
2011/07/31(日) 19:27:26.91ID:osiOzeYP国王は死んだ!新国王万歳!みたいなノリだな
0944人間七七四年
2011/07/31(日) 20:20:21.44ID:BGAOJfLl家康より先に唐入り中の名護屋城で秀吉が花火大会やってるんじゃないかな。
0945人間七七四年
2011/07/31(日) 20:21:15.11ID:BGAOJfLl0946人間七七四年
2011/08/01(月) 01:18:49.22ID:tEaHmx6g三河、遠州の辺りで打ち上げられる手筒花火は
この時徳川の鉄砲隊が持ち帰って広めたのがキッカケらしいね
0947人間七七四年
2011/08/01(月) 01:50:17.47ID:FYyiVszCまあ鉄砲とはちがうけど火薬使ってるからだいたいいっしょか
0948人間七七四年
2011/08/01(月) 12:17:36.38ID:kVsMXcCa0949南条宗勝の左手は 1/2
2011/08/01(月) 13:47:47.31ID:ICRj47dP尼子に羽衣石城を奪われた南条宗勝は、国信に加勢して戦った。
橋津川にかかる橋の上に立った宗勝は、尼子軍の名だたる将・吉田左京亮を撃退する等活躍を見せたが、
逃げる左京亮を追いかけようと武田軍が橋に殺到すると、橋は重さに耐え切れず、武田軍ごと崩れ落ちた。
形勢は逆転。武田軍の、ある者は溺死し、ある者は川岸からの尼子軍の攻撃により討ち取られたが、
ひとり泳ぎの得意な宗勝のみは、そのまま下流に向かって流れ、逃げ延びた。
夕暮れになり、ついに海に泳ぎ出た宗勝は、運良く漁師が何人か歩いているのを見つけた。
「おーい!南条豊後じゃ、助けてくれい!」
「なに、南条殿じゃと・・・暗くて顔がわからん、証拠はあるか!」
「あるぞ。これを見よ!」
宗勝は、自身の左腕を漁師たちの前に差し出した。
「おおおおお!!間違いない、噂に聞く南条豊後守じゃあ!!」
差し出された左腕には、二の腕から先が無かった。先の橋上での奮戦も、槍の柄を左腕に結びつけ、
右腕のみで槍先を操っての活躍だった。
0950南条宗勝の左手は 2/2
2011/08/01(月) 13:49:15.14ID:ICRj47dP和睦の申し出があり、両者は小鴨の館で酒宴を行なうことになった。しかし宗勝は油断せず、
「数年来争ってきた小鴨が、突然和睦を申し出るのはおかしい。みな用心いたせ。」と家臣に言い含めた。
和議は滞りなく進み、その後の宴もたけなわとなった頃、掃部助が杯を宗勝に差し出した。
「ささ、まずは一献。」
「これはかたじけない。では、ご返杯を・・・」
返杯を受けた掃部助は、その酒を宗勝の顔にブチまけた。宗勝が酒をぬぐった時には、
掃部助は太刀を抜き、宗勝の頭に白刃が迫っていた。
迫る白刃に対し、とっさに宗勝は左の肘で受け、右手で脇差を抜いた。宗勝の左手は斬り飛ばされたが、
その脇差は深々と掃部助の身に突き刺さり、返り討ちに成功した。
陰謀が失敗したばかりか、主君を一刀のもとに倒された小鴨勢はすっかり浮き足立ち、あっという間に
南条家臣によって制圧され、南条氏は小鴨氏を傘下に収めた。(陰徳太平記より)
居城を尼子氏に奪われ、毛利元就の庇護を受けて奪還するまで三十年の長きにわたり放浪することになる
南条一門だったが、浪々の身の彼らを『武辺の家』と称える者はいても、そしる者はいなかったという。
0951人間七七四年
2011/08/01(月) 15:13:33.74ID:poJMtQBe一瞬の判断でこれほどの立ち回りができる人間は当時でもそう居ないんじゃないか
0952人間七七四年
2011/08/01(月) 15:32:13.10ID:u7Wx0xSf大して人気の無い地方のマイナー武将にも、調べればたくさんすごい武将が出てくるんだろうね。
いろんな意味で感心した。
0953人間七七四年
2011/08/01(月) 15:34:36.71ID:VacFFy20多分この逸話に関連しているのではないかと思えます↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2647.html
徳川3代に仕えてそれらを支えてきた土井利勝、あるとき徳川家光が秘密の話をするというので、親しい重臣だけ呼び集めて合議をする事になった。
(議題内容はおそらく上の↑逸話の内容ではないかと推測されます)
様々に議論を交わし、お開きになる頃に家光が「この話は秘密にし、口外しないように」という、何かリアクション芸人の「押すなよ、押すなよ」と言わんばかりの前振りを言います。
当然、秘密の会話内容は他人にダダ漏れとなってしまい、家光は激怒します。
家光「あれだけ口外すんなと言ってるのに秘密の意味が無いじゃないか、どうするんだよ!」とご立腹な家光。
そこに土井利勝がこう言いました。
利勝「秘密の話とは大概、親しいモノが寄せ集まって引き籠るような場所でヒソヒソと小声で行われるのが常。
それこそ、あの場所で何か秘密の話等をしているに違いないという推測を起こさせるのは容易ですし、
何かの拍子で話が漏れるのは当然の事。
しかも薄い壁や障子を隔てて誰かが聞いているのは当然の事です。」
そこで利勝は言います。(あのAAを想像しながらお読みください)
利勝「(逆にこう考えるんだAAry)窓とか、ふすまのない開けた場所で、大声で大々的に話せば、その話をこっそり聞き耳を立てているものも、会話の内容が秘密の話とは思わず聞き流すことでしょう。
だから変に隠さずに逆に開けた場所で行えばいいのではないですかな?」
利勝の話に、家光は納得してその後は秘密が漏れる事は無くなったそうだが、まさにあのAAが浮かぶお話というか、木を隠すなら森と言った逸話だと思いました。
0956人間七七四年
2011/08/02(火) 01:12:29.96ID:l+2/5nWM0957人間七七四年
2011/08/02(火) 17:43:21.80ID:ellNb42h0958人間七七四年
2011/08/02(火) 18:10:13.31ID:K57faLED0959人間七七四年
2011/08/02(火) 19:47:56.52ID:chf7pRhzこういうことですかw
0961人間七七四年
2011/08/02(火) 21:13:10.93ID:r6MOEwOm0962人間七七四年
2011/08/02(火) 21:28:23.81ID:zkUo+7WS0963人間七七四年
2011/08/02(火) 22:52:24.31ID:zq5+oLQ70965人間七七四年
2011/08/03(水) 02:01:02.22ID:mYcU0O1W逆に散々に打ち負かされたが、松田誠保と横道正光のお陰でどうにか勝利を拾う事が出来た。
しかし勝久は鹿介と久綱に気を使い、誠保と正光に両名の戦功を認める感状を出さなかった。これを聞いた鹿介は
「賞罰を明らかにしなければ兵が力を発揮しなくなります。また、我々は敗れて逃げましたが
全く恥にはなりません。勝つも負けるも戦の習いです。」
と勝久に説いた。そして鹿介自らの手で誠保と正光に感状を手渡した。これを聞いた者は皆、鹿介を賞賛したという。
山中鹿介、25歳頃の逸話である。
0966人間七七四年
2011/08/03(水) 11:25:05.24ID:sMv+uxZq0968965
2011/08/03(水) 16:05:15.17ID:KJ2DZaW10969人間七七四年
2011/08/03(水) 21:42:09.82ID:pxGBbHvK0970人間七七四年
2011/08/03(水) 21:55:22.99ID:+mfqpw5T0971人間七七四年
2011/08/03(水) 21:56:08.62ID:+mfqpw5T0972人間七七四年
2011/08/03(水) 22:11:31.56ID:yeIV5KlX0974人間七七四年
2011/08/04(木) 00:19:04.34ID:86vVobln0975人間七七四年
2011/08/04(木) 00:31:24.53ID:5A63yjq8元和9年(1623)7月、江戸詰めだった黒田長政は、将軍秀忠親子の上洛への随行を命じられた。
「何か」を予感した長政は上洛に嫡男・忠之を伴ない、東海道ではなく中山道を行く事を願い出て許された。
美濃国合渡川で、忠之の友人の松浦隆信なども合流したところで、長政は若者たちを前に
かつて合渡川の川辺で行なわれた激戦を語った。
田中・藤堂とともに、自らも大水牛の兜まで水に漬けて戦った川辺での激闘の様を、忠之と隆信ばかりか
付き従う者たちも、耳を傾けて聞き入った。
その夜は、近隣の領主であり長政の旧友である竹中重門が迎えてくれた。
「長政殿、せっかくここまで来てくれたのじゃ。明日は関が原に行こうではないか。」
「うむ。」
===========================================
「あれじゃ。あの笹尾山から松尾山の麓に西軍はビッシリと陣を構え、上から我らを睨み付けておったわ。
この時、長政殿は合渡川の戦いの功として御先手を任され、石田治部少輔の陣と相対した。」
のちに軍記『豊鑑』を書く文筆家でもある重門は、地形方角を示しつつ、天下分け目の戦いについて
雄弁を振るった。
「石田隊の先鋒は、その名も高き島左近!その武勇と大音声は怖気をふるうほどのものであったが、
黒田隊は、この戦を天下泰平の基にせんと大いに戦い、これを良く防ぎ・・・」
文人武将の講釈に、青年達は時を忘れて耳を澄まし、長政は自身が筑前五十二万石の大封をつかんだ
昔時の戦に思いを馳せ、思わず落涙した。その姿は、見た者の涙をも誘ったという。(黒田家譜より)
元和9年8月4日。黒田筑前守長政、京にて死去。享年56。
「大軍を指揮できる身代となりながら、存分に使うことなく死ぬのは残念。」
と言い残したと伝えられる長政だが、その辞世の句は
“ 此のほどは 浮世の旅に 迷い来て 今こそかへれ あんらくの空 ”だった。
0976人間七七四年
2011/08/04(木) 11:43:33.99ID:gjgsfj31慶長17年(1612)、幸若舞を愛好する毛利輝元は、自分の御伽衆奈良松友嘉の息子、
善吉と善三郎を越前の幸若舞小八郎家(おそらく六代桃井安信)へと派遣、
これを学ばせる。
この時小八郎家は奈良本家に幸若舞の相伝を許可し、「幸」の一字を与え幸坂家を名乗ることを
許した。
さて、その兄弟は舞の教本を長州へと持ち帰り、以来大切に受け継がれた。
これこそ、現在も山口県の毛利家博物館に保存され『毛利家本』と呼ばれ
幸若舞の祖・桃井直詮より始まる越前幸若系の純粋な文体を受け継いでいると考えられる、
現存する唯一の揃本なのである。
毛利輝元、幸若舞の貴重な史料を現代に残す、というお話。
0977人間七七四年
2011/08/04(木) 12:04:43.99ID:+1nATF/z今回は中務の方の本多さんで。出典は桑名の図書館にあった資料から
一応http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2414.htmlの中で触れられてはいるけど
全体を書いたものは(少なくとも本多忠勝カテには)なかったので
本多忠勝が伊勢桑名に移封された晩年、二男の忠朝とともに城下を巡視した。芦原のほとりにさしかかると忠勝は忠朝に傍らの櫂を示し「その葭を薙いでみよ」と命じた。
忠朝が葭を横殴りにすると、三間ほどの間の葭が倒れ伏した。
忠勝はそれを見て自ら片手握りに櫂を取って葭を薙いだ。
すると葭は根元から二尺ほど上のところで、刃物で切ったように切れてしまった。
今更ながら人々は忠勝の豪力に舌を巻いたという。
0978人間七七四年
2011/08/04(木) 12:13:20.10ID:2HCX4rPF0979人間七七四年
2011/08/04(木) 13:40:35.78ID:jN2bfeEn櫂を通常の3倍の速度で振れば葭も斬れるのか。
0980人間七七四年
2011/08/04(木) 21:19:41.05ID:gjgsfj310981人間七七四年
2011/08/04(木) 21:21:23.76ID:gjgsfj31戦国ちょっといい話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1312460445/
0982人間七七四年
2011/08/04(木) 22:48:41.24ID:X7IpSZ7+0983人間七七四年
2011/08/05(金) 00:35:04.78ID:fHsnbfjJタイムスクープハンター「髪結いちょんまげ騒動記」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1312455261/
0984人間七七四年
2011/08/05(金) 06:20:10.81ID:gDgYc2UM小学校のマンガ(割と真面目な雰囲気の)だと
忠勝が薙ぐと異次元への扉が開いてすぐ閉じた気がする
あれなんだったんだろ
0986人間七七四年
2011/08/06(土) 00:27:53.42ID:oaMrF1UHその日も重臣の梶田出雲が、正則の前に仕官希望者を連れて来た、が。
「お前の連れて来る奴はアクの強いのが多いが、今日はまた格別じゃな・・・」
「ははっ。」
小田孫兵衛と名乗るその男、歳は七十過ぎ、身にまとうは使い古しの紙子羽織という有様だった。
「で、ですが殿!この孫兵衛どのは、今でこそ落ちぶれ果ててはおりますが、かつては毛利家に仕えて
侍の諸芸を修め、備中にて一城さえ任されたる者。
御広間の番等、つまらぬ職でも構いませぬ。二百石、いや百五十石!なにとぞ、なにとぞ騎馬武者として
孫兵衛どのの顔が立つ程度に、知行を与えてやって下され!この通り!!」
「よし、千石出そう。」
「「!!?」」
「何を驚く。お前今、『城主を勤めた』と言うたじゃろが。そういう男はな、二百や三百石与えたところで
ものの役に立たん。ケチケチせずに千石もポンとくれてやった方が、本領を発揮するものよ。」
正則の言葉に肝を潰した孫兵衛だったが、一夜明けると使い古した紙子を脱ぎ捨て、
天晴れ一城の主の如き威風を取り戻していた。(福島太夫殿御事より)
0987人間七七四年
2011/08/06(土) 02:28:09.17ID:vAudIdkd0988人間七七四年
2011/08/06(土) 05:25:05.34ID:WKVEOD6cやっぱり酒が唯一の欠点かw
0989人間七七四年
2011/08/06(土) 07:11:03.91ID:YYFC1Lt70990人間七七四年
2011/08/06(土) 07:15:29.92ID:OkkQe6yM0991人間七七四年
2011/08/06(土) 08:43:11.59ID:EruFrLdr酒で失敗した偉人の多い事多い事
0992人間七七四年
2011/08/06(土) 09:11:35.68ID:r8uo7g9z福島さんと言うと、昔は随分酒絡みでマイナスイメージだったけど
本当に酒さえ無ければ別人なんだよな・・・
0993人間七七四年
2011/08/06(土) 09:51:51.29ID:ooGi7Kk20994人間七七四年
2011/08/06(土) 10:20:11.37ID:+TP/cajw0995人間七七四年
2011/08/06(土) 11:44:11.89ID:vHAMXvP60996人間七七四年
2011/08/06(土) 11:52:42.46ID:OkkQe6yM自責の念があるだけ清正よりましか
殿は関が原での戦以来すっかりお心を病んでしまい、
昼夜の別無く酒を召しては家臣に斬りかかる毎日でござる。
0997人間七七四年
2011/08/06(土) 13:27:41.97ID:dDm759wnむざむざ見捨てられなかったんだろうな…
0998人間七七四年
2011/08/06(土) 16:42:21.74ID:6Dgv8Jyi0999人間七七四年
2011/08/06(土) 18:40:42.68ID:2ekLaLW21000人間七七四年
2011/08/06(土) 18:50:36.14ID:s40AzoT110011001
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