天正16年(1588)、長宗我部元親は京において四男の千熊丸を、増田長盛を烏帽子親として元服させ、
右衛門太郎盛親と名乗らせた。
人々はこれで、盛親に長宗我部の家督を譲ることが決まったと思った。
が、元親にはなにか考えがあったのか、盛親の家督相続披露を行わず、
それとは別に

「五郎次郎(元親次男・香川親和)はその領地に蟄居のような形になっており、
さぞ色々と不自由であろう。」

と言って彼の住居である小野の近くを新たに知行として与えた。
さて、これを聞いて、当の五郎次郎は絶望した

「これはどういう事だ!?弥三郎殿(信親)が逝去された上は、私こそが長宗我部の
惣領と成るべきなのに、今になって知行を給わるとは何事だ!?

兄上の一周忌も過ぎ、3年も経っても家督に付いて何の沙汰もなく、ただ訝しく思っていた所に、
『吉良親実、比江山親興などの粛清は、千熊丸を家督にすると父上がおっしゃったのを
諌めたため罰せられたのだ』などという噂も耳に入ったが、そんな馬鹿なことがあるはずがない、
そう言っている者たちの勘違いだと、私はずっと信じてきた。

それなのに今度の千熊丸の元服の有り様は、疑いもなく家督のものである。
私は今はじめて、噂が真実であったと知った!

しかれば、私は父に見放され、弟にその地位を追い越された。
一体何の面目あって、生きて再び人前に顔を晒すことが出来るだろうか。
だからといって自ら首を斬って死ぬのは、不幸であり不義でもある。
この上はただ、閉居して世との交わりを絶つしか無い。」

と、一室に、食事も取らず閉じ籠った。
乳母である吉良五郎兵衛が涙を流して様々に諌めたが一向に聞くこと無く。
やがて心身衰え、終に病床に伏した。

この事は岡豊の元親のもとにも伝えられたが、元親は驚くこともなく、ただ
「療養は緩々とするのが良い。構えて回復を急ぐため、無理な治療はしてはいけない」との
言葉を下しただけであった。

しかし吉良五郎兵衛が「もはや回復の見込み無く、お命も長くありません」としきりに申し上げたため、
元親は篭を飛ばして五郎次郎の元に駆けつけその姿を見れば、もはや意識不明の有様であった。

「これは一体どういう事だ!?」

元親は手を投げ上げて嘆いた。これに吉良五郎兵衛
「最近になってこのような状態になり、私は何度もこれを報告いたしましたが、岡豊から返って来るのは
御子様とも思えないお扱いばかり。情け無い限りです。」
そう、声を上げて泣いた。

元親は返す言葉もなく、親和の耳元に口を当て励ますように言った

「五郎次郎、心持ちはどうだ!?家督はお前に決めたぞ!」

しかし五郎次郎からは、もはや何の反応もなく、ただ眠るようにして終に空しくなったと云う。

「弥三郎に先立たれ、3年の月日も経つや経たずやというのに又、五郎次郎を失ってしまった!
私は一体どうすればいいのか!?」

元親はそう叫び、ただ嘆くばかりであった。

長宗我部元親次男、香川親和の死についての逸話である
(土佐物語)