戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0867人間七七四年
2011/07/04(月) 18:02:16.01ID:jddVtIYZ(珍しからざる事の様にて、耳に留まる事共、申されける中に)
「たわけであっても主人の役に立つたわけと言うのがあるもんだ。こういうのは、たわけだと知っていても
つい可愛がっちゃうんだなあ。
一方で優れて利口なのに、主人の役には立たない利口なんてのもあってな、これは利口者と解っていても、
取り扱いが本当にやりにくいんだよ。」
つかえるたわけ、つかえぬ利口、と言うお話
(古郷物語)
0868人間七七四年
2011/07/04(月) 18:13:21.12ID:/msZiUJ/0869人間七七四年
2011/07/04(月) 18:19:29.58ID:/msZiUJ/0871人間七七四年
2011/07/04(月) 22:49:45.26ID:E2DI015g0872人間七七四年
2011/07/05(火) 17:28:38.26ID:aaZO0zT1船がかかったとき、美しい真円の月が海上に浮かび、また波風もとても静かであったので、鳳金丸という安宅船の
2階に登り、夜すがら月見をした。この時、近習の者たち2名ほどを側近くに召しての夜話のおり、このような事を言った
「去る春の頃のことだ。奥州の政宗が團介という遊女を自国に下し(どうでもいいが原文でも『奥州の正宗』でやっぱり
諱を呼び捨てである。しかも間違えてる)、歌舞伎を興行したことが、家康公のご機嫌を非常に良くした、と言うことを
ほのかに伝え聞いた。
その理由は石田治部少輔らの謀反を難なく退治されて、今は天下をその掌中にされている事であれば、
政宗のような国主が率先して、もはや太刀も刀もいらぬ太平の世だと思い歌舞遊興のみにて月日を過ごせば、
もはや心配することは何も無いと思われたからだ、ということだ。
今、西国に置いてこの清正などは秀吉公のお取立てと言われ、そのうえ秀頼公が大阪に在城されているので、
世間の者も疑わしく思い、家康公も自然と心許なく思われることもあるだろう。
さりながらわしは家康公の御厚恩を忘れることは出来ない。このように肥後一国の主としていただき、その上、
特に常陸介殿(家康の十男・徳川頼宣)を我が聟に仰せ付けられたこと、それらによって当家の御恩は深く、
いささかも二心無き事であれば、いよいよ家康公の御心安く思し召すように、政宗のように帯紐を解いて(警戒をしない、
気を許すの意)、老身を慰め遊び人となって、世間の評判にも、『清正は年寄りになり、また太平の世になったので
武の道を忘れて年月を送っている』と聞かれれば、もはや気遣いすべき人物では毛頭無いと考えられるであろう。
そのようにするのが最も良き分別であると思うが、どうか?」
これを聞いた者たちは皆、御尤と感じ入ったという。
そうして、その頃八幡の國(出雲阿国)という者を熊本まで下し、城下の塩谷町三丁目の武者溜まりにて勧進能を
行い、その能の後で歌舞伎を行わせた。
この時家臣の侍たちは銀子1枚を出して桟敷に置いて見物をし、地下町人たちは八木(米のこと)を見物料として出し、
鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴人の席との間の芝生に設置された庶民の見物席)にてこれを見た。
歌舞伎とはこの國が始めたものであり、その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、その珍しさに集まった
貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、みな押し合いながら見物したそうである。
加藤清正が、熊本で出雲阿国の歌舞伎興行を行うまでの顛末である。
(續撰清正記)
0873人間七七四年
2011/07/05(火) 20:56:57.03ID:d+ordKot0874人間七七四年
2011/07/05(火) 21:27:42.24ID:XkOLQgVa今の豊臣の有様になんとも思わず家康公マンセーなところか?
0875人間七七四年
2011/07/05(火) 22:50:55.73ID:cpw3ZNKa0876人間七七四年
2011/07/05(火) 23:18:42.48ID:4+rPkVse0877人間七七四年
2011/07/05(火) 23:43:07.03ID:/Wg21lRH菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。
菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」
「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」
そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」
“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)
島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」
的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。
“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”
「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。
教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。
0878人間七七四年
2011/07/06(水) 11:27:11.94ID:k/0jIAw5清正が正宗を呼び捨てて何が悪いんだ?
正宗って清正より偉かったの?
0879人間七七四年
2011/07/06(水) 11:40:58.31ID:6FsKodviこの時期だと政宗は陸奥守、清正は肥後守。両方延喜式では大国扱いなのでほぼ同格だが、
武家的には陸奥守のほうが重いな。
まあ基本的に相手が同格、あるいはやや下だとしても、この時代官位で呼ぶのが基本常識であり
礼儀だわな。ましてや大名同士の場合は特に。
0880人間七七四年
2011/07/06(水) 12:41:36.27ID:PigYNCek0881人間七七四年
2011/07/06(水) 13:02:16.17ID:KMFDXBpH0882人間七七四年
2011/07/06(水) 13:03:26.19ID:Bm0wOuqRどういった経緯で全国で『まさむね」』で通るようになったか興味深い。
0883人間七七四年
2011/07/06(水) 17:17:34.55ID:Tk4chnLk0884人間七七四年
2011/07/06(水) 17:38:42.78ID:jdcv1O1m0885人間七七四年
2011/07/06(水) 17:40:17.52ID:EU1fIGWp黒田如水は常にこのように言っていた
「奉公人は身分の高下に関わらず水練を心得ておきたいものだ」と。
さてそんな如水、夏になると城下に流れる大川に行き、その両岸に大綱をひかせ、自身は
跛の足ながら尻からげにし、綱を伝ってそこを往復。深い淵の箇所では泳ぎ、彼と共に泳ぐものには
「良き心がけである」
と褒めたという。
これは若者たちに水練を習わせたい、という如水の思いからのものであったが、しかし如水は
決して家臣たちに「水練を習え」とは言わなかった。ではどうしたか?
如水はしばしば、深い淵を隔てた対岸に居る者に突然に「誰々をこちらに来させるように!」と呼ばせ、
泳がないものが迷惑するように申し付けた。
(誰々を呼べとて、急に呼ばせ、泳がざる者、迷惑仕る様に申付く)
如水は夏の間そんな川狩を、4・5日に1度はやっていたそうである。
しかし泳げない人には実に困った嫌がらせですなw
そんな意地悪爺さん然とした、黒田如水、夏の風物詩。
(古郷物語)
0886人間七七四年
2011/07/06(水) 21:12:38.91ID:+qf0MicG0887人間七七四年
2011/07/07(木) 00:18:53.14ID:w8xL/K7Eでも本当に跛だったんですね。
0888人間七七四年
2011/07/07(木) 00:24:04.30ID:4h60ef0Cさせたい事を直接言うとやる気がなくなる現象は心理学的に証明されてて「心理的リアクタンス」って言うらしい
子供が親から「勉強しろ」って言われると勉強したくなくなる法則もこれ
如水は意地悪というより、当時にしてこの事をよく知ってたのかも
0889人間七七四年
2011/07/07(木) 01:06:09.71ID:XbJkCyXQ→水錬大会でも開いて、頑張った家臣を大いに褒めてやるでは、駄目なのか…
0890人間七七四年
2011/07/07(木) 01:17:52.45ID:/83EFVR+如水と水練と言えば、長政と栗山備後と一緒に川でやってる時、
長政遊泳中
如水 「よし、今だあいつを深みに引きこめ!」
栗山 「…………」
如水 「いや、冗談だ冗談」
栗山 「…… (眼がマジだった)」
ていう逸話があったな。
0892人間七七四年
2011/07/07(木) 08:30:55.55ID:tYmVAiAPそれは長政が忠之を殺そうと栗山大膳に命じた逸話だと思うんだが
出典は栗山大膳記で大膳が黒田騒動の評定の時に幕閣にぶっちゃけたという話だが
0893人間七七四年
2011/07/07(木) 18:08:12.49ID:BGXXPD//黒田さんちで「川に落ちる」と来たらバ…若殿の独壇場だと思われるでしょう、が
「ぐわー!」朝鮮の大同江で水中戦している長政の隣では、
菅六之助がふたりの敵兵ともつれ合って川に転がり落ちていました。
気づいた朋輩が駆け寄ってダンゴ状態のまま岸に引っぱり上げたのですが、
そのまま戦闘続行。敵ひとりは水中でほぼ片をつけており、残りの相手も
脇差で一突き。さすがの虎殺しですね。
この人は城井攻めでも、泥田にはまった長政の馬を小川で『心しづかに』
洗う片手間に首級ふたつ挙げてたりします。
「うおー!」そのまた隣で、吉田又助も馬上から川に引き込まれようとしていました。
大指物のついた具足のまま落ちては溺れると危ぶんだ又助は、手綱を片手で握り、
腕一本で敵兵を水中に沈めたり沈められたりしつつ、見事に仕留めました。
このとき助けに行った家人も刀握ったままで泳いでいて、何気にすごい。
そしてあの人も
「ぬわー!」耳川で脇差いっちょの長政が、薩摩兵三人と斬った張ったを
くり広げていた(官兵衛さんのコメント・「お前は匹夫か!葉武者か!」)のを横目に、
後藤又兵衛も大力の侍と揉み合って川に突入です。
組み伏せられて危ういところへ、又兵衛の馬取が加勢に入ってようやく討ち取りました。
「あの馬取の働きで、命を救われたのみならず手柄も挙げられた。
戻ったら良い役に取り立ててやろう」 そう考えていた又兵衛でしたが
『下郎(馬取)は心つたなくて、陣中にて又兵衛の刀、脇差を盗んで逐電しける』m9(^Д^)
戦国の世に水練は必須科目なのです
0894人間七七四年
2011/07/07(木) 18:51:22.38ID:fj6QAun0如水は若いころから毛利の海からの上陸軍を追い返したりとかしてたよな、
そういうところで見てきた経験からも水練の重要性は身に染みてたろう。
0895人間七七四年
2011/07/07(木) 20:05:04.55ID:M8Pq4D+j0896人間七七四年
2011/07/07(木) 23:28:13.29ID:4Yq/49Sh今より橋がかかってる比率も少ないだろうし
舟から落ちたり舟ひっくり返ったりした時、泳げりゃ助かる可能性もあるし
0897人間七七四年
2011/07/08(金) 01:20:37.19ID:kwHm9d3A0898人間七七四年
2011/07/08(金) 07:58:10.94ID:9d2pSoHL和装で戦支度してればなお更キツイとは思う
0899人間七七四年
2011/07/08(金) 08:32:14.83ID:ngnUm5YJもしそうなら戦後に川岸に行って鎧兜集めまくれば一財産築けそうだな
0900人間七七四年
2011/07/08(金) 08:42:51.67ID:EiTKhsl10901人間七七四年
2011/07/08(金) 08:48:02.99ID:cfIZJ4Pz0902名無しさん@12周年
2011/07/08(金) 09:04:54.61ID:JOqzgQvX0903人間七七四年
2011/07/08(金) 09:11:10.34ID:05Kpxf63甲冑着たまま泳げる兵だけで編成される超精鋭部隊なんてあったとは到底思えないw
0904人間七七四年
2011/07/08(金) 09:16:10.08ID:SEkE9epT0906名無しさん@12周年
2011/07/08(金) 09:47:39.24ID:JOqzgQvX上杉でも徳川でも訓練の記録の中に水練もあるよ
それをこなせなければ従軍を認めてもらえなかったそうだ
逸話は良くも悪くもなにかしらの教えを説いたものが多いから黒田家の教育は
こんな風だったのかと想像して読んでる
0907人間七七四年
2011/07/08(金) 11:08:12.28ID:SKXrAiI20908人間七七四年
2011/07/08(金) 11:08:14.80ID:+I29EW+00909人間七七四年
2011/07/08(金) 11:59:51.45ID:c9szubKL0910人間七七四年
2011/07/08(金) 12:16:02.92ID:0Fo07en00911人間七七四年
2011/07/08(金) 14:31:58.74ID:DZcWgAwi0912人間七七四年
2011/07/08(金) 14:50:57.58ID:gxNaAD5D0913人間七七四年
2011/07/08(金) 14:59:38.64ID:56INcPSf0914人間七七四年
2011/07/08(金) 19:02:43.85ID:K7A2lEAM右衛門太郎盛親と名乗らせた。
人々はこれで、盛親に長宗我部の家督を譲ることが決まったと思った。
が、元親にはなにか考えがあったのか、盛親の家督相続披露を行わず、
それとは別に
「五郎次郎(元親次男・香川親和)はその領地に蟄居のような形になっており、
さぞ色々と不自由であろう。」
と言って彼の住居である小野の近くを新たに知行として与えた。
さて、これを聞いて、当の五郎次郎は絶望した
「これはどういう事だ!?弥三郎殿(信親)が逝去された上は、私こそが長宗我部の
惣領と成るべきなのに、今になって知行を給わるとは何事だ!?
兄上の一周忌も過ぎ、3年も経っても家督に付いて何の沙汰もなく、ただ訝しく思っていた所に、
『吉良親実、比江山親興などの粛清は、千熊丸を家督にすると父上がおっしゃったのを
諌めたため罰せられたのだ』などという噂も耳に入ったが、そんな馬鹿なことがあるはずがない、
そう言っている者たちの勘違いだと、私はずっと信じてきた。
それなのに今度の千熊丸の元服の有り様は、疑いもなく家督のものである。
私は今はじめて、噂が真実であったと知った!
しかれば、私は父に見放され、弟にその地位を追い越された。
一体何の面目あって、生きて再び人前に顔を晒すことが出来るだろうか。
だからといって自ら首を斬って死ぬのは、不幸であり不義でもある。
この上はただ、閉居して世との交わりを絶つしか無い。」
と、一室に、食事も取らず閉じ籠った。
乳母である吉良五郎兵衛が涙を流して様々に諌めたが一向に聞くこと無く。
やがて心身衰え、終に病床に伏した。
この事は岡豊の元親のもとにも伝えられたが、元親は驚くこともなく、ただ
「療養は緩々とするのが良い。構えて回復を急ぐため、無理な治療はしてはいけない」との
言葉を下しただけであった。
しかし吉良五郎兵衛が「もはや回復の見込み無く、お命も長くありません」としきりに申し上げたため、
元親は篭を飛ばして五郎次郎の元に駆けつけその姿を見れば、もはや意識不明の有様であった。
「これは一体どういう事だ!?」
元親は手を投げ上げて嘆いた。これに吉良五郎兵衛
「最近になってこのような状態になり、私は何度もこれを報告いたしましたが、岡豊から返って来るのは
御子様とも思えないお扱いばかり。情け無い限りです。」
そう、声を上げて泣いた。
元親は返す言葉もなく、親和の耳元に口を当て励ますように言った
「五郎次郎、心持ちはどうだ!?家督はお前に決めたぞ!」
しかし五郎次郎からは、もはや何の反応もなく、ただ眠るようにして終に空しくなったと云う。
「弥三郎に先立たれ、3年の月日も経つや経たずやというのに又、五郎次郎を失ってしまった!
私は一体どうすればいいのか!?」
元親はそう叫び、ただ嘆くばかりであった。
長宗我部元親次男、香川親和の死についての逸話である
(土佐物語)
0915人間七七四年
2011/07/08(金) 19:43:17.98ID:7szqo2P1やっぱり信親失ってからおかしくなってたのか
0916人間七七四年
2011/07/08(金) 20:57:38.68ID:kXqLQR5J四国統一まであと一歩だった英雄がこうまでボケるなんて悲しすぎ
0917人間七七四年
2011/07/08(金) 21:17:26.45ID:EiTKhsl10918人間七七四年
2011/07/08(金) 21:27:14.08ID:iU10HgQ70919人間七七四年
2011/07/08(金) 21:27:26.38ID:/AeZ6XSC信長、光秀、秀吉もそうかな?
0920人間七七四年
2011/07/08(金) 21:32:29.94ID:CUF0qj+e0922人間七七四年
2011/07/08(金) 22:04:37.57ID:ZqBbsuNL自分で蟄居のような形とか言ってるあたり
適当にあしらってたら本当に死ぬとは思わなかったんだろうな
自慢の信親がまさかあんな死を迎えるとは思わなかっただろうし
多分元親的には盛親の家督相続をする前に小遣い(知行)与えて納得させようと
大奮発したつもりなんだろうけど火に油を注いだというか・・・。
そのうえ病気で寝込んでると言うのを自分の気を引こうとしていると思って無視していたんだろうな
0923人間七七四年
2011/07/08(金) 22:36:07.51ID:4htkR0pW0924人間七七四年
2011/07/08(金) 22:45:13.03ID:lEDzmpwN0925人間七七四年
2011/07/08(金) 23:39:19.42ID:cHfL91ij0926人間七七四年
2011/07/09(土) 00:54:50.22ID:qjqzLUTK垣見家純とのエピソードや、元親百箇条を制定したところをみると、決して
耄碌してしまったわけではないとは思うんだけど、やはり晩年の元親は精彩を欠くな・・・。
0927人間七七四年
2011/07/09(土) 07:50:31.07ID:Srq4vzSR0928人間七七四年
2011/07/09(土) 08:20:26.48ID:Utj1GRUbボケみたいなかんじでしっかりしてる時はしっかりしてるけど、
時々おかしくなるみたいな感じだったのかもな
そして、それを矯正できるほどの人材もいなかったとか
0929人間七七四年
2011/07/09(土) 08:31:46.74ID:p+WD1Ggk抗う意思を持つ子供など、無用無用無用無用無用
長男も次男も六男も無駄無駄無駄
by 家康
0930人間七七四年
2011/07/09(土) 08:46:37.98ID:7s4xq2k6馬乗ってでも泳いででも逃げろ
0931人間七七四年
2011/07/09(土) 15:44:19.15ID:McSP37RGこれは・・・元親がボケてた話なの?
親知に冷たくしたのがボケ?親知の危篤を知って涙した部分?
それとも最初からボケてた話?
三回読んでもわからぬ><;
0932人間七七四年
2011/07/09(土) 16:49:37.41ID:wpAaw4U1他家の名跡を継いでるとこも共通してるし、最初から宗家を継がせる気はなかったのかも
元親は晩年ボケたの一言で片付けられちゃうけど、
元親なりに混乱を避けたいと思って打った手だったのやもしれない
0933人間七七四年
2011/07/09(土) 17:17:25.07ID:w8QeQVTG自分の中身が自身の気持ちだけでイッパイになってしまっていて、
他人の事を思いやる余裕も他人の言を受け入れる余裕も無い
当の本人は冷たくしたなんて思ってなかったかもね
0934人間七七四年
2011/07/09(土) 20:29:21.60ID:2GXCmXXo0935人間七七四年
2011/07/09(土) 20:43:08.59ID:0K+QsWmr0936人間七七四年
2011/07/09(土) 20:46:59.07ID:RcqnkF4u他の子がいても他家を継いだ年上の子が出戻ったケースってあるかな?
0937人間七七四年
2011/07/09(土) 20:51:57.88ID:/wW1oDveつまり親和は西香川支配を期待された存在だったわけね。
だから秀吉の四国征伐のあとは、長宗我部に戻った存在だと言っていいわけ。
あまつさえ信親の討ち死にのあと、豊臣秀吉から次男である香川親和に家督を継がせるよう
働きかけがあったのよ。こういう動きがあったから、親和も自分が家督を継承するものと
考えた。
ところが元親は親和ではなく盛親に家督を継がせるため、時間をかけて反対派の粛清まで
やったわけだ。
以上のようなことから、親和には自分が長宗我部を継ぐことへの理由も正当性もあった。
0938人間七七四年
2011/07/09(土) 21:01:41.43ID:Utj1GRUb本能寺後の織田家もそんな感じでないの
信雄は北畠、信孝は神戸に入ってたけどその二人が有力候補だったわけで
養子に入ってるとか大した問題じゃないんじゃないの?
0939人間七七四年
2011/07/09(土) 21:16:38.10ID:4on3RdKi0940人間七七四年
2011/07/09(土) 21:30:29.92ID:/wW1oDveこれは三法師(秀信)が清洲会議の結果信孝の管理下に入り、その後秀吉・織田信雄ラインと
柴田勝家・織田信孝ラインの対立が激しくなり、危機感を感じた秀吉が丹羽長秀、池田勝入と
共同で三法師の家督を廃止し信雄を新たな家督としたため。
0941人間七七四年
2011/07/09(土) 21:52:16.02ID:/GVclcJgゴンベエさえいなければ・・・
0942人間七七四年
2011/07/09(土) 22:49:31.56ID:XARsmpfy『昔』字については、現在の直射日光を避けて育て、蒸してから乾燥させる製法に対し、昔ながらの製法で
作ったからという説と、いわゆる八十八夜、旧暦三月二十日のこと(二十日→廿日→一字にまとめて『昔』)
であり、『初』『後』は茶葉を摘んだのが二十日の前か後かを示す、という説がある。
閑話休題。
「うーむ・・・うまい!これはどこの茶だ?」
宇治代官で、茶師の元締めたる上林掃部丞が献じた抹茶に舌鼓を打った徳川家康は、上林に出所を聞いた。
「はっ!その茶、実は手前の祖母がなかなかの名人にて、自分で摘み、作った茶にございます。」
「この風味、『初昔』などの銘茶にも劣るまいぞ。よし、お主の祖母に褒美として宇治若森の茶畑を与える。
そしてこの茶には、『 祖母昔 』の銘を与えるぞ!」
・・・珍しくGONGENが茶の湯に関わる逸話かと思えば、相変わらずのネーミングセンスで申し訳ないが
永禄以来450年の伝統を誇る老舗・上林春松本店さんに由来書が現存する、ウソのようなホントの話。
ttp://www.shunsho.co.jp/2008/03/matucya02.php
まぁ、名前に騙されず飲んでみてよ!
つ旦 ←銘茶『ババアむかし』
0943人間七七四年
2011/07/09(土) 22:57:13.67ID:Ky9Wq8Ub0944人間七七四年
2011/07/09(土) 22:58:25.91ID:wpAaw4U1四国制覇の夢を叩き潰され、九州で愛息信親を奪われ、建築狂いに駆り出され、
その上後嗣問題にまでくちばしを入れられて正当性を主張されちゃたまったもんじゃないだろ
自分の人生どころか死後まで秀吉の意志のままなんて悲劇を通り越して喜劇だぜ
元親からしたら自分の心中を察しない親和や親和を担ぐ連中は裏切り者に見えたんじゃないだろうか
0945人間七七四年
2011/07/09(土) 23:03:03.94ID:UZBY9zFV0946人間七七四年
2011/07/10(日) 01:03:56.49ID:Jxnn7roW永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重は大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。
佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。
一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。
追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上にむしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。
場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。
0948人間七七四年
2011/07/10(日) 01:05:32.67ID:Jxnn7roW義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すといよいよ統率がままならなくなってきた。
勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の執拗な追撃を食らった。
そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。
以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。
0949人間七七四年
2011/07/10(日) 01:16:03.78ID:tyyRP2Po0950人間七七四年
2011/07/10(日) 03:42:38.29ID:9Uno5LPh那須家の強さもあるだろうけど
0951人間七七四年
2011/07/10(日) 08:39:09.96ID:C5saOIz60952人間七七四年
2011/07/10(日) 20:00:28.55ID:8EqmhZ81「私が死んだ後この黒田家は、負けるはずのない戦に負け、今までの家の名誉を失う事になるのは
必定である!その理由は、殿(黒田長政)だ!
殿の戦でのお振る舞いはあまりにも軽々しい。最前線の先手や鉄砲隊の備に打ち交わり、
まるで物頭のように駆けまわり、いざ開戦となれば一番に駆け入ろうとされる。
皆が知っているように、この戦でもあの戦でも、私はそんな殿を以ての外に叱り飛ばし
奥の本陣の方に追い返したこと、数えきれないほどやってきたものだ。
私が死んだ後には、あのいきり立つ人を叱る人間はいなくなる。
そうなったら殿は思ったとおりに戦働きをしようとするだろう。
そして一番に駆けこみ討ち死にするか、打ち込まれた鉄砲の弾に当たり犬死をされるだろう。
その事を思うと、なにより悲しくてしょうが無いのだ。」
栗山利安、晩年の後悔、というお話。
しかし長政、ここまで信用ないというのは、よほど栗山さんに手を焼かせたのでしょうなw
(古郷物語)
0953人間七七四年
2011/07/10(日) 21:09:44.16ID:0TTBYdH+0954人間七七四年
2011/07/10(日) 21:15:38.64ID:acKouoSN0955人間七七四年
2011/07/10(日) 22:23:54.15ID:Sh0/Fgtg特に黒田家は跡継ぎがアレだし。
0956人間七七四年
2011/07/11(月) 00:29:41.64ID:exXdob9v寛永十四年、大坂の陣から二十二年の後に起こったおそらく最後の戦が島原の乱である。
この大規模な一揆を鎮めるために九州の諸侯に出陣命令が出ました。
もちろん黒田一門も参加することとなりましたが、知っての通り件の突撃大名はすでに故人。
黒田長政には正室との間に三人の息子がいましたが(もう一人側室腹がいますが既に他界)、
長男忠之に本藩を継がせ、三男長興に5万石、四男高政に4万石を継がせていました。
彼らは皆関ヶ原の後に生まれた子であり、もちろん父の戦場での猪ぶりなど知る由もありません。
さて、長男にして本藩を継いだ黒田忠之36歳。
彼は一応大坂の陣に出陣しておりますが、病身のため特に戦功もなく、これが初陣のようなものです。
寛永十五年二月二十一日、黒田・鍋島・有馬などの陣営に一揆軍による夜襲がありました。
忠之のいた本陣は現場からは離れていましたが、彼は陣営を率いて一揆軍を追撃。
しかし、一揆軍は城際まで城内に引き上げるところでした。
忠之は城内に突撃する気満々で重臣郡正大夫に意見を仰ぎます。すると、正大夫
「それもよろしいかもしれませんが、せっかくなので戦歴豊富な黒田美作に相談するのがよろしいかと」
と提案します。さっそく忠之は美作に意見を求めたところ、
「城内にはどんな罠がしかけてあるのかわかりません。
それに、まだ夜も空けそうになくとても危険だと思われます。
城内まで追撃するのはおやめください。」
しかし、追撃する気満々の忠之である。
美作正大夫の二人が止めるのも聞かず馬に鞭を叩きます。
この時、高尾彌五左衛門という男が忠之の馬の口にすがりつきました。
「ええい!離せ離せ!」
いきり立つ忠之は彌五左衛門を怒鳴りつけながら鞭で叩きます。
「絶対に離すでないぞ!」
美作に強く言われた彌五左衛門は必死に馬を抑えつけ、忠之の突撃を阻止したのでした。
後日、冷静になった忠之からとても感謝されたそうです。
0957人間七七四年
2011/07/11(月) 00:57:10.05ID:exXdob9v実は父親そっくりの猪武者ぶりを発揮したのが末息子の黒田高政27歳。
彼は父の形見としてあの一ノ谷兜を貰いうけていました。
件の夜襲の時、高政の陣所も少し現場から離れていましたが、彼が駆け付けた時はまだ退却し始めたところで、
小川のほとりから駆け付けた高政隊に向かって鉄砲を放ちました。
これに高政、体に流れる黒田の血が目覚めたのか、士卒に先立って突撃。
自ら檄を飛ばして一揆衆と戦います。
すると、一揆衆が鍋島隊の攻め口に火をかけ、あたりは一気に明るくなります。
"市正(高政)着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間"、
その一ノ谷兜をめがけて一揆衆は鉄砲を放ちます。このため高政の兜には銃痕が三つあったそうです。
周りの家臣たちは高政を守ろらねばと彼の前に立って一揆衆を攻撃、
これには一揆衆も退却を余儀なくされます。
しかし、いったん火のついた黒田の血は止められるはずもなく、高政は川を渡って追撃しようとします。
さすがにこれはまずいと思った吉田右馬大夫は高政を強くいさめます。
しかし、すっかり興奮した高政はそれくらいでは止まらず、右馬大夫は高政にすがりつきます。
右馬大夫、先ほど一揆衆に石を投げつけられて歯を折られ大流血中。
"此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。"
そういうこともあって右馬大夫はなんとか高政を止める事が出来ました。
夜が明けて、この様子を見ていた幕府の上使は高政の勇戦を褒め称えたそうな。
0958人間七七四年
2011/07/11(月) 09:52:06.74ID:7TC8RFJG0959人間七七四年
2011/07/11(月) 10:50:50.98ID:jCIikCdH0960人間七七四年
2011/07/11(月) 12:36:25.40ID:6OrlSrdq0961人間七七四年
2011/07/11(月) 12:45:04.60ID:fx6EecAZ0962人間七七四年
2011/07/11(月) 21:05:18.20ID:Wasc1/SF0963人間七七四年
2011/07/11(月) 21:10:50.50ID:nF8/ePS9加藤清正、鍋島直茂など、そうそうたる武将が9万の兵で城を囲んだが、城兵の士気は高かった。
秀家「この城は昨年、一度攻略に失敗している。短期で落とさねば、太閤殿下のお叱りを受けよう。」
長政「うむ。見たところ、石垣が我が国のものよりモロい。土台を崩して城壁を壊し、侵入せん。」
直茂「だが、どうやって工兵を城壁まで近づける?」
清正「ふっふっふ、わしに良い考えがある。」
翌日、晋州城下に異様な物体が現れた。大きな亀の甲羅に車輪がついた物が、城に近づいているのだ。
清正「どうですかな?名付けて『亀甲車』!数人が中で押して進む仕組みで、中の者にはツルハシを
持たせてあり申す。これで矢弾を防ぎつつ石垣まで近づき、崩すことが出来ましょう。」
秀家「なるほど・・・!」
亀甲車は清正の言葉通り、矢弾を弾きつつ石垣に取り付いた。
と、ここで城壁から火のついた草束が振って来て、甲羅が一気に燃え上がった。「ぎゃあああああ!!」
秀家「・・・・・・」直茂「・・・・・・」
長政「主計ェ・・・」
清正「ま、まぁ失敗は改めればええんじゃ。」
そこで次は、牛皮を何十枚も甲羅に貼って包んだ。これが上手くいって、今度は焼束をもはね返して
進み、ついに亀甲車は石垣に取り付き、ツルハシを石に突き立てた。
ものの見事に石垣は崩れ、日本軍は崩れて出来た穴に殺到し、6月29日、晋州城攻略に成功した。
・・・のだが。
亀甲車の中の工兵隊は石垣が崩れた際、下敷きになり、一人が生還したそうな。(伊達日記より)
軍記物に時々登場して大戦果を上げるキワモノ、もとい奇想兵器ですが、現実は甘くないようで。
0964人間七七四年
2011/07/11(月) 21:58:09.63ID:MPcYaAv80965人間七七四年
2011/07/11(月) 22:48:18.25ID:DJZHAIl+徳川家康「よし!生き残ったお主は今日から亀甲車と名乗るが良い」
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。