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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0866人間七七四年2011/07/04(月) 17:49:38.24ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。
0867人間七七四年2011/07/04(月) 18:02:16.01ID:jddVtIYZ
黒田如水が、一見何でもない様な事に聞こえるが実は心残る教訓を話していたなかで(ややこしい)、こんな事を申された。
(珍しからざる事の様にて、耳に留まる事共、申されける中に)

「たわけであっても主人の役に立つたわけと言うのがあるもんだ。こういうのは、たわけだと知っていても
つい可愛がっちゃうんだなあ。

一方で優れて利口なのに、主人の役には立たない利口なんてのもあってな、これは利口者と解っていても、
取り扱いが本当にやりにくいんだよ。」

つかえるたわけ、つかえぬ利口、と言うお話
(古郷物語)
0868人間七七四年2011/07/04(月) 18:13:21.12ID:/msZiUJ/
単に賢愚に依らず好き嫌いなだけの気がする
0869人間七七四年2011/07/04(月) 18:19:29.58ID:/msZiUJ/
×賢愚→○有益無益
0870人間七七四年2011/07/04(月) 18:23:00.39ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・
0871人間七七四年2011/07/04(月) 22:49:45.26ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね
0872人間七七四年2011/07/05(火) 17:28:38.26ID:aaZO0zT1
慶長14年(1604)中秋の頃のこと、海路で肥後へ帰国の途にあった加藤清正は、摂津国兵庫の浦(今の神戸あたり)に
船がかかったとき、美しい真円の月が海上に浮かび、また波風もとても静かであったので、鳳金丸という安宅船の
2階に登り、夜すがら月見をした。この時、近習の者たち2名ほどを側近くに召しての夜話のおり、このような事を言った

「去る春の頃のことだ。奥州の政宗が團介という遊女を自国に下し(どうでもいいが原文でも『奥州の正宗』でやっぱり
諱を呼び捨てである。しかも間違えてる)、歌舞伎を興行したことが、家康公のご機嫌を非常に良くした、と言うことを
ほのかに伝え聞いた。

その理由は石田治部少輔らの謀反を難なく退治されて、今は天下をその掌中にされている事であれば、
政宗のような国主が率先して、もはや太刀も刀もいらぬ太平の世だと思い歌舞遊興のみにて月日を過ごせば、
もはや心配することは何も無いと思われたからだ、ということだ。

今、西国に置いてこの清正などは秀吉公のお取立てと言われ、そのうえ秀頼公が大阪に在城されているので、
世間の者も疑わしく思い、家康公も自然と心許なく思われることもあるだろう。

さりながらわしは家康公の御厚恩を忘れることは出来ない。このように肥後一国の主としていただき、その上、
特に常陸介殿(家康の十男・徳川頼宣)を我が聟に仰せ付けられたこと、それらによって当家の御恩は深く、
いささかも二心無き事であれば、いよいよ家康公の御心安く思し召すように、政宗のように帯紐を解いて(警戒をしない、
気を許すの意)、老身を慰め遊び人となって、世間の評判にも、『清正は年寄りになり、また太平の世になったので
武の道を忘れて年月を送っている』と聞かれれば、もはや気遣いすべき人物では毛頭無いと考えられるであろう。

そのようにするのが最も良き分別であると思うが、どうか?」

これを聞いた者たちは皆、御尤と感じ入ったという。

そうして、その頃八幡の國(出雲阿国)という者を熊本まで下し、城下の塩谷町三丁目の武者溜まりにて勧進能を
行い、その能の後で歌舞伎を行わせた。

この時家臣の侍たちは銀子1枚を出して桟敷に置いて見物をし、地下町人たちは八木(米のこと)を見物料として出し、
鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴人の席との間の芝生に設置された庶民の見物席)にてこれを見た。

歌舞伎とはこの國が始めたものであり、その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、その珍しさに集まった
貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、みな押し合いながら見物したそうである。

加藤清正が、熊本で出雲阿国の歌舞伎興行を行うまでの顛末である。
(續撰清正記)
0873人間七七四年2011/07/05(火) 20:56:57.03ID:d+ordKot
どこら辺が悪い話?
0874人間七七四年2011/07/05(火) 21:27:42.24ID:XkOLQgVa
あえて言うなら自分で秀吉公のお取立てと自負しながら
今の豊臣の有様になんとも思わず家康公マンセーなところか?
0875人間七七四年2011/07/05(火) 22:50:55.73ID:cpw3ZNKa
これだけやっても結局改易されたところとか?
0876人間七七四年2011/07/05(火) 23:18:42.48ID:4+rPkVse
どちらにしろいい話の部類ではねーな
0877人間七七四年2011/07/05(火) 23:43:07.03ID:/Wg21lRH
島津氏が薩摩・大隅・日向三州統一に向けて諸大名と対峙していたころ、新納武蔵守忠元は
菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。

菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」

「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」

そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」

“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)


島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」

的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。

“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”

「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。

教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。
0878人間七七四年2011/07/06(水) 11:27:11.94ID:k/0jIAw5
>>872
清正が正宗を呼び捨てて何が悪いんだ?
正宗って清正より偉かったの?
0879人間七七四年2011/07/06(水) 11:40:58.31ID:6FsKodvi
>>878
この時期だと政宗は陸奥守、清正は肥後守。両方延喜式では大国扱いなのでほぼ同格だが、
武家的には陸奥守のほうが重いな。

まあ基本的に相手が同格、あるいはやや下だとしても、この時代官位で呼ぶのが基本常識であり
礼儀だわな。ましてや大名同士の場合は特に。
0880人間七七四年2011/07/06(水) 12:41:36.27ID:PigYNCek
政宗:農民出身の分際で何を・・・
0881人間七七四年2011/07/06(水) 13:02:16.17ID:KMFDXBpH
秀吉:その農民出身のワシに土下座して詫びたのはどこの誰じゃったかなぁ?
0882人間七七四年2011/07/06(水) 13:03:26.19ID:Bm0wOuqR
まあ本人公認の呼称だったんでしょうね。

どういった経緯で全国で『まさむね」』で通るようになったか興味深い。
0883人間七七四年2011/07/06(水) 17:17:34.55ID:Tk4chnLk
秀吉公とか家康公っていう呼び方もまずいと思うんだが
0884人間七七四年2011/07/06(水) 17:38:42.78ID:jdcv1O1m
本人が死んでからでしょ
0885人間七七四年2011/07/06(水) 17:40:17.52ID:EU1fIGWp
こんな夏のさなか、夏の逸話を

黒田如水は常にこのように言っていた
「奉公人は身分の高下に関わらず水練を心得ておきたいものだ」と。

さてそんな如水、夏になると城下に流れる大川に行き、その両岸に大綱をひかせ、自身は
跛の足ながら尻からげにし、綱を伝ってそこを往復。深い淵の箇所では泳ぎ、彼と共に泳ぐものには
「良き心がけである」
と褒めたという。

これは若者たちに水練を習わせたい、という如水の思いからのものであったが、しかし如水は
決して家臣たちに「水練を習え」とは言わなかった。ではどうしたか?

如水はしばしば、深い淵を隔てた対岸に居る者に突然に「誰々をこちらに来させるように!」と呼ばせ、
泳がないものが迷惑するように申し付けた。
(誰々を呼べとて、急に呼ばせ、泳がざる者、迷惑仕る様に申付く)

如水は夏の間そんな川狩を、4・5日に1度はやっていたそうである。

しかし泳げない人には実に困った嫌がらせですなw
そんな意地悪爺さん然とした、黒田如水、夏の風物詩。
(古郷物語)
0886人間七七四年2011/07/06(水) 21:12:38.91ID:+qf0MicG
又兵衛「各々方、あれを見よww大水牛兜が浮いたり沈んだり腹イテェwww」
0887人間七七四年2011/07/07(木) 00:18:53.14ID:w8xL/K7E
自ら率先して渡河作戦すら日常的に鍛錬し、行住坐臥を修行の場とするとは
でも本当に跛だったんですね。
0888人間七七四年2011/07/07(木) 00:24:04.30ID:4h60ef0C
「水練を習え」って直接言うとかえってやる気が出ないと思ったんだろうな

させたい事を直接言うとやる気がなくなる現象は心理学的に証明されてて「心理的リアクタンス」って言うらしい
子供が親から「勉強しろ」って言われると勉強したくなくなる法則もこれ
如水は意地悪というより、当時にしてこの事をよく知ってたのかも
0889人間七七四年2011/07/07(木) 01:06:09.71ID:XbJkCyXQ
ふつうに「みんな水錬を練習しろ!水錬はいいぞ!」
→水錬大会でも開いて、頑張った家臣を大いに褒めてやるでは、駄目なのか…
0890人間七七四年2011/07/07(木) 01:17:52.45ID:/83EFVR+
>>885

如水と水練と言えば、長政と栗山備後と一緒に川でやってる時、
長政遊泳中
如水 「よし、今だあいつを深みに引きこめ!」
栗山 「…………」
如水 「いや、冗談だ冗談」
栗山 「…… (眼がマジだった)」


ていう逸話があったな。
0891人間七七四年2011/07/07(木) 01:20:27.90ID:iFiufm46
>>889
元から得意な家臣が張り切るだけで
下手な家臣は出場しないだろ
0892人間七七四年2011/07/07(木) 08:30:55.55ID:tYmVAiAP
>>890
それは長政が忠之を殺そうと栗山大膳に命じた逸話だと思うんだが
出典は栗山大膳記で大膳が黒田騒動の評定の時に幕閣にぶっちゃけたという話だが
0893人間七七四年2011/07/07(木) 18:08:12.49ID:BGXXPD//
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!
黒田さんちで「川に落ちる」と来たらバ…若殿の独壇場だと思われるでしょう、が

「ぐわー!」朝鮮の大同江で水中戦している長政の隣では、
菅六之助がふたりの敵兵ともつれ合って川に転がり落ちていました。
気づいた朋輩が駆け寄ってダンゴ状態のまま岸に引っぱり上げたのですが、
そのまま戦闘続行。敵ひとりは水中でほぼ片をつけており、残りの相手も
脇差で一突き。さすがの虎殺しですね。
この人は城井攻めでも、泥田にはまった長政の馬を小川で『心しづかに』
洗う片手間に首級ふたつ挙げてたりします。

「うおー!」そのまた隣で、吉田又助も馬上から川に引き込まれようとしていました。
大指物のついた具足のまま落ちては溺れると危ぶんだ又助は、手綱を片手で握り、
腕一本で敵兵を水中に沈めたり沈められたりしつつ、見事に仕留めました。
このとき助けに行った家人も刀握ったままで泳いでいて、何気にすごい。

そしてあの人も

「ぬわー!」耳川で脇差いっちょの長政が、薩摩兵三人と斬った張ったを
くり広げていた(官兵衛さんのコメント・「お前は匹夫か!葉武者か!」)のを横目に、
後藤又兵衛も大力の侍と揉み合って川に突入です。 
組み伏せられて危ういところへ、又兵衛の馬取が加勢に入ってようやく討ち取りました。
「あの馬取の働きで、命を救われたのみならず手柄も挙げられた。
戻ったら良い役に取り立ててやろう」 そう考えていた又兵衛でしたが

『下郎(馬取)は心つたなくて、陣中にて又兵衛の刀、脇差を盗んで逐電しける』m9(^Д^)

戦国の世に水練は必須科目なのです
0894人間七七四年2011/07/07(木) 18:51:22.38ID:fj6QAun0
水辺の戦で負けると死亡率高いからなー、それでも泳げさえすれば助かるケースも多いだろうし
如水は若いころから毛利の海からの上陸軍を追い返したりとかしてたよな、
そういうところで見てきた経験からも水練の重要性は身に染みてたろう。
0895人間七七四年2011/07/07(木) 20:05:04.55ID:M8Pq4D+j
水の如しってな
0896人間七七四年2011/07/07(木) 23:28:13.29ID:4Yq/49Sh
戦で川渡ることも多いしねー
今より橋がかかってる比率も少ないだろうし
舟から落ちたり舟ひっくり返ったりした時、泳げりゃ助かる可能性もあるし
0897人間七七四年2011/07/08(金) 01:20:37.19ID:kwHm9d3A
たしか大内晴持も敗走中の溺死だったな
0898人間七七四年2011/07/08(金) 07:58:10.94ID:9d2pSoHL
着衣水泳は洋装でも難しいからなぁ〜
和装で戦支度してればなお更キツイとは思う
0899人間七七四年2011/07/08(金) 08:32:14.83ID:ngnUm5YJ
戦に負け潰走して泳がなければならん時鎧兜はその場に廃棄するのか?
もしそうなら戦後に川岸に行って鎧兜集めまくれば一財産築けそうだな
0900人間七七四年2011/07/08(金) 08:42:51.67ID:EiTKhsl1
俺なら奪われるぐらいなら川の中に捨てる
0901人間七七四年2011/07/08(金) 08:48:02.99ID:cfIZJ4Pz
古式泳法で甲冑を着たまま泳ぐ方法ってのがあったような
0902名無しさん@12周年2011/07/08(金) 09:04:54.61ID:JOqzgQvX
普通、鎧つけたまま泳げない兵は従軍しない
0903人間七七四年2011/07/08(金) 09:11:10.34ID:05Kpxf63
現実には弓鉄砲すらろくに使えない素人が軍役の人数を揃えるために相当混じっていたのであって
甲冑着たまま泳げる兵だけで編成される超精鋭部隊なんてあったとは到底思えないw
0904人間七七四年2011/07/08(金) 09:16:10.08ID:SEkE9epT
負け戦のとき川で溺死するのがおおいしやっぱ泳げないひとがおおいのかなあ
0905人間七七四年2011/07/08(金) 09:17:25.22ID:9d2pSoHL
>>902
それが普通なら>>885みたいな話にはならないんじゃないのかな? っと思った
0906名無しさん@12周年2011/07/08(金) 09:47:39.24ID:JOqzgQvX
>>905
上杉でも徳川でも訓練の記録の中に水練もあるよ
それをこなせなければ従軍を認めてもらえなかったそうだ
逸話は良くも悪くもなにかしらの教えを説いたものが多いから黒田家の教育は
こんな風だったのかと想像して読んでる
0907人間七七四年2011/07/08(金) 11:08:12.28ID:SKXrAiI2
万単位の人間すべてが泳げたわけじゃないだろうが、泳げるような訓練はしてたんだろうな
0908人間七七四年2011/07/08(金) 11:08:14.80ID:+I29EW+0
武術できなくてもいいから、乗馬と水泳だけはやっとけって家康が子供たちに言ってたってね
0909人間七七四年2011/07/08(金) 11:59:51.45ID:c9szubKL
今で言えば車の免許は取っておけよってことか
0910人間七七四年2011/07/08(金) 12:16:02.92ID:0Fo07en0
宇喜多秀家がアップをはじめました
0911人間七七四年2011/07/08(金) 14:31:58.74ID:DZcWgAwi
平宗盛卿がアップをはじめました
0912人間七七四年2011/07/08(金) 14:50:57.58ID:gxNaAD5D
明智左馬之助が乗馬だけで充分と言ってますが
0913人間七七四年2011/07/08(金) 14:59:38.64ID:56INcPSf
沈めてしまえ
0914人間七七四年2011/07/08(金) 19:02:43.85ID:K7A2lEAM
天正16年(1588)、長宗我部元親は京において四男の千熊丸を、増田長盛を烏帽子親として元服させ、
右衛門太郎盛親と名乗らせた。
人々はこれで、盛親に長宗我部の家督を譲ることが決まったと思った。
が、元親にはなにか考えがあったのか、盛親の家督相続披露を行わず、
それとは別に

「五郎次郎(元親次男・香川親和)はその領地に蟄居のような形になっており、
さぞ色々と不自由であろう。」

と言って彼の住居である小野の近くを新たに知行として与えた。
さて、これを聞いて、当の五郎次郎は絶望した

「これはどういう事だ!?弥三郎殿(信親)が逝去された上は、私こそが長宗我部の
惣領と成るべきなのに、今になって知行を給わるとは何事だ!?

兄上の一周忌も過ぎ、3年も経っても家督に付いて何の沙汰もなく、ただ訝しく思っていた所に、
『吉良親実、比江山親興などの粛清は、千熊丸を家督にすると父上がおっしゃったのを
諌めたため罰せられたのだ』などという噂も耳に入ったが、そんな馬鹿なことがあるはずがない、
そう言っている者たちの勘違いだと、私はずっと信じてきた。

それなのに今度の千熊丸の元服の有り様は、疑いもなく家督のものである。
私は今はじめて、噂が真実であったと知った!

しかれば、私は父に見放され、弟にその地位を追い越された。
一体何の面目あって、生きて再び人前に顔を晒すことが出来るだろうか。
だからといって自ら首を斬って死ぬのは、不幸であり不義でもある。
この上はただ、閉居して世との交わりを絶つしか無い。」

と、一室に、食事も取らず閉じ籠った。
乳母である吉良五郎兵衛が涙を流して様々に諌めたが一向に聞くこと無く。
やがて心身衰え、終に病床に伏した。

この事は岡豊の元親のもとにも伝えられたが、元親は驚くこともなく、ただ
「療養は緩々とするのが良い。構えて回復を急ぐため、無理な治療はしてはいけない」との
言葉を下しただけであった。

しかし吉良五郎兵衛が「もはや回復の見込み無く、お命も長くありません」としきりに申し上げたため、
元親は篭を飛ばして五郎次郎の元に駆けつけその姿を見れば、もはや意識不明の有様であった。

「これは一体どういう事だ!?」

元親は手を投げ上げて嘆いた。これに吉良五郎兵衛
「最近になってこのような状態になり、私は何度もこれを報告いたしましたが、岡豊から返って来るのは
御子様とも思えないお扱いばかり。情け無い限りです。」
そう、声を上げて泣いた。

元親は返す言葉もなく、親和の耳元に口を当て励ますように言った

「五郎次郎、心持ちはどうだ!?家督はお前に決めたぞ!」

しかし五郎次郎からは、もはや何の反応もなく、ただ眠るようにして終に空しくなったと云う。

「弥三郎に先立たれ、3年の月日も経つや経たずやというのに又、五郎次郎を失ってしまった!
私は一体どうすればいいのか!?」

元親はそう叫び、ただ嘆くばかりであった。

長宗我部元親次男、香川親和の死についての逸話である
(土佐物語)
0915人間七七四年2011/07/08(金) 19:43:17.98ID:7szqo2P1
元親の本心がどこにあったのかよく分からんな
やっぱり信親失ってからおかしくなってたのか
0916人間七七四年2011/07/08(金) 20:57:38.68ID:kXqLQR5J
長宗我部家の衰亡は全部、元親が原因なんだな
四国統一まであと一歩だった英雄がこうまでボケるなんて悲しすぎ
0917人間七七四年2011/07/08(金) 21:17:26.45ID:EiTKhsl1
長宗我部家は元親が育て上げて自分でぶち壊したな
0918人間七七四年2011/07/08(金) 21:27:14.08ID:iU10HgQ7
クマーと同じだね。
0919人間七七四年2011/07/08(金) 21:27:26.38ID:/AeZ6XSC
一代でのし上がって、一代で墜ちる、か。
信長、光秀、秀吉もそうかな?
0920人間七七四年2011/07/08(金) 21:32:29.94ID:CUF0qj+e
信長は違うでしょ
0921人間七七四年2011/07/08(金) 21:54:36.18ID:K7A2lEAM
>>914
間違えてるー。8段落目の2行目

×乳母である吉良五郎兵衛
◯乳夫である吉良五郎兵衛

スマン
0922人間七七四年2011/07/08(金) 22:04:37.57ID:ZqBbsuNL
信親が居た頃から家督を継がせる嫡子以外には興味がなく
自分で蟄居のような形とか言ってるあたり
適当にあしらってたら本当に死ぬとは思わなかったんだろうな
自慢の信親がまさかあんな死を迎えるとは思わなかっただろうし
多分元親的には盛親の家督相続をする前に小遣い(知行)与えて納得させようと
大奮発したつもりなんだろうけど火に油を注いだというか・・・。
そのうえ病気で寝込んでると言うのを自分の気を引こうとしていると思って無視していたんだろうな
0923人間七七四年2011/07/08(金) 22:36:07.51ID:4htkR0pW
信親を失った後の元親は見るに耐えないな・・・
0924人間七七四年2011/07/08(金) 22:45:13.03ID:lEDzmpwN
悲劇だな
0925人間七七四年2011/07/08(金) 23:39:19.42ID:cHfL91ij
まあな。
0926人間七七四年2011/07/09(土) 00:54:50.22ID:qjqzLUTK
>>923
垣見家純とのエピソードや、元親百箇条を制定したところをみると、決して
耄碌してしまったわけではないとは思うんだけど、やはり晩年の元親は精彩を欠くな・・・。
0927人間七七四年2011/07/09(土) 07:50:31.07ID:Srq4vzSR
子供は一人だけを可愛がりすぎてはいけないという教訓ですな
0928人間七七四年2011/07/09(土) 08:20:26.48ID:Utj1GRUb
>>926
ボケみたいなかんじでしっかりしてる時はしっかりしてるけど、
時々おかしくなるみたいな感じだったのかもな

そして、それを矯正できるほどの人材もいなかったとか
0929人間七七四年2011/07/09(土) 08:31:46.74ID:p+WD1Ggk
子供など、我の操り人形に過ぎないのにな。
抗う意思を持つ子供など、無用無用無用無用無用

長男も次男も六男も無駄無駄無駄




by 家康
0930人間七七四年2011/07/09(土) 08:46:37.98ID:7s4xq2k6
でも、俺の許可無く死ぬな
馬乗ってでも泳いででも逃げろ
0931人間七七四年2011/07/09(土) 15:44:19.15ID:McSP37RG
>>914
これは・・・元親がボケてた話なの?
親知に冷たくしたのがボケ?親知の危篤を知って涙した部分?
それとも最初からボケてた話?
三回読んでもわからぬ><;
0932人間七七四年2011/07/09(土) 16:49:37.41ID:wpAaw4U1
親和のポジションは徳川の結城さんに相当するんじゃないかな
他家の名跡を継いでるとこも共通してるし、最初から宗家を継がせる気はなかったのかも
元親は晩年ボケたの一言で片付けられちゃうけど、
元親なりに混乱を避けたいと思って打った手だったのやもしれない
0933人間七七四年2011/07/09(土) 17:17:25.07ID:w8QeQVTG
ボケというよりは感性が麻痺していたように思えるな
自分の中身が自身の気持ちだけでイッパイになってしまっていて、
他人の事を思いやる余裕も他人の言を受け入れる余裕も無い
当の本人は冷たくしたなんて思ってなかったかもね
0934人間七七四年2011/07/09(土) 20:29:21.60ID:2GXCmXXo
親知って既に他家の家督継いでんでしょ?なのに本家の家督を継げると思ってたってのが腑に落ちない。
0935人間七七四年2011/07/09(土) 20:43:08.59ID:0K+QsWmr
他家の家督を継いでも、本家に相続する人がいなくて出戻りしちゃうケースはあるでしょ
0936人間七七四年2011/07/09(土) 20:46:59.07ID:RcqnkF4u
いなけりゃでしょ?いるじゃん。
他の子がいても他家を継いだ年上の子が出戻ったケースってあるかな?
0937人間七七四年2011/07/09(土) 20:51:57.88ID:/wW1oDve
つーか香川親和の継いだ香川家は、その名のとおり讃岐の守護代家であって、
つまり親和は西香川支配を期待された存在だったわけね。
だから秀吉の四国征伐のあとは、長宗我部に戻った存在だと言っていいわけ。

あまつさえ信親の討ち死にのあと、豊臣秀吉から次男である香川親和に家督を継がせるよう
働きかけがあったのよ。こういう動きがあったから、親和も自分が家督を継承するものと
考えた。

ところが元親は親和ではなく盛親に家督を継がせるため、時間をかけて反対派の粛清まで
やったわけだ。

以上のようなことから、親和には自分が長宗我部を継ぐことへの理由も正当性もあった。
0938人間七七四年2011/07/09(土) 21:01:41.43ID:Utj1GRUb
937が言うような事情がなくともあるんじゃない?
本能寺後の織田家もそんな感じでないの
信雄は北畠、信孝は神戸に入ってたけどその二人が有力候補だったわけで
養子に入ってるとか大した問題じゃないんじゃないの?
0939人間七七四年2011/07/09(土) 21:16:38.10ID:4on3RdKi
ふたりとも織田にすでに復しとる
0940人間七七四年2011/07/09(土) 21:30:29.92ID:/wW1oDve
ついでにいうと織田信雄は賤ヶ岳の前に「織田家家督」を継いでいる。

これは三法師(秀信)が清洲会議の結果信孝の管理下に入り、その後秀吉・織田信雄ラインと
柴田勝家・織田信孝ラインの対立が激しくなり、危機感を感じた秀吉が丹羽長秀、池田勝入と
共同で三法師の家督を廃止し信雄を新たな家督としたため。
0941人間七七四年2011/07/09(土) 21:52:16.02ID:/GVclcJg
まぁ何にせよ、やつさえいなければ・・・

ゴンベエさえいなければ・・・
0942人間七七四年2011/07/09(土) 22:49:31.56ID:XARsmpfy
銘茶として知られる宇治の抹茶の中でも、最高峰のものを『初昔』『後昔』という。

『昔』字については、現在の直射日光を避けて育て、蒸してから乾燥させる製法に対し、昔ながらの製法で
作ったからという説と、いわゆる八十八夜、旧暦三月二十日のこと(二十日→廿日→一字にまとめて『昔』)
であり、『初』『後』は茶葉を摘んだのが二十日の前か後かを示す、という説がある。

閑話休題。

「うーむ・・・うまい!これはどこの茶だ?」
宇治代官で、茶師の元締めたる上林掃部丞が献じた抹茶に舌鼓を打った徳川家康は、上林に出所を聞いた。

「はっ!その茶、実は手前の祖母がなかなかの名人にて、自分で摘み、作った茶にございます。」
「この風味、『初昔』などの銘茶にも劣るまいぞ。よし、お主の祖母に褒美として宇治若森の茶畑を与える。

そしてこの茶には、『 祖母昔 』の銘を与えるぞ!」


・・・珍しくGONGENが茶の湯に関わる逸話かと思えば、相変わらずのネーミングセンスで申し訳ないが
永禄以来450年の伝統を誇る老舗・上林春松本店さんに由来書が現存する、ウソのようなホントの話。
ttp://www.shunsho.co.jp/2008/03/matucya02.php

まぁ、名前に騙されず飲んでみてよ!

つ旦  ←銘茶『ババアむかし』
0943人間七七四年2011/07/09(土) 22:57:13.67ID:Ky9Wq8Ub
茶器にも「祖母懐焼」とかあるので、当時としてはそんな変な名前でもないと思う。
0944人間七七四年2011/07/09(土) 22:58:25.91ID:wpAaw4U1
親和は自分こそ、な気持ちだったのかもしれんが元親は違う心境だわな
四国制覇の夢を叩き潰され、九州で愛息信親を奪われ、建築狂いに駆り出され、
その上後嗣問題にまでくちばしを入れられて正当性を主張されちゃたまったもんじゃないだろ
自分の人生どころか死後まで秀吉の意志のままなんて悲劇を通り越して喜劇だぜ
元親からしたら自分の心中を察しない親和や親和を担ぐ連中は裏切り者に見えたんじゃないだろうか
0945人間七七四年2011/07/09(土) 23:03:03.94ID:UZBY9zFV
盛親が正室の子だったからだよ
0946人間七七四年2011/07/10(日) 01:03:56.49ID:Jxnn7roW
降参峰


永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重は大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。

佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。

一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅も宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。

追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上にむしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。

場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。
0947人間七七四年2011/07/10(日) 01:05:12.41ID:X6OLmRwL
>>940
ただし、これは秀吉や丹羽らに織田家の家督をどうこうする権利があったのか?という点があるけどね
0948人間七七四年2011/07/10(日) 01:05:32.67ID:Jxnn7roW

義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すといよいよ統率がままならなくなってきた。

勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の執拗な追撃を食らった。

そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。


以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。
0949人間七七四年2011/07/10(日) 01:16:03.78ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。
0950人間七七四年2011/07/10(日) 03:42:38.29ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど
0951人間七七四年2011/07/10(日) 08:39:09.96ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w
0952人間七七四年2011/07/10(日) 20:00:28.55ID:8EqmhZ81
黒田家の重臣、栗山備後利安には、いつも悔いている事があった。

「私が死んだ後この黒田家は、負けるはずのない戦に負け、今までの家の名誉を失う事になるのは
必定である!その理由は、殿(黒田長政)だ!

殿の戦でのお振る舞いはあまりにも軽々しい。最前線の先手や鉄砲隊の備に打ち交わり、
まるで物頭のように駆けまわり、いざ開戦となれば一番に駆け入ろうとされる。

皆が知っているように、この戦でもあの戦でも、私はそんな殿を以ての外に叱り飛ばし
奥の本陣の方に追い返したこと、数えきれないほどやってきたものだ。

私が死んだ後には、あのいきり立つ人を叱る人間はいなくなる。
そうなったら殿は思ったとおりに戦働きをしようとするだろう。
そして一番に駆けこみ討ち死にするか、打ち込まれた鉄砲の弾に当たり犬死をされるだろう。

その事を思うと、なにより悲しくてしょうが無いのだ。」

栗山利安、晩年の後悔、というお話。
しかし長政、ここまで信用ないというのは、よほど栗山さんに手を焼かせたのでしょうなw
(古郷物語)
0953人間七七四年2011/07/10(日) 21:09:44.16ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな
0954人間七七四年2011/07/10(日) 21:15:38.64ID:acKouoSN
安心と信頼の黒田家クオリティ
0955人間七七四年2011/07/10(日) 22:23:54.15ID:Sh0/Fgtg
この時代は大将が討ち死にしたらだいたい負け戦だからな
特に黒田家は跡継ぎがアレだし。
0956人間七七四年2011/07/11(月) 00:29:41.64ID:exXdob9v
ハイハイ、安心と信頼の黒田家クオリティ次世代編だよ。

寛永十四年、大坂の陣から二十二年の後に起こったおそらく最後の戦が島原の乱である。
この大規模な一揆を鎮めるために九州の諸侯に出陣命令が出ました。
もちろん黒田一門も参加することとなりましたが、知っての通り件の突撃大名はすでに故人。
黒田長政には正室との間に三人の息子がいましたが(もう一人側室腹がいますが既に他界)、
長男忠之に本藩を継がせ、三男長興に5万石、四男高政に4万石を継がせていました。
彼らは皆関ヶ原の後に生まれた子であり、もちろん父の戦場での猪ぶりなど知る由もありません。

さて、長男にして本藩を継いだ黒田忠之36歳。
彼は一応大坂の陣に出陣しておりますが、病身のため特に戦功もなく、これが初陣のようなものです。
寛永十五年二月二十一日、黒田・鍋島・有馬などの陣営に一揆軍による夜襲がありました。
忠之のいた本陣は現場からは離れていましたが、彼は陣営を率いて一揆軍を追撃。
しかし、一揆軍は城際まで城内に引き上げるところでした。
忠之は城内に突撃する気満々で重臣郡正大夫に意見を仰ぎます。すると、正大夫
「それもよろしいかもしれませんが、せっかくなので戦歴豊富な黒田美作に相談するのがよろしいかと」
と提案します。さっそく忠之は美作に意見を求めたところ、
「城内にはどんな罠がしかけてあるのかわかりません。
それに、まだ夜も空けそうになくとても危険だと思われます。
城内まで追撃するのはおやめください。」
しかし、追撃する気満々の忠之である。
美作正大夫の二人が止めるのも聞かず馬に鞭を叩きます。
この時、高尾彌五左衛門という男が忠之の馬の口にすがりつきました。
「ええい!離せ離せ!」
いきり立つ忠之は彌五左衛門を怒鳴りつけながら鞭で叩きます。
「絶対に離すでないぞ!」
美作に強く言われた彌五左衛門は必死に馬を抑えつけ、忠之の突撃を阻止したのでした。
後日、冷静になった忠之からとても感謝されたそうです。
0957人間七七四年2011/07/11(月) 00:57:10.05ID:exXdob9v
そんなわけで家臣に止められて突撃を控えた長男ですが、
実は父親そっくりの猪武者ぶりを発揮したのが末息子の黒田高政27歳。
彼は父の形見としてあの一ノ谷兜を貰いうけていました。

件の夜襲の時、高政の陣所も少し現場から離れていましたが、彼が駆け付けた時はまだ退却し始めたところで、
小川のほとりから駆け付けた高政隊に向かって鉄砲を放ちました。
これに高政、体に流れる黒田の血が目覚めたのか、士卒に先立って突撃。
自ら檄を飛ばして一揆衆と戦います。
すると、一揆衆が鍋島隊の攻め口に火をかけ、あたりは一気に明るくなります。
"市正(高政)着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間"、
その一ノ谷兜をめがけて一揆衆は鉄砲を放ちます。このため高政の兜には銃痕が三つあったそうです。
周りの家臣たちは高政を守ろらねばと彼の前に立って一揆衆を攻撃、
これには一揆衆も退却を余儀なくされます。
しかし、いったん火のついた黒田の血は止められるはずもなく、高政は川を渡って追撃しようとします。
さすがにこれはまずいと思った吉田右馬大夫は高政を強くいさめます。
しかし、すっかり興奮した高政はそれくらいでは止まらず、右馬大夫は高政にすがりつきます。
右馬大夫、先ほど一揆衆に石を投げつけられて歯を折られ大流血中。
"此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。"
そういうこともあって右馬大夫はなんとか高政を止める事が出来ました。
夜が明けて、この様子を見ていた幕府の上使は高政の勇戦を褒め称えたそうな。
0958人間七七四年2011/07/11(月) 09:52:06.74ID:7TC8RFJG
如水も跛じゃなかったら突撃馬鹿になっていたんだろうな
0959人間七七四年2011/07/11(月) 10:50:50.98ID:jCIikCdH
外交・調略の部分で突撃馬鹿と言われても仕方ない面はあるな
0960人間七七四年2011/07/11(月) 12:36:25.40ID:6OrlSrdq
つまり性格が突撃馬鹿なんだな
0961人間七七四年2011/07/11(月) 12:45:04.60ID:fx6EecAZ
それで兜飾りが牛の角ってのが面白いね
0962人間七七四年2011/07/11(月) 21:05:18.20ID:Wasc1/SF
「兜飾り」って五月人形かよ。
0963人間七七四年2011/07/11(月) 21:10:50.50ID:nF8/ePS9
文禄2年(1593)6月、文禄の役において、日本軍は要衝・晋州城を攻略した。宇喜多秀家、黒田長政、
加藤清正、鍋島直茂など、そうそうたる武将が9万の兵で城を囲んだが、城兵の士気は高かった。

秀家「この城は昨年、一度攻略に失敗している。短期で落とさねば、太閤殿下のお叱りを受けよう。」
長政「うむ。見たところ、石垣が我が国のものよりモロい。土台を崩して城壁を壊し、侵入せん。」
直茂「だが、どうやって工兵を城壁まで近づける?」
清正「ふっふっふ、わしに良い考えがある。」

翌日、晋州城下に異様な物体が現れた。大きな亀の甲羅に車輪がついた物が、城に近づいているのだ。

清正「どうですかな?名付けて『亀甲車』!数人が中で押して進む仕組みで、中の者にはツルハシを
持たせてあり申す。これで矢弾を防ぎつつ石垣まで近づき、崩すことが出来ましょう。」
秀家「なるほど・・・!」

亀甲車は清正の言葉通り、矢弾を弾きつつ石垣に取り付いた。
と、ここで城壁から火のついた草束が振って来て、甲羅が一気に燃え上がった。「ぎゃあああああ!!」

秀家「・・・・・・」直茂「・・・・・・」
長政「主計ェ・・・」
清正「ま、まぁ失敗は改めればええんじゃ。」

そこで次は、牛皮を何十枚も甲羅に貼って包んだ。これが上手くいって、今度は焼束をもはね返して
進み、ついに亀甲車は石垣に取り付き、ツルハシを石に突き立てた。
ものの見事に石垣は崩れ、日本軍は崩れて出来た穴に殺到し、6月29日、晋州城攻略に成功した。

・・・のだが。
亀甲車の中の工兵隊は石垣が崩れた際、下敷きになり、一人が生還したそうな。(伊達日記より)

軍記物に時々登場して大戦果を上げるキワモノ、もとい奇想兵器ですが、現実は甘くないようで。
0964人間七七四年2011/07/11(月) 21:58:09.63ID:MPcYaAv8
言うのは簡単、やるのは大変。
0965人間七七四年2011/07/11(月) 22:48:18.25ID:DJZHAIl+
>亀甲車の中の工兵隊は石垣が崩れた際、下敷きになり、一人が生還したそうな。

徳川家康「よし!生き残ったお主は今日から亀甲車と名乗るが良い」
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。