戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0082人間七七四年
2011/05/08(日) 01:23:33.45ID:pzgbJH76匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
0085人間七七四年
2011/05/08(日) 01:30:00.26ID:CWGiIk4Lこの報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。
が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw
が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。
彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った
「俺の城を返せ!」
義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」
これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。
確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。
滝川義太夫はこう返答した
「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」
全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。
が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。
情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。
0087人間七七四年
2011/05/08(日) 02:20:25.32ID:63gkkJk4秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
0088人間七七四年
2011/05/08(日) 02:37:11.47ID:tBaDcalj0089人間七七四年
2011/05/08(日) 08:43:51.60ID:4jEqj5/V0090人間七七四年
2011/05/08(日) 08:58:54.30ID:iz42pG+B目端は利くけど保身がヘタクソなというか
0091人間七七四年
2011/05/08(日) 11:29:19.17ID:oUUM7OrLそれとも大阪の陣?
0093人間七七四年
2011/05/08(日) 13:47:30.50ID:Yxzp1z0j大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね
0094人間七七四年
2011/05/08(日) 20:05:58.27ID:eAI+U6WX余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており〜」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…
0096人間七七四年
2011/05/08(日) 21:22:24.10ID:sSdH1ro8天正14年3月3日
是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、之を捕へ自殺せしむ
どうも大名衆の息子4,5人が千人斬り目指して、大阪で人を殺しまわっていて、すでに5,60人も死者が出てから捕まったみたい。
多聞院日記の同年2月21日に大谷紀之介が、悪瘡を治すために千人斬りをして、殺した人の血を啜っているらしい、と書いてあるけど、この記述のあとに大谷紀之介のことはただの噂だったね、とあるんで疑いは晴れたようです。
宇喜多次郎九郎がどういう人物なのか不明だけど、そうある姓じゃないんで秀家の親戚だろうね。
0097人間七七四年
2011/05/08(日) 21:27:22.89ID:iz42pG+B0098人間七七四年
2011/05/08(日) 21:36:01.84ID:h0W2Azpy0099人間七七四年
2011/05/08(日) 21:37:08.96ID:VboUssdr0100人間七七四年
2011/05/08(日) 21:55:07.07ID:FR4+IJt/出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく信憑性は薄いと思われます。
まあ、民間の伝説の一つだと思って、かるーい気持ちで読んで下さい。
それでは本編をどうぞ。タイトルは『田土部合戦〜小田さんの勝ち戦〜』。
天正元年四月十一日。手這坂でボコボコにされ、砦台でもボコボコにされ、藤沢の城に落ちのびていた小田氏治。
それを今度こそ攻め滅ぼさんと、梶原美濃守景国、北条出雲守治高、真壁入道道夢といったいつもの対小田メンバーがおよそ一千騎を従え藤沢へと出発しました。
これに対し小田勢は菅谷、由良、行方刑部少輔などが一千騎を率いて迎え撃つ構えを見せました。もちろん、この存亡を賭けた戦に、当主の小田氏治さんも自ら兵を率いて出陣します。
梶原勢と小田勢は田土部川で遭遇。川を挟んで対峙することになりました。しかし、総大将は我らが小田さんです。
「対峙などしていられない、すぐに出撃だ!」
敵の目の前で渡河を始めました。現在の茨城県に田土部川という川は無いので、後世に残らないぐらい小さな川だったのかもしれませんが、それでも渡河は渡河です。梶原勢もチャンスとばかりに矢を射かけます。
しかし、あろうことか小田勢は対岸へ辿り着き梶原勢へ突入。鬼神の如き強さで敵を押しまくり、北条出雲守治高の息子、犬五郎を討ち取り梶原勢を小田城まで押し返すという大勝利を収めました。
(続く)
0101人間七七四年
2011/05/08(日) 21:59:01.27ID:eAI+U6WXそうとう前の分家かなあ
0102人間七七四年
2011/05/08(日) 21:59:39.63ID:FR4+IJt/この敗戦において、梶原勢の石島駿河という人がただ一騎になって撤退していました。それを小田勢の伊渡賀正兵衛の子、伊渡賀甚助と、大塚道雲の子、大塚虎之助の二人が見つけます。
「いくぞ、虎之助! マグネットパワー・プラス!」
「任せろ甚助! マグネットパワー・マイナス!」
「「クロスボンバー!」」
甚助と虎之助は石島駿河を挟み撃ちにして槍で突きました。ところが運が良かったのか、穂先は草摺の合わせ目に当たり、石島駿河はほとんど無傷でそのまま逃げていきました。
さてその後、手柄を逃した甚助と虎之助は呑気なもので、自陣でこのことを色んな人に話していました。
「いやぁ、鍋の中の鳥を打ちもらしちゃったよ」
「ほんとほんと。運が悪かったぜ」
これを聞いたのが彼らの親です。自分の子供が手柄を立てられず、中途半端に傷を負わせて敵を逃がしたのが恥ずかしかったのでしょうか。すぐに手紙を書くと使いを出して石島駿河に送りました。
届いた手紙には次のようなことが書かれていたといいます。
「今回はウチのバカ息子たちの若気の至りであなたを討ちもらしてしまいました。お怪我は大丈夫ですか?」
(原文:こなたの倅共、若気故に貴殿を討ちもらし候。手疵は如何に候や)
これを読んだ石島駿河も、律義に手紙を返しました。
「わざわざお手紙ありがとうございます。お宅の息子さんたちがへっぴり腰だったおかげで助かりました。まあ、大した怪我ではありません。次の戦場で機会があったら、また槍を合わせましょう」
(原文:御使かたじけなし。御子息たち腰がぬけ、この石島駿河助かり候。手疵なるほど軽く候。お気遣いあるまじく候。重ねて一戦の節、返礼申さん)
息子の尻拭いを親がするのと、勝ち戦でもどこか抜けてる小田勢のしまりの悪い話。
0103人間七七四年
2011/05/08(日) 22:10:07.83ID:5GjxMXKN0104人間七七四年
2011/05/08(日) 22:53:19.40ID:JUCNKalk楽しんごが大切にコレクションしていた、大量のホモDVDを売却し、
その金を義援金として日赤に送っていたそうです。
本人は「僕お金無いのでこの程度のことしか・・・」とコメント。
芸人仲間の間では話題になってます。
0105人間七七四年
2011/05/08(日) 23:06:31.09ID:EU92LFgIあと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…
0106人間七七四年
2011/05/09(月) 01:06:05.01ID:KESICShn大将の戦略戦術があれだから局地戦で挽回するしかなかったのか。
0107人間七七四年
2011/05/09(月) 01:16:38.63ID:4DirppR1小競り合いには強いと思う。那須さんのところとか
0108人間七七四年
2011/05/09(月) 01:40:03.60ID:USX/iMwo0109人間七七四年
2011/05/09(月) 01:55:26.78ID:1m0vamNm義重からしたらなんで調略できないのかわからんかったろうな
0110人間七七四年
2011/05/09(月) 12:26:57.00ID:nINtvDaI他家の連中はもっと嫌いとかなのかね
0111人間七七四年
2011/05/09(月) 13:53:29.77ID:veRne1dA初期の徳川(松平)でも同じことやってるので、
1国以下の大名系は大体そう。
0112人間七七四年
2011/05/09(月) 19:00:46.64ID:XB4kshqF0113人間七七四年
2011/05/09(月) 21:35:29.50ID:QF8TEyaG0114人間七七四年
2011/05/10(火) 09:48:25.57ID:h7GnXY96事もあろうに大阪方総大将たる織田有楽斎であった。
大阪城の人々はこの有楽の行動に大いに疑念を持った。が、ともかくも和議は成り
戦争は終わった。
すると有楽は駿府の本多正純に使者を出し
『今回、入道(有楽)は思いもかけず大阪の城に籠ることになりました。
そこで私は大阪を脱出してそちらの御陣に馳せ参じようとしたところで、東西御和睦の事が
成りました。
この上はどうか(家康の)お許しをいただいて、京堺の間で隠居をし、余命を送りたいと思います。』
と言う表明をした。
さて、和睦は続かず大阪方は再び挙兵。夏の陣、起こる。
ところがこの時、未だ大阪城内にあった有楽の4男、織田長政が、「今度は自分が総大将になる!」
と言い出した。
大阪城内の人々は父の有楽の行動、特に和睦前後のことに強い不信感をもっており、長政の言葉を
誰も認めようとしなかった。
これに長政は激怒し
「私は織田信長の甥であり、淀殿の従兄弟である!大将を承れない理由がどこにあるのか!?
この上はこの城に籠っても意味が無い!!」
(我れ信長の甥にして淀殿の従弟なり、大将軍を承らんに何條かあるべき、この上は城に籠って栓なし)
と言い捨て大阪城を退去、京に向かった。
大坂の陣における織田有楽・長政親子についての逸話である。
(藩翰譜)
0115人間七七四年
2011/05/10(火) 09:54:25.26ID:je+WCWhH徳川も織田へのリベンジに燃えていたんだろうね 織田を滅ぼし戦国が終わった
0116人間七七四年
2011/05/10(火) 10:25:44.94ID:AFo/KJlI0117人間七七四年
2011/05/10(火) 10:55:40.55ID:1iSoXTnuただ本来は正室の役目なんだが高台院様も木下一族も…な
すごい勢いで身を引いていってるから、結果淀殿に乗っ取られたというか押し付けたというか
0118人間七七四年
2011/05/10(火) 11:30:20.88ID:P/dCe96P大政所や朝日姫なんか悲劇もいいとこだぜ
0119人間七七四年
2011/05/10(火) 12:22:35.08ID:PL68Hs9mこういうエピソードが多いから秀頼名君説ってのがウソくさいんだよな
0120人間七七四年
2011/05/10(火) 14:32:13.49ID:yPFubTf1織田頼長 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
のエピソードのような気が。
0122人間七七四年
2011/05/10(火) 20:13:17.47ID:jYNI/f62この人かな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-531.html
0124人間七七四年
2011/05/11(水) 06:09:07.35ID:1QWZDUmh0126人間七七四年
2011/05/12(木) 07:40:08.30ID:DdGZk4hB0127人間七七四年
2011/05/12(木) 10:05:58.85ID:7UYrz5qL活発化させていた伊達政宗のもとに、下野国小山より、徳川家康よりの使者、中澤主税が
訪れた。
中澤は白石に陣していた政宗に対面、家康よりの口状を申し上げる
『石田治部が佐和山を出て大阪へ上り、諸大名を相語らい、謀反を企てたとの情報が入った。
貴殿(政宗)は人質を大阪に置いている。我々に味方する方針はどうされるか?
仮に我らから離れ石田以下の者たちに同心しても、それを怨みには思わない。
これを貴殿に伝えておきたいため、この使者を差し下す。』
政宗これを聞くと
「さても内府の仰せとは思えぬことだ!人質があっても、私が石田・増田の謀反の味方をして
内府の敵になる謂れは無い!
出羽・奥州の連中が皆二の足を踏んだとしても、この政宗一人は内府のお味方である!
この旨を良くお伝えあるように!」
と、中澤に言う。すると中澤、不思議なことを言い出した
「私が小山を出る時、内府公はわたくしを側に近づけ、『伊達殿が我らに一筋に心を寄せると
言ったなら、お前は3日間逗留してそれでも意見が変わらなければ、伊達家の家老、その他諸士の
考えも聞き定めた上で、もう一つ、隠密の口状を伝えるように。』と、密かに申し聞かせられました。」
これを聞いたとたん政宗は
「今このクソ忙しい時期に、お主が3日も逗留する必要など無い!
私が既に覚悟を決めている以上、家中の者たちに二心などありえない。
さっさとその、隠密の仰せとやらを伝えるがいい!」
すると中澤、政宗の耳の側まで行き
「…内府公は状況次第で、上杉景勝を捨ておいて上方を退治しようとする内存を持っておられます。
そうなった時、仮に景勝が内府公の跡を追撃しようとするならもちろん別ですが、そうでなければ
伊達殿はお働きを止められ、ご領地を固められる事こそ肝要となります。
景勝と決戦をして、もし何らかの失態があれば上方の戦の妨げとなるからです。
この旨ご承知あれば、後日に景勝の領地を伊達殿に参らせるつもりだが、現時点でこの事を公言
するのは世の評判もいかがかと思われるので、家臣にも伝えず伊達殿に直に、密かに伝えよ。と、
内府公は私に申し聞かせました。
もしご加増の御朱印をお望みなら御使者をお出しください。私が宜しく取り計らいましょう。」
これを聞くと政宗、大きなため息をついて
「白石の城を攻め落とし、これから梁川の城を攻め取ろうとしている時に、すごすごと領地に
引き帰るというのは返す返すも口惜しい!しかし内府の仰せであれば背き難し…!
仕方がない。残念であり不本意でもあるが苦渋の決断で仰せを受け入れよう。
ま、それはともかく御朱印の件は御辺の取持を頼み入る。」
と、テキパキと家臣の山岡志摩に今井宗薫を添えて小山の家康の陣所へと送った。
これを家康は大いに喜び、早速御加恩の御朱印を与えたという。
後世に言う百万石のお墨付き、である。
まあご存知の通り、政宗も家康の自重命令を守らなかったし家康もこの御朱印を反故に
するんですけどねw
それにしても最初から腹の探り合い感がありありと見える、百万石のお墨付きが出るまでのお話。
(関原軍記大成)
0128人間七七四年
2011/05/12(木) 13:45:49.47ID:86wSa66rそして、上杉は西進する家康軍を放置して最上領に侵攻…
東軍・西軍の両陣営がてんでバラバラな動きだものなぁ
0129人間七七四年
2011/05/12(木) 14:08:48.37ID:WjtmXJbM立花宗茂の隠居した後の号が立斎(りっさい)なのは
立花左近将監、略して立左(りっさ)からそのまま取ったものだと書いてあった
呼ばれる時響きが同じ方が便利だからとかなんとか
それを見た時はえーw不精しすぎwwwこれは悪い話じゃねwと思ったんだけど
考えてみたらおらが国の殿さまである蜂須賀家政も
蜂須賀阿波守→蜂阿(ほうあ)→蓬庵(ほうあん)
かもしれない
蜂庵って署名してる制札見た事あるし
もしかして、案外あること?
0130人間七七四年
2011/05/13(金) 00:54:33.26ID:d9zbWVzo伊藤博文の号である春畝だって通称である俊輔の音読みだし
0131人間七七四年
2011/05/13(金) 02:17:33.51ID:T3B8ingD自分が当代一の歌人だっていう自負が垣間見える気がする
0132人間七七四年
2011/05/13(金) 03:45:05.44ID:V6VEQzNH0135人間七七四年
2011/05/13(金) 10:04:49.22ID:P1kJUoGw0136人間七七四年
2011/05/13(金) 10:52:59.77ID:zg7sWHRwそんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。
この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った
『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)
大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw
0137人間七七四年
2011/05/13(金) 11:34:27.35ID:W69l+B630138人間七七四年
2011/05/13(金) 11:59:23.99ID:sdfBJIpw0139人間七七四年
2011/05/13(金) 12:00:13.37ID:NipbUbJ/0140人間七七四年
2011/05/13(金) 12:07:25.13ID:P1kJUoGw0142人間七七四年
2011/05/13(金) 17:31:05.27ID:1EOL3Cdz0143人間七七四年
2011/05/13(金) 17:46:07.00ID:1EOL3Cdzフロイスの日本史において何度も触れられる和田惟正、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟正と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟正が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
0144人間七七四年
2011/05/13(金) 17:48:45.41ID:1EOL3Cdzこの時の和田惟正のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟正に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」
両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟正、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。
善戦するも、和田惟正、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟正の首を上げたのであった。
信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後
0145人間七七四年
2011/05/13(金) 17:52:12.78ID:1EOL3Cdz0146人間七七四年
2011/05/13(金) 18:00:34.65ID:LGVCBko70147人間七七四年
2011/05/13(金) 18:07:27.06ID:V6VEQzNH0148人間七七四年
2011/05/13(金) 20:55:16.21ID:sIauZOqv荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
0149人間七七四年
2011/05/13(金) 21:10:23.02ID:sFpiHO4Uhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html
さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。
黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
0150人間七七四年
2011/05/14(土) 00:09:25.49ID:mBAtBIRG石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。
と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。
三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに
「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。
さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた
「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」
しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門、赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した
「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」
しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!
その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?
もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」
「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」
これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた
『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』
このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」
しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)
0151人間七七四年
2011/05/14(土) 01:54:32.89ID:bnQ6beE0向こうで使われてた鎧なら鉄砲とかキリスト教が伝来
した前後には日本に輸入されてるだろ
まあ資料には残ってないだろうが
0152人間七七四年
2011/05/14(土) 10:14:34.24ID:UeH06OST0153人間七七四年
2011/05/14(土) 11:15:31.99ID:rQ9RKmzh当世具足以前の「むしろ伝統的な甲冑の方を好んだだろう」みたいな意見のほうが多いな。
0154人間七七四年
2011/05/14(土) 11:24:36.42ID:7FmX8eo60156人間七七四年
2011/05/14(土) 12:28:33.44ID:4mFd0yhj1.愛宕権現
2.愛染明王
3.愛民(司馬遼太郎提唱)
が定番ですね(大河「天地人」は3番目を採用)。
ここで日本では知られていない新説を一つ
直江兼続の兜の「Ai」は、彼の領地の「Aizu」からとったものなんだよ!!
Samurai Commanders (2)1577?1638
http://www.ospreypublishing.com/store/Samurai-Commanders-(2)_9781841767444
著者のステファン・タンブル(Stephen Turnbull)は東アジア専門家で、BBCの
日本歴史モノなんかでもよく監修やってんだけど、その他の記述からしてどうも
漢字読めないみたい・・・でもこの人が広く欧米で知られる専門家なんだよねえw
このオスプレイ社の絵入り歴史本は日本にもファンが多いけど、特に東アジアモノは
故アンガス・マクブライド(Angus McBride)以外の絵師は細部が適当になり勝ち 。
困ったもんです。
0157人間七七四年
2011/05/14(土) 12:35:37.29ID:XiKtDkIp0158人間七七四年
2011/05/14(土) 12:39:07.31ID:wlrmg0NX0159人間七七四年
2011/05/14(土) 13:05:33.21ID:Oxlngexe0161人間七七四年
2011/05/14(土) 14:23:58.55ID:BqaWiTx3日本の古美術を扱った骨董品屋が殺人現場だったんだが
そこで「17世紀の鎧兜」という展示品を観た主人公達
「日本の軍隊ができたのはいつだっけ?」
資料を調べて「19世紀に明治天皇が作ったとあるわ」
「なんで19世紀のはずの鎧が17世紀のものとして展示されてる?この甲冑はニセモノだ」
おい
0163人間七七四年
2011/05/14(土) 15:19:43.87ID:/UXP2Lgy19世紀になって幕末維新のときに日本初の洋式軍隊が出来たから、それと誤解しているっぽいね
0164人間七七四年
2011/05/14(土) 15:37:31.80ID:oN0VpKTu武田信玄に和解を申し出た。
両将は千曲川の両岸に腰掛けて対面する手はずだった。
馬に乗って岸までやってきた謙信は「のろまと思われたくない」
と思い、さっと馬から降りて床几に腰掛けた。
ところが信玄はというと鞍を直すような仕草をして馬から降りない。
「苦しからず。景虎殿、馬に乗られよ」
信玄の言葉に怒った謙信は馬に乗って帰ってしまった。
謙信の使者がやって来て言うには
「わが家は鎌倉権五郎景政から梶原景時まで五代、それから代々
続いて為景、景虎となる。頼朝公の富士の巻狩りのときは頼朝公の
次に梶原、武田はその次だった。それに今は上杉で、関東管領だ。
そちらの態度は無礼ではないか」とのことだった。
それに対して信玄は
「梶原は頼朝公とりたての家来、武田は将軍家のお相伴役だ。
機会があればどんな身分でも君主の側に近づけるのは今も昔も
変わらないことで、それが家の系譜にはならん。
上杉憲政は悪政が原因で天に見放され、北条氏康に敗れて
嫡子を捨てて越後に逃げた。そんな憲政から管領職を譲られたのが
景虎であろう。わしに無視されたなどといって腹を立てるのは無分別
である。堪忍の二字を分別することだ」と言い返した。
いよいよ謙信は怒り、また合戦とあいなった。
0165人間七七四年
2011/05/14(土) 15:38:07.00ID:HraE8ODr0166人間七七四年
2011/05/14(土) 16:01:13.80ID:29EnhITpどうもあちらで知られている日本の文献は相当いい加減なんじゃないかと思わざる負えない
0167人間七七四年
2011/05/14(土) 16:08:21.05ID:35RSkqk+このエピソードだけだと謙信のほうが小物っぽいけど
信玄のほうが礼は逸してるのかな
>>165
普通ならそれでいいんだけど、
仮にも脚本家なら自分の書く部分について少しは勉強しろと言いたい。
0168人間七七四年
2011/05/14(土) 16:34:25.52ID:tXOkPD2Hいや、そのドラマ見た事ないけど
>>162みたいなのは脚本家はわかった上での小ネタじゃないの
もちろん視聴者にもわかることが前提の
「日本にはニンジャがいるんだろ?」「今度の旅行で会うのが楽しみね!」みたいなあれ
もし>>162のエピソードで鎧が17世紀のものだから偽物であることをキーにして話が進むなら
脚本家の無知なんだろうからすまんが
0169人間七七四年
2011/05/14(土) 17:16:49.94ID:LJ4sQyC0>出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、
今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく
信憑性は薄いと思われます。
出典は『東国戦記実録』とか『小田天庵記』あたりだね。これらの軍記だと小田氏治は
腹を十文字にかっさばいて潔く自害するし、『東国戦記実録』では片野三楽・梶原美濃守親子が
「太田重郎弓押取、暫ク覗ヒテ兵ト射ル。其矢誤タス梶原美濃守ガ首筋ヲ射切タリ。
三楽ハ古沢弾正ニ討レケレバ、残ル者ドモ地ニ臥テ降参セリ」
って感じで佐竹や多賀谷に攻められて殺されたりするから史実の勉強に最適だと思うよ。
0171人間七七四年
2011/05/14(土) 18:03:44.26ID:ncSSilCw本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶。
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。
が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。
が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。
筒井順慶ならではの用心深さであった。
常山奇談より
0172人間七七四年
2011/05/14(土) 18:06:16.40ID:wlrmg0NX0173人間七七四年
2011/05/14(土) 21:36:34.99ID:iuXQRL320175人間七七四年
2011/05/14(土) 23:06:42.48ID:gPGCNB1c三斎公の述懐
昔々のことじゃが、伏見城内で豪胆なワシも冷や汗をかくが如きことを見聞したのじゃ。
秀吉のやつが、家康公を始め諸侯の居並ぶ前で、自分は弓矢の道で
未だかって不覚をとったことはない、と自画自賛し始めた。
みな、また始まったかと聞いておったが、権力者の前だからひれ伏しておった。
ところが家康公、いきなり「それは殿下の前とはいえまことに異なり、小牧長久手のことを忘れましたか?」
と立ち上がって言い始めるではないか。
やっちまったか、と皆手に汗を握ってしまった。
秀吉のやつ、プイと中に引っ込んでしまったから、皆心配して、
「殿下の戯言でござるから、相手になされるな。」皆、家康公を宥めたのであった。
しかし、家康公も「武道のことは絶対に譲れない、殿下から勘気を被ってもかまいはしない。」
とこちらもむきになっての有様。
秀吉が気を取り直して又出てきて、何食わぬ顔で雑談を再開したので、ほっとしたのであった。
わしもその頃は若かったから、田舎くさい大人げない連中だな、と思ったもんだったが
これは秀吉が家康公を試したんだな、きっと。
機嫌を取り結ぶために武の道まで譲る輩なら、信用できんとな。
中国にもよく似た話、曹操劉備の似た話があるだろう。
ったく、世渡り、人付き合いは気を使うもんだよ。
東照宮御実紀付録より
0176人間七七四年
2011/05/14(土) 23:23:39.20ID:gsmF1pzlそしてそれを「みな、また始まったかと」呆れて聞いてたの?
随分口が悪い話だね
0177人間七七四年
2011/05/14(土) 23:27:52.02ID:YVCOhpfp0178人間七七四年
2011/05/14(土) 23:28:53.82ID:7tH3s6aC0179人間七七四年
2011/05/14(土) 23:31:01.89ID:gsmF1pzl「仰せのとおりであると大いに感じ入った」と書いてるんだけどね
意味分からんところで勝手に改変すんなよ
0180人間七七四年
2011/05/14(土) 23:31:13.55ID:GPodgK7E0181人間七七四年
2011/05/14(土) 23:34:28.37ID:TE93+LG6お金のことでお世話になっていたから。
ところで秀吉の資金源ってなに?
直轄地は300万石に満たないくらいだったんでしょ
使い方の派手さに釣りあわない。
落城させた北条資金がたんまりあったとも思えない
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