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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0797人間七七四年2011/06/29(水) 18:12:57.25ID:hoI4lCBT
井伊直孝の金の使い方

井伊直孝というと、自身や家臣達に質素倹約を徹底した事が度々いい話・悪い話スレに上がっている。
そんな彼の価値観を偲ぶ逸話がある。

ある日、とある幕臣が金に困り、手持ちの高麗茶碗を七十両で手放したいと直孝の元にやってきた。
この幕臣は直孝に憚ったのか、茶碗と共に小堀遠州の書翰を数冊渡した。

直孝は承知してこれらを買った。だが幕臣が帰った後、高麗茶碗を手に取って語った。

「わしはこの茶碗が欲しくて七十両を払ったわけではない。あの男の貧窮を助けねばならぬと思ったから買い取ったのだ。
 そもそも、こんなものがなければ、かの者はこんな目に合わずに済んだのだ。」

そう言うと直孝は茶碗を庭石目がけて投げつけ、小堀遠州の書翰も火にくべて燃やしてしまった。

(家光・。十一名臣/徳永真一郎より 出典元不明)

>>796
現在進行形で引きこもってるが、たまに社会復帰セミナーで出会う奴は大概肌が荒れてたりする。
日光が当たらなかったり、運動不足なんかで新陳代謝が悪くなるきらいはあるな。
0798人間七七四年2011/06/29(水) 18:16:26.67ID:tIRRXuOS
まーた文化財クラッシャーか!
0799人間七七四年2011/06/29(水) 19:31:08.90ID:58mWrJu6
ああ・・・好事家の悲鳴が聞こえてくる
0800人間七七四年2011/06/29(水) 19:54:19.62ID:9BXiDO33
織部正「俺の作った大井戸茶碗(須弥)や流れ圜悟とて良いものでござるよゲヒヒヒヒ。
    >>797殿、見事な破調の美にて候」
0801人間七七四年2011/06/29(水) 21:27:56.14ID:g4WGZn07
832 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[] 投稿日:2009/12/06(日) 04:49:07 ID:t3aOTCC3
(´●ω・`) 小十郎よ…、わしの隻眼はものを見ることは出来ぬ…。

(`●ω・´) だが!

833 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:10:46 ID:4X2XJOM/
(`●ω●´) 何も見bヲぬ!

835 名前:新しい名無し案投票受付中@自治スレにて[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 05:47:15 ID:jhpLGOp1
┌●―●┐
(`3ω3´)
0802人間七七四年2011/06/30(木) 00:49:54.08ID:kfCKUXv9
さくざさんのマンガ、終わっちゃったの?
元の場所にないし、ググったら来月発売の2巻に(完)って……
まだ出てきてない逸話いっぱいあるのに
0803人間七七四年2011/06/30(木) 02:06:10.63ID:4vvT1gjs
西条の?
媒体自体なくなるらしいね。

キガタも終わっちまったのに。
0804人間七七四年2011/06/30(木) 13:47:42.40ID:v9LWLSip
>>797
確かに彦根藩って大藩の割に伝来の茶器に名物は少ないんだよな。
(幕末には有名な茶人大名が出てるけど)
直考がらみの茶器ってこれくらいかな。
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/items/index.html
0805人間七七四年2011/06/30(木) 13:49:12.04ID:v9LWLSip
>>804追記
「宮王肩衝茶入れ」
0806人間七七四年2011/06/30(木) 17:08:07.51ID:hFy0+Ryr
慶長16年(1611)3月、加藤清正は徳川家康と豊臣秀頼の二条城会談を成功させた。
だが同年5月、熊本に帰る船中で体調を崩し、それから病状は日々悪化。熊本に着城して2,3日過ぎた頃には
舌が不自由になり物を言うことさえ出来なくなった。

医師たちは加藤家の重臣たちに「脈も宜しくなく、回復されるのは難しいと思います」と伝える。
これにより加藤家一門、並びに城代を勤める重臣たちが緊急に集まり話し合いをした。そして

『清正が本復されるということはもはや、十に一つと言うのも難しいほどの状況である。
未だ生きておられるうちに、駿河まで使者を遣わして、清正の言葉として

「私の病状は次第に重くなり、今回ばかりは助からないものと考えています。私が相果てた場合、
我が嫡男である虎藤(加藤忠広)は未だ若年(当時10歳)でありますれば、どうか宜しき様にお頼み申し上げます。」

これを本多上野介(正純)殿まで申し遣わすべきだ』

一同そうするのが良いと皆賛成し、これは決まった。
ところがである。一体誰を使者として遣わすべきか、という所でこの話はいきなり行き詰まった。
皆このように思い、自分が行くと言い出すものが居なかったのだ。

『もし殿が回復なされた場合、「自分に勝手に、誰の指図でこの者を遣わしたのだ!?」と尋ねられたら
一体どうすればいいのか?』

これには理由がある。清正は常々、家の運営を任せる家老というものを置かなかった。
自分に近い一門衆にももっぱら支城を任せており、全ての仕置は清正が自身で言いつけていたのだ。
加藤家では、清正の命令によらずに何かをするという事が、ありえなかったのである。

一門・重臣の者たち困り果て、ついに入札(投票)によって使者を決めよう、と言うことになった。
そして入札の結果、飯田覚兵衛、和田備中の両名に、その場の全ての票が集まった。
そこで飯田覚兵衛には駿府への使いを、和田備中には、当時清正と同じく重病に陥っていた紀州の
浅野幸長の元への見舞いに遣わせる、と決まった(この程度のことすら清正の命令なしには決められなかったのである)

しかし和田備中はこれに
「皆様の仰せに背くわけではありませんが、私は長いあいだ江戸詰めをしていて、それから紀州に使いに行き、
ようやく熊本に帰ったばかりの所です。その上今度は大事の御使でありますから、皆様方どうかこの事は
御免あるように。」

達てその役を辞そうとした。だが一門の者たちは
「皆が入札によって、そなたと角兵衛を遣わせると決めたのだ。この上はもし殿が御本復されたとしても、
その是非を仰せになるような事はない!一刻も早く支度をして、出発するのだ!其方の帰ってくるのを
首を長くして待っている」

こうして飯田・和田の両名は支度をして5月18日卯の刻(午前5〜7時)、清正の病床に伺候して枕元近くに寄り、
今回の使者の件を申し上げる。これに清正は一言も発すること無く、目を少しだけ開き、ただ頷きながら
涙ぐんでいた。

これを見て両名も、今回の使いが清正との、長き別れの暇乞いとなると察し涙をぬぐい、
その場から使いに出発した。

加藤家、使者を入札で決める。というお話。
(續撰清正記)
0807人間七七四年2011/06/30(木) 17:16:56.85ID:Jy5VB5Be
ワンマンも善し悪しだよな
0808人間七七四年2011/06/30(木) 17:17:19.11ID:lXeY4ZXM
小学校の学級会みたいだなww
0809人間七七四年2011/06/30(木) 17:56:55.68ID:hLvWxR/9
毒殺死じゃなくてやっぱり過労による病死だと思う
0810人間七七四年2011/06/30(木) 18:01:24.67ID:4F7OT/lL
>>809
つーか二条城会見が3月、清正の発病が5月、死んだのが6月24日だから、
そんな異常な遅効性の毒薬はこの時代存在しないわなw
0811人間七七四年2011/06/30(木) 18:03:55.36ID:oEytGaTb
加藤家没落の原因はこれか
0812人間七七四年2011/06/30(木) 19:57:40.61ID:S+aTFjav
清正の一門て誰だ?親戚とか?
0813人間七七四年2011/06/30(木) 20:07:24.22ID:4F7OT/lL
>>812
この当時の清正の一門(血縁)は加藤正方、片岡吉方、加藤正直、加藤正次、
中川寿林斎、中村将監あたりか。
0814人間七七四年2011/07/01(金) 00:16:12.21ID:KX1RcR6S
天正19年(1591)といえば豊臣秀吉が、その前年には小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げ、
彼の権威はまさに絶頂にあった。
が、その一方で2月には千利休を切腹させ、8月には愛息鶴松が夭折するなど、その陰りも見せ始めた
頃である。

さて、その年の11月、「長せ河忠実」という人物が、京で詠まれた落首を書き写したとされるものが
今に残っている。それは、以下のようなものである。


・石普請城こしらえも要らぬもの 安土小田原見るにつけても

・寺々の夕べの鐘の声聞けば 寺領取られて何としようや

・村々に乞食の種も尽きずまじ 搾り取らるる公状の米

・まつせ(末世)とはべち(別)にはあらじ木の下の さる関白を見るにつけても

・おしつけてゆえばゆわるる十らく(聚楽)の 都の内は一らくもなし

・十ぶんになればこぼるゝ世の中を 御存知なきはうんのすへ哉


秀吉の絶頂期において、彼の政権への批判の声の記録である。
0815人間七七四年2011/07/01(金) 01:06:37.23ID:xt0rHY0p
二条河原の落書もそうだけど、ある程度教養がないと書けないよね
0816人間七七四年2011/07/01(金) 02:22:58.67ID:RxK47LUQ
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0817人間七七四年2011/07/01(金) 02:52:00.00ID:JTgzC9mD
>>816
何だこりゃ、落書かw
0818人間七七四年2011/07/01(金) 04:03:06.72ID:bFBErjJD
>>810
破傷風なら確実では無いが狙って発病させる事は可能だとは思う
それなりに条件が必要だけど発病方法とかは当時でも分かってんだよな
0819人間七七四年2011/07/01(金) 13:50:36.74ID:K5lLW/SQ
めちゃくちゃ細い針みたいな刃物で内臓を刺して、腹膜炎起こさせた説は誰の小説だっけ
0820人間七七四年2011/07/01(金) 14:14:56.29ID:Jevijf8l
隆慶一郎
0821人間七七四年2011/07/01(金) 19:04:12.12ID:ky7G3nda
しかし清正毒殺説に関しては、何故か揃いも揃って幕府がやったことにされるけど、
実際にはあの時清正に死なれて困ったのは豊臣よりも幕府の方だわな。

清正は二条城会談という、豊臣が徳川に屈服する儀式の実現に奔走し、成功させたわけで、
つまり豊臣を徳川の下位に位置付け、抑えこむことが出来たのが清正だった。
清正の死で幕府は豊臣家をコントロールする最大のツールを失った。
0822人間七七四年2011/07/01(金) 19:14:24.18ID:B1EpI9XY
江戸期の豊臣恩顧大名の処分を見るに、
豊臣65万石という巨大な不安要素をそのまま保存してコントロールする気だったとは到底・・・
清正が死ぬ死なぬに関わらず大阪が潰されるのは既定路線だっただろ
0823人間七七四年2011/07/01(金) 19:26:14.54ID:Y0uM5vyE
大抵は、豊臣に無理難題吹っかけて暴走させるのが目的だからコントロールされちゃ困るって理屈だな。

かと言って毒殺っは飛躍しすぎだけどな、清正クラスの大物暗殺なんて万が一にでも露見したら
それこそただじゃ済まんだろう。紀州徳川頼宣の義父でもあるわけだし身内にも容赦ねえ、って思われたら
その後の豊臣との戦で豊臣に傾く奴も出るかもしれんだろう。
0824人間七七四年2011/07/01(金) 19:46:25.58ID:7/KU4e+h
あの頃はまだ秀頼を大坂城から他所に移らせて
豊臣を一公家として生かしておく道もあったから
何が何でも潰す方針じゃあなかったと思うよ
清正生きてたら渋々でもその方向に尽力した可能性高いし
0825人間七七四年2011/07/01(金) 21:13:36.55ID:qQMNH/zQ
大した石高じゃなかったせいかもしれんが、木下一族なんてのは江戸時代でも生き残ってるし
0826人間七七四年2011/07/01(金) 21:15:38.65ID:JTgzC9mD
家康の意図と幕閣の意図は違うかもしれん
0827人間七七四年2011/07/01(金) 21:22:25.88ID:+/xzZJ/T
大阪の陣の前、二条城の柿の木に結わえられていた落首
御所柿は 独り熟して 落ちにけり 木の下に居て 拾ふ秀頼

御所柿=家康 木の下、拾ふ=秀頼 を指していて、
秀頼は家康が死んで天下が自分のところに来るのを待っているんだよ、という歌

家康が死んだら秀頼がなんかやるぞ、みたいな空気(期待?)があったんだろうね
0828人間七七四年2011/07/01(金) 21:45:45.71ID:GazOVS3G
秀頼にそんな野心本当にあったのかね
残ってる逸話から考えても挙兵して天下を取ろうなんて考えてなさそうだけど
0829人間七七四年2011/07/01(金) 21:48:51.52ID:KhCDjEWI
少なくとも大坂城から出て行く気はなかった
0830人間七七四年2011/07/01(金) 21:59:12.42ID:KX1RcR6S
>>828
ただ大坂の陣の時の、豊臣家内の対幕府主戦派、過激派はみんな秀吉の側近、近習の
連中なんだよね。逆に淀殿周辺はみんな徳川との和平を第一に考えている現実派。

秀頼がそういう過激派連中の頭目だったということは、秀頼自身もそういう考えだったんだろう。
0831人間七七四年2011/07/01(金) 22:04:45.48ID:dq3Z6mUL
>>828
仮に野心はなくとも存在するだけで厄介だと思う。
反徳川の核になり得る(と考えられる)勢力が大阪にいたんじゃやりにくくてしかたがない。
0832人間七七四年2011/07/01(金) 22:06:30.99ID:KX1RcR6S
>>830
間違えてた。1行目
×みんな秀吉の側近、近習
◯みんな秀頼の側近、近習

0833人間七七四年2011/07/01(金) 22:47:00.84ID:qQMNH/zQ
でもまあ、嘘くさくても逸話は逸話なんでしょうね
0834人間七七四年2011/07/02(土) 00:59:02.70ID:KRwNhop2
淀君は現実派というより単に非戦派っだけだろう
現実家はあんな無茶な寺道楽やまわりを内通した近親者で固めるなんて馬鹿はやらない
0835人間七七四年2011/07/02(土) 02:31:01.83ID:icFUGA7K
静岡県史を読んでたら、静岡県外の家康伝説についてのページがあったんでそこから伝説を一つ。

徳川家康の敗走伝説というものがある。
三方ヶ原で負けて逃げる、本能寺の変から逃げ帰る、真田幸村に追われる、など様々な種類がある。
この手の伝説は家康に所縁のある現静岡県や現愛知県に限らず、各地に広がっている。
これとか→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5284.html
これとか→http://iiwarui.blog90.fc2.com/category54-2.html
しかし、そんな中でもひときわインパクトがある話が愛媛県温泉郡重信町(現東温市)にある。


家康はとある人物に追われていた。そう、その人物とは!

佐 々 木 高 綱 である。

…うん、色々ツッコミたいことがあるのは分かる。とりあえず、焼き味噌でも食って落ち着いてくれ。
佐々木高綱に追われる家康。しかし、仕事中の桶屋が桶の中に家康を隠すことによって、家康は助かる。
そこで家康は桶屋に褒美を出す。それは何と!

『仕 事 の 後 片 付 け 免  除 の 特 権』

…うん、もっといい権利与えろよって思うよね。ドストレートな名字もらう方がまだいいよね。
何にせよ、鎌倉武士にまで追いかけられてしまう家康の悪い話。
この話の出典は、森正史著の『えひめ昔ばなし』という本らしいので、持ってる人いたら、補足お頼み申す。
0836人間七七四年2011/07/02(土) 02:40:35.43ID:icFUGA7K
ついでに、家康伝説について補足。
家康伝説の類似話としては、源頼朝が桶屋に助けられると言った、江戸時代より前の人物が主人公の話もあるそうです。
つまり、江戸時代に家康の権威が高まるにつれて、元々の物語の主人公と家康が入れ替わった話もあるのではと県史で指摘されています。
そうなると、この話の家康も佐々木高綱も元々別の人物だった可能性はありますね。
何故、この組み合わせになったかは今となっては分からないだろうけど。
0837人間七七四年2011/07/02(土) 02:53:19.60ID:JoPeoq3l
超時空太閤ならぬ超時空大権現誕生か
佐々木高綱と伊予の関係もよくわからないな
もとより家康は四国に行ったことなんてない筈だし
元ネタが気になる・・・
0838人間七七四年2011/07/02(土) 03:36:30.10ID:GqJNvJDE
そもさもなんでいきなり追われてるんだw
0839人間七七四年2011/07/02(土) 04:38:53.10ID:veQIGHKc
女関係のもつれ
0840人間七七四年2011/07/02(土) 04:52:57.16ID:V7jNPY/c
>>839
井伊直政「それがしにも関係のあることにござりますか?」
0841人間七七四年2011/07/02(土) 05:33:35.80ID:MLQu8W0t
敵じゃなくて茶店のババア相手にも追われるからな
0842人間七七四年2011/07/02(土) 06:21:47.04ID:VXe1zNWM
家康が最も恐れたババアだもんな
0843人間七七四年2011/07/02(土) 10:22:07.15ID:sl6kd5ih
後の年増好みの原点である
0844人間七七四年2011/07/02(土) 10:26:40.18ID:m3f4JD32
ヤングジャンプで「オキザリスの旗 長宗我部元親伝」という漫画が連載してるけど、戦国物とは思えない下手くそな内容。
戦国ファンが読んだら「打ち切りにしてほしい」と書いたアンケートハガキを出したくなるくらい酷い。
と言うか、ヤングジャンプ読んでたらアンケート出してほしいです。

これこそ戦国の悪い話。スレ違い?失礼しました。
0845人間七七四年2011/07/02(土) 10:30:55.18ID:veQIGHKc
武将の名前借りてるだけのヤンキー漫画か
ヤンマガのセンゴクと比べると余計に酷いな
素材人気は逆なのに・・・
0846人間七七四年2011/07/02(土) 11:15:56.93ID:974zx9pP
長宗我部で漫画化ってテンション上がったらあの絵柄であの内容だもんな
0847人間七七四年2011/07/02(土) 12:15:45.41ID:7lv0ngZv
鳥なき島の蝙蝠をあそこまでカッコ良く描けるって凄いと思うけどな
0848人間七七四年2011/07/02(土) 12:17:13.77ID:12QBTWzY
長宗我部スレでやって
0849人間七七四年2011/07/02(土) 12:42:43.74ID:lchUnVK3
センゴクは仙石言っても
秀吉追っかけてればいいから
ネタに困らないし
0850人間七七四年2011/07/02(土) 14:42:27.37ID:sCJrW8yk
寛永二十年の事である。

秋田藩の角館で魔術を使う老婆がいるという噂が流れた。
取り調べの結果この老婆は家中の矢野八兵衛の母であり
キリシタンだということが判明した。
召し捕られた老婆は拷問にかけられて棄教を申し出たため、この一件は収束した。

が、少しのしこりが残った。
件の矢野家は秋田藩のキリシタン取り締まりの中心人物である梅津憲忠の妻の実家だったのである。

この後矢野家と梅津家は明和の頃まで交際を絶ったという。
0851人間七七四年2011/07/02(土) 15:41:48.92ID:rIzHbpi0
これが日本版「奥さまは魔女」である
0852人間七七四年2011/07/02(土) 20:17:17.64ID:IlHjBDrJ
あるとき太閤秀吉の御前に、炒り豆に青海苔をまぶし付けた菓子が出た。
秀吉、それを見ると側に居た細川幽斎に向かって

「さあ何と?何と!?」

と、その菓子への感想を催促。これに幽斎

「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまめ」

当意即妙だが今ひとつ食欲のわかない答えであるw
(醒睡笑)
0853人間七七四年2011/07/02(土) 20:29:50.61ID:FoZBZsPF
>>835
愛知と愛媛はちょっと漢字が似てるね^^
0854人間七七四年2011/07/02(土) 21:34:53.99ID:+iesvHwb
ある時、飼い鳥を売る店の前に、駕籠が止まった。駕籠の中からは人品卑しからぬ老人が顔を出し、
「この店の鶉は、良い声で鳴くのう。値はいか程じゃな?」と、店主に尋ねてきた。

しめたカモだ、と思った店主、「へい、百五十両にございます!」と答えると、老人は憮然として
懐紙を取り出し、何やら書きつけて「これを鶉の鳥カゴに結んでおけ。」と言って去ってしまった。

呆然と駕籠を見送った店主が懐紙を開くと、そこには

“立ちよりて 聞けば鶉の ねも高し さてもよくには ふけるものかな

(鶉の結構な『音』色に誘われて来てみれば、『値』段も結構なものだったとはね。
鶉も笛の如く良く吹くが、店主もまぁ調子良く吹っかけたものだ。)

幽斎玄旨”と書かれていた。

「・・・さては細川幽斎公であられたか!!」
驚いた店主は言われた通り、和歌の書かれた紙を鳥カゴに結びつけると、








『幽斎公お声掛かり』と称して、二百五十両で鶉を売り出した。(幽斎公歌集より)
0855人間七七四年2011/07/02(土) 21:41:42.88ID:12QBTWzY
この時代、ウズラもニワトリも卵は食わないんだよな
鳴き声を愛玩するためにウズラ飼うとは驚き
0856人間七七四年2011/07/02(土) 22:06:07.49ID:DskiZQ4l
なんか鳥の声愛好家の間ではウズラは通ウケするらしいよ
見た目の地味さにそぐわないかわいい声で、だけど美声すぎないのがいいんだとかなんとか
0857人間七七四年2011/07/02(土) 22:10:41.99ID:f8g9uGXX
丁度こんなのがあったw

鶉の鳴き声

鳴き声が「ご吉兆」と聞こえることから古くから鳴き声を楽しむ愛玩鳥として大名や商人達の間で
買われていた鶉。
確かにゴキッチョーと聞こえます。
ご吉兆とは吉の兆しすなわち、良いことが起こる前触れを意味する。
http://www.youtube.com/watch?v=Nt95H0AFeYs
0858人間七七四年2011/07/02(土) 22:27:01.43ID:veQIGHKc
>>854
これで売れたなら店主のほうが一枚上手に見えるな
0859人間七七四年2011/07/02(土) 23:03:11.65ID:u6S7N2gT
>>854
転んでもただでは起きない店主がいいな
0860人間七七四年2011/07/03(日) 02:21:20.74ID:UrMNa2FD
何という商魂
こいつは間違いなく大阪商人
0861人間七七四年2011/07/03(日) 02:25:07.18ID:Es06wH7x
京都でしょ
0862人間七七四年2011/07/03(日) 19:08:24.56ID:ndhRQjs7
話として見た場合でも2段オチが秀逸、このメゲない商人いいなw
0863人間七七四年2011/07/03(日) 20:31:27.78ID:mheKI5DY
古田織部の作る品は、茶道の趣味がある無いにかかわらず世間がもてはやし、
食事の時酒を呑むため出す杯にも、織部盃と言うものが現れ、これが大流行した。

ところで京に三八という男があった。これが織部の流行があまりに著しいため、
盃の事を織部と言うのだと思い込んでしまった。ある時のこと、三八が赤い顔をして
良い機嫌でいるのをみて、知り合いのものが

「そちはひどく酔っているようだな?」

というと、三八

「当たり前だ!今朝の振舞に汁の椀の織部で続けざまに三杯飲んだからな!」

と答えたそうだ。

織部風の流行を垣間見せてくれるお話である。
(醒睡笑)
0864人間七七四年2011/07/03(日) 23:23:33.10ID:yVkKAlpu
醒酔笑はすっげえくだらない話ばかりなんだけど
読むと止まらなくなくなるくだらなさが好きだ
0865人間七七四年2011/07/04(月) 10:33:33.11ID:MukAFihl
鉢形城で蜂起した長尾景春は上杉方諸将の拠る五十子陣に突入した。
上杉方諸将はもはや支えきれずと判断し、各地へ落ちていった。
諸将の一人、新田の岩松家純は上杉顕定と上杉定正に使いを送り、
自分は老齢なので息子の明純を同道させると伝えた。上杉顕定は家純の口上に恐縮し、
明純の出陣に期待した。ところがである。

「!? 何故お前がここにおる!」
なんと金山に向う家純に明純がついて来たのである。
「お前は何をしておるか! 両上杉家になんと申し上げればよいのだ!」
「夜陰が心配でついて来てしまいました。ここからでも顕定様には追いつきましょう」
「心配なことなど何もないではないか!? ああ、申し訳がたたん、なんたることだ!」

家純の激怒は尋常ではなかった。仕方がないので側近の松陰の意見により
家純はとりあえず明純を武士城に待機させた。
そして使いを上杉三家に送り、事の次第を説明して明純は遅れると伝えた。
これに上杉顕定は「経緯はわかった。待っているので早く来てほしい」と答えた。
しかし、やはり明純は出馬せず、金山に戻ってしまった。

家純は松陰を呼んで言った。
「お前は長年使いを務めてきたから言うが、上杉家に対してこたびの失態は一世一代の
恥辱だ。長生きをして無念千万だよ。明純に期待してすべてを失った。
こうなれば私が出陣する。なんという不運だ。今、頼りになるのはお前だけだ」
しかし、高齢の家純には無理だと判断したのか、横瀬国繁がこれを止めたのであった。

これ以降、親子の溝は深まるばかりでついに明純は勘当されてしまった。
しかも家純は遺言で「明純の意見に任せれば滅亡だ」とさえ言い残したという。
0866人間七七四年2011/07/04(月) 17:49:38.24ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。
0867人間七七四年2011/07/04(月) 18:02:16.01ID:jddVtIYZ
黒田如水が、一見何でもない様な事に聞こえるが実は心残る教訓を話していたなかで(ややこしい)、こんな事を申された。
(珍しからざる事の様にて、耳に留まる事共、申されける中に)

「たわけであっても主人の役に立つたわけと言うのがあるもんだ。こういうのは、たわけだと知っていても
つい可愛がっちゃうんだなあ。

一方で優れて利口なのに、主人の役には立たない利口なんてのもあってな、これは利口者と解っていても、
取り扱いが本当にやりにくいんだよ。」

つかえるたわけ、つかえぬ利口、と言うお話
(古郷物語)
0868人間七七四年2011/07/04(月) 18:13:21.12ID:/msZiUJ/
単に賢愚に依らず好き嫌いなだけの気がする
0869人間七七四年2011/07/04(月) 18:19:29.58ID:/msZiUJ/
×賢愚→○有益無益
0870人間七七四年2011/07/04(月) 18:23:00.39ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・
0871人間七七四年2011/07/04(月) 22:49:45.26ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね
0872人間七七四年2011/07/05(火) 17:28:38.26ID:aaZO0zT1
慶長14年(1604)中秋の頃のこと、海路で肥後へ帰国の途にあった加藤清正は、摂津国兵庫の浦(今の神戸あたり)に
船がかかったとき、美しい真円の月が海上に浮かび、また波風もとても静かであったので、鳳金丸という安宅船の
2階に登り、夜すがら月見をした。この時、近習の者たち2名ほどを側近くに召しての夜話のおり、このような事を言った

「去る春の頃のことだ。奥州の政宗が團介という遊女を自国に下し(どうでもいいが原文でも『奥州の正宗』でやっぱり
諱を呼び捨てである。しかも間違えてる)、歌舞伎を興行したことが、家康公のご機嫌を非常に良くした、と言うことを
ほのかに伝え聞いた。

その理由は石田治部少輔らの謀反を難なく退治されて、今は天下をその掌中にされている事であれば、
政宗のような国主が率先して、もはや太刀も刀もいらぬ太平の世だと思い歌舞遊興のみにて月日を過ごせば、
もはや心配することは何も無いと思われたからだ、ということだ。

今、西国に置いてこの清正などは秀吉公のお取立てと言われ、そのうえ秀頼公が大阪に在城されているので、
世間の者も疑わしく思い、家康公も自然と心許なく思われることもあるだろう。

さりながらわしは家康公の御厚恩を忘れることは出来ない。このように肥後一国の主としていただき、その上、
特に常陸介殿(家康の十男・徳川頼宣)を我が聟に仰せ付けられたこと、それらによって当家の御恩は深く、
いささかも二心無き事であれば、いよいよ家康公の御心安く思し召すように、政宗のように帯紐を解いて(警戒をしない、
気を許すの意)、老身を慰め遊び人となって、世間の評判にも、『清正は年寄りになり、また太平の世になったので
武の道を忘れて年月を送っている』と聞かれれば、もはや気遣いすべき人物では毛頭無いと考えられるであろう。

そのようにするのが最も良き分別であると思うが、どうか?」

これを聞いた者たちは皆、御尤と感じ入ったという。

そうして、その頃八幡の國(出雲阿国)という者を熊本まで下し、城下の塩谷町三丁目の武者溜まりにて勧進能を
行い、その能の後で歌舞伎を行わせた。

この時家臣の侍たちは銀子1枚を出して桟敷に置いて見物をし、地下町人たちは八木(米のこと)を見物料として出し、
鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴人の席との間の芝生に設置された庶民の見物席)にてこれを見た。

歌舞伎とはこの國が始めたものであり、その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、その珍しさに集まった
貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、みな押し合いながら見物したそうである。

加藤清正が、熊本で出雲阿国の歌舞伎興行を行うまでの顛末である。
(續撰清正記)
0873人間七七四年2011/07/05(火) 20:56:57.03ID:d+ordKot
どこら辺が悪い話?
0874人間七七四年2011/07/05(火) 21:27:42.24ID:XkOLQgVa
あえて言うなら自分で秀吉公のお取立てと自負しながら
今の豊臣の有様になんとも思わず家康公マンセーなところか?
0875人間七七四年2011/07/05(火) 22:50:55.73ID:cpw3ZNKa
これだけやっても結局改易されたところとか?
0876人間七七四年2011/07/05(火) 23:18:42.48ID:4+rPkVse
どちらにしろいい話の部類ではねーな
0877人間七七四年2011/07/05(火) 23:43:07.03ID:/Wg21lRH
島津氏が薩摩・大隅・日向三州統一に向けて諸大名と対峙していたころ、新納武蔵守忠元は
菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。

菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」

「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」

そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」

“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)


島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」

的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。

“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”

「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。

教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。
0878人間七七四年2011/07/06(水) 11:27:11.94ID:k/0jIAw5
>>872
清正が正宗を呼び捨てて何が悪いんだ?
正宗って清正より偉かったの?
0879人間七七四年2011/07/06(水) 11:40:58.31ID:6FsKodvi
>>878
この時期だと政宗は陸奥守、清正は肥後守。両方延喜式では大国扱いなのでほぼ同格だが、
武家的には陸奥守のほうが重いな。

まあ基本的に相手が同格、あるいはやや下だとしても、この時代官位で呼ぶのが基本常識であり
礼儀だわな。ましてや大名同士の場合は特に。
0880人間七七四年2011/07/06(水) 12:41:36.27ID:PigYNCek
政宗:農民出身の分際で何を・・・
0881人間七七四年2011/07/06(水) 13:02:16.17ID:KMFDXBpH
秀吉:その農民出身のワシに土下座して詫びたのはどこの誰じゃったかなぁ?
0882人間七七四年2011/07/06(水) 13:03:26.19ID:Bm0wOuqR
まあ本人公認の呼称だったんでしょうね。

どういった経緯で全国で『まさむね」』で通るようになったか興味深い。
0883人間七七四年2011/07/06(水) 17:17:34.55ID:Tk4chnLk
秀吉公とか家康公っていう呼び方もまずいと思うんだが
0884人間七七四年2011/07/06(水) 17:38:42.78ID:jdcv1O1m
本人が死んでからでしょ
0885人間七七四年2011/07/06(水) 17:40:17.52ID:EU1fIGWp
こんな夏のさなか、夏の逸話を

黒田如水は常にこのように言っていた
「奉公人は身分の高下に関わらず水練を心得ておきたいものだ」と。

さてそんな如水、夏になると城下に流れる大川に行き、その両岸に大綱をひかせ、自身は
跛の足ながら尻からげにし、綱を伝ってそこを往復。深い淵の箇所では泳ぎ、彼と共に泳ぐものには
「良き心がけである」
と褒めたという。

これは若者たちに水練を習わせたい、という如水の思いからのものであったが、しかし如水は
決して家臣たちに「水練を習え」とは言わなかった。ではどうしたか?

如水はしばしば、深い淵を隔てた対岸に居る者に突然に「誰々をこちらに来させるように!」と呼ばせ、
泳がないものが迷惑するように申し付けた。
(誰々を呼べとて、急に呼ばせ、泳がざる者、迷惑仕る様に申付く)

如水は夏の間そんな川狩を、4・5日に1度はやっていたそうである。

しかし泳げない人には実に困った嫌がらせですなw
そんな意地悪爺さん然とした、黒田如水、夏の風物詩。
(古郷物語)
0886人間七七四年2011/07/06(水) 21:12:38.91ID:+qf0MicG
又兵衛「各々方、あれを見よww大水牛兜が浮いたり沈んだり腹イテェwww」
0887人間七七四年2011/07/07(木) 00:18:53.14ID:w8xL/K7E
自ら率先して渡河作戦すら日常的に鍛錬し、行住坐臥を修行の場とするとは
でも本当に跛だったんですね。
0888人間七七四年2011/07/07(木) 00:24:04.30ID:4h60ef0C
「水練を習え」って直接言うとかえってやる気が出ないと思ったんだろうな

させたい事を直接言うとやる気がなくなる現象は心理学的に証明されてて「心理的リアクタンス」って言うらしい
子供が親から「勉強しろ」って言われると勉強したくなくなる法則もこれ
如水は意地悪というより、当時にしてこの事をよく知ってたのかも
0889人間七七四年2011/07/07(木) 01:06:09.71ID:XbJkCyXQ
ふつうに「みんな水錬を練習しろ!水錬はいいぞ!」
→水錬大会でも開いて、頑張った家臣を大いに褒めてやるでは、駄目なのか…
0890人間七七四年2011/07/07(木) 01:17:52.45ID:/83EFVR+
>>885

如水と水練と言えば、長政と栗山備後と一緒に川でやってる時、
長政遊泳中
如水 「よし、今だあいつを深みに引きこめ!」
栗山 「…………」
如水 「いや、冗談だ冗談」
栗山 「…… (眼がマジだった)」


ていう逸話があったな。
0891人間七七四年2011/07/07(木) 01:20:27.90ID:iFiufm46
>>889
元から得意な家臣が張り切るだけで
下手な家臣は出場しないだろ
0892人間七七四年2011/07/07(木) 08:30:55.55ID:tYmVAiAP
>>890
それは長政が忠之を殺そうと栗山大膳に命じた逸話だと思うんだが
出典は栗山大膳記で大膳が黒田騒動の評定の時に幕閣にぶっちゃけたという話だが
0893人間七七四年2011/07/07(木) 18:08:12.49ID:BGXXPD//
ドキッ☆KURODAだらけの水泳大会(首ポロリもあるよ)!
黒田さんちで「川に落ちる」と来たらバ…若殿の独壇場だと思われるでしょう、が

「ぐわー!」朝鮮の大同江で水中戦している長政の隣では、
菅六之助がふたりの敵兵ともつれ合って川に転がり落ちていました。
気づいた朋輩が駆け寄ってダンゴ状態のまま岸に引っぱり上げたのですが、
そのまま戦闘続行。敵ひとりは水中でほぼ片をつけており、残りの相手も
脇差で一突き。さすがの虎殺しですね。
この人は城井攻めでも、泥田にはまった長政の馬を小川で『心しづかに』
洗う片手間に首級ふたつ挙げてたりします。

「うおー!」そのまた隣で、吉田又助も馬上から川に引き込まれようとしていました。
大指物のついた具足のまま落ちては溺れると危ぶんだ又助は、手綱を片手で握り、
腕一本で敵兵を水中に沈めたり沈められたりしつつ、見事に仕留めました。
このとき助けに行った家人も刀握ったままで泳いでいて、何気にすごい。

そしてあの人も

「ぬわー!」耳川で脇差いっちょの長政が、薩摩兵三人と斬った張ったを
くり広げていた(官兵衛さんのコメント・「お前は匹夫か!葉武者か!」)のを横目に、
後藤又兵衛も大力の侍と揉み合って川に突入です。 
組み伏せられて危ういところへ、又兵衛の馬取が加勢に入ってようやく討ち取りました。
「あの馬取の働きで、命を救われたのみならず手柄も挙げられた。
戻ったら良い役に取り立ててやろう」 そう考えていた又兵衛でしたが

『下郎(馬取)は心つたなくて、陣中にて又兵衛の刀、脇差を盗んで逐電しける』m9(^Д^)

戦国の世に水練は必須科目なのです
0894人間七七四年2011/07/07(木) 18:51:22.38ID:fj6QAun0
水辺の戦で負けると死亡率高いからなー、それでも泳げさえすれば助かるケースも多いだろうし
如水は若いころから毛利の海からの上陸軍を追い返したりとかしてたよな、
そういうところで見てきた経験からも水練の重要性は身に染みてたろう。
0895人間七七四年2011/07/07(木) 20:05:04.55ID:M8Pq4D+j
水の如しってな
0896人間七七四年2011/07/07(木) 23:28:13.29ID:4Yq/49Sh
戦で川渡ることも多いしねー
今より橋がかかってる比率も少ないだろうし
舟から落ちたり舟ひっくり返ったりした時、泳げりゃ助かる可能性もあるし
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