トップページsengoku
1001コメント437KB

戦国ちょっと悪い話26

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0683人間七七四年2011/06/17(金) 11:46:27.22ID:yexxep6n
このての塙団右衛門みたいなタイプって全体の統率からするとえらい迷惑だよなあ
0684人間七七四年2011/06/17(金) 12:09:30.00ID:5519396i
>敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!


こういうフットワークの軽さが場数を踏んでるってことなんだろうな。
0685人間七七四年2011/06/17(金) 15:13:07.79ID:OgEDkgFm
成政が後から来てくれるっていう信頼関係にあったんだろうかしら
0686人間七七四年2011/06/17(金) 17:01:56.33ID:YDL358eu
単騎突出してる奴を助けないと「勇者を見殺しにした」とか言われるし士気に関わるんじゃね?
0687人間七七四年2011/06/17(金) 18:03:45.24ID:op+AT8lC
鳴門之介の機略よりこれだけ恥かかされた勝成が腹切ってないのが不思議だ
0688人間七七四年2011/06/17(金) 18:08:45.75ID:MZ4vVsMu
おれはその後の鳴門さんの身が心配だw
天寿を全うできたのだろうか。
夜道で鬼日向が待ち伏せしてたりしてw
0689人間七七四年2011/06/17(金) 18:39:10.87ID:9PSGSm+4
>>687
恥じ入ったとしても敵陣か味方の陣に斬り込むタイプで
間違っても大人しく腹切るタマじゃあるまい
0690人間七七四年2011/06/17(金) 19:11:31.50ID:kMDFpmbb
>>689
ngmsさんなら、頭をまた丸めてるんだろうか
0691人間七七四年2011/06/17(金) 19:44:27.74ID:8JqDsTia
>>682
慣用句由来だとしたら全国に無数の阿波鳴門之助がいたのかもしれん。
0692人間七七四年2011/06/17(金) 21:08:32.52ID:I56A6vog
あれが最後の阿波鳴門之助とは思えない。人々が争い続ける限り第二第三の……
0693人間七七四年2011/06/17(金) 22:46:01.05ID:zSWi7VIG
佐々成政改易後、水野勝成と阿波鳴門之介は小西行長に仕え、ここでも功を競い合った。

天正17年(1589)、天草国人一揆(天草五人衆の反乱)が起き、志岐鎮経の本拠である志岐城の攻略に当たった勝成は、
城の二の丸で顔見知りがウロウロしているのを見つけた。
「鳴門之介の小姓の、清吉ではないか。どうしたんだ、こんな所で?」

「はっ。実は、先行する鳴門之介様とはぐれてしまいまして。迷っていたところに、水野様の指物をお見かけいたし、
まかり越しました。水野様ほどの方に相伴し、手柄の一つも立てれば、私も鳴門之介様に面目が立ちます。
どうか、ご一緒させて下さい。」

「さてさて、良き心がけ。よし!早く来い。連れて行ってやろう!」
「おおっ、有難し!!」喜んだ清吉が一歩踏み出した瞬間、

パ  ァ  ン

城方から一発の銃声が響き、清吉は死んだ。(水野日向守覚書より)


ちなみにこの『日向守覚書』、勝成の回想録という体裁を取って書かれているが、やたら詳しい小西家臣時代に対し
佐々家臣時代は「あーハイハイそんな時期もあったネ」程度に流されており、当然>>681には全く触れていない。

しかしこの頃の鬼日向さん「安田作兵衛や天野源右衛門と仲よかった」とか「山岡道阿弥や南部無右衛門と同僚だった」
とか嬉々として書いており、実にノリノリである。
0694人間七七四年2011/06/17(金) 23:30:50.09ID:mvKr6Wq6
>安田作兵衛や天野源右衛門

同じ人じゃないのそれ…
0695人間七七四年2011/06/17(金) 23:32:20.27ID:wpG6V92s
つか、この時代はまだ腹を切るって感覚はないんじゃね?
むしろ無茶な突撃で華々しく討死するって感じだろうね〜
0696人間七七四年2011/06/17(金) 23:40:12.55ID:gtnk8HD3
そんなことないよ
0697人間七七四年2011/06/17(金) 23:54:00.88ID:/xrSZio1
>>694
そういやそうだなw
0698人間七七四年2011/06/19(日) 02:51:20.81ID:Ch0JmLUW
黒田如水があるとき、こんな事を語った

「誰とは言わないよ?だけど今の世の若い大名なんてのはさ、心を許して用心をしないのは、
腰や肩を揉ませて調子のいいことを言う小姓が一人二人あるくらいで、その他は児小姓から
家老に到るまで、常に傍によればそれに警戒の目をつけまわし、脇差の柄に手をかけんばかりで、
相手が何かしてきても自分がぬかることはないぞ、と言いかねぬ風情なんだよ。

どうして召し使っている者たちを、そんな恨みでもあるかのように接するのかねえ?
大名としては下々末々の者、百姓以下まで、長久あれかしと願うように接したいものだよ。

今の世の若い連中の立ち振る舞いを見るとまるで、兵法修行して世を渡っている連中と見間違えそうだ。
俺はそういうのを見るたびに可笑しくって、馬鹿な事やっているなあと思うわけさ。」

黒田如水による、近世初期の若者論?である。
(古郷物語)
0699人間七七四年2011/06/19(日) 08:58:24.42ID:FuiFyrzI
訳文の勝海舟のような語り口がw
0700人間七七四年2011/06/19(日) 09:17:15.82ID:XMQVB6Q6
>>698
若殿(ry
0701人間七七四年2011/06/19(日) 09:31:21.86ID:ZMKaWEMk
佐竹義重&義宣
「余計なお世話だ!」
0702人間七七四年2011/06/19(日) 11:04:48.91ID:gfqS8Qc+
偏屈じじい
0703人間七七四年2011/06/19(日) 14:51:01.74ID:MUPlNzuc
立花道雪の小姓三人が、武芸の稽古の合い間に、弓について雑談をした。

「わしなら、あの庭先の鳩なども、二十六〜七間先にいようが、ヒューッと射殺せるわ!」
「なんの。俺とて昨日、十八間先の屋根に止まったスズメを、膨ら弓を以ってヒューッと射殺したわ。」
「拙者も、馬場にて十八間先の的に、七筋射れば六つはシュッと当たる。そのうち五つは、真ん中を射る。」

座敷でおかしく思いながら聞いていた道雪は、たまらず出てきて三人に告げた。

「お主らの弓の腕前、まことに結構。さらに稽古に励め。が、矢音のこと、間違いばかりだ。
人前でそんな事を言っては恥になるぞ。一度しか教えぬゆえ、良く聞け。お主らならば一度で覚えるだろう。

征矢・剣先矢で射て、当たった時は“ヒュバッ”と射た、と言う。射抜いた、とも言う。
外れた時は、“ヒュウスカッ”と表現する。
雁俣矢で射て、当たった時は“ヒューッ”と表現する。射切った、とも言う。外れは“ヒュウスカッ”と表現する。
鏑矢で射て、当たった時も“ヒューッ”と言う。外れた時は“ヒュッ”とも言わない、と表現する。
(中略)
こういう事も、まずは侍として良く覚えておけ。」

(原文:
そやけんさきにて、物を射て中たる時は“ひやうつば”と射てと言ふ。射ぬきて、とも言ふ。
はづれたる時は“ひやうすか”とはづしてと言ふなり。

雁俣にて物を射てあたるをば“ひやうふつ”といふ。いきりて、共いふ。はづれをば“ひやうすか”と言ふ。
かぶら矢にて物を射て当りたる時は“ひやうふつ”と言ふ。はづれたる時は、“ひす”といはづしてと言ふ。
(略)
かようの事も、専ら侍の知るべき事なり。よくよく覚えよ。)



問1、「大友興廃記」(大分県史料 戦記編収録)を呼んで雷神様がミスター脳だと知った>>703の驚きを、
五十字以内で擬音を交えて表せ(5点)
0704人間七七四年2011/06/19(日) 15:00:25.26ID:UH2hQ3fv
表現の仕方の問題で、ミスター関係ないだろ
0705人間七七四年2011/06/19(日) 15:51:01.35ID:5xTnPYFn
平家物語の那須与一が扇射た時なんかもそんな感じの表現だったよな
軍記物なんかでの表現様式の解説ってとこかね。
0706人間七七四年2011/06/19(日) 16:16:00.33ID:YaR/5ZjH
確かにミスターっぽいなw
ちゃんと本も読んで勉強しろってことなのかね
0707人間七七四年2011/06/19(日) 16:56:41.46ID:AVTWE66B
こんな事も当時の教養の範囲なのかよ・・・
0708人間七七四年2011/06/19(日) 17:04:58.31ID:xwjfiywu
氏素性のはっきりしてる古い家だからこういう教養があっただけじゃないの
0709人間七七四年2011/06/19(日) 18:01:32.91ID:AVTWE66B
いや、矢音の表現の仕方なんてどうでも良いだろっていう・・・
0710人間七七四年2011/06/19(日) 18:14:12.44ID:5xTnPYFn
まあ様式美って奴だ、突き詰めればそりゃ意味は無いがw
0711人間七七四年2011/06/19(日) 19:21:52.43ID:MM2gi0ua
教養のない奴使ってんな、pgrされたくなかったんじゃね
名家の陪臣だし下らないことであげつらわれるとかの心配あったのかもしらん
0712人間七七四年2011/06/19(日) 20:09:31.79ID:D7MmESaL
何気ない雑談でも知的な表現を心がけると上司の評価が変わってくるって事か
0713人間七七四年2011/06/19(日) 20:57:53.42ID:5xTnPYFn
ギャップ萌えの一種かもしれんな
0714人間七七四年2011/06/19(日) 23:53:45.31ID:XNf8RfYJ
モノマネとかうまそうだな 道雪さん
0715人間七七四年2011/06/20(月) 02:24:10.90ID:8h05fy97
平家物語にも「ひょうふ」という表現があったな。那須与一のところだったかな。
0716人間七七四年2011/06/20(月) 02:31:15.38ID:oisJgxDX
こう言うのってやっぱり小笠原流とか伊勢流などの武家故実に纏められているのかな?

でもミスターみたいにフリ○ンで雷切の素振りしている鬼道雪はいやだなw
0717人間七七四年2011/06/20(月) 16:02:57.82ID:ErNDm2BD
「太腿に摩羅がバチーンと当たるのが刀の良い振り方」
とか言い出すのか…
0718人間七七四年2011/06/20(月) 21:54:57.53ID:8VVy8ye5
先日こんなニュースがあった

仙台伝統のすずめ踊り、市民らの要望で「復活」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110619-OYT1T00334.htm

伊達政宗の時代より続く「すずめ踊り」が、震災からの復興を目指す仙台の方々を
勇気づけている。

ところでこの「すずめ踊り」だが、これが生まれた経緯は此の様なものである。

関が原の翌慶長6年(1601)、伊達政宗は新たな本拠地を仙台に定め、ここに青葉城を建設する。
この時政宗はこの青葉城の石垣建設のため、泉州堺より石工を呼び寄せた。
後にhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1225.htmlで見られるとおり、土地改良のため
毛利家牢人川村重吉を重用したことからも解るように、伊達家はの木技術は、能力が
低かったようである。

ともかくもその石工などの活躍もあり建造は進み、慶長8年、政宗はじめ伊達家の面々が
青葉城に移る「仙台城移徒式」が行われた。
祝福の雰囲気の中、石工たちのうち4名が、政宗の前で浮かれて跳ね踊った。
即興であったと言われるが、もしかするとその故郷、堺の踊りであったかも知れない。
これがすずめ踊りの原型となったという。

と、その踊りが仙台に定着したのは何故か。

青葉城の石垣工事が済むと、伊達政宗は石工たちにこう伝えた。

「大変ご苦労であった!ところでお前たちには石垣を造ったことで、我が城の構造という
最重要軍事機密をすっかり知られてしまった!そのため帰国することは禁じ、生涯、
この仙台に住んでもらう!」

とまあ、そんなわけで堺の石工たちは仙台に抑留。このため彼らが政宗の前で踊った踊りも、
仙台にて継承された。
しかしその踊りは色々な経緯を経て、今も仙台の象徴の一つとして、仙台市民の心を
励まし、楽しませているのである。

仙台、すずめ踊りの由来である。
0719人間七七四年2011/06/20(月) 22:18:36.82ID:lh0IdpsM
悪い話スレだしもしかしたら石工は口封じで消されるのかと思った
抑留されたとはいえ技術の高い職人なら大切にしてくれただろうし
よかったともいえるね
0720人間七七四年2011/06/20(月) 23:56:10.92ID:7vNDwuFZ
津和野でも似たような話があって、あっちは殺されてたよな
0721人間七七四年2011/06/21(火) 01:49:41.63ID:syROGGE2
穴沢新右衛門俊光といえば、蘆名家の対伊達最前線たる岩山城を居城とし、輝宗、政宗と
長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。

さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、そこに馬場を作って毎日
馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、鷲羽の尖り矢を手に取るとその領地である大塩を
ただ一人で立ち出て、山伝いに桧原へと侵入、そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の
影に隠れ、政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば一矢で仕留めんと待ち構えた。

その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。

が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、彼は三度馬を走らせたが、その度に
馬場の中頃で馬を返し、ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。

やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、穴沢俊光は筆を取り出して矢に

『さても政宗は御運の強き弓取りである!今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を
進上つかまつったというのに!穴沢善右衛門尉』

と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。

翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、

「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」

と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、自身は米沢へと帰っていった。

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を引き下がらせる、と言うお話。
(会津資料叢書)
0722人間七七四年2011/06/21(火) 14:36:13.52ID:FJKKZAuV
本当に暗殺したいなら何日も粘れよw
0723人間七七四年2011/06/21(火) 15:19:30.25ID:cVOyK4nm
一番の目的は名を挙げる事で、暗殺はそのついでだろw
0724人間七七四年2011/06/21(火) 20:57:47.20ID:cJ9TVuSS
なんか既出な気がする
0725人間七七四年2011/06/21(火) 23:57:48.82ID:RNmPWndL
その後政宗に一族皆殺しにされてるよねwww
0726人間七七四年2011/06/22(水) 00:16:38.32ID:w0d/BnPG
文明11年、山名政豊の分国・因幡で騒乱が起こった。
私部(きさいべ)郷の地頭・毛利次郎(森二郎)が叛乱し、たちまち因幡一国を
ほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したのである。

とても捨て置けるような状況ではない。
この時在京していた政豊は一刻も早く但馬に帰国し、乱の鎮圧に向かおうとした。

だが・・・
政豊のもとに、次から次へと引止めの使者がやってくるのである。
細川政元の母(政豊の伯母)、政所執事・伊勢貞宗、
ついには日野富子までが政豊の屋敷を訪れ、知行地を与えるとまで言って
その帰国を慰留しようとした。

すべて、仇敵・赤松政則の策謀であった。
毛利次郎を調略し、強力に援助したのも、帰国引き止めの工作も、すべて。

山名政豊はどうにか慰留を振り切って但馬に帰国すると、伊勢貞宗に使者を送って
将軍家の態度を非難するとともに、兵を整えて因幡へ出兵。
苦戦をしながらも、やっとのことで毛利次郎を放逐することに成功したのである。
0727人間七七四年2011/06/22(水) 00:19:58.97ID:w0d/BnPG
毛利次郎の乱を平定した山名政豊は、赤松政則が伯耆守護として押し立てた
山名元之を美作へ追い払い、そして文明15年、政豊の逆襲が開始された。

8月、政豊は本拠・但馬此隅山城を出陣、播磨・備前・美作へ侵攻したのである。
(聞、赤松分国三ヶ国山名打入云々)

しかし・・・。

ガラガラ!ゴォォーン!

出陣の翌日のことであった。此隅山城下は突如大音声に包まれたのは。
城に隣接する但馬一宮・出石神社の鳥居の横木が突然落下したのだ。
(但馬一宮鳥居、去月横木落云々、件日、山名播州出陣門出之翌日也云々)
何という不吉であろう・・・。

三条西実隆の耳にまで達し、その日記に書き残された縁起の悪い話。

播磨に攻め込んだ政豊は一時は政則を大いに破るも、長い戦いの末に惨敗を喫し、
結局何も得るところなく帰国することになるんですよね。
0728人間七七四年2011/06/22(水) 03:32:08.67ID:YJ1UTNgV
赤松と山名って無茶苦茶仲が悪いよね
0729人間七七四年2011/06/22(水) 07:25:48.90ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。
0730人間七七四年2011/06/22(水) 10:41:02.24ID:Qcq6L18b
>>724
本当にそうなのか調べてから言えよ、ぼけ
0731人間七七四年2011/06/22(水) 14:00:50.45ID:H9x5QhIU
>>724
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1415.html
これか
0732人間七七四年2011/06/22(水) 16:14:34.36ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。
0733人間七七四年2011/06/22(水) 17:33:05.53ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた
0734人間七七四年2011/06/22(水) 20:08:12.79ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし
0735人間七七四年2011/06/22(水) 23:28:02.05ID:NYISfxRj
落ち武者狩りはここぞとばかりに襲ってくるからなぁ
戦国の習いとはいえ、弱いものにたかる姿はなんとも・・・
0736人間七七四年2011/06/22(水) 23:38:26.85ID:bSqxA0UK
戦場近くの土民だって合戦で家田畑荒らされたり
妻子襲われたりした復讐の念がこもってたりするからなあ
(無論一方的に稼ぎの場にしてる要領のいい奴もいるだろうけど)
07377362011/06/22(水) 23:40:11.70ID:bSqxA0UK
お、IDが同じだ
一応>>734とは別人ね(同じイモバかな)
0738人間七七四年2011/06/23(木) 00:01:42.90ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。
0739人間七七四年2011/06/23(木) 00:05:43.01ID:J1pTZL3G
穴山信君殺したのは100%家康
0740人間七七四年2011/06/23(木) 11:21:46.74ID:PkeYVGlP
穴山信君を討ちとったのは
オチム・シャガリ(??〜??)
6月2日に梅雪を討ちとり、6月13日には明智光秀を討ちとっている。
0741人間七七四年2011/06/23(木) 14:19:16.37ID:VKHN7HFX
弱い者には滅法強いあのオチム・シャガリさんか。
0742人間七七四年2011/06/23(木) 14:53:23.62ID:/YBxdkxC
そういうと最低の人間みたいじゃないかw
ただの掃討戦の別称なのにw
0743人間七七四年2011/06/23(木) 15:12:41.16ID:ShSLxAW7
大将首を取りながら褒美だけいただいて、仕官もせず竹藪に消える。
そんなオチム・シャガリさんパネェェ
0744人間七七四年2011/06/23(木) 15:33:00.71ID:gu5VAv7J
オチム・・・越智氏の出でござるか?
0745人間七七四年2011/06/23(木) 16:15:23.34ID:tvgINggI
越智・十市・箸尾・筒井の大和四家のひとつ、伊予の越智氏の裔?
オチム・シャガリ殿も侮れぬな
0746人間七七四年2011/06/23(木) 16:59:25.36ID:2gkP1+6d
オチム一族は源平合戦のころから暗躍してるからな
0747人間七七四年2011/06/23(木) 17:53:38.17ID:OqWWxrgG
気が付くと常に勝者側に居るオチム家か
0748人間七七四年2011/06/23(木) 19:32:41.44ID:9dr0YFDU
        r:::::::::::::::::::-、_
      ,r::::::::::::::::::::::::::::::::::`-、
   ,.r:'::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヾ
  ,ミ:::::::::::::::r''´  ̄ ̄` ‐-、:::::::::i
 i'::::::::::::::::::::i'          i::::::::r'
 i:::::::::::::::::::r'   __,_  _ l:::::::シ
  `i:::::::::::::i' ;:'',rr:j=、:. rt:j、.j::::;イ
  ヽ:、:::::;:!.  `ニ´.::::. i::´  l'"
    ヾミ'l     .::. 、__,.  .l
     ,7、    .: __  !
_,. - ' ´ .i ヽ   ` ニ ./
      l 、  ヽ __ ,.r' -、
      i ヽ    ,イ
  オチム・シャガリ [Osim Shagari]
    (15??〜15?? 日本)

戦国時代に活躍したと伝わる謎の人物。
穴山信君や明智光秀を討ち取るなどの活躍をした農民。
彼は忍者という説もある。
0749人間七七四年2011/06/23(木) 20:08:12.02ID:hGK2Gaf9
名前からして東欧系か・・・?
どういう経緯で日本に渡来したのか気になるな。
0750人間七七四年2011/06/23(木) 20:35:21.88ID:hEPi+VbP
Shagariはアフリカ系っぽいぞ
0751人間七七四年2011/06/23(木) 20:38:52.15ID:/QWUTzUO
バガボンドで武蔵と小次郎に粉砕されたような
0752人間七七四年2011/06/23(木) 20:42:11.77ID:AVVeKCzY
越智武者所雅利
0753人間七七四年2011/06/23(木) 20:45:33.85ID:sdzH1zIx
西〜東南アジア系かも知れんぞ
0754人間七七四年2011/06/23(木) 21:43:58.56ID:n0FzhcoV
いやいや、風魔小太郎みたいに頭首が名を世襲するんでしょ
0755人間七七四年2011/06/23(木) 23:26:04.44ID:colwvU2r
なんだこの流れはw
0756人間七七四年2011/06/24(金) 09:45:02.11ID:jYo7QNq1
普通にモンゴル系だろ
つまり、義経の末裔が日本に戻ってきていたのだ
0757人間七七四年2011/06/24(金) 13:13:09.82ID:ZpnMCqRT
オーチン・シャガールというフランス系の可能性もあるだろ
0758人間七七四年2011/06/24(金) 13:22:28.17ID:TBf6pdOb
いつまで続けんだよ、カスどもが
0759人間七七四年2011/06/24(金) 13:24:50.65ID:NWlAAgWA
Shagari で画像検索をかけると農作業で日によく焼けたシャガリ一族がひっかかるな。
0760人間七七四年2011/06/25(土) 08:19:21.30ID:9OaUQx/F
鍬鋤で戦場を駆け抜けた一族か
でも当時の農機具は木製だよな?人を殺すにはちとしんどいな
0761人間七七四年2011/06/25(土) 09:15:51.28ID:+wPy8F18
天正12年(1584)11月、伊達政宗の桧原侵攻により、それまで伊達勢を防ぎ続けた岩山城も
ついに陥落。城主・穴沢新右衛門俊光は一族もろとも自害して果てた、と云う。

しかし俊光の長男・善右衛門俊次(広次)はその時たまたま小田原にあったため無事で、
その後蒲生氏郷に仕え会津に帰還した。

さて、そんな穴沢善右衛門が磐梯山にある温泉に、妻子を連れて湯治に来たときのことである。

善右衛門は湯治場の下男を連れて山の麓にある池に釣りに出かけた。
その日はいつになく魚がかかり、その面白さに二人は宿に戻るのを忘れ、日が暮れたため
近くにあった仮小屋に泊まった。
小屋の中で釣った魚を焼いて食べ、よもやまの話などをしていると、ふと、小屋の戸の方から
こちらを見ている人間が居ることに気がつく。なんと、それは善右衛門の乳母であった。

善右衛門は大いに驚き彼女を中に招き入れ、魚を再び焼いて与えると、乳母は嬉しそうにむさぼり食べた。
そうしているうちに夜も更け、3人も川の字になって眠る。…ふと、善右衛門は猫の声が聞こえる事に
気がつく。目を覚まし傍を見ると、そこにいたのは乳母はなく、真っ黒で巨大な猫であった。

「こんなところに我が乳母が来るわけもないと怪しく思っていたが、さてはこいつが磐梯山に棲むという
化猫の魔物か!」

善右衛門は刀を取って振り下ろすと、魔物は一声上げて、絶命した。

翌朝、善右衛門と下男が湯治場に戻るため山道を登っていると、駆け下りてきた湯治場の主人に
でくわした。主人は混乱した体で善右衛門に告げる

「あなたの奥様の姿が、突然見えなくなりました!」

すぐに近隣の村人にも頼み、辺り一帯の捜索をした。そして2日後、山深い沢の断崖で、大木の枝に
妻が死体となって引っかかっているのが発見された。

その木の近くには、年老いた木こりがいた。善右衛門は木を伐って妻を降ろしてほしい、と頼む。しかし木こりは
「ならばあなたが今挿している刀を貸してください」と言い出す。善右衛門は不思議に思いそれを断ると
きこりはたちまち、先日のものよりさらに大きな黒猫へと姿を変えた

「二日前お前が殺したのは我が妻であった!その怨みによりお前の妻を噛み殺し木にかけ、ここで待って
いたのだ!」

と叫ぶと木を駆け上がり善右衛門の妻の死骸を咥え、雄国山中へと飛んで行った。

善右衛門は驚き、桧原より一族を呼び寄せ猫が飛んでいった方向を探す。
そして磐梯山の西、雄国沼南東の岩場にある穴に、善右衛門の妻の死骸を咥えたまま、目を見開き
睨みつける黒猫の姿が発見された。
善右衛門とその一族は穴を取囲み、善右衛門が一刀のもとに黒猫を斬り殺す。こうして彼は妻の
亡骸を取り返した。

彼が黒猫を切った刀は、穴沢家初代俊家が盗賊文太郎を切った時に、葦名盛高より賜った家宝の名刀であったが
この後から『猫切丸』と名づけられた。そして黒猫が斬られた岩は『猫石』、その山は『猫魔ヶ岳』と
呼ばれるようになったという。

磐梯山に伝わる、猫魔の黒猫の伝説である。
0762人間七七四年2011/06/25(土) 10:54:12.94ID:j+KHzWlE
>>760
源氏の兜ェ…
0763人間七七四年2011/06/25(土) 15:52:38.95ID:MsCShzcp
>>761
化かした事以外特に悪事もしとらんし旦那猫が報復に来るのしょうがない気もするなぁ
0764人間七七四年2011/06/25(土) 16:46:21.87ID:hIIeBjYi
戦国武器○○切りシリーズに新たな1ページが刻まれた
効果は猫科属性の敵に大ダメージだな、鍋島さんが喜びそうな武器だ
0765人間七七四年2011/06/25(土) 17:13:51.88ID:LMM+bejz
化猫さんも凝った真似せずに普通に近寄っておねだりすれば魚くらいもらえただろうにな。

あと「猫切丸」っていまいち強そうじゃないよね・・・
0766人間七七四年2011/06/25(土) 17:26:52.59ID:iIXHFcvK
もしかしたら猫魔スキー場の事かな。
イメージキャラの黒猫は可愛いのに。
0767人間七七四年2011/06/25(土) 17:59:50.15ID:i4u/sEmt
猫と雖も400年も経てば立派なゆるキャラですね
0768人間七七四年2011/06/25(土) 22:13:06.84ID:XdLaq3iV
磐梯山というか、猫魔ヶ岳というまんま化け猫伝説の山が磐梯山西側にある。
そこにあるのが猫魔スキー場。伝説にあやかったねこまんまが食堂メニューにある。
0769人間七七四年2011/06/25(土) 23:15:48.50ID:LMM+bejz
現代人の商魂がたくましい話ですね
0770人間七七四年2011/06/26(日) 01:19:47.23ID:Jyw2RwsQ
大学の講義で聞いた話


京都を追放された足利義昭は河内の三好氏の下に落ち延びることになった。
その際、信長は羽柴秀吉を護衛として義昭に付けた。戦に負けてろくな戦力のない義昭一行の道中は危険極まりないからである。

秀吉の護衛のおかげで、義昭は大過なく目的地の若江城まで向かっていた。
「秀吉dクス。このまま城まで頼む。」
「悪いけど信長さまにこの辺で帰っていいって言われてんだwwwあと自力で頑張ってwww」
「えっwwwちょwwwおまっwwww」
なんと秀吉の軍勢は三好に義昭を引き渡す前にさっさと帰ってしまった。

あたりには山賊まがいの荒くれ者がうようよしていた時代である。
義昭一行がようやく三好の下にたどり着いた時には身ぐるみはがれてぼろぼろだったとさ。

教授の言うところによれば、秀吉はこの件を気にしていたので天下を取ってから義昭を悪いように扱わなかったとかなんとか。
0771人間七七四年2011/06/26(日) 06:42:40.74ID:PCFq7I1k
最後まで面倒みておけば 養子の件もOKだったかも
0772人間七七四年2011/06/26(日) 10:16:19.29ID:I1ieeZ7O
この時だったか信長は義昭を殊更に着飾らせて立派な輿に乗せ
担ぐ者や従者はわざと貧相な者を選んで暗君・暴君ぶりを演出し
見物人の怒りを煽り信長の正当性を認めさせようとしたとか
何かで読んだ覚えがある
0773人間七七四年2011/06/26(日) 17:23:54.46ID:tdjm7QRm
昌山公ついでに

永禄12年(1569)4月、新将軍・足利義昭が新御所である二条城に入った。

1月の三好三人衆の本圀寺襲撃を受け、70日あまりで建築された急造品だが、金の瓦が軒を連ね、銘木・巨石が
庭園を飾り、桜並木が馬場に並ぶ豪壮な御所に義昭は満足し、手づから信長に杯と太刀を下賜した。

それから間もなくしての事、御所の門前の石畳の上に、割れたハマグリの貝殻が九つ置かれていた。
「どういう意味だろう」とみな首をひねったが、ただ一人信長のみは、この話を聞いて苦笑いを漏らした。

つまり、
九つの貝が欠ける→くかいかける→公界欠ける(世間の常識に欠ける)

の意味であり、
『 世間知らずのボンボンが新宅もろうたからて、成り上がりの尾張者に良うも騙されるわww 』

という京童一流の皮肉で、落書の様に直接的な批判でないだけに責任者の追及もできず、信長は苦笑したのだ。
(戴恩記より)
0774人間七七四年2011/06/26(日) 18:25:42.26ID:qa114GoS
おかざりでも反乱起こさず征夷大将軍でいればよかったのにな
もしそのまま世襲して存続してれば江戸幕府もなかったかも
徳川も関白になったかもしれん
0775人間七七四年2011/06/26(日) 18:54:46.19ID:V6rKFqJA
信長も当初は足利将軍家を担ぐつもりだったんだよな
義昭があまりにも面倒な動きをするから足利幕府を潰す形になったけど
ありゃ信長としても不本意な結果らしいから不思議
0776人間七七四年2011/06/26(日) 19:06:43.34ID:oRN2n1N1
畿内を完全に安定させる前に、せっかく担いできた御輿を捨てざるを得なくなった信長さん、
「御輿は軽くてパーがいい」
と思ったかどうか。
0777人間七七四年2011/06/26(日) 19:11:10.17ID:k9duF8mx
>>774−776
そのへんの事情は最近出た「戦国時代の足利将軍」を読むと解りやすいと思う。
0778人間七七四年2011/06/26(日) 19:28:54.56ID:RJtwKEpJ
あまり知られてないかもしれんが、信長は義昭追放後に息子の足利義尋を推戴している
0779人間七七四年2011/06/26(日) 20:35:16.98ID:BohoYIwT
ただ、結局将軍は無視して、直接天皇の権威を利用する方向に移ってるよね。
0780人間七七四年2011/06/27(月) 16:54:32.22ID:BCizEo5P
加藤清正「およそ下の者は上の者を学ぶ」キリッ!

しかし上の者(清正)が全て手入れして自分で何でもやってしまっては下の者は、
全く学べない・失敗しない で人材が全く育たない悪い話し
0781人間七七四年2011/06/27(月) 20:17:49.35ID:q8ygSXuU
ちょっちゅね
0782人間七七四年2011/06/28(火) 01:20:19.43ID:R3Ex85MO
>>780
世界史板某スレで「楽をするなら」理想の上司 、と言われてたな
ただし息子に代替わりする前にお暇しないとw
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています