佐々成政の家臣に、阿波鳴門之助という者が居た。
この者たびたに戦功をなし、剛勇の士として有名であった。

ところでこの「阿波鳴門之助」という名前、どうも当時「越すに越されぬ阿波鳴門」という慣用句の
ようなものがあったらしく、世間では彼の名はここから、「武功で自分を越そうと思っても越すことは出来ない」
という意味を込めたものだ、とのもっぱらの噂であった。

さて、佐々成政が肥後を豊臣秀吉から拝領した頃、その秀吉の元を出奔した水野勝成が佐々成政の
ところに潜り込んでいた。ちなみに出奔の際勝成は、激怒した秀吉から刺客まで出されたらしい。
何をやったんだ勝成w

それはともかく、勝成は阿波鳴門之助の名のことを聞き小憎たらしく思い、ある合戦の折
わざわざ鳴門之助に対面してこう言い放った

「貴殿の名は越すに越されぬという意味で付けられたのだと聞く!
明日の合戦で越せるものか越せないものか、私と貴殿とで先陣争いをしたいと思うが
いかがか!?」

これを聞いて鳴門之助

「それはそういう事を申す者の誤りです。
私の名は祖父より引き継いだものであって、そんな意味はありません。
その上貴殿の武勇は比類のないもので、私ごときがあなたと先陣争いをするなど
思いも寄らないことです。只々そのことは御免候へ。」

とへりくだる。それでも勝成は先陣競争を再三要求したが、鳴門之助は固く拒否したため
「この上は致し方なし」と諦めた。
しかしこれを聞いた人々は、鳴門之助が勝成との勝負を逃げたと思い、皆彼を嘲った。

そうしてその夜子の刻(夜11時から1時ごろ)、鳴門之助は密かに人をやり勝成の陣屋を伺わせ、
彼の陣に動きがないことを確認すると、なんと、自分の手のものだけで敵陣に突撃!
槍を合わせる。

元より無謀である。最初こそ敵を混乱させたものの、やがて鳴門之助は多勢に取り囲まれ
数ヵ所傷を負い終に地面に突っ伏した。今まさに頚を取られようとする、その時、

敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!

これに動揺した敵軍は撤退。おかげで鳴門之助は頚を取られすにすみ、重症を負ったが
従者の肩を借りて自陣まで戻った。

さて、鳴門之助はその日のうちに水野勝成のもとに使いを出した。
使いは勝成に鳴門之助の伝言を伝える。曰く

『今日の合戦の先登は、さだめて貴殿であったのでしょうね。』
(今日の先登は定めて貴殿にて候はん)

これに水野勝成は、全く面目を失ったという。

暴れん坊水野勝成、阿波鳴門之助にしてやられる、と言うお話。(近古武談)