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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0651人間七七四年2011/06/14(火) 03:38:08.70ID:90BUd8A5
如水「あー俺有能すぎて給料泥棒なんてしたことないから引っかかっちゃったわー俺有能だからなー」
0652人間七七四年2011/06/14(火) 03:49:12.39ID:u1dt2uw3
いつの間にNGMSなんて略されるようになったんだ。もう公式ですか?
0653人間七七四年2011/06/14(火) 05:39:51.10ID:ZinSvD2D
>>651
どさくさにまぎれて盛大な火事場泥棒をやらかそうとした奴がどの口でw
0654人間七七四年2011/06/14(火) 07:50:38.46ID:ej7QwARj
えーっと、つまり・・・
 
ツンデレのお話?
0655人間七七四年2011/06/14(火) 08:30:25.64ID:1w1hjYjb
>>652
公式ですが
ttp://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20090516%23p1
0656人間七七四年2011/06/14(火) 10:14:36.63ID:Ota251rx
>>648-649
なんというツンデレ
0657人間七七四年2011/06/14(火) 11:18:46.83ID:RCPPzibu
>>650
簡単に言うと「俺は何の実績のない人間でも真面目でありさえすればこんなに厚遇するんだ。
お前たちも実績を見せられなくても、せめて真面目に働けよ。ちゃんと見てやって居るからな。」
って事だな
0658人間七七四年2011/06/14(火) 13:01:15.95ID:uix3LF2c
それに比べて若殿は
0659人間七七四年2011/06/14(火) 17:54:52.63ID:+qtIpZN2
>>658

NGMS「一万六千石も与えてやったのに伊藤次郎兵衛の爪の垢を煎じて飲ませたい奴がおるなぁビキビキ」
0660人間七七四年2011/06/14(火) 18:25:23.36ID:jW5Xs5uC
>>636
どっかで見た大阪の陣の布陣図でも「政宗」になってた気がする
他の武将みんな名字+役職なのに、やっぱり伊達だけデカデカと「政宗」二文字
0661人間七七四年2011/06/14(火) 21:36:37.22ID:ZinSvD2D
政宗はやっぱり単に政宗って呼び方がしっくりくるな
まーくん呼びは親しみ込めてるんだろうけど、アイドルみたいでなんか違和感を感じる
0662人間七七四年2011/06/14(火) 21:41:44.98ID:EAxIQXK+
親しみと揶揄をごっちゃにしたような感じに受け取ってる:まーくん
0663人間七七四年2011/06/15(水) 00:09:06.87ID:WbZVeeLH
>>659
黒田一成「殿!落ち着いてください!ね。」
0664人間七七四年2011/06/15(水) 07:38:28.07ID:fzYdBF9k
政宗ブランドなのか
それとも描いた奴が「あんな奴、諱でええわい」ってことなのか
0665人間七七四年2011/06/15(水) 09:32:33.52ID:4FV/tR3C
本人の承認がなければ失礼極まりない表現だけに、
「家名や肩書きなんて関係ねぇ。俺は『政宗』なんだからそう書いとけや。」
的な発言を随所でしており、当時の一般認識として『政宗』があったのではないか。
やはり彼にはヤンキー魂を感じずにはいられない。
0666人間七七四年2011/06/15(水) 10:16:23.37ID:JANwvnft
むしろ他の伊達一族の人達が
「あんなにはっちゃけてるのは政宗だけなんです。
 他の伊達姓の者は常識持ってます」
と伊達家の標準タイプが政宗だと思われたくなかったからかも
 
 
 
さすがにないか
0667人間七七四年2011/06/15(水) 10:26:57.65ID:hKufVc6C
基本的にはいい話なんだと思うけどw

大阪冬の陣のこと。井伊家で物見に出ていた2名がにわかの大雨に合い、ずぶ濡れになって
帰ってきた。それを聞いた井伊直孝は自分が着ていた小袖2枚を脱いで、彼らに与えた。

さてそのすぐ後、安藤帯刀のところに井伊直孝から使いが来た。その口上によると

『わたしはこういう理由で自分の用意していた着物を2枚共に家臣に与えてしまい、しかし着替える服を
持っていません。
そんなわけで帯刀殿、着物を分けていただけないでしょうか?』

その後、家康の御前に安藤帯刀から贈られた小袖を着て出仕する直孝の姿が
度々見かけられたという。

安藤帯刀から服を分けてもらえなかったら裸で居るつもりだったんだろうか?w
そんな、井伊直孝自らの小袖を与える、と言うお話(近古武談)
0668人間七七四年2011/06/15(水) 10:28:47.83ID:+t8ppWbR
>>665
当時の瓦版でも政宗だけは諱www何でだwww
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/20101.html
0669人間七七四年2011/06/15(水) 10:44:22.11ID:+GEbXZ5V
>>667
まあ服は別に貰うなりなんなりすればいいけど、しっかり奉公してくれる家臣はそうそう簡単には貰えないからなあ。

>>668
多分、学名は政宗・政宗なんだろう
0670人間七七四年2011/06/15(水) 13:20:47.14ID:b/noIM8z
服なんか心斎橋に買いに行けばええねん
0671人間七七四年2011/06/15(水) 15:09:41.73ID:jw7sBZ5a
江戸ゆとりvs戦国ジジィ

京二条城にて、久世三四郎・坂部三十郎の二人が知行の加増にあずかった。
この話を聞いた大久保彦左衛門はすぐに登城して、二人を出待ちし二人を見つけ尋ねた。
「其の方両人登城とは、何事か?」
勘の鋭い久世は、彦左衛門がいまにも斬りかかってきそうな勢いなので、坂部をつねって目配せし、
「思いがけず加増していただきました。特筆すべき武功を立てたわけではございません。強いて言えば耳たぶの事を評価してもらったのだと思います」と答え、耳たぶをつまんで見せた。

(つまり久世・坂部両人は様々な情報を『耳たぶ』で集めた事を評価されたと主張し、戦場での活躍だけが武功だと思ってる彦左衛門を遠回しにバカにしてる)

これを見た彦左衛門は笑いだし、
「さようか耳たぶの評価か、武功以外で貰う知行などはクソだ。そんなクソ知行ほしくはないわw」(さてはたぶにて罷成候成哉。能合点にて候。さ様のくされ知行は不入候)
と皮肉をいって帰っていった。
(鳩巣小説)

既出の逸話ですが解釈が違うと思ったので書きました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5240.html
0672人間七七四年2011/06/15(水) 18:12:31.95ID:8Vatt0t1
曲淵庄左衛門「彦左衛門殿とは旨い酒が飲める気がする」
0673人間七七四年2011/06/15(水) 18:15:20.74ID:LL4RQ3MR
永禄7年(1564)の小田占領後、城将となったのは佐竹義斯であった。
小田の領民が小田の殿様を信奉していたことは佐竹でもよく知られていたらしい。
小田のことを知るある者が「一年以内に取り返されないよう注意することだ」と言うので
義斯は「首を鴉につつき砕かれることはあっても城は取り返されない」と答えた。

しかし翌年、義斯は城を奪われてしまった。これを見た人は
「小田の鴉はなんと大きいのだ。人をつつき出してしまうとは」と笑った。

この時、城を急襲して取り戻したのが小田の家臣である信太氏であった。
彼は佐竹に降伏してからは無二の忠臣をよそおい、反撃の機会をうかがっていたのだ。
しかし、これは極秘のうちに行われたらしく、彼の妻子ですら知らぬことであった。

息子の喜八などはまさか父の謀叛などと思いもよらず、義斯のもとに駆けつけたために
捕らえられてしまった。そして義斯は虫の居所が悪かったのか喜八を虐殺したのである。

こうした経緯もあって喜八は怨霊となり「城を守ろうと駆けつけたのになぶり殺しにされた」
と佐竹北家にたたりをなした。また、その母もたたりをなしたのだという。
0674人間七七四年2011/06/15(水) 20:28:30.65ID:lTHquxx4
小田民は洒落がわかるなw
0675人間七七四年2011/06/15(水) 22:13:54.74ID:M+Y8Y9Vp
喜八が悪いわけじゃないがそりゃ殺されても仕方がないような
0676人間七七四年2011/06/15(水) 22:59:04.63ID:/YBYFMLQ
>>675
謀略の一貫と疑われても仕方ない一方で
親兄弟で奉公先が違うというのも珍しい話でも無いしなあ。
0677人間七七四年2011/06/16(木) 02:23:10.87ID:xWUDlpQm
南部からの独立を決意した津軽為信は、南部家当主の信直の実父で、津軽地方を治めていた南部高信の討伐を計画。

「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」

と高直をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高直の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。

そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。

以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。
0678人間七七四年2011/06/16(木) 04:21:32.73ID:arXvdHTf
石川を落とす時は、罪人を使って城下でえげつないことをさせたものな
0679人間七七四年2011/06/16(木) 21:45:26.71ID:ZO/0Xzc0
もう死にたい・・・。
0680人間七七四年2011/06/16(木) 22:08:03.89ID:qBl/gPFI
>>678
あれは本当に後味の悪い話だった
0681人間七七四年2011/06/17(金) 11:21:27.20ID:kfM/wvlb
佐々成政の家臣に、阿波鳴門之助という者が居た。
この者たびたに戦功をなし、剛勇の士として有名であった。

ところでこの「阿波鳴門之助」という名前、どうも当時「越すに越されぬ阿波鳴門」という慣用句の
ようなものがあったらしく、世間では彼の名はここから、「武功で自分を越そうと思っても越すことは出来ない」
という意味を込めたものだ、とのもっぱらの噂であった。

さて、佐々成政が肥後を豊臣秀吉から拝領した頃、その秀吉の元を出奔した水野勝成が佐々成政の
ところに潜り込んでいた。ちなみに出奔の際勝成は、激怒した秀吉から刺客まで出されたらしい。
何をやったんだ勝成w

それはともかく、勝成は阿波鳴門之助の名のことを聞き小憎たらしく思い、ある合戦の折
わざわざ鳴門之助に対面してこう言い放った

「貴殿の名は越すに越されぬという意味で付けられたのだと聞く!
明日の合戦で越せるものか越せないものか、私と貴殿とで先陣争いをしたいと思うが
いかがか!?」

これを聞いて鳴門之助

「それはそういう事を申す者の誤りです。
私の名は祖父より引き継いだものであって、そんな意味はありません。
その上貴殿の武勇は比類のないもので、私ごときがあなたと先陣争いをするなど
思いも寄らないことです。只々そのことは御免候へ。」

とへりくだる。それでも勝成は先陣競争を再三要求したが、鳴門之助は固く拒否したため
「この上は致し方なし」と諦めた。
しかしこれを聞いた人々は、鳴門之助が勝成との勝負を逃げたと思い、皆彼を嘲った。

そうしてその夜子の刻(夜11時から1時ごろ)、鳴門之助は密かに人をやり勝成の陣屋を伺わせ、
彼の陣に動きがないことを確認すると、なんと、自分の手のものだけで敵陣に突撃!
槍を合わせる。

元より無謀である。最初こそ敵を混乱させたものの、やがて鳴門之助は多勢に取り囲まれ
数ヵ所傷を負い終に地面に突っ伏した。今まさに頚を取られようとする、その時、

敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!

これに動揺した敵軍は撤退。おかげで鳴門之助は頚を取られすにすみ、重症を負ったが
従者の肩を借りて自陣まで戻った。

さて、鳴門之助はその日のうちに水野勝成のもとに使いを出した。
使いは勝成に鳴門之助の伝言を伝える。曰く

『今日の合戦の先登は、さだめて貴殿であったのでしょうね。』
(今日の先登は定めて貴殿にて候はん)

これに水野勝成は、全く面目を失ったという。

暴れん坊水野勝成、阿波鳴門之助にしてやられる、と言うお話。(近古武談)
0682人間七七四年2011/06/17(金) 11:32:36.18ID:yHbt+zN7
阿波鳴門之助って、尼子十勇士じゃなかったっけ
0683人間七七四年2011/06/17(金) 11:46:27.22ID:yexxep6n
このての塙団右衛門みたいなタイプって全体の統率からするとえらい迷惑だよなあ
0684人間七七四年2011/06/17(金) 12:09:30.00ID:5519396i
>敵陣の混乱を見た佐々成政の軍勢が押しよせた!


こういうフットワークの軽さが場数を踏んでるってことなんだろうな。
0685人間七七四年2011/06/17(金) 15:13:07.79ID:OgEDkgFm
成政が後から来てくれるっていう信頼関係にあったんだろうかしら
0686人間七七四年2011/06/17(金) 17:01:56.33ID:YDL358eu
単騎突出してる奴を助けないと「勇者を見殺しにした」とか言われるし士気に関わるんじゃね?
0687人間七七四年2011/06/17(金) 18:03:45.24ID:op+AT8lC
鳴門之介の機略よりこれだけ恥かかされた勝成が腹切ってないのが不思議だ
0688人間七七四年2011/06/17(金) 18:08:45.75ID:MZ4vVsMu
おれはその後の鳴門さんの身が心配だw
天寿を全うできたのだろうか。
夜道で鬼日向が待ち伏せしてたりしてw
0689人間七七四年2011/06/17(金) 18:39:10.87ID:9PSGSm+4
>>687
恥じ入ったとしても敵陣か味方の陣に斬り込むタイプで
間違っても大人しく腹切るタマじゃあるまい
0690人間七七四年2011/06/17(金) 19:11:31.50ID:kMDFpmbb
>>689
ngmsさんなら、頭をまた丸めてるんだろうか
0691人間七七四年2011/06/17(金) 19:44:27.74ID:8JqDsTia
>>682
慣用句由来だとしたら全国に無数の阿波鳴門之助がいたのかもしれん。
0692人間七七四年2011/06/17(金) 21:08:32.52ID:I56A6vog
あれが最後の阿波鳴門之助とは思えない。人々が争い続ける限り第二第三の……
0693人間七七四年2011/06/17(金) 22:46:01.05ID:zSWi7VIG
佐々成政改易後、水野勝成と阿波鳴門之介は小西行長に仕え、ここでも功を競い合った。

天正17年(1589)、天草国人一揆(天草五人衆の反乱)が起き、志岐鎮経の本拠である志岐城の攻略に当たった勝成は、
城の二の丸で顔見知りがウロウロしているのを見つけた。
「鳴門之介の小姓の、清吉ではないか。どうしたんだ、こんな所で?」

「はっ。実は、先行する鳴門之介様とはぐれてしまいまして。迷っていたところに、水野様の指物をお見かけいたし、
まかり越しました。水野様ほどの方に相伴し、手柄の一つも立てれば、私も鳴門之介様に面目が立ちます。
どうか、ご一緒させて下さい。」

「さてさて、良き心がけ。よし!早く来い。連れて行ってやろう!」
「おおっ、有難し!!」喜んだ清吉が一歩踏み出した瞬間、

パ  ァ  ン

城方から一発の銃声が響き、清吉は死んだ。(水野日向守覚書より)


ちなみにこの『日向守覚書』、勝成の回想録という体裁を取って書かれているが、やたら詳しい小西家臣時代に対し
佐々家臣時代は「あーハイハイそんな時期もあったネ」程度に流されており、当然>>681には全く触れていない。

しかしこの頃の鬼日向さん「安田作兵衛や天野源右衛門と仲よかった」とか「山岡道阿弥や南部無右衛門と同僚だった」
とか嬉々として書いており、実にノリノリである。
0694人間七七四年2011/06/17(金) 23:30:50.09ID:mvKr6Wq6
>安田作兵衛や天野源右衛門

同じ人じゃないのそれ…
0695人間七七四年2011/06/17(金) 23:32:20.27ID:wpG6V92s
つか、この時代はまだ腹を切るって感覚はないんじゃね?
むしろ無茶な突撃で華々しく討死するって感じだろうね〜
0696人間七七四年2011/06/17(金) 23:40:12.55ID:gtnk8HD3
そんなことないよ
0697人間七七四年2011/06/17(金) 23:54:00.88ID:/xrSZio1
>>694
そういやそうだなw
0698人間七七四年2011/06/19(日) 02:51:20.81ID:Ch0JmLUW
黒田如水があるとき、こんな事を語った

「誰とは言わないよ?だけど今の世の若い大名なんてのはさ、心を許して用心をしないのは、
腰や肩を揉ませて調子のいいことを言う小姓が一人二人あるくらいで、その他は児小姓から
家老に到るまで、常に傍によればそれに警戒の目をつけまわし、脇差の柄に手をかけんばかりで、
相手が何かしてきても自分がぬかることはないぞ、と言いかねぬ風情なんだよ。

どうして召し使っている者たちを、そんな恨みでもあるかのように接するのかねえ?
大名としては下々末々の者、百姓以下まで、長久あれかしと願うように接したいものだよ。

今の世の若い連中の立ち振る舞いを見るとまるで、兵法修行して世を渡っている連中と見間違えそうだ。
俺はそういうのを見るたびに可笑しくって、馬鹿な事やっているなあと思うわけさ。」

黒田如水による、近世初期の若者論?である。
(古郷物語)
0699人間七七四年2011/06/19(日) 08:58:24.42ID:FuiFyrzI
訳文の勝海舟のような語り口がw
0700人間七七四年2011/06/19(日) 09:17:15.82ID:XMQVB6Q6
>>698
若殿(ry
0701人間七七四年2011/06/19(日) 09:31:21.86ID:ZMKaWEMk
佐竹義重&義宣
「余計なお世話だ!」
0702人間七七四年2011/06/19(日) 11:04:48.91ID:gfqS8Qc+
偏屈じじい
0703人間七七四年2011/06/19(日) 14:51:01.74ID:MUPlNzuc
立花道雪の小姓三人が、武芸の稽古の合い間に、弓について雑談をした。

「わしなら、あの庭先の鳩なども、二十六〜七間先にいようが、ヒューッと射殺せるわ!」
「なんの。俺とて昨日、十八間先の屋根に止まったスズメを、膨ら弓を以ってヒューッと射殺したわ。」
「拙者も、馬場にて十八間先の的に、七筋射れば六つはシュッと当たる。そのうち五つは、真ん中を射る。」

座敷でおかしく思いながら聞いていた道雪は、たまらず出てきて三人に告げた。

「お主らの弓の腕前、まことに結構。さらに稽古に励め。が、矢音のこと、間違いばかりだ。
人前でそんな事を言っては恥になるぞ。一度しか教えぬゆえ、良く聞け。お主らならば一度で覚えるだろう。

征矢・剣先矢で射て、当たった時は“ヒュバッ”と射た、と言う。射抜いた、とも言う。
外れた時は、“ヒュウスカッ”と表現する。
雁俣矢で射て、当たった時は“ヒューッ”と表現する。射切った、とも言う。外れは“ヒュウスカッ”と表現する。
鏑矢で射て、当たった時も“ヒューッ”と言う。外れた時は“ヒュッ”とも言わない、と表現する。
(中略)
こういう事も、まずは侍として良く覚えておけ。」

(原文:
そやけんさきにて、物を射て中たる時は“ひやうつば”と射てと言ふ。射ぬきて、とも言ふ。
はづれたる時は“ひやうすか”とはづしてと言ふなり。

雁俣にて物を射てあたるをば“ひやうふつ”といふ。いきりて、共いふ。はづれをば“ひやうすか”と言ふ。
かぶら矢にて物を射て当りたる時は“ひやうふつ”と言ふ。はづれたる時は、“ひす”といはづしてと言ふ。
(略)
かようの事も、専ら侍の知るべき事なり。よくよく覚えよ。)



問1、「大友興廃記」(大分県史料 戦記編収録)を呼んで雷神様がミスター脳だと知った>>703の驚きを、
五十字以内で擬音を交えて表せ(5点)
0704人間七七四年2011/06/19(日) 15:00:25.26ID:UH2hQ3fv
表現の仕方の問題で、ミスター関係ないだろ
0705人間七七四年2011/06/19(日) 15:51:01.35ID:5xTnPYFn
平家物語の那須与一が扇射た時なんかもそんな感じの表現だったよな
軍記物なんかでの表現様式の解説ってとこかね。
0706人間七七四年2011/06/19(日) 16:16:00.33ID:YaR/5ZjH
確かにミスターっぽいなw
ちゃんと本も読んで勉強しろってことなのかね
0707人間七七四年2011/06/19(日) 16:56:41.46ID:AVTWE66B
こんな事も当時の教養の範囲なのかよ・・・
0708人間七七四年2011/06/19(日) 17:04:58.31ID:xwjfiywu
氏素性のはっきりしてる古い家だからこういう教養があっただけじゃないの
0709人間七七四年2011/06/19(日) 18:01:32.91ID:AVTWE66B
いや、矢音の表現の仕方なんてどうでも良いだろっていう・・・
0710人間七七四年2011/06/19(日) 18:14:12.44ID:5xTnPYFn
まあ様式美って奴だ、突き詰めればそりゃ意味は無いがw
0711人間七七四年2011/06/19(日) 19:21:52.43ID:MM2gi0ua
教養のない奴使ってんな、pgrされたくなかったんじゃね
名家の陪臣だし下らないことであげつらわれるとかの心配あったのかもしらん
0712人間七七四年2011/06/19(日) 20:09:31.79ID:D7MmESaL
何気ない雑談でも知的な表現を心がけると上司の評価が変わってくるって事か
0713人間七七四年2011/06/19(日) 20:57:53.42ID:5xTnPYFn
ギャップ萌えの一種かもしれんな
0714人間七七四年2011/06/19(日) 23:53:45.31ID:XNf8RfYJ
モノマネとかうまそうだな 道雪さん
0715人間七七四年2011/06/20(月) 02:24:10.90ID:8h05fy97
平家物語にも「ひょうふ」という表現があったな。那須与一のところだったかな。
0716人間七七四年2011/06/20(月) 02:31:15.38ID:oisJgxDX
こう言うのってやっぱり小笠原流とか伊勢流などの武家故実に纏められているのかな?

でもミスターみたいにフリ○ンで雷切の素振りしている鬼道雪はいやだなw
0717人間七七四年2011/06/20(月) 16:02:57.82ID:ErNDm2BD
「太腿に摩羅がバチーンと当たるのが刀の良い振り方」
とか言い出すのか…
0718人間七七四年2011/06/20(月) 21:54:57.53ID:8VVy8ye5
先日こんなニュースがあった

仙台伝統のすずめ踊り、市民らの要望で「復活」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110619-OYT1T00334.htm

伊達政宗の時代より続く「すずめ踊り」が、震災からの復興を目指す仙台の方々を
勇気づけている。

ところでこの「すずめ踊り」だが、これが生まれた経緯は此の様なものである。

関が原の翌慶長6年(1601)、伊達政宗は新たな本拠地を仙台に定め、ここに青葉城を建設する。
この時政宗はこの青葉城の石垣建設のため、泉州堺より石工を呼び寄せた。
後にhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1225.htmlで見られるとおり、土地改良のため
毛利家牢人川村重吉を重用したことからも解るように、伊達家はの木技術は、能力が
低かったようである。

ともかくもその石工などの活躍もあり建造は進み、慶長8年、政宗はじめ伊達家の面々が
青葉城に移る「仙台城移徒式」が行われた。
祝福の雰囲気の中、石工たちのうち4名が、政宗の前で浮かれて跳ね踊った。
即興であったと言われるが、もしかするとその故郷、堺の踊りであったかも知れない。
これがすずめ踊りの原型となったという。

と、その踊りが仙台に定着したのは何故か。

青葉城の石垣工事が済むと、伊達政宗は石工たちにこう伝えた。

「大変ご苦労であった!ところでお前たちには石垣を造ったことで、我が城の構造という
最重要軍事機密をすっかり知られてしまった!そのため帰国することは禁じ、生涯、
この仙台に住んでもらう!」

とまあ、そんなわけで堺の石工たちは仙台に抑留。このため彼らが政宗の前で踊った踊りも、
仙台にて継承された。
しかしその踊りは色々な経緯を経て、今も仙台の象徴の一つとして、仙台市民の心を
励まし、楽しませているのである。

仙台、すずめ踊りの由来である。
0719人間七七四年2011/06/20(月) 22:18:36.82ID:lh0IdpsM
悪い話スレだしもしかしたら石工は口封じで消されるのかと思った
抑留されたとはいえ技術の高い職人なら大切にしてくれただろうし
よかったともいえるね
0720人間七七四年2011/06/20(月) 23:56:10.92ID:7vNDwuFZ
津和野でも似たような話があって、あっちは殺されてたよな
0721人間七七四年2011/06/21(火) 01:49:41.63ID:syROGGE2
穴沢新右衛門俊光といえば、蘆名家の対伊達最前線たる岩山城を居城とし、輝宗、政宗と
長きにわたり激戦を繰り広げた剛勇のものであった。

さて、そのころ伊達政宗は、穴沢領に隣接する桧原城にあり、そこに馬場を作って毎日
馬を責めていた。
それを聞いた穴沢俊光、村重籐の弓、鷲羽の尖り矢を手に取るとその領地である大塩を
ただ一人で立ち出て、山伝いに桧原へと侵入、そして桧原城の馬場の隅にあった二本の木の
影に隠れ、政宗が馬場のその場所まで乗り来たれば一矢で仕留めんと待ち構えた。

その日も案の定、政宗はこの馬場に出て馬を責めた。

が、運が良かったのか奇怪な感が働いたのか、彼は三度馬を走らせたが、その度に
馬場の中頃で馬を返し、ついに穴沢の潜む隅の方に来ることはなかった。

やがて政宗は城に戻り、日も暮れると、穴沢俊光は筆を取り出して矢に

『さても政宗は御運の強き弓取りである!今日、馬場の隅まで乗ってきたならこの矢を
進上つかまつったというのに!穴沢善右衛門尉』

と書いた文を結んで馬場の真ん中に立て、大塩へと帰っていった。

翌日、伊達家のものがこれを見つけ政宗に見せると、

「穴沢の計略、この上にも何があるか計りがたい。」

と、嫌な予感がしたのだろう、桧原には片倉小十郎を残し、自身は米沢へと帰っていった。

穴沢俊光、一矢で伊達政宗を引き下がらせる、と言うお話。
(会津資料叢書)
0722人間七七四年2011/06/21(火) 14:36:13.52ID:FJKKZAuV
本当に暗殺したいなら何日も粘れよw
0723人間七七四年2011/06/21(火) 15:19:30.25ID:cVOyK4nm
一番の目的は名を挙げる事で、暗殺はそのついでだろw
0724人間七七四年2011/06/21(火) 20:57:47.20ID:cJ9TVuSS
なんか既出な気がする
0725人間七七四年2011/06/21(火) 23:57:48.82ID:RNmPWndL
その後政宗に一族皆殺しにされてるよねwww
0726人間七七四年2011/06/22(水) 00:16:38.32ID:w0d/BnPG
文明11年、山名政豊の分国・因幡で騒乱が起こった。
私部(きさいべ)郷の地頭・毛利次郎(森二郎)が叛乱し、たちまち因幡一国を
ほぼ手中に収めるまでに勢力を拡大したのである。

とても捨て置けるような状況ではない。
この時在京していた政豊は一刻も早く但馬に帰国し、乱の鎮圧に向かおうとした。

だが・・・
政豊のもとに、次から次へと引止めの使者がやってくるのである。
細川政元の母(政豊の伯母)、政所執事・伊勢貞宗、
ついには日野富子までが政豊の屋敷を訪れ、知行地を与えるとまで言って
その帰国を慰留しようとした。

すべて、仇敵・赤松政則の策謀であった。
毛利次郎を調略し、強力に援助したのも、帰国引き止めの工作も、すべて。

山名政豊はどうにか慰留を振り切って但馬に帰国すると、伊勢貞宗に使者を送って
将軍家の態度を非難するとともに、兵を整えて因幡へ出兵。
苦戦をしながらも、やっとのことで毛利次郎を放逐することに成功したのである。
0727人間七七四年2011/06/22(水) 00:19:58.97ID:w0d/BnPG
毛利次郎の乱を平定した山名政豊は、赤松政則が伯耆守護として押し立てた
山名元之を美作へ追い払い、そして文明15年、政豊の逆襲が開始された。

8月、政豊は本拠・但馬此隅山城を出陣、播磨・備前・美作へ侵攻したのである。
(聞、赤松分国三ヶ国山名打入云々)

しかし・・・。

ガラガラ!ゴォォーン!

出陣の翌日のことであった。此隅山城下は突如大音声に包まれたのは。
城に隣接する但馬一宮・出石神社の鳥居の横木が突然落下したのだ。
(但馬一宮鳥居、去月横木落云々、件日、山名播州出陣門出之翌日也云々)
何という不吉であろう・・・。

三条西実隆の耳にまで達し、その日記に書き残された縁起の悪い話。

播磨に攻め込んだ政豊は一時は政則を大いに破るも、長い戦いの末に惨敗を喫し、
結局何も得るところなく帰国することになるんですよね。
0728人間七七四年2011/06/22(水) 03:32:08.67ID:YJ1UTNgV
赤松と山名って無茶苦茶仲が悪いよね
0729人間七七四年2011/06/22(水) 07:25:48.90ID:Uoilh+uy
慶長5年(1600)9月15日の夕暮れ、薩摩武士・帖佐彦左衛門宗辰は、関が原からの脱出に成功した島津義弘の命を受け、
郎党五、六人を連れて食料調達に向かった。
道中の村で五十人ほどの食事の用意を頼んでみた宗辰に、村長は快く準備を引き受けてくれた。

ひとまず安心した宗辰は、東軍の追っ手を警戒して村を巡回していたが、ある一軒家に多くの村人が集まって何事か
相談しているのを発見した。
「……宵の内か…明け方か………」などと話しているのは聞こえたが、それ以上は聞き取れない。
そこで、物見の術に秀でた郎党の大町余市に密かに聞き取らせたところ、恐るべき事を相談している事が判明した。


明智光秀・穴山梅雪の命を奪い、徳川家康をも危難に陥れた、畿内の落ち武者狩りである。


平静を装いつつ宗辰は村長に「仲間が遅れているので見てくる」と言い、愛馬を引いて郎党を連れ、村外に出た。
一町ほど進むと、宗辰に気づかなかったのか、それとも違和感を感じたのか、はるか前方に義弘一行の姿が見える。
これはいかんと馬に飛び乗った瞬間、「逃すな!」「討て討て!」と、村人たちがどこからか現れ、襲ってきた。


宗辰は必死で太刀を振るい道を切り開いたが、徒歩の郎党たちは次第に宗辰に遅れ、最後に宗辰が振り返った時には
村人に捕らえられ、袋叩きに会っていた。
(すまぬ……すまぬ!!)見捨てざるを得なかった郎党に詫びながら駆け続けた宗辰は、義弘一行に追いついた。

関が原の陣に十人の郎党を率いて参戦した宗辰だが、乱戦の中で三人が死亡、続く落ち武者狩りで五人が死亡、
残る二人も行方不明となり、薩摩に帰国できたのは宗辰一人だけだったという。
(旧記雑録より)


戦史に残る撤退戦を切り抜け、島津家が武名を高めた陰で、多くの名も無き侍たちが散った、そんな話。
0730人間七七四年2011/06/22(水) 10:41:02.24ID:Qcq6L18b
>>724
本当にそうなのか調べてから言えよ、ぼけ
0731人間七七四年2011/06/22(水) 14:00:50.45ID:H9x5QhIU
>>724
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1415.html
これか
0732人間七七四年2011/06/22(水) 16:14:34.36ID:yQpav8Tb
>>729
過酷な話やの。
負けた側は辛いわ。
0733人間七七四年2011/06/22(水) 17:33:05.53ID:McSMcLKg
50人分用意しろって言ったのがまずかったな
1000人分とか言っておけばよかったかもしれん
少人数なのがばれた
0734人間七七四年2011/06/22(水) 20:08:12.79ID:bSqxA0UK
千人分も用意できんじゃろ
断られてしまうわな
下手したら周囲の村と協調されて、それこそ殲滅されかねん

まあ、不馴れな土地での調達には危険が伴うわな
ましてや、ゲリラの村みたいな処なんだし
0735人間七七四年2011/06/22(水) 23:28:02.05ID:NYISfxRj
落ち武者狩りはここぞとばかりに襲ってくるからなぁ
戦国の習いとはいえ、弱いものにたかる姿はなんとも・・・
0736人間七七四年2011/06/22(水) 23:38:26.85ID:bSqxA0UK
戦場近くの土民だって合戦で家田畑荒らされたり
妻子襲われたりした復讐の念がこもってたりするからなあ
(無論一方的に稼ぎの場にしてる要領のいい奴もいるだろうけど)
07377362011/06/22(水) 23:40:11.70ID:bSqxA0UK
お、IDが同じだ
一応>>734とは別人ね(同じイモバかな)
0738人間七七四年2011/06/23(木) 00:01:42.90ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。
0739人間七七四年2011/06/23(木) 00:05:43.01ID:J1pTZL3G
穴山信君殺したのは100%家康
0740人間七七四年2011/06/23(木) 11:21:46.74ID:PkeYVGlP
穴山信君を討ちとったのは
オチム・シャガリ(??〜??)
6月2日に梅雪を討ちとり、6月13日には明智光秀を討ちとっている。
0741人間七七四年2011/06/23(木) 14:19:16.37ID:VKHN7HFX
弱い者には滅法強いあのオチム・シャガリさんか。
0742人間七七四年2011/06/23(木) 14:53:23.62ID:/YBxdkxC
そういうと最低の人間みたいじゃないかw
ただの掃討戦の別称なのにw
0743人間七七四年2011/06/23(木) 15:12:41.16ID:ShSLxAW7
大将首を取りながら褒美だけいただいて、仕官もせず竹藪に消える。
そんなオチム・シャガリさんパネェェ
0744人間七七四年2011/06/23(木) 15:33:00.71ID:gu5VAv7J
オチム・・・越智氏の出でござるか?
0745人間七七四年2011/06/23(木) 16:15:23.34ID:tvgINggI
越智・十市・箸尾・筒井の大和四家のひとつ、伊予の越智氏の裔?
オチム・シャガリ殿も侮れぬな
0746人間七七四年2011/06/23(木) 16:59:25.36ID:2gkP1+6d
オチム一族は源平合戦のころから暗躍してるからな
0747人間七七四年2011/06/23(木) 17:53:38.17ID:OqWWxrgG
気が付くと常に勝者側に居るオチム家か
0748人間七七四年2011/06/23(木) 19:32:41.44ID:9dr0YFDU
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  ,ミ:::::::::::::::r''´  ̄ ̄` ‐-、:::::::::i
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_,. - ' ´ .i ヽ   ` ニ ./
      l 、  ヽ __ ,.r' -、
      i ヽ    ,イ
  オチム・シャガリ [Osim Shagari]
    (15??〜15?? 日本)

戦国時代に活躍したと伝わる謎の人物。
穴山信君や明智光秀を討ち取るなどの活躍をした農民。
彼は忍者という説もある。
0749人間七七四年2011/06/23(木) 20:08:12.02ID:hGK2Gaf9
名前からして東欧系か・・・?
どういう経緯で日本に渡来したのか気になるな。
0750人間七七四年2011/06/23(木) 20:35:21.88ID:hEPi+VbP
Shagariはアフリカ系っぽいぞ
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