戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0581人間七七四年
2011/06/09(木) 02:06:46.06ID:PY1SJLin0584人間七七四年
2011/06/09(木) 17:38:13.47ID:jc2HofmX隆景生きてたら関ヶ原が起こるかどうかすら怪しくなりそう
0586人間七七四年
2011/06/09(木) 18:42:38.43ID:/fNr06yG福島家では1500人体制でこれに臨んだ。が、
「おら、どいたどいた!」
「・・・・・・」
小石・砂利石の積み上げを任された藤堂家中の4〜500人が、ひっきりなしに車で福島家が大角石を
引く先々を行き交い、まったく作業がはかどらなかった。
「もうガマンならん。おい、綱をよこせ!」
ついに限界に達した奉行の真鍋五郎右衛門が、石を乗せたソリを引く綱を取り寄せると、地面に打ち広げた。
五郎右衛門は藤堂家の車を待ち受け、車が綱をまたいだ瞬間、
「そぉい!!」
一気にたぐり寄せた。ものの見事に藤堂家の者たちはひっくり返り、将棋倒しとなって倒れ散った。
「な、何をなさる・・・って、ぬわ―――っ!?」
「ヒャッハー!大漁だあああ!!」
ハイになったのか、福島家中はなぜか梃子に使う棒を振り回して藤堂家中に襲い掛かって乱闘を始め、
これまたなぜか江戸城下へ飛び出した上、本多佐渡守屋敷にまでなだれ込む大喧嘩になったそうな。
(福島太夫殿御事より)
※その頃の市松さん
「ちっとも石が上がって来ぬではないか。どうしたのだ?」
「実は・・・・・・」
「そうか!!」
ニッコリ笑うと(太夫殿機嫌能御笑)、番小屋に引っ込んだきり終日出てきませんでしたとさ。
0587人間七七四年
2011/06/09(木) 18:54:38.90ID:TPD/U8Aw0588人間七七四年
2011/06/09(木) 18:58:14.07ID:HS0YBv4Uじゃあある意味関連した、藤堂家にとっていい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2613.html
0589人間七七四年
2011/06/09(木) 19:22:14.55ID:UG7HMgxU裏切り者って扱いだよなぁ。幕末にいたるまで。
0590人間七七四年
2011/06/09(木) 22:00:41.10ID:S1QQ+ozn山内家だって関ケ原武功ゼロっすかwwwって300年ディスられてたし
0591人間七七四年
2011/06/09(木) 22:32:02.52ID:4dZgJChlTERUさんの軽はずみな行動を腕づくでも抑えそうだから
関ヶ原の様相はかなり変わっただろうねえ
0592人間七七四年
2011/06/10(金) 02:10:18.32ID:QDTSp5Ew(如水は、気違の様なる可笑しき事共多き中に)
ある時、龍若という草履取りが悪戯を度々したので終に如水は罰を与え、
彼を大黒柱に縛り付けた。
翌朝、如水の側に仕える御伽衆の者たちが、龍若を許してもらうために詫び言を申し上げようと
話し合いをしていたところ、書状を書いた如水が、こう言ってきた
「城から一里半ばかり離れたところに相原村という、瓜をよく作る所がある。
そこには代官も置いてある。
この代官に瓜を差し出すようにと申し付けるので、それを龍若が城に持ち帰れ。」
この命により縄を解かれた龍若は程なく相原村より瓜を持ち帰る。
すると如水は龍若を御前に呼び出し、手ずから瓜2つを与え、「これを喰らえ」と言った。
御伽衆の者たちこれを見て
「詫び言を申し上げようと思っていたところに、そうするまでもなく許された!
如水様も何のかんの言って、龍若がいないと不便だったのだろう。
そのお陰でこんなに早く埒が開けた。」
良かった良かった、と喜んだ。が、そこで話は終わらない。
龍若が瓜を食べ終わると如水、彼を再び大黒柱に縛り付けたのだ。
そして「家中の者に使いがある」と言っては再び龍若の縄を解き使いにやって、戻ってくればまた縛り、
特に用もないのに「居間の掃除をしろ」と縄を解き、掃除が終わればまた縛り、
1日に1,2度づつは許してはまた縛ると言うことを繰り返し、終に3日間こんなことをした挙句、
ようやく完全に許した。
この事を見聞きした者たちはいずれも可笑しい事だと思い、伽坊主の一人が
「それにしても珍しい御折檻でございました、世間にまれな囚人でありましたことよ。」
そう笑って申し上げると如水
「まあ龍若は徒者だからな。教育のためとは言え、縛ったまま使わないのはわしの損だ。
だからと言って悪戯者のままであっても困るので、折檻はしないといけない。
そうではあるが、縛ったままにしておいたら体に縄が食い込んで、そりゃあ苦しいだろう、
時々休ませて用などもさせて、そんなふうに緩々と折檻したら、普通の折檻より
懲り方も強くなるんだよ。」
と言って如水もまた大笑いしたという。
(古郷物語)
0593NGMS
2011/06/10(金) 07:53:46.85ID:/ZOO0KMzどう振る舞ったら尊敬されますか?
0594人間七七四年
2011/06/10(金) 08:21:52.64ID:PI6LRClA0595人間七七四年
2011/06/10(金) 08:23:37.58ID:SoZFEHhN0596人間七七四年
2011/06/10(金) 08:43:20.27ID:cjUyIcj0ご隠居でなく長政さんだったら癇癪おこしてたいへんなことになりそうだ
0597人間七七四年
2011/06/10(金) 12:39:05.85ID:GsXJ4Gtvそんなこと聞かなきゃ分からない時点で若殿はだめなのじゃ
0600人間七七四年
2011/06/10(金) 19:02:51.94ID:oUiFraPEサラっとひどいこと書いてる筆者の悪い話だろw
0601人間七七四年
2011/06/10(金) 19:13:31.55ID:/kSGUCYzささ、今日も腹立てずの異見会を開きましょうかNGMS様
0602人間七七四年
2011/06/10(金) 19:26:54.66ID:sCy7q2dy課長って有限不実行ですよねwとか、手柄横取りの巧みさ見習いたいです!とかね
うーん、刃傷沙汰になりそうだ
0604人間七七四年
2011/06/10(金) 20:31:50.09ID:mXO2PzTc三田城の陥落により荒木村重は孤立、
黒田官兵衛は巣帰りが可能となった
のちにキリスト教に改宗した官兵衛はこれを三田黒巣と呼び降誕祭に尊んだ
なんでもできる
0605人間七七四年
2011/06/10(金) 20:55:30.20ID:jidrUyMN「何だネタかよ・・・」とテンション下がったところが基準点になるからよほどじゃないと無理。
0606人間七七四年
2011/06/11(土) 19:20:09.96ID:FZoJDsvR祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。
「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」
その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。
0607人間七七四年
2011/06/11(土) 20:55:26.53ID:ubCwah1w0608人間七七四年
2011/06/11(土) 21:41:50.22ID:ZbsVbo7N0609人間七七四年
2011/06/11(土) 22:17:57.08ID:lZN+4f4Q曲淵庄左衛門吉景、この名を聞けばこのスレの皆の衆はすぐにわかるだろう、
「戦国最強の訴訟クレーマーにして甲州一のへそ曲がり」である。
ある時武田信玄が西上野侵攻を開始した。もちろん庄左衛門も参戦である。
ある戦いにて庄左衛門は手柄を立て、敵将も降伏し論功行賞となったときのことである。
信玄「この度の降伏は殊勝である。この太刀を授けよう。庄左衛門、そなたは良き手柄を立てた、
この脇差しを授けよう。」
庄左衛門「(怒!)」
庄左衛門「降伏した敵将が太刀で、手柄立てたそれがしが脇差!納得出来るかぁ!ゴルァ!!」
こうして彼は、せっかくの恩賞の脇差しを「投げ返した」が、信玄は笑って許したという。
さて、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-598.htmlにて凄まじい舌禍を残している
庄左衛門であるが、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2344.htmlにあるように
武田滅亡後に旗本として徳川家に仕えた。なんと、行政手腕を高く評価された結果だそうである。
草葉の陰の武田信玄、板垣信形、山県昌景もビックリである。
さて、その子孫は曲淵景漸(かげつぐ)という。松平定信の頃には経済通の名奉行として
最終的に勘定奉行となった人だが、天明の大飢饉の時、米不足なので何とかして欲しい
との江戸町民の嘆願があったとき、陳情中に何らかの感情の行き違いがあったようで、
景漸「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え!」
と言ってしまった。この舌禍が導火線となり大規模打ち壊しに発展したという。
この先祖にしてこの子孫ありと言うところであろうか。
0610人間七七四年
2011/06/11(土) 22:23:53.90ID:P16kkRwt0611人間七七四年
2011/06/11(土) 23:02:25.19ID:aQs2TSgX0613人間七七四年
2011/06/12(日) 05:04:14.10ID:8parbAvw0614人間七七四年
2011/06/12(日) 10:16:51.87ID:6UftsQfM物頭は如水に報告し
「そ奴はこれこれの盗みを致しましたので、現在拘束しております。
ご成敗なされて然るべきと考えます。」
と申し上げた。如水これを聞いて
「首を斬るなど必要のないことだ。早々に我が領地から追放せよ。」
しかし物頭この如水の言葉に
「いえいえ、あやつの窃盗は度々のことなのです。なので今回はぜひとも、頚を刎ねられるべきです!」
あくまで斬首の許可を求めた。
如水、これに
「それこそ好都合!度々盗みをするのなら、よくよく盗人に生まれついた者なのだろう。
急いで追放せよ。追放先でもきっと盗みをするだろう。その時、追放先でそいつが仕えた主人に
頚を斬らせればよいではないか。
だいたいこうなったのはお前の責任でもあるぞ?度々盗みをすると言うことを知っていたのなら
どうして今まで放置していた?一度だけでも処分の判断があってしかるねきだ。」
と、したたかに叱りつけたという。
そんな、黒田如水さん窃盗犯の斬首を嫌う、というおはなし。
まあいい話なんですが、『俺は手を汚さず他所で斬らせる』という考えを巡らすあたり
如水黒いよ如水。
(古郷物語)
0616人間七七四年
2011/06/12(日) 11:12:00.82ID:4luwmglz0617人間七七四年
2011/06/12(日) 11:14:21.90ID:axYSqfbc0618人間七七四年
2011/06/12(日) 12:28:54.04ID:8O7Zkq4A私の地元にある岡太神社の伝承
天正10年(1582年)
本能寺の変の後、備中の戦陣から大返ししてきた秀吉を、明智光秀の配下・四方天但馬守が摂津・三軒屋で迎え撃った。
かなり酷い乱戦となり、但馬守と秀吉が一騎討ちする事態になり、但馬守が秀吉を組み伏せた。
これぞ好機と、但馬守は咥えていた刀で首を討とうとしたが、不覚にも歯が欠けてしまい刀を落としてしまう。
但馬守はその一瞬の隙を突かれて、秀吉を助けに来た加藤清正に討ちとられてしまった。
この時但馬守は「無念だから、これから歯の悪い奴を治してやろう。」と言い残したと言われる。
こうして岡太神社に祀られていた禳災の猪神・白山大神は、白山さん→はくさんさん→はくさ(歯瘡)さんとして転訛。
現在、岡太神社では歯神さんとして祭られている。
但馬守の歯の悪い話
ちなみにこの神社、小松内大臣こと平重盛の居館跡とも言われており、供養塔と碑と説明板があり、別名・小松神社と言われています。
0619人間七七四年
2011/06/12(日) 20:13:49.54ID:5BMuyxCm本多出雲守忠朝は平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、「行く末、父親に劣るまい」と絶賛された。
しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、あるいは深酒による不覚によって大御所家康に「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において「討ち死にして汚名を返上せん」と覚悟を決めた。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1151.html)
天王寺口で毛利勝永隊が、松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、忠朝は
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。
良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、さらに五、六騎を打ち殺して
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二〜六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。
弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると
太刀を抜き、狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。
ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。
その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大阪一心寺にある彼の墓には、今も禁酒を誓うノンベエが訪れる。
ttp://www.isshinji.or.jp/event_honda.html
(増補難波戦記及び一心寺寺伝より)
命と引き換えに名誉を回復して神にまで上った話・・・
ではあるが、そんな親父とか古の坂東武者みたいなマネ出来るなら最初からやれ、と思わんでもないのでこちらに。
0620人間七七四年
2011/06/12(日) 21:01:38.96ID:axYSqfbcいざ戦闘では鉄棒がメインウェポンなんですか。
0621人間七七四年
2011/06/12(日) 21:05:37.96ID:acm/4r1x江戸時代の人はこだわり過ぎてるのか先祖とかぶるのがイヤなのか、
変わった漢字で諱を付けてる事が多いよ
内藤義概(よしむね・延岡藩主)
真田幸専(ゆきたか・松代藩主)
松平忠馮(ただより・島原藩主)
とか
0623人間七七四年
2011/06/12(日) 21:11:59.53ID:qYPQ1mJ+http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E9%95%B7%E3%83%88%E3%82%B7
これとかもうどんな字か意味が分からない
0624人間七七四年
2011/06/12(日) 21:17:28.97ID:PdqTeQ/Jというか、通字はもうどうしようもないけど、下手に広く使われている文字が諱に入ってると
君主になったとき文字のかぶる諱を持った家臣が一斉に改名しないといけなくて大変だったらしい。
なのでややこしい字を使うのは、その混乱をなるべく最小限にしませようという配慮の面も
あったっぽい。
0625人間七七四年
2011/06/12(日) 21:22:24.62ID:7sD7+wUm一応このサイトで漢字が紹介されている
http://www1.harenet.ne.jp/~wawa/okadahansi.htm
>>624
李世民なんて、よりによってよく使う漢字ばかりだから
天下こぞって避諱するのは無理、てことで厳格にやらなくてもいいという勅令を出したとか
避諱の制度がきちんと確立してなかっただけかもしれないが
0626人間七七四年
2011/06/13(月) 00:57:43.75ID:r8y9cB/g家光は連れてきた大名たちの中から、伊達忠宗と黒田忠之に声をかけました。
「おい、政宗、筑前!」
「え!?」
あの爺さんはとっくに亡くなっていたころと思われますが、
家光はあいかわらず彼が大好きだったようですね。
0627人間七七四年
2011/06/13(月) 01:15:40.84ID:1OHMqe4jあ、でもこれって儀式の一部の話なのか?
0628人間七七四年
2011/06/13(月) 01:21:46.31ID:x9h1Tv12これ悪い話?
声をかける事が異例ってことかな?
0629人間七七四年
2011/06/13(月) 01:27:50.56ID:WaTq/yGS原文では何と呼んだの?
0630人間七七四年
2011/06/13(月) 01:34:50.27ID:r8y9cB/gそれが確かに「政宗」と書いてあるのです。
誤字かと思ったら、
「忠宗ハ政宗の子なり。然共政宗と父の名を仰られける。」
とありますね。
出典は「黒田続家譜巻之六」
0632人間七七四年
2011/06/13(月) 01:36:39.99ID:zmsWybXy家光は政宗の主君だから、「政宗」と呼んでOK
これはどうか知らないが、この当時や近い時代の資料でも政宗のことは「政宗」と書かれているものが
やたら多いのね。「伊達侍従」とか「越前守」とか「陸奥守」とか書かれているものは非常に少ない。
どうも政宗は自分の諱を世間に積極的にアピールしていたのではないか、という気がちょっとするw
0633人間七七四年
2011/06/13(月) 01:48:24.43ID:AI3K9aJq忠宗共々国主ほどの立場にある者を、父親とはいえ死者と間違えてるんだから実は割と失礼or家光がかなりボーッとしてる話。
しかし忠之がNGMSに良く似たブサ○ク(失礼)だったのは肖像画で知ってるが、忠宗も政宗と似た顔だったんだろか。
それって、本人的にどうだったんだろ。
0634人間七七四年
2011/06/13(月) 01:53:59.38ID:WaTq/yGS実名で呼ぶのは普通はヤバい行為だよ。
時代は遡るが、源頼家が家臣を実名で呼んだことで、家臣の恨みを買い、
政子に、家臣といえども非礼な真似をするなとお灸を据えられている。
政宗が特殊な人なのか、家光と政宗の間だから許されたことなのか・・・
0635人間七七四年
2011/06/13(月) 01:59:14.96ID:ZCUxnsrt頼家と家光の権力の強弱も考慮に入れるべきじゃないかな
0636人間七七四年
2011/06/13(月) 02:36:50.03ID:x9h1Tv12なぜか政宗屋敷だけ、デカデカと「政宗」って名前だけで書かれてたの思い出した
江戸じゃ政宗は名前呼び捨てがデフォなのか?
0638人間七七四年
2011/06/13(月) 09:52:24.01ID:Js72Iwysまさか大返しの話が歯の神様のいわれになると思わなくてワロタ
子供「ねえどうしてこの神社は歯の神様なの?」
大人「時は本能寺の変後、中国毛利氏と和議を結んだ秀吉が…」
子供「ぽかーん」
とか想像してワロタ
0639人間七七四年
2011/06/13(月) 10:51:23.68ID:VUFOISIE歯が欠けた無念で歯を治してくれたり
切腹したら痛かったからって「妊婦大変だな、助けてやるよ」ってなったりする
人のよさそうな逸話って面白いな
0640人間七七四年
2011/06/13(月) 12:17:15.42ID:lvYh6W5a0641人間七七四年
2011/06/13(月) 12:45:20.84ID:uEKezqLlさすがDQNヤンキーだな。
0643人間七七四年
2011/06/13(月) 13:57:39.70ID:Uos6U95N0644人間七七四年
2011/06/13(月) 15:40:26.15ID:VUzWWRHmこれ時期がわからないけど、NGMSは家光が将軍になる直前に亡くなっていて、
家光とNGMSよりも家光と忠之の方が付き合い長いというか親しいはずだから、
筑前=忠之で合ってると思われ
0645人間七七四年
2011/06/13(月) 19:57:44.42ID:qZS7vHjR0646人間七七四年
2011/06/13(月) 20:01:10.15ID:lAB23/ht0647人間七七四年
2011/06/14(火) 00:43:08.25ID:utlehkYR多分そんなところだろう。
年賀の将軍拝謁の時なんか、将軍に個別に挨拶出来るのは
大藩で10万石以下なんか十把一絡げで挨拶することになっていたから。
ましてやいつも顔会わすのは幕閣ぐらいだろうし。
06481/2
2011/06/14(火) 01:38:41.11ID:QKi/1Sof彼は若い頃新参の無足人であったが、それでも今気強く奉公を心がけ、日夜怠りなく勤めているのを認められ、
黒田家に使えて3年目、知行二百石を与えられた。
元より人に超えた根性を持つ若者であり、また、この知行を与えられた事をかたじけないと心から思い、
それ以降は前にもまして少しも弛むこと無く奉公を勤めた。
そんな次郎兵衛が如水にお目見えしたときのこと、如水は彼の顔を見るなり
「次郎兵衛、お前は具合が悪いのではないか?」
と声をかけた。次郎兵衛「いえ、そのようなことはありません」と答え、側の者たちも
「彼は殊の外無病で有名です。彼が我が家に仕えるようになって早25年になりますが、一度も体調を崩したと
言うようなことは御座いません。」
これは如水が常々、家中の者が「気分が悪い」「喉が痛い」「食事が取れない」などと病がましいことを言い出すことを
嫌っていたため、側の者たちはそこに気を使いことさら無病を強調して申し上げたのである。しかし如水
「いや、次郎兵衛の奴は疲れているのか見苦しい。さては食米が不足していて、ひもじくて疲れているのか。
ならば食米を取らせよう」と自筆で手形を書き結んで「これで飯を炊かせ、喰いたいだけ喰え!」
とそれを投げつけた。次郎兵衛がまかり出てこれを戴き、次の間に下がって中を見ると、驚くべきことにそれは、
50石の加増の手形であった。次郎兵衛は感激し
「食米と言われたからにはせいぜい米5俵から10俵ほどの物だと思っていたが、それだけでも私が年来、
心を込めて奉公していたことを大殿様がお認めになっていただいたのだととても嬉しく思っていたのに50石とは!
見たとたん肝を潰しました」と言っていた。
ここまではいい話。が、これから少し後のこと
06492/2
2011/06/14(火) 01:39:19.71ID:QKi/1Sof如水はその者に向かい
「たわけめが、お前は昼盗の仕方というのをまるで解っておらん!これからはきちんと心がけて昼盗をしろ!」と
吐き捨てた。昼盗とは白昼堂々と働く盗み、のことであろうか?この者聞いて当然ながら大変驚き
「お言葉ではありますがご主君は家臣に、律儀に奉公せよと申し付けられるべきなのに、盗みをしろとは
一体どういう事でしょうか!?」
「お前はそんな事も解らぬのか?昼盗をした話はたくさんある。まず一人の事例を見てみよう。
あの伊藤次郎兵衛の奴めは、83石(黒田家の武士の最低石高)で35年召し使っても一言の文句も言わないだろう。
知行の望みがあるわけではなく、どのようにも使って欲しいと言って我が家に出仕するようになった奉公人だが、
何事でも奉公したいと日夜朝暮心がけていることは紛れもなく、何があっても少しもわだかまらず、
良く扱っても悪く扱っても態度を変えること無く生まれついたままのように奉公を専一としていた。
この事を解っていながら取り立てないというのは、召し使ったものの志を奪い、主人として誤り、いや、盗人に
近い行為であると思ったので、奉公してから3年にも足りなかったのに、あいつにとって過剰と言っていい
200石の知行を取らせた。
あいつはその後も猶も初心を忘れず、律儀に、不調法なりに奉公をした。
これならさらに加増させたいと思ったんだ。…だがな、
問題はあいつには、これといって取り上げるほどの忠節がないのだ。
だからわしが、あいつに一花咲かせるような褒美を与えたいと思っても、それに価するような手柄が何も無い。
なので疲れている事にかこつけて、食米だと言って50石取らせたのだ。
いくらあいつが奉公をよくやっていると言っても、例えばあいつを、何かこの如水のために成る公儀への使いを
申し付けるなんて考えられないだろ?だからといって内々の会議に呼んで相談相手にする、なんてのも無理だし、
新参者だから仕置方に使うわけにも行かず、そこで心身ともに辛い目に会うということもない。
とにかく、あいつには功績というべきものが何も無いのだ!
なのに日夜朝暮心を込めて、どうにかして奉公仕りたいと思い入れている一念の志を感じ、わしは今までも取られる
べきではない知行を取られ、この間はさらに米50石を取られた。
勘違いするな?わしはあいつにさらに知行を使わしてやってもいいとすら思っている。少しも惜しいとは思っていない。
しかし考えて見れば、この如水は随分「ぬからぬ者」と自慢をしていながら、こうも簡単に昼盗に合うとは
我が事ながら実に可笑しな事だ。これはな、こういう類の昼盗をしたことのない人間が陥りがちな誤りなのだよ。
伊藤次郎兵衛に限らず我が家には昼盗は何人もいるぞ。お前ひとりづつ数えてみろ。」
と言って笑ったそうである。
自嘲なんだか自慢なんだか教訓なんだかよくわからない、黒田如水の『昼盗』のお話。(古郷物語)
0650人間七七四年
2011/06/14(火) 02:34:57.73ID:ZMdu6VO5「給料泥棒は許さんぞ」
と社内を引き締めたお話?
0651人間七七四年
2011/06/14(火) 03:38:08.70ID:90BUd8A50652人間七七四年
2011/06/14(火) 03:49:12.39ID:u1dt2uw30654人間七七四年
2011/06/14(火) 07:50:38.46ID:ej7QwARjツンデレのお話?
0655人間七七四年
2011/06/14(火) 08:30:25.64ID:1w1hjYjb公式ですが
ttp://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20090516%23p1
0657人間七七四年
2011/06/14(火) 11:18:46.83ID:RCPPzibu簡単に言うと「俺は何の実績のない人間でも真面目でありさえすればこんなに厚遇するんだ。
お前たちも実績を見せられなくても、せめて真面目に働けよ。ちゃんと見てやって居るからな。」
って事だな
0658人間七七四年
2011/06/14(火) 13:01:15.95ID:uix3LF2c0659人間七七四年
2011/06/14(火) 17:54:52.63ID:+qtIpZN2NGMS「一万六千石も与えてやったのに伊藤次郎兵衛の爪の垢を煎じて飲ませたい奴がおるなぁビキビキ」
0660人間七七四年
2011/06/14(火) 18:25:23.36ID:jW5Xs5uCどっかで見た大阪の陣の布陣図でも「政宗」になってた気がする
他の武将みんな名字+役職なのに、やっぱり伊達だけデカデカと「政宗」二文字
0661人間七七四年
2011/06/14(火) 21:36:37.22ID:ZinSvD2Dまーくん呼びは親しみ込めてるんだろうけど、アイドルみたいでなんか違和感を感じる
0662人間七七四年
2011/06/14(火) 21:41:44.98ID:EAxIQXK+0664人間七七四年
2011/06/15(水) 07:38:28.07ID:fzYdBF9kそれとも描いた奴が「あんな奴、諱でええわい」ってことなのか
0665人間七七四年
2011/06/15(水) 09:32:33.52ID:4FV/tR3C「家名や肩書きなんて関係ねぇ。俺は『政宗』なんだからそう書いとけや。」
的な発言を随所でしており、当時の一般認識として『政宗』があったのではないか。
やはり彼にはヤンキー魂を感じずにはいられない。
0666人間七七四年
2011/06/15(水) 10:16:23.37ID:JANwvnft「あんなにはっちゃけてるのは政宗だけなんです。
他の伊達姓の者は常識持ってます」
と伊達家の標準タイプが政宗だと思われたくなかったからかも
さすがにないか
0667人間七七四年
2011/06/15(水) 10:26:57.65ID:hKufVc6C大阪冬の陣のこと。井伊家で物見に出ていた2名がにわかの大雨に合い、ずぶ濡れになって
帰ってきた。それを聞いた井伊直孝は自分が着ていた小袖2枚を脱いで、彼らに与えた。
さてそのすぐ後、安藤帯刀のところに井伊直孝から使いが来た。その口上によると
『わたしはこういう理由で自分の用意していた着物を2枚共に家臣に与えてしまい、しかし着替える服を
持っていません。
そんなわけで帯刀殿、着物を分けていただけないでしょうか?』
その後、家康の御前に安藤帯刀から贈られた小袖を着て出仕する直孝の姿が
度々見かけられたという。
安藤帯刀から服を分けてもらえなかったら裸で居るつもりだったんだろうか?w
そんな、井伊直孝自らの小袖を与える、と言うお話(近古武談)
0668人間七七四年
2011/06/15(水) 10:28:47.83ID:+t8ppWbR当時の瓦版でも政宗だけは諱www何でだwww
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/02/20101.html
0669人間七七四年
2011/06/15(水) 10:44:22.11ID:+GEbXZ5Vまあ服は別に貰うなりなんなりすればいいけど、しっかり奉公してくれる家臣はそうそう簡単には貰えないからなあ。
>>668
多分、学名は政宗・政宗なんだろう
0670人間七七四年
2011/06/15(水) 13:20:47.14ID:b/noIM8z0671人間七七四年
2011/06/15(水) 15:09:41.73ID:jw7sBZ5a京二条城にて、久世三四郎・坂部三十郎の二人が知行の加増にあずかった。
この話を聞いた大久保彦左衛門はすぐに登城して、二人を出待ちし二人を見つけ尋ねた。
「其の方両人登城とは、何事か?」
勘の鋭い久世は、彦左衛門がいまにも斬りかかってきそうな勢いなので、坂部をつねって目配せし、
「思いがけず加増していただきました。特筆すべき武功を立てたわけではございません。強いて言えば耳たぶの事を評価してもらったのだと思います」と答え、耳たぶをつまんで見せた。
(つまり久世・坂部両人は様々な情報を『耳たぶ』で集めた事を評価されたと主張し、戦場での活躍だけが武功だと思ってる彦左衛門を遠回しにバカにしてる)
これを見た彦左衛門は笑いだし、
「さようか耳たぶの評価か、武功以外で貰う知行などはクソだ。そんなクソ知行ほしくはないわw」(さてはたぶにて罷成候成哉。能合点にて候。さ様のくされ知行は不入候)
と皮肉をいって帰っていった。
(鳩巣小説)
既出の逸話ですが解釈が違うと思ったので書きました。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5240.html
0672人間七七四年
2011/06/15(水) 18:12:31.95ID:8Vatt0t10673人間七七四年
2011/06/15(水) 18:15:20.74ID:LL4RQ3MR小田の領民が小田の殿様を信奉していたことは佐竹でもよく知られていたらしい。
小田のことを知るある者が「一年以内に取り返されないよう注意することだ」と言うので
義斯は「首を鴉につつき砕かれることはあっても城は取り返されない」と答えた。
しかし翌年、義斯は城を奪われてしまった。これを見た人は
「小田の鴉はなんと大きいのだ。人をつつき出してしまうとは」と笑った。
この時、城を急襲して取り戻したのが小田の家臣である信太氏であった。
彼は佐竹に降伏してからは無二の忠臣をよそおい、反撃の機会をうかがっていたのだ。
しかし、これは極秘のうちに行われたらしく、彼の妻子ですら知らぬことであった。
息子の喜八などはまさか父の謀叛などと思いもよらず、義斯のもとに駆けつけたために
捕らえられてしまった。そして義斯は虫の居所が悪かったのか喜八を虐殺したのである。
こうした経緯もあって喜八は怨霊となり「城を守ろうと駆けつけたのになぶり殺しにされた」
と佐竹北家にたたりをなした。また、その母もたたりをなしたのだという。
0674人間七七四年
2011/06/15(水) 20:28:30.65ID:lTHquxx40675人間七七四年
2011/06/15(水) 22:13:54.74ID:M+Y8Y9Vp0677人間七七四年
2011/06/16(木) 02:23:10.87ID:xWUDlpQm「私が大浦(青森県弘前市)を治められるのも高信殿の仁愛のお陰です。」
と高直をおだてつつ、その居城である石川城近くにあった自身の城である堀越城の改修を願い出た。
高直の許可を得た為信は、土石に見せかけて兵糧や武器を運び入れると共に、人夫を装わせて兵を集め、改修が終わると
高信の重臣3人を大浦城に招いて歓待し、家臣の板垣兵部を見送りに付けて帰した。
そしてその夜、そのまま堀越城に入っていた板垣を先手として石川城を急襲。油断していた高信を自刃に追い込んだという。
こうして為信は独立の狼煙を上げると共に南部との血で血を洗う抗争を開始したのである。
以上、「津軽一統志」より為信22歳頃の話である。
0678人間七七四年
2011/06/16(木) 04:21:32.73ID:arXvdHTf■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています