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戦国ちょっと悪い話26

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0001人間七七四年2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/

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戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0520人間七七四年2011/06/06(月) 21:41:20.10ID:XSGXRaZt
テルの肖像画はまるで天下人のように威厳に満ちているが
かなり金を積んで修正してもらったに違いない

http://www.busyo.org/media/mouri_terumoto.jpg
0521人間七七四年2011/06/06(月) 21:44:56.74ID:qCGgWr/T
まあ似顔絵ってのは実物より凛々しく画く物ですわな
0522人間七七四年2011/06/06(月) 21:45:48.44ID:ikPMXndP
>>520
修正というか、この時代肖像ってのは本人の死後描かれるもの。
基本理想的に美化して描かれる。
0523人間七七四年2011/06/06(月) 21:51:55.37ID:zADLa7fp
>>522
その点権現様のしかみ像は二重に特殊ということか
0524人間七七四年2011/06/06(月) 21:55:35.17ID:f1XN+m3M
輝元は容貌「だけ」は大将の風格があったとか
0525人間七七四年2011/06/06(月) 22:01:56.55ID:ikPMXndP
>>523
そう、この時代大名の生前の肖像と言うのはほとんど例がない。
当時肖像を描かせると「魂が吸われる」という迷信があったが、家康はそれを気にしてなかった模様。
これが家風だったのか家康の影響なのか知らないが、本多忠勝や榊原康政も生前に
肖像描かせてるな。
0526人間七七四年2011/06/06(月) 22:04:38.60ID:FX7k6O2+
忠勝は何度もダメ出しをしたらしいね
絵師は生きた心地がしなかっただろう
0527人間七七四年2011/06/06(月) 22:27:16.36ID:oppv0O5r
秀吉も生前の肖像画があったよね?
0528人間七七四年2011/06/06(月) 22:30:39.69ID:+HEpo2nJ
肖像画見てがっかりする武将第1位


伊達政宗
0529人間七七四年2011/06/06(月) 22:32:44.59ID:iuL9gL4B
正宗は片目つぶってる肖像画もあるよ
0530人間七七四年2011/06/06(月) 22:33:25.27ID:iuL9gL4B
あ…やってはいけない誤字しちまった
0531人間七七四年2011/06/06(月) 22:37:25.65ID:oppv0O5r
信虎さんは凛々しく描いてあれか…
0532人間七七四年2011/06/06(月) 23:47:22.60ID:7JI2HRmX
信虎さんはぬらりとして掴み所がなく
それでいてひょんなところにお邪魔する
戦国時代のフーテンの虎さん
0533人間七七四年2011/06/06(月) 23:53:36.42ID:+HEpo2nJ
理想
http://www.free-style.biz/book/img/maeda3.jpg

現実
http://www.busyo.org/media/maeda_toshiie.jpg
0534人間七七四年2011/06/06(月) 23:59:35.57ID:4DVT0ReI
>>519の信長と>>533の犬千代が若い頃
臥所でちちくりあって・・・・・・オエエ

0535人間七七四年2011/06/07(火) 00:03:50.72ID:r7awRK4o
毛利元就も寿像が残っている。
謙信も現存はしてないけど晩年に自身を描かせてたはず
0536人間七七四年2011/06/07(火) 00:26:36.13ID:sq0YmuY/
>>532
確かにどう見ても妖怪ぬらりひょんだよなw
0537人間七七四年2011/06/07(火) 00:39:38.97ID:EE+9r9yY
今宵、貴方の枕元に信虎様が立っているよ・・・
0538人間七七四年2011/06/07(火) 00:41:59.00ID:Tyh0DgxN
>534
相手は犬ではなくて三方原で死んだ弟だと言ってる人もいる
0539人間七七四年2011/06/07(火) 03:58:38.35ID:RQKXf4ry
>>533
山田芳裕は後者の肖像からアレ作ったのかw 前者も理想ってほどじゃないようなw
0540人間七七四年2011/06/07(火) 13:24:22.93ID:pstm/cO1
大阪冬の陣でのこと
天王寺口では城の中から、彼らを包囲する攻め手に向かってこんな言葉を投げかけた

「大御所(徳川家康)が御馬を我々に向けられたので、華々しい軍勢を見物いたすぞ!」

挑発である。さて、この言葉に反応したのは藤堂高虎の陣であった。
藤堂陣からはこんな言葉を返す

「見物くらいがお前たちにはお似合いだ!お前たちのような牢人共は金銀に目がくらんで
籠城したが、金を受け取ったからにはさぞかし命は惜しいだろう。
そんな軍は比丘尼にも劣る!
命が惜しければ逃げ道をこしらえてさっさと落ちろ牢人共よ!
今回は特別にその広言を許してやろう!」

これに城方答えるに

「天下分け目の戦に、そんな雑言は無用である!
お前たちは、忠臣二君に仕えずという侍の本分を知っているか!?
我々牢人は今まで、違う主君に仕える事を潔しとしなかったために牢人をして
時節を待っていたのだ。

お前たちの主人和泉守(高虎)のような内股膏薬の間に合いの如き者に、
我らが如き本来の武士が成ることは無いのだ!

命が惜しければそこから逃げこの城に入れ!その生命、助けて取らせるぞ!」


主人高虎を馬鹿にされたこの言葉に藤堂陣の者たちは激怒、一斉に鉄砲を打ちかけたが、
これに城の中からはどっと笑い声が上がった、という。

大阪冬の陣における、挑発合戦のヒトコマである。
(大阪物語)
0541人間七七四年2011/06/07(火) 14:23:57.63ID:ZxgYNRdz
藤堂って確かボコられてたよな 正論言われて痛い目に合されて泣きっ面に蜂だね
0542人間七七四年2011/06/07(火) 15:03:29.63ID:InfeVLob
挑発したのは長曽我部隊なのかな?w
0543人間七七四年2011/06/07(火) 15:06:32.78ID:L5zSn+q6
ありえそうな話だ。長曽我部は田舎もあって割りと古風な家風だしな
0544人間七七四年2011/06/07(火) 16:08:59.69ID:EE+9r9yY
有名な話だがまとめに載っていないようなので。
もし既出だったらすまぬ。


奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。

元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは信昌の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。

元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。

処刑の前、おふうはこう述べたという。

「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
 畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
 人は畜生以上に浅ましいものでございます。」

そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。

おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。


おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。
0545人間七七四年2011/06/07(火) 19:36:51.52ID:BloaH9dB
武田勝頼の小説で同じの読んだな
0546人間七七四年2011/06/07(火) 19:38:15.63ID:N4zy4Swr
山岡徳川家康でも読んだ気がする
…あれ?畜生がどうののくだりあったっけかな…
0547人間七七四年2011/06/07(火) 20:09:47.14ID:TToERA0w
悲しす…。
0548人間七七四年2011/06/07(火) 22:06:45.98ID:dXyWWEq/
宇喜多直家 <なんと酷いことを・・・
0549人間七七四年2011/06/08(水) 00:11:15.21ID:upmz04nA
宇喜多さん、暗殺した相手の子供や暗殺の実行者に気を使ってるからなぁ
0550人間七七四年2011/06/08(水) 00:21:32.07ID:PoAllp5c
って、世間に思わせるのが宇喜田の実に巧みなところ
0551人間七七四年2011/06/08(水) 00:47:02.74ID:wdbSehIQ
印象操作も万全とは直家恐るべし
大悪人と呼ばれて開き直ったあげく、爆死した弾正とは一味違った腹黒さ
0552人間七七四年2011/06/08(水) 01:03:45.42ID:wZQevNR4
心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ

こんな清々しい心境だったのかもな
0553人間七七四年2011/06/08(水) 03:36:14.40ID:oEEbxcpv
>>540
立花宗茂はこれをどんな気持ちで聞いてたんだろうな
0554人間七七四年2011/06/08(水) 04:09:46.12ID:i6mo1kAZ
>>553
宗茂に関しては、関が原の後、豊臣家は立花家を見殺しにしようとしたからなあ。
05555442011/06/08(水) 07:51:29.39ID:lZHbW13g
訂正

おふうは信昌の千丸

おふうは貞昌の弟の千丸


ごめんなさいm(__)m
0556人間七七四年2011/06/08(水) 08:03:14.75ID:vCKzNtt+
関ヶ原当時の豊臣家って誰がトップなん?淀殿?
0557人間七七四年2011/06/08(水) 08:08:13.26ID:FyUU9oWf
マジレスすると家康
0558人間七七四年2011/06/08(水) 08:54:17.47ID:mJgqwUK5
他の五大老はみんな自領へ戻ってたんだっけ
各家それぞれ事情があって長く領地から離れてるのは難しかった
家康だけ全てを任せられる息子がいた
0559人間七七四年2011/06/08(水) 09:01:56.84ID:vCKzNtt+
豊臣家が家康に乗っ取られてたから、家康のやりたい放題だったわけか
耄碌してたんだろうけど秀吉も馬鹿だねぇ
0560人間七七四年2011/06/08(水) 09:24:47.12ID:8Na+Ks+J
豊臣家、というのなら淀かね
豊臣政権、というのなら利家死去・七将襲撃・三成引退以降は家康
0561人間七七四年2011/06/08(水) 09:30:55.93ID:RJpf3ei7
どうも日本史は権力構造を把握するのが面倒だよな
朝廷内の一貴族である足利将軍の管領の細川氏の宿老三好家の家来の松永久秀が真の支配者とか
傍から見たら訳が分からんぞ
0562人間七七四年2011/06/08(水) 09:33:48.93ID:eYDIUQvS
現代に至るまで
日本じゃ一番有能な奴がトップに立つことが少ないし。
0563人間七七四年2011/06/08(水) 11:08:31.01ID:SyJAfvx0
どの国もそうなのかもしれないけど、トップが御輿になっちゃうんだよな
皇室ー藤原家
鎌倉幕府ー北条家ー長崎家
尊氏にしたって、高兄弟が足利家を飲み込みそうな場面があったもんな
0564人間七七四年2011/06/08(水) 11:24:03.72ID:WmDUoNU+
>>553
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4873.html
の逸話とか見てると「義を捧げ賭ける場所で全てを出し切らずに今更何やってんだ」みたいに思ってるかもね。
0565人間七七四年2011/06/08(水) 11:29:12.50ID:PoAllp5c
偉い人は神棚に、みたいなとこがあるからなぁ日本は
位の高い人が有能とは限らないから権威だけもたせるっていう知恵なんだろう
今では偉くて有能な人って待ち望まれてる気配があるけどw
0566人間七七四年2011/06/08(水) 11:40:00.09ID:WRD7uC62
実は徳川幕府はかなり将軍に権力が集中する仕組みだった。
鎌倉幕府における得宗家、室町幕府における京兆家のような、将軍家を越える
門閥家系はついに現れなかったし、機構上の責任者である老中よりも、将軍の近習である
側用人等のほうが権力を持ち得たのも、将軍の君主権が仕組みとしても強大だったため。
0567人間七七四年2011/06/08(水) 15:53:44.74ID:YXjjWnkM
推古天皇の時代に建立され、饅頭の社として有名な漢国神社にあった由緒略記より。

慶長19年11月15日、大坂の陣の際、徳川家康は木津の戦い(木津川口の戦い?)に敗れ、
漢国神社まで落ちのび、境内の桶屋に隠れて、九死に一生を得た。
翌日、報祭祈願のため、神社に参拝、御召鎧一領を奉納し、
その後、鎧蔵を建立して、累世の将軍家は年々使者を立てた、という。

天下人なのに桶屋に隠れることになった家康の悪い話。
調べたら、別の話では真田幸村の軍勢の追われて隠れた話になっているみたい。

ちなみに、奉納した鎧は国立奈良博物館に出陳中らしいだが、展示替えのため見学できなかった。
HPのデータベースで検索してもでなかったです。残念。
0568人間七七四年2011/06/08(水) 17:43:22.61ID:lSwk/msh
何人いるんだ家康の命の恩人
0569人間七七四年2011/06/08(水) 18:36:58.26ID:F5hUGZMY
>564
十万石ちょっとで豊家にも徳川家にもきっちり義理立てする
コストパフォーマンスのいい話
0570人間七七四年2011/06/08(水) 18:40:58.38ID:c963Ect+
>>568
家康が最も恐れた男と同じ数だけいるんじゃないかな?w
0571人間七七四年2011/06/08(水) 19:05:24.75ID:RJpf3ei7
別に恩人は何人いてもいいだろw
0572人間七七四年2011/06/08(水) 19:28:13.26ID:CsgnjNOi
問題は影武者が何人いたかだろ
0573人間七七四年2011/06/08(水) 19:31:54.01ID:IOfl7ek5
>>567
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-567.html

細川高国さんも藍染屋じゃなくて桶屋にすればよかったのにね
0574人間七七四年2011/06/08(水) 19:45:10.85ID:IEpmbcwQ
黒田如水といえば徳川家康や前田利家などとともに、当時吝嗇と呼ばれた代表的な
大名である。そんな如水が秀吉によって備前中津川を与えられた頃のこと

この頃黒田家の家臣たちは、城に詰める者たちを除いた小身者は皆知行地に行き
そこに小屋掛け同然の家を作り、百姓同様の暮らしをしたという。
そして米の初穂、あるいは手作りの野菜が出来たといえば、如水へのお目見えの際
少しづつでもこれを如水に献上すると、殊の外喜び、

「茄子などは最近になって取り寄せ植えたのだろうが、実ってからも『早く太く育て、
如水に見せるのだ』と、朝も晩も心を尽くして育ててくれたのだろう、まことに執着である。」

などと心から感じ入った様子で言葉をかけた。

そんな中、雉、鳩、小鳥、あるいは鮎といったものを購入して、如水に献上する者があった。
これを如水は喜ばないどころか、その者を叱りつけた

「お前は恐ろしい曲者だ!
こんな物をわしに献上するのなら、その資金で何故田畑を広げ、新田を開発しないのか!?

我らは主従の関係ではあるが、このように浪費させるのはお主に家に申し訳ない。
こんな物を貰ってもわしは喜ばぬぞ!
平素は慎ましく暮らしていても、必要な時には人馬を違い無く軍役通りに取り揃え
傍輩に遅れず乗り出してくるものを、わしは良き士、良き藝者だと考えている。
絶対に無駄な浪費はするな。

わしが若い頃浪費が続いたため家計が逼迫し、仕りたいような奉公も出来ず、非常に難儀をしたものだ。
身分の上下にかかわらず、自分の能力の限り勤めてさえ、主人に気に入られるのは難しく、
また傍輩に褒められることも難しいこんな世の中で、自分がこうするべきだと思ったことさえ
経済的理由で断念し黙っていては、どうして周りから評価されるだろうか?

そのころ『貧の盗みに恋の歌』(貧しければ人の物を盗むようになり、恋をすれば歌を詠むようになる。
必要に迫られればどんなことでもすることのたとえ・デジタル大辞泉)という戯言を傍輩が言っているのを
聞いたときは、よほどこいつと喧嘩してやろう、と思ったよ。

だがその時は、いやいやコレは俺のことを言っているのではない、世にありふれた昔から使われている
慣用句に過ぎない。少しも腹をたてるべき物ではないぞ、と自分を説得しどうにかスルーしたのだ。
『貧の盗』などという言葉は今でもうかつに使ってはならぬぞ。時と場合によってはその言葉が、
士を傷つけることに成る。

とにかく浪費にはこんなに害が多い。どうか油断無く稼ぎ、常に倹約し、身体が長く続くようにせよ!」

と、子供に教え諭すように聞かせたという。

黒田如水が吝嗇だったのはどうやら若い頃、金に困った経験からのトラウマのためらしい、と言うお話
(古郷物語)
0575人間七七四年2011/06/08(水) 20:11:10.37ID:PoAllp5c
理屈が多い人だなw
こんなことしてる暇あったら槍具足に金かけろ!でいいじゃん
0576人間七七四年2011/06/08(水) 20:53:49.29ID:akUcInkL
一言で済ませると叱責された気分になるけど
理屈をこねてると何か身になる事を言ってくれてる気がするだろw
多分
0577人間七七四年2011/06/08(水) 21:05:11.72ID:Avgh7XwL
如水軒も徳栄軒と一緒で例え話とか駄目出しのような話が好きですね
一々尤もなところが聞く側にも素直に得心させるのでしょうが。
0578人間七七四年2011/06/08(水) 21:21:33.90ID:LK/bGA6e
秀吉亡きあとに家康に対抗できるのは、如水だけだな
秀吉が大封を与えず、いびりまくった理由が分るわ
秀吉より小早川隆景の方が数年長生きしたら、隆景の如水が
そそのかして、もっと違った歴史になっていたかもと空想してしまった
0579人間七七四年2011/06/08(水) 21:38:08.09ID:IEpmbcwQ
>>574
> 備前中津川

間違えました!当然ですが「豊前中津川」ですw;
0580人間七七四年2011/06/09(木) 00:05:23.24ID:XxlFmr1w
>>574
前田利家公がお呼びです。
0581人間七七四年2011/06/09(木) 02:06:46.06ID:PY1SJLin
なんか古郷物語って理屈っぽい話ばっかで読むの疲れそうだね・・
0582人間七七四年2011/06/09(木) 13:32:10.08ID:VGcgRZ4e
>>578
隆景は保守的だから、家康の対抗馬にならないよ。
0583人間七七四年2011/06/09(木) 17:21:55.00ID:Y/Ahi+vA
>>582
戦術戦略は好戦的
政略は保守的
そんなイメージがある
0584人間七七四年2011/06/09(木) 17:38:13.47ID:jc2HofmX
動くまでが凄く慎重でいざ戦が始まったらイケイケなのが隆景、逆が元春って話が前にあったね
隆景生きてたら関ヶ原が起こるかどうかすら怪しくなりそう
0585人間七七四年2011/06/09(木) 17:54:38.54ID:7tyevdz2
>>581

大久保忠教「どれ、ワシが理屈抜きに楽しめる疲れない書を貸してやろう」




つ「三河物語」
0586人間七七四年2011/06/09(木) 18:42:38.43ID:/fNr06yG
慶長の終わりの江戸城天下普請において、福島正則は巨大な石垣の角石の積み上げを任され、
福島家では1500人体制でこれに臨んだ。が、

「おら、どいたどいた!」
「・・・・・・」
小石・砂利石の積み上げを任された藤堂家中の4〜500人が、ひっきりなしに車で福島家が大角石を
引く先々を行き交い、まったく作業がはかどらなかった。

「もうガマンならん。おい、綱をよこせ!」
ついに限界に達した奉行の真鍋五郎右衛門が、石を乗せたソリを引く綱を取り寄せると、地面に打ち広げた。

五郎右衛門は藤堂家の車を待ち受け、車が綱をまたいだ瞬間、
「そぉい!!」
一気にたぐり寄せた。ものの見事に藤堂家の者たちはひっくり返り、将棋倒しとなって倒れ散った。

「な、何をなさる・・・って、ぬわ―――っ!?」
「ヒャッハー!大漁だあああ!!」

ハイになったのか、福島家中はなぜか梃子に使う棒を振り回して藤堂家中に襲い掛かって乱闘を始め、
これまたなぜか江戸城下へ飛び出した上、本多佐渡守屋敷にまでなだれ込む大喧嘩になったそうな。
(福島太夫殿御事より)

※その頃の市松さん

「ちっとも石が上がって来ぬではないか。どうしたのだ?」
「実は・・・・・・」
「そうか!!」
ニッコリ笑うと(太夫殿機嫌能御笑)、番小屋に引っ込んだきり終日出てきませんでしたとさ。
0587人間七七四年2011/06/09(木) 18:54:38.90ID:TPD/U8Aw
藤堂家っていつでもこういう扱いだな
0588人間七七四年2011/06/09(木) 18:58:14.07ID:HS0YBv4U
>>587
じゃあある意味関連した、藤堂家にとっていい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2613.html
0589人間七七四年2011/06/09(木) 19:22:14.55ID:UG7HMgxU
高虎本人は置いといて、藤堂家となるとやられ役とか、
裏切り者って扱いだよなぁ。幕末にいたるまで。
0590人間七七四年2011/06/09(木) 22:00:41.10ID:S1QQ+ozn
まぁそれは仕方ない。ある意味自業自得
山内家だって関ケ原武功ゼロっすかwwwって300年ディスられてたし
0591人間七七四年2011/06/09(木) 22:32:02.52ID:4dZgJChl
>>584
TERUさんの軽はずみな行動を腕づくでも抑えそうだから
関ヶ原の様相はかなり変わっただろうねえ
0592人間七七四年2011/06/10(金) 02:10:18.32ID:QDTSp5Ew
如水には、キチガイのような可笑しい振る舞いが多かったが、
(如水は、気違の様なる可笑しき事共多き中に)
ある時、龍若という草履取りが悪戯を度々したので終に如水は罰を与え、
彼を大黒柱に縛り付けた。

翌朝、如水の側に仕える御伽衆の者たちが、龍若を許してもらうために詫び言を申し上げようと
話し合いをしていたところ、書状を書いた如水が、こう言ってきた

「城から一里半ばかり離れたところに相原村という、瓜をよく作る所がある。
そこには代官も置いてある。
この代官に瓜を差し出すようにと申し付けるので、それを龍若が城に持ち帰れ。」

この命により縄を解かれた龍若は程なく相原村より瓜を持ち帰る。
すると如水は龍若を御前に呼び出し、手ずから瓜2つを与え、「これを喰らえ」と言った。

御伽衆の者たちこれを見て
「詫び言を申し上げようと思っていたところに、そうするまでもなく許された!
如水様も何のかんの言って、龍若がいないと不便だったのだろう。
そのお陰でこんなに早く埒が開けた。」

良かった良かった、と喜んだ。が、そこで話は終わらない。
龍若が瓜を食べ終わると如水、彼を再び大黒柱に縛り付けたのだ。

そして「家中の者に使いがある」と言っては再び龍若の縄を解き使いにやって、戻ってくればまた縛り、
特に用もないのに「居間の掃除をしろ」と縄を解き、掃除が終わればまた縛り、
1日に1,2度づつは許してはまた縛ると言うことを繰り返し、終に3日間こんなことをした挙句、
ようやく完全に許した。

この事を見聞きした者たちはいずれも可笑しい事だと思い、伽坊主の一人が
「それにしても珍しい御折檻でございました、世間にまれな囚人でありましたことよ。」
そう笑って申し上げると如水

「まあ龍若は徒者だからな。教育のためとは言え、縛ったまま使わないのはわしの損だ。
だからと言って悪戯者のままであっても困るので、折檻はしないといけない。
そうではあるが、縛ったままにしておいたら体に縄が食い込んで、そりゃあ苦しいだろう、
時々休ませて用などもさせて、そんなふうに緩々と折檻したら、普通の折檻より
懲り方も強くなるんだよ。」

と言って如水もまた大笑いしたという。
(古郷物語)
0593NGMS2011/06/10(金) 07:53:46.85ID:/ZOO0KMz
こんな親の息子なんだけど、何をしても家臣にDISられます
どう振る舞ったら尊敬されますか?
0594人間七七四年2011/06/10(金) 08:21:52.64ID:PI6LRClA
監禁された経験者の言葉と思うと重いな
0595人間七七四年2011/06/10(金) 08:23:37.58ID:SoZFEHhN
いい話でも悪い話でもホント理屈っぽいなこの人
0596人間七七四年2011/06/10(金) 08:43:20.27ID:cjUyIcj0
>草履取りが悪戯を度々したので
ご隠居でなく長政さんだったら癇癪おこしてたいへんなことになりそうだ
0597人間七七四年2011/06/10(金) 12:39:05.85ID:GsXJ4Gtv
>>593
そんなこと聞かなきゃ分からない時点で若殿はだめなのじゃ
0598人間七七四年2011/06/10(金) 16:36:48.62ID:pUqi00nD
>>592
これっていい話なのでは?
少なくとも悪い話ではないと思う
0599人間七七四年2011/06/10(金) 18:42:39.04ID:8lbvU9V9
>>598
悪い(事をして処罰された)話
0600人間七七四年2011/06/10(金) 19:02:51.94ID:oUiFraPE
>如水は、気違の様なる可笑しき事共多き中に



サラっとひどいこと書いてる筆者の悪い話だろw
0601人間七七四年2011/06/10(金) 19:13:31.55ID:/kSGUCYz
でもこう言うことを書かせてくれる家風は素晴らしいですね。
ささ、今日も腹立てずの異見会を開きましょうかNGMS様
0602人間七七四年2011/06/10(金) 19:26:54.66ID:sCy7q2dy
現代でもやればいいのに、腹たてずの会
課長って有限不実行ですよねwとか、手柄横取りの巧みさ見習いたいです!とかね
うーん、刃傷沙汰になりそうだ
0603丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 2011/06/10(金) 20:21:40.82ID:bbfsZ2FV
>>35はもっと評価されてもいいはず。

0604人間七七四年2011/06/10(金) 20:31:50.09ID:mXO2PzTc
>>603
三田城の陥落により荒木村重は孤立、
黒田官兵衛は巣帰りが可能となった
のちにキリスト教に改宗した官兵衛はこれを三田黒巣と呼び降誕祭に尊んだ

なんでもできる
0605人間七七四年2011/06/10(金) 20:55:30.20ID:jidrUyMN
逸話を語るスレで民明書房ネタは紛らわしいからな。
「何だネタかよ・・・」とテンション下がったところが基準点になるからよほどじゃないと無理。
0606人間七七四年2011/06/11(土) 19:20:09.96ID:FZoJDsvR
佐野天徳寺は、江戸城内で上杉定勝に向かい、
祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。

「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」

その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。
0607人間七七四年2011/06/11(土) 20:55:26.53ID:ubCwah1w
災害か何かなのか謙信公は。
0608人間七七四年2011/06/11(土) 21:41:50.22ID:ZbsVbo7N
さすが毘沙門天の化身やでぇ・・・
0609人間七七四年2011/06/11(土) 22:17:57.08ID:lZN+4f4Q
曲淵庄左衛門、恩賞を突き返す。そして子孫は・・・・
曲淵庄左衛門吉景、この名を聞けばこのスレの皆の衆はすぐにわかるだろう、
「戦国最強の訴訟クレーマーにして甲州一のへそ曲がり」である。
ある時武田信玄が西上野侵攻を開始した。もちろん庄左衛門も参戦である。
ある戦いにて庄左衛門は手柄を立て、敵将も降伏し論功行賞となったときのことである。
信玄「この度の降伏は殊勝である。この太刀を授けよう。庄左衛門、そなたは良き手柄を立てた、
   この脇差しを授けよう。」
庄左衛門「(怒!)」

庄左衛門「降伏した敵将が太刀で、手柄立てたそれがしが脇差!納得出来るかぁ!ゴルァ!!」

こうして彼は、せっかくの恩賞の脇差しを「投げ返した」が、信玄は笑って許したという。
さて、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-598.htmlにて凄まじい舌禍を残している
庄左衛門であるが、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2344.htmlにあるように
武田滅亡後に旗本として徳川家に仕えた。なんと、行政手腕を高く評価された結果だそうである。
草葉の陰の武田信玄、板垣信形、山県昌景もビックリである。

さて、その子孫は曲淵景漸(かげつぐ)という。松平定信の頃には経済通の名奉行として
最終的に勘定奉行となった人だが、天明の大飢饉の時、米不足なので何とかして欲しい
との江戸町民の嘆願があったとき、陳情中に何らかの感情の行き違いがあったようで、

景漸「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え!」

と言ってしまった。この舌禍が導火線となり大規模打ち壊しに発展したという。
この先祖にしてこの子孫ありと言うところであろうか。
0610人間七七四年2011/06/11(土) 22:23:53.90ID:P16kkRwt
米が無ければ犬を食べればいいじゃない
0611人間七七四年2011/06/11(土) 23:02:25.19ID:aQs2TSgX
綱吉「絶対に許さない」
0612人間七七四年2011/06/12(日) 01:55:39.28ID:l46b879X
>>609
韓信「あれ?蕭何より先に食われましたけど」
0613人間七七四年2011/06/12(日) 05:04:14.10ID:8parbAvw
米(五郎左)がダメなら犬(千代)を食べれば(性的なr)いいじゃ無い
0614人間七七四年2011/06/12(日) 10:16:51.87ID:6UftsQfM
ある時、黒田如水の中間のうちに窃盗をしたものが出た。
物頭は如水に報告し

「そ奴はこれこれの盗みを致しましたので、現在拘束しております。
ご成敗なされて然るべきと考えます。」
と申し上げた。如水これを聞いて

「首を斬るなど必要のないことだ。早々に我が領地から追放せよ。」

しかし物頭この如水の言葉に
「いえいえ、あやつの窃盗は度々のことなのです。なので今回はぜひとも、頚を刎ねられるべきです!」
あくまで斬首の許可を求めた。
如水、これに

「それこそ好都合!度々盗みをするのなら、よくよく盗人に生まれついた者なのだろう。
急いで追放せよ。追放先でもきっと盗みをするだろう。その時、追放先でそいつが仕えた主人に
頚を斬らせればよいではないか。

だいたいこうなったのはお前の責任でもあるぞ?度々盗みをすると言うことを知っていたのなら
どうして今まで放置していた?一度だけでも処分の判断があってしかるねきだ。」

と、したたかに叱りつけたという。
そんな、黒田如水さん窃盗犯の斬首を嫌う、というおはなし。

まあいい話なんですが、『俺は手を汚さず他所で斬らせる』という考えを巡らすあたり
如水黒いよ如水。
(古郷物語)
0615人間七七四年2011/06/12(日) 10:24:21.00ID:u1M+qNbJ
>>609
江戸時代のマリー様、「景漸」で「かげつぐ」って読むのか
めずらしい・・のかな?
0616人間七七四年2011/06/12(日) 11:12:00.82ID:4luwmglz
NGMS「私だったら奉公構にして、更に念には念を入れて刺客を送るね(ドヤ顔)」
0617人間七七四年2011/06/12(日) 11:14:21.90ID:axYSqfbc
自分の手で殺すべきだろ、そりゃ
0618人間七七四年2011/06/12(日) 12:28:54.04ID:8O7Zkq4A
初めて投稿させていただきます。

私の地元にある岡太神社の伝承

天正10年(1582年)
本能寺の変の後、備中の戦陣から大返ししてきた秀吉を、明智光秀の配下・四方天但馬守が摂津・三軒屋で迎え撃った。

かなり酷い乱戦となり、但馬守と秀吉が一騎討ちする事態になり、但馬守が秀吉を組み伏せた。
これぞ好機と、但馬守は咥えていた刀で首を討とうとしたが、不覚にも歯が欠けてしまい刀を落としてしまう。
但馬守はその一瞬の隙を突かれて、秀吉を助けに来た加藤清正に討ちとられてしまった。

この時但馬守は「無念だから、これから歯の悪い奴を治してやろう。」と言い残したと言われる。

こうして岡太神社に祀られていた禳災の猪神・白山大神は、白山さん→はくさんさん→はくさ(歯瘡)さんとして転訛。
現在、岡太神社では歯神さんとして祭られている。

但馬守の歯の悪い話

ちなみにこの神社、小松内大臣こと平重盛の居館跡とも言われており、供養塔と碑と説明板があり、別名・小松神社と言われています。
0619人間七七四年2011/06/12(日) 20:13:49.54ID:5BMuyxCm
便乗して神様ネタ(?)

本多出雲守忠朝は平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、「行く末、父親に劣るまい」と絶賛された。

しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、あるいは深酒による不覚によって大御所家康に「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において「討ち死にして汚名を返上せん」と覚悟を決めた。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1151.html)

天王寺口で毛利勝永隊が、松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、忠朝は
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。

良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、さらに五、六騎を打ち殺して
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二〜六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。

弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると
太刀を抜き、狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。

ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。

その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大阪一心寺にある彼の墓には、今も禁酒を誓うノンベエが訪れる。
ttp://www.isshinji.or.jp/event_honda.html
(増補難波戦記及び一心寺寺伝より)

命と引き換えに名誉を回復して神にまで上った話・・・
ではあるが、そんな親父とか古の坂東武者みたいなマネ出来るなら最初からやれ、と思わんでもないのでこちらに。
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