戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
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戦国ちょっといい話26
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0488人間七七四年
2011/06/05(日) 03:10:05.29ID:VUAJlTdL弱小とみなしていた信長に敗死したのがよほど悔しかったのであろう、その死後、
古戦場にはさまざまな怪異が起きるようになった。
曰く、
義元の墓の横に義元が馬を繋いだ枯れ木が立っているが触れると熱病に罹る
曰く、
義元の霊が巨大な蛍となって現れ、京都を目指して飛んでいく(妖怪「氏蛍」)
曰く、
毎年5月19日の合戦の日になると、白馬に乗った武将が辺り一帯を駆け巡り、その姿を見、
そのことを人に口外すると狂い死にする
などなど
江戸の終わりには、亡霊鎮魂のため、通称「お化け地蔵」なる地蔵が建てられている。
それでも義元の霊は鎮まらなかった。
明治の半ば頃、地元の大工某が義元の墓近くを通り掛かると、松食い虫により食い倒された
松の木の根元から白蛇があらわれるのを見つけた。大工は白馬に乗った武将の伝説のことと
考え合わせ、自分ひとりの心にしまっておけず、そのことをを人に語ってしまった。
するとその日から三日三晩高熱にうなされたあげく死んでしまったという。
怖ろしくなった地元の人々は、高徳院という寺の住職に依頼して加持祈祷をしてもらい、
義元の霊を「三角池」という池に封じ込めてもらった。そして、毎年義元の命日5月19日に
なると木刀や酒、飯、肴を石に縛り付けて池に沈め、お経を唱えて供養するようになった。
昭和30年代に入って、学校建設のため、池は埋め立てられることとなり、義元の霊魂は高徳院
境内にある池に祀り直され、池のほとりにお堂が建てられた。
しばらく後、知多半島から来た霊能力者の女性がお堂でお参りしていると、体が宙に浮き神憑り
状態となってこう告げた。
「我は400年間蛇身となり苦しんできたが、神としてここに祀られて身も安泰となった−−−
ここに鳥居を奉ぜよ−−−さすれば我白龍となりて諸人の願いを叶えようぞ−−−」
こうして義元の霊は「一願成就徳親竜神」となって今では近在の人々の信仰を集めています。
毎月19日と正月15日がご縁日、ご祈祷料は一回3000円です。
文明開化の世になっても呪い殺す義元さんデラオソロシス という訳で悪い話へ投下
もっと早く祀ってあげなよ('A`)
0489人間七七四年
2011/06/05(日) 07:10:54.43ID:8jxlvI5qアピールし続けるってのは大事なことだ
0490人間七七四年
2011/06/05(日) 10:23:11.96ID:5Srg4wEOホームページまで有るのか。
http://www.koutokuin.jp/kitou.htm
縁 起
今川義元公の亡霊
0491人間七七四年
2011/06/05(日) 10:34:13.49ID:lBxSoyRvhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA
0493人間七七四年
2011/06/05(日) 17:00:14.57ID:17l4UgIM信長の怨霊とかおらんがな
0494人間七七四年
2011/06/05(日) 17:04:15.84ID:PFRc0W670495人間七七四年
2011/06/05(日) 17:10:12.68ID:VDqYr/MW0497人間七七四年
2011/06/05(日) 18:14:09.12ID:jtbD9mRt0498人間七七四年
2011/06/05(日) 18:37:54.34ID:0sCrZdHWまとめサイト(有名な話だけど)にあると思うが
乱丸殺して信長を挿した安田作兵衛が腫れ物で発狂して信長命日に自刃してるな
まあ、本能寺から死ぬまでの20年間にヒャッハーしまくってるから怨念にしては悠長だが
0499人間七七四年
2011/06/05(日) 19:56:04.63ID:de8hD7bGという想像から産まれるものだからなあ
0500人間七七四年
2011/06/05(日) 21:26:17.17ID:Y8IyIBEP鎮護のために寺社がつくられたり、怨霊を御霊にしたりするじゃないか
近世までの日本史は怨霊と祟り神に怯える記録ばっかり
0501人間七七四年
2011/06/05(日) 21:39:54.57ID:56XVPTXv殺した敵のたたりを防ぐため
0503人間七七四年
2011/06/05(日) 23:03:56.03ID:cpX2Ps8Y黒田長政は大水牛脇立兜を持っていたことは有名である。
後に福島正則の一ノ谷兜と交換した逸品である。
だが、もう一つ大水牛脇立兜があった。長政の予備品ではない。
持ち主は、黒田一成。加藤重徳の次男にして黒田如水の養子、
黒田長政の義弟と言うところである。
だが、この兜には大問題が一つあった。この肖像を見て欲しい。
黒田長政の大水牛脇立兜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kurourusinurimomonaridaisuigyuwakidatekabuto.jpg
黒田一成肖像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kuroda_Kazushige.jpg
でかい・・・半端ねぇ。
ここで私は思うのだが、この人「まで」目立つことにかけては黒田長政の「面子」を潰していたとは・・・・・
戦争マニアの如水、母里・栗山の黒田家ゴールデンコンビ、めんどくさい井口等々
一癖も二癖も、いや、くせ者だらけの黒田家ではこうでもしないと目立たないのか?
義兄の面子などどうでも良いのか一成?といいたい。そう、せめて甲冑くらい・・・・
しかしこんな連中でもなんだかんだとうまく切り回していた長政って一体・・・・
(後藤又兵衛は除く。)
0504人間七七四年
2011/06/05(日) 23:26:16.35ID:z9iSULpw後藤又兵衛もかぶってた気がするが、ありゃ講談かな?
0505人間七七四年
2011/06/05(日) 23:31:11.66ID:u1TarYbO家臣を目立たせることによって、戦場において長政を狙われにくくする狙いがあったと思われ
どこの家のものかさえわかれば、活躍がわかるからな
0506人間七七四年
2011/06/05(日) 23:34:11.09ID:Xc2z/5Xm同じ兜が大量にあると評価される部下はには困るだろうなぁ。
0507人間七七四年
2011/06/06(月) 00:08:12.40ID:mY246nIIええ、もちろん兜が大きすぎて縦には入らなかった模様
あまりにでかすぎたために大砲の標的になったという逸話もありますね
0509人間七七四年
2011/06/06(月) 02:19:08.18ID:Ts3VbiKQQ太郎以上に機転が利いてさらに、森家の血筋という末恐ろしいスペック
なんだよな
0510人間七七四年
2011/06/06(月) 03:08:30.36ID:gWjcIVy9信長ー信忠ー欄丸のリレーになる可能性もあったか
0511人間七七四年
2011/06/06(月) 04:55:50.32ID:Ac8yVA2F乱丸のイメージは作られたモノで能力は未知数でしかないもの
0512人間七七四年
2011/06/06(月) 12:27:12.27ID:vCUAX9Vfマッチョ系な若者であったろう、とは良く言われているね
0513人間七七四年
2011/06/06(月) 12:28:26.33ID:vCUAX9Vf○ 森可成の息子であり森長可の弟
失礼した
0514人間七七四年
2011/06/06(月) 13:00:32.77ID:P/j6qSkb0515人間七七四年
2011/06/06(月) 17:41:44.78ID:jajyHKQwの句に由来してるだけで実際には呼ばれて無いと思う
まあ、長可は小柄な体格だったらしいから無きにしもあらずだが
0516人間七七四年
2011/06/06(月) 19:22:30.31ID:/WujR3c50517人間七七四年
2011/06/06(月) 19:33:15.40ID:U5zPu1Mh鬼にも程があるだろ
0518人間七七四年
2011/06/06(月) 19:36:02.53ID:jURECGadこれは悪い話かな。実物に近づけたのか貶めようとしたのか不明だが
朱元璋の二種類の肖像画のようにどちらが正しいのか今後も論議されそう
0519人間七七四年
2011/06/06(月) 19:43:17.37ID:2ZqKvL5wこの>>196の肖像画がもし実物に近いのなら、
服はともかく顔は良くしたんじゃないか
0520人間七七四年
2011/06/06(月) 21:41:20.10ID:XSGXRaZtかなり金を積んで修正してもらったに違いない
http://www.busyo.org/media/mouri_terumoto.jpg
0521人間七七四年
2011/06/06(月) 21:44:56.74ID:qCGgWr/T0524人間七七四年
2011/06/06(月) 21:55:35.17ID:f1XN+m3M0525人間七七四年
2011/06/06(月) 22:01:56.55ID:ikPMXndPそう、この時代大名の生前の肖像と言うのはほとんど例がない。
当時肖像を描かせると「魂が吸われる」という迷信があったが、家康はそれを気にしてなかった模様。
これが家風だったのか家康の影響なのか知らないが、本多忠勝や榊原康政も生前に
肖像描かせてるな。
0526人間七七四年
2011/06/06(月) 22:04:38.60ID:FX7k6O2+絵師は生きた心地がしなかっただろう
0527人間七七四年
2011/06/06(月) 22:27:16.36ID:oppv0O5r0528人間七七四年
2011/06/06(月) 22:30:39.69ID:+HEpo2nJ伊達政宗
0529人間七七四年
2011/06/06(月) 22:32:44.59ID:iuL9gL4B0530人間七七四年
2011/06/06(月) 22:33:25.27ID:iuL9gL4B0531人間七七四年
2011/06/06(月) 22:37:25.65ID:oppv0O5r0532人間七七四年
2011/06/06(月) 23:47:22.60ID:7JI2HRmXそれでいてひょんなところにお邪魔する
戦国時代のフーテンの虎さん
0533人間七七四年
2011/06/06(月) 23:53:36.42ID:+HEpo2nJhttp://www.free-style.biz/book/img/maeda3.jpg
現実
http://www.busyo.org/media/maeda_toshiie.jpg
0535人間七七四年
2011/06/07(火) 00:03:50.72ID:r7awRK4o謙信も現存はしてないけど晩年に自身を描かせてたはず
0537人間七七四年
2011/06/07(火) 00:39:38.97ID:EE+9r9yY0538人間七七四年
2011/06/07(火) 00:41:59.00ID:Tyh0DgxN相手は犬ではなくて三方原で死んだ弟だと言ってる人もいる
0540人間七七四年
2011/06/07(火) 13:24:22.93ID:pstm/cO1天王寺口では城の中から、彼らを包囲する攻め手に向かってこんな言葉を投げかけた
「大御所(徳川家康)が御馬を我々に向けられたので、華々しい軍勢を見物いたすぞ!」
挑発である。さて、この言葉に反応したのは藤堂高虎の陣であった。
藤堂陣からはこんな言葉を返す
「見物くらいがお前たちにはお似合いだ!お前たちのような牢人共は金銀に目がくらんで
籠城したが、金を受け取ったからにはさぞかし命は惜しいだろう。
そんな軍は比丘尼にも劣る!
命が惜しければ逃げ道をこしらえてさっさと落ちろ牢人共よ!
今回は特別にその広言を許してやろう!」
これに城方答えるに
「天下分け目の戦に、そんな雑言は無用である!
お前たちは、忠臣二君に仕えずという侍の本分を知っているか!?
我々牢人は今まで、違う主君に仕える事を潔しとしなかったために牢人をして
時節を待っていたのだ。
お前たちの主人和泉守(高虎)のような内股膏薬の間に合いの如き者に、
我らが如き本来の武士が成ることは無いのだ!
命が惜しければそこから逃げこの城に入れ!その生命、助けて取らせるぞ!」
主人高虎を馬鹿にされたこの言葉に藤堂陣の者たちは激怒、一斉に鉄砲を打ちかけたが、
これに城の中からはどっと笑い声が上がった、という。
大阪冬の陣における、挑発合戦のヒトコマである。
(大阪物語)
0541人間七七四年
2011/06/07(火) 14:23:57.63ID:ZxgYNRdz0542人間七七四年
2011/06/07(火) 15:03:29.63ID:InfeVLob0543人間七七四年
2011/06/07(火) 15:06:32.78ID:L5zSn+q60544人間七七四年
2011/06/07(火) 16:08:59.69ID:EE+9r9yYもし既出だったらすまぬ。
奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。
元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは信昌の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。
元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。
処刑の前、おふうはこう述べたという。
「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
人は畜生以上に浅ましいものでございます。」
そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。
おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。
おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。
0545人間七七四年
2011/06/07(火) 19:36:51.52ID:BloaH9dB0546人間七七四年
2011/06/07(火) 19:38:15.63ID:N4zy4Swr…あれ?畜生がどうののくだりあったっけかな…
0547人間七七四年
2011/06/07(火) 20:09:47.14ID:TToERA0w0548人間七七四年
2011/06/07(火) 22:06:45.98ID:dXyWWEq/0549人間七七四年
2011/06/08(水) 00:11:15.21ID:upmz04nA0550人間七七四年
2011/06/08(水) 00:21:32.07ID:PoAllp5c0551人間七七四年
2011/06/08(水) 00:47:02.74ID:wdbSehIQ大悪人と呼ばれて開き直ったあげく、爆死した弾正とは一味違った腹黒さ
0552人間七七四年
2011/06/08(水) 01:03:45.42ID:wZQevNR4こんな清々しい心境だったのかもな
0555544
2011/06/08(水) 07:51:29.39ID:lZHbW13gおふうは信昌の千丸
↓
おふうは貞昌の弟の千丸
ごめんなさいm(__)m
0556人間七七四年
2011/06/08(水) 08:03:14.75ID:vCKzNtt+0557人間七七四年
2011/06/08(水) 08:08:13.26ID:FyUU9oWf0558人間七七四年
2011/06/08(水) 08:54:17.47ID:mJgqwUK5各家それぞれ事情があって長く領地から離れてるのは難しかった
家康だけ全てを任せられる息子がいた
0559人間七七四年
2011/06/08(水) 09:01:56.84ID:vCKzNtt+耄碌してたんだろうけど秀吉も馬鹿だねぇ
0560人間七七四年
2011/06/08(水) 09:24:47.12ID:8Na+Ks+J豊臣政権、というのなら利家死去・七将襲撃・三成引退以降は家康
0561人間七七四年
2011/06/08(水) 09:30:55.93ID:RJpf3ei7朝廷内の一貴族である足利将軍の管領の細川氏の宿老三好家の家来の松永久秀が真の支配者とか
傍から見たら訳が分からんぞ
0562人間七七四年
2011/06/08(水) 09:33:48.93ID:eYDIUQvS日本じゃ一番有能な奴がトップに立つことが少ないし。
0563人間七七四年
2011/06/08(水) 11:08:31.01ID:SyJAfvx0皇室ー藤原家
鎌倉幕府ー北条家ー長崎家
尊氏にしたって、高兄弟が足利家を飲み込みそうな場面があったもんな
0564人間七七四年
2011/06/08(水) 11:24:03.72ID:WmDUoNU+ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4873.html
の逸話とか見てると「義を捧げ賭ける場所で全てを出し切らずに今更何やってんだ」みたいに思ってるかもね。
0565人間七七四年
2011/06/08(水) 11:29:12.50ID:PoAllp5c位の高い人が有能とは限らないから権威だけもたせるっていう知恵なんだろう
今では偉くて有能な人って待ち望まれてる気配があるけどw
0566人間七七四年
2011/06/08(水) 11:40:00.09ID:WRD7uC62鎌倉幕府における得宗家、室町幕府における京兆家のような、将軍家を越える
門閥家系はついに現れなかったし、機構上の責任者である老中よりも、将軍の近習である
側用人等のほうが権力を持ち得たのも、将軍の君主権が仕組みとしても強大だったため。
0567人間七七四年
2011/06/08(水) 15:53:44.74ID:YXjjWnkM慶長19年11月15日、大坂の陣の際、徳川家康は木津の戦い(木津川口の戦い?)に敗れ、
漢国神社まで落ちのび、境内の桶屋に隠れて、九死に一生を得た。
翌日、報祭祈願のため、神社に参拝、御召鎧一領を奉納し、
その後、鎧蔵を建立して、累世の将軍家は年々使者を立てた、という。
天下人なのに桶屋に隠れることになった家康の悪い話。
調べたら、別の話では真田幸村の軍勢の追われて隠れた話になっているみたい。
ちなみに、奉納した鎧は国立奈良博物館に出陳中らしいだが、展示替えのため見学できなかった。
HPのデータベースで検索してもでなかったです。残念。
0568人間七七四年
2011/06/08(水) 17:43:22.61ID:lSwk/msh0569人間七七四年
2011/06/08(水) 18:36:58.26ID:F5hUGZMY十万石ちょっとで豊家にも徳川家にもきっちり義理立てする
コストパフォーマンスのいい話
0571人間七七四年
2011/06/08(水) 19:05:24.75ID:RJpf3ei70572人間七七四年
2011/06/08(水) 19:28:13.26ID:CsgnjNOi0573人間七七四年
2011/06/08(水) 19:31:54.01ID:IOfl7ek5http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-567.html
細川高国さんも藍染屋じゃなくて桶屋にすればよかったのにね
0574人間七七四年
2011/06/08(水) 19:45:10.85ID:IEpmbcwQ大名である。そんな如水が秀吉によって備前中津川を与えられた頃のこと
この頃黒田家の家臣たちは、城に詰める者たちを除いた小身者は皆知行地に行き
そこに小屋掛け同然の家を作り、百姓同様の暮らしをしたという。
そして米の初穂、あるいは手作りの野菜が出来たといえば、如水へのお目見えの際
少しづつでもこれを如水に献上すると、殊の外喜び、
「茄子などは最近になって取り寄せ植えたのだろうが、実ってからも『早く太く育て、
如水に見せるのだ』と、朝も晩も心を尽くして育ててくれたのだろう、まことに執着である。」
などと心から感じ入った様子で言葉をかけた。
そんな中、雉、鳩、小鳥、あるいは鮎といったものを購入して、如水に献上する者があった。
これを如水は喜ばないどころか、その者を叱りつけた
「お前は恐ろしい曲者だ!
こんな物をわしに献上するのなら、その資金で何故田畑を広げ、新田を開発しないのか!?
我らは主従の関係ではあるが、このように浪費させるのはお主に家に申し訳ない。
こんな物を貰ってもわしは喜ばぬぞ!
平素は慎ましく暮らしていても、必要な時には人馬を違い無く軍役通りに取り揃え
傍輩に遅れず乗り出してくるものを、わしは良き士、良き藝者だと考えている。
絶対に無駄な浪費はするな。
わしが若い頃浪費が続いたため家計が逼迫し、仕りたいような奉公も出来ず、非常に難儀をしたものだ。
身分の上下にかかわらず、自分の能力の限り勤めてさえ、主人に気に入られるのは難しく、
また傍輩に褒められることも難しいこんな世の中で、自分がこうするべきだと思ったことさえ
経済的理由で断念し黙っていては、どうして周りから評価されるだろうか?
そのころ『貧の盗みに恋の歌』(貧しければ人の物を盗むようになり、恋をすれば歌を詠むようになる。
必要に迫られればどんなことでもすることのたとえ・デジタル大辞泉)という戯言を傍輩が言っているのを
聞いたときは、よほどこいつと喧嘩してやろう、と思ったよ。
だがその時は、いやいやコレは俺のことを言っているのではない、世にありふれた昔から使われている
慣用句に過ぎない。少しも腹をたてるべき物ではないぞ、と自分を説得しどうにかスルーしたのだ。
『貧の盗』などという言葉は今でもうかつに使ってはならぬぞ。時と場合によってはその言葉が、
士を傷つけることに成る。
とにかく浪費にはこんなに害が多い。どうか油断無く稼ぎ、常に倹約し、身体が長く続くようにせよ!」
と、子供に教え諭すように聞かせたという。
黒田如水が吝嗇だったのはどうやら若い頃、金に困った経験からのトラウマのためらしい、と言うお話
(古郷物語)
0575人間七七四年
2011/06/08(水) 20:11:10.37ID:PoAllp5cこんなことしてる暇あったら槍具足に金かけろ!でいいじゃん
0576人間七七四年
2011/06/08(水) 20:53:49.29ID:akUcInkL理屈をこねてると何か身になる事を言ってくれてる気がするだろw
多分
0577人間七七四年
2011/06/08(水) 21:05:11.72ID:Avgh7XwL一々尤もなところが聞く側にも素直に得心させるのでしょうが。
0578人間七七四年
2011/06/08(水) 21:21:33.90ID:LK/bGA6e秀吉が大封を与えず、いびりまくった理由が分るわ
秀吉より小早川隆景の方が数年長生きしたら、隆景の如水が
そそのかして、もっと違った歴史になっていたかもと空想してしまった
0581人間七七四年
2011/06/09(木) 02:06:46.06ID:PY1SJLin0584人間七七四年
2011/06/09(木) 17:38:13.47ID:jc2HofmX隆景生きてたら関ヶ原が起こるかどうかすら怪しくなりそう
0586人間七七四年
2011/06/09(木) 18:42:38.43ID:/fNr06yG福島家では1500人体制でこれに臨んだ。が、
「おら、どいたどいた!」
「・・・・・・」
小石・砂利石の積み上げを任された藤堂家中の4〜500人が、ひっきりなしに車で福島家が大角石を
引く先々を行き交い、まったく作業がはかどらなかった。
「もうガマンならん。おい、綱をよこせ!」
ついに限界に達した奉行の真鍋五郎右衛門が、石を乗せたソリを引く綱を取り寄せると、地面に打ち広げた。
五郎右衛門は藤堂家の車を待ち受け、車が綱をまたいだ瞬間、
「そぉい!!」
一気にたぐり寄せた。ものの見事に藤堂家の者たちはひっくり返り、将棋倒しとなって倒れ散った。
「な、何をなさる・・・って、ぬわ―――っ!?」
「ヒャッハー!大漁だあああ!!」
ハイになったのか、福島家中はなぜか梃子に使う棒を振り回して藤堂家中に襲い掛かって乱闘を始め、
これまたなぜか江戸城下へ飛び出した上、本多佐渡守屋敷にまでなだれ込む大喧嘩になったそうな。
(福島太夫殿御事より)
※その頃の市松さん
「ちっとも石が上がって来ぬではないか。どうしたのだ?」
「実は・・・・・・」
「そうか!!」
ニッコリ笑うと(太夫殿機嫌能御笑)、番小屋に引っ込んだきり終日出てきませんでしたとさ。
0587人間七七四年
2011/06/09(木) 18:54:38.90ID:TPD/U8Aw■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています