戦国ちょっと悪い話26
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0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0319人間七七四年
2011/05/22(日) 19:27:48.48ID:pYDzCk1Fに漂ったから
子供の頃油壺マリンパーク行った時は知らんかったが
0321人間七七四年
2011/05/22(日) 20:28:23.15ID:hOvIpklRちなみにこれhttp://www.paperbirch.com/sakura/
0323人間七七四年
2011/05/23(月) 21:16:29.36ID:mwdms74Z0324人間七七四年
2011/05/23(月) 23:22:58.99ID:qLiEMwnL同寸の息子は、リンク先の霊界通信によると 荒次郎義光とあるし
wikiでは荒次郎義意となっているね
0325人間七七四年
2011/05/24(火) 00:10:47.01ID:WEJ8qK8wあ、謝っとけ!将門公に!
例えこの程度でもちっさい不幸が訪れるぞマジで!
近いうちに足の小指を強打するぞマジで!
0326人間七七四年
2011/05/24(火) 10:15:18.83ID:CsLy+1Vo元亀3年(1572)春、かれは讃岐において鷹狩をした。
木太郷の深江と言う場所で長治自ら、鴨の群れにあわせて鷹を放つ。
鷹は鴨を掴み、そのまま真部の見勇利権之助という者の家の前に落ちた。
この時、権之助の家に使えていた若松というまだ幼い少年がこれを見つけ、恐ろしい物が
落ちてきたと思ったのであろうか、火焚き棒で鷹、鴨ともども打ち殺してしまった。
長治はこれを知ると激怒し、その少年を捕らえさせ「牛裂きにせよ!」と命ずる。
少年は両足を牛二匹に縄で結び付けられ、牛を左右に追分け両足を二方に引き裂いた。
人々はこれを見て恐れ震え
「あの子供は是非をわきまえてあんな事をしたわけではないのに、その刑罰は
あまりに暴虐にして無道である。」と口々に語り、多くの人心が三好氏から離反した、と言われる。
三好長治讃州鷹狩での逸話である。
(南海治乱記)
0327人間七七四年
2011/05/24(火) 20:05:43.43ID:r5NEHAt80328人間七七四年
2011/05/24(火) 23:04:52.39ID:pCDoygftん、被ってるけど一応内容が少し違うな
しかし流石やな長治さんは
まだまだ長治で出てない逸話あるし、暫くしたら悪い逸話で埋め尽くしてやるから覚悟しろよ
0329人間七七四年
2011/05/24(火) 23:07:35.92ID:QL0FZWax0330人間七七四年
2011/05/24(火) 23:08:58.01ID:LhxhfTtGおーい竜馬の話だが
0331人間七七四年
2011/05/24(火) 23:13:33.20ID:grK3Fn9f森 長可
伊達政宗
細川忠興
島津忠恒
坂崎直盛 New!
三好長治 New!
0332人間七七四年
2011/05/24(火) 23:26:27.14ID:2kgyWBz/0333人間七七四年
2011/05/24(火) 23:29:27.33ID:GP3W6zr30334人間七七四年
2011/05/24(火) 23:30:58.09ID:sqJuy1mPいまいち仲間が思いつかないが
0335人間七七四年
2011/05/24(火) 23:32:51.06ID:S9u8Kl4+0336人間七七四年
2011/05/24(火) 23:33:51.73ID:r6/TZ2Th価値を知らない人に打ち殺されたらブチギレるのも当然かという気もするが。
今の感覚だと高級車や時計をボコボコに壊されるようなもんでしょ。
0337人間七七四年
2011/05/24(火) 23:40:17.75ID:/rEAToCLどこぞの知事の高級車を子どもがふざけて傷つけてしまった時に、
その知事が子供をボコボコにしたら問題になると思わんか?
領主の器じゃないってことじゃないの?
0338人間七七四年
2011/05/24(火) 23:54:47.06ID:vUG+5j5iそこにしびれるあこがれる部分が無いと四天王には入れない
0339人間七七四年
2011/05/24(火) 23:56:25.51ID:FmgHjZnm0340人間七七四年
2011/05/24(火) 23:57:43.66ID:qoO2jXLS0342人間七七四年
2011/05/25(水) 00:06:56.31ID:sJIc8+44>>341
大関さんもそっちに分別かな
0343人間七七四年
2011/05/25(水) 00:13:10.01ID:bFLd78p/優秀なはずなのになんで…っていうのが他の人には足りない
0344人間七七四年
2011/05/25(水) 00:59:25.87ID:ze8QBCKh0345人間七七四年
2011/05/25(水) 01:04:15.24ID:BdT7rFeQDQNというより酒乱枠だと思う
0346人間七七四年
2011/05/25(水) 01:08:33.57ID:ZJ1xku1n0347人間七七四年
2011/05/25(水) 01:36:14.24ID:T4zBUTx8人質を要求する。この時家康の次男、於義丸(後の結城秀康)が送られたことは有名であるが、
実は秀吉方が最初人質として要求していたのは、この於義丸ではなかった。
秀吉が望んだ人質は、家康の異父弟、松平定勝であった。
この秀吉からの要求を家康も基本的に受け入れた。
が、大阪に定勝を出すことに強硬に反対する人物が現れた。家康の実母、於大の方である。
彼女は家康に向かって深く嘆き、
「三郎四郎(定勝)の兄である源三郎(久松俊勝)は最初今川家の人質となり、
その後武田信玄の駿河侵攻で甲斐に連れて行かれ、そこからどうにか脱走してきたものの
雪山の中を逃げたため手足の指が東証により皆落ち、世に交われるような体では
なくなってしまいました。
今またこの子まで、人質として都に送らずともよいではありませんか!」
と、泣き口説いた。
家康が人質として苦労したことは皆知るところであるが、於大の再婚相手の子も
このように人質で不幸な目にあっていた、どうもこの人の子は、人質運が悪いというべきであろうか。
ともかくも実母にこのように泣かれ、さすがの家康もこれを無視することもできず、
仕方なく定勝に変わり、我が子於義丸を秀吉の人質にすることになったのだという。
この後しばらく家康は、「これは三郎四郎(定勝)が人質に行きたくなくて母上に訴えたからに
違いない!」と、定勝に対して大いに怒っていたが、そのうちにそれが誤解だと解り、家康の怒りも
溶けたのだそうだ。
家康が秀吉の元に於義丸を人質に出すまでの過程である。
(藩翰譜)
0348人間七七四年
2011/05/25(水) 02:09:11.55ID:l/Xv3Cph0350人間七七四年
2011/05/25(水) 02:14:36.03ID:YeMg+mJ80352人間七七四年
2011/05/25(水) 02:28:05.89ID:9/SVmQhP異父兄弟だとなんか嫌な感じがするな・・・
母ちゃんビッチかよって思われるし
0353人間七七四年
2011/05/25(水) 02:42:09.36ID:e/Bk1vnC女の再婚も多いから平気だろ。
むしろ経産婦は石女じゃないと判っているだけ歓迎されたような話も聞くが。
0355人間七七四年
2011/05/25(水) 03:00:39.73ID:9/SVmQhP最近だと、普通の弟だった説が有力らしいな
0356人間七七四年
2011/05/25(水) 06:30:35.77ID:JdWKgAgQ0357人間七七四年
2011/05/25(水) 10:27:54.71ID:MYE9pJba0359人間七七四年
2011/05/25(水) 15:13:09.77ID:ZhYEM9Lohttp://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/stadium/1284945746/l50
オマイが知ってる悪人を教えろや!
0360人間七七四年
2011/05/25(水) 21:12:51.05ID:LFcpA/Wn信虎「略奪の定番アイテムでもあるんだよなこれが」
正昌「しかも返品交換の対象でもあるんだよな、御屋形」
0364人間七七四年
2011/05/26(木) 01:10:14.55ID:bQC6Y/jz花井三九郎って連れ子の姉の夫でしょ?
余談だけどググってみたら「捨て童子」ってタカラヅカになってんのなw
0365人間七七四年
2011/05/26(木) 05:26:36.60ID:T/1x5PXR市松や坂崎さんにはそこが後一歩足りない
的確に時代の勝利者を見抜く感覚はあるのに
0366人間七七四年
2011/05/26(木) 05:47:09.27ID:oMjZ3AjG0367人間七七四年
2011/05/26(木) 08:42:15.81ID:Eh/D9loi0368人間七七四年
2011/05/26(木) 18:53:35.03ID:KTOeap1Ghttp://w3.bs-tbs.co.jp/no2/backnumber.html
第5回からの4人が全員徳川家康の「ナンバー2」な件
というか家康は何人ナンバー2がいるんだ?そもそもナンバー2は何人も居るものなのか?w
0369人間七七四年
2011/05/26(木) 19:22:38.19ID:aGYQVjI6あれだ、野球で言う左のエースみたいなもんだ
若手ナンバー2が直政、古参のナンバー2が正信、外様のナンバー2が高虎みたいな感じで
0371人間七七四年
2011/05/26(木) 19:25:19.23ID:QycOB8dK0372人間七七四年
2011/05/26(木) 19:46:15.88ID:/IrAXtXm景勝≒アンスナバッハ
フェザーン≒一向宗
多分、当てはめていけば、きりがないだろうな
0373人間七七四年
2011/05/26(木) 19:48:34.62ID:/vfN1YbQ0374人間七七四年
2011/05/26(木) 19:52:52.26ID:LZSdL2Zo秀吉にも、奉行系のナンバー2と大老系のナンバー2がいるんですね・・・秀吉にとってのナンバー2って、秀長でその死後は家康なんじゃないかなあ?
0376人間七七四年
2011/05/26(木) 21:46:03.98ID:jmqhAb78この時遠州井伊家当主、井伊直盛も共に討死をする。
井伊家の家督は直盛の養子、井伊直親が継いた。
さて、同5年(1562)春、井伊直親の家臣である小野但馬という者、主人を恨むこと有り
今川氏真の元に参って密かに告げる。
「肥後守(井伊直親)は織田徳川と通じ、御屋形様に叛こうとしております!」
氏真はこれを信じ、大いに怒った。「井伊が叛いた!急ぎ井伊を退治すべし!」
しかし今川氏の一族であり、直親の友人でもある新野左馬之助は興奮する氏真を強く諌めた
「私は直親と長年親しくしており、彼の心の中も良く存じております。
直親は当家に二心を持つような人間ではありません!これはおそらく、讒人の申したことに
違い有りません。どうか、事の真偽を究明あるまで、御追討はお止めください!」
そして左馬之助は井伊の元に使いを出し、かくかくと状況を知らせる。
直親もこれに大いに驚き
「直親は先祖以来、今川殿の被官となってよりこのかた、累代において後ろめたき事は有りませんでした。
中でも養父である直盛は、故義元公のお供をして、桶狭間の合戦で討ち死にしました。
であれば、あの信長はご主君の仇というだけでなく、この直親にとっても父の仇であるのに、どうして御屋形様に
叛いて、君父重讐の相手に組するのでしょうか!?
この旨を持って、私に誤りの無いことをどうか、申開きしてください。」
そう、左馬之助の使いに託した。
ところが、これを聞いた氏真は
「いやいや、領地に居ながらにして陳じるというのでは疑いを解くことは出来ない!
駿府に参って申開きをせよ!」
と言う。直親もこれを受け入れる。このとき直親は「現在不信を被っている身が
郎党を多く引き連れていくのは宜しくない」と、主従わずか20人にて駿府へと向かった。
途中、掛川に差し掛かった所での事である。
完全武装した掛川城主・朝比奈備中守の軍勢2,300騎が突然、この井伊家の一行を襲った。
彼らは一行を大勢で取り巻き、一人も残さず討ち果たした。
この時井伊家は事実上、壊滅した。
直親にはこの時僅か2歳の男子・虎松があり、これも氏真により誅殺されるところを、井伊討伐に反対していた
新野左馬之助がその身だけはなんとか守り、命を助けた。
この時助けられた虎松こそ、言うまでもなく井伊家を再興する、後の井伊直政である。
今川氏真による、井伊家粛清についての話である。
(藩翰譜)
0377人間七七四年
2011/05/26(木) 21:50:14.74ID:MYzACahMというか、直政さんってオレの中では急に登場する感じなんだよな〜
0378人間七七四年
2011/05/26(木) 21:53:25.83ID:xFONMq26松永「三好家で重鎮の立場にいたわしもNO.2みたいなもの」
直家「浦上家随一の実力者のわしもNO.2と呼ばれてもいいですな」
0379人間七七四年
2011/05/26(木) 23:01:13.55ID:WURHk3pIttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E9%80%A3%E7%AB%9C
ここに新野親矩という名前でちょこっとだけ出てるよ
0380人間七七四年
2011/05/26(木) 23:50:57.45ID:4EgGwTpbマザー2のモグラみたいなことになってきたなwww
0381人間七七四年
2011/05/27(金) 01:17:17.61ID:2Zd6Kyeu0382人間七七四年
2011/05/27(金) 01:58:33.30ID:/kq3CsKx関白豊臣秀次謀反の噂高まった頃、当時京の徳川家の屋敷には、当時16歳の徳川秀忠があった。
秀次はこれに目をつけ、たばかって秀忠の身の上を確保し、その上で人質を盾に
徳川家康を頼って太閤秀吉に申開きをすべし、と考える。
4月3日の早朝、徳川家の屋敷に秀次よりの使者が来た
これに対応したのは徳川家重臣、多くも忠隣である。
「今朝は朝食をご馳走したい。どうぞ聚楽へと参るように。本来なら昨夜のうちに
伝えておくべきだったが、いささか事にまぎれてしまい、今になった。」
使者はそう忠隣に語り、直ぐに秀忠をつれてくるよう要求する。が、忠隣これに
「仰せ、承りました。ですがその…、秀忠様はまだ幼く、いつも日が高く上がってから
漸く起きだすのです。
関白殿下へのご返事が遅れるのは大変憚るべきことですので、お使いの方々は
一旦お帰りになって、この事を関白殿下にお伝え下さい。
忠隣は秀忠様が目覚められましたら仰せのことを伝え、必ず聚楽に参らせます。」
と、使者を返す。勿論秀忠が未だ寝ているなど、嘘である。忠隣はすぐさま土井利勝をお供に、
秀忠を密かに伏見の屋敷へと移し、その上で自身は京屋敷に留まった。
そのうちに秀次の使者が再び、催促のためであろう、徳川屋敷に訪れた。
忠隣これに対面して、曰く
「いやはやそれが、秀忠様ですが、かねてから茶会の約束があったそうで、今日の早朝、
伏見に行かれたそうなのです!私はその事をまるで知りませんでしたから、又いつものように
日が高くなってから起きる事よとばかり思っていたところ、たった今この事を知らされ、
返す返すも恐れ入ることでございます。」
と、心底恐縮している体で謝罪する。時間は既に午の刻あたり(正午ごろ)、追いかけて戻すことも
もはや無理であり、使者は如何とも出来ずそのまま戻っていった。
秀次は大変口惜しく思ったが、程なく切腹し果てられた、とのことである。
大久保忠隣の、秀忠脱出作戦についての逸話である。
(藩翰譜)
0384人間七七四年
2011/05/28(土) 09:23:09.06ID:wLFW8SKW0385人間七七四年
2011/05/28(土) 09:30:05.03ID:2ZosS/5K0386人間七七四年
2011/05/28(土) 10:16:54.44ID:nEAHzUyL0387人間七七四年
2011/05/28(土) 13:06:46.45ID:TXNHSauW0388人間七七四年
2011/05/28(土) 13:46:40.62ID:iummxbJf0389人間七七四年
2011/05/28(土) 13:51:52.97ID:huhU27Lb0390人間七七四年
2011/05/28(土) 13:53:55.94ID:VYXN62xT0391人間七七四年
2011/05/28(土) 14:48:16.13ID:l9T1HUGP0393人間七七四年
2011/05/28(土) 18:53:01.21ID:lqmyVF/80394人間七七四年
2011/05/28(土) 20:36:58.04ID:mJ177SaO志岐鎮経・天草種元・大矢野種基・上津浦種直・栖本親高といった国人たちが反発、蜂起する。
いわゆる天草国人一揆の勃発である。
さて小西行長はこの一揆の中心人物である志岐鎮経を滅ぼさんと、伊地知文太夫を大将として
その居城、志岐城を攻めさせた。
が、この軍は志岐鎮経の夜襲に会い、一人残らず討ち取られる。文字通りの全滅となった。
この敗戦に驚いた小西行長は自ら六千の軍を率い、さらに加藤清正より千五百の援軍を得、
都合八千で、船により海上から、志岐城近くの袋の裏に上陸した。
すると志岐城から早速人数が出て、干潟を駈けて小西の陣の直ぐ側まで来ると
こう歌って挑発する
『京衆京衆、なぜ鑓せぬぞ、臭橙の皮のすもりか!?』
(京衆よ京衆よ、どうして我々と戦わないのか?お前たちはダイダイの皮の番人か!?)
これに小西・加藤の軍は怒り、力攻めで志岐城の城際まで押し寄せる。
が、志岐城は南は深山、西北は士町に続いている道はあるがその他は全て海、
東は深い谷、堀際は厚い岩盤という天然の要害であり、小西・加藤軍は谷間まで仕寄りを仕掛け
敵を城内に押し込めたものの、攻め落とすまでには至らず、小西は志岐鎮経の縁者である
有馬晴信を通して和平の道を探った。
と、小西・加藤の軍勢は先に自分たちを侮辱した歌を大変憎く思っており、この頃志岐城に向かって
こんな囃し歌を歌いかけ、その溜飲を下げていたという
『城衆城衆、なぜ切って出ぬぞ 志岐じゃしきじゃ、へのこしきじゃ!』
説明しよう。「しき」には「城」という意味があります。そして『へのこ』、これは睾丸や陰茎、
すなわちオチンチンの事です。すなわち
「城衆よ城衆よ!どうして城から討って出ないのか!?志岐城はチンコ城じゃ!」
と歌って笑ったのです。…レベル低いですねw
そんな小学生レベルのチンコチンコの悪口で溜飲を下げるのもいかがなものかと思わなくもない、
天草国人一揆、志岐城攻めの逸話。
(續撰清正記)
0395人間七七四年
2011/05/28(土) 22:24:56.94ID:SEnTZOd/0396人間七七四年
2011/05/29(日) 05:38:32.23ID:k5FAetCg最上義光「ほう、その方なかなか面白い歌を詠むな」
江口道連「べ、別に殿の為に詠んだんじゃないんだからね!(え?殿に褒められた?嬉しい!)」
義光「五兵衛(道連の通称)、京都に一緒に行く?」
道連「か、勝手にすればいいじゃないの!(え?殿と旅行?それも京都??)」
義光「五兵衛、満延が斃れた・・・」
道連「と、殿が不甲斐ないからそうなるんだからね!(え?延沢殿が倒れた・・・殿の心配を払拭しないと!)」
義光「五兵衛、尽くしてくれたから畑谷城あげる」
道連「こ、これで拙者を追い出したとは思わないでね!(え?一城の城主とは言え、殿と離れないといけないなんて・・・)」
義光「五兵衛、山形城の普請奉行やってくれる?」
道連「べ、別にお城が好きだからやってあげるんだからね!(え?本城の普請も任せてくれるの?)」
0397人間七七四年
2011/05/29(日) 05:42:18.12ID:G9QJFKzh改変しない方が面白いのに
0398人間七七四年
2011/05/29(日) 05:42:24.32ID:k5FAetCg慶長出羽合戦
義光「五兵衛、畑谷は小城だから山形で篭城しよう」
道連「殿、直江風情に舐められてはなりませぬ
(え?殿が拙者を安じてくれてる?」
義光「五兵衛、一緒に山形城で篭城しよう」
道連「拙者が畑谷守備を命ぜられたのはこの日のため
(え?一度ならず、二度までも気にしてくれてる??)」
義光「五兵衛、もう時間が無いから戻ってきて・・・義光、一生のお願い」
道連「最上武士の生き様、天下に知らしめん
(・・・・・・)」
直江兼続「江口殿、開城降伏すれば命は助けよう」
道連「だが、断る
(殿、お世話になりました)」
江口道連討ち死に
最上武士はマンドクセ
0399人間七七四年
2011/05/29(日) 06:13:25.72ID:ORxRwcTp自分で考えた創作パートメインの逸話?を投稿してた人か。
なんか最上を題材にしてのこの書き方は。
カッコ内とかなんだかなあ。
0400人間七七四年
2011/05/29(日) 07:07:10.50ID:Snk7CkIU0401人間七七四年
2011/05/29(日) 08:37:26.91ID:34vaQxsB記事内容を捏造したレスを見て以来
>>398みたいなのも粘着アンチの自演だったのかと納得した
0402人間七七四年
2011/05/29(日) 08:38:49.80ID:EFV00kPa0403人間七七四年
2011/05/29(日) 09:50:37.80ID:A41QTDyt0404人間七七四年
2011/05/29(日) 10:07:31.93ID:rRgDQXTC戦国ゲームとかで戦国時代がこうやって人気を得ているんだろうなぁ
0405人間七七四年
2011/05/29(日) 10:41:01.82ID:8egXdsHi0406人間七七四年
2011/05/29(日) 11:00:52.41ID:zcrz6hvQ0407人間七七四年
2011/05/29(日) 11:06:32.44ID:k4MVpi4Qなんだこりゃ?w;
04091/2
2011/05/29(日) 11:14:00.23ID:k4MVpi4Q加藤清正の軍も攻略地点への移動を開始しようとするが、この時、日本から馬を輸送する船が
未だ到着しておらず、50人余りが馬に乗れない状況に居た。
彼らは船を待つべきか、それとも現地で、駑馬でもいいからそれを求めて乗るべきかと相談していると
船頭たちが、「日本では風波悪しく、5日も10日も港から船を出せない状況のようです」と言うので、
これはもう現地で馬を徴収するしか無いと、馬を探したものの、あるいは敵が乗り、もしくは
荷を付けて逃げ出したものと見え、馬は一頭も見つからなかった。
かといって騎馬の士が、徒歩で軍勢に付いて行くわけにも行かない…
と、この時現地に牛は残されていることを発見。彼らはこれを奪い、牛に乗って進軍に付く事とした。
0410人間七七四年
2011/05/29(日) 11:16:03.83ID:p804O9dF04112/2
2011/05/29(日) 11:16:06.66ID:k4MVpi4Q「方々は騎馬とは言いがたい、騎牛衆と申すべきだ!いつも馬乗りより遅いですぞ!」
と戯言をいう。牛に乗った者たち、最初はそれに付き合い一緒に笑っていたが、その戯言があまりに度々なので終に腹を立て
「さてはお主達は冗談ではなく本気で笑っているようだ!
それならば牛の乗った者が遅いか、馬に乗った者がどれほど早いか、勝負いたすべし!」
と、決闘に及ぼうとしたところ、これを聞きつけた清正の家老たちが慌てて間に入って色々と扱いを入れ、悪口を言った若者たちから謝罪をさせ、どうにかその場を無事に済ませたという。
朝鮮の役、「騎牛衆」のお話(續撰清正記)
0412人間七七四年
2011/05/29(日) 11:53:09.87ID:QXEiNf0o0413人間七七四年
2011/05/29(日) 12:56:10.83ID:NdAkaJKX0416人間七七四年
2011/05/29(日) 17:34:47.37ID:oI2S4ys7まとめ管理人さんにも毎回スルーされているのにしょうこりもないなw
0417人間七七四年
2011/05/29(日) 17:43:21.70ID:tR/usN5G0418人間七七四年
2011/05/29(日) 17:49:52.60ID:/wDKrcIH「陣中に於いて、いかに竹中半兵衛とは言え、いつも心静かに牛に騎す事など出来はしない。
あれはたまたま一度、竹中殿が牛に騎した事があったのを、後の人が話を大きく、面白おかしく
したのだ。」
牛のほうが乗りにくいってことなのかな
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