戦国ちょっと悪い話26
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2011/05/03(火) 03:46:40.51ID:bO+mpFnO戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話25
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298639461/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話26
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1302853897/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0003人間七七四年
2011/05/03(火) 13:07:26.58ID:yZiUMPKa0004人間七七四年
2011/05/03(火) 13:43:34.13ID:TKGzHm+R| |
|_| ∧∧
|松|(´・ω・`) ドウゾー
|永|o ヾ
| ̄|―u' 旦 <コトッ
""""""""""""""""
0005人間七七四年
2011/05/03(火) 16:14:48.86ID:ymsLxnOBあ、お茶は要らないです。
0006人間七七四年
2011/05/03(火) 18:59:46.20ID:eRCVAFXx0007人間七七四年
2011/05/03(火) 20:38:08.17ID:pj6PTojf0008人間七七四年
2011/05/03(火) 20:38:30.37ID:2EFBm5Go0010人間七七四年
2011/05/04(水) 00:13:03.92ID:nnu4rXcF東軍に属した九鬼守隆は家康に必死に嘆願を行い、西軍として動いたその父、九鬼嘉隆の助命を
ついに求めさせた。が、この報が届く前に、九鬼嘉隆は切腹をして果てた。
これには、このような事情があったとされる。
九鬼守隆は家康に従って上杉征伐へと向かう時、九鬼家の重臣である豊田五郎右衛門をその居城、鳥羽城の
留守居として置いた。
が、関ヶ原戦役が勃発すると九鬼嘉隆は石田三成らに与し、鳥羽城を奪わんとする。
この大殿の行動に、豊田も流石に敵し難く、戦わずに鳥羽城を明け渡した。
ところが、この豊田の行動は九鬼家の同僚たちから嘲笑された。
『おおよそ留守居として兵を持ち城を守るというのは、こういう事態の為ではないか。
いかに主君の御父君とは言え、なんと生ぬるい豊田の振る舞いであろうか!』
彼らは集まるとよってたかってこの話をし、豊田を爪弾きにした。豊田はこれを深く口惜しく思った。
さて関ヶ原が東軍の大勝に終わると、九鬼嘉隆はその身を隠した。
豊田は密かに嘉隆の行方を探り、嘉隆と行動を共にした熊野水軍の将、堀内氏善がその居場所を
知っていると聞くと、彼は早速新宮の堀内のところへ行き、こう語った
「この度のこと、長門守様(九鬼守隆)が内府公に必死の嘆願をされ、この度の軍功に変えて嘉隆様の罪を許す、
と言うことになりました。
わたくしは長門守様の命により、嘉隆様を急ぎ迎え、帰国のお供をするように命ぜられこちらに参ったのです。」
堀内からこれを聞いた九鬼嘉隆はその言葉を信じ、隠れていた答志島より出て豊田と共に帰国の途に付いた。
…と、
途中、志摩の和具と言う場所までくると、豊田は嘉隆に突然言い放った
「堀内殿に言ったこと、あれは全て嘘です。
実際には内府公の嘉隆様への怒りは殊の外深く、当家は既に滅びることに決定いたしました。
…どうか嘉隆様、ご子孫の後の栄を期せるよう御計らい給って下さい。」
嘉隆は豊田の言う事を正確に理解した。
「さらば我が首取りて、徳川殿に参らせよ!」
そして近くの洞仙庵と言う寺で切腹して果てた。
さて豊田は嘉隆の首をとって鳥羽へと帰路を進める。ところが伊勢の明星の茶屋にて、本当の嘉隆御赦免の
御教書を持った使いと行き会った。
まさか本当に許されるとは!豊田は大いに驚いたが、それは表に出さず何も知らぬ体でこの使者に応接した。
そして鳥羽に戻ると守隆の御前に参上し
「私は熊野まで行き、大隅守様(九鬼嘉隆)のお供仕ると申し出ました。
所が大隅守様は、『いかに親子の仲とは言え、一度敵となって再び対面に及ぶなどあり得る事ではない。』と
おっしゃいました。私はそれに、なにも問題の有ることではございませんと様々にお諌め申し上げ、『それならば』と
私と一緒に帰国の途につきました。ところが、ご心中では納得されていなかったのでしょう、私の気づかぬうちに
密かにお腹を召され、その上で私を呼ばれ、ご自身の首を私に与える、と仰せになりました。
そうなった以上もはや力なく、お言葉に従って此の様に…」
そう言って嘉隆の首を差し出した。
これには九鬼守隆も唖然としたが、致し方なく嘉隆の首と共にこの事を徳川家康に報告。家康も「不憫の次第である」と
首を返したという。
このしばらく後、豊田五郎右衛門の所業が発覚。九鬼守隆は激怒し豊田を鋸挽きにしたそうである。
九鬼嘉隆切腹の顛末である。
0011人間七七四年
2011/05/04(水) 02:11:15.88ID:cYrjQdhYしかし、大殿じゃなくて笑った同輩に復讐すべきだろ、普通は
0012人間七七四年
2011/05/04(水) 10:25:16.61ID:CX5ggUOf0013人間七七四年
2011/05/04(水) 10:49:07.42ID:hi4U/LRf0014人間七七四年
2011/05/04(水) 12:09:38.99ID:kPdA4y9I0015人間七七四年
2011/05/04(水) 12:50:21.49ID:sgc4N9xrいったい何がしたかったのやら
0016人間七七四年
2011/05/04(水) 13:01:00.57ID:fTGb8jWK0017人間七七四年
2011/05/04(水) 14:24:38.60ID:Owk1gkJkそして痛いしっぺ返しを喰らう
九鬼親子はとんだ災難だけどさ
豊田は忠臣ぽいのに、まわりは追い込むような真似をしちゃいかんわな
あとでまわりの連中はどう思ったんだろうな
0018人間七七四年
2011/05/04(水) 14:38:31.09ID:CX5ggUOfメンタル弱くて保身第一な様にしか思えない。
上手に嘘をついて事態を好転させられる技量があるならともかく、
その技量が無いのに嘘を重ねたせいで、自爆しただけっぽい。
0019人間七七四年
2011/05/04(水) 15:26:34.40ID:+M2qyL64考えたら判断難しくはあるな。
特に九鬼なんてほとんど嘉隆一代で成り上がったんだし、真田の小松さん
みたいな鬼嫁くらいじゃないとなかなか突っぱねるというわけにもなあ。
0020人間七七四年
2011/05/04(水) 16:00:59.27ID:9NeyyLrr0021人間七七四年
2011/05/04(水) 16:27:38.76ID:yV0/qDoC結局、嘉隆の為に動いているわけでも守隆の為に動いてるわけでも、
自分に明確な目的(大関、宇喜多系でもいいから)があるわけでもなく、
向ける相手の違う恨みと保身のために動いてるから、人間らしいっちゃらしいんだが、
自業自得で同情できない気がする。
0022人間七七四年
2011/05/04(水) 20:03:07.23ID:J7lx2oFV宴席後に設けた茶会の席で家康は、かたわらに西軍諸将より没収した名物茶壷の数々を並べ、出席者のひとり
黒田如水に呼びかけた。
「他人の手を借りず、一人で持って行くことが出来れば、どれでも一つ差し上げよう!」
摂津有岡城での幽閉以来、歩行も不自由という如水に対する、天下人の戯れである。
「では、遠慮なく。」
ところが如水は、家康の言葉を聞くが早いか、すぐに立ち上がり、居並ぶ名物茶壷の中でもひときわ大きな
『南条の茶壷』を抱えると、スタスタと足が不自由とは思えぬ身ごなしで帰ってしまった。
これにはさすがの家康も、出席していた諸大名も、開いた口が塞がらなかったという。
家祖が体を張って(?)稼いだ『南条の茶壷』、桑田忠親氏によると
現在も旧黒田侯爵家が所蔵しているはずだというが、はてさて。
0023人間七七四年
2011/05/04(水) 20:05:50.50ID:jC61cxdxそんな馬鹿な・・・
0024人間七七四年
2011/05/04(水) 20:09:40.10ID:sgc4N9xr彼なら治っているのに治ってないふりぐらいはやってのけそうだし
0025人間七七四年
2011/05/04(水) 20:10:52.78ID:hJ3Syvxr伊良子清玄みたいに態と足が悪いのを強調して見せてたのか?
0026人間七七四年
2011/05/04(水) 20:31:00.99ID:+M2qyL64まあ、ぶっちゃけ創作だろうけど、そうだとしても作者のセンスは褒められるべきw
0027人間七七四年
2011/05/04(水) 20:31:05.15ID:Hgc59vRQ0028人間七七四年
2011/05/04(水) 21:23:24.48ID:LuTzLbkh0029人間七七四年
2011/05/04(水) 22:42:20.16ID:1hplMvPE0030人間七七四年
2011/05/04(水) 22:46:30.16ID:fTGb8jWK0031人間七七四年
2011/05/04(水) 23:47:53.09ID:LESfSna5ウソの上塗りは身を滅ぼす
俺
明日からマジメに生きるわ
0032人間七七四年
2011/05/05(木) 00:53:30.87ID:jJ2qLqoo0033人間七七四年
2011/05/05(木) 05:48:18.36ID:cBVjHNir理屈を付けると馬に乗ったり長時間歩けるほどではないけど、
杖なしでも短時間歩けるレベルではあったということかな
普段は念の為に杖持ってたけど
0034人間七七四年
2011/05/05(木) 06:40:40.18ID:8agLdJAa室内で杖突いてた?肩借りてた?
0035人間七七四年
2011/05/05(木) 08:31:24.50ID:T31gvbY2このときの名物を取って屋敷(巣)へ帰った一連の動きを
後世「黒田の巣帰り 官兵衛は名物取ったり」を略して黒巣官取といい
欧州に伝わった際に当初は街中の中長距離移動を指したが
その後整地されていないコースでの中長距離走を
黒田官兵衛の苦難とゴールした際の栄誉にあやかってクロスカントリーと呼ばれるようになった
出典 民明書房 黒田官兵衛の世界への影響
0036人間七七四年
2011/05/05(木) 08:57:53.54ID:LK8hDoZo0037人間七七四年
2011/05/05(木) 09:05:44.67ID:aOI3GwQr0038人間七七四年
2011/05/05(木) 10:38:43.54ID:Vl4TEJIF0040人間七七四年
2011/05/05(木) 12:09:21.14ID:q0kHpOoB0041人間七七四年
2011/05/05(木) 18:43:02.36ID:fNUyKjXU馬よりも格段に移動が遅くなるうえ、人馬の消耗も激しく何よりシュールな絵面だな
0042人間七七四年
2011/05/05(木) 19:10:44.61ID:C0IDlwJ00043人間七七四年
2011/05/05(木) 19:44:59.95ID:OLOJ3cL70044人間七七四年
2011/05/05(木) 19:48:27.41ID:EzAbw11j0045人間七七四年
2011/05/05(木) 19:59:09.63ID:/F/FE9mi0046人間七七四年
2011/05/05(木) 21:11:55.99ID:q5ixQ0jA0047人間七七四年
2011/05/05(木) 21:22:44.63ID:+z6N9X2s0048人間七七四年
2011/05/05(木) 22:51:36.78ID:J05Ms8sHうーん、我ながらアホな事を考えたな、明日や、明日が悪いんや…
0049人間七七四年
2011/05/05(木) 23:19:44.64ID:LCLVbrNJ0050人間七七四年
2011/05/05(木) 23:28:23.41ID:foGrEwUy0051人間七七四年
2011/05/06(金) 00:04:07.10ID:PUegEPCq豊後の大友宗麟を頼る。
伊東義祐は国東郡に屋敷を与えられ、丁重に扱われた。
が、翌天正6年の耳川の合戦で大友軍が島津に大敗するとその空気も変わる。
『大友家を島津との戦いに巻き込んだ元凶』と、伊東の存在をあからさまに厄介視するようになったのだ。
そんなある日、国東の伊東の屋敷の前に、何者かがこのような落首の書かれた札を立てた。
『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』
これに激しくプライドを傷つけられた伊東義祐は、わずか20名ばかりの家臣と共に、密かに豊後を
落去、伊予へと渡る。そして各地を放浪して暮らし、天正13年(1585)、堺にて死去。
豊後からの退去後、彼が日向の地を踏むことはなかった。
伊東義祐の晩年を流浪のものとするきっかけとなったと言われる、落首についての話である。
0052人間七七四年
2011/05/06(金) 07:44:36.52ID:U2rMuws3それか逃げないで潔く討ち死にする
0055人間七七四年
2011/05/06(金) 11:16:03.71ID:pKBBJOT7負けたのは自分の責任だし、伊東をダシに領土を切り取る気マンマンだったくせに被害者気取りか
戦闘力は無理でもせめて軍神の潔さを見習えと・・・
0056人間七七四年
2011/05/06(金) 13:10:33.32ID:0uqEM3ht0057人間七七四年
2011/05/06(金) 18:35:06.06ID:pQxASYiO一向宗じゃないんだから、年貢が入らなくなるわけでもないだろ。
というかこのころ日本全国に100万人のキリスト教徒がいたそうだが
全人口は1200万人程度だから単純に考えて12人に一人がキリスト教徒
さらに布教は西国が中心で、大友家当主の宗麟は熱心な信者だという事を考えれば
大友家中には結構な数のキリスト教徒がいたんじゃないかな。
0058人間七七四年
2011/05/06(金) 20:06:06.66ID:EM30mxLS義統とその母親は旗頭だったはず。(母親は神社の娘)
宇佐やら臼杵、国東辺りは仏教が盛んだったので、その周辺はほとんど反キリシタン。
で、伊東の屋敷が国東で、反キリシタンの立場から見れば火種を持ち込んだと見られても仕方がない。
伊東さんにとっちゃ、濡れ衣だがw
義統がキリシタンになるのは母親が死んだあと、黒官の勧めで改宗した。
0059人間七七四年
2011/05/06(金) 22:42:33.45ID:t8h+GftV幕末期の攘夷は外国の文化的侵略を恐れていた(日本人が日本人出なくなることを恐れてた)から起きたけど、
こんなに信者増やすなら過激な反発派が出ても当たり前だよなぁ
0060人間七七四年
2011/05/06(金) 22:47:59.94ID:KVz1zW5u戦国期も約百万人だけど、現代日本でも約百万人と言われている…。
増えないねw
やっぱ、基本的に合わないんじゃないかとも思うが。
0061人間七七四年
2011/05/06(金) 23:25:52.86ID:gU8dAUgD戦国時代の農村部は惣村単位で動くだろうから、
興味無いとかよく分かってない連中も大勢含まれた100万な気がw
0062人間七七四年
2011/05/06(金) 23:45:49.99ID:PUegEPCqそういう「嫌々入信させられたキリシタン」は相当多かったと思われる。
島原の乱の時はそういう記憶があった分、非キリシタンの村はキリシタンを
非常に警戒し、それもあって乱の拡大が妨げられた面がある。
0063人間七七四年
2011/05/06(金) 23:52:38.51ID:WwlO0dG3昔も似たような計算だったのは火を見るより明らかw
0064人間七七四年
2011/05/07(土) 00:14:10.47ID:XTGBTF8p強制改宗って寺社勢力の力を弱めたいとかの思惑もあったのかな。
既存の宗教とは相容れなくて、しかも自分の保護を必要としている新勢力を伸ばして対抗させたいというか。
0065人間七七四年
2011/05/07(土) 00:33:59.50ID:Hv78qrdd室町時代ならともかく戦国末期の、しかも地方の寺社に「寺社勢力」と言えるほどの力なんて無いよ。
もうどうしたって武士に頼らないと存続し得ない存在になってる。
キリシタン大名の強制改宗は、結局信仰心(ある種の狂信性)の影響が大きいと思うよ。
宣教師からして他宗教との併存なんてはなから認めず、信者に
「寺社を見つけたら燃やそう。異教徒を見つけたら殺そう。」
なんて事説教してるくらいでw
0066人間七七四年
2011/05/07(土) 00:41:21.30ID:MvNXsYxd0067人間七七四年
2011/05/07(土) 01:37:41.27ID:umUs+Mal破綻したけど。
0069人間七七四年
2011/05/07(土) 02:04:23.66ID:Tlugt7kr0070人間七七四年
2011/05/07(土) 12:25:43.06ID:Hr9AKjtY0071人間七七四年
2011/05/07(土) 20:04:39.47ID:Hv78qrdd小出三尹(みつまさ、もしくは、みつただ)と言えば和泉陶器1万石の小さな大名だが、その母は秀吉の母、
大政所の妹であり、豊臣秀吉の従兄弟であって豊臣家に最も近しい血縁の者であった。
そんな小出三尹も大阪の陣では徳川方として働き、慶長20年(1615)5月7日、ついに大阪落城の日を迎えた。
大阪城は炎上し、諸大名は続々と家康の陣を訪ね、祝いの言葉を述べた。
さて、そんな賞賛攻めの中、家康は諸侯の中に小出三尹の姿を見つけた。そしてこの小大名に、
家康の方から声をかけた
「あれをどう思うか?」
今なお炎上している大阪城の方を指して言う。
小出三尹はその方を一瞥しただけで、こう答えた
「こんな情けない事はありません。」
(かかるうたてき御事こそ候はね)
この言葉にその場は凍りついた。諸大名は「なんと不可解なことを言い出すのか!?」
「どのような疑いを持たれても仕方のない言葉ではないか!」と驚き思った。
が、家康はこれを聞くと
「…汝は故太閤の所縁であったな。
豊臣家とは非常に近しい者だ。そんな汝がそのように思うのは、道理というものだ。」
と、感動した面持ちで言った。
当然のことながら、その場にはたくさんの、豊臣恩顧の大名たちが居た。
彼らも我先にと、豊臣家が滅びたことへの祝いを述べていたのだ。
そんな中の小出の発言に、彼らは非常に恥ずかしい思いをしたのだという。
そして家康は、そんな旧主家の滅亡を祝う人々に囲まれている中、小出の言葉に救われた思いだったようだ。
彼は後にも重臣たちに
「大隅守(小出三尹)が言ったことは、神妙の至というものだ。」
そう、あの時のことを思い出して語ったと言う
(藩翰譜)
0072人間七七四年
2011/05/07(土) 20:32:11.19ID:1DZnSr9I0073人間七七四年
2011/05/07(土) 21:19:40.48ID:pydC9nfn0074人間七七四年
2011/05/07(土) 21:26:22.98ID:KqRTV0VH0075人間七七四年
2011/05/07(土) 23:27:40.31ID:HMCI4E2m0076人間七七四年
2011/05/07(土) 23:50:38.52ID:uynqD8mu0077人間七七四年
2011/05/07(土) 23:56:08.28ID:4w+ddfVk0078人間七七四年
2011/05/08(日) 00:16:35.81ID:mZNtN90sと旧主である豊臣家を滅ぼした直後に近習に語っちゃうお茶目な家康(『坂役叢話』より)
言ってることとやってることが違いすぎるんだよね
0079人間七七四年
2011/05/08(日) 00:26:21.74ID:sCJYkWtV茶壷とか一番でかいだろ、その割には価値あまりないし・・・・
俺なら茶碗とか茶入をあるだけ持っていく
九十九茄子、曜変天目、初花肩衝、楢柴肩衝・・・
0080人間七七四年
2011/05/08(日) 00:33:17.25ID:63gkkJk4残党狩りくらい戦国武将なら誰でもやってる
0082人間七七四年
2011/05/08(日) 01:23:33.45ID:pzgbJH76匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
0085人間七七四年
2011/05/08(日) 01:30:00.26ID:CWGiIk4Lこの報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。
が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw
が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。
彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った
「俺の城を返せ!」
義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」
これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。
確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。
滝川義太夫はこう返答した
「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」
全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。
が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。
情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。
0087人間七七四年
2011/05/08(日) 02:20:25.32ID:63gkkJk4秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
0088人間七七四年
2011/05/08(日) 02:37:11.47ID:tBaDcalj0089人間七七四年
2011/05/08(日) 08:43:51.60ID:4jEqj5/V0090人間七七四年
2011/05/08(日) 08:58:54.30ID:iz42pG+B目端は利くけど保身がヘタクソなというか
0091人間七七四年
2011/05/08(日) 11:29:19.17ID:oUUM7OrLそれとも大阪の陣?
0093人間七七四年
2011/05/08(日) 13:47:30.50ID:Yxzp1z0j大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね
0094人間七七四年
2011/05/08(日) 20:05:58.27ID:eAI+U6WX余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており〜」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…
0096人間七七四年
2011/05/08(日) 21:22:24.10ID:sSdH1ro8天正14年3月3日
是より先、宇喜多次郎九郎等、千人切と称し、大坂に於て、人を要殺す、是日、秀吉、之を捕へ自殺せしむ
どうも大名衆の息子4,5人が千人斬り目指して、大阪で人を殺しまわっていて、すでに5,60人も死者が出てから捕まったみたい。
多聞院日記の同年2月21日に大谷紀之介が、悪瘡を治すために千人斬りをして、殺した人の血を啜っているらしい、と書いてあるけど、この記述のあとに大谷紀之介のことはただの噂だったね、とあるんで疑いは晴れたようです。
宇喜多次郎九郎がどういう人物なのか不明だけど、そうある姓じゃないんで秀家の親戚だろうね。
0097人間七七四年
2011/05/08(日) 21:27:22.89ID:iz42pG+B0098人間七七四年
2011/05/08(日) 21:36:01.84ID:h0W2Azpy0099人間七七四年
2011/05/08(日) 21:37:08.96ID:VboUssdr0100人間七七四年
2011/05/08(日) 21:55:07.07ID:FR4+IJt/出典は小丸俊雄『小田氏十五代―豪族四百年の興亡―(上)(下)』(1979,ふるさと文庫)ですが、今回の逸話について本の中でも一次資料が記されていない上に、逸話の内容が内容なので恐らく信憑性は薄いと思われます。
まあ、民間の伝説の一つだと思って、かるーい気持ちで読んで下さい。
それでは本編をどうぞ。タイトルは『田土部合戦〜小田さんの勝ち戦〜』。
天正元年四月十一日。手這坂でボコボコにされ、砦台でもボコボコにされ、藤沢の城に落ちのびていた小田氏治。
それを今度こそ攻め滅ぼさんと、梶原美濃守景国、北条出雲守治高、真壁入道道夢といったいつもの対小田メンバーがおよそ一千騎を従え藤沢へと出発しました。
これに対し小田勢は菅谷、由良、行方刑部少輔などが一千騎を率いて迎え撃つ構えを見せました。もちろん、この存亡を賭けた戦に、当主の小田氏治さんも自ら兵を率いて出陣します。
梶原勢と小田勢は田土部川で遭遇。川を挟んで対峙することになりました。しかし、総大将は我らが小田さんです。
「対峙などしていられない、すぐに出撃だ!」
敵の目の前で渡河を始めました。現在の茨城県に田土部川という川は無いので、後世に残らないぐらい小さな川だったのかもしれませんが、それでも渡河は渡河です。梶原勢もチャンスとばかりに矢を射かけます。
しかし、あろうことか小田勢は対岸へ辿り着き梶原勢へ突入。鬼神の如き強さで敵を押しまくり、北条出雲守治高の息子、犬五郎を討ち取り梶原勢を小田城まで押し返すという大勝利を収めました。
(続く)
0101人間七七四年
2011/05/08(日) 21:59:01.27ID:eAI+U6WXそうとう前の分家かなあ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています