慶長5年(1600)7月28日の事、上杉景勝の白石城を攻略し、さらに梁川城を攻める準備を
活発化させていた伊達政宗のもとに、下野国小山より、徳川家康よりの使者、中澤主税が
訪れた。

中澤は白石に陣していた政宗に対面、家康よりの口状を申し上げる

『石田治部が佐和山を出て大阪へ上り、諸大名を相語らい、謀反を企てたとの情報が入った。
貴殿(政宗)は人質を大阪に置いている。我々に味方する方針はどうされるか?
仮に我らから離れ石田以下の者たちに同心しても、それを怨みには思わない。
これを貴殿に伝えておきたいため、この使者を差し下す。』

政宗これを聞くと

「さても内府の仰せとは思えぬことだ!人質があっても、私が石田・増田の謀反の味方をして
内府の敵になる謂れは無い!
出羽・奥州の連中が皆二の足を踏んだとしても、この政宗一人は内府のお味方である!
この旨を良くお伝えあるように!」

と、中澤に言う。すると中澤、不思議なことを言い出した

「私が小山を出る時、内府公はわたくしを側に近づけ、『伊達殿が我らに一筋に心を寄せると
言ったなら、お前は3日間逗留してそれでも意見が変わらなければ、伊達家の家老、その他諸士の
考えも聞き定めた上で、もう一つ、隠密の口状を伝えるように。』と、密かに申し聞かせられました。」

これを聞いたとたん政宗は

「今このクソ忙しい時期に、お主が3日も逗留する必要など無い!
私が既に覚悟を決めている以上、家中の者たちに二心などありえない。
さっさとその、隠密の仰せとやらを伝えるがいい!」

すると中澤、政宗の耳の側まで行き

「…内府公は状況次第で、上杉景勝を捨ておいて上方を退治しようとする内存を持っておられます。
そうなった時、仮に景勝が内府公の跡を追撃しようとするならもちろん別ですが、そうでなければ
伊達殿はお働きを止められ、ご領地を固められる事こそ肝要となります。
景勝と決戦をして、もし何らかの失態があれば上方の戦の妨げとなるからです。

この旨ご承知あれば、後日に景勝の領地を伊達殿に参らせるつもりだが、現時点でこの事を公言
するのは世の評判もいかがかと思われるので、家臣にも伝えず伊達殿に直に、密かに伝えよ。と、
内府公は私に申し聞かせました。
もしご加増の御朱印をお望みなら御使者をお出しください。私が宜しく取り計らいましょう。」

これを聞くと政宗、大きなため息をついて

「白石の城を攻め落とし、これから梁川の城を攻め取ろうとしている時に、すごすごと領地に
引き帰るというのは返す返すも口惜しい!しかし内府の仰せであれば背き難し…!
仕方がない。残念であり不本意でもあるが苦渋の決断で仰せを受け入れよう。

ま、それはともかく御朱印の件は御辺の取持を頼み入る。」

と、テキパキと家臣の山岡志摩に今井宗薫を添えて小山の家康の陣所へと送った。
これを家康は大いに喜び、早速御加恩の御朱印を与えたという。
後世に言う百万石のお墨付き、である。

まあご存知の通り、政宗も家康の自重命令を守らなかったし家康もこの御朱印を反故に
するんですけどねw

それにしても最初から腹の探り合い感がありありと見える、百万石のお墨付きが出るまでのお話。
(関原軍記大成)