天正10年の武田攻めを語るスレ 3
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0001人間七七四年
2011/03/29(火) 22:15:05.50ID:w+Csi68Tわずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/
0482人間七七四年
2011/08/12(金) 07:37:38.14ID:TjCEWYs80483人間七七四年
2011/08/12(金) 08:20:21.50ID:pHh27wAK対織田は信長が開戦回避して終わり
長篠の戦力差は信長を決戦に引き釣り出せるものだったけど、できれば過半は欲しかったな 3倍は荷が重かった
0484人間七七四年
2011/08/12(金) 08:34:32.02ID:GT0GfH5cどこに勝ち目見出してたのかは知らんが
陣前出撃されて総崩れになったのも当たり前
0485人間七七四年
2011/08/12(金) 10:59:07.88ID:PUKoUxKHわからないのは信玄厨のだがさんくらいだ
0486人間七七四年
2011/08/12(金) 16:10:27.12ID:e+NNyljYそれを推しての征西が無理じゃなくてなんなんだ?
0487人間七七四年
2011/08/12(金) 20:52:22.73ID:/64y1/8w突然発病した、もしくは病状が急変した、んじゃね?
0488人間七七四年
2011/08/12(金) 20:55:02.53ID:/64y1/8wほぼ同数でも、野戦築城してる相手に正面から仕掛けたら駄目じゃね?
って、長篠城落とすのが目的なら、信長+家康の正面に3万おいて、残り1万で長篠落とせばいいのか。
0489人間七七四年
2011/08/12(金) 21:15:16.25ID:pHh27wAK軍勢4万って前提ならほぼ間違いなく史実より早く長篠城は落とせる それこそ織田軍が来る前に
史実通り対陣したとしても鳶ノ巣山に兵も避けただろうから酒井の奇襲失敗、あるいは奇襲策自体が無くなる
でも信玄時代にすら動員したこと無い4万を勝頼に求めるのは酷では
0490人間七七四年
2011/08/12(金) 21:50:33.38ID:7c620Hou4万いても一度に攻め込める人数は限られているぞ
0491人間七七四年
2011/08/12(金) 23:51:11.12ID:Lxt5japH当時の武田は上杉との決戦の為に、今川・北条国境の兵すら動員して
領国総動員したから2万を集められた、って感じだったかな
>>485
そんな無謀な突撃で
現に壊滅しておいて、それでやらねばならないとか思ってるのは織田厨の廃人ニートさんくらいだ
>>486
進歩しまくった現在の医学でさえ死ぬ時期なんて正確にわからんぞ
まして戦国時代に何を期待してるんだ?
>>489
信玄時代の最高動員なら3万5千か。
しかし、勝頼も高天神で2万5千は動員してるから
史実とはまた違った展開になりそう
てか、史実でさえも「勝頼がそのまま川を前にして、鳶の巣山に陣をしいていれば織田勢はどうしようも無かった」
と信長公記でいわれてるから
やりようはあったみたいだけどな
0492人間七七四年
2011/08/13(土) 10:11:45.39ID:S/7LI1qK収穫逓減の法則とかあったな
たとえ一対一の状況になるとはいえ、後ろに十人挑戦者が控えるのと、廿人控えるのじゃ戦意の面で圧迫できるんじゃないか
0493人間七七四年
2011/08/13(土) 10:24:12.24ID:nyL8SBWFこれも史実かどうか分からないぞ
実際にはその半数ぐらいであったかもよ
川中島の2万は領国総動員に加え一応自分の領土内での防衛戦
また後の遠征時と比べると兵の策源地からの距離も比較的近いからだな
一応石高基準で1万石につき450とか500もあるから
動員するだけなら信玄でも5万とか動員出来たのか?
しかし領内の男子総動員したという北条でさえ200万石越えで防衛戦なのに
10万人はいっていなかったらしいから
1万石につき450とか500というのは基準となる石高が緩い検地で行われただけか
宗氏みたいに借金含めて石高以外の収入が大量にあったからか
関ヶ原の黒田大坂の陣の豊臣みたいに貯蓄を切り崩したか
0494人間七七四年
2011/08/13(土) 11:45:10.24ID:UR6x+Kpy長篠城に限っていえば鳥居さん次第w
4万の兵に見つかる前に後詰の来援を知ることが出来るかどうか
0495人間七七四年
2011/08/14(日) 03:54:39.86ID:++QqF2d2根拠不明
根拠も無いのに半数だとかいわれてもわけわかめとしか
甲陽軍鑑によると、武田領国最盛期の軍団は最低で3万3千、限界動員して5万2千だそうだな
北条の防衛戦はあちこちに分散して兵力を配備したからな気がするが
本城小田原に5万6千がいて籠城し、後は関東の広い領域の城に分散して配備してたから
合計すれば10万近くいくんじゃないか
伊豆韮山城とか戦後まで持ちこたえてるしな
0496人間七七四年
2011/08/14(日) 10:27:07.47ID:UrZhh/Nwそういった軍記等による兵力のいい加減さをどうにかするために
某上洛スレは一定の基準として石高を用いるようになったんだったな
石高基準も問題はあれどそれでも軍記の数字をそのまま使うよりはまだマシだってことで
0497人間七七四年
2011/08/14(日) 10:41:33.81ID:dZ5bc5Pt本筋に戻しつつ関連話で。
木曽の反乱から武田滅亡までの一般に知られてる兵力は両軍とも信用していいの?
0498人間七七四年
2011/08/14(日) 11:00:49.19ID:JsVzeP31通説の兵力数は軍記の中からありえそうな数字を抽出してるだけ
信用できるものではない
0499人間七七四年
2011/08/14(日) 14:08:02.43ID:K1AWgD6E0500人間七七四年
2011/08/14(日) 14:17:44.88ID:a56fPd9z織田は基本的に西進方針で、北陸以外は濃尾ラインを維持してたから
信忠軍団がすっぽりと甲信上に配置されて中央が手薄になったのが本能寺の遠因でもあるし
0501人間七七四年
2011/08/17(水) 22:10:02.12ID:04ti4s/G一門筆頭が寝返る軍に味方したい奴いないだろうし
0502人間七七四年
2011/08/18(木) 21:33:20.94ID:R2KfBT950503人間七七四年
2011/08/22(月) 08:58:00.92ID:vEqf5GtU0504人間七七四年
2011/08/22(月) 09:12:22.27ID:KC2MkZ86儲かってる(勝ってる)・・・わらわらと人が集ってくる
儲からなくなる(負けてる)・・・蜘蛛の子散らすように・・
0505人間七七四年
2011/08/22(月) 18:41:09.53ID:Wa2yYil1武田滅亡時に
勝頼と共に天目山で果てた100人(とそこへ行くまでに倒れて果てた人物)と
高遠城の戦いで散った仁科盛信と1500人の兵以外は
ある意味、全て武田の裏切り者だと思いますが?
武田勝頼の召集に応じなかったり、
「自分の所領や城を守るため」とかいう連中は
所詮は口実で勝頼を見捨てて、自分のために行動したと言えます。
武田信豊や信廉、そのほか大勢の武田の将兵も全て裏切り者なのではないですか?
0506人間七七四年
2011/08/22(月) 18:41:35.62ID:Wa2yYil10507人間七七四年
2011/08/22(月) 19:49:36.24ID:oS5qasUBそれは違うな。
裏切ったと言えばまるで武田を見限った人々が悪いような言い方だが、
実際は武田に付いたほうが得策と思える状況を武田が作り出せなかったのが悪いんだ。
つまりお客さんが武田から織田に乗り換えたという感覚に近い。
0508人間七七四年
2011/08/22(月) 21:18:11.90ID:wiFbTRNPあんたのいう通りかもね
0509人間七七四年
2011/08/23(火) 00:12:46.36ID:53/QAc3v負けるとわかってて仕える価値もないようなやつに
ついていくなんて馬鹿のすること。
0510人間七七四年
2011/08/23(火) 01:08:38.98ID:gmOGNu9c離反反乱続出なんだよね
凄いよ
0511人間七七四年
2011/08/23(火) 01:27:56.80ID:fRASuO6j0512人間七七四年
2011/08/23(火) 04:00:25.55ID:xROOq5Di余力あるうちは新しい包囲網模索したりする割にちょっと苦しくなると土下座外交するし
(当然無視されたけど)
末期の豊臣政権並に場当たり的で頼り無さ過ぎ。
0513人間七七四年
2011/08/23(火) 11:11:56.15ID:L0u2azw/超巨大勢力とやり合うにはちょっと足らなかったというか
謙信があの期に及んで関東出兵しようとしてたとか空気読めてなかったのも痛いね
0514人間七七四年
2011/08/23(火) 12:38:56.41ID:zL4plCFC0515人間七七四年
2011/08/23(火) 14:50:58.10ID:xROOq5Di日和見したり謙信についたりしたら面白いんだけど…
0516人間七七四年
2011/08/23(火) 14:52:42.36ID:C6Emm4r0一向宗とも和睦していながら今さら関東管領の責務とか言われても家臣も困惑しただろうね
0517人間七七四年
2011/08/23(火) 15:48:27.02ID:fgIW33XU0518人間七七四年
2011/08/25(木) 02:44:16.24ID:DfyfT4ZV0519人間七七四年
2011/08/27(土) 03:26:51.84ID:DskXgzwEただ戦略家としてダメだったのが戦国大名として痛かった。
信長は戦術家としてなら中の上だったと思うが戦略家としてはピカイチだった。
よく言われる戦略>戦術を体現している2人だと思う。
0520人間七七四年
2011/08/27(土) 06:16:48.64ID:QmH0cwKe0521人間七七四年
2011/08/27(土) 06:44:48.84ID:+A3ELHjC大兵力だとそこそこってかんじ。
指揮官として優秀、戦術家として中の上、戦略家として優秀ってかんじかな。
勝頼は大きい兵力でもうまく動かせるよね。
0522人間七七四年
2011/08/29(月) 23:38:42.21ID:quE1vq2B桶狭間以外でも稲生とか斎藤義龍戦とか光秀救出戦では見事な軍事的成功を収めてる。
手傷を負いながらも怯まないあたり、そういう場面では猛将的な部分があったのかもしれない。
0523人間七七四年
2011/08/30(火) 00:12:53.62ID:r9BdcTTM猛将だけ 信忠
0524人間七七四年
2011/08/30(火) 02:13:43.00ID:QiNXSVWoっか武田宗家の直々所領って実際どれくらいなん?
小山田、穴山やら有力な国人の所領を除いた武田家の力ってかなり低いんじゃね?
0525人間七七四年
2011/08/30(火) 03:16:13.11ID:r3XJFEvGすごい重圧や逆境のなかで織田家を運営してきた事で、
決断力や実行力、想像力も研%
0526人間七七四年
2011/08/30(火) 03:16:29.18ID:r3XJFEvGすごい重圧や逆境のなかで織田家を運営してきた事で、
決断力や実行力、想像力も研かれたでしょう。
信忠は大成功したワンマン親父の指導下で、
プレッシャーもなく、常に相手より大軍での行動。
生まれつき能力があるかどうかは知らんが、
研かれてきたとは思えない。
信雄よりは、上手くやっていたとはおもうけど、
1つ1つの戦の目的や意味が理解できていないから、
本能寺の時に1番大切な「生き残る」を選択出来ていない。
0527人間七七四年
2011/08/30(火) 10:17:28.89ID:wSvPUa3sわざわざ少数の指揮を磨く必要もないと思うけど
求められる物がそもそも違うのだから
只、本能寺は武田を滅ぼした時がイメージとして鮮烈だったのかもな
死ねる時に死ねないとみたいな
IFとして10回全部同じ行動はとらないかも?
0528人間七七四年
2011/08/30(火) 11:50:33.55ID:wBkzPKA8秀吉も当然呼応するわけで明智の劣勢は明らか
明智滅亡後に秀吉の扱いが焦点になりそう
いきなり信忠側近に権力が集中すれば当時方面軍司令だった柴田あたりも気分のいいものではないだろうし
0529人間七七四年
2011/08/30(火) 18:59:24.34ID:B0aXyRhy二千人くらい護衛がいたというから逃げるだけならできてたよね?
0530人間七七四年
2011/08/30(火) 19:49:28.73ID:kw2jKzF4敗北の経験がなかったとは言え、この辺はマイナスポイント
0531人間七七四年
2011/08/30(火) 19:50:23.41ID:qc7JdwSS0532人間七七四年
2011/08/30(火) 20:40:01.35ID:iuJOLGwU0533人間七七四年
2011/08/31(水) 01:49:10.22ID:PWckZYK4超優秀な部下が反乱起こしたら普通に退路封鎖されてるかも!?
ってなるし、それよりも信長が脱出する可能性にかけたのかもしれん
あるいは丹羽軍の救援待ちとか
0534人間七七四年
2011/08/31(水) 02:07:38.45ID:SG6fRSa2武田攻めでの高遠城の件といい本能寺の変の件といい信忠は近視眼的だわな
本能寺も逃げなかった理由は信長見捨てて自分だけ逃げたら恥ずかしいとかそんなレベルでしょどーせ
0535人間七七四年
2011/08/31(水) 02:33:07.50ID:PWckZYK4>>524
確かに、武田宋家の直接的な支配地域ってどれくらいなんだろな…
それ考えると織田家の直領尾張岐阜100万石以上って半端ない
0537人間七七四年
2011/08/31(水) 10:09:00.73ID:7IRhdVT+秀忠も結構似たような逸話もあるし、偉大な父を持つ優秀な二代目ってのはそんなものかも知れない
後は何だかんだで子供に甘い信長と厳しい家康の教育の差かと
0538人間七七四年
2011/08/31(水) 10:16:25.69ID:NWNINpSN実際に親父に腹切らされた訳だし
信忠だけ色眼鏡で見すぎだよ
0539人間七七四年
2011/08/31(水) 11:03:58.37ID:ifeQ3Kat秀忠が生き残って信忠が死んだのはお付きの家臣の差だろうね
秀忠とかもし生き残った勝頼が信濃で秀忠の進軍邪魔したら戦死レベルだろうな
戦ではゴミ過ぎる
0540人間七七四年
2011/08/31(水) 20:29:46.79ID:X+qoPoyAどこでそんな最前線まで出たんだろうなー。
どう考えても出なくて良い状況で前線に出て怪我してるね。
0542人間七七四年
2011/08/31(水) 21:12:45.03ID:V13mMENX0543人間七七四年
2011/08/31(水) 21:22:28.04ID:rNdBryT0上田攻めや大阪夏の陣では本陣まで襲われたって話もあるから、その時くらいか
あるいは太閤死後直後の江戸行き前後に記録に残ってない何かがあったか
0544人間七七四年
2011/08/31(水) 22:30:14.09ID:Pj9BksCH0545人間七七四年
2011/08/31(水) 23:09:43.71ID:X+qoPoyAそんな記録がないのが謎。
0546人間七七四年
2011/09/01(木) 00:35:14.82ID:ohkkBL72天下取った後の秀吉は信長評は点が辛いけど信長の勇猛さは認めているからな。
まあ彼の勇猛さは天下統一の地ならしに必要不可欠だったと思う。
信忠が逃げなかったのは仕方ないかなとは思う。
明智光秀は彼が謀反を起すなら事前準備は完璧だと思われる位に優秀で
まさか暴発のような謀反とは予測出来なかっただろうし。
逃げる事に関しては神レベルのオヤジがやられたんなら直一層無理だと感じるだろうし。
0547人間七七四年
2011/09/01(木) 00:36:18.66ID:4xp8mB1D0548人間七七四年
2011/09/01(木) 08:43:58.13ID:KhgBAM7M異説!徳川秀忠関ヶ原突撃編
0549人間七七四年
2011/09/01(木) 10:28:23.68ID:5w/Aux26二代目の辛い所ではある
0550人間七七四年
2011/09/01(木) 16:01:10.08ID:eRFv14yk槍持てっ!
お付き「まーた始まった」
0553人間七七四年
2011/09/02(金) 13:45:10.66ID:DL9eKdu40554人間七七四年
2011/09/02(金) 17:39:23.97ID:tKOIjS720555人間七七四年
2011/09/02(金) 17:45:06.33ID:VWxk4swi0557人間七七四年
2011/09/02(金) 19:56:21.16ID:HK5hZHU20558人間七七四年
2011/09/02(金) 21:44:31.56ID:W0xQW3YX0559人間七七四年
2011/09/03(土) 00:10:34.64ID:/w6rMELW0561人間七七四年
2011/09/03(土) 15:52:54.31ID:bUnYvlli甲斐には昔から毛坊主と呼ばれる剃髪していない僧侶がいたらしいが
0562人間七七四年
2011/09/03(土) 17:10:21.93ID:xpfeygFR0563人間七七四年
2011/09/03(土) 17:44:02.58ID:43VZMkpJ0564人間七七四年
2011/09/03(土) 17:54:17.77ID:dlcPI9oL0566人間七七四年
2011/09/04(日) 03:57:08.36ID:+XEG1AuX0567人間七七四年
2011/09/04(日) 14:17:36.32ID:RMFx7KwCカルト似非宗教法人は税金払ってないよ
0568人間七七四年
2011/09/26(月) 13:01:29.30ID:us2BFddN上原城の大広間に信玄の金切り声がとどろいた。
駿河探題穴山梅雪が徳川へ寝返ったという報が入ったのだ。
木曽義昌に続き、親族衆筆頭の穴山までが裏切り、大広間の武田家臣は
武田の終わりが近いことを感じ、誰もが放心状態で下を向いていた。
信玄がよろめきながら立ち上がり、城外に向かおうとしたときだった。
さらにもう一人、憔悴しきった顔の伝令が姿を見せた。
「申し上げます!」
「何じゃ!」。信玄は次の凶報が何か想像もつかないようだった。
「高遠城、織田信忠の軍勢に攻撃され、落ちました!。
城主、武田勝頼様、討死!」
次の瞬間、大広間中に響く大きな音がしたかと思うと、信玄が仰向けに
倒れていた。
「御館様!」
武田の重臣達は、信玄の周りへ輪になって駆け寄った。
「高遠まで落され、わしの生涯は一体何だったのじゃ!」
信玄は起き上がろうとしながら叫んだ。
信玄は再び立ち上がり、城外へ駆け出すと、ただちに馬を走らせた。
杖突峠を駆け下りてくる織田軍に怯えながらの撤退であった。
「設楽ヶ原さえなければ・・・」
馬上の信玄は悔いた。
天正元年(1573年)、西上途中に病に倒れた信玄は、信濃を経由し、
何とか躑躅ヶ崎館に帰陣した。信玄は3ヶ月ほど生死の境を彷徨ったが、
奇跡的に病状が回復。翌天正2年には、馬上にまたがって出陣できるほどの
健常体にまで回復した。
しかし、信玄の健康が回復したとき、既に浅井・朝倉は滅亡し、足利義昭は
京を追われ、信長包囲網は瓦解していた。信玄は天正3年、徳川方に奪われた
長篠城奪回のため三河に出陣、後詰にやってきた織田・徳川連合軍と
設楽ヶ原で対陣した。
結果、織田・徳川連合軍の馬防柵に阻まれ、馬場、山県、内藤、原など
歴戦の重臣を一気に失ってしまったのだった。
未完成の新府城へ到着したとき、1万いた武田軍は1千にまで減っていた。
「どうするのじゃ!」信玄が叫んだとき、小山田信茂が進言した。
「我が岩殿城にお越しくださいませ。」
そのとき真田昌幸が横から「我が岩櫃城で上杉殿と再起を図るのが
上策」と申し出た。
信玄は「小笠原・村上のように越後へ落ち延びるのだけは嫌じゃ!。
甲斐を棄てるわけにはいかん!」と岩殿行きを決断したのだった。
0569人間七七四年
2011/09/26(月) 13:50:08.34ID:uYnGXH4b震源が生きてれば寝返りはないよw
0570人間七七四年
2011/09/26(月) 21:37:01.52ID:Vr5PBi1V0571人間七七四年
2011/09/26(月) 22:06:11.90ID:BwsujCSG0572人間七七四年
2011/10/05(水) 18:25:19.60ID:0lWyOWhY>超優秀な部下が反乱起こしたら普通に退路封鎖されてるかも!?
私は光秀という人が好きですが、「超優秀」は過褒でしょう。
「秀」くらいだと思います。
0573人間七七四年
2011/10/16(日) 22:31:26.29ID:1D3Byzoh0574人間七七四年
2011/10/16(日) 23:02:02.02ID:3hxy3koX0575人間七七四年
2011/10/17(月) 00:15:07.76ID:6/NtTHgh0576人間七七四年
2011/10/17(月) 02:20:37.34ID:iUyQ7Eotって言って棒で首を突っついた。
ってのをなんかの本で見た
0579人間七七四年
2011/10/19(水) 16:01:21.82ID:r1u990e+0580人間七七四年
2011/10/19(水) 22:22:16.22ID:h9MjoO+N0581人間七七四年
2011/10/19(水) 22:57:04.64ID:P4a3WS2yそれより飛び方が問題だと思うんだ
ドロップキックかライダーキックか真空飛び膝蹴りか・・・
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