武田スレで話題が出たので思い出したが、調べてみたら既出じゃなかったので。

一条信龍シリーズ番外編

概要
一条信龍は甲州南部・市川荘のあたりをとりまとめ、甲斐上野に居城を構えた信玄の弟である。
甲信に比類無い、大変な傾きものである一方、山県が褒めるほどの武将であり(長篠でも親類衆一の奮戦)、
また連歌にも通じた文化人であり、鷹狩りや弓合わせも好んだ数寄者でもあった(アッーの方は不詳)。

さて本題。
その一条信龍の侍に、堀越十郎家宣という能の名人がいた。
信龍はこの十郎を特に可愛がり、あらゆる場に同席させて一差し舞わせることが度々であった。
信玄も大変十郎の能を気に入り、名馬や城と交換にまでして直臣に取り立てようとしたが、信龍はことごとく断ってしまった。

武田没落の折り、信龍とその一族は全滅したが、堀越は北条に身を寄せ、さらにその没落後は町人となったという。
その子海老蔵は十四歳で旧領の市川から「市川段十郎」と名乗り、江戸一番の役者となった。
これが現在まで続く歌舞伎一家・市川家である。ちなみに、現在の市川團十郎の本名は堀越夏雄という。

余談
このよしみで、市川上野(甲斐上野)城は屋内を歌舞伎博物館として復元され、立派な天守が甲斐の丘陵に美しく聳えている。
周辺には団十郎に関わる石碑や銅像が立てられており、歴史的な文物の紹介や保存、里帰りが急ピッチで進んでいるという。


・・・・・というのは、「さて本題」から「余談」まで真っ赤な嘘である。私の嘘ではなくて、市川家と三珠町のついている嘘である。
歌舞伎博物館も、あれは本当に酷い。武田の城に天守なぞあるわけもないが、かなりの山梨の人間が信じてしまっているらしい。

そもそも市川上野城は、発掘調査によれば、現在「復元」されているような曲輪のある丘城ではなく、もっと奥まった山城だったという。
もともと館と神社などが防御施設も兼ねていたという天然の砦だったが、信虎期になると一族の武田正信を入れて整備させた。
小山田と今川の脅威に対抗するため、堀を作り、その土を斜面に盛って櫓を構え、垣を巡らして、福島正成の侵攻などに抵抗した。
信龍の時代になると、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5236.htmlの逸話にあるように、増築して多少立派にしたのは確かだが、
やはり実態は砦と砦を連ねた防衛線の中に、大きな館が一つ二つあるというもので、山城の域を出るものではない。

歌舞伎の町、美しき椿城の町として宣伝したい三珠町と、発祥を歴史の盲点の人物に求める市川家が協力してやっているのだろうか。
(なお上野椿城は市川上野城とは全く別の城であるお粗末さ。)まとまってないが、歴史を改変して利益を計る人や団体の嫌な話。