戦国ちょっと悪い話25
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0001人間七七四年
2011/02/25(金) 22:11:01.86ID:S4F2SHBo戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0773人間七七四年
2011/04/19(火) 20:33:58.24ID:d4Oq6nz2直接的に嫌ってるエピソードってあったっけ?
0774人間七七四年
2011/04/19(火) 20:46:14.21ID:v1XFNqqL0775人間七七四年
2011/04/19(火) 20:52:17.80ID:hAJOvlCQ0776人間七七四年
2011/04/19(火) 21:26:17.54ID:xpi5bB4Z悪久と嫁の関係は、悪久個人の資質というより
義久と義弘の代理戦争のような気もするけど
でないとあの陰湿ないじめは説明出来ないよ・・・
0777人間七七四年
2011/04/19(火) 21:30:21.22ID:JliWjaHK義久と義弘の争いの中で、義弘の助っ人になるはずだったのに、いつのまにか独立勢力として、三勢力鼎立してしまった感じかも>悪久
0779人間七七四年
2011/04/19(火) 22:50:25.39ID:uImhPS/00780人間七七四年
2011/04/19(火) 22:54:07.89ID:P0g+Xygd0781人間七七四年
2011/04/19(火) 22:55:32.02ID:yhl+vYXf多分逆だと思う、当初の悪久は明らかに義久側
義久と義弘の対立は役割分担の延長線で疎遠になっただけな気がする
少なくとも関ヶ原以後の義弘に義久と対立できる力は無いはず
3勢力の見識事態が後生出来たものだと思う
0782人間七七四年
2011/04/19(火) 23:01:28.62ID:UNklq4on氏照領国が本家から独立性を強めた結果、
北条本家の意思決定から次第に排除されていったと言ってる人もいるが、
内乱には発展しなかったね。
0783人間七七四年
2011/04/19(火) 23:04:34.23ID:b5qpWncOこのとき仙台にあった伊達政宗はさっそく出陣したが、合戦の嘉例であるとして、仙台から7里ほど離れた場所にて
宿営をすることになっていた。
さてその場所に政宗が到着した時分である、火の不始末か、宿営地に火事が起こった。
で、このとき政宗、何故だかわからないがが山伏のコスプレをしていたらしい。政宗当時37歳。
いい歳して何をやっているのだろう。それはともかくその姿で法螺貝を吹き、
「さあ皆の者、鬨の声を上げよ!」
と一斉に鬨を作らせた。
そして
「ふふふ、なんと目出度いことだ。俺のゆく所火の手が上がるわ!」(目出度事なり。我ゆくさき火の手があがりたる)
と、機嫌よくカッコイイことをつぶやき、その場所より一つ先の宿場で宿営したそうである。
まあ基本的には出陣初日に起こった不吉な火事に、自軍を動揺させず収めた伊達政宗のいい話、なわけですが
いつの間にやら勢いだけで嘉例とか色んなことがうやむやになっている気もするのでこっちにw
0785人間七七四年
2011/04/19(火) 23:33:16.25ID:IvUUzrV3いや、史料などの検討から秀吉の政権は名胡桃城事件以前から、北条を攻め軍事的に屈服させる、
というのが基本姿勢。これは本能寺の後、北条が滝川一益を攻めたことが大きな理由。
天正壬午の乱では当時「織田政権」は秀吉派、柴田勝家派に分裂していたにもかかわらず
北条に懲罰を与える、という意思では両派の意向は変わらず、そのため双方ともに
北条と対峙した徳川家康を援助している。
この方針は秀吉が政権を打ち立てても変わらず、北条は秀吉の政権から強い圧力を受け続けていた。
北条がなかなか臣従に応じられなかったのは、北条家が時勢を読めなかったということ以前に、
この秀吉政権の、かねてからの北条への敵対的態度の方が大きい。
下手に臣従すればどんな目に合うかわからなかったため。
まあ秀吉の態度を緩和させる政治力が当時の北条になかったのも確かだが。
とにかく小田原の陣の勃興に関しては、秀吉政権がそれ以前から北条に対して非常に
敵対的だった、ということは頭に入れておいたほうがいいと思う。
0787人間七七四年
2011/04/19(火) 23:50:00.41ID:uIlt5nWU上洛して北条と豊臣の戦力差を目の当たりにした氏規は、北条
に勝ち目がないとわかりながらも、豊臣との戦が不可避となると
少数の兵で韮山城の守備に・・・
あんまり兄弟で仲良くしてても駄目な例
0788人間七七四年
2011/04/20(水) 04:24:59.58ID:dlaNjvAc0789人間七七四年
2011/04/20(水) 06:08:09.66ID:NTI4bDYT0790人間七七四年
2011/04/20(水) 08:53:47.82ID:tp214xDS真田みたいなとこと違って簡単じゃないんだよ
毛利といい、大身は動き辛い。だからこそ先見性と主導力で勝ち組になるしかない
0793人間七七四年
2011/04/20(水) 11:40:09.34ID:UqAcM68wこの前名古屋のメルパルクの予約しようとしたら出てきたプランが
最上軍プラン
長宗我部軍プラン
朝倉軍プラン
蘆名軍プラン
etc
ここまでなら戦国ブーム便乗か…でそのまま流すところだったんだが
内容つらつら見てるとそれぞれ大将と部下が設定されてた。
順当なのも多いが…北条軍プランの説明文見ると
>「北条氏政 公」を大将に「松田憲秀」「佐久間安政」を従え【北条軍プラン】いざっ!出陣!
何で部下にこのセレクトをした。
誰だこんなマニアックな選び方したのはw
浅井とかも普通この面子選ばんだろうって感じだったし。
0796人間七七四年
2011/04/20(水) 16:21:31.77ID:SEObaIkZ武田軍プランの武田信玄を大将に真田幸村、山本勘助は厨二的でいいとして全身マッサージ付とかアッー!
0797人間七七四年
2011/04/20(水) 16:36:06.22ID:oKRzXa7Hどうみても死亡フラグです本当にありがとうございました
0798人間七七四年
2011/04/20(水) 16:52:02.73ID:QYqVyaGP部下が織田に内通済で無事に翌朝を迎えられないことは確定的に明らか
名古屋だから三傑が優遇されているのか!
0799人間七七四年
2011/04/20(水) 17:38:06.18ID:NyeRvRe1やはり早死には損だな。
0801人間七七四年
2011/04/20(水) 20:22:11.34ID:73OsTcz+二条城会見が行われる。
この日、福島正則は秀頼の供をするはずが、その場に姿を表さなかった。
その理由は、このようなことであったそうだ。
その当日、伏見の屋敷において正則は酔っており、何を腹立たしく思ったのか
妻の鏡を奪い取って打ち砕こうとした。
この場に正則の息女が出てきて、正則を強く諌めた。ところが相手は酔っ払った福島正則である。
道理など通用するはずもない。
彼はその鏡を息女の頭に打ち付けた。
そこでその場は大騒ぎになり、家中の者たちが正則を取り押さえるなどしているうちに、
正則は部屋の外に出て高いびきをかいて寝入ってしまった。
こんな事があったので正則は、秀頼の供から外れたということである。
ちなみに正則はこの事を全く覚えておらず、目が覚めた後その次第を聞いて
大いに驚いたという。
(武功雑記)
本当にお酒さえ飲まなければこの人は。
0802人間七七四年
2011/04/20(水) 20:40:27.63ID:HuHR740i完全に豊臣が徳川の臣下として扱われる事に対するヤケ酒か
0803人間七七四年
2011/04/20(水) 20:43:33.90ID:gCh2Sy2z0804人間七七四年
2011/04/20(水) 20:49:12.99ID:FgqonUaG0806人間七七四年
2011/04/20(水) 22:32:30.96ID:g9qC2NMD本意でないとはいえ、それこそハナタレのガキの頃から世話になった主家を見捨てる事になったんだから
0807人間七七四年
2011/04/20(水) 22:37:22.03ID:ynm2i32w0808人間七七四年
2011/04/21(木) 00:46:15.80ID:J4vpITsk毛を残していた。
非常におかしな事だが、その理由を何故だか誰も惺窩に聞かなかったらしい。
なんとなくわかる気もする。
で、どうにも気になった旗本の城和泉守昌茂が、ついに意を決して惺窩に聞いた。
流石武田勝頼の侍大将まで務めた男である。
「…うなじの毛のこと、ですか」
惺窩は城の問に応えた
「頭には頭巾、体には衣服がありますが、うなじには何もありません。
冬になればここばかり、冷える。
夏も風に当たれば、冷える。
だからこのようにしているのです。」
この惺窩の答に城は思った。『じゃあうなじまで深く包む服を着ればいいじゃないか』と。
でも思っただけで言わなかった、らしい。
ヘンテコなこともあるものである。
(武功雑記)
藤原惺窩は現代にもいそうな変人インテリだなw
0809人間七七四年
2011/04/21(木) 00:46:38.15ID:+Yo52hZm色々見たけど、
何で北条は氏康じゃなかったり、毛利はTERUだったり、
蘆名は止々斎じゃなかったりするんだろ。
大名のチョイスも謎なところがあるw
0811人間七七四年
2011/04/21(木) 10:15:00.57ID:wCWkkm1y両目にぽかっと穴の空いているされこうべみたいな顔を想像しちゃうからちょっと怖い
0812人間七七四年
2011/04/21(木) 12:40:28.12ID:f/DWBLPJ0813人間七七四年
2011/04/21(木) 12:51:40.10ID:ZOwdarQl中々強烈なキャラクターデザインかな
0814人間七七四年
2011/04/21(木) 19:20:42.18ID:uwucfkhK0815人間七七四年
2011/04/21(木) 19:22:54.34ID:k8VwMj0+0816人間七七四年
2011/04/21(木) 19:44:27.15ID:GOLMj26e秀吉「景勝、嫁を持て!」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4195.html
さて、これを聞いて最も動揺したのは、当然だが越後に居た景勝の正妻、菊姫である。
彼女は乳母に向かって言った
「私が世の中の、行い正しく誠のある人についての話をお聞きした限りでは、
それらの人は一人妻があればこれに加えて別の妻を持とうとはせず、しかし家を継ぐ子が
出来ないときには別の女にまみえる事があるが、それは『妾』と名づけて妻とは呼びません。
そうであるのに秀吉公は、邪な仰せをなさって、もし景勝様がこれをご承知なさって
二人の妻を迎え、上方と国元の双方に置くような事になれば、世の人はどのように言うでしょうか?
恥ずかしさに居たたまれません。
ですが、だからといって故郷に帰ろうとしても、私の実家である武田家は既に滅び、
我が身の寄る辺はありません。
この上は髪を切り出家して世を遁れるか、さもなくば死する他ありません。」
こうした菊姫の憤りは上方まで聞こえ、これもあって景勝の上方妻の件は沙汰止みとなったそうである。
秀吉が上杉景勝に上方妻を進めた件の顛末である。
0818人間七七四年
2011/04/21(木) 20:17:06.03ID:s1P8Yjys0819人間七七四年
2011/04/21(木) 20:17:38.59ID:aLUxsrt1女のプライドって今も当時も怖いよね
0820人間七七四年
2011/04/21(木) 20:25:52.73ID:yaiwVUTO菊姫は、自分の父をどう見ていたんだろう?
そして、側室であった母は妾であったというのだろうか。
0822人間七七四年
2011/04/21(木) 20:35:07.28ID:zV4vr3el0823人間七七四年
2011/04/21(木) 22:01:52.47ID:IAQS/fXO平安時代の二后併立も 正室とそれ以外で違いがあるという認識が皆にあったからもめたのだし。
0824人間七七四年
2011/04/21(木) 22:30:43.92ID:s1P8Yjys一夫一婦制を武士の習俗に初めて大きく取り入れたのは確か北条政子だったと思う
あとこれは武家のしきたりについてのことだろうからまともかどうか、って倫理の話じゃない
どっちにしろ、妾さんは認めちゃってるんだから近代的云々ってのは全然違うと思うよ
0825人間七七四年
2011/04/22(金) 01:10:27.74ID:wVWktayjどうして秀吉は妾→妻に変換しちゃったんだろう?
0826人間七七四年
2011/04/22(金) 06:48:48.65ID:GbtpRjXI妻が複数いても特に問題はないはずだけど。
家康の築山殿以外の嫁たくさんは、だれが正室とか妾とかなくて全部嫁だろ?
0828人間七七四年
2011/04/22(金) 08:03:49.45ID:mqMtKR8h0829人間七七四年
2011/04/22(金) 10:49:02.88ID:A9a76oNA平安時代は通い婚だが正妻だけは同居できた
蜻蛉日記作者は夫の見舞いに行きたいが正妻のいる所だから悩んでいる
でも結局見舞いに行くんだけど
0830人間七七四年
2011/04/22(金) 12:55:23.82ID:4XA++rq6それから間もなくのこと。
黒田長政はその邸宅に豊臣家三中老の一人、堀尾帯刀(吉晴)を招き、徳川家康を伏見城へと入城させる
工作を相談。これにより堀尾吉晴は中老、そして三成を除いた四奉行の意見をたちまち取りまとめ、
中老、奉行の「総意」として家康の伏見入場を宇喜多秀家ら大老に提案。秀家らも「中老・奉行らの総意であれば
その通りにするのがいいだろう」と、これを認め、十三日、家康は伏見城へと入った。
さて、伏見城に入った徳川家康は堀尾を召して言った
「私は、貴殿と羽柴越中守(細川忠興)両人の計らいによって、先日の出入り(七将襲撃事件の事か)も無事に
処理でき、今又伏見の城に入ることができた。全て皆の粉骨のおかげである。
そのため、せめて今後の疎略がないように誓紙をもって誓約を成したいのだが?」
しかし堀尾
「今回のことは全て天下の御為にしたことであり、ここで内府(家康)の御一礼を頂き御誓紙を申し受ける
というのは私の本意ではありません。」とこれを辞退した。
が、十七日、堀尾邸を訪ねた家康重臣・井伊直政が取り出した、徳川・堀尾家双方の親睦を記した
血判神文を受け取る。ここに堀尾吉晴は親徳川家康派の立場を明確に表明したと言っていいだろう。
そして堀尾吉晴はそれまでの功により、越前府中五万石を加増された。
さてそんな頃、宇喜多秀家はその家老、明石掃部頭(全登)を側に寄せ、こんな事を言い放った
「堀尾は太閤の御恩を受け、今は中老の職にまでなったというのに、太閤が薨去された後は
他の同僚たちの前もはばから憚らず、一心に内府の前に馬を繋いでおる!(家康に奉公しているという意味)
先日の事だ、内府が伏見城に入った折に堀尾帯刀が内府からの誓紙を辞退したというのは
ご法度を守ったことであると会津中納言(上杉景勝)が堀尾を賞賛していた。
私はそれに全く同意できず、『ならば井伊兵部の誓紙を受納したのも御忠功だといわれるのか!?』
と言ってやった。その場にいた者たちは皆私の言ったことに一言もなく屈服し、『誠に言われる通りである』
などと申していたよ。
今に見よ!
内府の計りとして、加増を受け、大阪・伏見の間で今ときめいておる堀尾は、
若年より人の知りたる武功多く、実力も兼ね備えた者であるが、城付の五万石に己の一心を眩まされて、
既に一生の危うきを取った!彼の将来は暗いであろう!」
この秀家の発言は後年、大坂の陣のおり、明石掃部が人に語ったことだという。
当時の公家や寺社の日記に
『内府、天下殿になられ候。目出候。』『諸人大慶』などと書かれた家康の伏見入城。
この時の堀尾吉晴の行動と、それに対する宇喜多秀家の反応である。
0831人間七七四年
2011/04/22(金) 19:51:14.40ID:V9oXlp3h0832人間七七四年
2011/04/22(金) 21:05:49.00ID:aNSoQ4St0833人間七七四年
2011/04/22(金) 22:53:27.01ID:qcyYrpiR0834人間七七四年
2011/04/23(土) 01:26:23.72ID:Kc5eUpbs【映画】「水攻め」ふさわしくない…『のぼうの城』2012年秋に公開延期
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1303457557/
0835人間七七四年
2011/04/23(土) 01:35:44.27ID:eemyMtws0836人間七七四年
2011/04/23(土) 01:38:41.24ID:xBK43fPU0837人間七七四年
2011/04/23(土) 01:44:00.23ID:xBK43fPU0839人間七七四年
2011/04/23(土) 11:00:50.62ID:/gQbt9uM0840人間七七四年
2011/04/23(土) 11:26:48.52ID:VvEiXdLeなんで律儀者の堅物をブンシャカにやらせるんだよ
0842人間七七四年
2011/04/23(土) 11:51:39.59ID:KjvW7OM3ワロエナイ…
0843人間七七四年
2011/04/23(土) 13:21:57.87ID:hc64dQdMそれでまた間違った三成像が広がるわけだ
0844人間七七四年
2011/04/23(土) 14:03:13.97ID:1xLNKN5+0845人間七七四年
2011/04/23(土) 14:15:39.29ID:COMwgO6u0847人間七七四年
2011/04/23(土) 17:11:28.33ID:DsufeG6B文禄3年(1594年)、秀吉は関白秀次、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら武将たち、公家、茶人、連歌師、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れた。しかし、運悪く秀吉が吉野山に入ってから3日間ずっと雨が降り続く。
これに腹を立てた秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と言い出したので、道澄があわてて吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じたところ、次の日は快晴となり、盛大な花見が行われた。
ついでに吉野の花見で詠んだ歌
豊臣秀吉 年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを今日見つるかな
秀次 いつかはと 思ひ入りにし み吉野の 吉野の花を今日こそは見れ
徳川家康 君が代は 千年の春も 吉野山 花にちぎりの限りあらじな
前田利家 千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の花を見るかな
伊達政宗 君がため 吉野の山の まきの葉の 常磐に花も色やそはまし
宇喜多秀家も歌を作ったらしいけど見つからなかった
0848人間七七四年
2011/04/23(土) 18:50:56.49ID:QTs71zTs彼らは関ヶ原戦役が勃発すると、東軍に属し美濃にまで駆け上った。
と、ここで、旧主秀家が大垣まで出てきている、ということを知り、二人はすぐに
秀家のもとに使者を派遣した。
使者は二人の言葉を伝える
「御家の大事は今この時です。どうか内府公のお味方をしてください!
そう決意してくだされば我々はすぐに江戸までそのことを伝えるでしょう。」
これに秀家は激怒し、使者に言い放つ
「あの両名にこう伝えよ!私に降参しろと言うのは、お前たちに似合いの分別である!
たとえお前たち二人が我が陣に来て首を並べて諫言したとしても、
私は決して思い通りにはならない!
また、重ねて使者をよこすことも無用である!もしまたよこせば、不憫ではあるは
その使者の首を斬って捨てる!」
使者は急ぎ陣へと帰り、宇喜多詮家、戸川達安にこの事を報告した。
秀家の伝言を聞いた二人はしばし考え、そして使者の男に向かって
「すまないがその方、今回の合戦で天晴な討死をすると思って、再び秀家様の陣に
行ってほしい。そしてこう伝えるのだ
『秀家様の仰せには一理あるかと思います。ですが佞人である石田に従われて
御家を滅ぼされるのは、近来になく不本意なことです。
どうか、只々我ら両人に、その御身上をお任せください。』
これをお聴きいただけるまで、再三申し上げるのだ。」
使者は覚悟を決め、再び秀家の陣を訪れ、秀家のこの事を伝えた。
ところが秀家、今度は少しも怒ること無く、この使者を近くまで寄せ語りかける
「両人が昔のよしみから、二度も異見を言って来てくれることは嬉しい。
だが、八幡大菩薩もご照覧あれ、私が内府に属することはない。
この事をよくよく申し聞かせ、二人に承知させよ。
…これは汝に与える。」
と、この使者に刀を与え帰させた。
帰ってきた使者からこれを聞いた宇喜多詮家、戸川達安は、「この上は力及ばず」と、
秀家を説得することを諦めた、と言う。
この話は宇喜多秀家の領地であった備前の国人、吉村氏が語った事だそうだ。
(関ヶ原軍記大成)
0849人間七七四年
2011/04/23(土) 19:14:51.73ID:Zki/sycl東軍の諸将に分け与える領地が減ってしまうから
ヘタすると合戦終了後毛利のように因縁つけられて改易食らうかもしれん
0851人間七七四年
2011/04/23(土) 20:14:29.23ID:d+RVSjSuそれ、ちょっといい話じゃね?
0852人間七七四年
2011/04/23(土) 20:30:33.80ID:X0H5tkue0853人間七七四年
2011/04/23(土) 20:36:21.24ID:7OqboPtY0854人間七七四年
2011/04/23(土) 20:41:52.13ID:cSwhQj+y主君も主君なら家臣も家臣で剛情だのう
0855人間七七四年
2011/04/23(土) 21:10:50.92ID:KjvW7OM30856人間七七四年
2011/04/23(土) 21:13:04.33ID:JFEwaJzc見限ってというか、喧嘩別れして出奔したけど、お家の大事を思えば放っておけなかった二人のいい話と、
武門の意地にかけて寝返りなどできなかったが、二人の赤心はちゃんと受け止めた秀家のいい話だな。
宇喜多氏って、坂崎とか滅んでるけど、旗本で残った家とかあるの?
0858人間七七四年
2011/04/24(日) 00:07:47.15ID:R33w7FLf0859人間七七四年
2011/04/24(日) 09:02:25.58ID:Wfvtl/9r戸川家、花房家、角南家等は存続してる
まあ肝心の御大将が流罪で生存してるから
元家臣団も他家に仕官なりして存続してる方が
多いんじゃないかな
0860人間七七四年
2011/04/24(日) 10:51:05.93ID:EP2Dgz5hオカ板「日本史における不思議な出来事、奇談。」から転載
668 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:23:13 ID:LBTA/qBP0
福岡城の話
黒田長政の子の忠之のころ、家臣に明石四郎左衛門というものがいて
忠之に気に入られていた。妻はお綱という名だったが
嫉妬心が強く主人の帰りが遅いとやきもちを妬き、荒れ狂うことが多かった。
そんな折、忠之が参勤交代のときに大坂で見初めた芸妓を
福岡につれて帰ったものの家老に諌められ、結局明石に下げ渡した。
明石も殿様の命とあっては断るには行かなかったので第二夫人とした。
そして明石は芸妓の美しさにのめり込んでいった。
そして、第二夫人が本宅にあがり、本妻のお綱が子供二人と下人とともに
下屋敷に移された。そして、本宅は毎日酒宴を挙げているにもかかわらず
仕送りも滞っていki
屋敷も荒れて下人もいなくなっていった。
ある年の端午の節句の日にせめて雛祭りはと残っていた下人を使わしたが
明石は「すでに絶縁」と取り合わず、下人は奥方を合わせる顔が無く、
また哀れに思い、そして主人に絶望し、首を吊った。
670 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:24:12 ID:LBTA/qBP0
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を殺して、
腰に子供の首を入れた風呂敷を巻き、夜の街を本宅に向かった。
しかし、明石は留守で城にいて第二夫人しかいなかったので
第二夫人に斬りかかったが、果たせず留守を預かっていた浪人の浅野というものに
斬られ、眉間と腕を斬られた。
それでも明石のいる城に向かって進んだが城の東御門のところで
門が閉まっていたため土塀に飛びついたところで絶命した。
明石はその一年後熱病で死に、浅野はある時、盗人の疑いをかけられて処刑された
その絶命した東御門はお綱門と呼ばれ、現在は無いが触ると熱病にうなされるうわさが絶えなかった
そしてお綱と子供を供養する祠が建てられた。
福岡城は廃藩置県後多くが取り壊されたが、お綱門は祟るのを恐れ供養した場所に移した。
しかし空襲によって焼失してしまった。
現在その地点には家庭裁判所が建つが昭和のある時
その裁判所で離婚の調停をしていた夫婦がいたが
急に夫が妻を殺害する事件がおきた。因縁めいた事件としかいいようがない
0861人間七七四年
2011/04/24(日) 11:20:02.22ID:bmJQVJP70862人間七七四年
2011/04/24(日) 14:02:27.95ID:vsR9dYsw「足利が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
という名門の、今川義元が信長配下の服部小平太と毛利新助に討たれた50年余り後
義元公を弔うため、義元の孫、門庵宗関によって泉岳寺が建立された。
元禄に入って今川の本家筋の吉良義央を殺した義士たちが泉岳寺に葬られることになるが、
この赤穂浪士、もう少しで四十八士になるはずであった。
最後の脱盟者の名前は「毛利小平太元義」という、服部小平太、毛利新助を
一緒にして義元をひっくりかえしたような名前である。
毛利小平太の脱盟の理由は不明であり、様々に憶測がなされているが
まさか、こんな名前のやつを泉岳寺に葬りたくないという義元公の怨念が
0863人間七七四年
2011/04/24(日) 14:16:07.51ID:2eSJY0CXアメリカ産牛肉拒否で、宮崎県に鳥インフルエンザ、福島原発爆破、
遺伝子組み換え食品、TPP加入で農業・医療・漁業が崩壊、米国債購入
郵便貯金がアメリカに流出、小渕総理暗殺、小泉総理レイプ
子宮頸がんワクチンで人口削減、アフリカでエイズ菌、インフルエンザ・ワクチンに水銀
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/company/1300402184/
0864人間七七四年
2011/04/24(日) 15:48:20.48ID:vsR9dYswますます泉岳寺に葬ってよかったんだろうか
0865人間七七四年
2011/04/24(日) 15:59:36.58ID:PzyMXXmfこれにより宇喜多家から宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安、岡越前守、花房正成といった
多くの有力家臣が出奔。宇喜多の威勢は大きく減退したという。
さてその頃、京大阪ではこのような狂歌が広まったそうだ。曰く
『 われて後 つがれぬ物は備前鉢 つかふものにも用心をせよ 』
つまり、「一旦関係が悪くなればもはや修復できないのが備前を領有している宇喜多家である。
宇喜多の武士は自分たちを使っている宇喜多秀家に用心をせよ。」と言う意味を込めている。
そんな、宇喜多騒動への庶民の反応である。
0866人間七七四年
2011/04/24(日) 16:57:35.51ID:xvelVM710867人間七七四年
2011/04/24(日) 18:13:36.90ID:4ai3Vkfbあんな恐ろしい主君に仕えた後じゃ、穏和な秀家をなめきってもおかしくない
0868人間七七四年
2011/04/24(日) 18:18:37.52ID:l6fjEoYG0869人間七七四年
2011/04/24(日) 18:55:03.01ID:xDvUGg8V直家は主家や同僚に対してはえげつないが
家臣に対しては普通にいい殿様だぞ
離反した家臣は直家が苦しい時代を支えたいわゆる譜代格が多いから
家臣は国元を顧みない秀家がはがゆく、秀家はうるさく諫言してくる国元家臣がうとましい
それが積もり積もって爆発したのが宇喜多騒動
宇喜多の場合はそのための官僚団を前田家から来た連中中心に上方で組織しようとしたり、
キリスト教問題が絡んだりしたので、対立の落としどころが無くなって爆発したんでしょう。
仙台伊達藩なんて江戸時代になっても中央集権化できなくて、やろうとしたら伊達騒動で
挫折。結局、幕末まで寄り合い所帯で、意思決定が不十分なまま戊辰でグダグダになる。
0871人間七七四年
2011/04/24(日) 21:09:01.56ID:Q3nTHzMJ策謀に使った家臣を外聞気にして使い捨てたりしないで功績に応じて厚く報いるあたり家臣にはいい殿だよな
弟者のあれは娘婿たちの扱い見てればある意味当然の警戒だしw
0872人間七七四年
2011/04/24(日) 23:25:04.68ID:iSxkNBar■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています