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戦国ちょっと悪い話25

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0001人間七七四年2011/02/25(金) 22:11:01.86ID:S4F2SHBo
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話24
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0612人間七七四年2011/04/11(月) 00:42:02.66ID:NiQXTJ70
>>610
違う違う。
なかったわけじゃない。
ただ、別に儒者主体ではなかった。

仙薬作りを命じられた方士が、出来ないと言って逃げたことから、
キレて方士や学者の中から荒唐無稽なことを言ってる者や歯向かう者を選んで皆殺しにしたのが通称「坑儒」事件。

中に儒者が含まれていたことから、儒者は「坑儒」といったが、
実態は別に儒者ピンポイントの弾圧ではなく、反体制の気のある学者全体の弾圧が目的。

実際墨者は急に文献から消えてたりする。
0613人間七七四年2011/04/11(月) 00:52:44.58ID:LNgFXJt+
特定の誰かのことを言ってるわけではないが
「通説は間違いで、本当は○○だった!」というようなことを書く時には、
「研究者の△△や、××によれば、本当は〜〜」と、実名・出典を挙げて欲しい。

どんな通説・新説にも必ず逆のことを言ってる人がいるし、
本当のことかどうか、確かめようがないから。
0614人間七七四年2011/04/11(月) 00:54:56.63ID:pzaY4RQQ
>>611
いや、そうな単なる自意識過剰じゃなくて、
相手の言ってることにちゃんと耳を傾けてるかどうかでしかないと思う
0615人間七七四年2011/04/11(月) 08:14:18.23ID:5zeLIMKh
>>612
なるへそ、学者全体への弾圧事件だったわけか。
0616人間七七四年2011/04/11(月) 09:26:16.46ID:EeeWgWOp
古今東西、独裁者ってなんで学のある人間殺したがるんだろう
手元に置いて利用すりゃいいのに
0617人間七七四年2011/04/11(月) 09:30:13.48ID:SnNn5hjo
>>616
いちいちうるさいから
しかも理詰めでくるからなおさら
0618人間七七四年2011/04/11(月) 09:52:17.42ID:QYOtXN0u
曹操も孔子の子孫の孔融を斬ってる
たいして役に立たない上、ウザかったのだろう
0619人間七七四年2011/04/11(月) 09:56:53.45ID:NZuBrXrq
現実無視して理想を要求して、それに応えないと叩いてくるから
0620人間七七四年2011/04/11(月) 10:14:28.67ID:Wz/evNGT
…ねらーも切られそうだな
0621人間七七四年2011/04/11(月) 10:19:57.44ID:56y63uF1
>>619
正に2chそのものだなw
0622人間七七四年2011/04/11(月) 10:24:34.57ID:iIZ05fob
武将がねらーみたいな人種を斬る話は豪傑譚として扱われるから
0623人間七七四年2011/04/11(月) 10:47:32.97ID:hbVSSwYU
>>619
なんだ、彦左のことか
0624人間七七四年2011/04/11(月) 11:01:46.30ID:s0UGcxoi
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  
    |ヽ   ~~⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
   │ ヽー―'^ー-'  ( ⌒γ ⌒~~ / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 作れないぞ!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |

これを貼れと言われたような気がした
0625人間七七四年2011/04/11(月) 19:23:39.86ID:Ta+nFGfe
戦国板的にはこの2人は誰に当たるんだろうな?
ブラックホールの方は一言多い黒官辺りが似合うが
0626人間七七四年2011/04/11(月) 22:16:38.01ID:NiQXTJ70
>>618
孔融の場合は有為な人材だったと思うがな。

彼は当時としては珍しい、儒者の枠には収まらないタイプの学者で、むしろ自分は孝行で名を馳せつつも、
「窮地に陥り、親と他人のどちらかしか救えない時、親が尊敬に値しない場合は親を捨てて他人を救え」
と言うなど、中国史全体で見ても極めて特殊な合理主義者だった。

どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。
0627人間七七四年2011/04/11(月) 22:18:32.33ID:FDIw+IJJ
やはり韓国は儒の鬼子。あのメンタリティー
06286262011/04/11(月) 22:28:28.53ID:NiQXTJ70
>>626
>どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。

分かるとは思うが、曹操「の」傘下ね。
0629人間七七四年2011/04/11(月) 22:43:36.19ID:eEM88QKI
つか孔子自身は観念論に堕ちるなとかバランスを持った思考をしなさいとか言ってるんだけどね>儒教
0630人間七七四年2011/04/12(火) 02:33:36.65ID:lP8Pbvdq
王莽とかの事もあるし、儒者って儒教が絶対って言ってるのが多くてにいいイメージないんだよな。一つの論としてはアリだと思うけど
学問じゃなくて宗教だって聞いたことあるんだけどそこはどうなんでしょう?
0631人間七七四年2011/04/12(火) 09:25:32.39ID:0TUZvBLY
>>629
まあ孔子自身もバランス悪くて、政治の道ではさんざん失・・げふんげふん
0632人間七七四年2011/04/12(火) 11:02:36.39ID:7hiF2UKZ
王莽は自分の政治的要求を通すために儒者や周代復古を装ってただけであって、本当は儒家ともまた違うんだけどね。
目指してることは武帝の焼き直しな、法家のトップダウン式ガチガチ管理社会だから。
名を馳せたのも親族でも容赦なく裁いて自殺させたことだし。
0633人間七七四年2011/04/12(火) 11:48:54.50ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。
0634人間七七四年2011/04/12(火) 19:10:33.88ID:lP8Pbvdq
>>632
ありがと。古代中国のこと大まかにしか知らない上に最近読んだ本のせいで
変な知識になってた。可笑しなこと言ってごめんよ
0635人間七七四年2011/04/12(火) 20:23:22.24ID:bEkI18Fw
正直、戦国話でDQNという単語を使うヤツがDQNだとしか思えない
0636人間七七四年2011/04/13(水) 00:30:46.57ID:mZN9x4Nk
婆娑羅とか傾奇者とか言うのもなんだしねい
0637人間七七四年2011/04/13(水) 00:36:13.31ID:vejKEILy
婆娑羅四天王
0638人間七七四年2011/04/13(水) 00:37:21.82ID:h2g9Z2dp
DQNとバサラは全然違うからw

DQNはDQN
0639人間七七四年2011/04/13(水) 00:37:41.60ID:e7o7s/2l
程良く反りの入っている刀は、当たる力もまた大きいという。
その訳はこうである。

朝鮮の役の時、加藤清正の軍勢が敵を切りあぐねる、と言うことがあった。
この時清正は軍勢を集めて、それどれが何人斬ったかを調べさせた。
そこで解ったことは、直刀の者は敵にそれを打ちつけても、当たりが弱く
敵が倒れることがなかった。
だが反りの入った刀を持っていたものは、斬れないということがあっても
当たれば敵が倒れない、ということはなかった。

これにより刀は反りの入ったものを使うべきだ、ということになったのだという。

まあ朝鮮の役まで解からんような事なのか、とも思うのでこっちに書くがw
加藤清正、統計的に反りの入った刀の有効性を証明する、というおはなし。
0640人間七七四年2011/04/13(水) 00:41:42.68ID:zyrap50H
脳筋学者近藤好和によれば
刀に反りが入っているのは通説のように馬上使用のためではなくて
打撃力を増すためだとか
0641人間七七四年2011/04/13(水) 01:09:09.42ID:RtGVAkEz
それ別に相反するものじゃなくね?
サーベルやシャムシールやカットラスが騎兵の武器として使われているのを考えると
やっぱり湾曲した刀は馬上での戦闘も考慮されてるんじゃない
0642人間七七四年2011/04/13(水) 01:16:03.47ID:mZN9x4Nk
太刀は馬上武器だとか言うね

戦国時代には使われなくなったけど
0643人間七七四年2011/04/13(水) 01:21:04.44ID:aemdW7um
>>639
朝鮮や明の鎧は日本とはまた違ったという事かね?>解からんような事なのか
0644人間七七四年2011/04/13(水) 01:34:31.31ID:dhpEzJl1
あの時期の大陸の鎧ってよくわからんな。基本皮製だと思うんだが
プレートアーマーもどきもぽつぽつ登場してるし、日本の鎧の変遷みたくわかりやすくないから困る
0645人間七七四年2011/04/13(水) 01:45:15.60ID:aemdW7um
>>644
北方だと基本布製で金属や革の礼を鋲で止めたものが多かったらしい。
寒さの厳しい土地だから防寒着も兼ねていたとか。
0646人間七七四年2011/04/13(水) 02:05:21.15ID:iCcEkjjo
曲がってる方が刃の垂直、水平な方向に力を分配しやすいからちゃう?
0647人間七七四年2011/04/13(水) 02:59:31.72ID:Nv0ut5Y4
戦国時代の刀って、みんな反りが入ってるものかと思ってた
0648人間七七四年2011/04/13(水) 03:02:39.89ID:h2g9Z2dp
直刀なんて古代とか平安時代までだろ
儀式用なら別だが
0649人間七七四年2011/04/13(水) 06:02:35.57ID:8Almk05D
さあ、反り返って 僕のエクスカリバー
0650人間七七四年2011/04/13(水) 06:43:07.71ID:8U9yXD3f
ポークビッツに反りはない
0651人間七七四年2011/04/13(水) 07:40:03.57ID:cLEZrSax
バールのような物は、実は凶器としての効率はいまいち?
0652人間七七四年2011/04/13(水) 08:18:07.18ID:HVwykuM5
直刀とかの類は武器自体の重さで相手をぶん殴る、もしくはぶった斬るもの
振るう人の体重や体の勢いをのっける場合は曲刀の方が有利だけど、それなりに技量も要る
0653人間七七四年2011/04/13(水) 12:34:08.86ID:rikslJvR
この場合の直刀って反りの浅いかほぼ反ってないタイプの日本刀だろ
そういや幕末の切り合い上等な連中は↑のタイプを使ってる場合が多いよね
突きが有利?
0654人間七七四年2011/04/13(水) 13:27:57.91ID:qTjb7GqK
反りが浅い方が歩戦では扱いやすいから
0655人間七七四年2011/04/13(水) 18:15:14.13ID:F8tCpiPa
どっちかっていうと「太刀」というよりは「打刀」って呼ばれていたやつなのかな。
文禄慶長の役後の明や清も倭刀は歩兵用に限らず、騎兵用としても使用していたみたいだし。
0656人間七七四年2011/04/13(水) 21:49:18.74ID:Qtt3Sl/r
>>653
そのころには竹刀稽古が普及してたから
反りが浅い刀の方が竹刀に近い感覚で扱いやすかった。
0657人間七七四年2011/04/13(水) 21:49:53.11ID:wuWfdNjD
うむ。
0658人間七七四年2011/04/13(水) 22:47:03.01ID:VfO58+Qq
>>642
 馬上使用前提ならよく切れることより折れたり曲がったりしない方向に進化するんじゃないかなあ
0659人間七七四年2011/04/13(水) 23:19:16.55ID:M0nlUYft
つまり太郎太刀こそが至高、と
0660人間七七四年2011/04/13(水) 23:30:03.79ID:sW4VnynR
>>658
馬上使用の場合、馬ごとぶつかって切り抜ける感じになるから、敵に刃を滑らせててこの原理で切りやすい曲刀が好まれるそうな。
0661人間七七四年2011/04/13(水) 23:43:35.81ID:aemdW7um
サーベルとかも曲がってるよね。
0662人間七七四年2011/04/14(木) 00:13:37.91ID:u6QJw36Q
>>632
あと、当時要職についていた叔父が病で倒れたときに付きっ切りで看病したからだっけか。
0663人間七七四年2011/04/14(木) 09:48:00.83ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)
0664人間七七四年2011/04/14(木) 21:33:12.17ID:I0Q0kNCW
柴田勝家が織田信長より越前を与えられた頃のこと。
勝家はある夜、その配下の武将を集めて振る舞いをした。この時勝家、酒も入って大変に機嫌よく、
前田利家にこう話しかける

「又左殿(利家)聞き候え、最近はあの表裏者である菅屋(長頼)や明智(光秀)が信長公のお側で出頭しておる。
又左殿!指を折って考えてみよ!今まで26回、この柴田の手柄故に勝利を得た!
そして信長公直々のお礼も承った。わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!
さあ又左殿も指を折って数えるのだ!」

これに利家

「おやじ(勝家)は人持ちでもあるから、先陣をされて度々手柄もし、また槍を入れることも半鐘を鳴らすように
度々であって、その武勇は今の世には並びなき人です!
では私も言わせていただきましょう!」

と、指を折りつつ利家がこれまで、所々でなした18度の手柄について語った。
これに柴田勝家は一層機嫌良くなり、

「細々としたことを期限の間に合わせ、どうということもない内容を格式張って話す、そんなことをいくら
嗜んだとしても、合戦での働きがなければまるで意味のないことだ!
今の時代は武勇を仕ろうとするなら、いくらでも機会がある世の中である!
又左やこの柴田は、信長公へも傍輩衆へも、その前に出て恥ずかしくないぞ!」

と言い、大いに笑ったそうである。
(利家夜話)

ただ逆に見ればここまで意識している以上、この時期菅谷や明智といった人々が、信長の傍で
一種の文官的権能により権力を拡大させている事に、内心何らかの驚異や圧迫を感じていたと
見るべきで、そんな状況を勝家も酒の席でこのように、憂さを晴らしていたのだろう。

そんなことを想像させる、柴田勝家の越前での酒宴のお話。
0665人間七七四年2011/04/14(木) 21:55:26.12ID:ULTcU9KJ
特に菅屋の存在は面白くなかっただろうな。北陸方面軍にとっちゃ目の上のたんこぶ。
0666人間七七四年2011/04/14(木) 23:40:57.36ID:AjXCYMNe
悪い話と言うか、色々切ない話だな・・・
0667人間七七四年2011/04/15(金) 01:21:26.48ID:D7KaAIKS
しかし光秀だって結構戦場で手柄立ててる気がするけどな
0668人間七七四年2011/04/15(金) 02:25:33.81ID:vWJu+lLU
奉行衆のエリートで片手で数えれるくらいしか実戦に出てない菅屋と一括りにされるのはちょっとなw
0669人間七七四年2011/04/15(金) 02:53:53.64ID:aE+5u85H
>>667
つか光秀といえば戦上手で有名やん。
0670人間七七四年2011/04/15(金) 02:55:09.46ID:gppu6zFr
>>668
菅屋の武功ってそこまで少なかったっけ?
0671人間七七四年2011/04/15(金) 06:38:16.51ID:iqyJ7Ytf
ノブヤボに出てこない武将はわからない
0672人間七七四年2011/04/15(金) 06:45:24.11ID:LrOYMMgE
戦働きしかできない古いタイプの武将が抱える鬱憤みたいなもんか
0673人間七七四年2011/04/15(金) 07:32:55.32ID:vY6f+QCc
越前の織田神社が、利家や成政、光冶に信長の朱印状を握りつぶされて荒れ放題だった時、
実情を知った信長の意を汲んで、
「ちゃんと仕事しろよ。下手な弁解したらどうなるかわかんねえからな」
と書状を送ったのが菅屋なんだよね

でもさ、菅屋くらいの世代になると堀秀政みたいな例外を除いて近習ってほとんど前線に立たなくなるよね
やっぱり信長自身が前線に出ることが少なくなったからなんだろうね
0674人間七七四年2011/04/15(金) 09:07:06.68ID:OieZABso
例えば万見重元なんかは有岡城攻めに軍監として参加したのだけど、
血気にはやったのか総攻撃に参加して戦死している

記録はないけれど、もしかしたら信長から「参加するな」という厳命が出たのかもね
0675人間七七四年2011/04/15(金) 09:31:15.64ID:c1ulH4TY
軍監が我先にってのは役目が違うだろうからなぁ・・・
0676人間七七四年2011/04/15(金) 09:31:19.06ID:vY6f+QCc
万見が戦死した時の有岡攻めは信長自身が出向いてるよね
桶狭間や朝倉追撃戦みたいに、こういうときは馬廻りや小姓連中が手勢を率いて相手に向かったりしたそうだよ
ちなみにこのときは菅屋・堀・万見の3人が鉄砲隊を指揮していたそうな
で、城内の内応者の合図で突撃したら最愛の万見があっけなく討ち死にしちゃったと
0677人間七七四年2011/04/15(金) 09:35:20.60ID:/fOP8BgW
最愛はお蘭でねーの
0678人間七七四年2011/04/15(金) 10:18:11.91ID:SGA9LXth
万見と長谷川には及ばない
0679人間七七四年2011/04/15(金) 12:06:05.43ID:h2rv/tG2
万見が死んだから蘭丸に移行したんじゃね?
0680人間七七四年2011/04/15(金) 18:37:21.72ID:vWJu+lLU
>>670
ほぼない。

行政関係では抜群だが。
0681人間七七四年2011/04/15(金) 21:30:37.62ID:Z1dZtoP9
菅屋は野望に出たら政治90とかそんな感じかしら
0682人間七七四年2011/04/15(金) 21:34:42.59ID:cheFDZ1M
蘭丸は大して活躍してないのに、なんで兄が信濃に移った後の兼山5万石をもらえたんだろうか?
堀秀政の長浜2万5千石より多いじゃないか。
0683人間七七四年2011/04/15(金) 21:51:06.57ID:67xD98a9
わかってるくせにw
0684人間七七四年2011/04/15(金) 22:29:10.75ID:5uJs87VM
でも森家は死亡フラグ立ってるしな
0685人間七七四年2011/04/15(金) 22:59:46.63ID:8WscTJVQ
前田利家が未だ若い頃。
彼は信長によって繰り返されていた美濃への侵入にいつも付き従っていたが、その身代は
わずか四百五十貫であった。

そんな利家がある時戯れに、家来の村井長八郎に「所持している金の額を比べよう!」
と言い出した。

利家が巾着をひらくと、その中には四両三分入っていた。
長八郎の巾着の中には、二両一分入っていた。

これを見て利家、「俺のと合わせれば、長八郎は金持ちになるな!」
と笑ったそうである。

ちなみにこの村井長八郎、後に村井豊後守長頼。
前田家の家老として利家、利長を支え、加賀藩の基礎を作り、前田家の年寄八家村井氏の
祖となった人物である。

利家は自身も、そして村井も大身となった後も、村井に

「あの時の二両一分、今も持っているか?俺もあの時の四両三分が運を引き寄せたと思い、
今も大切に取ってあるよ」と笑って言ったという。

そんな前田利家が若い者たちに常に言っていたことがある。その内容はこうである。

「とにかく金を持て。金さえあれば世の中も人も、恐ろしいとは思わない。
しかし金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」

織田家からの牢人中、金の切れ目が縁の切れ目を実体験した利家らしい言葉であろう。


まあ悪い話じゃないんだけど、だからといって特段いい話でもない気がするのでこっちにw
0686人間七七四年2011/04/15(金) 23:27:21.44ID:J8zIrcwP
菅屋さんの先代は森可成みたいな立場だったんかねえ>信長直属軍部隊長みたいなの
0687人間七七四年2011/04/16(土) 02:31:38.73ID:QfRJhFm4
慶長の役で捕えられた朝鮮の儒者姜
彼には竜という幼い息子がいた。
その名は妻が妊娠した頃に姜が見た児竜が水中に浮かぶ夢に由来し
姜にとっては30歳にしてようやく得た跡取り息子であった。

慶長の役で姜は一族と共に日本軍から逃れるべく船で北に向かっていた。
が、その途中日本軍の軍船が姜達の船に襲いかかってきた。
姜たちは一斉に船から飛び降りて陸を目指したが結局ほとんどが捕まってしまい
日本軍の軍船に引き上げられて帆柱に縛り付けられた。

この時赤子の竜は軍船に回収されることなくみぎわに打ち捨てられ
やがて潮が満ちると共に浮き上がり、しばらく聞こえていた泣き声もやがて途絶えた。

水中に浮かぶ竜の名を持つ子が水中で死んだ話
0688人間七七四年2011/04/16(土) 03:05:50.43ID:gahcSTK3
ほんと、朝鮮の役は悪い話に事欠かないな…
0689人間七七四年2011/04/16(土) 06:30:17.96ID:9DZhlpqw
>>685
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-543.html
0690人間七七四年2011/04/16(土) 07:28:20.36ID:LElC96TQ
>>686
親父さんなら、小豆坂で活躍したひとかどの武将だっはず

小姓・馬廻りという意味でなら、利家や成政たちのあとの連中かな
古株の信長近習にいびられて、耐えかね切り捨てて出奔
徳川からの誘いをけって織田家への帰参を願っていたけど、三方原のときに佐久間隊に属し討ち死にしてる

詳細がわかればひとつの逸話にできるんだけどなあ
0691人間七七四年2011/04/16(土) 09:18:12.17ID:n4LHN4lD
>>689
おお…申し訳ない。し、下の方は未出のようなのでそこでなんとか許してほしいw;
0692人間七七四年2011/04/16(土) 09:51:24.16ID:W2diQyFL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1400.htmlのちょっと詳しい内容

文禄5年(1596)7月13月、伏見大地震が起る。
この混乱がやや落ち着くと、前田利長は父利家を自身の地震小屋(仮設の邸宅)に迎え
振る舞いをした。

…と、利家、その振る舞いから戻ってくると激しく機嫌が悪い。
利長の地震小屋の作事が殊の外見事だったのが全く気に入らなかったのだ。
利家は家臣たちにわめき散らし、さらに岡田長右衛門、斉藤刑部を利長に使いとして出した。
その内容はこうである

『地震小屋などというものは、いかにも軽々として、住むのに問題がなければそれでいいのだ!
そんな物に銀箔など、まるで必要のないものである!

金銀をそういいった意味のない事に浪費していれば、むやみに無理なことを言うようになり、
人のものさえ欲しがるようになる。

だいたい侍というものは、山が崩れようが海が埋まろうが驚かないものである。
ましてや孫四郎(利長)は一国の主である!であればどんな事であっても漏らさず
心にかけておくべきなのに、武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく、
毎日鷹狩、もしくは三味線ばかりで遊び呆けておる。沙汰の限りである!

いいか、日本で孫四郎は一国の主なのだから、選ばれた66人のうちの一人であるのだぞ!
そうであるのに全ての行いが沙汰の限りだ!』

と、その後にもこのような叱責が延々続いたそうである。

前田利家が息子利長への不満をついにぶちまけた、というおはなし。
0693人間七七四年2011/04/16(土) 10:29:50.78ID:JavazDM2
バカな息子を持つ親の嘆き、おおいに共感するところあり。
0694人間七七四年2011/04/16(土) 11:03:35.62ID:K2oPa+8Z
利家はドケチで始終金金言ってるのに、何となく爽やかというかカラッとしたイメージ
0695人間七七四年2011/04/16(土) 11:07:44.80ID:m82IQcHd
まつ「あなた様も武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく銭を溜め込み、沙汰の限りです!」
0696人間七七四年2011/04/16(土) 11:35:23.13ID:qeU4idAi
どっかのすっから缶総理やらルーピーにも聞かせてやりたいぜ
0697人間七七四年2011/04/16(土) 12:41:47.40ID:rqKyf6uD
>>692
まあ弟も死んでるしね
0698人間七七四年2011/04/16(土) 16:25:50.07ID:Bn0JPJwe
>>692
選ばれた66人のうちの一人ってのが意味わからん。六十余州の主の一人って意味かな?それだと文面おかしくなるか。
後65人は誰よってツッコミたい。
0699人間七七四年2011/04/16(土) 16:28:18.36ID:n1/0oyMG
>>698
(数多の人間の中から国主として)選ばれた66人のうちの一人
文面的にもおかしくないと思うが
0700人間七七四年2011/04/16(土) 17:50:40.07ID:h71lnLn3
日本のベスト64に選出
後6回戦勝てば天下人だ
0701人間七七四年2011/04/16(土) 19:14:47.99ID:dfo/Vp/w
66人もいれば、今日ではダメ殿とか言われてる人も含まれるんだろうなぁ
0702人間七七四年2011/04/16(土) 20:00:22.83ID:ZsEg1pkr
徳川や毛利みたく一人で複数の国を持ってるのもいるのは、どうすれば
0703人間七七四年2011/04/16(土) 20:22:18.02ID:kCaHpqny
八百万の神みたいなものだ
象徴的表現
0704人間七七四年2011/04/16(土) 22:12:48.81ID:Bw2jC31F
正式な○○守なら66人なんじゃないか。
0705人間七七四年2011/04/16(土) 22:35:31.36ID:oAAYGlqM
慣例として○○守を置かない国もあった気がする。
0706人間七七四年2011/04/16(土) 22:36:43.90ID:Ejk+rjHk
親王任国というのがあってだな・・・
0707人間七七四年2011/04/16(土) 22:47:09.68ID:gahcSTK3
上総守を名乗って大笑いされた田舎者が尾張におってな…
0708人間七七四年2011/04/16(土) 22:48:02.02ID:nDifYmxj
琉球守を名乗った大名がいてだな・・・
0709人間七七四年2011/04/16(土) 23:00:36.79ID:h71lnLn3
宇宙大将軍…
0710人間七七四年2011/04/17(日) 01:10:18.49ID:DrzFzizQ
>>708
その人、秀吉からもらった「琉求守」の扇を奪われ、さらに台州守を名乗ったあと普通に武蔵守になったんだぜ……。
0711人間七七四年2011/04/17(日) 01:15:21.81ID:F2tjR59w
幕府成立以降に武蔵守名乗ってよかったんだっけ
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