戦国ちょっと悪い話25
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0001人間七七四年
2011/02/25(金) 22:11:01.86ID:S4F2SHBo戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
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戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/
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鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0612人間七七四年
2011/04/11(月) 00:42:02.66ID:NiQXTJ70違う違う。
なかったわけじゃない。
ただ、別に儒者主体ではなかった。
仙薬作りを命じられた方士が、出来ないと言って逃げたことから、
キレて方士や学者の中から荒唐無稽なことを言ってる者や歯向かう者を選んで皆殺しにしたのが通称「坑儒」事件。
中に儒者が含まれていたことから、儒者は「坑儒」といったが、
実態は別に儒者ピンポイントの弾圧ではなく、反体制の気のある学者全体の弾圧が目的。
実際墨者は急に文献から消えてたりする。
0613人間七七四年
2011/04/11(月) 00:52:44.58ID:LNgFXJt+「通説は間違いで、本当は○○だった!」というようなことを書く時には、
「研究者の△△や、××によれば、本当は〜〜」と、実名・出典を挙げて欲しい。
どんな通説・新説にも必ず逆のことを言ってる人がいるし、
本当のことかどうか、確かめようがないから。
0614人間七七四年
2011/04/11(月) 00:54:56.63ID:pzaY4RQQいや、そうな単なる自意識過剰じゃなくて、
相手の言ってることにちゃんと耳を傾けてるかどうかでしかないと思う
0616人間七七四年
2011/04/11(月) 09:26:16.46ID:EeeWgWOp手元に置いて利用すりゃいいのに
0618人間七七四年
2011/04/11(月) 09:52:17.42ID:QYOtXN0uたいして役に立たない上、ウザかったのだろう
0619人間七七四年
2011/04/11(月) 09:56:53.45ID:NZuBrXrq0620人間七七四年
2011/04/11(月) 10:14:28.67ID:Wz/evNGT0622人間七七四年
2011/04/11(月) 10:24:34.57ID:iIZ05fob0624人間七七四年
2011/04/11(月) 11:01:46.30ID:s0UGcxoi| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l
|ヽ ~~⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ ⌒~~ / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | 大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ
│ /───| | |/ | l ト、 | 王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は
| irー-、 ー ,} | / i 作れないぞ!
| / `X´ ヽ / 入 |
これを貼れと言われたような気がした
0625人間七七四年
2011/04/11(月) 19:23:39.86ID:Ta+nFGfeブラックホールの方は一言多い黒官辺りが似合うが
0626人間七七四年
2011/04/11(月) 22:16:38.01ID:NiQXTJ70孔融の場合は有為な人材だったと思うがな。
彼は当時としては珍しい、儒者の枠には収まらないタイプの学者で、むしろ自分は孝行で名を馳せつつも、
「窮地に陥り、親と他人のどちらかしか救えない時、親が尊敬に値しない場合は親を捨てて他人を救え」
と言うなど、中国史全体で見ても極めて特殊な合理主義者だった。
どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。
0627人間七七四年
2011/04/11(月) 22:18:32.33ID:FDIw+IJJ0628626
2011/04/11(月) 22:28:28.53ID:NiQXTJ70>どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。
分かるとは思うが、曹操「の」傘下ね。
0629人間七七四年
2011/04/11(月) 22:43:36.19ID:eEM88QKI0630人間七七四年
2011/04/12(火) 02:33:36.65ID:lP8Pbvdq学問じゃなくて宗教だって聞いたことあるんだけどそこはどうなんでしょう?
0632人間七七四年
2011/04/12(火) 11:02:36.39ID:7hiF2UKZ目指してることは武帝の焼き直しな、法家のトップダウン式ガチガチ管理社会だから。
名を馳せたのも親族でも容赦なく裁いて自殺させたことだし。
0633人間七七四年
2011/04/12(火) 11:48:54.50ID:LaKUvIAJその側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。
やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。
さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。
この時喜楽坊改め不動院は家田に
「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」
と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。
と、ここで、
乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。
この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。
0634人間七七四年
2011/04/12(火) 19:10:33.88ID:lP8Pbvdqありがと。古代中国のこと大まかにしか知らない上に最近読んだ本のせいで
変な知識になってた。可笑しなこと言ってごめんよ
0635人間七七四年
2011/04/12(火) 20:23:22.24ID:bEkI18Fw0636人間七七四年
2011/04/13(水) 00:30:46.57ID:mZN9x4Nk0637人間七七四年
2011/04/13(水) 00:36:13.31ID:vejKEILy0638人間七七四年
2011/04/13(水) 00:37:21.82ID:h2g9Z2dpDQNはDQN
0639人間七七四年
2011/04/13(水) 00:37:41.60ID:e7o7s/2lその訳はこうである。
朝鮮の役の時、加藤清正の軍勢が敵を切りあぐねる、と言うことがあった。
この時清正は軍勢を集めて、それどれが何人斬ったかを調べさせた。
そこで解ったことは、直刀の者は敵にそれを打ちつけても、当たりが弱く
敵が倒れることがなかった。
だが反りの入った刀を持っていたものは、斬れないということがあっても
当たれば敵が倒れない、ということはなかった。
これにより刀は反りの入ったものを使うべきだ、ということになったのだという。
まあ朝鮮の役まで解からんような事なのか、とも思うのでこっちに書くがw
加藤清正、統計的に反りの入った刀の有効性を証明する、というおはなし。
0640人間七七四年
2011/04/13(水) 00:41:42.68ID:zyrap50H刀に反りが入っているのは通説のように馬上使用のためではなくて
打撃力を増すためだとか
0641人間七七四年
2011/04/13(水) 01:09:09.42ID:RtGVAkEzサーベルやシャムシールやカットラスが騎兵の武器として使われているのを考えると
やっぱり湾曲した刀は馬上での戦闘も考慮されてるんじゃない
0642人間七七四年
2011/04/13(水) 01:16:03.47ID:mZN9x4Nk戦国時代には使われなくなったけど
0644人間七七四年
2011/04/13(水) 01:34:31.31ID:dhpEzJl1プレートアーマーもどきもぽつぽつ登場してるし、日本の鎧の変遷みたくわかりやすくないから困る
0645人間七七四年
2011/04/13(水) 01:45:15.60ID:aemdW7um北方だと基本布製で金属や革の礼を鋲で止めたものが多かったらしい。
寒さの厳しい土地だから防寒着も兼ねていたとか。
0646人間七七四年
2011/04/13(水) 02:05:21.15ID:iCcEkjjo0647人間七七四年
2011/04/13(水) 02:59:31.72ID:Nv0ut5Y40648人間七七四年
2011/04/13(水) 03:02:39.89ID:h2g9Z2dp儀式用なら別だが
0649人間七七四年
2011/04/13(水) 06:02:35.57ID:8Almk05D0650人間七七四年
2011/04/13(水) 06:43:07.71ID:8U9yXD3f0651人間七七四年
2011/04/13(水) 07:40:03.57ID:cLEZrSax0652人間七七四年
2011/04/13(水) 08:18:07.18ID:HVwykuM5振るう人の体重や体の勢いをのっける場合は曲刀の方が有利だけど、それなりに技量も要る
0653人間七七四年
2011/04/13(水) 12:34:08.86ID:rikslJvRそういや幕末の切り合い上等な連中は↑のタイプを使ってる場合が多いよね
突きが有利?
0654人間七七四年
2011/04/13(水) 13:27:57.91ID:qTjb7GqK0655人間七七四年
2011/04/13(水) 18:15:14.13ID:F8tCpiPa文禄慶長の役後の明や清も倭刀は歩兵用に限らず、騎兵用としても使用していたみたいだし。
0657人間七七四年
2011/04/13(水) 21:49:53.11ID:wuWfdNjD0659人間七七四年
2011/04/13(水) 23:19:16.55ID:M0nlUYft0660人間七七四年
2011/04/13(水) 23:30:03.79ID:sW4VnynR馬上使用の場合、馬ごとぶつかって切り抜ける感じになるから、敵に刃を滑らせててこの原理で切りやすい曲刀が好まれるそうな。
0661人間七七四年
2011/04/13(水) 23:43:35.81ID:aemdW7um0662人間七七四年
2011/04/14(木) 00:13:37.91ID:u6QJw36Qあと、当時要職についていた叔父が病で倒れたときに付きっ切りで看病したからだっけか。
0663人間七七四年
2011/04/14(木) 09:48:00.83ID:yEyey1wz打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。
後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。
その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)
0664人間七七四年
2011/04/14(木) 21:33:12.17ID:I0Q0kNCW勝家はある夜、その配下の武将を集めて振る舞いをした。この時勝家、酒も入って大変に機嫌よく、
前田利家にこう話しかける
「又左殿(利家)聞き候え、最近はあの表裏者である菅屋(長頼)や明智(光秀)が信長公のお側で出頭しておる。
又左殿!指を折って考えてみよ!今まで26回、この柴田の手柄故に勝利を得た!
そして信長公直々のお礼も承った。わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!
さあ又左殿も指を折って数えるのだ!」
これに利家
「おやじ(勝家)は人持ちでもあるから、先陣をされて度々手柄もし、また槍を入れることも半鐘を鳴らすように
度々であって、その武勇は今の世には並びなき人です!
では私も言わせていただきましょう!」
と、指を折りつつ利家がこれまで、所々でなした18度の手柄について語った。
これに柴田勝家は一層機嫌良くなり、
「細々としたことを期限の間に合わせ、どうということもない内容を格式張って話す、そんなことをいくら
嗜んだとしても、合戦での働きがなければまるで意味のないことだ!
今の時代は武勇を仕ろうとするなら、いくらでも機会がある世の中である!
又左やこの柴田は、信長公へも傍輩衆へも、その前に出て恥ずかしくないぞ!」
と言い、大いに笑ったそうである。
(利家夜話)
ただ逆に見ればここまで意識している以上、この時期菅谷や明智といった人々が、信長の傍で
一種の文官的権能により権力を拡大させている事に、内心何らかの驚異や圧迫を感じていたと
見るべきで、そんな状況を勝家も酒の席でこのように、憂さを晴らしていたのだろう。
そんなことを想像させる、柴田勝家の越前での酒宴のお話。
0665人間七七四年
2011/04/14(木) 21:55:26.12ID:ULTcU9KJ0666人間七七四年
2011/04/14(木) 23:40:57.36ID:AjXCYMNe0667人間七七四年
2011/04/15(金) 01:21:26.48ID:D7KaAIKS0668人間七七四年
2011/04/15(金) 02:25:33.81ID:vWJu+lLU0671人間七七四年
2011/04/15(金) 06:38:16.51ID:iqyJ7Ytf0672人間七七四年
2011/04/15(金) 06:45:24.11ID:LrOYMMgE0673人間七七四年
2011/04/15(金) 07:32:55.32ID:vY6f+QCc実情を知った信長の意を汲んで、
「ちゃんと仕事しろよ。下手な弁解したらどうなるかわかんねえからな」
と書状を送ったのが菅屋なんだよね
でもさ、菅屋くらいの世代になると堀秀政みたいな例外を除いて近習ってほとんど前線に立たなくなるよね
やっぱり信長自身が前線に出ることが少なくなったからなんだろうね
0674人間七七四年
2011/04/15(金) 09:07:06.68ID:OieZABso血気にはやったのか総攻撃に参加して戦死している
記録はないけれど、もしかしたら信長から「参加するな」という厳命が出たのかもね
0675人間七七四年
2011/04/15(金) 09:31:15.64ID:c1ulH4TY0676人間七七四年
2011/04/15(金) 09:31:19.06ID:vY6f+QCc桶狭間や朝倉追撃戦みたいに、こういうときは馬廻りや小姓連中が手勢を率いて相手に向かったりしたそうだよ
ちなみにこのときは菅屋・堀・万見の3人が鉄砲隊を指揮していたそうな
で、城内の内応者の合図で突撃したら最愛の万見があっけなく討ち死にしちゃったと
0677人間七七四年
2011/04/15(金) 09:35:20.60ID:/fOP8BgW0678人間七七四年
2011/04/15(金) 10:18:11.91ID:SGA9LXth0679人間七七四年
2011/04/15(金) 12:06:05.43ID:h2rv/tG20681人間七七四年
2011/04/15(金) 21:30:37.62ID:Z1dZtoP90682人間七七四年
2011/04/15(金) 21:34:42.59ID:cheFDZ1M堀秀政の長浜2万5千石より多いじゃないか。
0683人間七七四年
2011/04/15(金) 21:51:06.57ID:67xD98a90684人間七七四年
2011/04/15(金) 22:29:10.75ID:5uJs87VM0685人間七七四年
2011/04/15(金) 22:59:46.63ID:8WscTJVQ彼は信長によって繰り返されていた美濃への侵入にいつも付き従っていたが、その身代は
わずか四百五十貫であった。
そんな利家がある時戯れに、家来の村井長八郎に「所持している金の額を比べよう!」
と言い出した。
利家が巾着をひらくと、その中には四両三分入っていた。
長八郎の巾着の中には、二両一分入っていた。
これを見て利家、「俺のと合わせれば、長八郎は金持ちになるな!」
と笑ったそうである。
ちなみにこの村井長八郎、後に村井豊後守長頼。
前田家の家老として利家、利長を支え、加賀藩の基礎を作り、前田家の年寄八家村井氏の
祖となった人物である。
利家は自身も、そして村井も大身となった後も、村井に
「あの時の二両一分、今も持っているか?俺もあの時の四両三分が運を引き寄せたと思い、
今も大切に取ってあるよ」と笑って言ったという。
そんな前田利家が若い者たちに常に言っていたことがある。その内容はこうである。
「とにかく金を持て。金さえあれば世の中も人も、恐ろしいとは思わない。
しかし金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」
織田家からの牢人中、金の切れ目が縁の切れ目を実体験した利家らしい言葉であろう。
まあ悪い話じゃないんだけど、だからといって特段いい話でもない気がするのでこっちにw
0686人間七七四年
2011/04/15(金) 23:27:21.44ID:J8zIrcwP0687人間七七四年
2011/04/16(土) 02:31:38.73ID:QfRJhFm4彼には竜という幼い息子がいた。
その名は妻が妊娠した頃に姜が見た児竜が水中に浮かぶ夢に由来し
姜にとっては30歳にしてようやく得た跡取り息子であった。
慶長の役で姜は一族と共に日本軍から逃れるべく船で北に向かっていた。
が、その途中日本軍の軍船が姜達の船に襲いかかってきた。
姜たちは一斉に船から飛び降りて陸を目指したが結局ほとんどが捕まってしまい
日本軍の軍船に引き上げられて帆柱に縛り付けられた。
この時赤子の竜は軍船に回収されることなくみぎわに打ち捨てられ
やがて潮が満ちると共に浮き上がり、しばらく聞こえていた泣き声もやがて途絶えた。
水中に浮かぶ竜の名を持つ子が水中で死んだ話
0688人間七七四年
2011/04/16(土) 03:05:50.43ID:gahcSTK30689人間七七四年
2011/04/16(土) 06:30:17.96ID:9DZhlpqwhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-543.html
0690人間七七四年
2011/04/16(土) 07:28:20.36ID:LElC96TQ親父さんなら、小豆坂で活躍したひとかどの武将だっはず
小姓・馬廻りという意味でなら、利家や成政たちのあとの連中かな
古株の信長近習にいびられて、耐えかね切り捨てて出奔
徳川からの誘いをけって織田家への帰参を願っていたけど、三方原のときに佐久間隊に属し討ち死にしてる
詳細がわかればひとつの逸話にできるんだけどなあ
0692人間七七四年
2011/04/16(土) 09:51:24.16ID:W2diQyFL文禄5年(1596)7月13月、伏見大地震が起る。
この混乱がやや落ち着くと、前田利長は父利家を自身の地震小屋(仮設の邸宅)に迎え
振る舞いをした。
…と、利家、その振る舞いから戻ってくると激しく機嫌が悪い。
利長の地震小屋の作事が殊の外見事だったのが全く気に入らなかったのだ。
利家は家臣たちにわめき散らし、さらに岡田長右衛門、斉藤刑部を利長に使いとして出した。
その内容はこうである
『地震小屋などというものは、いかにも軽々として、住むのに問題がなければそれでいいのだ!
そんな物に銀箔など、まるで必要のないものである!
金銀をそういいった意味のない事に浪費していれば、むやみに無理なことを言うようになり、
人のものさえ欲しがるようになる。
だいたい侍というものは、山が崩れようが海が埋まろうが驚かないものである。
ましてや孫四郎(利長)は一国の主である!であればどんな事であっても漏らさず
心にかけておくべきなのに、武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく、
毎日鷹狩、もしくは三味線ばかりで遊び呆けておる。沙汰の限りである!
いいか、日本で孫四郎は一国の主なのだから、選ばれた66人のうちの一人であるのだぞ!
そうであるのに全ての行いが沙汰の限りだ!』
と、その後にもこのような叱責が延々続いたそうである。
前田利家が息子利長への不満をついにぶちまけた、というおはなし。
0693人間七七四年
2011/04/16(土) 10:29:50.78ID:JavazDM20694人間七七四年
2011/04/16(土) 11:03:35.62ID:K2oPa+8Z0695人間七七四年
2011/04/16(土) 11:07:44.80ID:m82IQcHd0696人間七七四年
2011/04/16(土) 11:35:23.13ID:qeU4idAi0698人間七七四年
2011/04/16(土) 16:25:50.07ID:Bn0JPJwe選ばれた66人のうちの一人ってのが意味わからん。六十余州の主の一人って意味かな?それだと文面おかしくなるか。
後65人は誰よってツッコミたい。
0700人間七七四年
2011/04/16(土) 17:50:40.07ID:h71lnLn3後6回戦勝てば天下人だ
0701人間七七四年
2011/04/16(土) 19:14:47.99ID:dfo/Vp/w0702人間七七四年
2011/04/16(土) 20:00:22.83ID:ZsEg1pkr0703人間七七四年
2011/04/16(土) 20:22:18.02ID:kCaHpqny象徴的表現
0704人間七七四年
2011/04/16(土) 22:12:48.81ID:Bw2jC31F0705人間七七四年
2011/04/16(土) 22:35:31.36ID:oAAYGlqM0706人間七七四年
2011/04/16(土) 22:36:43.90ID:Ejk+rjHk0707人間七七四年
2011/04/16(土) 22:47:09.68ID:gahcSTK30708人間七七四年
2011/04/16(土) 22:48:02.02ID:nDifYmxj0709人間七七四年
2011/04/16(土) 23:00:36.79ID:h71lnLn30710人間七七四年
2011/04/17(日) 01:10:18.49ID:DrzFzizQその人、秀吉からもらった「琉求守」の扇を奪われ、さらに台州守を名乗ったあと普通に武蔵守になったんだぜ……。
0711人間七七四年
2011/04/17(日) 01:15:21.81ID:F2tjR59w■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています