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戦国ちょっと悪い話25

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0001人間七七四年2011/02/25(金) 22:11:01.86ID:S4F2SHBo
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1292026893/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話24
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293251214/

鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
0567人間七七四年2011/04/09(土) 21:43:44.68ID:HLEolBKd
>>557
単純に歌というわけではないが、高天神城が玉砕する直前、
籠城の兵たちが囲んでいる徳川軍に、徳川軍の中に居る幸若舞の名手の舞を
見物することを所望して、家康もそれに応えた、って話があったな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-853.html
0568人間七七四年2011/04/09(土) 21:47:21.72ID:fIYiFsNB
>>557
音楽ってあまり思いつかないな
「海老すくい」という名のハッスルダンスを踊って士気をMAXまで回復させた人ならいるけど
0569人間七七四年2011/04/09(土) 23:53:21.80ID:+LQAt3lX
>>564
その四国勢に仙石はボコボコにされて淡路に引きこもっていたわけだが
0570人間七七四年2011/04/10(日) 00:16:12.00ID:aATYM/kH
>>566
その逸話は四国じゃなく播磨の方の話じゃなかったっけ?
0571人間七七四年2011/04/10(日) 00:50:59.93ID:aX2N2eIv
大勢は確かに秀吉側だったろうけど案外てこずってなかったっけ?
思いの外長引いたから秀吉が出張ってこようとして、それを思い止まるよう秀長が手紙を送ってたような
0572人間七七四年2011/04/10(日) 07:10:08.16ID:iFqFPl33
あれは秀吉さん焦りすぎでしょ。
秀長が普通に城攻めしてるのに、まだかまだか、俺がいこうか、遅い、とか言って来るんだもの。
いくら戦力差があってもそれなりの城に篭城されたら時間はかかる。
瀬戸内方面から毛利が順調に侵攻してるのとの対比で気になったのかも知れないけど。

この辺、話にまとめたら逸話になりそうだな。
0573人間七七四年2011/04/10(日) 08:00:44.26ID:gPc/grd5
たった1ヶ月で長宗我部を降伏させたのに「まだか」と責められる秀長さんカワイソス
0574人間七七四年2011/04/10(日) 09:00:52.91ID:mnODFdlr
自分は気長に城攻めするのに他人がやってると気が急いてしまう。
まあこういう人現代にもいるね。
0575人間七七四年2011/04/10(日) 09:34:20.82ID:HzMJnxNR
城攻めも目的を持って気長にやるのと手こずってgdgd長引くのがあるからね
秀吉のは水攻めにしても単に城を落とす以外にも
援軍を送れないor送らない毛利内部を崩す大きな目的があったし
北条を囲んだときは島原の知恵伊豆と同じ考えですでに天下の軍勢が一地方の反乱鎮めるもの
でも秀吉が焦れるのも判るが常人に自分と同じ能力と成果を求めるのは酷ですな

0576人間七七四年2011/04/10(日) 10:02:51.43ID:dl7dbx7K
大坂の陣が終わって間もなくのある時、戸田左門(一西(かずあき))と松平越中守定綱が
明寿院(藤原惺窩)と座談し、この大坂の陣のことなどを物語った。

二人の話を聞いた藤原惺窩は

「大野修理治長にせめて石川五右衛門ほどの器量があれば、もう少し功も立てられたでしょうに。
それに冬の陣では大阪城から遠所を焼討ぜず、夏の陣で堺、奈良を焼討したのは、戦略として
前後が入れ違っています。」

と感想を述べたという。
(武功雑記)
0577人間七七四年2011/04/10(日) 15:25:51.38ID:tLkCR/1M
後半はともかく前半の比較対象はなぜ石川五右衛門なんだろう。
盗賊としては大勢力を率いていた人だが。
0578人間七七四年2011/04/10(日) 18:09:34.84ID:rn9Zj9Q1
大野には盗賊の頭ほどの器量も無かったってディスってるんだよ
0579人間七七四年2011/04/10(日) 18:25:21.26ID:aX2N2eIv
青果さんは口が悪すぎるうえに明人に日本は征服してくれ、なんて頼む売国奴だから好かん
0580人間七七四年2011/04/10(日) 18:35:55.09ID:tLkCR/1M
>>579
それは朝鮮人の姜に言ったこと。>日本は
「今の日本は酷い状況」といったあと「それを正す為に来たと言って朝鮮や明が攻めて来れば白河の関まで行ける。もし日本のように殺戮を行えば対馬も取れない」と言っているので
売国云々ではなく秀吉批判の言葉と見るべきだろう。
0581人間七七四年2011/04/10(日) 18:50:19.15ID:YcC13Ovi
善光寺の阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)といえば、日本最初の仏像とも言わる。
が、この仏像は戦国時代、実に数奇な運命を巡る。

先ずは弘治3年(1557)2月、善光寺を占拠した甲斐の武田信玄は、その仏具などと共に
この阿弥陀仏も略奪、甲府へと持ち帰り、新たに建設した『甲府善光寺』の本尊とした。

やがて天正10年(1582)3月、織田信長による甲州征伐。信長の嫡男、は阿弥陀如来像を奪い
岐阜へと持ち帰りここに『岐阜善光寺』を建立した。

同年六月、本能寺の変

その後の織田勢力の主導権争いの中、阿弥陀如来は織田信雄の手にわたり今度は清洲の
甚目寺へと移された。

そして秀吉が台頭する中、信雄は徳川家康との同盟を固めるためであろうか、阿弥陀如来は
家康へと贈られ、浜松の鴨江寺に遷座した。

が、ここで家康の枕元に阿弥陀如来が立ち「甲府に帰りたい」と仰られた。

家康はこの夢のお告げに従い、阿弥陀如来を甲斐善光寺へと帰座する。


慶長元年(1596)伏見大地震により京は方広寺の大仏が崩壊した。
豊臣秀吉はこれに激怒する

「我が身をさえ保てぬ仏が、衆生済度など出来るものか!?」

しばらくして秀吉は夢に仏の姿を見た。善光寺阿弥陀如来である

「これだ!」

大仏崩壊の翌年7月18日、秀吉はこの阿弥陀如来を甲斐より遷し、方広寺の本尊とした。

ところが、である。

その翌年から秀吉は体調を崩し始めた。これを人々は「阿弥陀如来様の祟だ」と囁く。
そんな中今度は秀吉の枕元に、阿弥陀如来が立った
『私は信濃に帰りたいのだ』

その頃、徳川家康の援助により信濃善光寺は漸く再建されていた。

体力が衰え気が弱くなり、噂を恐れたのもあったであろう。秀吉はこの事があると直ぐ様如来を
家康に返す。
慶長3年(1598)、徳川家康はこれを、その頃再建なった信濃善光寺へと戻した。
ここに漸く、41年間に渡る、阿弥陀如来の放浪は終わったのだ。

以後、善光寺式阿弥陀三尊は信濃の地をを動くこと無く、今も、善光寺に参拝する多くの
善男善女の信仰を集めている。

善光寺阿弥陀如来の、数奇な変転についてのお話である。
0582人間七七四年2011/04/10(日) 19:27:27.50ID:oVkqdWPw
>>580
惺窩センセイは実家の再興を秀吉にスルーされて以来、アンチ豊臣なんだよね。
秀次の学問好きに対しても「学問が汚れる」とかヒデーこと言ってるし。
0583人間七七四年2011/04/10(日) 20:35:54.58ID:dl7dbx7K
これは悪いw

> 14 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/05(火) 19:22:48.48 ID:GxVcEXUk
> なんか勝成関連で調べてたら偶然こんなのみつけた
>
> 幽鬼 ゴレイキ
> ttp://www15.atpages.jp/~msdds/wiki/index.php?%E3%82%B4%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AD
>
> タイトルはネタだけど
> 五霊鬼ってこれなのねって初めて実態知った
> そりゃこんな酷い話じゃ恨まれるわw

水野勝成
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300543875/
0584人間七七四年2011/04/10(日) 20:38:43.97ID:mqFPgh0J
>>582
でも石田さん家の正澄くんとは仲良いよね
0585人間七七四年2011/04/10(日) 20:41:32.35ID:aATYM/kH
>>582
儒者はそんなもん。
0586人間七七四年2011/04/10(日) 21:03:21.36ID:yvHvm2FL
儒学なんてクソの役にも立たないのに藤原惺窩とかいつも偉そうだよな
武将とか小バカにしてるし

そういえば信長公は地球儀を献上されたとき、地球が丸い事を説明
されて即座に理解したのに対し、儒者の林羅山は地球は平たいと主張
して絶対に譲らなかった

儒学は先例やしきたりにこだわってばかりで、新しい発想や合理的に物事を考えるという事しないからやればやるほどバカになるのにw
0587人間七七四年2011/04/10(日) 21:17:22.02ID:bmSwCh0j
林羅山は「右僕射」の意味を曲解したり、
『豊臣秀吉譜』で劉備が諸葛亮に自分の死後を託した話を、
まんま秀吉と家康にそれに丸パクリしたりと曲学阿世の典型的存在
時の政権と癒着しすぎたばかりに道春点の発明や
吾妻鑑の研究といった学問的業績が霞むほどの汚名を残したね
0588人間七七四年2011/04/10(日) 21:19:57.90ID:dl7dbx7K
>>586
> そういえば信長公は地球儀を献上されたとき、地球が丸い事を説明
> されて即座に理解したのに対し、

それは作り話の中のこと。
つーか儒教よく知らないだろ君w、儒者ってめちゃめちゃ頭いいぞ。
あの人達の書いた本を、同時代の儒者以外の著作と比較しながら少しでいいから読んでみろ。
0589人間七七四年2011/04/10(日) 21:33:55.51ID:gPc/grd5
今更、死んだ学問なんて誰も読みたくない
0590人間七七四年2011/04/10(日) 21:38:53.35ID:aX2N2eIv
儒学はいまだに中国で盛んじゃね?孔子はいまだに神同然だし
0591人間七七四年2011/04/10(日) 21:45:32.32ID:dl7dbx7K
儒教は死んだどころか東アジアや東南アジアで未だ強固に生きているし、
この中国の台頭で世界思想として大復活する可能性すらあるぞw

つーか戦国時代に興味が有るのなら、儒教勉強しないとあの時代は全然理解出来ないんだが。
戦国時代の日本の思想の基本は、儒教ベースの「天道思想」だ。
0592人間七七四年2011/04/10(日) 22:02:31.79ID:oamIdSI3
外人が日本のTV見ると、
「○○さん(28)」と年齢を表示するテロップが出てくる理由がさっぱりわからんと不思議に思うそうな。
年長者を敬うとか色々な慣習が儒教由来だ。
現代の我々だって大なり小なり儒教の徒だよ。
0593人間七七四年2011/04/10(日) 22:04:00.38ID:u6I+plpN
>>590-591
毛沢や共産党の中枢層が儒学嫌いだったから中国では最近まで地位が低かったよ。
2000年代以降になって富裕層に見直しの流れが生まれてるけど。

系譜が続いてるって事じゃ、元号制採用してたり、平成の元号の制定の際、
「干戈が字に入っていて良くない」
とか
「そもそも出典が史記や偽古文尚書なのが良くない。四書五経の正しいテキストから選ぶべきだ」
とかやってた日本の方が余程儒教国家だったりする。
0594人間七七四年2011/04/10(日) 22:06:06.59ID:wR9HJts4
>>581
阿弥陀「俗に、家は三軒建ててみなければ満足いくものにならぬといいますからね。」
0595人間七七四年2011/04/10(日) 22:32:08.66ID:aX2N2eIv
>>592
儒の根本思想の一つは父老を敬することだけどそれとはまた別に
日本古来にも年を経た人間をうやまう慣習はあったよ。何でも儒にするのはよくない
そりゃたぶん今の俺らにも儒の影響はあると思うけど、それは比較すらならない微小なものだと思う
なんたって日本は親父の入った風呂を汚い!といって入らない娘がいる家庭が珍しくない国
0596人間七七四年2011/04/10(日) 22:48:15.22ID:tLkCR/1M
>>592
親からもらった体…みたいな考え方とかね。
あと葬式の祭壇や位牌も儒教由来か。
0597人間七七四年2011/04/10(日) 22:53:41.15ID:oamIdSI3
>>595
戦国時代に「1、2歳年上だからあの人に敬意を払おう」という発想・意識があったか、
そして、江戸時代になると「長幼の序」とかやかましく言うようになったのはなぜなのか?
どちらが現代人の意識と繋がっているか考えれば儒教の甚大な影響は自明だよね。
0598人間七七四年2011/04/10(日) 23:10:37.72ID:i0mIETDl
儒教の影響って言っても断章主義みたいな取り入れ方だけどな
0599人間七七四年2011/04/10(日) 23:13:46.22ID:bmSwCh0j
現代日本人が儒教の影響を受けている、っつうのはその通りだろうけど、
それと同程度に仏教や神道、民主主義に実存主義、プラグマティズムも
日本人の思想体系に影響与えてるだろうかんね
0600人間七七四年2011/04/10(日) 23:20:25.66ID:aX2N2eIv
>>597
今の時代に長幼の序とか一二才上だから敬意を、なんて風潮がどれほど残ってるのかな?
それらは慣習としては生き残ってるが意識にまで影響を与えてるなんてのは言いすぎだ
若い奴らと付き合ってればわかるけど、歳の差なんて今の時代社交の装飾にしかならないよ
過去にはそれらが甚大な影響を及ぼしていた時期はあっただろうが、今は残っていても残骸程度のもの
文化として今だに息づいてるか否かは若い世代にどれほど浸透してるかだと思うよ
0601人間七七四年2011/04/10(日) 23:26:27.63ID:u6I+plpN
>>595
敬うったって特別な敬いの言葉や作法があるのは儒教圏特有ではあるよ。
敬うだけなら一神教圏やその他の地域もそうだし。

>なんたって日本は親父の入った風呂を汚い!といって入らない娘がいる家庭が珍しくない国
そら現代だというのと、湯を無駄遣い出来る先進国だからだよ。
戦前なら「家長になんてことを言うんだ」ってことで張り倒されてる。
あらゆる礼制、宗教について世界的規模で急速に世俗化が進んだのは大きいよ。
0602人間七七四年2011/04/10(日) 23:27:38.78ID:eT8m8pXW
西洋にだって敬老意識はある。そんなのどこにだってある。
そういう意味では、日本古来云々は嘘じゃない。
ただ歴史的にみて、日本に儒学の影響がないと言ったら嘘になる。

人は客観的な事実より、自分が信じたいことを真実だと思い込む生き物なんだよ。
中国とか韓国といったら、すべて否定したい人ってのがいる。
もはやイデオロギーの問題だから、話し合っても結論なんか出ないよ。
0603人間七七四年2011/04/10(日) 23:30:24.28ID:dl7dbx7K
>>597
戦国時代にも長幼の序は強固にあったよ。ただ身分、家格など「それ以外の価値観」も
「併立」してあっただけのことで。

社会は一つのドグマだけで完結するものじゃないよ。その上で室町から戦国期にも、
儒教の強い影響があった。
江戸期秩序は江戸期に突然作られたものではなく、室町〜戦国期の蓄積の結果だよ。
0604人間七七四年2011/04/10(日) 23:36:23.60ID:oamIdSI3
>>603
おれに返信される理由がよく分からないけど・・・
「江戸時代以前の日本には儒教がなかった」とか
「儒教は江戸時代の唯一絶対の価値観だった」とか
一言も言ってないのでそこはよろしく
0605人間七七四年2011/04/10(日) 23:36:46.96ID:ZlgHcC8F
戦国ちょっと儒教な話
0606人間七七四年2011/04/10(日) 23:41:55.50ID:aATYM/kH
まぁ儒教が三河者以上にメンドクサイ事は良く分かった。
0607人間七七四年2011/04/10(日) 23:43:36.83ID:xmuYIpYb
坑儒されるわけだよ
0608人間七七四年2011/04/10(日) 23:46:49.75ID:bmSwCh0j
まあ林羅山と宣教師不干の宗論は今になって見たら結構笑える
別に羅山をアホ呼ばわりするわけじゃないけど、
不干が説こうとするキリスト教の教えと、羅山が依拠する名分論が噛み合ってなくて
なまじ不干が日本人で名分論に理解があったから、
そこを羅山に攻められ地動説まで「論破」されてしまったが、
相手がモノホンのイエスズ会修道士だったら負けなかったろうね
0609人間七七四年2011/04/11(月) 00:02:24.50ID:pzaY4RQQ
噛み合ってないと言えば上の儒教議論もみんな微妙に噛み合ってないなw
0610人間七七四年2011/04/11(月) 00:07:04.19ID:EIL712g9
>>607
そういえば始皇帝の時、「焚書」はあったけど「坑儒」は存在しなかったらしい。
儒者が後世創作した受難話なんだと。
0611人間七七四年2011/04/11(月) 00:09:49.05ID:LNgFXJt+
>>609
いつものことだよ・・
議論してる間は誰もが、「俺の方がこいつより知ってる!」と勘違いしてるものだしな。
0612人間七七四年2011/04/11(月) 00:42:02.66ID:NiQXTJ70
>>610
違う違う。
なかったわけじゃない。
ただ、別に儒者主体ではなかった。

仙薬作りを命じられた方士が、出来ないと言って逃げたことから、
キレて方士や学者の中から荒唐無稽なことを言ってる者や歯向かう者を選んで皆殺しにしたのが通称「坑儒」事件。

中に儒者が含まれていたことから、儒者は「坑儒」といったが、
実態は別に儒者ピンポイントの弾圧ではなく、反体制の気のある学者全体の弾圧が目的。

実際墨者は急に文献から消えてたりする。
0613人間七七四年2011/04/11(月) 00:52:44.58ID:LNgFXJt+
特定の誰かのことを言ってるわけではないが
「通説は間違いで、本当は○○だった!」というようなことを書く時には、
「研究者の△△や、××によれば、本当は〜〜」と、実名・出典を挙げて欲しい。

どんな通説・新説にも必ず逆のことを言ってる人がいるし、
本当のことかどうか、確かめようがないから。
0614人間七七四年2011/04/11(月) 00:54:56.63ID:pzaY4RQQ
>>611
いや、そうな単なる自意識過剰じゃなくて、
相手の言ってることにちゃんと耳を傾けてるかどうかでしかないと思う
0615人間七七四年2011/04/11(月) 08:14:18.23ID:5zeLIMKh
>>612
なるへそ、学者全体への弾圧事件だったわけか。
0616人間七七四年2011/04/11(月) 09:26:16.46ID:EeeWgWOp
古今東西、独裁者ってなんで学のある人間殺したがるんだろう
手元に置いて利用すりゃいいのに
0617人間七七四年2011/04/11(月) 09:30:13.48ID:SnNn5hjo
>>616
いちいちうるさいから
しかも理詰めでくるからなおさら
0618人間七七四年2011/04/11(月) 09:52:17.42ID:QYOtXN0u
曹操も孔子の子孫の孔融を斬ってる
たいして役に立たない上、ウザかったのだろう
0619人間七七四年2011/04/11(月) 09:56:53.45ID:NZuBrXrq
現実無視して理想を要求して、それに応えないと叩いてくるから
0620人間七七四年2011/04/11(月) 10:14:28.67ID:Wz/evNGT
…ねらーも切られそうだな
0621人間七七四年2011/04/11(月) 10:19:57.44ID:56y63uF1
>>619
正に2chそのものだなw
0622人間七七四年2011/04/11(月) 10:24:34.57ID:iIZ05fob
武将がねらーみたいな人種を斬る話は豪傑譚として扱われるから
0623人間七七四年2011/04/11(月) 10:47:32.97ID:hbVSSwYU
>>619
なんだ、彦左のことか
0624人間七七四年2011/04/11(月) 11:01:46.30ID:s0UGcxoi
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
    (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  
    |ヽ   ~~⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
   │ ヽー―'^ー-'  ( ⌒γ ⌒~~ / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は
   |  irー-、 ー ,} |    /     i 作れないぞ!
   | /   `X´ ヽ    /   入  |

これを貼れと言われたような気がした
0625人間七七四年2011/04/11(月) 19:23:39.86ID:Ta+nFGfe
戦国板的にはこの2人は誰に当たるんだろうな?
ブラックホールの方は一言多い黒官辺りが似合うが
0626人間七七四年2011/04/11(月) 22:16:38.01ID:NiQXTJ70
>>618
孔融の場合は有為な人材だったと思うがな。

彼は当時としては珍しい、儒者の枠には収まらないタイプの学者で、むしろ自分は孝行で名を馳せつつも、
「窮地に陥り、親と他人のどちらかしか救えない時、親が尊敬に値しない場合は親を捨てて他人を救え」
と言うなど、中国史全体で見ても極めて特殊な合理主義者だった。

どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。
0627人間七七四年2011/04/11(月) 22:18:32.33ID:FDIw+IJJ
やはり韓国は儒の鬼子。あのメンタリティー
06286262011/04/11(月) 22:28:28.53ID:NiQXTJ70
>>626
>どっちかというと、曹操が傘下に入る前からの対立関係を清算できなかったことが大きな理由。

分かるとは思うが、曹操「の」傘下ね。
0629人間七七四年2011/04/11(月) 22:43:36.19ID:eEM88QKI
つか孔子自身は観念論に堕ちるなとかバランスを持った思考をしなさいとか言ってるんだけどね>儒教
0630人間七七四年2011/04/12(火) 02:33:36.65ID:lP8Pbvdq
王莽とかの事もあるし、儒者って儒教が絶対って言ってるのが多くてにいいイメージないんだよな。一つの論としてはアリだと思うけど
学問じゃなくて宗教だって聞いたことあるんだけどそこはどうなんでしょう?
0631人間七七四年2011/04/12(火) 09:25:32.39ID:0TUZvBLY
>>629
まあ孔子自身もバランス悪くて、政治の道ではさんざん失・・げふんげふん
0632人間七七四年2011/04/12(火) 11:02:36.39ID:7hiF2UKZ
王莽は自分の政治的要求を通すために儒者や周代復古を装ってただけであって、本当は儒家ともまた違うんだけどね。
目指してることは武帝の焼き直しな、法家のトップダウン式ガチガチ管理社会だから。
名を馳せたのも親族でも容赦なく裁いて自殺させたことだし。
0633人間七七四年2011/04/12(火) 11:48:54.50ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。
0634人間七七四年2011/04/12(火) 19:10:33.88ID:lP8Pbvdq
>>632
ありがと。古代中国のこと大まかにしか知らない上に最近読んだ本のせいで
変な知識になってた。可笑しなこと言ってごめんよ
0635人間七七四年2011/04/12(火) 20:23:22.24ID:bEkI18Fw
正直、戦国話でDQNという単語を使うヤツがDQNだとしか思えない
0636人間七七四年2011/04/13(水) 00:30:46.57ID:mZN9x4Nk
婆娑羅とか傾奇者とか言うのもなんだしねい
0637人間七七四年2011/04/13(水) 00:36:13.31ID:vejKEILy
婆娑羅四天王
0638人間七七四年2011/04/13(水) 00:37:21.82ID:h2g9Z2dp
DQNとバサラは全然違うからw

DQNはDQN
0639人間七七四年2011/04/13(水) 00:37:41.60ID:e7o7s/2l
程良く反りの入っている刀は、当たる力もまた大きいという。
その訳はこうである。

朝鮮の役の時、加藤清正の軍勢が敵を切りあぐねる、と言うことがあった。
この時清正は軍勢を集めて、それどれが何人斬ったかを調べさせた。
そこで解ったことは、直刀の者は敵にそれを打ちつけても、当たりが弱く
敵が倒れることがなかった。
だが反りの入った刀を持っていたものは、斬れないということがあっても
当たれば敵が倒れない、ということはなかった。

これにより刀は反りの入ったものを使うべきだ、ということになったのだという。

まあ朝鮮の役まで解からんような事なのか、とも思うのでこっちに書くがw
加藤清正、統計的に反りの入った刀の有効性を証明する、というおはなし。
0640人間七七四年2011/04/13(水) 00:41:42.68ID:zyrap50H
脳筋学者近藤好和によれば
刀に反りが入っているのは通説のように馬上使用のためではなくて
打撃力を増すためだとか
0641人間七七四年2011/04/13(水) 01:09:09.42ID:RtGVAkEz
それ別に相反するものじゃなくね?
サーベルやシャムシールやカットラスが騎兵の武器として使われているのを考えると
やっぱり湾曲した刀は馬上での戦闘も考慮されてるんじゃない
0642人間七七四年2011/04/13(水) 01:16:03.47ID:mZN9x4Nk
太刀は馬上武器だとか言うね

戦国時代には使われなくなったけど
0643人間七七四年2011/04/13(水) 01:21:04.44ID:aemdW7um
>>639
朝鮮や明の鎧は日本とはまた違ったという事かね?>解からんような事なのか
0644人間七七四年2011/04/13(水) 01:34:31.31ID:dhpEzJl1
あの時期の大陸の鎧ってよくわからんな。基本皮製だと思うんだが
プレートアーマーもどきもぽつぽつ登場してるし、日本の鎧の変遷みたくわかりやすくないから困る
0645人間七七四年2011/04/13(水) 01:45:15.60ID:aemdW7um
>>644
北方だと基本布製で金属や革の礼を鋲で止めたものが多かったらしい。
寒さの厳しい土地だから防寒着も兼ねていたとか。
0646人間七七四年2011/04/13(水) 02:05:21.15ID:iCcEkjjo
曲がってる方が刃の垂直、水平な方向に力を分配しやすいからちゃう?
0647人間七七四年2011/04/13(水) 02:59:31.72ID:Nv0ut5Y4
戦国時代の刀って、みんな反りが入ってるものかと思ってた
0648人間七七四年2011/04/13(水) 03:02:39.89ID:h2g9Z2dp
直刀なんて古代とか平安時代までだろ
儀式用なら別だが
0649人間七七四年2011/04/13(水) 06:02:35.57ID:8Almk05D
さあ、反り返って 僕のエクスカリバー
0650人間七七四年2011/04/13(水) 06:43:07.71ID:8U9yXD3f
ポークビッツに反りはない
0651人間七七四年2011/04/13(水) 07:40:03.57ID:cLEZrSax
バールのような物は、実は凶器としての効率はいまいち?
0652人間七七四年2011/04/13(水) 08:18:07.18ID:HVwykuM5
直刀とかの類は武器自体の重さで相手をぶん殴る、もしくはぶった斬るもの
振るう人の体重や体の勢いをのっける場合は曲刀の方が有利だけど、それなりに技量も要る
0653人間七七四年2011/04/13(水) 12:34:08.86ID:rikslJvR
この場合の直刀って反りの浅いかほぼ反ってないタイプの日本刀だろ
そういや幕末の切り合い上等な連中は↑のタイプを使ってる場合が多いよね
突きが有利?
0654人間七七四年2011/04/13(水) 13:27:57.91ID:qTjb7GqK
反りが浅い方が歩戦では扱いやすいから
0655人間七七四年2011/04/13(水) 18:15:14.13ID:F8tCpiPa
どっちかっていうと「太刀」というよりは「打刀」って呼ばれていたやつなのかな。
文禄慶長の役後の明や清も倭刀は歩兵用に限らず、騎兵用としても使用していたみたいだし。
0656人間七七四年2011/04/13(水) 21:49:18.74ID:Qtt3Sl/r
>>653
そのころには竹刀稽古が普及してたから
反りが浅い刀の方が竹刀に近い感覚で扱いやすかった。
0657人間七七四年2011/04/13(水) 21:49:53.11ID:wuWfdNjD
うむ。
0658人間七七四年2011/04/13(水) 22:47:03.01ID:VfO58+Qq
>>642
 馬上使用前提ならよく切れることより折れたり曲がったりしない方向に進化するんじゃないかなあ
0659人間七七四年2011/04/13(水) 23:19:16.55ID:M0nlUYft
つまり太郎太刀こそが至高、と
0660人間七七四年2011/04/13(水) 23:30:03.79ID:sW4VnynR
>>658
馬上使用の場合、馬ごとぶつかって切り抜ける感じになるから、敵に刃を滑らせててこの原理で切りやすい曲刀が好まれるそうな。
0661人間七七四年2011/04/13(水) 23:43:35.81ID:aemdW7um
サーベルとかも曲がってるよね。
0662人間七七四年2011/04/14(木) 00:13:37.91ID:u6QJw36Q
>>632
あと、当時要職についていた叔父が病で倒れたときに付きっ切りで看病したからだっけか。
0663人間七七四年2011/04/14(木) 09:48:00.83ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)
0664人間七七四年2011/04/14(木) 21:33:12.17ID:I0Q0kNCW
柴田勝家が織田信長より越前を与えられた頃のこと。
勝家はある夜、その配下の武将を集めて振る舞いをした。この時勝家、酒も入って大変に機嫌よく、
前田利家にこう話しかける

「又左殿(利家)聞き候え、最近はあの表裏者である菅屋(長頼)や明智(光秀)が信長公のお側で出頭しておる。
又左殿!指を折って考えてみよ!今まで26回、この柴田の手柄故に勝利を得た!
そして信長公直々のお礼も承った。わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!
さあ又左殿も指を折って数えるのだ!」

これに利家

「おやじ(勝家)は人持ちでもあるから、先陣をされて度々手柄もし、また槍を入れることも半鐘を鳴らすように
度々であって、その武勇は今の世には並びなき人です!
では私も言わせていただきましょう!」

と、指を折りつつ利家がこれまで、所々でなした18度の手柄について語った。
これに柴田勝家は一層機嫌良くなり、

「細々としたことを期限の間に合わせ、どうということもない内容を格式張って話す、そんなことをいくら
嗜んだとしても、合戦での働きがなければまるで意味のないことだ!
今の時代は武勇を仕ろうとするなら、いくらでも機会がある世の中である!
又左やこの柴田は、信長公へも傍輩衆へも、その前に出て恥ずかしくないぞ!」

と言い、大いに笑ったそうである。
(利家夜話)

ただ逆に見ればここまで意識している以上、この時期菅谷や明智といった人々が、信長の傍で
一種の文官的権能により権力を拡大させている事に、内心何らかの驚異や圧迫を感じていたと
見るべきで、そんな状況を勝家も酒の席でこのように、憂さを晴らしていたのだろう。

そんなことを想像させる、柴田勝家の越前での酒宴のお話。
0665人間七七四年2011/04/14(木) 21:55:26.12ID:ULTcU9KJ
特に菅屋の存在は面白くなかっただろうな。北陸方面軍にとっちゃ目の上のたんこぶ。
0666人間七七四年2011/04/14(木) 23:40:57.36ID:AjXCYMNe
悪い話と言うか、色々切ない話だな・・・
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