天正3年(1575)、長篠の戦勝の余勢をかった徳川家康は武田に侵食された遠江の回復に着手。
8月24日に東遠江の拠点の一つ、諏訪原城を攻め落とすと、さらにその南方にある小山上へと軍勢を向けた。

だがこれを知った武田勝頼は、町人すら徴兵するという強引なやり方で二万の大軍を揃え救援に出動、
勝頼が大井川を超え接近しているとの報に家康は驚き、小山城攻略を諦め撤退を開始した。

しかしこれを追う勝頼の軍の足は早い。徳川軍は井籠砦を過ぎたあたりで、後ろに武田軍の姿を
確認した。このまま追いつかれては危ない!ここで家康に、嫡男信康が申し上げる

「父上!ここは私が殿を務めます!」

自分が防ぐ間に父を逃がそうというのである!ところが家康これに

「何を言うお前のような若造に任せられるか!ここはわし自身が殿をする!そなたこそ先に行くのだ!」

どこかで見たことのあるパターンですね。ええ、家臣団のおかげで目立ちませんが、この人達もまた、三河者なのです

家康「わしが殿をする!」
信康「いいえ私が殿をします!!」

この緊急事態に親子喧嘩、勃発。よりにもよって主君と嫡子の喧嘩である、家臣たちも止めるに止められない。
この混乱で撤退の足も遅れ、徳川軍、絶体絶命の危機である!


と、そのころ武田軍

勝頼「はっはっは!ここで徳川を殲滅させてやろうぞ!」
長篠でのカタキを討つ気満々の武田勝頼、軍の速度を早め徳川軍を補足しようとした。
が、ここで武田家重臣、春日虎綱(高坂昌信)が勝頼を諌める

「お待ちください勝頼様、連勝の勢いがあった敵に城の包囲を解かせただけでも、武田の武威は充分に
見せつけました。今はそれを保持するべきで、うかつに決戦などすべきではない、と考えます。」

「むむ…!」

長篠後求心力の弱まった勝頼に、この信玄以来の重臣の言葉は無視できない。
たしかに、急ごしらえで集めた軍勢が、決戦で機能するか心もとない。
そう言えばさっきから徳川軍の撤退速度が遅くなったのもなんだか不気味だ。
罠でも仕掛けているのではないだろうか。

「…わかった。弾正(虎綱)の言うこと、尤もである。」


再び徳川軍

まだ盛大な親子喧嘩をやっているところに、物見の兵が大慌てで報告に来た

「も、申し上げます!武田軍兵を返し、小山城に戻り始めました!」

家康・信康「えっ!?何で!?」


神君井籠の退き口、の一席。