http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1296.htmlで目出度く「織田」を名乗った越前織田城主の朝倉景綱さん。
この人、なかなかの人である。個々の逸話については既に語られているが、まとめてみようと思う。

朝倉義景の従兄弟という系図もあるが、実際は一族とはいうもののかなり前に分かれた家の出であるらしい。
国内の要所である織田をまかされていた以上、冷遇されたわけではないが、朝倉義景全盛の頃はあまり記録に出てこない。

この人が記録に登場するのは、対織田信長戦の頃から。
元亀元年の越前侵攻の際は、500の兵を率いて河野口(現南越前町)を守ったとされる。
その後、義景に従い志賀の陣や小谷城救援に出陣するが、次第に劣勢となる義景に対し不安・不満を募らせていったらしい。
天正元年8月、浅井長政の救援要請を受けて朝倉義景は近江に出陣する。朝倉景鏡や魚住景固が疲労を理由に出陣を拒否する中、
とにかくも従軍した景綱の手勢は義景にとって貴重な戦力であったに違いない。

8月12日に前衛の砦が陥落すると、義景は小谷城救援を諦め撤退を開始。しかし、撤退を予想していた信長の追撃により、
朝倉軍は近江・越前国境の刀根坂で大敗、朝倉一族や重臣が多く戦死した。朝倉軍は織田軍かく乱のため、二手に分かれて
撤退したのだが、これが裏目に出て織田軍は雑兵ばかりの陽動部隊は目もくれず、義景本隊を攻撃したという。戦う前から
兵力を損じたうえ、敵の総大将信長が先頭切って向かってきたのだから敗戦もやむを得ない。

それでも義景も戦国武将である。越前を南北に分ける木ノ芽峠で敗軍をまとめ織田軍を迎え撃とうとした。

ところが、

「我らは殿の分別についてゆけぬ。これにて御免!」

景綱はこう言い放つと手勢をまとめてすたこらさっさ、織田城目指して去ってしまった。
この景綱の行動を見て、それまでとにかくも義景に付き従ってきた他の侍たちも「一族である景綱様までも・・・」と考えて
蜘蛛の子散らすようにわっと逃げ去ってしまった。残された義景直属のわずかな軍勢では、とても勝ち目はない。
自害しようとする義景を近習が何とか説得して一乗谷まで撤退した。義景のその後はご存知の通り。


この後、信長に降伏して晴れて(?)織田姓を名乗った景綱であったが、一年も経たぬうちに越前一向一揆が起きる。
一向一揆には組みせず織田城に籠城した景綱であったが、雲霞の如く押し寄せる一揆軍に恐れをなしたか、城兵を残したまま、
妻子だけを連れて夜陰に紛れて海路で敦賀へ脱出、二度目の「これにて御免!」である。呆れ果てた城兵は一揆軍に降伏した。


これだけのことをしでかしため、さすがにその後は景綱もその子も世に出ることはなかった。以後消息不明であるが、官途の兵庫助
を名乗る人物が京都で茶の湯の会に出た記録が残っているらしい(出典忘れた)。もしかしたら、わび住まいでも建ててある意味
幸せに暮らしたのかもしれない。