戦国時代の食事5膳目
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0001人間七七四年
2011/02/06(日) 20:40:18ID:Te+zE3dVhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1179215482/
戦国時代の食事3膳目
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1167143245/
戦国時代の食事・2
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1163347244/
戦国時代の食事
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150323475/
0739人間七七四年
2011/12/26(月) 07:15:06.18ID:1bDy1I3R毒じゃないよ
0740人間七七四年
2011/12/26(月) 12:18:51.32ID:DvgrK0d00742人間七七四年
2011/12/28(水) 21:28:40.63ID:suNE31yeいや、わしらがガキの頃に問題になってたのは覚えてる。
その頃はまだそういう噂系の伝説とかはない感じの時代。
3時のあなたみたいな普通の番組でもそういうショーみた
記憶があるもんな。
0743人間七七四年
2011/12/29(木) 02:35:34.79ID:xOsCp9e3肺からのものの1%未満なので”窒息死”はありえない
…けれども、ほぼ全身タール塗布で発汗阻害等の結果、熱中症で死亡した例がある
つーか、江戸時代の鉛中毒とはまったく無関係だろ
「骨に蓄積された鉛量」での研究の話だし
0744人間七七四年
2011/12/29(木) 15:59:06.61ID:dtdaG//90745人間七七四年
2011/12/30(金) 13:51:35.83ID:QkCC5sN+窒息死ってのは007から広まった都市伝説だと思います
金粉を塗ると体温がうまく放熱できなくて具合が悪くなると聞いたことがあります
0746人間七七四年
2011/12/30(金) 14:50:31.89ID:d5/BpiP+他の動物は人間ほど長時間運動できません。排熱が上手く行かず体温が上がりすぎるせいです
モンゴルで行われる長距離競馬では体温の上がりすぎで馬が死ぬと言われています。
逆に死ななかった馬はまじめに走らない馬と見なされて殺されるとか
体に金粉を塗ると汗腺がふさがれて体温調節が出来なくなります
排熱機能に優れる生き物がこうなるとどういうことになるかは自明です
0747人間七七四年
2011/12/30(金) 19:54:48.63ID:wEObc3Wu>逆に死ななかった馬はまじめに走らない馬と見なされて殺されるとか
どっちにしろ死ぬのかよwww馬カワイソスwwww
0749人間七七四年
2012/01/06(金) 13:40:41.96ID:0y4pi3odモンゴル競馬で30km以上走らされるのは6歳以上の去勢馬(イナヘス)
レースに出ようがでまいが”処分”されてしまう馬のレースだったり
逆に種馬(アズラガ)は28kmレースと短い距離で大事にされます
ちなみにモンゴルの人たちは馬をとても大切にしますが
自分ちで飼ってる馬に名前なんてつけません
たぶん日本の”車”感覚、残酷とかそう見るのはちょっと気の毒……
0751人間七七四年
2012/02/04(土) 21:48:46.68ID:tkWZ///cうそつけ。
その年収なら税金無しのはず。
0752人間七七四年
2012/02/13(月) 11:30:04.50ID:qUJK5mqahttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1329082197/l50
0754人間七七四年
2012/03/07(水) 16:03:26.74ID:kfgoBA/gベートーベンが難聴になったのは鉛で煮たシロップでワインを甘くし続けたから、
って話があるらしいね
0755人間七七四年
2012/04/08(日) 19:33:48.73ID:BS97zF5f天然物がうまいっていうのなら、
現在の野菜や米、家畜などなんて食べられないね
狩猟採集生活に戻るしかないですね
0756人間七七四年
2012/04/09(月) 09:41:47.72ID:RaMbbeIh0757人間七七四年
2012/04/24(火) 08:14:26.84ID:K3jbO8Mvこと高血圧に関しては日本の伝統的な食生活のほうが危ないよね。
塩分過多になりがちだし。
0758人間七七四年
2012/04/24(火) 23:53:27.48ID:eVeqQ2D0食べるとしてもごくわずかな量のはず。
0759人間七七四年
2012/04/25(水) 00:16:41.38ID:gwyVIUMG0760人間七七四年
2012/04/25(水) 00:24:28.02ID:8dPX/0Aaあんまり食事の西欧化(特に肉)は無関係だと思うんだ……
0761人間七七四年
2012/04/25(水) 00:53:30.59ID:b/HQpeaK味は・・・ニオイも・・・
0762人間七七四年
2012/04/25(水) 03:14:04.70ID:F31mN7kh0764人間七七四年
2012/04/25(水) 11:27:20.15ID:obJOT+LL高血圧にはならんかったのかね。
0765人間七七四年
2012/04/25(水) 15:08:11.61ID:sev6+b2r0766人間七七四年
2012/04/25(水) 17:27:05.92ID:8dPX/0Aaただし(高血圧症による)中気や卒中という症状は当時の漢方にもあったよ
で、具体的な血圧はわからないけど、徳川家康愛用と言われる「無比山薬丸」には
地黄など血圧血糖値降下作用があるものが入ってるので
今で言う「生活習慣病」を自分で意識していたことは十分有り得ると思う
0769人間七七四年
2012/04/25(水) 21:43:09.28ID:Ec7BE4IX0770人間七七四年
2012/04/25(水) 22:15:38.19ID:KIELLJU/0772あ
2012/05/12(土) 01:19:03.59ID:+fnKDrdNところでですが、海魚を生で食い、川魚は火を通すって慣例というか食の安全に対する知識は戦国時代にはあったのでしょうか?
0773人間七七四年
2012/05/12(土) 02:01:24.74ID:9IHVFzq+海魚は基本塩漬干物(輸送時の保存のため)
漢方でも寄生虫って概念が薄いので、当時の人は危険と思ってなかった
まぁジストマ(中間宿主が川魚)なんて発症まで数十年かかるし
ヒト回虫なんて「共生」とも言える状況だったしねぇ……
0775人間七七四年
2012/05/12(土) 17:20:02.92ID:jYTtZxhQ0776な
2012/05/13(日) 00:59:01.65ID:khqRokLEなるぼど、ありがとうございます。臭い川魚を生で食えるのはスゴいですね。
>>774
>>775
謙信は朝型の便所で踏ん張ってたらぶっ倒れた。これって低血圧に多いって聞いた事がある
0777人間七七四年
2012/05/13(日) 01:42:21.42ID:njOUBz2uショック死した
0778人間七七四年
2012/05/13(日) 02:20:56.59ID:N1rTIqyO高血圧かどうか、は別にしてね
痔の出血で死んだ人、ってのも聞いたこと無いな
あれって内核に溜まった血が出てくんだよね、量が多くて驚くけど……
0779人間七七四年
2012/05/14(月) 14:30:40.80ID:eGAQEP5z0780人間七七四年
2012/05/15(火) 21:22:44.61ID:RssZ0EBH0781人間七七四年
2012/05/16(水) 05:58:52.86ID:xg3SB2yM0782人間七七四年
2012/05/16(水) 13:14:32.61ID:4rtDugNu中国で宋代に川魚の刺身(たぶん鯉)がさかんに食われてたらしいが
臭みよけに専用の酒を飲んだり柑橘類の果汁であえるとかしたらしい。
こっちの戦国時代はどうしたんだろ?
0784人間七七四年
2012/05/16(水) 13:50:46.42ID:7YqHwoQr0785あ
2012/05/16(水) 20:21:39.60ID:98rIxdcq>>784
どうなんだろうね…。光秀が家康接待用の魚を腐らせた、みたいな話があるけど、この魚もやはりでは川魚?フナとかコイだったのかなやはり…。そもそも川魚を刺身で醤油に浸けたかも疑問…
0786人間七七四年
2012/05/17(木) 03:25:52.97ID:rCLkZ3cZ(当時では超高級品で”ヅケ”なんて出来ないと思う)
中国では刺身を魚鱠と呼んでて、明代の本(本草綱目)には「ニンニク生姜酢からしをつけて食べる」とある
たぶん日本でも似たようなものだったかと
で、当時琵琶湖は海扱いで、そこで取れる魚を光秀は出したんじゃないかな
「腐った魚」は鮒ずしって話もあるし
0787人間七七四年
2012/05/17(木) 21:19:38.21ID:138/PK//0788人間七七四年
2012/05/17(木) 23:34:38.19ID:BwEeLe+50789人間七七四年
2012/05/17(木) 23:37:11.31ID:Li07/W9k0791人間七七四年
2012/05/18(金) 16:16:44.52ID:Od4qicRyそれを見た氏康が嘆いたという話は有名だけど、
氏政が食べていたものは今でいう汁かけご飯なわけ?
それとも湯漬け?
汁かけご飯だったらどうしても
「いい大人がはしたない・・・」と思えてしまうけど
当時は大人、それも高貴な身分の大人が普通に食するものだったの?
0792人間七七四年
2012/05/18(金) 16:42:16.47ID:Q26yRBrlそれだけに早くから汁かけ飯の食べ方にもマナーがあり、汁は吸わずに
箸でコメだけをすくって食うものだった。
ちなみに汁は味噌汁ではなく出汁汁。
0793人間七七四年
2012/05/18(金) 17:59:27.93ID:mUChBSE3かなり昔、某国営放送で足利義輝が三好三人衆&松永久秀に
招かれた宴会の話があったが、三献の儀の後最初に出たのが
汁かけ飯で、大きな深皿に中が窪んだドーナツ状に飯を盛り、
別の深皿に二種類の汁が用意されてるというものだったな。
0794人間七七四年
2012/05/18(金) 20:08:55.63ID:bYkU+Jpv0795人間七七四年
2012/05/19(土) 00:19:39.05ID:m16y0HHw出し汁だったら今の感覚ではむしろお茶漬けに近いものじゃないの?
0796人間七七四年
2012/05/19(土) 23:39:16.44ID:+skpesgx戦国時代は?
0798人間七七四年
2012/05/20(日) 02:01:02.40ID:18K5Szmmhttp://www.jidaigeki.com/forum/sozairecipe/recipe13.html
刺身に醤油、ってのが一般的になったのは、けっこう近代になってからの模様
0799人間七七四年
2012/05/20(日) 02:05:14.45ID:JhMjMLtJ江戸時代の半ばくらいまではそれで刺身を食っていたらしい
タモリがテレビのロケで試してみて「ああ、これは刺身に合うね」って言ってた
でも戦国時代当時はそこまで日本酒も一般的ではなかったか
0800人間七七四年
2012/05/20(日) 06:47:31.58ID:GieSsTg7梅干しだろ、肉、魚は干したのが中心だったはずだ
保存技術がなかった当時で。生野菜はふつうに食っていただろ。
調味料はまだ醤(ひしおと読む。米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませたもの)
だったんじゃねえか。ちなみにこれからとれる汁が醤油なんだけど。
もともと、武家と公家は食事内容からして違っていただろ、ひとつに平家が源氏に負けたのは
その貴族趣味の食事にあったとされている
まだその伝統をひいていたんじゃねえかな。戦国時代だろ、だってさ。
公家の伝統食を述べると数種類の干し物、白米だった。
0801人間七七四年
2012/05/20(日) 07:30:14.14ID:GieSsTg7味噌は室町時代からあったはずで、建長元年(1249)信州の禅僧、覚信(かくしん)が金山寺味噌
の製法を持ち帰って、溜り醤油ができたらしいけれど、普及はどうだろね
一般的にはまだ味噌、醤油未分化の醤じゃないかしら。専門家がいたら
教えてもらえると思うけれど。俺も調べただけだから
0802人間七七四年
2012/05/20(日) 07:44:00.95ID:U7fMdN55その差分で想像するのがいいな。
0803人間七七四年
2012/05/20(日) 13:36:44.64ID:h5hU+fot0804人間七七四年
2012/05/20(日) 17:35:25.49ID:18K5Szmm口伝だと鎌倉時代には発明されてる(たまり醤油)
まぁ16世紀に紀州湯浅から大阪に出荷した記録は残ってたり日葡辞書に載ったり
戦国時代に商品化されたのは確実かと
http://www.yuasasyouyu.co.jp/mottsiritai1.htm
でも当時は”超高級品” 庶民はめったに口にできなかったと思われ(生産量から推察)
江戸期になって関東(下総銚子)で生産が始まり濃口醤油発明(1697)されてからが
本格的な醤油の一般化の始まりではないかと
http://www.yuasasyouyu.co.jp/mottsiritai1.htm
それに対し魚醤は、しょっつる(秋田)いしる(能登)いかなご醤油(讃岐)全部江戸期になって製造が始まってる
…日本では、伝統的に魚は乳酸発酵が普通なんだよな……
0805人間七七四年
2012/05/20(日) 18:48:20.98ID:U7fMdN55アカデミックな研究者でもやるのに
0806人間七七四年
2012/05/20(日) 18:57:46.71ID:GieSsTg7あんまうるさく言われてもさ、でもごめんね、一次資料といわれると焦るかな
出典は一次でなかったかな、ウィンペギア、ちょっと違った、ネットの百科事典で二次だろ
一次は信長公記とかと思うけど、ここに乗っけた資料の元は二次いいとこかなあ
スイマセンデシタ
>>804
ありがとう、鎌倉時代あたり、平安の食生活を調べた経緯があったの。
感謝します。
0807人間七七四年
2012/05/21(月) 03:54:40.27ID:MFrt+Zeoたとえば「水飴」
日本書紀の時代から記録に残り平安末の京では店頭で売られてたけど
お菓子(固い飴)となって広まるのは江戸時代(砂糖が庶民に広がるとともに定着してる)
じゃぁ鎌倉室町戦国時代には実際にどのように水飴が使われていたか、なんて
一次資料なんて全然ない(推察するしかない)
まぁ現在の「食」の始まりは17世紀に入ってからが多くて、それ以前の食い方なんてさっぱりなんだよな……
0808人間七七四年
2012/05/21(月) 15:13:35.96ID:Q9ohG3e9失敗した。
0809あ
2012/05/21(月) 16:17:13.28ID:aOPNrxShだけど、古代の天皇で犬は食うな、って御触れを出したような天皇も居た気がしたが…?
0810人間七七四年
2012/05/21(月) 20:59:44.59ID:26rMwx2y>食い物スレだから一次資料じゃなくソースって言うべきだったな、、、
アホか。
まったく違うじゃないかよ
0811人間七七四年
2012/05/22(火) 05:48:05.70ID:8AwQMPq6なんか微妙な違和感あるけど、明治維新まで「肉食は薬(滋養とか医療、朝鮮人参と同じ扱い)」であって”普通の食事”ではないよ
で、それを踏まえて、「日欧文化比較」(フロイス1585)には
「彼らは牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」って書かれてる
というか、「犬追い」(広場に犬を放して射る)の後、死んだ犬は料理されて皆で楽しむ
とも蔭涼軒日録に書かれてるから、武士文化の中に犬を喰う習慣は存在してた
猫肉は、幕末には店頭に並んでいた記録がある(戦国時代に忌避されたと推測はできないと思う)
0812人間七七四年
2012/05/22(火) 12:38:18.70ID:S2/RsffV後、大仏様のときに期限付きで出されているね
詔諸国曰 自今以後 制諸漁猟者 莫造檻穽 及施機槍等之類
亦四月朔以後 九月卅日以前 莫置比弥沙伎理 梁
且莫食牛馬犬猿鶏之宍 以外不在禁例 若有犯者罪之
読んでもらったらわかるけど、鹿とイノシシがなぜかぬけているよな
後農耕期間に限定しているんだよね
0813あ
2012/05/23(水) 00:59:21.93ID:4S7eBGVr獣肉ってのは薬みたいなイメージだったんですね…。熊の手とかも中国だけなのかな?昭和初期でも熊を食ってたみたいだし、戦国時代の熊肉も薬かもね。秀吉の虎みたいに。
0814あ
2012/05/23(水) 01:02:49.69ID:4S7eBGVr犬をペットとしてた天皇って誰でしたっけ?雄略とか応神?シロだったか名前のある犬。
つまり、犬は日本では初めからペット扱いでしょうか?
0815人間七七四年
2012/05/23(水) 05:00:36.73ID:3B/lSfVs熊掌(熊の手)は孟子も大好きだった珍味
でも日本では食用されず安産の御守として使われてたくらい
ツキノワグマの手は小さいので食材としてむいてなかったのよ
で、秀吉の虎肉話は、江戸時代の作り話ではないかな
虎皮の献上はあるけど、肉は当時の正式記録がないのよ
ちなみに漢方では虎骨、虎肝、虎鞭(ペニス)、虎睛(眼)、虎血、虎脂なんてあるけど
肉そのものは薬としては使わないよ
0816人間七七四年
2012/05/23(水) 08:44:41.61ID:+FQ2FbIgしっかり埋葬されているの。弥生時代になってくると出土もバラバラで食用に転化したね
「元犬」って落語あるけど、お前の言うのはこれ?
宮中でも猫はうちで、犬は外でよく飼われていたよ。
聖武天皇が新羅よりチンを二頭送られている。これが狛犬の発祥らしいけれど
名前までは知らない。「続日本紀」室内犬はこれがはじめかな?
「国々に犬飼部を置く」という文章が日本書紀にみられることから奈良時代には犬のブリーターらしき官職もあったらしいね
0817人間七七四年
2012/05/24(木) 00:11:53.45ID:IFoaR3Dl冬になるとみんな捕まえちゃうから江戸の町から野良犬が消える代わりに
家々から犬を煮る悪臭がしたと蜀山人だかの作品に残ってる
綱吉の生類憐みの令はこの悪臭が原因っていう説を唱える人までw
0818人間七七四年
2012/05/25(金) 19:09:07.92ID:5emJwIXJ江戸から犬が〜云々てのは蜀山人じゃなくて
大道寺友山重祐の落穂集だね
「我等若き頃迄は、御當代の町方に於て、犬と申すものはまれにて、見當り不レ申候。
若したまさか見當り候へは、武家町方共に下々のたべものには犬にまさりたる物は無レ之とて、
冬向になり候へば、見掛け次第に打ち殺し、賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」
(江戸の町方に犬はほとんどいなかった。というのも、武家方町方ともに、
下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、冬向きになると、
見つけ次第撃ち殺して食べたからである。)
蜀山人の方は一話一言補遺の中で薩摩のえのころ飯の紹介してるね
0819人間七七四年
2012/05/27(日) 14:59:50.55ID:b1u70iIUだけど戦国時代なら狼になるのかな?日本狼も犬扱い?
0820人間七七四年
2012/05/27(日) 15:26:04.97ID:b1u70iIU0821人間七七四年
2012/05/27(日) 20:04:05.57ID:fbKspWy0むしろ骨が信仰の対象になってたってほうがなんかそれらしい
0822人間七七四年
2012/05/29(火) 20:57:34.46ID:CqNJUSZWhttp://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/
0825人間七七四年
2012/06/07(木) 05:40:06.51ID:OO1uiFtl0826人間七七四年
2012/06/11(月) 01:50:37.94ID:fvxs281x0827人間七七四年
2012/06/12(火) 18:55:41.46ID:6G+kzjuH聞いたんですが、本当ですか?
0828人間七七四年
2012/06/12(火) 19:21:19.73ID:8TaqR9OO極貧史観か?
0829人間七七四年
2012/06/12(火) 19:28:17.66ID:Nhpkca/10830人間七七四年
2012/06/12(火) 19:31:00.94ID:04HsTHnMもちろん質のいいもの作るのには手間隙かかるが
0831人間七七四年
2012/06/12(火) 19:45:03.30ID:u/5deGz4甲斐の記録だと
1505年(冷害と干害で不作)には米一升(甲州升大体30合)70文大豆50文粟60文稗50文
1512年(大雪で交通遮断)には米80文小麦70文塩40文
1516年(駿河との戦)には米100文大麦28文大豆60文小豆70文
1519年(永正の大飢饉)には米100文大豆70文粟80文
安い(豊作)時期だと
1515年には米40文大豆20文小豆32文粟20文稗12文
麦飯は大麦(この時代でも粉にする→小麦、そのまま使う→大麦、と区別されてた)で
値段的には米の3割の値段、大豆は米の5-7割、粟5-7割、稗3-5割、小麦9割、塩5割
そして味噌は大豆と塩の加工品
…↑を踏まえて、麦飯、味噌がそれぞれ「贅沢品」かどうかは、ご自身で判断を……
0832人間七七四年
2012/06/13(水) 04:06:01.88ID:jJgpy6KV0833あ
2012/06/13(水) 22:31:21.68ID:TxMn4+bm醤油は江戸以降として味付けや出汁は何だったんだ?カツオ出汁なんか既にあったの?
0834人間七七四年
2012/06/13(水) 22:34:55.41ID:hhKXQnsWそばがきだから
0835人間七七四年
2012/06/14(木) 04:35:56.07ID:wayOQlm1それ以前から乾燥させた鰹を珍重していて、煮汁にしたり、兵糧にしたりしていたようだ
0836人間七七四年
2012/06/14(木) 10:56:20.19ID:kjKAQkZz蕎麦に関して言えば、蕎麦切り(戦国時代成立)までは米の代用品(和名類聚抄は麦の扱い)だったので
米と同じ調理法(粥)の時代が長かったよ
そば粉が作られるようになってから(鎌倉以降)蕎麦がきや蕎麦焼き(麸の一種)に調理法が広がった
ところで、日本で一番古い麺と思われる索餅(さくべい)は、煮込みか茹でたのを醤(ひしお)や酢をつけて食べてた
たぶん昔の麺類(まぁ他には索麺くらいですが)はすべてこの食べ方だったと推察していいと思う
で、室町末(戦国時代)に「垂味噌」( 味噌一升に水三升入、もみたてふくろにてたれ申候也:料理物語)
「煮貫」(煮貫は 味噌五合、水一升五合、かつほ二ふし入せんじ、ふくろに入たれ候、汲返し汲返三返こしてよし:料理物語)
が発明され、江戸時代までは麺類といえば味噌(+鰹出汁)ベースだったよう
0837人間七七四年
2012/06/14(木) 22:32:37.86ID:BQ1uAtf30838人間七七四年
2012/06/29(金) 14:21:59.69ID:b/+HKYH8大豆醤油のような万能調味料ではなかったと思うけど
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