【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
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0001人間七七四年
2011/01/31(月) 20:38:37ID:iiET33MS専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。
―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
http://www.google.co.jp/
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【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
0539人間七七四年
2011/06/02(木) 12:29:41.70ID:WiUaHE1sなぜ襲われないかってのはわたしも不思議に思ってました 信長公もやってますし、
たくさんの武将がやってます あ、信長公の場合、京の都で斉藤義龍の刺客に
襲われたとか襲われなかったとか・・・
基本、室町将軍や京の帝に呼ばれたのでご挨拶にいく、というスタイルなので、
そっちのほうの権威から道中の大名に襲うなよって指令がいってるとは思うのですが・・・
0540人間七七四年
2011/06/02(木) 14:50:29.82ID:s+cdPj0Gいくら交渉しても戦国の世に軽武装で他国の領土を旅行するのは不安な気はしますが…
かなり散財したらしいから財物も多量に携帯してただろうし
なんだかんだで足利幕府の威光はまだまだ健在だったという事かな
0541人間七七四年
2011/06/02(木) 15:05:50.20ID:1buKfsAhぷらっと行って帰ってきたと言うわけではなく一大事業であったわけ
0542人間七七四年
2011/06/02(木) 18:29:08.93ID:pUmYeIQg飢餓祭?意味不明
身長の話はリンクにあるのでは?
>>536>>539
日本海を船で敦賀まで行ったから北陸道使わず安全。
あとは事前に話を通してあるから
各地の大名から通達が出てて通行の安全や馳走(宿泊の準備とか)もしてもらってるのが普通。
将軍や天皇に挨拶すると言う理由なら普通は邪魔しない。
>>537>>538
信長公記の翻訳出版した角川が第一級の史料に値すると自賛したから素人歴史マニアが誤解するようになっただけで
信長公記はデタラメが多い。
ただ謙信が死んだ辺りからは年号も正確になってきてるから参考史料にはできるようになる。
>>540>>541
記憶が定かじゃないけど伊勢神宮に参拝したいから道中の便宜お願いしますって奥羽から出かけた話もあったような。
0543人間七七四年
2011/06/02(木) 19:09:59.83ID:1buKfsAh島津家久が伊勢神宮に参拝ついでに京見物して明智光秀に接待されたり
その話は分からないが、その手の話はいくらでもあると思う。
幕府の力が衰えて群雄割拠になったとはいえ、別に日本が無法地帯になったわけじゃないからな
0544人間七七四年
2011/06/02(木) 19:25:24.68ID:WiUaHE1sどっちみち京の都に行けば将軍や帝にあいさつして貢物を渡さないといけない
やっぱりお忍びとかじゃなくて、ちゃんと話を通して堂々と上洛してたんだろうか
0545人間七七四年
2011/06/02(木) 19:29:11.33ID:jDE22Ux0応永の乱や応仁の乱では中心的に暴れまわっているし、
足利義稙擁立の時も上洛している。
管領でも四職でもないのに中央志向が極端に強い一族だよな。
0546人間七七四年
2011/06/02(木) 19:37:36.91ID:pUmYeIQg0547人間七七四年
2011/06/02(木) 19:41:34.01ID:S3XG2Pvh0548人間七七四年
2011/06/03(金) 00:16:29.66ID:Io+4pa7T今川勢25000に対して、織田勢は3000人くらいの動員兵力
だったして
1万石に対して200〜300人動員できたとすると
信長の勢力は10〜15万石
尾張藩が61万石の表高でしたので、それを参考にすると
当時の信長は尾張うち、多く見積もっても1/4くらいしか
支配できていなかったと思ったのですが、どうでしょうか?
いい線言っていると我ながら思うんですけど、つっこみあったら
お願いします
0549人間七七四年
2011/06/03(金) 01:36:32.83ID:DoKn+9f0前提が間違ってれば答えなんか出ないってのはわかるな?
0550人間七七四年
2011/06/03(金) 09:21:59.54ID:rp4E/emSアニメ へうげもの で信長が「明、ホクテキ、セジュウ、南蛮を落とし〜〜」
とか言っていますがホクテキとセジュウってどこのことですか?
他にも分かる国や地名があったら教えてください。
あと下記の知識はあってるでしょうか?
中国 明(みん)
韓国&北朝鮮 朝鮮(ちょうせん)
インド インド(現代と呼び方同じ?)
イギリス エゲレス
スペイン イスパニア
ポルトガル 南蛮(なんばん)(ただしヨーロッパ全体を指す事もあり)
オランダ オランダ(現代と呼び方同じ?)
0551人間七七四年
2011/06/03(金) 09:27:55.44ID:6mJBbxJCその計算式を今川に当てはめて、天正でも慶長でもいいから
駿遠三の石高合計と見比べてもう一度考えてみたら?
0552人間七七四年
2011/06/03(金) 10:26:33.83ID:22gNDs48>信長の勢力は10〜15万石
父信秀のころに既にこのくらいの勢力。
伊勢湾交易からの上がりを加えればもっといく。
それとここ↓
>尾張藩が61万石の表高
尾張『藩』は領地に美濃、信濃、三河の一部を含めてるから尾張一国では47万石くらい。
0553人間七七四年
2011/06/03(金) 11:18:02.37ID:rLKH/cDh北てき・・・モンゴル
西戎(せいじゅう)・・・チベット
ついでに言うと
明、北てき、西戎、南蛮
と言ってるなら、この場合の南蛮はヨーロッパではなく東南アジアのことを指す
0554人間七七四年
2011/06/03(金) 11:18:43.59ID:PVPHlQ2+北狄、西戎は東夷、南蛮と合わせて古代の中華から見た四方の蛮族の事。戦国時代に
何処を指してたかは知らん。ヨーロッパ人は南のフィリピンとかインドネシアとか経由で来る
んで南蛮と呼ばれた。
インドは天竺(てんじく)と呼ぶ。いわゆる『三国一の花嫁』という時の三国は日本と中国と天竺の事。
オランダは和蘭陀。これはホラントに由来するがホントの国名はネーデルランドだから覚えといて。
0555人間七七四年
2011/06/03(金) 16:32:47.35ID:cwpUwA2J明や朝鮮は王朝の名前であって、
現在の中国・朝鮮に当たる地域を呼ぶときには
唐(カラ)とか高麗(コマ)の方が使われてたんじゃないか
0556人間七七四年
2011/06/03(金) 17:48:17.30ID:1RmGdy6t今川の場合は、尾張を落とせる分収入が増えると見込めるし
その勝ち馬に乗りたい勢力もそちらにつくから
支配する石高以上の動員出来ると思うけど
0557人間七七四年
2011/06/03(金) 18:49:34.83ID:rp4E/emSあれ? 唐も王朝の名前だけど唐滅亡後も中国を指す言葉として用いられたっていうふうに聞いたんだけど違うの?
(ウェブ漫画の注釈書きに書いてた)
高麗ってコウライって読むんだと思ってたけど当時はコマだったの? コウライって平成での読み方?
0559人間七七四年
2011/06/03(金) 19:08:39.13ID:dw86+cjs石高はあくまでも目安。
大抵の国人は敗色濃厚な方には付きたくないものでしょ。
0560人間七七四年
2011/06/03(金) 19:11:40.16ID:LpO8x5Od0561人間七七四年
2011/06/03(金) 22:33:40.89ID:W8ZLu8niあと石高=兵力ではなくGDPと思った方がいい。
0562人間七七四年
2011/06/03(金) 22:42:42.18ID:mJVgROXCだから秀吉みたいに算学ができる者がトップに立つと
武が文を軽視する風潮が薄れ輸送力が組織化する。
今までの織田軍は軍団制で派遣され
あちこちで次々と敵を作ってまわり
各国で現地食料調達方式のために
大軍集中で敵を潰す方式が不可能だった。
言わば兵を喰わせていくために戦略無く無計画に敵を作り侵略を繰り返していたのが織田軍。
秀吉時代は輸送概念が生まれ、必要に応じて敵を絞って戦略集中の遠征が可能になった。
だから時間を浪費し殺戮大会をやっていた信長と違い
効率的運用であっという間に西国をくだして家康を上洛させ土下座させた。
朝鮮出兵が可能になったのも秀吉の文武両道さが理由。
0563人間七七四年
2011/06/04(土) 00:06:10.29ID:3K/3Uetl0564人間七七四年
2011/06/04(土) 00:34:10.84ID:rwHfK+J2南部が10000を動員したとある。共に石高は糞みたいな数字だが
このことからも石高で兵の動員数を語るのはナンセンスと言わざるを得ない。
兵力を語る上で大事なのはその土地への支配力。
0565人間七七四年
2011/06/04(土) 00:44:07.19ID:3K/3Uetl0568人間七七四年
2011/06/04(土) 09:15:50.46ID:8VPdk5t3だから555も唐と書いて『から』と読んでるんだろう。王朝名としては『とう』だが、唐王朝に限定しない
中国を指す時は『から』と読む。秀吉の明遠征も『唐入り』だし。
高麗も王朝名としては『こうらい』だが、王朝名を離れた和訓では『こま』とも読まれる。
0569人間七七四年
2011/06/04(土) 12:23:34.32ID:J0Q0Qxsf0570人間七七四年
2011/06/04(土) 13:57:28.88ID:5Dg63WT41つの名前をつけるのは理解できるけど、対して二郎三郎や四郎三郎と
いった2つの名前を1つにして名付けるケースがとても多い。
この2つの名前を1つにして名付けることはどういう意味あいがあるのですか?
0571人間七七四年
2011/06/04(土) 14:13:22.61ID:J0Q0Qxsfというのも生まれた順に一郎、次郎、三郎とつけるという価値観は近代のモノであって
中世日本においては名前に使う漢数字と生まれた順はなんの関連性も無く
長男に次郎や三郎とつける場合も普通にあって当時の人達からすればただの名前は名前でそれ以上でも以下でもない
ヒロシやケンタと同じ普通の名前です
(信玄は生まれた順ですがそれは信玄がたまたま関連付けただけでソレが普通だったわけではない)
だから次郎三郎さんに「なんで次郎と三郎両方ついてるの?」と聞くのは、
健太郎さんに「なんで健太と太郎くっついたみたいな名前してんの?」と聞くようなもので
本人からすれば「いや、次郎三郎は次郎三郎って名前で別に二つつけたわけじゃないんだけど」
となるのではないでしょうか?
間違ってたらすいません
0572人間七七四年
2011/06/04(土) 14:43:27.42ID:3K/3Uetl名前を重ねた理由は、一郎、次郎と名乗るのが慣例で分家が多いは親戚中が
同じ名前だらけになってしまうので分かりやすくした場合や
次男である二郎が家祖だったり著名人だったりで名を残したかった等が考えられます
また通称や幼名は代々受け継ぐ習慣もあったので家祖が二郎三郎と名乗っていた場合は
子孫は長男の嫡男なのに代々二郎三郎と名乗ったりもします。
0573人間七七四年
2011/06/04(土) 14:58:54.80ID:AJLsLx8m代々の当主予定者が次郎だったのがわかる。
後世の人も兄弟のうち嫡男扱いされていたのが誰だかわかるんだよ。
逆にその法則から外れている場合は
謀反や早世などが疑われる。
勝頼なんてまさに嫡男予定者じゃなかった。
0574人間七七四年
2011/06/04(土) 16:08:14.81ID:lNvbYMYM0575人間七七四年
2011/06/04(土) 16:22:44.66ID:DPVS9A7s「太郎、次郎、三郎、四郎…」(女子なら姉子、二子、三子、四子…)
となっていたが、鎌倉末〜南北朝期くらいに、社会全体で旧来のルールによる相続の行き詰まりや
社会の騒乱状況から、基本嫡男相続に変化し、排行名は使われなくなった。
0576人間七七四年
2011/06/04(土) 18:23:22.31ID:1BunV23O返答ありがとうございます
象徴的な意味合いだけでなくそれぞれの家の事情によって変化したんですね
次男の三男だから二郎三郎だったり
それに分家が多いから区別のためにというのも納得です
0577人間七七四年
2011/06/04(土) 19:05:22.32ID:Hiiwdl8oそう清水克行氏の本。
平均身長は鈴木尚氏
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%B0%9A
0578人間七七四年
2011/06/04(土) 19:58:21.72ID:Vj2OdUJJ徳川次郎三郎家康
茶屋四郎次郎
くらいしか思い浮かばない
0579人間七七四年
2011/06/04(土) 20:23:37.49ID:XYJEkVkn0581人間七七四年
2011/06/05(日) 00:51:32.71ID:vKLLrMTc戸沢九郎五郎政盛、最上太郎四郎家親、国分五郎次郎盛氏、河田九郎次郎重親、
大宝寺四郎次郎義氏、大宝寺四郎次郎義勝、岩城二郎太郎重隆、岩城四郎次郎貞隆、
岩城四郎次郎宣隆、岩城四郎次郎吉隆、真里谷八郎五郎信清、真里谷八郎五郎信応、
武田六郎次郎信豊、甘利三郎四郎信景、勝沼次郎五郎信友、真田次郎三郎幸隆、
三木四郎次郎良頼、松平十郎三郎康孝、小笠原十郎三郎信嶺、阿部四郎五郎忠政、
渡辺次郎四郎氏綱、遠藤三郎四郎慶隆、遠藤三郎四郎慶勝、織田三郎五郎信広、
織田三郎四郎信衡、明智二郎四郎光忠、香川五郎次郎之景、香川五郎次郎親和、
池田三郎五郎信正、池田八郎三郎勝正、有馬九郎三郎則頼、有馬四郎次郎則氏、
尼子三郎四郎晴久、尼子三郎四郎義久、赤穴九郎太郎光清、吉川次郎三郎経基、
吉川次郎三郎国経、吉川次郎三郎元経、吉川次郎三郎興経、吉川次郎五郎広家、
龍造寺六郎次郎周家、龍造寺六郎次郎長信、伊東六郎五郎祐兵、相良四郎太郎義陽、
相良四郎次郎頼房、肝付三郎四郎兼護、島津三郎太郎実久、島津三郎太郎義虎、
島津三郎四郎忠隣、新納次郎四郎忠元、喜入三郎四郎季久
0582人間七七四年
2011/06/05(日) 04:15:59.72ID:w7EhkbAw0583人間七七四年
2011/06/05(日) 09:46:39.97ID:PYFJLOIO0584人間七七四年
2011/06/05(日) 21:37:11.44ID:5Vd2j4kV0585人間七七四年
2011/06/05(日) 23:42:25.61ID:Ojmldvqpブームになっていたと言いますが
日本の戦国時代ではあまり聞かないのはどうしてでしょう?
確かに役に立たなければ単なるごく潰しに過ぎませんが
大名の財力や権威を示すという意味では普通に発生しそうな気もするのですが。
0587人間七七四年
2011/06/06(月) 00:24:27.80ID:sajkXiT10588人間七七四年
2011/06/06(月) 00:28:30.30ID:ZZpxC4oJ食客と言う名の私兵を区別した上で別に養う意味が分からない
0589人間七七四年
2011/06/06(月) 00:29:12.33ID:1VzcmvIF露骨に坊主や忍者として抱えてたけど
0591人間七七四年
2011/06/06(月) 14:19:29.43ID:RMBhPoKhはっきりいってその遊び人たちの生活を支える貧民が可哀想レベル。
単なる無駄な浪費に近いし公子の趣味が反映された採用基準。
食客3000人とかバカバカしい。
しかも食客で歴史に名を残すほど役にたったのはわずかだし
それもかなり講談臭が激しい。
孟嘗君とかアホ過ぎ。
0592人間七七四年
2011/06/06(月) 17:18:18.79ID:+8pDCe54趣味や見栄じゃなく、高位の貴族にとって必要不可欠な人員
0593人間七七四年
2011/06/06(月) 18:13:13.64ID:4DVT0ReI結社だのパンだのといった横の関係は比較的軽視されたからじゃないの?
家紋というものは、日本とヨーロッパにしかないしな。
0594人間七七四年
2011/06/06(月) 18:59:18.64ID:1VzcmvIF忍者や僧侶や修験者や商人などが食客よりも貴重な存在として扱われた。
0595人間七七四年
2011/06/06(月) 19:06:11.28ID:j6NsOZSB0596人間七七四年
2011/06/06(月) 19:44:30.33ID:ikPMXndP> 普通に考えたら、日本の方が中国よりも「家」が重んじられ、
んなわけねーだろ。どう考えたっていつの時代も中国のほうが家や家格を重視してる。
中華の結社やパンを過大視しないほうがいい。
0597人間七七四年
2011/06/06(月) 20:09:54.21ID:RMBhPoKh韓国で偽家系図作りしてみんな両班の子孫になっているのも家柄が重視されてるからだよ。
日本は一家庭レベルで姓を捏造した家系図を家系図業者に作成依頼しなくても就職差別されない。
0600人間七七四年
2011/06/09(木) 11:41:25.91ID:ZC925UNy0602人間七七四年
2011/06/10(金) 00:50:13.77ID:16QCWMhY同時に功績のある家臣に絶えた名跡を継がせたりしています。
この場合、他家の名跡を継ぐことで自分の本来の名や家が絶えることは
構わないのですか?
例えば飯富氏も由緒ある伝統的な氏のようですが、
山県姓を継いだ昌景は自分本来の家である飯富姓を次代に繋げたいとは
思わなかったのでしょうか?
0605人間七七四年
2011/06/10(金) 01:13:26.37ID:F4Xx5THR肖像画を見ても、ぜんぜん眼帯してないっぽいんですが…
0606人間七七四年
2011/06/10(金) 01:20:53.11ID:oDUWNXRjちなみに片目閉じている肖像画もある。
http://www12.ocn.ne.jp/~reigen/date.htm
0607人間七七四年
2011/06/10(金) 01:22:50.56ID:XwUCVmcOおでこがたれ下がり目が飛び出てて大変見苦しかったと言う記録がある
0608人間七七四年
2011/06/10(金) 08:24:03.04ID:pdC3Eqwb____
/__.))ノヽ
.|ミ.l 無 能 i.)
(^'ミ/.´●.〈・ リ
.しi r、_) | やかましいわ!このヤロー!
| `ニニ' /
ノ `ー―i´
0609人間七七四年
2011/06/11(土) 00:02:12.72ID:5TOu98hg実際は布とかな気がしますがああいう眼帯ってあったんでしょうか?
0611人間七七四年
2011/06/11(土) 13:27:46.57ID:+Zwk2DKH普通に「木」だよ。裏に木綿。
0612人間七七四年
2011/06/11(土) 13:42:10.00ID:Q0Epd0Ko0613人間七七四年
2011/06/11(土) 14:06:19.94ID:FIKGJKLJ0614人間七七四年
2011/06/13(月) 22:02:40.91ID:XBfdAEW7大友宗麟はキリスト教を優遇する一方で旧来の宗教を弾圧しています。
焼き討ちのような信長同様の弾圧を行なっているわりに
大友宗麟が一向一揆で苦労した類の話を聞きません。
九州には一向一揆は起きなかったのでしょうか?
0616人間七七四年
2011/06/13(月) 23:03:50.48ID:WN7hjJfR0617人間七七四年
2011/06/13(月) 23:06:37.75ID:C9FCF1uQ上杉の支配領域の中、伊豆どころか相模に入ることすらできそうにない気がするのですが…。
0618人間七七四年
2011/06/14(火) 00:22:37.54ID:ZMdu6VO5この時代、戦国後期のような『支配領域』は、まだまだ発展途上。
領主は荘園の所々を抑えていただけで、面的支配は実現できてない。
はるか後年でも伊勢宗瑞の軍が東上総の茂原まで攻め込んだり、扇谷が平塚を焼き払ったりしてる。
大規模な敵方の軍勢が攻め込んで来ても、個々の小領主の軍勢では手出しすらできず、容易に奥深くまで攻め込まれてしまうってこと。
その点、まだ南北朝時代の戦争と大して変わってない
0619人間七七四年
2011/06/14(火) 01:00:29.88ID:UGQ7L3iQ氏康も謙信と信玄に小田原城まで攻め込まれてるし
0620人間七七四年
2011/06/14(火) 01:51:21.61ID:Uh0DB7Ouしかし箱根を越えて三島まで行ってたとは驚きました。
もしかして扇谷や相模の大森、三浦あたりは政知と確執があったし本気で政知を助ける気はなかったのかなと妄想。
0621人間七七四年
2011/06/14(火) 02:10:40.36ID:H8hZiaIL0624人間七七四年
2011/06/15(水) 09:50:37.93ID:d1EEN9Ybうろ覚えで安国寺恵瓊が関が原の合戦に出たときの話かと思ってましたが
調べたら勘違いっぽい
0626人間七七四年
2011/06/15(水) 13:26:40.73ID:NDyjXz4D香を炊いて出撃した武将って誰でしたっけ?
0627人間七七四年
2011/06/15(水) 13:54:56.71ID:NrGdBXWL別にだれということはない。
生きて帰らない覚悟であることを敵味方両方に知らしめるための装い。
侍大将なら皆といってもいい。
0628人間七七四年
2011/06/15(水) 14:09:30.08ID:xcnnbldE香を炊いては木村重成
大元の逸話は中国古典
0629人間七七四年
2011/06/15(水) 14:34:07.39ID:mc1NcsSh0630人間七七四年
2011/06/15(水) 15:11:13.95ID:NrGdBXWLつく場合は必ず上。
三成の子は重家、重成、でもしも諱があるなら重の方。
歴史音痴の脚本家は困ったもんだよ、まったく。
0632人間七七四年
2011/06/15(水) 16:52:44.28ID:c32gt/gHそれとも、御館の乱後の景勝となんでしょうか?
0633人間七七四年
2011/06/15(水) 17:04:22.51ID:MdvhtYmp景勝とですな 御館の乱の途中でどんどん接近し、乱の後に北条が怒って武田北条の同盟が
崩れてしまうと上杉武田の同盟を結んで対抗したと思います 婚姻関係も結んだかな
0634月孔雀
2011/06/15(水) 17:05:02.05ID:BFxDfeI0甲越同盟したらしい。
0635人間七七四年
2011/06/15(水) 17:11:35.66ID:c32gt/gH>>633さんのように、御館の乱のあと「景勝と」同盟した、
>>634さんのように、信玄の遺言通り「謙信と」同盟した、
の2通りの説を耳にするので、どちらなのかな…と思いまして。
0636人間七七四年
2011/06/15(水) 17:14:52.82ID:MdvhtYmp0637人間七七四年
2011/06/15(水) 17:18:47.28ID:xcnnbldE御館の乱後に軍事同盟である甲越同盟
0638人間七七四年
2011/06/15(水) 17:19:45.42ID:CGSEpr5j同盟リセットどころか
北条と一緒に景虎を支援することになったって言う経緯があるからじゃないかな
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