【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
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0001人間七七四年
2011/01/31(月) 20:38:37ID:iiET33MS専門的な質問は、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなくても怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップ付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたい時は、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。。
―【質問する前にすること】―
★検索サイトでとりあえず検索。これ最強。→Google検索
http://www.google.co.jp/
★自分と同様の質問がスレッド内(Ctrl+F)、過去ログ先に無いか必ずチェック。
<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。
【疑問】スレ立てるまでもない質問【戦国時代板】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150022967/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 2【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1195567708/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 3【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1234172504/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1251802299/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 5【戦国時代】
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1263114279/
【疑問】スレ立てるまでもない質問 6【戦国時代】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1274877247/
0003人間七七四年
2011/02/01(火) 21:08:56ID:BWQ+Kla30004人間七七四年
2011/02/01(火) 22:35:24ID:wlQ4e7q90005人間七七四年
2011/02/02(水) 00:45:33ID:8f6AXqus0006人間七七四年
2011/02/02(水) 01:04:59ID:tKaF4vUN広義でとると応仁の乱(1467)から大阪夏の陣(1615)まで
統一という概念でとると小田原の陣(1590)まで
近世に対する中世末という意味でとると関ヶ原(1600)まで
国内内戦の終結、という意味で島原の乱(1638)まで取る見方もある。
0007人間七七四年
2011/02/02(水) 08:09:05ID:ZVvoUxsG自分は家康将軍宣下がしっくりくるな。
0008人間七七四年
2011/02/02(水) 11:43:44ID:oyY957j0刀狩りはあくまで大規模一揆などに対する対処法であり、全国で行われたわけでもなく
また実地も不十分で、これを時代の分岐点と観るのは無理がある。
そもそも「刀狩り」は秀吉以前から、戦国大名が一揆を平定した場所で行われていた
ごく普通の政策
刀狩りや太閤検地、もしくは兵農分離などというものをあまり大きく捉えないほうがいい
0010人間七七四年
2011/02/02(水) 16:01:51ID:+HxDmzX8ため込んでいた武器を没収した、程度に考えよう。
「法」として出したのが、柴田勝家であり次が秀吉だった。
0011人間七七四年
2011/02/02(水) 16:35:53ID:TZTXqmEoなるほどなぁ。
刀狩りというか、総無事令は一応天下人が全国に戦闘終結
宣言をした、という感じで評価してるのを見たことあるもんで。
山本じゃないけどね。
家康も将軍就任第一号令ぐらいでそういうのを出してたはずだが
それを近世の緒とするなら、秀吉の方に分岐を持ってくのもどうかなと
思ったんだ。
結果論かもしれないが家康の将軍宣下がとりあえず統一政権の
誕生とするならそれも明解にも思うし。
戦国の定義に寄るんだろけどね。
0012人間七七四年
2011/02/02(水) 16:45:21ID:jGjPKTZL0013人間七七四年
2011/02/02(水) 20:55:28ID:mBJoCfo41637年島原の乱
1837年大塩平八郎の乱
1863年天誅組の変、生野の変、薩英戦争、下関戦争、第一次長州征討
1864年天狗党の乱、禁門の変
1865年第二次長州征討
(1867年大政奉還)
1868年鳥羽・伏見の戦い
江戸幕府の安泰ぶりはすごいね
0014人間七七四年
2011/02/03(木) 09:56:26ID:qJ2Ck5810015人間七七四年
2011/02/03(木) 14:23:51ID:3LEQfAy8政治軍事のみならず経済的も安定してたということでしょう。
これはやっぱりすごいよね。
元禄のあの隆盛が関が原と同じ1600年代というのにもビビる。
普通は2〜3代目はポシャるとしたものだが、そっから安定が確実に
なったということは、いかに家康当たりの初期設定が優れていたかと
いうことなんだろなあ。
0016人間七七四年
2011/02/03(木) 15:39:56ID:ZAjTOUER0017人間七七四年
2011/02/13(日) 21:47:46ID:LOwnHLE+休戦期間を考慮すると実際の戦闘期間は何年くらいだったのでしょうか?
あと鉄砲のイメージが強くなっていますが、
一揆の主体である国人や坊主や百姓が鉄砲や火薬を調達したり、取り扱ったりできたのは不自然に思えます。
石山や加賀の一揆連中には鉄砲に関する運用や調達に関する何らかの工夫があったのでしょうか?
0018人間七七四年
2011/02/15(火) 15:09:15ID:ldT9RDI+第二次1573年4月〜11月
第三次1574年4月〜1575年10月
第四次1576年4月〜1580年閏3月
細かく見ていけばこんな感じで6年ほど
一般にイメージされる籠城して強固に反抗したといわれるのは
ここでは仮に第四次としてる最後の4年間が実質当てはまる
鉄砲の扱いついては他の大名家でも主力は国人や半農半武士であり
本願寺勢のそれらが鉄砲を扱っていても何ら不思議はない。
調達に関してはもともと近畿は鉄砲の大産地であり又一向宗門徒も多い
たまたま鉄砲を多く持つ門徒に必死にお願いした系で工夫と言えるかどうか
0019人間七七四年
2011/02/15(火) 15:10:52ID:omyINWEN簡単に書くとこんな感じ。
雑賀、根来は鉄砲傭兵として各地に転戦して莫大な金を得た。
その金はその後ひたすら鉄砲製造に使われた。
硝石は輸入以外になかったと言われたことがあったが、
国内(海に面した)大名や豪族は硝石を作ることができた。
輸入品は織田が押えていた部分が大きかったが、国内生産も大きくなっていった。
火薬(黒色火薬・硝石)の製造方法は大友宗麟が献上したものが残っている。
石山合戦の最初のころ(1570年)は、雑賀も根来も織田の援軍として参加している。
「信長公記」には「援軍2万、鉄砲3千丁」と書かれている。
あと詳しくは雑賀、鉄砲で調べて
0020人間七七四年
2011/02/15(火) 16:11:53ID:GJsMzNPH西洋では高い塔の上から、溶融した鉛の液体を
ポトリポトリと下の水槽に落として造ってたと聞いたのですが・・・・
0021人間七七四年
2011/02/15(火) 16:30:25ID:STc4wb/o0022人間七七四年
2011/02/15(火) 16:36:26ID:ldT9RDI+ペンチを閉じると半球の凹みが合わさって球体の空間ができる
溶かした鉛を小さな穴から流し込む、冷えたらペンチを開いて弾を取りだす
小さな穴やペンチの隙間からはみでた部分のバリを削り取る。弾完成
0023人間七七四年
2011/02/15(火) 16:37:02ID:omyINWENそこに溶けた鉛を流し込み、固まったら蓋を外す。
バリを削って完成。
0025人間七七四年
2011/02/15(火) 17:52:27ID:2KVPjvMMただし戦陣で合戦の合間にもできるし、女子供でも容易に行える作業で、それなりの熟練と
技能が必要な矢の製造よりこの面でも楽だった。
0026人間七七四年
2011/02/15(火) 18:01:38ID:STc4wb/o0027人間七七四年
2011/02/15(火) 23:05:03ID:t5r73+OV0028人間七七四年
2011/02/16(水) 05:50:09ID:bYH9EnJ80030人間七七四年
2011/02/19(土) 20:37:32.00ID:deL9bvDV以前たしか山本勘助は三河の出身だとテレビで言っていたはずですが
最近は四国説になったのでしょうか?
0031人間七七四年
2011/02/21(月) 21:55:43.95ID:lEbvG9Pb山本勘助が「参州」の出だ、というのが「参州=三河」ではなく「讃州=讃岐」の
書き間違いだ、という主張が江戸時代からあって、それが山本勘助四国出身説。
正直牽強付会の強い、言葉遊び以上の意味は殆ど無い説だと考える。
0032人間七七四年
2011/02/21(月) 22:03:00.18ID:E4/wU8nuうどん喉につまらせて死ねばいいのに
0033人間七七四年
2011/02/22(火) 01:54:48.31ID:o7ij/NMw0034人間七七四年
2011/02/22(火) 02:00:18.01ID:mzsiaKZS全くの捏造ではない。毛利の「萩藩閥閲録」に讃岐出身の山本勘助が山口で
大内に仕え、その後武田信玄に仕えた、と言う山口の山本家に伝わる話が収録されてるの。
0035仙台藩百姓
2011/02/22(火) 08:19:45.98ID:5O48GOX7閥閲録は読んだ事ないけど恐らく山本氏は家系図のみだと思うお( ^ω^)
偽造書状が付けられていれば良い方だお( ^ω^)
0036人間七七四年
2011/02/22(火) 10:59:12.07ID:T1WsQSaH毛利は武田にあこがれでもあるのか
0037人間七七四年
2011/02/22(火) 13:38:26.57ID:QUoufZ3H山県は山口じゃなくて安芸だw
安芸武田家はそれなりに甲斐の本家と交流があったらしいからな。
そこからそう言う伝承ができたんだろ。
0038人間七七四年
2011/02/22(火) 14:06:05.46ID:xyBoWi+tそういえば捏造といえば
仙台藩の捏造・誇張話の類はすさまじいよなあ
見栄っ張りだからってどんどん尾ひれ付いているし・・
0043人間七七四年
2011/02/22(火) 21:07:34.48ID:ZrcSSIip0044人間七七四年
2011/02/22(火) 22:09:46.54ID:T1WsQSaH自分や主君の御先祖様の実績を書くんだから盛るのが礼儀だろみたいな
0045人間七七四年
2011/02/23(水) 05:22:09.18ID:qlRH1x6N地元でも誇張と知らずに真実だと信じきっている層も少なくない。
早川元市長とか天下り先が白虎隊関連ということもあり
創作の内容を真に受けて山口地方に大人げない誹謗を繰り返しているしなあ。
0046人間七七四年
2011/02/23(水) 08:07:38.65ID:nx6n+v06『真田信繁』が『真田幸村』にとなったのは17世紀中ごろに出版された
「浪速戦記(?)」が初だと思ったのですが、さらに元ネタはどこまでさかのぼりますか?
一説には兄の信之が幕府に憚って『真田幸村』という架空の先祖をでっちあげて
葬儀をおこなった、と聞くが?
それと仙台藩の伊達綱村はアニオタの走りで幸村から字をとった、というのは本当ですか?
0047人間七七四年
2011/02/23(水) 09:24:26.65ID:GxmhlQDB0048仙台藩百姓
2011/02/23(水) 10:15:34.70ID:1y/lzSpl妖怪が出て来たり生首が空飛んだりお笑いもいいところだお( ^ω^)
でも全国一は上杉(長尾)でしょお( ^ω^)
江戸時代の妄想小説真に受けて何がなんでも謙信が神の如き人物でないと気が済まず
上杉関連書籍は冷静さの欠片もなくひたすら謙信を持ち上げてて非常に気持ち悪いお( ^ω^)
米沢市などは全ての小中校に謙信と鷹山の肖像画飾っているぐらいで
この平成の世になっても上杉家を崇拝させようと必死で北朝鮮そのものだお( ^ω^)
だいたい鷹山はともかく謙信は米沢全く関係ないというのに┐ (´ω`) ┌
0049人間七七四年
2011/02/23(水) 15:57:51.56ID:KHK3KEpr0050人間七七四年
2011/02/23(水) 16:22:49.61ID:jrDx+YPk米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
救援に赴いて北越を救ったという。
越後時代への想いは何百年たってもかなり熱いものが残っていたようだね。
0051人間七七四年
2011/02/23(水) 18:41:43.07ID:vdPdQ0B1> 米沢藩は「旧領民を見捨てられない」と奥羽越列藩同盟の会津藩と交戦も辞さない覚悟で
> 救援に赴いて北越を救ったという。
という名目で越後に介入しあわよくば越後回復を目論んでいたらしい。
幕末には色々なことがあったが、混乱に乗じた領土拡大を志向していたのは米沢藩だけだな。
0052仙台藩百姓
2011/02/23(水) 22:17:26.91ID:1y/lzSplイタリア並に節操の無い事言い出し非難を浴びて慌てて取りやめるという恥の上塗りをしているお( ^ω^)
0055人間七七四年
2011/02/24(木) 00:36:01.93ID:S7TMgBmT/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \ 飢饉さえなければ200万石を超えていた
| |r┬-| | 仙台は日本一の都になっていたはずだ
\ `ー'´ /
0056人間七七四年
2011/02/24(木) 01:08:04.67ID:3wMCgDfqいまいちピンとこない
0058人間七七四年
2011/02/24(木) 18:13:36.67ID:XUFA4x800060人間七七四年
2011/02/24(木) 18:46:51.08ID:8v72flGa0061人間七七四年
2011/02/24(木) 19:07:55.83ID:fWu0rgyi臣籍降下して賜姓皇族(源氏、平氏など)になる場合もある
0062人間七七四年
2011/02/24(木) 19:40:23.69ID:4Rh7VDEG百姓は上杉関連のコメントをもうちと感情剥き出しに語ることなく出来るようになれば、
この板での認知、理解度も上がると思うんだけどなあ
上杉伊達関連以外の薀蓄はわりかし面白くて良い
0063人間七七四年
2011/02/25(金) 05:30:34.29ID:Lh0P9qdg仙台藩もだろ
0064人間七七四年
2011/02/25(金) 05:38:32.57ID:YDWHFPQAの間違い。
0065人間七七四年
2011/02/25(金) 06:37:08.09ID:QJxk8kb5半分くらいが武士と認められない水増しだったんだよな
虚仮威しというか竜頭蛇尾というか独眼竜w
0066人間七七四年
2011/02/25(金) 16:14:36.80ID:hR7+0HrV0067人間七七四年
2011/02/25(金) 17:14:08.73ID:B+BjYaNz赤松氏と関係が有りますか?
0069人間七七四年
2011/02/25(金) 20:08:03.93ID:4XWzXjp+旧社会党出身の左翼が名門武家の流れを汲むわけないだろw
帰化朝鮮人だろどうせ
0070人間七七四年
2011/02/25(金) 20:12:25.00ID:qPboOMYr0071人間七七四年
2011/02/25(金) 20:33:27.66ID:4XWzXjp+現実を見ようぜ
実際に旧社会党は在日の巣窟だっただろ
っていうか日本は今や単一民族国家ではない
身の回りに日本人しかいないと思ったら大間違い
俺の昔の家庭教師も日本名を名乗ってたが在日だったし
Wikipediaの日本の住民の欄にも【日本人、中国人、朝鮮人】と書かれてる
日本は日本人だけのものではなくなってる
0074人間七七四年
2011/02/25(金) 20:49:50.46ID:qPboOMYrちょっと活躍した日本人を何でもウリナラ同胞認定する朝鮮人と一緒だと解らんのか
0075人間七七四年
2011/02/25(金) 20:52:43.62ID:6OxbGprZ0076人間七七四年
2011/02/25(金) 21:38:50.01ID:4XWzXjp+おいおいw
精一杯の反論がそれか?
何回も言う【日本は日本人だけのものじゃない】
与党だった時の自民党の中山大臣の「日本は単一民族国家」発言が波紋をよんで罷免にまで至ったのを覚えてないのか?
もし日本に少数の韓国人しかいないなら、そこまで一大事に至らなかったはず
今は国際社会の時代なのに・・・
0077人間七七四年
2011/02/26(土) 01:25:11.44ID:uRCyZ/oe普通に明治新姓のような気がするな
この板に赤松氏のスレがあったからそれ読んでみれば?
確か赤松氏のこと研究してる人が子孫末裔について詳しく追ったレスをしてたはずだから
0078人間七七四年
2011/02/27(日) 09:30:30.16ID:li+FApXYまぁ、後北条の子孫が公明党の書記長やっていたのだから、事実でも驚く水準じゃない。
それを言うなら、共産党の志位の祖父は帝国陸軍少将だし。
0079人間七七四年
2011/02/27(日) 14:08:33.58ID:CYl4+V7C菊池をのっとったり大内や毛利から割譲されたいわば政治的な拡張ばかりで
軍事的に広げた版図ってどのくらいあるのでしょうか?
立花道雪や立花宗茂など猛将がいて国力も他大名を圧倒していたわりに
今山や耳川で敗戦していますしすごいのかすごくないのかよくわかりません。
政治的に割譲された土地>自力で広げた土地だと
ただの棚ぼた大名ではないでしょうか?
0080人間七七四年
2011/02/27(日) 16:16:31.59ID:Ymtb2BOA軍事力の裏付けがあるから政治力で圧力をかけれる
これは現代でも同じ
0081人間七七四年
2011/02/27(日) 19:58:42.75ID:qv8+zZ8f0082人間七七四年
2011/02/27(日) 22:08:04.60ID:YTjmV3bA大内ってたぶん陶のことだろうが
陶が義隆を討った後も北九州を支配してるし
陶に謀反した毛利は一時的に大友と手を組んだフリをしたが陶を討った後にさっそく北九州に攻め込んでるし。
旧大内領の豊前筑前の国人たちはみんなガチガチの反大友の鬼ばかりだったといっていい。
博多を維持すべく西の大友と呼ばれた出先機関の立花城や隣の宝満城は陸の孤島状態。
それでも立花道雪死去寸前では筑前を安定させ筑後でも柳川城攻撃までやってる。
大友本隊も豊前をほぼ鎮定してるし。
ちなみに今山の戦いは局地戦であって龍造寺の戦略的不利は覆ってない。
0083人間七七四年
2011/02/27(日) 23:41:09.08ID:AAIskiqgでも文末に顔文字つけるコテハンみたいな人がいて心底ウザイ
0084人間七七四年
2011/02/28(月) 02:05:58.19ID:L6V18igv信長や信玄みたいにぶっ潰しての領土拡大をイメージするとちょっと違う感じになるな。
とりあえず強いものに付く、不利になったら降った振りをする、それで許される。
潰された訳じゃないから、隙あらば反抗し、もっと強いものが現れれば雪崩を打って臣従する。
そんな九州戦国時代。
0086人間七七四年
2011/02/28(月) 09:31:49.13ID:sVMfAV2w大内や尼子残党を利用してなんとか追い払った無様な状態。
その後も龍造寺・島津に要所で敗北し、秋月(笑)ですら台頭できるほど九州には隙ができた。
東日本ではありえないな。
0087人間七七四年
2011/02/28(月) 18:51:26.76ID:0pUpnrMk大友に毛利がボロ負けしただけ。
ナンデそんなに必死なの?
大内や尼子残党を使う以前に
立花道雪によって小早川隆景隊が大破され毛利勢はすでに追いつめられてたわけだが。
0088人間七七四年
2011/03/01(火) 00:32:03.82ID:QJ4yJBx0局地戦で勝ったことをほこられても・・・
0089人間七七四年
2011/03/01(火) 02:05:22.31ID:qvdN4o7e大友と毛利が全軍をあげて決戦してただろ。
そもそも筑前&豊前の国人たちは旧大内配下で反大友なやつらばかり。
毛利はなんら苦労も努力もなく彼らの協力を得られている。
しかも毛利は制海権があり長門周防からの補給も簡単…つか目と鼻の先で対岸見えてるし。
逆に大友は豊後から豊前の敵地である山谷ばかりの地を抜けて長駆補給されてきていた。
結局、大友に撃破され毛利は戦略目標だった商都博多を手に入れることすらできず完全に大失敗。
しかも毛利はこれによる国人たち大動員の褒美や加増ができずに財政をさらに悪化させたまま元就は死去。
0090人間七七四年
2011/03/01(火) 06:31:32.01ID:RzNyh9pt毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/l50
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1240453594/l50
【シッタカ虚言癖】戦国最強w毛利親子【軍記は史実】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1276829485/l50
毛利元就って明らかに実力未知数だよね
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226366549/l50
大友氏について語ろう2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1268011621/l50
0091人間七七四年
2011/03/01(火) 10:28:01.59ID:cdeKKpvu0092人間七七四年
2011/03/01(火) 12:52:47.17ID:ADQjCDorそもそも後年になって織田と対峙して困窮していた毛利を後ろから挟撃している割に
長門周防を攻略できなかったのは情け無いにもほどがある。
西日本の大名は質が低すぎる。
0093人間七七四年
2011/03/01(火) 14:06:10.12ID:qvdN4o7e当時はまだ毛利に制海権があったから上陸するのは自由だしw
後年の毛利の田原親貫支援の国東半島沖で大友水軍に毛利水軍が大敗した後は制海権も失われたが。
それと信長が島津と大友の和睦を斡旋してたし、挟撃する前に本能寺の変が起きたのも知らんとはバカ過ぎる。
そもそも焼け落ちた山口の都の再興に失敗した毛利が博多を手に入れたくて大友を攻めてきたが、
大友にしてみたら長門や周防に何の魅力も感じてない。
0095人間七七四年
2011/03/05(土) 10:54:39.54ID:k56FlJuC0097人間七七四年
2011/03/05(土) 15:11:46.30ID:tRqiPi7Z↑はコーエーが公開した1511年のシナリオですが
このころって蝦夷のアイヌと戦ってた頃ですよね?
蠣崎が安東から独立したのはいつごろなのでしょうか?
0098人間七七四年
2011/03/05(土) 15:14:22.60ID:tRqiPi7Z0102人間七七四年
2011/03/05(土) 16:34:24.94ID:vWdLUPRO0103人間七七四年
2011/03/05(土) 16:54:00.92ID:/JfN4q6l0104人間七七四年
2011/03/06(日) 16:09:28.64ID:Xot+VGf40105人間七七四年
2011/03/06(日) 16:58:16.94ID:wHsYteyK0106人間七七四年
2011/03/07(月) 03:24:35.93ID:8wXhm24iなんだ1511年の船岡山合戦かよ。
蒼天録にあった下記のシナリオも入ってるなら購入確定なんだが。
1495年 駿河の梟雄 小田原城奪取した早雲
1507年 三人の養子 細川政元暗殺
個人的には1486年 当方滅亡!(道灌暗殺)なんてのを入れて欲しい。
0107人間七七四年
2011/03/07(月) 14:31:16.95ID:PswEvpXb0108人間七七四年
2011/03/07(月) 21:31:37.69ID:oqhOsmNs0110人間七七四年
2011/03/08(火) 15:37:55.92ID:AChvKMWc坂本龍馬も「土佐藩士」ではなくて「山内土佐守家中(または家来)」と言われた。
と言っておこう。
0111人間七七四年
2011/03/08(火) 15:50:03.13ID:DY233kSTインテリの間には広まっており、龍馬自身は「藩」と言っていた可能性は高い。
一人称としての「僕」の使用と似たような感じだな。
0112仙台藩百姓
2011/03/08(火) 17:55:47.77ID:fa1P9gAN大名を差す言葉としては古くからあるものだお( ^ω^)
0113人間七七四年
2011/03/08(火) 18:35:09.58ID:UlYaPVSI0114人間七七四年
2011/03/08(火) 18:51:23.25ID:f/OsFQRc0115人間七七四年
2011/03/08(火) 21:26:06.62ID:ymsPAwBM0116人間七七四年
2011/03/08(火) 22:10:03.64ID:UyAF+X7L0117人間七七四年
2011/03/08(火) 22:20:10.42ID:yT26CVFQ0119人間七七四年
2011/03/09(水) 14:18:10.75ID:jbd1imxsあ、追加で、スプーンみたいな木のヘラで糞を取るという方法もあった。
「そっぺら」と呼ばれていた(前田慶次の逸話の中にその話がある)
0120人間七七四年
2011/03/09(水) 23:46:20.13ID:HYtFrZE7事実とすれば犯人は誰と思いますか?
0121人間七七四年
2011/03/10(木) 13:32:52.13ID:ufhgWC2N人が大勢出入りする場所だから、小はかなりあったんだろうな。
江戸城では、そうならないように現在の金額で数十万円に相当する罰金を科していた。
大阪城の犯人は男も女も全員じゃねえの?
上方の女は立ちションをするといって江戸っ子が驚いたという話もある。
0122人間七七四年
2011/03/10(木) 15:16:41.69ID:AoYJ5krG三管領・・斯波氏、畠山氏、細川氏
七頭(四職)・・(山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏)、土岐氏、上杉氏、伊勢氏
武者頭・・吉良氏、今川氏、渋川氏
これらがあげられますが
六角氏や武田氏や佐竹氏などの源氏の名門や
地方の有力者である伊達氏や少弐氏や大内氏や大友氏などには
なにか呼称はないでしょうか?
0123人間七七四年
2011/03/10(木) 16:07:00.18ID:NjN3kGqd> 七頭(四職)
七頭の存在は現在否定されています。室町幕府の序列は
三職・御相伴衆・国持衆・准国持両人
であったとされる。
で、御相伴衆が
山名・一色・阿波細川・能登畠山・赤松・京極・大内
の七家家督に限定。
六角は「国持衆」に含まれる。
甲斐武田や佐竹は鎌倉公方の管轄下の「国持衆」だな
少弐や大友は九州探題管轄。伊達は大永三年(1523)以降は陸奥国守護家、でいいと思う。
0124人間七七四年
2011/03/10(木) 16:12:25.92ID:ufhgWC2N0125人間七七四年
2011/03/10(木) 16:14:08.71ID:AoYJ5krG地方の有力者にも序列があったのですね。
0126人間七七四年
2011/03/12(土) 15:53:06.09ID:GWoWLBQf0127人間七七四年
2011/03/12(土) 17:07:18.70ID:g0mSb/Jq0128人間七七四年
2011/03/14(月) 09:50:49.42ID:3QydruoC小太郎の外見についてなんですが、昔どこかで女性の様な外見で老人の様な声だった
という伝承を見た記憶があるのですが、詳しいことは忘れてしまいました。
グーグルで調べてみても巨体だった等の伝説以外拾えずお手上げです。
誰か詳しい人がいるでしょうか。
0129人間七七四年
2011/03/14(月) 12:53:36.00ID:EJUvCXII受け狙いのためには、怪物にした方がいいから。
風間出羽の守という武将はいたのは当然承知と思うが、
服部半蔵と同じく忍者ではなく、忍者を率いた元締め。
講談「真田十勇士」で超人的忍者が持て囃されたこともあってこうなった。
当たり前のことしか書けない、あしからず。
0130128
2011/03/14(月) 13:20:54.36ID:3QydruoC妙齢の女性の外見で老人の声という伝承は他所物に姿を特定させない為の
工作に尾ひれがついた結果かな、と個人的に思っています。
知りたいのは私が昔聞いたその話の元ネタです。
多分光栄系のゲームの人名ファイルあたりだと思うのですが、
適当に書かれたものでなければ元になった資料なりがあると思います。
そのあたりご存知の方はいないでしょうか。
0131人間七七四年
2011/03/14(月) 13:46:20.76ID:EJUvCXII『北條五代記』・「三十九 関東の乱波智路の事」
それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、
長七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、
眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。
かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。
声を高く出せば、五十町聞え、ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり。
0132128
2011/03/14(月) 18:28:07.19ID:3QydruoC重ね重ねレスサンクス
やはりそれしか伝承はないのか。
とすると何らかの思い違いだったのかな?
わざわざ答えてくれて有難う
0133人間七七四年
2011/03/15(火) 01:20:29.49ID:yEPea1lzどうせ畠山氏の世襲官位を僭称するなら尾張守を僭称したほうがいいとおもうのですが
なぜわざわざ尾張と関係ない上総介を僭称したのでしょうか?
0134人間七七四年
2011/03/15(火) 10:34:26.17ID:lwwF2jTP0135人間七七四年
2011/03/15(火) 13:55:16.13ID:xwk8d+RW>>132
影武者徳川家康では小柄な優男だったね。
「ひきくいだせば、からびたるこえにて幽なり」
(老人が諭すような奥深い声で話す)からいろんな小太郎が生み出された、と
0136人間七七四年
2011/03/15(火) 14:51:20.47ID:Gcm1jiOYその時点で尾張守を名乗るのは流石に他の尾張国内の勢力に対し挑発的すぎるからかと
0138人間七七四年
2011/03/20(日) 00:32:03.72ID:C+FfimhF0140人間七七四年
2011/03/20(日) 12:30:39.38ID:Pi/w1yaA信忠を学問的に研究していて尚且つ手に入りやすい資料ってありますか?
0141人間七七四年
2011/03/20(日) 12:37:47.05ID:eDImjFgVって構図なのかな?
0142人間七七四年
2011/03/20(日) 14:51:44.56ID:zpstknIl猿って書かれた当時の資料はほんとにないの?
0143人間七七四年
2011/03/20(日) 15:39:34.94ID:2p0uaeyg一次史料の手紙や貴族の日記には一件もない。
「信長公記」にも宣教師の記録にも載ってないね
0144人間七七四年
2011/03/20(日) 16:32:05.28ID:VceSdsiH聚楽第に書かれた落書き
「まつせとは へちにはあらし木の下の さる関白を見るに付けても」
他にも日吉大社の神の使いは猿だからとも。
0145人間七七四年
2011/03/20(日) 16:46:43.26ID:lHL41evB0146人間七七四年
2011/03/20(日) 17:47:48.62ID:FiDCeB1Iあとまだ織田と毛利が対立していない頃の、京に出張した毛利家の家臣の記録で、
秀吉の出陣風景を見て「話しに聞いてたけどたしかに猿そっくり」って書かれている。
0148人間七七四年
2011/03/21(月) 12:24:58.25ID:u/nQO53v「猿め、死に場所を失うて狂うたか」
0149人間七七四年
2011/03/21(月) 22:55:30.53ID:wgzyXpan浅井や近隣の朝倉、斎藤といった大名家の戦記もので
鉄砲隊を編成して戦闘を行った記述があまり見受けられないのですが
織田家の支配下に収まるまでは生産力はあまり無かったのでしょうか
0150人間七七四年
2011/03/21(月) 23:00:38.22ID:1Ly9naeRあと鉄砲を使うのがあまりに普通のことだったから記録されなかっただけです。
0151人間七七四年
2011/03/21(月) 23:13:44.68ID:wgzyXpanなるほど、ありがとうございます
浅井や朝倉、斎藤家にも鉄砲の名手なんかがいたら記述も残ったのかもしれませんね
0152人間七七四年
2011/03/22(火) 14:02:44.77ID:Em/ZISRY本格的に殺人兵器として活用されたのは信長台頭のころからだよ。
それまでは、鉄砲隊の指揮官にされたと言って恥じる武将が多かった。
記録に残っていないのはそんな理由も。
0153人間七七四年
2011/03/22(火) 14:14:25.70ID:vBQBXqLw0155人間七七四年
2011/03/22(火) 16:32:25.51ID:IcoXmZnZ信長云々以前から紀州の坊主どもが鉄砲の使い手として関東にまで技術を伝播させてたしな。
0156人間七七四年
2011/03/22(火) 16:42:45.38ID:jIBgJF++信長が台頭したころから各地で使われたというのならそれほど間違ってもいない
0157人間七七四年
2011/03/22(火) 16:54:35.69ID:+zQ8+Ds80158人間七七四年
2011/03/22(火) 21:28:32.13ID:nycl53nE0159人間七七四年
2011/03/22(火) 21:32:43.61ID:23FVCgio0160人間七七四年
2011/03/23(水) 05:46:10.82ID:8BamesrPそれを学んだ薩摩商人の岸和田が創始した岸和田流の炮術があってだな、それを関東に広めていったと言われている。
また根来衆の杉房や二王坊という者もおそらく同時期くらいに関東に広めてると思われる。
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信長が道三との会見で鉄砲を大量所持していたとしても
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのか疑問。
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富はとてつもないものだったろう。
0161人間七七四年
2011/03/25(金) 20:05:57.14ID:tjtgJUiJ織田宗家の遺領を家臣達が分配した事に関しても当時の僧が書かれた「多門寺日記(?)」にも痛切に皮肉られているし。
信長と幼馴染と言われていた丹羽長秀、前田利家、池田恒興等も秀吉の織田家簒奪に早い時期から手を貸しています。
その理由は信長が恐怖で支配していたせいで人望が無かったせいなのでしょうか?
0162人間七七四年
2011/03/25(金) 20:24:16.40ID:D3qnQPAP簡単にいえばそうするしか無かったため。
そもそも信長の体制は組織や仕組みが殆ど未整備で、よくも悪くもその地域を任された人間が
個人的技量で統治する、というものだった。
信長が生きていたときはそれらを信長が統帥していたのだが、信長という核がなくなった以上、
個人的技量による統治を拡大せざるを得ない。そのため、無論諸将の欲得の面もあるが、
現実問題としても織田家勢力圏を保持したいのなら、その分割という手段を取らざるを得なかった、
と考えていいかと。
0163人間七七四年
2011/03/26(土) 00:49:18.24ID:QGQHEGxH戦国時代にはキリスト教が広がっていく中で国内に教会が存在したと聞くのですが、
それがどのようなデザインの建築だったのかわかる絵などは残っていないでしょうか?
西洋そのままのデザインだったのか日本風になっていたのか気になるのですが。
0166人間七七四年
2011/03/26(土) 10:16:23.72ID:QGQHEGxH>>165
ありがとうございます。
では教会と言ってもせいぜい十字架がついてる程度の寺ってイメージでいいんですね。
0167人間七七四年
2011/03/26(土) 10:41:21.85ID:vtgtd3H4ありがとうございます。勉強になります。
信長は絶大な権力を持っていたけど、実の所は彼のカリスマ性によって支えられて
いた脆さのある危ういものだったんですね(まあ独裁というのはそういうものでしょうし、
信長は軍事的勝利優先で内政までは手がまわらなかったのでしょうが)。
もう一つ伺いたいのですが、信雄が家康へ助力を求めた事によって小牧・長久手の戦いが起きますが
家康が信雄に手を貸したメリットは何なのでしょうか?
勿論家康も信雄を利用して権力拡大を狙っていたとは思うのですが、当時秀吉は光秀、勝家に勝利し日の出の勢いが有り、
信長から引き継いだ圧倒的な軍事力、兵力に経済力がありました。
信雄の単独講和という結果になりましたが、秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
結果論秀吉は家康は自分を高く売る事が出来ましたが、下手したらヤバかったかもしれません。
0168人間七七四年
2011/03/26(土) 11:12:12.58ID:jOyJhmuJ>秀吉が全力で攻めれば負けていた可能性が高いと思います。
秀吉はそうは思わなかったから信雄と単独講和に持ち込んだ訳ですが。家康にとってはむしろ
今秀吉を叩いておかないと手をつけられなくなる、という絶妙の機会だったと思います。
三方原の事を思えば一度も手合わせする事無く、秀吉に臣従するはめになるのはいやだった事でしょう。
0169人間七七四年
2011/03/26(土) 12:14:07.53ID:L9tlkcyw家康側の理由としては、本能寺後の天正壬午の乱での甲信への介入も「織田政権」『公儀』の
意思として行っており、事実家康の軍事行動は「織田政権」、信雄、信孝、秀吉、柴田勝家、
丹羽長秀などの全面的な支持と援助のもと行われている。
家康の甲信進駐の名分がそうであった以上、その安定も「織田政権」の支持を必要とする。
特に真田、木曽、小笠原といった大名クラスの勢力が多い信州ではそうだった。
そしてこれは案外知られていないが、賤ヶ岳の過程で秀吉、丹羽長秀、池田恒興は
清洲体制の崩壊と共に三法師の擁立を断念。天正11年10月28日、新たに
織田信雄を織田家家督に据えた。
この事は秀吉から家康にもその同意を求める書状が送られている。
賤ヶ岳の結果信孝も滅亡し、公的にも事実上も織田家を代表するのは信雄となった。
つまりかつての織田徳川同盟の流れから言っても、また新領地の支配安定のためにも
家康に取っても、信雄との同盟は現実的に必要だった。
その証拠に小牧長久手の後秀吉と信雄との間に単独講和がなると、信州の小笠原、木曽、真田は
秀吉の側からの工作もあってすぐに家康から離反している。徳川の支配のための名分と
バックアップが崩れたためだ。
それでも秀吉への臣従まで甲信を保持し得たのは家康の器量だが、とにかく家康にとっても、
信雄を助けるのはその生存に関わる重要性を持っていた事は理解されていい。
0170人間七七四年
2011/03/27(日) 01:42:46.99ID:nl7jDLQN例えば父親が源氏でも母親が平氏だからと平氏を名乗ったりなど、
母系を根拠に氏姓などを名乗ることはできたのでしょうか?
もちろん、名乗ることは自由だったでしょうがそれが文化的にある程度は
正当性があると受け入れられたのかという意味です。
0171人間七七四年
2011/03/27(日) 01:48:00.18ID:5bFMKcw+0172人間七七四年
2011/03/27(日) 02:44:48.63ID:kEHtfynE正直、通常はまずないと思う
0174人間七七四年
2011/03/28(月) 05:54:43.10ID:yckgLFyE北条だけでなく幕府や両上杉や武田信虎とか周辺の大名だけでなく
遠方の大内もどちらかの派閥だったそうですね。
それぞれの派閥に与した勢力を教えてください。
0175人間七七四年
2011/03/28(月) 08:39:03.01ID:EJrOCVgE時期によってずいぶん変わるが、堀越公方だと
・初期
堀越公方-山内・扇谷上杉-今川-幕府
・中期
堀越公方-扇谷上杉-甲斐武田
・末期
堀越公方-甲斐武田
古河公方だと
・初期
古河公方-結城-小山-宇都宮-那須-小田-千葉-真里谷武田-里見-長尾景春
・中期(河越夜戦以前)
古河公方-山内上杉-北条
・後期(河越夜戦以後)
古河公方-北条
0177人間七七四年
2011/03/29(火) 16:43:28.25ID:C7A/BqTr【安房・上総】里見氏を語るスレ2【関東副将軍】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1260625858
102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/08(金) 20:20:54 ID:JogweBBA
古河公方の影響力がほとんどなくなるのは何年あたり?
そのあとは誰が和睦調停をやったの?
166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/25(木) 21:23:49 ID:p2nffH7V
>>102
調べた。
古典的な研究だが1986年の『古河公方の権力基盤と領域支配』市村高男 によると
天文末から永禄半ばまでは佐竹・結城・那須・小山・江戸らの年頭挨拶が確認できる。
しかし、天正二年の関宿陥落と、北条氏康による古河公方権力の吸収以降には
里見・佐竹・宇都宮・那須の出仕は確認できないとのこと。
これ以後は北条傘下の諸氏だけが出仕したそうな。
房総で言えば臼井・国分・千葉・高城・村上・大坪ね。
ただし、結城・山川・常陸行方衆に限っては、北条に対立する勢力にも関わらず
天正5,6年まで出仕が確認できるとのこと。
彼らは独自に古河公方と強力な結びつきを持っていたのがその理由。
いわゆる天正六年の佐竹=結城=宇都宮=那須の反北条同盟が契機になってるみたいだな。
0178人間七七四年
2011/03/29(火) 20:20:03.62ID:83LJXN1N・男女それぞれ何歳くらいで褥をともにしていたか? 特に前田利家は鬼畜と言われなかったのか?
・結婚できる続柄の限界は? 伯父姪、伯母甥で夫婦になったのもいるが?
・某小説で家康は早漏と描写されていたが当時はそれが普通だったのか?
・質問じゃないんですけど横山マンガで雑兵がレイプの順番をちゃんと守って
行列してたのが可笑しかった。
0179人間七七四年
2011/03/30(水) 07:21:39.59ID:OQeVMWPfぐぐってみたら越後津川城って書いてる場合が一番多く、次が会津津川、陸奥津川
は0でした。
0180人間七七四年
2011/03/30(水) 13:47:14.36ID:OUkTet3Uちゃんと調べた訳じゃないけど、会津領だから陸奥国になるって事じゃないでしょう。
国境と何処の支配なのかは全く無関係です。
0181人間七七四年
2011/03/30(水) 19:06:09.17ID:OQeVMWPfレスありがとうです。津川城は蒲原郡なんで↓の説明から
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%92%B2%E5%8E%9F%E9%83%A1
津川城の場所は越後国が正しくて、陸奥国は自分の勘違いっぽいです('A`)
0182人間七七四年
2011/03/31(木) 16:50:34.96ID:1wKeE7UB・当時結婚は女13歳が平均的な年齢だから、松が12歳というのはそう珍しいことじゃないだろ。
初潮が始まるまで床入りは控えるという武将もいたようだが。
・太古の昔は兄妹もあったが、宗教や儒教の普及で伯父姪が限界。
・家康の側室は年増とロリの両極端がいて、年頃(10代後半)てのがいない。
ロリが年頃になると興味を失いまた、若いのを求める(と想像する)。
それが家康の興奮を高める女の条件、興奮度合いが高ければ早くイクわな。
0183人間七七四年
2011/04/01(金) 17:18:17.72ID:htBb5gn1婚姻によって家同士を結びつけるのが最重要課題だから
近すぎる間柄と結んでも勿体無い、という面の方が大きかったんじゃなかろうか。
0184人間七七四年
2011/04/02(土) 07:33:00.96ID:aJyyvUBO嫡子でも無く、めちゃくちゃ名門という訳でもないのにあの歳で城主になり
かなりの領地を与えられたのは、やはりなかなか優秀だったからなんじゃないでしょうか
それとも、同じような例は他にいくつもあるのでしょうか
0185人間七七四年
2011/04/02(土) 09:29:30.15ID:MQ8PMRJe取次役は色々な能力が要求されるから無能では務まらない。
だから相応の能力があったことは間違いない。
が、森家の場合は可成の討死までの一貫した忠義もあって特別扱いを受けている側面もある。
何より活動期間が短すぎて総合的な能力を評するにはデータが少なすぎるんだよな。
0186人間七七四年
2011/04/02(土) 13:27:29.63ID:ZcG8zz5e一手に引き受けていた感がある。
信長による森家重用方針があったのは勿論だが、それを置いてもやはり優秀だったのだろう。
0188人間七七四年
2011/04/02(土) 17:51:51.38ID:HJPqIWrh日本ではこんな政治が行われていたといった内容が書かれている本がありますが、
ああいったものは何を根拠に書かれているのでしょうか?
生前に信長が天下を取ったら海外遠征したいとか、海外と貿易を活発化させたいなど
彼の政治の青写真のようなものが記された史料が存在するのでしょうか。
0190人間七七四年
2011/04/02(土) 18:47:48.98ID:VCdIm5IM0191人間七七四年
2011/04/02(土) 18:51:30.69ID:HJPqIWrh信長が生きてた場合のシミュレートってほとんど妄想だったのですか…
信長がどんな形で日本を統治し政治をしたはずとか
一体どうやって分析してるのか気になってたのですが。
0192人間七七四年
2011/04/02(土) 19:56:56.27ID:1oo6Dm0eフロイスの日本史で
「日本を制圧したら一大艦隊を率いて〜」がある。
それしかない。
そもそも、信長の政治の実態も、軍の実態も、確実なことは何も分からないのが現状。
0193人間七七四年
2011/04/03(日) 06:53:17.06ID:8bYzQONm大阪の役での功績ならば毛利勝永や明石全登も劣らないはずでし、
キャラクター性というならば長宗我部盛親や後藤基次の方がキャラが立ってると思います。
0194人間七七四年
2011/04/03(日) 09:12:42.26ID:z95C7d5d0195人間七七四年
2011/04/03(日) 10:47:41.42ID:JE/8rt2b呼ばれたためだろうな。はっきり言ってそれだけだと思う。
ちなみに「真田丸」の主力は長宗我部勢。
0196人間七七四年
2011/04/03(日) 10:55:54.94ID:ZOKqIO92実際に徳川陣に最も深く侵入したのが真田だった事(ただし家康本陣は全くの無傷)と
冬の陣での真田丸での活躍もあり、まぐれでは無いとされた事
これらにより、もしかしたら、あと一歩進めたらと、
想像を膨らませるのに真田が最適だった訳やね
0197人間七七四年
2011/04/03(日) 11:31:03.99ID:9gUms4wk講談としては甲府や信濃や上野の山河を根城に活躍した忍軍の頭目として
滅びの美学を描くのに最大限の効果があったから。
0198人間七七四年
2011/04/03(日) 14:29:35.78ID:tmSPoxXn仙台藩に仕官し、のちにインダビューを受けてる。
0199人間七七四年
2011/04/03(日) 18:33:17.15ID:EspPTfbpすごい怪しいけど。
0200人間七七四年
2011/04/04(月) 22:06:22.76ID:q+I/C7KC片倉重長の後室に真田信繁の息女が入っているし、その係累で召抱えられて片倉氏を称したというのも
そう不自然でもないし、信じていいんじゃないか?
0201人間七七四年
2011/04/05(火) 06:54:56.49ID:GqC8k9EV伊達の自称だし
0202人間七七四年
2011/04/05(火) 20:51:38.58ID:DfTN+Ncr0203人間七七四年
2011/04/05(火) 21:02:47.89ID:5BduoJx70204人間七七四年
2011/04/06(水) 00:44:05.24ID:ER2OZLeh0206人間七七四年
2011/04/06(水) 01:02:46.84ID:ER2OZLehそれで高坂さんも最前線の城ということで城代なんですね。
ありがとうございました。
0207人間七七四年
2011/04/06(水) 17:40:18.22ID:F6hzjLnAどうやって水中から指揮を採ったのですか?
0208人間七七四年
2011/04/06(水) 23:19:28.89ID:Gxi8CuwB当時の「水中」は「水の中」という意味ではない。
水に浸かった状況で、とかその程度の意味だろう。
0209人間七七四年
2011/04/06(水) 23:23:44.19ID:tRWhGo/20210人間七七四年
2011/04/07(木) 19:14:58.53ID:2NU7wpkk当時のアイヌ民族の武器というのはどういったものだったのでしょうか?
あまり銃や刀をなどを使ってそうなイメージはないですが。
0213人間七七四年
2011/04/08(金) 18:37:52.49ID:736FH7ov0214人間七七四年
2011/04/09(土) 20:31:54.81ID:DUkXCfM20216人間七七四年
2011/04/10(日) 05:15:04.86ID:qBPAFGT9しかし先出し側が罠をはってる場合はその限りじゃない
0217人間七七四年
2011/04/10(日) 12:38:14.75ID:9CAyBMCj0218人間七七四年
2011/04/10(日) 12:42:14.88ID:3Hd5XTfb0219人間七七四年
2011/04/10(日) 12:56:36.78ID:eJNZJ7yo0220人間七七四年
2011/04/10(日) 13:29:07.81ID:HSQpv5Zj迷子になって敵にバレたり、
示し合わせた時間に到着できなかったりで
夜襲なんてやらない。
やるのは明け方の寝込みを襲撃だから。
0221人間七七四年
2011/04/11(月) 02:42:32.75ID:d8aAadya下っ端の足軽でも、大将首取ったら、村や町が一つ二つ貰えたぐらい?
0224人間七七四年
2011/04/11(月) 22:03:20.72ID:LuUInu8N0225人間七七四年
2011/04/11(月) 22:36:24.72ID:AgdK8ivA0226人間七七四年
2011/04/11(月) 22:46:42.21ID:LNgFXJt+大将首上げた実例がそもそも乏しいわけだし
0227人間七七四年
2011/04/12(火) 01:03:25.46ID:hcb0G+Yb落ち武者狩りはともかく足軽が大将首上げる事はまず無いんじゃ。
0228人間七七四年
2011/04/12(火) 14:24:58.92ID:PgE6i0J+0229人間七七四年
2011/04/12(火) 18:33:20.07ID:sD8G39HW0230人間七七四年
2011/04/12(火) 19:38:05.76ID:9J7qTH/fふと『どれくらい褒美が貰えるのだろう?』と思って聞いてみたけど、やっぱ、下っ端の足軽が手柄立てるのは難しいんだな…
0231人間七七四年
2011/04/12(火) 19:54:12.64ID:sDxIXdnN0232人間七七四年
2011/04/12(火) 20:21:42.81ID:4nJDp+eN0233人間七七四年
2011/04/12(火) 20:38:27.91ID:LaKUvIAJ落ち武者を殺したり捕らえたりした村には納税の免除など負担の軽減が与えられる場合が多い。
0234人間七七四年
2011/04/13(水) 05:07:09.32ID:szTwUTY2ドラマやアニメなどを見ていると非常に鮮やかな色になっていますが。
0235人間七七四年
2011/04/14(木) 11:51:15.07ID:GdMpPXVG国人の反発とかなかったの?
0236人間七七四年
2011/04/14(木) 12:10:12.49ID:yEyey1wzそのまま組み入れたため大きな反発はなかった。
あと北条はプレ近世大名と言われるほど進んだ機構を要し、国人の家中への取り込み、つまり
国人の役人・官僚化が進んでいたため、徳川としてもむしろそれを積極的に取り込むことができた。
0237人間七七四年
2011/04/14(木) 12:14:35.56ID:GdMpPXVG国人の役人・官僚化ってどういう状態からどういう状態になったの?
0238人間七七四年
2011/04/14(木) 15:41:28.75ID:IBC0OLpg家康たんの菊門はどうしてあんなに締まりが良いの?
0239人間七七四年
2011/04/14(木) 18:24:23.67ID:1QlWxmfk組合に所属する自営業から、会社に所属するサラリーマンへ
無理やり現代に当てはめればこの途中まで行ったという事
0240人間七七四年
2011/04/14(木) 18:36:58.11ID:I0Q0kNCW端的に言えば北条は検知と貫高制の確立により、それまで武士とは領地という「空間」と
不可分だったものを、土地を生産性という「数値」に置き換えることで、武士それ自体も
その数値により管理される存在へと転化させた。
>>239が言っているように、「どこどこの〇〇商店」という屋号で把握されるのではなく、
その収入額によってのみ評価される存在になったわけね。
これにより武士の在地性は限りなく薄くなり、多くが家中に組織化された。
武士の近世化とはこの過程だが、それが最も早く進んでいたのが北条。
0241人間七七四年
2011/04/14(木) 19:03:35.86ID:GdMpPXVGなるほど…
ありがとうございました
北条によって土豪の在地性が薄かったから徳川が入ってきてもすんなり行ったんですね
0242人間七七四年
2011/04/14(木) 19:28:59.30ID:tgULMNerちょっと違う。
もっと長いスパンで見る必要がある。
相模・武蔵は鎌倉時代に幕府の北条得宗家領として再編され、地生えの豪族が成田氏除いてほぼ壊滅した。
南北朝時代以降は鎌倉府と山内・扇谷上杉氏らによって、
領主が何度も入れ替わるサラリーマン的な土地が長年かけて形成されて来た。
後北条氏みたいな新参がすんなり相模武蔵を制圧できた理由はまさにそこにある。
上野は、微妙に違うのだが、謙信と氏康の長年の戦争の結果、
旧来の一揆・荘園体制が崩壊し、「領」に再編されて、相模・武蔵と同様、治めやすい土地に変わった。
そうやって鎌倉時代以来長年ローラーをかけられた土地に徳川が来たから、すんなり受け入れられたということ。
0244人間七七四年
2011/04/14(木) 19:31:26.40ID:P5CoEOOSそんな空虚なデタラメ妄想は勝海舟だけにしてくれ。
0245人間七七四年
2011/04/14(木) 19:34:52.37ID:GdMpPXVGソース付きの解答が聞きたいなら最初から書籍を紹介してもらうさ
0247人間七七四年
2011/04/14(木) 20:19:41.38ID:P5CoEOOS平気でデタラメのソースを出すやつがいるからな。特に北条厨が。
0248人間七七四年
2011/04/14(木) 20:27:46.27ID:tgULMNer一体何が知りたいんだ?
「何が分からないのか分からないけど転記しろ」というのはよしてくれ。
おれも>>236や>>240にソースがあるのかは知らんよ。
>>242の内容は峰岸純夫や池上裕子などが長年主張し続けてきたことだよ
0250人間七七四年
2011/04/14(木) 20:49:00.81ID:1QlWxmfk0251人間七七四年
2011/04/15(金) 06:51:10.83ID:Cg0DIfeQ0252人間七七四年
2011/04/15(金) 08:20:45.30ID:POuSQn0J東北のみ伊達ですら地方統一には遠く及ばない状態
いわば群雄割拠が残っていました。
これはせっかく戦力を動員できる農閑期になっても
冬に閉ざされる東北の環境が戦闘を困難にしているせいかと思います。
かつては奥州藤原氏という東北に覇を唱えた巨大勢力もいましたが
なぜ奥州藤原氏は厳冬という困難を克服して勢力を伸ばせたのでしょうか?
戦国時代と平安時代の違いなどがあればお教えください。
0253人間七七四年
2011/04/15(金) 10:27:36.88ID:Cg0DIfeQ例えば厳冬期に政宗が幼君の二本松城を攻めてるが輝宗が指摘していた通り堅城過ぎて失敗してる。
奥羽は親戚関係でなあなあだったから下克上がほどほど発生しない甘い地域。
小田原参陣に遅参したりで秀吉が改易しまくったのに政宗を始めとして驚いたのも奥羽の幼稚な精神からの甘い観測によるもの。
朝鮮出兵で名護屋にきた安東が
「上方の組織は縁故や家柄よりも、いかに主に役にたったかで引き立てられる」と驚き奥羽のやり方を廃れものと自嘲していたように思考が遅れていた。
成実曰わく「奥羽の流儀」である親類による和睦仲介の中人制度で
幼君を擁立していた諸将や佐竹や石川を始めとした親類たちがほどほどのところで和睦斡旋をしてあげるなど甥っ子に甘く接していた。
0254人間七七四年
2011/04/16(土) 17:22:26.72ID:pwDvMjiG0255人間七七四年
2011/04/16(土) 18:02:03.57ID:W2diQyFL0256人間七七四年
2011/04/16(土) 19:09:07.38ID:K9eSCwiq戦国時代は国人の力が強まって来てたからじゃないかな。
例えば浪岡北畠氏なんかはそれ程広い版図を有してなかったにも関わらず
幕府を介さずに朝廷に出入りしてたし。
0257人間七七四年
2011/04/16(土) 19:39:53.98ID:bprr2Fvoあまり愛されてないのはなんででしょう?
津軽氏、佐竹氏、伊達氏、最上氏に比べるとなんだか可哀想。
0258人間七七四年
2011/04/16(土) 23:54:10.29ID:C/+2/zhkなるほど。
周囲がみんな婚姻関係で攻めにくいというのも変動しにくかったことや
かつての平安時代のような国司や地頭?の関係ではなく
国人という勢力があったこともも統一勢力が輩出しにくくなった要員として
納得できますね。
0259人間七七四年
2011/04/17(日) 00:10:29.11ID:RHNkqcDuただねぇ。中国地方の毛利はその国人から婚姻関係を利用して勢力を拡大して戦国大名化し、
ついには中国地方を制覇するに至る訳で。
0260人間七七四年
2011/04/17(日) 09:28:04.27ID:6sbxvSPL元就の中国地方統合は輝宗の南奥羽統合と類似している。
0261人間七七四年
2011/04/17(日) 14:02:25.83ID:8n1JvVA1初期は対武田、今川等に対抗する為だとは思うのですが、後に信長包囲網が作られた
時ですら彼は律儀に信長に味方をしています。
信玄上洛の時は信長もある種覚悟を決めてたらしく、信玄が死ななかったら信長も家康も危なかったと思います。
援軍の要請も度々あってこき使われ、そのくせ家康が援軍を要請しても信長はあまりよこさない。
武田へと乗り換える手もあったと思うのですが(まあ信玄は有名な同盟破りなのでアレですが)。
家康がいかなる状況下でも信長に味方し続けたメリットは何なのでしょうか?
0262人間七七四年
2011/04/17(日) 19:58:30.13ID:SGH09vmX清洲同盟ばかりに目が行きがちだが、家康は清洲同盟をてこに最初は対今川侵攻のための
武田との同盟、そして武田との抗争が始まると今度は対武田のための北条、上杉との同盟を
形成している。
これらは織田との同盟という基礎があってこそ強い意味を持ち、そのような外交的メリットを
享受している以上家康が清洲同盟を破棄する理由は、少なくとも信長の在世中は無かった。
0263人間七七四年
2011/04/17(日) 20:20:31.01ID:4TahnbNO彼らはそこでどんな生活をしていたんでしょうか?
お経を読み、托鉢とかしながら謹慎という感じなのでしょうか?
0265人間七七四年
2011/04/18(月) 00:36:51.38ID:loA50VQkナルホド、理解しました。ありがとうございます。
当然そういうメリットがあるから同盟維持したんですよね。
家康はマゾかと思ってました。
0266人間七七四年
2011/04/18(月) 01:25:29.41ID:vliX5u6C高野山は、というかどこの大寺でもそうだがそれらは都市を形成しており
多くの俗人も住んでいた。なので女や酒などには一定の不自由があったものの、
金さえあればそれなりの都市生活を享受できた。
0267人間七七四年
2011/04/18(月) 01:33:02.63ID:X5ErnAA50268人間七七四年
2011/04/18(月) 09:50:14.46ID:s2tQiBJ5けっこう大名が他の勢力に調子のいい時期に病死したり
争いに負けて隠居させられた人がすぐに病死したりすることがありますが
当時でもそういうのは暗殺されたのではという噂は流れたりしたのでしょうか?
0269人間七七四年
2011/04/18(月) 10:58:54.75ID:vtw19t/B0270人間七七四年
2011/04/18(月) 17:24:50.72ID:4N3o/IRr0272人間七七四年
2011/04/18(月) 22:13:16.52ID:/KDbrktR0274人間七七四年
2011/04/18(月) 22:19:02.34ID:vtw19t/B朝鮮や名護屋在陣時に羅患した梅毒
0275人間七七四年
2011/04/18(月) 23:12:13.40ID:s2tQiBJ5>>271
>>272
>>274
ありがとうございます。
真偽はさておき当時でもやっぱりそういう類の噂は流れたんですね。
0276人間七七四年
2011/04/19(火) 00:30:57.75ID:IvUUzrV3あのへんの毒殺説は一種の陰謀論と一緒だな。
0277人間七七四年
2011/04/19(火) 01:07:16.99ID:2BIfx+gw同時代の史料に暗殺の噂が書かれているかどうかだろう
0278人間七七四年
2011/04/19(火) 06:52:54.37ID:3/BUIa9W0279人間七七四年
2011/04/19(火) 09:16:37.42ID:TuD0S3fA外国人の記録は噂と前置きしてはいるが、そのまま記述しているからね
0280人間七七四年
2011/04/19(火) 17:58:59.05ID:Lv4/mDUP豊臣秀吉は中国や朝鮮では外交上ではどういう立場と記されていたのでしょうか。
天皇の臣下である秀吉という形式だったのでしょうか、
それとも日本の君主かのように形式的にもなっていたのでしょうか。
0281人間七七四年
2011/04/19(火) 18:42:51.20ID:IvUUzrV3基本的には室町将軍がそうであったように「日本国王」
ただし当時の東アジア世界的には公認されていないので「事実上の日本国王」と言うべきか。
0282人間七七四年
2011/04/19(火) 21:13:18.67ID:P6nqVhBb朝鮮の記録だが秀吉の死因は毒殺で朝鮮人医師が毒を盛った(薬だと偽り互いに毒薬を飲んだ)という。
しかもその医師を紹介したのは前田利家だというトンデモ展開。
動機は…思い当たるが吹っ飛びすぎかと。
0283人間七七四年
2011/04/19(火) 23:44:57.02ID:7EZJ9XPA信長や秀吉や家康ってあまりにも良いタイミングで脅威になりかねない奴等が死にすぎ。
0284人間七七四年
2011/04/19(火) 23:59:50.25ID:IvUUzrV3当時そんな簡単に人を毒殺できる毒薬はない。
そもそも毒殺できるほど対象者の近くに自分の操る人間がいるなら、
もっと効率的な殺し方が出来る。
0285人間七七四年
2011/04/20(水) 00:22:32.46ID:gCh2Sy2zまあ、今も昔も、殺しを行うのは大抵身内だけどな。
0287人間七七四年
2011/04/20(水) 02:21:07.61ID:1fX9z5mY長定と名乗っていた時期もあるそうで、幼名は小八郎。
左京亮とも呼ばれていたらしいです。
0288人間七七四年
2011/04/20(水) 06:39:31.47ID:WC7f0fBs0289人間七七四年
2011/04/20(水) 07:41:38.13ID:mKz5u4lNwiki見ればわかるような事を聞くなよ。
「盛岡藩」てググって見てみろ。
まあ、簡単に言えば酷い政治をしていたからだな。
それで、ずば抜けて一揆や飢饉が多い。
天命・天保の飢饉レベルの飢饉が南部領では恒常的に起きていた。
原因はいろいろある。
冷害が非常に起こりやすい土地柄で冷害に強い品種の米もなかった時代に
稲作を主要産業として奨励したため、数年に一度は飢饉に襲われたことや。
そういう状況なので人頭税のような年貢の安定かつ強制的な搾取が行われたため
領内は毎年のように死屍累々。
こんな状態で「かわいそう」もなにもないだろう。
まあ幕府が賦役を押し付けてくるというのもあったけどな。
0290人間七七四年
2011/04/20(水) 08:03:32.12ID:WC7f0fBsそれは仙台藩も同様。
やはり大河ドラマで渡辺謙の南部信直をやってもらうしかねーな。
派手な三日月鎧と眼帯のキャラ付けの信直とか演出すべき
0291人間七七四年
2011/04/20(水) 13:14:15.28ID:pXntqkmY犬山織田氏の柘植与一、織田大炊助という方だったみたいです
0292人間七七四年
2011/04/20(水) 20:16:58.00ID:jT8syV7f徳川家光みたいに男色だったから?
0293人間七七四年
2011/04/20(水) 21:02:21.16ID:MiLU+Ag8「合戦中に使番は狙わないのが暗黙のルール」という話と、
「敵軍に情報が回らなくするため使番は始末するなり捕まえるなりする」
という話を聞いたのですが、どちらが正しいのでしょうか?
もしかして時代によって多少扱いが違ったり、
「ここにいる時は攻撃して構わないが、ここにいるときは駄目」
のような暗黙の了解があったのでしょうか?
0294人間七七四年
2011/04/20(水) 21:12:43.66ID:ioDcr9qR両方正しいが基本攻撃してはいけないものとされる。上はフェアプレイの精神だけど、下はそれよりも優先することがある場合。
例えば、完全に決裂させることで兵達に腹を括らせる必要があるとか、とんでもない挑発でむしゃくしゃしてやったとか。
0296人間七七四年
2011/04/21(木) 00:33:46.06ID:x2gHniFJ種が悪かっただけだろwwwww
0297人間七七四年
2011/04/21(木) 00:47:18.37ID:k3MxyiEgこれはそういう逸話が残っているのでしょうか?
それとも、後世の小説家のでっち上げ?
0299人間七七四年
2011/04/21(木) 01:07:23.48ID:k3MxyiEgありがとうございました
やっぱり作り話かあ
そのわりには、デファクトスタンダードのように浸透している気が…
0301人間七七四年
2011/04/21(木) 13:45:13.68ID:YJ92nyO4過去の人物が成した事に対し、他地方や当事者でも無い、関係無い方々が罵倒や卑下するのは何故でございましょうか?
また、そうする方々はどんな心持ちなのでしょう…。
私は知りとう存じます。
0302人間七七四年
2011/04/21(木) 15:48:26.23ID:AmOdyGW4と記述されている武将はいるでしょうか?
もちろん、史実でなくてかまいません。
0303人間七七四年
2011/04/21(木) 17:10:42.27ID:J4vpITsk本来自分とは何の関わりもないスポーツ選手やタレント、あるいは実存しない創作上の人物でさえ
そこら辺中で罵倒や卑下している奴が居るだろう。本質的にはそれと一緒だ。
0304人間七七四年
2011/04/21(木) 19:12:01.11ID:tqnRlHFmお市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?
織田一族は美形揃いだったので彼女も美人ではあったとは思うのですがそこまで凄い美女だったのだろうかと。
残された肖像画ではなく当時の文献なりにそういう記述があるのでしょうか?
「戦国一の美女」=「お市の方」という定説は織田信長の妹で浅井三姉妹の母であり二度の落城の上自らの命を絶つという
ドラマチックさが変な言い方ですが彼女の美貌を過大評価させたのではないかと思うのですが。
ついでですが織田信長が美形であったという記述は当時の宣教師の手紙なりその他の文献に残っているのでしょうか?
0305293
2011/04/21(木) 22:05:58.80ID:6o8vFy2+ありがとうございました!
場合によってはむしろ積極的に狙われることもあるとは、
ただでさえ危険な役回りなのに、かなり大変だったんですね。
0306人間七七四年
2011/04/21(木) 23:31:30.41ID:x2gHniFJ美醜に関しては個人の感性が大きいので何とも言えないかと・・・
ただフロイスの日本史では信長は筋肉質の痩身と書かれています。
お市の方は分りません。
0307人間七七四年
2011/04/21(木) 23:39:05.84ID:J4vpITsk> お市の方と言えば「戦国一の美女」というフレーズがよく使われますが本当にそうだったんでしょうか?
後世の作り話です。美人にしたほうが大衆受けがいいから。「織田一族は美形揃い」ってのも
もちろん後世の作り話。多分司馬遼太郎当たりが発端。
信長もその死から近い時代に書かれた「リアル」な肖像だと
ひょろっとして顔の長い、あまりカリスマを感じないおっさんだよ。
0308292
2011/04/21(木) 23:45:13.67ID:mV88wyiN長い間子供が出来なかったのに急に歳を取ってから子供を量産するって、なにかあったんでしょうか。
0310人間七七四年
2011/04/22(金) 00:23:45.20ID:EMgsAqogやっぱり支配地からの朝貢のためだったのでしょうか?
というか寄親寄子制では朝貢は成立しにくいと思うのですが。
一方寄子が他勢力から攻められたら救援しないとならないし
考えれば考えるほどこんがらがってきた。
0311人間七七四年
2011/04/22(金) 00:33:19.51ID:4XA++rq6戦国大名の領土拡大はそもそも応仁の乱、明応の政変以降の惣村レベルでの自立化、自治化と
それに伴い政治状況や自然環境による高い流動性があって、在地勢力は当時の生産力
そのものである惣村の取り込み、定着のため安全保障の提供を必要とした。
つまり簡単にいえば戦国時代というのは戦国大名による「農民の奪い合い」という状況があり、
農民を自分の領地に定住、定着させるためには強力な権力にならざるを得ず、近隣地域を併合し
権力の拡大をはかり、またそういった目的の権力同士が接触すると戦争になったわけだ。
0313人間七七四年
2011/04/22(金) 00:54:45.31ID:Ie2aPNrtつまり、吉川元春さんの奥さんも普通に美人だった可能性も…
0314人間七七四年
2011/04/22(金) 01:04:04.45ID:SdXJE/U6西洋人が描いたらしい信長の肖像画というのをみたのですが、
これはどの程度に信頼がおけるものなのでしょうか?
信長の死後数百年後に描かれたとか全くの別人の絵ということはないのでしょうか。
0315人間七七四年
2011/04/22(金) 01:26:11.53ID:4XA++rq6信雄の家に伝わったもの、と言われてはいるが、
信長の当時、生前に肖像を書くことは不吉極まりないことであり、当の信長の肖像画も
生前に書かれたものは一切存在しない。
しかもアレは明治になって突然現れたもので、幕末から明治にかけて捏造されたものと
考えていいだろうね。
0316人間七七四年
2011/04/22(金) 01:45:13.17ID:hq3QXbFe0318人間七七四年
2011/04/22(金) 05:47:54.96ID:SdXJE/U6ありがとうございます。
和同開珎より古いお金発見みたいな
歴史の新事実か何かかと思ったらかなり胡散臭いものだったんですね。
0319人間七七四年
2011/04/22(金) 06:47:01.67ID:eg5FQ8QS政宗の場合は衆道に熱心だったからだろう。
愛姫とは不仲だったわけだし衆道に精進していた。
衆道のハマりっぷりは浮気を疑い嫉妬して激怒したり
片倉息子と衆道したい小早川秀秋の意を汲んで片倉父にお前からも説得しろと何ら抵抗なく命令の手紙を出してるくらいだし
0323人間七七四年
2011/04/22(金) 12:10:49.72ID:eg5FQ8QS0324人間七七四年
2011/04/22(金) 23:56:50.18ID:Z9HIhfxk0325人間七七四年
2011/04/23(土) 00:30:29.41ID:0TT4EGfaチートと言っても過言じゃないくらい豊かな土地抱えていて
津軽南部と大差ない餓死者とか出してるし仕方ないだろ。
0326人間七七四年
2011/04/23(土) 00:35:59.30ID:WcPBv1xfそうだったのか。島津や沼田真田とかは知ってたけど。
他にどういう大名が圧政してたか教えていただけるとありがたいです。
0327人間七七四年
2011/04/23(土) 00:36:16.08ID:QTs71zTs0329人間七七四年
2011/04/24(日) 18:49:27.74ID:b+JF51gOそのほか世間的に好意的に見られている大名・武将とかって、
案外、内政では農民の暮らしを圧迫するような酷い政治をしていたりする。
真田、伊達、福島、立花、毛利、上杉、佐竹、武田、豊臣などがそう。
逆に徳川とか最上とか池田とか嫌われる傾向のある大名、武将が逆に民に対して良い政治してたりする。
原因はおそらく、そういう武将は「家臣に対して厚く思いやりがある」だと思われ、
自分の配下の家臣や武士たちに愛情を持ち厚遇するあまりに、
さらにその下にいる農民から過剰な収奪を認めてしまうんだろうね。
つまり「配下の武士を厚遇する」と「領内の農民を厚遇する」ってのは対立する行為なんだよね。
武士を厚遇すれば収奪が酷くなった農民の暮らしが酷くなり、
農民を厚遇すれば農民からの租税が少なくなった武士が困窮する。
といった具合に武士への厚遇と農民への厚遇は対立構造で「あちらを立てればこちらが立たず」になりやすいんだよね。
0330人間七七四年
2011/04/25(月) 18:18:15.66ID:hktAnjnIええと、質問ですが、立花宗茂が関ヶ原の後、柳川に篭城しますが、衆寡敵せず開城した際、地元の
農民たちが「一緒に戦いますから、開城しないでください」といった話や柳川が田中の領地になった時に
宗茂に米を援助してた名主が磔になった話とか、柳川に復帰したときに農民に歓迎された話とかは
すべて捏造ということでしょうか?
それと棚倉時代の立花の政治については、林業などの産業振興に尽くしたりして、虐政の半紙がないの
ですが、これも捏造なのでしょうか?
0331人間七七四年
2011/04/25(月) 18:20:17.55ID:hktAnjnI0332人間七七四年
2011/04/25(月) 22:39:29.92ID:D8zszO3l武田氏の場合は、勝頼期の場合だけど、連年の軍事行動のために軍役などの領国内の
負担が重くなっており、武田家が滅亡した際には百姓たちが家を焼いて織田信忠のもとに
勝頼の悪政治を訴え、内心織田領になってほしいと思っていたので、この機会に
上下とも忠節をつくすべく参上した(=領民が勝頼を見限った)という話がある。
ただ、一方で勝頼は湯治へ出かけた先で押しかけたと思われる領民の求めに応じて山争論の裁決を行い、
家臣からの報告を受けた上で自身の親族(信豊の姪婿)を敗訴とする判決をくだしている(このへんの流れは
笹本正治『武田勝頼』に詳しい)。
大名の支配について一概に善政だの悪政だのとはなかなか言いづらいとは思うけど、ただ、いかに戦国大名と
いえど、求められれば(たとえ湯治中でも)裁決を下さなければならなかったし、強権を発動して恣意的な、百姓の
意向を無視するようなまねはできず、家臣だけでなく領民にも縛られている面も持っていたことは考慮に入れていいと思う。
よく統治手腕について語られる後北条氏も、城郭内に領民を避難させたり「目安箱」の設置などなどの政策を通じて
領民や村の存立(治安やインフラ、裁判等)を保障しているけど、一方でそれらの政策を通じて村を大名支配の末端に
組み込んでいったし、いざというときは後北条氏の支配する「国家」のためという名のもとで、領内への動員をかける
体制がつくられていったわけで、やっぱり一概に善悪政云々とはいいがたいし、領主層と被支配層が常に対立関係に
あったともいいにくいんじゃないかと。
0334人間七七四年
2011/04/25(月) 23:15:51.62ID:itI1QL7/なるほど、立花は農民には良くしてたのではないか?
しかしそれなりに忠誠を働こうとした名主が磔になったのだから、
どこかに皺寄せはあるだろう。ない袖はふれない。
>>332
そういう、どこかの村で公正な採決を下したとか、
貧しい村の年貢を免除したとかいう話しは気まぐれみたいなもんで蚊ならす゛しも全体とは関係ない。
あと、目安箱設置が善政の証明にはならない。
盛岡藩のように目安箱が反乱分子探しの証拠にされてたそうだし。
目安箱の周りにこっそりと監視者が隠れていて、誰が投書したかしっかり把握されてたわけだ。
当時の為政者とて偽善行為はするし、表向きの評判は気にしてたろう。表だって悪政はしにくい。
現代の話で申し訳ないが、みちのくプロレスのサスケが十年もマスク代金を滞納してる
震災者義援金とか震災者マッチをしてるのを見て債権者は偽善としか思えなかったのではなかろうか。
0335人間七七四年
2011/04/25(月) 23:27:19.69ID:itI1QL7/「六公四民」を許可すれば武士の収入は六十石になる。
武士の利益を取るか農民の利益を取るか難しいところだ。
しかも武士の多くはカツカツの生活をしている。
しかし、これは江戸時代の武士の話であって、
戦国時代には単純に武士の収入が多ければそれだけ戦力UPするわけで、
武士のやる気向上にも繋がるというだけでなく、
武士は収入で馬や鉄砲を買ったり、雑兵や小者を雇いいれることができるわけで、
戦国時代は戦のためにやや武士偏重であったことは容易に推測できる。
0336人間七七四年
2011/04/26(火) 00:55:58.46ID:UdadENcb戦国時代の大名と農村は規模の大小はあるが極めて近い存在の時代だと
0338人間七七四年
2011/04/28(木) 12:58:10.32ID:9wdQyX8x戦国期の一番金がかかりまくる時代に
善政を期待するなんてそもそも無理だから
北条の善政なんて創作でしかない
0339人間七七四年
2011/04/28(木) 13:07:59.05ID:pMbM9yA4元からか
0340人間七七四年
2011/04/28(木) 18:22:59.24ID:gLKQHk1u北条氏康の逸話に
氏政がある日、食事中の氏康に検地が不十分で農民が多くの隠し田を持っていると思われるので
さらに徹底的な検地をするように氏康に盛んに換言した。
それを氏康は食事の中の煮魚を指してこう答えた。
煮魚は盛んに箸でつつき回していると壊れてしまう。
農民も同じで盛んにつつきまわして隠し田を出させると壊れてしまう恐れがある。
為政というのは煮魚と同じであまり執拗につつきまわさぬのが肝心なのだと。
氏康自身も何度か検地を実行したが
意図的に穴を作って農民に隠し田を一定量残しておいたようだ。
0341人間七七四年
2011/04/28(木) 18:28:35.75ID:dbER3CO60343人間七七四年
2011/04/28(木) 18:39:12.65ID:gLKQHk1u氏康までは良い政治してたと言いたいだけだよ。
氏政以降は強引な検地や何かと賦役を要求したからよくなかった。
有名な「領内の14歳から70歳までの全男子」に動員令をかけた件もそうだろ。
0344人間七七四年
2011/04/28(木) 20:12:25.42ID:dbER3CO6http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/41
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/46
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/81
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/137
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/138
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/151
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/158
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/211
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/281
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/298
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/299
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/302
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211892551/310
0346人間七七四年
2011/04/28(木) 20:17:37.95ID:9wdQyX8x気持ち悪いから出てってくれ
0347人間七七四年
2011/04/28(木) 20:22:55.27ID:qN7xnvWC甲越和与の甲は甲斐武田、越は越後上杉ですよね?
じゃあ甲江和与(武田・織田不戦協定)の江ってなんですか?
0348人間七七四年
2011/04/28(木) 20:32:48.22ID:9wdQyX8x0349人間七七四年
2011/04/28(木) 20:34:36.81ID:qN7xnvWCさっそくのお返事ありがとうございます!
0350人間七七四年
2011/04/29(金) 02:47:10.52ID:58NGBcTQ徳川家光は鬱病気味なタチで、昔自殺未遂まで起こしたという話をそこかしこで見るんですが、これって信憑性のある話なんでしょうか?
0351人間七七四年
2011/04/29(金) 03:51:23.12ID:obOgZBML検地は領国体制や大名権力の強化なので、むしろやらないと生き残れない
あと動員令は非常時の特例であっていつもやっていることではない
例えば徳川家康も小牧の役の時には同じことやって逃亡者や自殺者を出している
が、この一例を取り上げて「徳川領国ではいつもいつも大量動員をかけていたのだ」
なんて言って悪政をしていた証拠にはならない
0352人間七七四年
2011/04/29(金) 08:05:43.67ID:gWumNjXjすごい悪政やってたんだな北条。
武家の天下覇業の地たる大関東平野を本拠地にしながら天下も取れずに
ダラダラしてたのも民衆の支持が得られなかったからだろうな。
堀越公方が伊豆で金を採掘して幕府に献上してたのに
北条は技術集団金堀衆も持ってないから掘り出せないし、
永楽銭の大量偽造で経済崩壊させた疑いあるし
治水土木すらやってなかったとか信玄にすら及ばないな。
0353人間七七四年
2011/04/29(金) 09:32:41.06ID:xbITXqQX0354人間七七四年
2011/04/29(金) 10:08:50.46ID:o7hj7FD1http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1287387181/l50
【そうか】北条伊達vs毛利島津【維新】
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1288247444/l50
0355人間七七四年
2011/04/29(金) 19:37:22.13ID:B3VhSyy9鬱気味だったというより、病弱だったから気鬱がちになってたと思うけど
自殺未遂は春日の狂言だからなあ
0357人間七七四年
2011/04/29(金) 19:55:09.26ID:I92P4rqyhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3161.html
1.この年の年貢は半分だけを銭ではなく米で収めること
(この頃年貢はほぼ銭だった)
2.御年貢銭の半分は精銭で、半分は他の質の劣る銭で収めてもよい
3.借りた銭や米などはリセットしちゃって良し
4.妻子、下人の年季売りは取り戻して良し
5.田畑の年季売りは契約年季の三分の二は無かったことにして良し
6.ただしこれまで未納の年貢のうち、代官・奉行が立て替えた分は百姓が払うこと (利息分は返済を免除する)
7.ただし、うち(北条)の蔵銭から貸し付けた分は無かったことにしません
8.民間の無尽銭(寺社などが営む高利貸し)も徳政の対象にできません
9.田畑の永年売りは本来違法ですが、今回だけ見なかったことにします。
なんかトラブルあったら氏康に手紙で相談してね
上記は天文十八年に起きた巨大地震の対策と
猛烈な飢饉・凶作にあえぐ百姓からの嘆願によるものとなっていますが
だとすると下記のような疑問があります。
1.
いつもは銭で納めてるのに凶作・飢饉の年に限って米で納めろはおかしいです。
米が無いからこその飢饉なのに・・・百姓に飢死しろと言ってるようなものです。
押し付けがましく半分でいいと言っていますが、飢饉・凶作なら米の相場は高騰してるはずです。
半分でも十分儲かるとの思惑が透けて見えます。
逆に言えば例年通りの銭納なら、僅かな米を売るだけで年貢が払えて百姓は大助かりだったのではないでしょうか?
3〜8.
早い話が北条家と関係有る借金は取り立てますが、北条と無関係の借金はチャラにしますと言うことでしょうか?
これって北条(政府)の懐を痛めず、他人(民間)の財布で徳政しますと言うことですよね?
9.
「違法行為を働いてでも年貢を納めろ!文句を言う奴がいたら・・・」と言ってるようにしか見えません。
はっきり言って、とても善政には思えません。
氏康はこの徳政に自信を持っていたそうですが正気を疑います。
北条氏康という人は精神に深刻な障害を抱えていたのではないでしょうか?
0358人間七七四年
2011/04/29(金) 20:36:28.80ID:B3VhSyy90361人間七七四年
2011/04/29(金) 23:05:37.62ID:gWumNjXjたぶん高利貸しに対しての善政だと思うけど
そもそも氏綱も他人どころか敵側からも金を献金させまくって鶴岡八幡宮を再建させただけなのに俺が再建させたキリッ
などとふざけたことを宣言する搾取家。
0362人間七七四年
2011/04/29(金) 23:40:57.51ID:y9972JMsしかし飢饉は一時的なものなので、結果どうなるかというと精銭の流通量が著しく下がる
その状況で「年貢をいつも通り精銭で払え」ってのは無理があるからこの徳政になる訳で
0363人間七七四年
2011/04/29(金) 23:47:26.65ID:1ItE25mC大久保一族の没落の原因ですが、4万5000石もの高禄を得たのが原因だという説がありますが、どうなのでしょうか?
友人によると、関東移封時の徳川家臣団の最高禄高は4万石で鳥居元忠。
これ以上の禄高の者は、秀吉の指定によるもので三傑と大久保が該当する。三傑は家康子飼いだから問題ない。
これに対して、大久保は、大久保党ともいうべき氏族集団を形成しており、更には大久保長安という金蔵を持ち、要衝の小田原に
本居を構えている。さらに後継者の秀忠の後見役もしている。
いわば秀忠と大久保一族は、頼朝と北条家、北条得宗家と内管領、足利と高家、後漢と曹操、魏と司馬一族という関係である。
家康にしてみれば、自分の死後を想定した
0364人間七七四年
2011/04/29(金) 23:50:09.81ID:1ItE25mC家康の死後、秀忠を傀儡化して大久保執権(強化版酒井忠清)体制を築きかねないので
処分したというのが友人の主張ですが・・・・
0365人間七七四年
2011/04/29(金) 23:55:23.63ID:r8OidUp/それほどの圧政を布いても民が逆らえない事に自信をもっていたのでしょう。
白頭山の輝ける星にして百戦百勝の鋼鉄の将軍・北条氏康公マンセーな感じです。
0366人間七七四年
2011/04/30(土) 00:23:42.97ID:FjcePvjQ0368人間七七四年
2011/04/30(土) 00:30:51.91ID:j/lAM0+L大久保一族の凋落は幕府内の権力闘争が
大きい要因だったと思います。
岡本大八事件や宇都宮吊り天井事件に代表されるように
この頃は徳川譜代間の権力闘争が激化してた時期でしたから。
0370人間七七四年
2011/04/30(土) 00:39:47.66ID:FjcePvjQ0371人間七七四年
2011/04/30(土) 04:32:38.96ID:gLiBBD7Kどっちも家康の大のお気に入りでしたが、3人集まれば権力抗争と言うぐらいで、
やはりどちらかが身を引かざるを得ない話なのでしょうか
でも正信は一度徳川家を出ており、帰参がかなったのは忠隣の父、
大久保忠世のおかげなんですよね
0372人間七七四年
2011/04/30(土) 09:03:43.74ID:Q/0Ta5XC額面の石高だけでなく寄騎衆の動向も見なければなりません
当時の大久保家は小田原のみならず、大久保長安以下の津金衆・武川衆といった
関東南西部の徳川直臣層を寄騎としていていました
この状況下では大久保と小身といってよい正信のどちらかを切る場合、残ったほう
の権勢が拡大するのは必然ですので、そうなると大久保を切った方が影響は最小限
で済みます
また忠隣と正信の争いは武功派と吏僚派と見るより、江戸政権と駿府政権の主導権
争いと見るべきとも言えます
もっともそれはあまり大げさなものではなかったでしょうが、家康としては豊臣家に
対し、最終的解決を考えていたのであえて大鉈を振ったといえます
0373人間七七四年
2011/04/30(土) 12:46:30.92ID:VLSkhtvG正純に対して百万石の約束をたびたび政宗が持ち出して陳情していたら正純事件が勃発ついでに最上も連座改易w
そのため政宗は今度は大久保に接近。
すると大久保が金山利益で財力あり、忠輝と政宗と組んでクーデター計画してると噂される。
政宗は正純にも百万石のお墨付きの陳情してたって言うし、政宗の動きが原因で長安と正純が失脚したんだよな。
ついでに大坂陣での政宗の失態により忠輝に戦功を奪われるのを嫌がって消極策を政宗が勧めたせいで
忠輝も失脚するハメになるし政宗と関わるとロクなことにならない
0374人間七七四年
2011/04/30(土) 16:07:22.15ID:vXHk5IPuなるほど、大久保党だけではなく、その他の与力衆が大久保忠隣の配下にいたわけだから
排除するなら、腸腐れと憎まれている本多より、諸大名、旗本にも大人気の大久保を排除
したほうが、家康的には、秀忠への政権移譲を行う上でもプラスになると判断したわけですね。
こう考えると、関東移封時に引退した酒井忠次は利口だったな。
息子の家次は、幹部クラスの最高石高の3万石を貰えたし、政権中枢からうまく抜けたことで
派閥争いからも無縁でいられる立場に酒井家を置けたわけだし、大久保忠世も同じように隠居
して、忠隣に家督を譲れば、大久保党壊滅の事態は避けられたかもしれないな。
0375人間七七四年
2011/04/30(土) 16:21:47.14ID:jxxRZULE秀忠の政宗討伐の噂を細川が報じていたりで、
忠輝を旗頭に政宗と財力ある大久保が手を組んで謀反する可能性から大久保失脚になったんだろ
政宗は疫病神だからな
0376人間七七四年
2011/04/30(土) 19:05:25.44ID:nbjLSasr馬鹿だから新興勢力に見境なくホイホイ付いてって結果負け組みになってるだけ
つか新興くらいにしか相手にされなかった訳で
0377人間七七四年
2011/04/30(土) 19:06:55.62ID:AdA6Giy6豊臣との対決反対でついに家康から切られたという説もあったな
秀忠が後年忠隣に戻ってきてほしいと言っても
戻れば家康様の意見が間違っていたということになってしまう、それは絶対にいけない
このままでいい と言って結局戻らずそのまま亡くなったと聞いて、凄く切なくなったなあ
0378人間七七四年
2011/05/01(日) 10:16:21.92ID:bjsVKLS30379人間七七四年
2011/05/01(日) 10:26:28.24ID:nHvxWG630380人間七七四年
2011/05/01(日) 12:28:28.36ID:SN3lWbJm0381人間七七四年
2011/05/01(日) 12:36:09.82ID:1pysGJm20382人間七七四年
2011/05/01(日) 12:53:10.21ID:MjweZdAa0383人間七七四年
2011/05/02(月) 11:09:15.38ID:ZrkNkMKJ0384人間七七四年
2011/05/02(月) 19:32:47.44ID:Q6LbcKzIあれって実際にはそんなに学術的に市民権得てる説なんでしょうか?
こじつけっぽい理屈が多い気がするのですが。
0385人間七七四年
2011/05/02(月) 20:17:41.85ID:Refvpm/f0386人間七七四年
2011/05/03(火) 10:04:08.23ID:GiUWgUGoそんで婦人病が死因だとか。
女人禁制のトコも入り込める女謙信と言う最大の疑問が解決できないから
にわかに信じがたいけど面白い視点だと思うよ。
0387人間七七四年
2011/05/03(火) 10:15:53.40ID:B3b/p1db家康影武者説=家康双子説=家光は家康と春日局の実子説>>>>>>越えられない壁>>>>謙信女性説
ということでトンでも説の最極だな。
0388384
2011/05/03(火) 15:27:45.59ID:vFw1qno6初めて知った時に提唱者は小説の読み過ぎじゃないかと思いましたが、
実際にそういうレベルの説だったんですね。
0389人間七七四年
2011/05/03(火) 15:36:00.30ID:B3b/p1dbまあ 謙信女性説=家康朝鮮人説>>>>>>>越えられない壁>>>>秀吉=明国の科挙落第者=中国人説
くらいの信憑性と可能性はある有力な説だ。
0390人間七七四年
2011/05/03(火) 15:39:45.14ID:VwXdItSa0391人間七七四年
2011/05/04(水) 01:09:55.83ID:P8FeLj6Y0392人間七七四年
2011/05/04(水) 04:18:55.96ID:CVEoEYzm0393人間七七四年
2011/05/04(水) 09:10:00.32ID:85clyw/e問題ないべ?
0394人間七七四年
2011/05/04(水) 09:22:12.48ID:9NeyyLrrでも素人の発掘作業は破壊活動に直結しかねないからその点は注意
0395人間七七四年
2011/05/04(水) 10:16:16.95ID:IcN5MiOL土壌の表面の数cm下は当時の土であり
シャベル一掘りで普通に遺跡破壊になるからな
本来は素人がやるもんじゃないし、やるなら箒とハケと手で気長にやれ。
0396人間七七四年
2011/05/04(水) 10:25:18.20ID:X4B2dpp1自分の土地なら好きにすればいいさ
何か金目の物出てくるかもしれないぜ?w
まあ、法的にどうなるか調べる必要はあるが
0397人間七七四年
2011/05/04(水) 13:18:23.07ID:CVEoEYzm>>396
ありがとうございます。
じいちゃんが、好きなようにしいと言ってくれたので、明日山に登ってみます
0398人間七七四年
2011/05/04(水) 17:47:23.16ID:FoZQT17jそれとも、慣れれば意外と動けるとか?
0399人間七七四年
2011/05/04(水) 17:51:00.77ID:nnu4rXcF0402人間七七四年
2011/05/04(水) 19:58:04.73ID:IcN5MiOL0403人間七七四年
2011/05/04(水) 19:59:47.51ID:P8FeLj6Y0404人間七七四年
2011/05/04(水) 20:31:53.56ID:CWyAhJ1e0405人間七七四年
2011/05/04(水) 21:22:32.56ID:X4B2dpp1時代劇なんかでは城にいる内からフル装備してるから誤解を生むのだわ
0406人間七七四年
2011/05/04(水) 21:26:29.45ID:cYrjQdhYここで聞いてみたら?
甲冑持ってる人とか着用経験者多いみたいだし
0407人間七七四年
2011/05/04(水) 22:45:55.12ID:40wx+Ush馬場信春→美濃守
のように、その人物と全く関係ない地名が名に入ってるのは何故なんでしょうか
しかも同じ地名が何人にも使われてますし
0408人間七七四年
2011/05/05(木) 13:01:00.79ID:ahko5zfx美濃守なら美濃国の長官という意味
国司以外の役職もあって、例えば武田信玄は大膳大夫(朝廷の食事係の一つ)をもらっている
ただ、戦国期には形骸化しているので実際にその国を治めているとは限らないし、食事係の仕事をしているわけではない
同じ役職が何人もいることがあるのは、戦国期の役職は大半が自称で、勝手に名乗っているだけだから
例えば、本多佐渡守は朝廷から正式にもらっているが、馬場美濃守は自称
0409人間七七四年
2011/05/05(木) 13:07:34.80ID:JSHwzTQJ0410人間七七四年
2011/05/05(木) 13:37:19.75ID:8agLdJAa同じ官職が何人にも使われてるように見えるが
ひとつの家中では、絶対にかぶらないように注意が払われている。
官位は深く追求していくと面白い。
0412人間七七四年
2011/05/05(木) 19:08:22.31ID:PsBnqV5x佐渡守を呼べと言われて、どっち? て疑問に思われていたのが何か和んだ
実際被ってた時期があったのかな
0413人間七七四年
2011/05/05(木) 23:08:23.56ID:/dh0vh60例えば、輝元の家臣で身の回りの世話をする50石取りの者とか
0414人間七七四年
2011/05/06(金) 02:48:08.22ID:MHG6fzuX0415人間七七四年
2011/05/06(金) 04:25:50.66ID:VYYQw4LV0416人間七七四年
2011/05/06(金) 05:11:06.84ID:GMfaQu2k例えば山城守より陸奥守や肥後守などのほうが格が高い
それに大名は自国の守職を欲しがる場合が多い
0417人間七七四年
2011/05/06(金) 16:00:41.96ID:htHIni4d年貢や知行についてなんですが、
織田信長の家臣であった明智光秀や秀吉など領地を貰っていたのは当たり前なんですが
そこから上がる税金(年貢)はやはり主従である織田家にいくらぐらい収めていたのですか?
また徳川時代の各藩主もやはり徳川家に毎年何割ほど税を献上してたのでしょうか?
お願いいたします〜
0418人間七七四年
2011/05/06(金) 16:53:50.14ID:W06AjGsh織田家については知らないが、徳川幕府の場合はない。藩の収入は全部藩のもの。
関が原後の諸侯が豊臣から徳川に簡単に鞍替えした理由の一つに、
自分の領内にあった豊臣家の蔵入地を我が物にできたという点がある。
ただ、この制度は徳川幕府にえらい負担を強いることになった。
つまり、幕府は日本の何分の一かの天領の収入だけで、
日本全土の統治に責任を負わなければならなくなったから。
初期の頃は直轄地にした鉱山収入があったので問題なかったのだが
中期の頃にははやくも鉱山が枯れ始め綱吉あたりから幕府は財政に苦しむことになる。
0419人間七七四年
2011/05/06(金) 17:18:31.86ID:htHIni4dご返答ありがとうございます。
蔵入地って天領のことですよね?家臣に与えた領地内に蔵入地(天領)なんてあるものなんですか?
長崎や堺といった莫大な金を生み出す港は元々天領ですし、金銀山はたしかに天領だったは有名です。
戦国時代から石高を与えられた家臣は(10石とか弱小家臣から100万石大名まで)主家に対しては税を
収めるという考えは無かったと考えた方がよいということなんですかねぇ〜
となると明智光秀の畿内5ヶ国の太守とか、豊臣時代の徳川260万、毛利200万石、上杉前田伊達など
全部税は自分のものになるならすごいですね
0420人間七七四年
2011/05/06(金) 17:35:10.36ID:7rikEdguただ管理を任せていただけ。
同様なものは規模は小さいが江戸幕府にもあった。
明智光秀の領地は丹波と滋賀郡のみ、他は各々の領主の土地。
また「全部税は自分の物になる」という考え方は違う。
軍役という税を納め無くてはならなく、
そのための必要経費の財源として土地を与えられていたと考えるべき(御恩と奉公)
0421人間七七四年
2011/05/06(金) 18:02:12.27ID:htHIni4dこの制度が江戸幕府終了まで続いたっていうがある意味すごいですね
確かに戦国時代は常に隣国との争いに備え家臣も軍役に蓄えを費やして主家に奉公するわけですが
主家にとっちゃ戦が無いと家臣の謀反が恐ろしくなりますね、この制度。
なんか室町幕府のあの謀反の多さは御恩と奉公この制度せいで幕府の家臣である守護大名が使い道のない
蓄えがどんどん増えていき(又は守護大名の家老クラス)隣国に攻めていったんでしょうかねぇ
平和になれば謀反が怖くなるっていう矛盾した制度なんですかね
0422人間七七四年
2011/05/06(金) 18:32:08.26ID:7VWAuuU8その辺は幕府と諸大名の力関係で決まる。室町幕府は関東公方が勝手したりと幕府の力が弱かったから
有力大名の力を削ぐ事が出来なかった。江戸幕府は強いから参勤交代とか天下普請で諸大名の力を
削ぐ事が出来た。
0423人間七七四年
2011/05/07(土) 16:37:36.69ID:Zf0n3U1J0424人間七七四年
2011/05/07(土) 19:49:36.07ID:RaNVWv7Cみたいな逸話の出典ってなんでしょうか?
史実ではないと思いますが
0425人間七七四年
2011/05/07(土) 22:17:37.83ID:Hv78qrdd江戸時代の大衆小説。
0426人間七七四年
2011/05/08(日) 10:17:32.38ID:snxCNwL0懐で温めてくれた草履を履くと言うシチュエーションも生まれた
リアル文化なのかな?
0428人間七七四年
2011/05/08(日) 23:56:12.21ID:MPhRhWabどういう仕事なのでしょうか?
0429人間七七四年
2011/05/08(日) 23:58:13.27ID:MPhRhWab0431人間七七四年
2011/05/09(月) 00:17:25.37ID:57vZ7gf5ありがとうございます。つまり豊臣公儀における朝廷との折衝を一任されたわけですね。
具体的には、浅学なので、このような例しか浮かばないのですが、これ以外にもありますでしょうか?
1,官職の推薦権(家康が窓口になって朝廷に奏上、認可を得る)
2,朝廷の諸儀式における費用の負担を豊臣家が担う際の折衝
3,朝廷の要求を豊臣公儀に伝達し、討議した回答を朝廷に伝える。
0432人間七七四年
2011/05/09(月) 01:37:52.65ID:F5te5dpiそれで問題ない、5大老のうち利家には秀頼の傳役任せ大阪城の西の丸に入らせた
もう1人の家康には大阪城から遠ざけるために伏見に入る必要の有る朝廷との折衝を任せた
0433人間七七四年
2011/05/09(月) 01:41:58.35ID:Ca13vKuG豊臣家の私的な居城でしか無い。
0434人間七七四年
2011/05/14(土) 05:28:21.17ID:Nyb/GoDGまたその際はどういう出で立ちだったのでしょうか?
0435人間七七四年
2011/05/15(日) 10:22:06.64ID:B9BSK99t僧兵というのは武士以上に主家である寺社と密接な存在なので、武者修行というのは
考えづらいが、各地をめぐっったというのはある。
勧進帳をイメージするといいかと。
0436人間七七四年
2011/05/15(日) 13:56:15.80ID:0BbY2bRe雑役夫や寺関連の仕事をやっていた人、地元の百姓なんかが武器を持って寺の警備にあたっていた。
これが江戸時代になって「僧兵」と言われるようになった。
(武士の侍大将に当たる者は僧籍に入っていたようだが)
弁慶みたいな姿を全員がしていたわけではない。
それぞれの寺に武芸の訓練場があってそこで訓練をやったわけで、
武者修行には行かなかった。
根来みたいに傭兵衆を送り出したところもあった。
>>435のように出張はあった、弁慶もそれを装って関所を通ろうとしたんだし。
0437人間七七四年
2011/05/17(火) 09:19:26.14ID:aO9hZ+UJ「顔で選んだわけではない」みたいなことを言って予定通り婚約者と結婚した武将がいたはずなんだけど、誰でしたっけ?
0439人間七七四年
2011/05/17(火) 14:20:03.43ID:ZjKPeTyGこれは明智光秀だな。
お見合いで煕子とはわずかの間だけの対面時間だったが、黒子を覚えていて、
代わりに来た妹を本人ではないと見破り、事情を聴いてなお煕子との結婚を望んだ。
という逸話がある。
0440437
2011/05/17(火) 19:04:29.10ID:aO9hZ+UJすっきりしました。
0441人間七七四年
2011/05/17(火) 19:33:23.31ID:LtE2l3w7光秀にも紹運にも全く同じ逸話があるだけのこと
0442人間七七四年
2011/05/18(水) 03:35:27.94ID:I3mSioSRよく分家が本家を倒してしまうことがありますけど
その場合は自動的に分家が本家を継いだ扱いになるんですか?
それとも本家がなく分家だけが残っているという扱いになるんですか?
0444人間七七四年
2011/05/18(水) 12:10:43.55ID:J0kT910s0445人間七七四年
2011/05/21(土) 21:29:55.88ID:cvYtawAe0446人間七七四年
2011/05/21(土) 22:35:58.67ID:mWINSonv砦は城の一種でもある、軍事目的に特化した城、と理解すればいいかと。
砦を城と呼ぶ場合も多い。
城という言葉には、戦国時代も色々な概念が入りすぎているので、城の定義のほうが難しい。
0447人間七七四年
2011/05/21(土) 23:16:28.88ID:cvYtawAeありがとうございます。
軍事目的の城ですね。イメージ的には、自然の地形を利用して、余り手を加えず、兵を溜めておく平坦な地が二、三あるぐらいかなと思ってました。
代官屋敷みたいなものでも城と呼ばれることもあるようですし難しいですね。
0448人間七七四年
2011/05/22(日) 02:55:47.16ID:O9y3CtQ4てことはガラシャの子孫でもあって、明智光秀の子孫でもある?
0450人間七七四年
2011/05/22(日) 09:17:10.56ID:1J67Q7wl0451人間七七四年
2011/05/22(日) 15:34:09.26ID:yoZlCGBMまた大久保彦左衛門忠教(名字+通名+諱)、大久保相模守忠隣(名字+官職+諱)といった長い名乗りは実際にあったのでしょうか。
0453人間七七四年
2011/05/22(日) 21:16:43.64ID:1J67Q7wl平助は通名というか、幼名だな。普通はその二つを並べることはない。
> また大久保彦左衛門忠教(名字+通名+諱)、大久保相模守忠隣(名字+官職+諱)といった長い名乗りは実際にあったのでしょうか。
殿中など公の場ではある。朝廷関係の場だとさらに姓も入れて、例えば忠隣なら
「大久保相模守藤原忠隣」
となる。
0454人間七七四年
2011/05/23(月) 00:30:36.38ID:oLYsUNPV細川家的には側室の子の子孫なだけど、嫁に行ったガラシャの娘の血を引いている。
井伊直弼、近衛公爵家を経由しての流れ、煕の字は光秀夫人煕子でなく近衛家からもらったと思われ。
0455人間七七四年
2011/05/23(月) 04:17:05.52ID:0JnCit78天下とった期間が短いのも似ているな
歴代総理だと三条実美、西園寺公望のつぎくらいの血筋かな?
黒田清隆は黒田官兵衛の子孫なのかな?
0457人間七七四年
2011/05/23(月) 15:00:49.92ID:2qPZsFmN近衛が下手打って戦争に突入したも同じだし
ロクなやつらじゃない
0458人間七七四年
2011/05/23(月) 18:35:29.55ID:NQ2UDL4s他の宗派や宗教とは相いれない部分が比較的に強くありますが、
戦国時代にそうした信仰の問題が原因で謀反や出奔した武将っていますか?
0460人間七七四年
2011/05/23(月) 19:04:50.59ID:D6eiyjGv0462人間七七四年
2011/05/23(月) 23:35:26.91ID:rVqVOpnR一揆側に回った家臣はみんな許されたけど
自分は総大将だから許されはすまい…と思って出奔したと聞いたが
0464人間七七四年
2011/05/24(火) 01:53:42.28ID:R0Q3u2Wqあまりにも出来すぎだろその話 とは思ったからようやく納得できた
0465人間七七四年
2011/05/25(水) 18:14:43.65ID:S/pixvAv公家の人が改名する理由を誰か教えて下さい
0466人間七七四年
2011/05/25(水) 18:51:35.17ID:T4zBUTx8改名時期で色々考えなきゃならんが、パッと見思いつくのは2代将軍になった秀忠の諱の
忠の字が重なることを避けたため、じゃないかね?
公家の場合は自分の諱の文字が、新天皇や新将軍の諱と重なったりすると改名する事が多いな。
0467人間七七四年
2011/05/25(水) 19:10:58.38ID:S/pixvAvそれも思いましたが、改名次期が1631年に幸家に改名したとあったので(wiki情報ですが)
その一年後に秀忠は亡くなっていますし、その理由ならもっと早くから改名したんじゃないかと思って
他にも上の人に同じ字の人がいたんでしょうかね? どこから調べればいいのやらと…
0468人間七七四年
2011/05/25(水) 21:44:29.13ID:T4zBUTx8そうなると専門的に調べないと解らないかも。公家事典あたりに載っていない物か。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n803.html
0469人間七七四年
2011/05/25(水) 22:37:30.06ID:S/pixvAv高すぎてちょっと手が出せないけど、地元の図書館で探してみます
ありがとうこざいます
0470人間七七四年
2011/05/26(木) 00:15:50.13ID:sIT91vvi仮に、秀忠が将軍就任時期に名前を改名したとして
幸家「将軍と重なる名前だったので、幸家に改めました」
秀忠「それはご苦労 ところで三代将軍の名前を家光にしてみた」
幸家「えー」
コントか
0471人間七七四年
2011/05/28(土) 12:27:32.75ID:qnYyu3EO0474人間七七四年
2011/05/28(土) 13:29:39.06ID:JW+4YFyR0475人間七七四年
2011/05/28(土) 13:53:11.62ID:mrlzOMh30476人間七七四年
2011/05/28(土) 16:21:08.47ID:BKxdllWM0477人間七七四年
2011/05/28(土) 16:33:08.48ID:CZphT1tFただの薬屋じゃないよ。
海運も盛んに行ったし、なにより屈強の警護軍をもっていた。
当時の豪商たちはみんな荷を守るため自前の兵を抱えていた。
土豪の生業が農業+治安維持なら、港を拠点とする豪商は海運+海賊という図式。
0478人間七七四年
2011/05/28(土) 19:12:26.70ID:lqmyVF/8今川義元や氏真も上総介だったと思うけど何人も就任するものなのですか?
上総が職場なのに上総にいかなくていいんでしょうか?
0479人間七七四年
2011/05/28(土) 19:46:41.19ID:o5U6IjPTその時代の官職は箔付けの為であって実際の仕事がある訳ではない。しかもその多くは自称にすぎない。
信長もそう。義元は知らない。
ちなみに平安時代でも陸奥の守に任命された貴族が現地に行かないなんて事はよくあった。
0480人間七七四年
2011/05/28(土) 19:53:47.77ID:lqmyVF/8でも自分の治める地域のを名乗れば治める名分がたちそうなのに
織田なら尾張守とか
あれ? 尾張守護=尾張守?
0481人間七七四年
2011/05/28(土) 20:14:17.82ID:EYLDMUfM守護は幕府が任命するものなので別物
0482人間七七四年
2011/05/28(土) 20:53:15.00ID:eik7HvQS1 水堀は晴天が続くと空堀になるのですか。
2 水堀は蚊による病気や悪臭などは無いのですか。
3 元々「掘り」というものは空堀の事ですか。
4 水堀は 水が漏れないように防水してあるのですか。
5 「水堀+石垣」 の 石垣の下には、石垣用の基礎があるのですか。
(基礎が無いと石垣下部が水に洗われて、石垣崩壊の気が・・・・
以上、よろしくお願い致します。)
0483人間七七四年
2011/05/28(土) 21:00:41.75ID:mJ177SaO> 1 水堀は晴天が続くと空堀になるのですか。
水堀は河川と繋がっている。河川が枯れる事態になればそうなる
> 2 水堀は蚊による病気や悪臭などは無いのですか。
定期的に水さらいされる。城はメンテナンスが大事
> 3 元々「掘り」というものは空堀の事ですか。
そもそもは文字通り「掘った場所」
昔から水堀も空堀もあった。水の有無の問題だな。
> 4 水堀は 水が漏れないように防水してあるのですか。
水堀は城の周囲をめぐらした一種の運河だと思うといい
> 5 「水堀+石垣」 の 石垣の下には、石垣用の基礎があるのですか。
石垣の下の土が水に流される、ってこと?水堀にそれほどの水流はないし、
石垣自体は自重で安定しているので、石垣崩壊するようなことはほとんど考えられない。
0484人間七七四年
2011/05/28(土) 21:50:16.54ID:RqXbhkHP海はどうだったんでしょう?
0485人間七七四年
2011/05/28(土) 21:57:34.42ID:GIFlIxTU0486人間七七四年
2011/05/28(土) 22:16:14.96ID:RqXbhkHP0488人間七七四年
2011/05/28(土) 22:23:37.58ID:BC7ZVDqM0490人間七七四年
2011/05/28(土) 23:06:40.95ID:rXz7WzDq0491人間七七四年
2011/05/29(日) 00:28:24.25ID:80Jm7aBv海でなくて湖だが、琵琶湖の水運は堅田が支配していて、通る船には堅田衆の案内人が乗り込んでいて
彼らに払う案内料が実質通行料になっていたそうな
で、堅田衆の案内人が乗っていない船は焼き討ちして積荷没収船員鏖ごろしとか
0492人間七七四年
2011/05/29(日) 06:44:22.75ID:sgU+w6thその手の水の案内人は単なる迷惑な存在というだけでなく、
通行料を払った人間を命賭けて守る義務があったのだが。
賊の襲撃とかだけでなく、天災とか水難からも。
0493人間七七四年
2011/05/29(日) 18:03:46.54ID:ff91/Hb0そういう信長の言行が残ってたりはしないのでしょうか?
0494人間七七四年
2011/05/29(日) 18:14:43.61ID:Wj7jtXba信長は日本統一後はシナに攻め込む決意をしていたとの記述はある
ただ、その他の記録にはまったく無い。
0495人間七七四年
2011/05/29(日) 18:29:00.51ID:X3T22Y2v0496人間七七四年
2011/05/29(日) 18:46:43.50ID:1+0g1riy関銭を取るだけで、積み荷の保護などはしなかったのでしょうか?
0497人間七七四年
2011/05/29(日) 19:05:04.07ID:iBjJTCdL万単位でいたから天下統一したら大量の失業者が出るのは誰でも分かる。
唐入りは秀吉じゃなくてもやってたでしょうね。
0498人間七七四年
2011/05/29(日) 19:25:57.84ID:GUTbggYmある意味ではもう天下布武は終わってたと思うんだけど
大陸に勢力を伸ばそうとしてたとは到底思えない
0500人間七七四年
2011/05/29(日) 21:28:20.51ID:ahiMQ8rq「誰に断わって商売してんでぇ!」と因縁つけて所場代せしめるヤーサンだって所場代払えば
便宜を図ってくれます。当然、村上水軍や他の水軍だって同じです。
0501人間七七四年
2011/05/29(日) 21:33:45.87ID:Chm7itrH滝川や森みたいに、すぐに放棄して逃げ出すことは考えなかったのでしょうか?
0502人間七七四年
2011/05/29(日) 22:06:42.70ID:k4MVpi4Q滝川も合戦に負けた挙句だけどな。
河尻も「どうにかなる」と思っていたんだろ。政治状況に対する判断ミス。
0503人間七七四年
2011/05/29(日) 22:11:06.60ID:X3T22Y2v0506人間七七四年
2011/05/30(月) 21:37:45.16ID:4GSRHiVXというかそういうのって大名の仕事じゃね?
ならず者はいたとは思うが
あんな戦みたいなことしょっちゅうやってたわけじゃないだろ。
0507人間七七四年
2011/05/31(火) 00:08:47.21ID:uoweimYG軍役の請け負いということ。
どっかの書状にもマトモな奴を出せとあったからな。
0508人間七七四年
2011/05/31(火) 07:32:50.28ID:sz384HCP本願寺の雇っていた雑賀根来ら傭兵が鉄砲を使っていたみたいですが
実際に本願寺の坊官たちも鉄砲をつかっていたのでしょうか?
あと一向一揆って貧乏人の集まりが坊主に騙されて蜂起したものだけど
そんな連中に鉄砲みたいな高級品を扱わせても大丈夫だったのでしょうか?
俺なら脱走して鉄砲を金に換えますが・・・
0509人間七七四年
2011/05/31(火) 09:39:30.28ID:6ou96sCR> あと一向一揆って貧乏人の集まりが坊主に騙されて蜂起したものだけど
> そんな連中に鉄砲みたいな高級品を扱わせても大丈夫だったのでしょうか?
根本的に認識を間違えてる。本願寺に集まった連中は貧乏人ではなく小ブルジョアとも
言うべき階層であり、また、むしろ信長と戦うため本願寺を担ぎ上げた、戦争主体だと言っていい。
なぜなら信長はひどい重税政策で庶民から金をむしりとっていたからだ。
0510人間七七四年
2011/05/31(火) 16:08:17.26ID:/9CDoOYG武士ではないといってもあまりにも貧しいと
武器の調達も難しいし最低限の教養もなく出世しにくいと思うんですが
劉邦みたいに地元の親分くらいの地位では最初からあったのでしょうか。
0512人間七七四年
2011/05/31(火) 23:13:34.38ID:62eh05Tj明国の資料によると、秀吉は中国人、ただし漢民族じゃないマイノリティ民族出身で
明の科挙試験に落ちた、落ちこぼれエリートで日本に渡って信長に仕え(以下略
0513人間七七四年
2011/05/31(火) 23:23:51.12ID:UUiXg/JH全国で考えると一千万石以上あれば、米余りで値が付かない事もあったと思うんですけど…
0514人間七七四年
2011/05/31(火) 23:37:48.31ID:ueYMBJWp江戸時代になったら見事に余ったね・・・
でも、当時は誰も米余りなどという事態が起こるとは予想もできませんでした。
0515人間七七四年
2011/06/01(水) 13:22:31.08ID:ooPA2lWw当時は小氷河期で慢性的な食糧不足だったから米はいくらあっても困らない。
酒だって米でつくってたし、当時はサツマイモは日本になかったんだから。
地球の気候が安定してきたのはだいたい江戸時代辺りから。
0516人間七七四年
2011/06/01(水) 15:29:13.26ID:05bKv18h室町時代から各地の荘園から年貢+米がより高く売れる京に米が集まり地方に米が無い状況になった。
商人に米を売っぱらった現金で守護らは生活必需品を消費してた。
すると京の商人たちは米の出荷を押さえて米価の釣り上げを行い
人工的な飢饉を作り出した。
各地の飢餓流民が豊かな京に流れ込み
これらの層により土一揆や徳政強訴の始まった。
実は江戸期もそうだが、食料生産量は人口を維持するには充分な量があって
餓死が出るほどの飢饉ってのは人工的に作られる人災。
ちなみに平安京時代までの日本人は身長も世界並みに高く、
身長が一番低くなるのが鉄器加工や灌漑農業が全国普及した徳川江戸時代。
商業の発展とともに日本人の栄養状態はどんどん悪化している。
0517人間七七四年
2011/06/01(水) 18:22:18.82ID:BGXzuNAQどこでそんな珍説効いてきたんだか…
> ちなみに平安京時代までの日本人は身長も世界並みに高く、
> 身長が一番低くなるのが鉄器加工や灌漑農業が全国普及した徳川江戸時代。
嘘です
オカルト界隈は知らんが、考古学的にそんな統計は一切存在しない。
0518人間七七四年
2011/06/01(水) 19:35:49.26ID:gP6fCfdZ米にこだわったんですか?日本の小氷期がどの程度かはわからないけど
少なくともヨーロッパよりは暖かいのでは。
0519人間七七四年
2011/06/01(水) 19:38:48.79ID:PEX8+RtA麦も作っている
麦より米のほうが生産性が高い
前近代の日本人はほぼ、大量の米(玄米)と少量の味噌などの副食物を食べて生きていた。
0520人間七七四年
2011/06/01(水) 19:47:33.12ID:gP6fCfdZ0521人間七七四年
2011/06/01(水) 19:51:15.44ID:/z/EeIVZ0522人間七七四年
2011/06/01(水) 19:54:07.25ID:PEX8+RtA君は勘違いしているようだから言うけど、麦の収穫期と米の収穫期は別だぞ?
農民は同じ田畑で麦→米→麦というローテーションで栽培する。
米を作っているところは、麦も作っている。
0523人間七七四年
2011/06/01(水) 19:56:41.02ID:oz/p/Zyzヨーロッパのような痩せた土地ならしょうがないが
日本のように米を作りやすい環境なら米を作らない理由がない
まぁ商品価値が高いので無理して作ってた東北の一部は不作だと悲惨に事になったがね
0524人間七七四年
2011/06/01(水) 20:44:20.56ID:05bKv18h発掘された人骨を調べた結果だよ。
石高制が確立した後はそれが国力を現すだけでなく
幕府内での家格や序列を現すようになったことも大きい。
島津や伊達や津軽や南部あたりは無理やり厳しい検地をやり過大な石高を算出している。
デタラメ石高で幕府に家格向上を願う口実に使える。
ただ農民は過酷な取り立てで餓死者大量に出た。
伊達に至っては武士まで餓死者が出たほど
ただ南部や津軽は岩木山噴火と言う天災もあるから同情はする。
0525人間七七四年
2011/06/01(水) 22:23:37.61ID:EhSvnTHH経済的にはデメリットの方が大きい気がするんだけど(参勤交代やお手伝い普請)
0526人間七七四年
2011/06/01(水) 22:43:43.80ID:BGXzuNAQ> 発掘された人骨を調べた結果だよ。
だからそういう統計結果はどこにも存在しない。
有るというのならその根拠の資料をしめせ。
武士は「名を惜しむ」生き物ですから、家格が下がったと言われると
生きづらくなるのです。
0530人間七七四年
2011/06/01(水) 23:34:04.22ID:az/vFZHM0531人間七七四年
2011/06/01(水) 23:54:17.10ID:PhpcR2nr0532人間七七四年
2011/06/02(木) 00:04:25.46ID:s+cdPj0G0533人間七七四年
2011/06/02(木) 01:27:43.90ID:EGeog3+J0534人間七七四年
2011/06/02(木) 01:38:41.48ID:jrhUHJt9おそらく清水克行著である「大飢饉、室町社会を襲う!」だろう。
身長の話は検索かけたら似たようなもんが出てきた。
ttp://www.webtelevi.com/sokuho/kokunaitrend/080711kokunaitrend.htm
0536人間七七四年
2011/06/02(木) 11:08:21.66ID:s+cdPj0G0537人間七七四年
2011/06/02(木) 11:21:16.10ID:WooLvEwZ現在の研究では否定説が大勢。
「信長公記」にもそんなことは書いてない。
信頼性の低い甫庵の「信長記」にはあるけど。
だいたい上洛しても京には将軍義輝がいるのに、何をするの?
0538人間七七四年
2011/06/02(木) 11:31:18.25ID:fpbrc/amお前はどうでもいいことに反応して質問には答えてないのな。
後何でもかんでも「信長公記」っていうと馬鹿に見えるからやめたほうがいいぞ。
あれも基本的には信長記と変わらん、あくまで後世の2次資料だ。
>>536
謙信の上洛はあくまで「旅行」
あと上洛までに通り道の勢力とさんざん交渉して通行安全の保証を取り付けておる。
0539人間七七四年
2011/06/02(木) 12:29:41.70ID:WiUaHE1sなぜ襲われないかってのはわたしも不思議に思ってました 信長公もやってますし、
たくさんの武将がやってます あ、信長公の場合、京の都で斉藤義龍の刺客に
襲われたとか襲われなかったとか・・・
基本、室町将軍や京の帝に呼ばれたのでご挨拶にいく、というスタイルなので、
そっちのほうの権威から道中の大名に襲うなよって指令がいってるとは思うのですが・・・
0540人間七七四年
2011/06/02(木) 14:50:29.82ID:s+cdPj0Gいくら交渉しても戦国の世に軽武装で他国の領土を旅行するのは不安な気はしますが…
かなり散財したらしいから財物も多量に携帯してただろうし
なんだかんだで足利幕府の威光はまだまだ健在だったという事かな
0541人間七七四年
2011/06/02(木) 15:05:50.20ID:1buKfsAhぷらっと行って帰ってきたと言うわけではなく一大事業であったわけ
0542人間七七四年
2011/06/02(木) 18:29:08.93ID:pUmYeIQg飢餓祭?意味不明
身長の話はリンクにあるのでは?
>>536>>539
日本海を船で敦賀まで行ったから北陸道使わず安全。
あとは事前に話を通してあるから
各地の大名から通達が出てて通行の安全や馳走(宿泊の準備とか)もしてもらってるのが普通。
将軍や天皇に挨拶すると言う理由なら普通は邪魔しない。
>>537>>538
信長公記の翻訳出版した角川が第一級の史料に値すると自賛したから素人歴史マニアが誤解するようになっただけで
信長公記はデタラメが多い。
ただ謙信が死んだ辺りからは年号も正確になってきてるから参考史料にはできるようになる。
>>540>>541
記憶が定かじゃないけど伊勢神宮に参拝したいから道中の便宜お願いしますって奥羽から出かけた話もあったような。
0543人間七七四年
2011/06/02(木) 19:09:59.83ID:1buKfsAh島津家久が伊勢神宮に参拝ついでに京見物して明智光秀に接待されたり
その話は分からないが、その手の話はいくらでもあると思う。
幕府の力が衰えて群雄割拠になったとはいえ、別に日本が無法地帯になったわけじゃないからな
0544人間七七四年
2011/06/02(木) 19:25:24.68ID:WiUaHE1sどっちみち京の都に行けば将軍や帝にあいさつして貢物を渡さないといけない
やっぱりお忍びとかじゃなくて、ちゃんと話を通して堂々と上洛してたんだろうか
0545人間七七四年
2011/06/02(木) 19:29:11.33ID:jDE22Ux0応永の乱や応仁の乱では中心的に暴れまわっているし、
足利義稙擁立の時も上洛している。
管領でも四職でもないのに中央志向が極端に強い一族だよな。
0546人間七七四年
2011/06/02(木) 19:37:36.91ID:pUmYeIQg0547人間七七四年
2011/06/02(木) 19:41:34.01ID:S3XG2Pvh0548人間七七四年
2011/06/03(金) 00:16:29.66ID:Io+4pa7T今川勢25000に対して、織田勢は3000人くらいの動員兵力
だったして
1万石に対して200〜300人動員できたとすると
信長の勢力は10〜15万石
尾張藩が61万石の表高でしたので、それを参考にすると
当時の信長は尾張うち、多く見積もっても1/4くらいしか
支配できていなかったと思ったのですが、どうでしょうか?
いい線言っていると我ながら思うんですけど、つっこみあったら
お願いします
0549人間七七四年
2011/06/03(金) 01:36:32.83ID:DoKn+9f0前提が間違ってれば答えなんか出ないってのはわかるな?
0550人間七七四年
2011/06/03(金) 09:21:59.54ID:rp4E/emSアニメ へうげもの で信長が「明、ホクテキ、セジュウ、南蛮を落とし〜〜」
とか言っていますがホクテキとセジュウってどこのことですか?
他にも分かる国や地名があったら教えてください。
あと下記の知識はあってるでしょうか?
中国 明(みん)
韓国&北朝鮮 朝鮮(ちょうせん)
インド インド(現代と呼び方同じ?)
イギリス エゲレス
スペイン イスパニア
ポルトガル 南蛮(なんばん)(ただしヨーロッパ全体を指す事もあり)
オランダ オランダ(現代と呼び方同じ?)
0551人間七七四年
2011/06/03(金) 09:27:55.44ID:6mJBbxJCその計算式を今川に当てはめて、天正でも慶長でもいいから
駿遠三の石高合計と見比べてもう一度考えてみたら?
0552人間七七四年
2011/06/03(金) 10:26:33.83ID:22gNDs48>信長の勢力は10〜15万石
父信秀のころに既にこのくらいの勢力。
伊勢湾交易からの上がりを加えればもっといく。
それとここ↓
>尾張藩が61万石の表高
尾張『藩』は領地に美濃、信濃、三河の一部を含めてるから尾張一国では47万石くらい。
0553人間七七四年
2011/06/03(金) 11:18:02.37ID:rLKH/cDh北てき・・・モンゴル
西戎(せいじゅう)・・・チベット
ついでに言うと
明、北てき、西戎、南蛮
と言ってるなら、この場合の南蛮はヨーロッパではなく東南アジアのことを指す
0554人間七七四年
2011/06/03(金) 11:18:43.59ID:PVPHlQ2+北狄、西戎は東夷、南蛮と合わせて古代の中華から見た四方の蛮族の事。戦国時代に
何処を指してたかは知らん。ヨーロッパ人は南のフィリピンとかインドネシアとか経由で来る
んで南蛮と呼ばれた。
インドは天竺(てんじく)と呼ぶ。いわゆる『三国一の花嫁』という時の三国は日本と中国と天竺の事。
オランダは和蘭陀。これはホラントに由来するがホントの国名はネーデルランドだから覚えといて。
0555人間七七四年
2011/06/03(金) 16:32:47.35ID:cwpUwA2J明や朝鮮は王朝の名前であって、
現在の中国・朝鮮に当たる地域を呼ぶときには
唐(カラ)とか高麗(コマ)の方が使われてたんじゃないか
0556人間七七四年
2011/06/03(金) 17:48:17.30ID:1RmGdy6t今川の場合は、尾張を落とせる分収入が増えると見込めるし
その勝ち馬に乗りたい勢力もそちらにつくから
支配する石高以上の動員出来ると思うけど
0557人間七七四年
2011/06/03(金) 18:49:34.83ID:rp4E/emSあれ? 唐も王朝の名前だけど唐滅亡後も中国を指す言葉として用いられたっていうふうに聞いたんだけど違うの?
(ウェブ漫画の注釈書きに書いてた)
高麗ってコウライって読むんだと思ってたけど当時はコマだったの? コウライって平成での読み方?
0559人間七七四年
2011/06/03(金) 19:08:39.13ID:dw86+cjs石高はあくまでも目安。
大抵の国人は敗色濃厚な方には付きたくないものでしょ。
0560人間七七四年
2011/06/03(金) 19:11:40.16ID:LpO8x5Od0561人間七七四年
2011/06/03(金) 22:33:40.89ID:W8ZLu8niあと石高=兵力ではなくGDPと思った方がいい。
0562人間七七四年
2011/06/03(金) 22:42:42.18ID:mJVgROXCだから秀吉みたいに算学ができる者がトップに立つと
武が文を軽視する風潮が薄れ輸送力が組織化する。
今までの織田軍は軍団制で派遣され
あちこちで次々と敵を作ってまわり
各国で現地食料調達方式のために
大軍集中で敵を潰す方式が不可能だった。
言わば兵を喰わせていくために戦略無く無計画に敵を作り侵略を繰り返していたのが織田軍。
秀吉時代は輸送概念が生まれ、必要に応じて敵を絞って戦略集中の遠征が可能になった。
だから時間を浪費し殺戮大会をやっていた信長と違い
効率的運用であっという間に西国をくだして家康を上洛させ土下座させた。
朝鮮出兵が可能になったのも秀吉の文武両道さが理由。
0563人間七七四年
2011/06/04(土) 00:06:10.29ID:3K/3Uetl0564人間七七四年
2011/06/04(土) 00:34:10.84ID:rwHfK+J2南部が10000を動員したとある。共に石高は糞みたいな数字だが
このことからも石高で兵の動員数を語るのはナンセンスと言わざるを得ない。
兵力を語る上で大事なのはその土地への支配力。
0565人間七七四年
2011/06/04(土) 00:44:07.19ID:3K/3Uetl0568人間七七四年
2011/06/04(土) 09:15:50.46ID:8VPdk5t3だから555も唐と書いて『から』と読んでるんだろう。王朝名としては『とう』だが、唐王朝に限定しない
中国を指す時は『から』と読む。秀吉の明遠征も『唐入り』だし。
高麗も王朝名としては『こうらい』だが、王朝名を離れた和訓では『こま』とも読まれる。
0569人間七七四年
2011/06/04(土) 12:23:34.32ID:J0Q0Qxsf0570人間七七四年
2011/06/04(土) 13:57:28.88ID:5Dg63WT41つの名前をつけるのは理解できるけど、対して二郎三郎や四郎三郎と
いった2つの名前を1つにして名付けるケースがとても多い。
この2つの名前を1つにして名付けることはどういう意味あいがあるのですか?
0571人間七七四年
2011/06/04(土) 14:13:22.61ID:J0Q0Qxsfというのも生まれた順に一郎、次郎、三郎とつけるという価値観は近代のモノであって
中世日本においては名前に使う漢数字と生まれた順はなんの関連性も無く
長男に次郎や三郎とつける場合も普通にあって当時の人達からすればただの名前は名前でそれ以上でも以下でもない
ヒロシやケンタと同じ普通の名前です
(信玄は生まれた順ですがそれは信玄がたまたま関連付けただけでソレが普通だったわけではない)
だから次郎三郎さんに「なんで次郎と三郎両方ついてるの?」と聞くのは、
健太郎さんに「なんで健太と太郎くっついたみたいな名前してんの?」と聞くようなもので
本人からすれば「いや、次郎三郎は次郎三郎って名前で別に二つつけたわけじゃないんだけど」
となるのではないでしょうか?
間違ってたらすいません
0572人間七七四年
2011/06/04(土) 14:43:27.42ID:3K/3Uetl名前を重ねた理由は、一郎、次郎と名乗るのが慣例で分家が多いは親戚中が
同じ名前だらけになってしまうので分かりやすくした場合や
次男である二郎が家祖だったり著名人だったりで名を残したかった等が考えられます
また通称や幼名は代々受け継ぐ習慣もあったので家祖が二郎三郎と名乗っていた場合は
子孫は長男の嫡男なのに代々二郎三郎と名乗ったりもします。
0573人間七七四年
2011/06/04(土) 14:58:54.80ID:AJLsLx8m代々の当主予定者が次郎だったのがわかる。
後世の人も兄弟のうち嫡男扱いされていたのが誰だかわかるんだよ。
逆にその法則から外れている場合は
謀反や早世などが疑われる。
勝頼なんてまさに嫡男予定者じゃなかった。
0574人間七七四年
2011/06/04(土) 16:08:14.81ID:lNvbYMYM0575人間七七四年
2011/06/04(土) 16:22:44.66ID:DPVS9A7s「太郎、次郎、三郎、四郎…」(女子なら姉子、二子、三子、四子…)
となっていたが、鎌倉末〜南北朝期くらいに、社会全体で旧来のルールによる相続の行き詰まりや
社会の騒乱状況から、基本嫡男相続に変化し、排行名は使われなくなった。
0576人間七七四年
2011/06/04(土) 18:23:22.31ID:1BunV23O返答ありがとうございます
象徴的な意味合いだけでなくそれぞれの家の事情によって変化したんですね
次男の三男だから二郎三郎だったり
それに分家が多いから区別のためにというのも納得です
0577人間七七四年
2011/06/04(土) 19:05:22.32ID:Hiiwdl8oそう清水克行氏の本。
平均身長は鈴木尚氏
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%B0%9A
0578人間七七四年
2011/06/04(土) 19:58:21.72ID:Vj2OdUJJ徳川次郎三郎家康
茶屋四郎次郎
くらいしか思い浮かばない
0579人間七七四年
2011/06/04(土) 20:23:37.49ID:XYJEkVkn0581人間七七四年
2011/06/05(日) 00:51:32.71ID:vKLLrMTc戸沢九郎五郎政盛、最上太郎四郎家親、国分五郎次郎盛氏、河田九郎次郎重親、
大宝寺四郎次郎義氏、大宝寺四郎次郎義勝、岩城二郎太郎重隆、岩城四郎次郎貞隆、
岩城四郎次郎宣隆、岩城四郎次郎吉隆、真里谷八郎五郎信清、真里谷八郎五郎信応、
武田六郎次郎信豊、甘利三郎四郎信景、勝沼次郎五郎信友、真田次郎三郎幸隆、
三木四郎次郎良頼、松平十郎三郎康孝、小笠原十郎三郎信嶺、阿部四郎五郎忠政、
渡辺次郎四郎氏綱、遠藤三郎四郎慶隆、遠藤三郎四郎慶勝、織田三郎五郎信広、
織田三郎四郎信衡、明智二郎四郎光忠、香川五郎次郎之景、香川五郎次郎親和、
池田三郎五郎信正、池田八郎三郎勝正、有馬九郎三郎則頼、有馬四郎次郎則氏、
尼子三郎四郎晴久、尼子三郎四郎義久、赤穴九郎太郎光清、吉川次郎三郎経基、
吉川次郎三郎国経、吉川次郎三郎元経、吉川次郎三郎興経、吉川次郎五郎広家、
龍造寺六郎次郎周家、龍造寺六郎次郎長信、伊東六郎五郎祐兵、相良四郎太郎義陽、
相良四郎次郎頼房、肝付三郎四郎兼護、島津三郎太郎実久、島津三郎太郎義虎、
島津三郎四郎忠隣、新納次郎四郎忠元、喜入三郎四郎季久
0582人間七七四年
2011/06/05(日) 04:15:59.72ID:w7EhkbAw0583人間七七四年
2011/06/05(日) 09:46:39.97ID:PYFJLOIO0584人間七七四年
2011/06/05(日) 21:37:11.44ID:5Vd2j4kV0585人間七七四年
2011/06/05(日) 23:42:25.61ID:Ojmldvqpブームになっていたと言いますが
日本の戦国時代ではあまり聞かないのはどうしてでしょう?
確かに役に立たなければ単なるごく潰しに過ぎませんが
大名の財力や権威を示すという意味では普通に発生しそうな気もするのですが。
0587人間七七四年
2011/06/06(月) 00:24:27.80ID:sajkXiT10588人間七七四年
2011/06/06(月) 00:28:30.30ID:ZZpxC4oJ食客と言う名の私兵を区別した上で別に養う意味が分からない
0589人間七七四年
2011/06/06(月) 00:29:12.33ID:1VzcmvIF露骨に坊主や忍者として抱えてたけど
0591人間七七四年
2011/06/06(月) 14:19:29.43ID:RMBhPoKhはっきりいってその遊び人たちの生活を支える貧民が可哀想レベル。
単なる無駄な浪費に近いし公子の趣味が反映された採用基準。
食客3000人とかバカバカしい。
しかも食客で歴史に名を残すほど役にたったのはわずかだし
それもかなり講談臭が激しい。
孟嘗君とかアホ過ぎ。
0592人間七七四年
2011/06/06(月) 17:18:18.79ID:+8pDCe54趣味や見栄じゃなく、高位の貴族にとって必要不可欠な人員
0593人間七七四年
2011/06/06(月) 18:13:13.64ID:4DVT0ReI結社だのパンだのといった横の関係は比較的軽視されたからじゃないの?
家紋というものは、日本とヨーロッパにしかないしな。
0594人間七七四年
2011/06/06(月) 18:59:18.64ID:1VzcmvIF忍者や僧侶や修験者や商人などが食客よりも貴重な存在として扱われた。
0595人間七七四年
2011/06/06(月) 19:06:11.28ID:j6NsOZSB0596人間七七四年
2011/06/06(月) 19:44:30.33ID:ikPMXndP> 普通に考えたら、日本の方が中国よりも「家」が重んじられ、
んなわけねーだろ。どう考えたっていつの時代も中国のほうが家や家格を重視してる。
中華の結社やパンを過大視しないほうがいい。
0597人間七七四年
2011/06/06(月) 20:09:54.21ID:RMBhPoKh韓国で偽家系図作りしてみんな両班の子孫になっているのも家柄が重視されてるからだよ。
日本は一家庭レベルで姓を捏造した家系図を家系図業者に作成依頼しなくても就職差別されない。
0600人間七七四年
2011/06/09(木) 11:41:25.91ID:ZC925UNy0602人間七七四年
2011/06/10(金) 00:50:13.77ID:16QCWMhY同時に功績のある家臣に絶えた名跡を継がせたりしています。
この場合、他家の名跡を継ぐことで自分の本来の名や家が絶えることは
構わないのですか?
例えば飯富氏も由緒ある伝統的な氏のようですが、
山県姓を継いだ昌景は自分本来の家である飯富姓を次代に繋げたいとは
思わなかったのでしょうか?
0605人間七七四年
2011/06/10(金) 01:13:26.37ID:F4Xx5THR肖像画を見ても、ぜんぜん眼帯してないっぽいんですが…
0606人間七七四年
2011/06/10(金) 01:20:53.11ID:oDUWNXRjちなみに片目閉じている肖像画もある。
http://www12.ocn.ne.jp/~reigen/date.htm
0607人間七七四年
2011/06/10(金) 01:22:50.56ID:XwUCVmcOおでこがたれ下がり目が飛び出てて大変見苦しかったと言う記録がある
0608人間七七四年
2011/06/10(金) 08:24:03.04ID:pdC3Eqwb____
/__.))ノヽ
.|ミ.l 無 能 i.)
(^'ミ/.´●.〈・ リ
.しi r、_) | やかましいわ!このヤロー!
| `ニニ' /
ノ `ー―i´
0609人間七七四年
2011/06/11(土) 00:02:12.72ID:5TOu98hg実際は布とかな気がしますがああいう眼帯ってあったんでしょうか?
0611人間七七四年
2011/06/11(土) 13:27:46.57ID:+Zwk2DKH普通に「木」だよ。裏に木綿。
0612人間七七四年
2011/06/11(土) 13:42:10.00ID:Q0Epd0Ko0613人間七七四年
2011/06/11(土) 14:06:19.94ID:FIKGJKLJ0614人間七七四年
2011/06/13(月) 22:02:40.91ID:XBfdAEW7大友宗麟はキリスト教を優遇する一方で旧来の宗教を弾圧しています。
焼き討ちのような信長同様の弾圧を行なっているわりに
大友宗麟が一向一揆で苦労した類の話を聞きません。
九州には一向一揆は起きなかったのでしょうか?
0616人間七七四年
2011/06/13(月) 23:03:50.48ID:WN7hjJfR0617人間七七四年
2011/06/13(月) 23:06:37.75ID:C9FCF1uQ上杉の支配領域の中、伊豆どころか相模に入ることすらできそうにない気がするのですが…。
0618人間七七四年
2011/06/14(火) 00:22:37.54ID:ZMdu6VO5この時代、戦国後期のような『支配領域』は、まだまだ発展途上。
領主は荘園の所々を抑えていただけで、面的支配は実現できてない。
はるか後年でも伊勢宗瑞の軍が東上総の茂原まで攻め込んだり、扇谷が平塚を焼き払ったりしてる。
大規模な敵方の軍勢が攻め込んで来ても、個々の小領主の軍勢では手出しすらできず、容易に奥深くまで攻め込まれてしまうってこと。
その点、まだ南北朝時代の戦争と大して変わってない
0619人間七七四年
2011/06/14(火) 01:00:29.88ID:UGQ7L3iQ氏康も謙信と信玄に小田原城まで攻め込まれてるし
0620人間七七四年
2011/06/14(火) 01:51:21.61ID:Uh0DB7Ouしかし箱根を越えて三島まで行ってたとは驚きました。
もしかして扇谷や相模の大森、三浦あたりは政知と確執があったし本気で政知を助ける気はなかったのかなと妄想。
0621人間七七四年
2011/06/14(火) 02:10:40.36ID:H8hZiaIL0624人間七七四年
2011/06/15(水) 09:50:37.93ID:d1EEN9Ybうろ覚えで安国寺恵瓊が関が原の合戦に出たときの話かと思ってましたが
調べたら勘違いっぽい
0626人間七七四年
2011/06/15(水) 13:26:40.73ID:NDyjXz4D香を炊いて出撃した武将って誰でしたっけ?
0627人間七七四年
2011/06/15(水) 13:54:56.71ID:NrGdBXWL別にだれということはない。
生きて帰らない覚悟であることを敵味方両方に知らしめるための装い。
侍大将なら皆といってもいい。
0628人間七七四年
2011/06/15(水) 14:09:30.08ID:xcnnbldE香を炊いては木村重成
大元の逸話は中国古典
0629人間七七四年
2011/06/15(水) 14:34:07.39ID:mc1NcsSh0630人間七七四年
2011/06/15(水) 15:11:13.95ID:NrGdBXWLつく場合は必ず上。
三成の子は重家、重成、でもしも諱があるなら重の方。
歴史音痴の脚本家は困ったもんだよ、まったく。
0632人間七七四年
2011/06/15(水) 16:52:44.28ID:c32gt/gHそれとも、御館の乱後の景勝となんでしょうか?
0633人間七七四年
2011/06/15(水) 17:04:22.51ID:MdvhtYmp景勝とですな 御館の乱の途中でどんどん接近し、乱の後に北条が怒って武田北条の同盟が
崩れてしまうと上杉武田の同盟を結んで対抗したと思います 婚姻関係も結んだかな
0634月孔雀
2011/06/15(水) 17:05:02.05ID:BFxDfeI0甲越同盟したらしい。
0635人間七七四年
2011/06/15(水) 17:11:35.66ID:c32gt/gH>>633さんのように、御館の乱のあと「景勝と」同盟した、
>>634さんのように、信玄の遺言通り「謙信と」同盟した、
の2通りの説を耳にするので、どちらなのかな…と思いまして。
0636人間七七四年
2011/06/15(水) 17:14:52.82ID:MdvhtYmp0637人間七七四年
2011/06/15(水) 17:18:47.28ID:xcnnbldE御館の乱後に軍事同盟である甲越同盟
0638人間七七四年
2011/06/15(水) 17:19:45.42ID:CGSEpr5j同盟リセットどころか
北条と一緒に景虎を支援することになったって言う経緯があるからじゃないかな
0639人間七七四年
2011/06/15(水) 17:24:38.13ID:hKufVc6C嘘を言うな。北条との同盟を破棄してない以上、それと敵対している謙信との同盟を
勝頼が出来るわけ無いだろ。むしろ勝頼は関東での謙信の利権を蚕食する政策をとっている。
勝頼自身が出陣して、越山して北条を攻める謙信の行動を牽制することもしている。
ちなみに武田家的には、天正元年4月に死んだ信玄が、翌天正2年9月まで生きていることになっている。
信玄の遺言云々は軍記物のつくり話だ。
0640人間七七四年
2011/06/15(水) 17:33:38.50ID:CGSEpr5j謙信が上洛戦をする時期には改めて義昭の配下の六角義堯によって謙信と勝頼と氏政の間に和睦がなっているはずだけど。
0641人間七七四年
2011/06/15(水) 17:34:51.21ID:S8cRsYLM0642人間七七四年
2011/06/15(水) 17:37:13.19ID:c32gt/gH↓勝頼、織田&徳川対策として謙信と(同盟ではなく)休戦協定
↓手取川で上杉が織田を破るも翌年、謙信急死。御館の乱発生
↓当初は景虎の要請で勝頼挙兵も、のちに景勝側へ。景勝勝利
↓武田は上杉と同盟するが、北条を敵にまわすことに。
↓疲弊した上杉に援軍求むも断られ、結局勝頼は三方を敵に囲まれる
なのですが、だいたい合っているでしょうか?
0643人間七七四年
2011/06/15(水) 17:39:27.19ID:OoAIlTzW0644人間七七四年
2011/06/15(水) 17:41:47.78ID:xcnnbldE上杉は援軍を出してる。まったく間に合わなだけ。
0645上杉謙信
2011/06/15(水) 18:07:37.26ID:BFxDfeI00646人間七七四年
2011/06/15(水) 18:17:08.07ID:y3udp/3Dおかげで腐れ縁の真田には、いつも煮え湯を飲まされてるイメージの上杉。
0647人間七七四年
2011/06/15(水) 20:52:12.70ID:sWcE0jKHその割にはその後、後北条は一貫して小弓公方と対立しているけど。
0648人間七七四年
2011/06/15(水) 22:03:48.18ID:un3Y+H5s0649618
2011/06/15(水) 23:05:04.53ID:oRr56f0E「上総藻原寺文書」北条が出した制札4通が現存している。
そのうち該当するのは
・永正13年11月 伊勢宗瑞制札
・永正16年7月 伊勢氏綱制札
宗瑞自身が渡海したかは分かりようがないが、彼の軍勢が三浦制圧直後に上総に侵攻したのは確かだ。
一貫して対立してるように見えるのは、その後、氏綱・氏康が古河公方晴氏を担ぐことに成功したからで、
古河の味方をすれば、自動的にその宿敵である小弓と敵対することになる。
0650人間七七四年
2011/06/16(木) 06:25:26.85ID:HN7ldyqB>小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあった
>と見られていた。だが近年の研究では足利義澄-細川政元-今川氏親-早雲のラインと、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信虎のライン、
>即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。
信虎ってずいぶん早いころから生きていたんだなあ。
0651人間七七四年
2011/06/16(木) 11:09:12.14ID:7Sf806Te信虎も生きてはいたけど生まれたばかりだ
そこは信虎じゃなくて現当主の信縄にすべき
0652人間七七四年
2011/06/16(木) 12:30:10.42ID:JuzL5zUB0653人間七七四年
2011/06/16(木) 13:10:54.63ID:mDZWfABY早雲はむしろ義視→義材と繋がってんじゃないの?
0655人間七七四年
2011/06/16(木) 19:39:43.95ID:5QweaFEk北方はどこまでが日本の範囲だと思っていたのでしょうか?
0656人間七七四年
2011/06/16(木) 19:43:20.26ID:cAB8nhctいつの「当時」か知らんが、秀吉の時代くらいまで「天下」の範囲は畿内近国、
広げても加えて東海、北陸、瀬戸内沿岸、くらい。
0657人間七七四年
2011/06/16(木) 20:01:13.03ID:D/njnzn50658人間七七四年
2011/06/16(木) 22:19:38.25ID:PzT6wAUX0659人間七七四年
2011/06/16(木) 22:44:13.39ID:IsHevJYj室町幕府的な感覚だと幕府将軍の威光が届く範囲までが『天下様の天下』
それは畿内周辺に限定されたもの
0660人間七七四年
2011/06/16(木) 22:49:01.51ID:Gr26SLRr「天下にご帰還された」と書かれている。
つまり関東は「天下」の概念に入っていなかったということだ。
0661人間七七四年
2011/06/16(木) 23:12:03.15ID:ELutz5Qm0662人間七七四年
2011/06/16(木) 23:23:17.51ID:IsHevJYjこの場合の天下は京そのもので、その天皇の下に居て京を治めている人間が『天下人』
0663人間七七四年
2011/06/16(木) 23:37:33.45ID:D/njnzn50664人間七七四年
2011/06/16(木) 23:40:52.96ID:G0Y/dKok0665人間七七四年
2011/06/16(木) 23:59:49.48ID:5QweaFEk私はだいたい戦国時代の人が今でいう東北地方や北海道のどこら辺まで
日本だと思ってたのかというような趣旨の質問だったのですが、
「当時」や「天下」と曖昧な言葉を使ったせいで色々と難しい話になってしまったようで、
すみませんでした。
0666人間七七四年
2011/06/17(金) 00:14:24.62ID:sALZ6gEW大雑把な(曖昧な)認識で東北まで、北海道の存在は知られてない。東北地方を具体的に
認識してるかどうかは各個人の知識によると思う。和歌の知識があれば歌枕の地は知ってるだろうし。
0667人間七七四年
2011/06/17(金) 00:19:10.08ID:MZ4vVsMuひどいデマだw
0668人間七七四年
2011/06/17(金) 01:14:38.52ID:weO1eS3F0669人間七七四年
2011/06/17(金) 01:23:57.55ID:rSOOApYP欧州人が伝聞と簡単な測量を元に描いたであろう日本地図でも
17世紀も後半までは北海道部分がすっぽり抜けた地図になっていて
蝦夷地が描かれて以降も、蝦夷はとにかく広大といった感じでぼかして
蝦夷地、北海道が島であるとは認識していない
つまり、陸奥の更に奥にも土地が続いているのは知っていたが
それが具体的にどういうt土地なのか幕府が測量しに行くまで知る者はいなかった
0670人間七七四年
2011/06/17(金) 02:20:57.92ID:WjnExlJJ0671人間七七四年
2011/06/17(金) 02:28:18.23ID:sALZ6gEW0672人間七七四年
2011/06/17(金) 03:02:11.00ID:weO1eS3F0673人間七七四年
2011/06/17(金) 03:29:37.04ID:JuT6AHqM公的には内外にどのような理由だと説明していたのでしょうか?
いくら戦国時代でもそれなりの正当化を図ったとは思うのですが
0675人間七七四年
2011/06/17(金) 08:37:50.46ID:MZ4vVsMu東大の中世史教授村井章介の「海から見た戦国日本」でも読んどけ。
平安末・鎌倉時代から蝦夷で和人の居住と貿易が始まり
幕閣の記録や日蓮の説法に「東夷」が登場するようになる。
フロイスの日本史にも「蝦夷島」の記述はあるし、
蝦夷島を北上すると「オランカイ人の土地」現在のロシア沿海州に着き、
「オランカイ人の地」は朝鮮北東部に接しているとされている。
0677人間七七四年
2011/06/17(金) 19:18:17.61ID:y2Wuanvb足利以降西日本の勢力 九州以外
がまだ不安定で南北?とかの動乱もあいまって、山名とかチョン大内(にせものとされる)
が反乱おこしまくる。で最後収集できないような状況になって、足利分裂しかける。
で最終的に分断地方政権みたいになったのが戦国の始まり
ないし、今川が足利分離したとき、ないし信長が本格的な全国布武
やった40〜50年?あたりが戦国の始まり
という解釈でよろしいか?
結局西日本の分断勢力と、今川分裂と、名古屋のアホな農民が始めた戦争と
かなりGDGDで応仁とかわかりにくいけど、西日本のクソが始めた戦争という解釈でOK?
元々政府、朝廷の辞令、指令なしで好き勝手にやってたのは西日本だけだよな。
そして、西日本以外の日本には全国的に武士が普及したけど、
西日本は厳密には武士でもない農民地方勢力みたいなもんだったんだよな。
で名古屋ではクーデターが乱立すると
0678人間七七四年
2011/06/17(金) 19:20:08.44ID:y2Wuanvb山名、大内を完全につぶしてれば
今川が分裂しなければ
名古屋農民が反乱おこさなければ
もっとちがってたよな。
おそらく足利政権で通貨普及とか地方分断(実質地方任せ)
とかしてたよな。
0679人間七七四年
2011/06/17(金) 19:26:39.64ID:y2Wuanvbオレは足利をやめるぞーーー
YOSHIHARU-------------------
を地でいって失敗した人
多少北条とかも絡んでくるのかな?
0681人間七七四年
2011/06/17(金) 22:48:56.76ID:n+cbfFqc義材の対抗馬の生母を殺したのは誰かを考えれば自ずから分かるだろう。
>>649
後北条が晴氏を選んだと言うよりも、後北条が三浦半島から江戸城まで制圧したことで、房総諸氏(小弓・里見など)の海上支配が揺らいだために反北条勢力と連携して東京湾岸の海上支配を回復しようとした。
近年では中世末期の利根川の本流は現在の隅田川であったという説が有力視されているから、江戸城は利根川河口にあったことになる。つまり、江戸城を支配されると東京湾の制海権は後北条が握ったのと同じ効果がある。
0686人間七七四年
2011/06/18(土) 08:17:04.10ID:ZeZmsXjo0688人間七七四年
2011/06/18(土) 09:42:57.47ID:R/h8h4Hk姓が同じというだけで平野綾が俺の嫁といい、
マイケルジャクソン級の弁護士団揃えて、結婚
しようとする奴が毎日飲んでいる薬
0689人間七七四年
2011/06/18(土) 09:53:39.53ID:AUnueU1Qマジスレしたる
通説では“戦国時代”のはじまりは応仁の乱とされているが、関東ではそれ以前から戦乱の火が上がっていたのは知ってるな?
これは私見だが、戦国という『室町幕府の権威低下と好き勝手を始めた地方領主』時代は足利義教のころ、結城合戦あたりではないかと。
0690人間七七四年
2011/06/18(土) 14:32:39.36ID:7Ga2uee40691人間七七四年
2011/06/18(土) 19:47:32.02ID:I6bm+MzQ0694人間七七四年
2011/06/18(土) 22:41:19.15ID:GheWhaVO明、朝鮮、琉球などから来日した人は誰かいませんか?
秀吉が朝鮮派兵の時に連れてきたような人は抜きだとありがたいです。
0695人間七七四年
2011/06/19(日) 00:33:49.07ID:2UirCImv蘭渓道隆ら高僧の来日は鎌倉時代まで盛んで禅宗の興隆に寄与していたけど
室町以降は見られなかったとおもう。たしか大陸では儒教が重んじられて仏教が絶賛弾圧中だった影響?
でも九州・山口の各地や東は小田原に唐人町が多く見られるので民間の渡来人は少なくなかったと思われ。
戦国時代に日本を訪ねてきた大陸人といえば
倭寇の五峰王直
灰吹法の吹大工の宗丹・慶寿
2800石で大内に仕えたとされる張忠・張思朝(張六左衛門)親子などいます
0696人間七七四年
2011/06/19(日) 01:45:23.54ID:jTPnuKZMあと、相模国主の扇谷上杉氏と関東管領・伊豆国主の山内上杉氏との調整が上手くいかなかった説もある。
そのためか、関東執事に任じられた渋川義鏡が扇谷上杉の重臣が幕府に謀反を企んだと讒言をして問題になっている。
0698人間七七四年
2011/06/19(日) 11:49:18.97ID:Ch0JmLUW0699人間七七四年
2011/06/19(日) 17:34:44.59ID:UEhqzIvK水戸徳川家では朱舜水という明の高名な儒学者がいた
0700人間七七四年
2011/06/19(日) 20:21:55.18ID:a6VpUrrs筆談?
0701人間七七四年
2011/06/19(日) 22:41:21.40ID:u/si33Uz0702人間七七四年
2011/06/20(月) 14:41:32.24ID:xWaC5SL90703人間七七四年
2011/06/20(月) 14:53:37.42ID:WxASVOQn/ 中 \
( `ハ´ ) ワタシ謎の中国人
(´__]l[__`) 珍宝アルヨ
. |__|__|
(_,,X,_)
0704人間七七四年
2011/06/20(月) 14:57:45.52ID:6sK6CohI南部の言葉をつかう中国人ではまったく言葉が通じず、結局英語で会話をしている、と
聞いたことがあります 現在でもそんなザマでは中世の中国はどうだったんでしょうか
標準語とかあったんでしょうか
0705人間七七四年
2011/06/20(月) 16:15:18.42ID:opoh//qm日本語だって明治以前はかなりの地域差があったしね
でも武家が言葉通じなかったと言うのは嘘っぽいよな
坊主あたりから京言葉とかを習っていたと思う
0706人間七七四年
2011/06/20(月) 16:36:18.62ID:HbeDwmr9武士が能狂言に熱心だったのはそういう実用的側面もある。
0707人間七七四年
2011/06/20(月) 16:49:01.86ID:Rkdpa6S1いまの沖縄県人と北海道人がお互い方言同士で喋るならそうだろうねw
中世(後漢〜唐)中国は現代中国と違って、女真的中国語が標準じゃないよ
0709人間七七四年
2011/06/20(月) 19:32:57.46ID:kvHisVOs参勤交代のおかげで江戸で流行った物は1年後に地方でも流行るという
文化伝播システムがあった時代でもある
0710人間七七四年
2011/06/20(月) 20:02:02.59ID:xxA2/r0g0711人間七七四年
2011/06/20(月) 20:06:58.75ID:HbeDwmr9江戸弁が主流。あの薩摩でも島津斉彬なんてバリッバリの江戸弁。
侍に限れば国元でも方言バリバリってのは、下級の層まで行かないと無かったのではないか?
0712人間七七四年
2011/06/20(月) 20:19:29.39ID:xxA2/r0g標準語話せても地元では使わないでしょ。ああいう感じだと思う。
江戸育ちの殿様と側近団が江戸弁であろう事は同意するけど。
0715人間七七四年
2011/06/20(月) 21:52:41.12ID:kvHisVOs言葉が通じなかったってのはさすがに無いな
0716人間七七四年
2011/06/20(月) 22:11:52.34ID:drSzZZQY文法は同じだし単語だって良く聞くと理解出来ない事はない
初めは戸惑うだろうけど少し生活していれば慣れるのは間違いない
0717人間七七四年
2011/06/21(火) 03:23:30.21ID:5aIgVBTnソースも醤油も無いが
0718人間七七四年
2011/06/21(火) 05:42:58.01ID:9WVBwI/R戦国時代は方言の弊害で困る様子が萌えるw
0719人間七七四年
2011/06/21(火) 06:08:30.19ID:iJT59+dx武家の女性だってかな言葉で手紙書いてるの読むと方言はあんまり感じないぞ。
ただ幕末には江戸育ちの藩主らは討幕に大反対だったってのがあるが。
0721人間七七四年
2011/06/21(火) 14:57:33.57ID:hmLZG5a/外国語と違い聞き取れないわけじゃないからな
0722人間七七四年
2011/06/21(火) 15:02:28.88ID:yB+5tSnwマジで外国語並み。
0723人間七七四年
2011/06/21(火) 15:25:54.98ID:iJT59+dx東京人がまったく理解できない外国レベルだぞ
ガチガチの地域語をナメたらアカンよ。
語尾だけ違う地域ならまだマシだ
0724人間七七四年
2011/06/21(火) 15:27:19.53ID:xA9ylxtT普段は信長や秀吉も「にゃ〜ぎゃ〜」喋っていたんだろうが、公式の場では武家言葉というのがあった。
今でも普段の会話言葉と公式な文書に書く文書言葉は全然違うように、しっかり使い分けていた、
たしかに発音(に・ぬ、や、ざ・だ、などなど)は地方によって様々だけど、
武家言葉で話すからしっかり通じるはずだ。
と明治の初期の言語学者が書いたものがあるよ。
0725人間七七四年
2011/06/21(火) 15:40:51.97ID:Yl9PrLaKこのくらいなら日本語として通じる。
0726人間七七四年
2011/06/21(火) 16:00:41.67ID:hmLZG5a/適当に聞いてればな、仕事で聞くのとただの雑談じゃ比較にならない
方言は所詮同一語の方言、外国語とはまったく別物
0729人間七七四年
2011/06/21(火) 20:37:41.93ID:Eq1VBXwVそれに方言は大概が古語なんだよね
だから古典好きなら直ぐに理解できる
勿論、慣れない方言だと初めは聞き取り難いけど
ゆっくり話してもらえば初めから9割方は理解できる
間違っても会話出来ないレベルではない
茨城弁なんかは固有の単語が極僅かだからかなり簡単だよ
沖縄弁あたりになるとかなり難易度高いけど
0731人間七七四年
2011/06/21(火) 22:09:26.91ID:iJT59+dx0733人間七七四年
2011/06/21(火) 22:19:33.22ID:yB+5tSnw0734人間七七四年
2011/06/22(水) 00:45:54.78ID:FY1c3s4tID:iJT59+dx ID:yB+5tSnwの言うことに賛成。
>>726 >>729 >>732は
話し相手が頑張って標準語話者にわかるように話してくれた言葉を
現地の方言だと錯覚しちゃったんだろうな。
そのうえに、「現地の言葉を理解できたおれはコミュ力高い」とか二重の勘違い起こしてるみたいだね。
0735人間七七四年
2011/06/22(水) 02:25:54.61ID:SE2LAs00方言も理解できないなんてコミュ力と言うより学力が低すぎる
どうせ地元の方言すらよく理解出来ていないのだろ?
言葉の意味を知ろうとしなければ理解出来るわけがないわな
0736人間七七四年
2011/06/22(水) 03:32:43.13ID:sudZZC3k初歩中の初歩で申し訳ないんですが、一級史料に見られる「〜申候事」とか「〜也」とかの文体の呼び方は「古文」で良いのでしょうか?そしてこれを勉強するのにお勧めの本などを教えて頂けるととても嬉しいです。どうか宜しくお願いします。
0737人間七七四年
2011/06/22(水) 04:29:51.10ID:PFNyfl+50738人間七七四年
2011/06/22(水) 04:35:04.00ID:YMj+dNYa0739人間七七四年
2011/06/22(水) 05:20:23.98ID:uuFsEBwH「ーー候」みたいな文章は候文(そうろうぶん)とも言う。読み方を勉強する手掛かりにするキーワードとしてなら
古文書の方が適切かもしれない。ちなみに俺は勉強した事無いので本は知らない。
0740人間七七四年
2011/06/22(水) 07:33:10.63ID:1YV4lkbC日本の戦国時代に表向きは禅譲ということで家臣に国を取られた大名はいますか?
0742人間七七四年
2011/06/22(水) 09:25:24.42ID:xZTKH3rJとりあえず一族内で庶流が宗家を覆し、表向きは平和裏の権力移譲、ということにしたものなら
佐竹、里見、毛利、島津などがあるな
0743人間七七四年
2011/06/22(水) 09:54:51.63ID:pqF1lfvY鍋島氏はレアケース
0744人間七七四年
2011/06/22(水) 10:41:25.91ID:Jg+rtLuS俺だけじゃなく一緒に来た人も理解出来なかったわけだが。
マジでわからん外国語レベル。
津軽の現地語とかもわからんぞ。
0747人間七七四年
2011/06/22(水) 11:11:28.70ID:D0I7wPHj0748736
2011/06/22(水) 12:30:33.36ID:sudZZC3k有り難う御座います!「候文」に「古文書」ですね。両方答えて頂けてとても助かりました。
古文書について図書館で調べてみようと思います。
本当に有り難うございました。
0750人間七七四年
2011/06/23(木) 01:30:32.55ID:0p9/h1bg1.直茂の継母=隆信実母→外戚関係
2.直茂の実母=隆信実父の妹→親戚関係
準一門としてもいいんだけど、そうすると
龍造寺との続柄が鍋島と同等な馬場や千葉も一門扱いになるので
1.のアドバンテージがある鍋島は外戚と言った
0751人間七七四年
2011/06/23(木) 02:22:06.08ID:SeSZLpmQ0752人間七七四年
2011/06/23(木) 02:46:47.71ID:0p9/h1bg馬場は父系から明らかに少弐一門
千葉は千葉一門
鍋島は龍造寺の分家が立てた家じゃない
0753人間七七四年
2011/06/23(木) 21:37:42.82ID:mZPfajcZ0754人間七七四年
2011/06/23(木) 23:12:08.03ID:eu5H9PD6筑紫惟門
筑紫広門
0755人間七七四年
2011/06/24(金) 00:29:59.35ID:zjdgER420756人間七七四年
2011/06/24(金) 02:10:33.33ID:toclH5O30757人間七七四年
2011/06/24(金) 08:13:49.98ID:LztzqLfq0758人間七七四年
2011/06/24(金) 08:29:10.74ID:FNq6u9UQ美化と言うか、時代毎に求められた価値観の違いかな。
群雄割拠、自力救済の時代と
幕府が無事を担保して生涯予備役の時代とじゃ
是とされる武士観も全く違ってくるからな。
0759人間七七四年
2011/06/24(金) 08:50:52.25ID:RTNHZ4No今川大草紙などの当時の武家被官の心得を表した本は、近世の武士道に繋がる内容と
なっている。
0761人間七七四年
2011/06/24(金) 09:13:59.31ID:RTNHZ4No「武士道」は造語だが、それまでの武士に求められた概念を新渡戸稲造がまとめたものに過ぎない。
例えば「一期一会」は井伊直弼の作った言葉だが、それ以前から茶道には一期一会概念が
存在したことは自明である。
それに鎌倉期から「侍の道」「武士の道」「男(武士のこと)の道」という言葉は存在している。
概念とそれを表す言葉の関係を逆にしてはいかん。
0762人間七七四年
2011/06/24(金) 09:19:14.77ID:csdyv8dK>「侍の道」「武士の道」
ちなみにこれらの用語の意味は「弓馬の芸」のこと。
要するに侍が身につける武芸のことしか意味していません。
精神適な意味はありません。
「男(武士のこと)の道」なんて言葉は知らんけどね。
0763人間七七四年
2011/06/24(金) 09:38:19.80ID:Ub7GnrZ/0764人間七七四年
2011/06/24(金) 09:45:41.37ID:RTNHZ4No> 「男(武士のこと)の道」なんて言葉は知らんけどね。
おまえ古い文献にまともにあたったことないだろ?「おとこの道」って言葉は
室町〜戦国の文献に頻発する語句だぞ?
0765人間七七四年
2011/06/24(金) 10:02:40.17ID:LztzqLfq0766人間七七四年
2011/06/24(金) 11:12:04.36ID:+fy3qX9A葉隠の有名な一節も知らんのか
0767人間七七四年
2011/06/24(金) 11:32:34.71ID:LztzqLfq安くて美味いことで九州では人気があっためん類製造メーカーの「はがくれ」(本社・佐賀県多久市)は
「腐敗臭がする。カビが生えている」とクレームをしたキチガイ女のせいで10万食を自主回収することになり
その影響で倒産した。
なお、後に防腐用の酢をキチガイ女が勘違いしていたことが判明した。
0768人間七七四年
2011/06/24(金) 12:14:30.54ID:kItyo8g5俺はマンナンの昔のこんにゃくゼリー食べたいよ。
これは岐阜のこんにゃくゼリーも作ってるメーカーを助けるためだって言うしな
0770人間七七四年
2011/06/24(金) 13:53:00.97ID:ySC5L9Ux0771人間七七四年
2011/06/24(金) 14:03:15.98ID:kItyo8g5そもそも鎌倉幕府は悪政をやってなかったのに突然ひっくり返ったと言われてるからな。
0772人間七七四年
2011/06/24(金) 14:19:56.60ID:7mXZCbzZ思想は歴史的な連続性があるから
いつ始まったとか断言できないのも多いし
「武士道」って言葉の誕生を武士道の誕生と同一視もできないし
0773人間七七四年
2011/06/24(金) 15:02:50.62ID:kItyo8g50774人間七七四年
2011/06/25(土) 08:46:11.09ID:XpfFOQun武士道とは大江さんが闘戦経を書いてからでしょうに
これは大陸の考え方を否定する事から始まる書物
他国から武士道が伝わったと言うのは納得できん
0775人間七七四年
2011/06/25(土) 12:05:07.58ID:+wPy8F180776人間七七四年
2011/06/25(土) 15:24:55.56ID:XpfFOQun0777人間七七四年
2011/06/25(土) 15:53:06.97ID:jLRe8hfP57年以降の正親町天皇時代は
上洛した織田関係者だけでなく献金に対して任官されやすくなっていますが、
これは大口スポンサーの大内義隆が没して
献金が一時激減して財務に困っていたことも関係あるのでしょうか?
0779人間七七四年
2011/06/25(土) 17:20:29.08ID:wHtM+evY>>>774
>無い無い、江戸前期まで常に進んでいた大陸から模倣し続けたのが日本なんだから
常にでは無いな。菅原道真は、もはや大陸から学ぶものは何も無いと遣唐使を廃止した。
0780人間七七四年
2011/06/25(土) 18:38:41.56ID:aK88c3OVわざわざ国が送る必要は無くなり遣唐使を廃止した
そもそも、製錬も陶窯も建築も牧畜も数学も天文学も全然学びきれなくて
技術的なことで学べたのは、養蚕と稲作くらい。冶金は独自進化
0781人間七七四年
2011/06/25(土) 18:40:44.82ID:fjgmS3+n0782人間七七四年
2011/06/25(土) 18:41:54.55ID:ldgDke1A侍って意味でなら江戸時代の日本だけしかいなかったけど
0786人間七七四年
2011/06/25(土) 20:34:06.21ID:/92/mfY+つわもの 武器を扱う人
もののふ 物部氏
武士という言葉は何時頃から、誰が使い始めたのでしょう?
0787人間七七四年
2011/06/25(土) 20:48:29.27ID:+wPy8F18養老5年(721)正月・元正天皇詔「文人と武士は国家が重んじるものである」
0788人間七七四年
2011/06/25(土) 23:31:29.67ID:aK88c3OV古い教科書とか学説は、裏付け無しになんとなくそう思う
って理由で書いてた時代だから、間違い多いよ
0789人間七七四年
2011/06/26(日) 01:14:04.70ID:zvY6UFvy鎌倉幕府は1185年に成立したんじゃないか
って書いてある教科書や資料集もあるしなぁ
歴史教育にちょっとしたカルチャーギャップを感じる
0790人間七七四年
2011/06/26(日) 01:36:12.45ID:2NWuGSlx鎖国=完全封鎖みたいな事言ってる人いるけど、それこそ何処でそんな話し聞いたのかと不思議だわ
0791人間七七四年
2011/06/26(日) 03:03:42.53ID:zRmNcHvLアポロが月に行っていない(実際には偽装工作をする方が費用が掛かる)のと同じレベルの話
0792人間七七四年
2011/06/26(日) 03:16:57.07ID:+dE472sn別スレの過去ログを調べてみたけど当時の朝廷の収入について。
御料所の横領が相次いだせいでその収入は1割程度まで下がっていたらしい。
室町後期の皇室御収入(1521〜1569)の平均収入額は御料所620貫文、禁裏御修理費125貫文、合計で750貫文ほど
100疋=1貫文=1石=5万円〜10万
とすると低く見積もると4000万円弱くらいしか収入がなかったことになる。
幕府が経済面の援助を行っていたが幕府の権威が失墜すると援助が望めなくなり、即位式が20年も遅れることとなった。
後柏原天皇 1500践祚→1521即位
それで後奈良天皇のころから諸侯の献金に依存するようになる。
天文の内裏修繕費(織田信秀4000貫 今川義元500貫 麻生興益(大内被官)300貫 本願寺100貫 阿蘇惟豊100貫)
後奈良天皇 1526践祚→1536即位(大内義隆2240貫 朝倉義景100貫 長尾為景100貫 土岐頼芸10貫)
正親町天皇 1557践祚→1560即位(毛利元就2000貫 朝倉義景100貫 三好長慶100貫 北畠具教20貫)
一見すると大内の穴埋めを毛利が行なっているので問題無いように見えるが
即位式以外にも事あるごとに朝廷へ献金をしていた大内義隆の失脚はダメージが大きかった。
献金を行うには幕府や公卿の仲介を必要とし、そういった関係者へも金が廻っていたため
関係者が叙任のために必死に動いたものの後奈良天皇が却下する場面も見られたが、
正親町天皇時代になるとなりふり構わず謝礼を期待して官位叙任の手紙を書いている。
官位濫授の原因は財政的に厳しいことに加えてバランス面も考慮していただきたい。
守護代や豪族クラスにも守護以上の官位を叙任してしまうと守護の献金に対しても極官以上を叙任する必要が出てくる。
よって全体的に従来よりも官位は上昇し続けることになります。
なお、多くの大名は御料所の税を滞納した状態で献金して恩を売っていることに注意。
なので献金が多い=勤皇というわけではありません。
0794人間七七四年
2011/06/27(月) 00:59:31.82ID:OESIUM2D尾張兵一人に対して三河兵三人で互角なんて言われていたけど
織田信秀にとって下克上で尾張を統一するよりも
松平の三河へ侵攻したほうが楽だったのでしょうか?
0795人間七七四年
2011/06/27(月) 01:03:03.78ID:je93VRw70796人間七七四年
2011/06/27(月) 04:31:22.12ID:z5QBOOVK0797人間七七四年
2011/06/27(月) 12:45:22.48ID:5OzUQKnsそもそも西三河を纏め上げていた松平清康が、織田信秀勢力圏へも影響力を拡大
していたからな。信秀としては防衛上も戦わざるをえない。それに西三河は清康によって
ある程度まとまったとはいえまだまだ不安定。
0798人間七七四年
2011/06/27(月) 13:12:25.14ID:1EFRjjUH徳川家康、伊達政宗のように、姓+諱で言うことが多いと思います。
ただ、中には
大谷刑部、古田織部のように官位名で言ったり、
竹中半兵衛、服部半蔵のように通称で言ったりした方が
一般的な人もいます。
大河ドラマなんて、いつも不自然なくらい諱で呼び合ってるのに、
黒田官兵衛だけ通称で呼んでたりします。
この違いはだたーこから来るのでしょうか?
0799人間七七四年
2011/06/27(月) 14:10:45.97ID:CMJF3mP/たぶん講談とか歌舞伎とかに由来する慣習だと思います。
0800人間七七四年
2011/06/27(月) 14:22:20.35ID:s/hWvxZF@一国一城令で取りつぶした後、神社に寄進、戦で死んだ人の魂を鎮める為に立てられた。
A落城、破壊の後、以下同文。
小さな城(砦か)は人の行き来がしにくい、生活に適さない場所に造られることが多かった。
しかも死者の魂の集まるところは人々は敬遠。自然に寺社が管理するようになった。
現代でも、宅地・マンションなんかは地鎮祭やお祓いをする。
そんな感じかな。
0803人間七七四年
2011/06/28(火) 23:38:39.63ID:+rkPqNCv官兵衞と半兵衞は。他にそういう人いるかな
後藤又兵衛、時代が違うけど柳生十兵衛あたり?
0804人間七七四年
2011/06/28(火) 23:53:06.87ID:wxLu71tG通称小次郎。伊達政宗の実弟で小田原の役の際兄に殺されたといわれる。
政道という諱も死後200年以上経ってつけられたと思われる(生前の資料に政道の名が無い)。
0806人間七七四年
2011/06/29(水) 00:47:34.05ID:zOkQz1tb0807人間七七四年
2011/06/29(水) 00:59:58.67ID:sBD2NjZy0808人間七七四年
2011/06/29(水) 01:45:11.08ID:yk+nYHkh毛利小平太
山中鹿介
0809人間七七四年
2011/06/29(水) 03:33:02.02ID:N31pvr5e0812人間七七四年
2011/06/29(水) 15:38:18.31ID:HDL767LR右近・左近は何となく意味が解る(将棋の飛車角みたいな両翼の重鎮)
黒田「官兵衞」というのは何か意味があるんだろうか?
幼少からの名前の変遷でも出てこないし、なぜ官兵衞と呼ばれたんだろう?
0813人間七七四年
2011/06/29(水) 16:25:23.87ID:9UH6PoVU兵衛の官人だから官兵衛
0814人間七七四年
2011/06/29(水) 16:42:39.25ID:yk+nYHkh0816人間七七四年
2011/06/29(水) 21:21:26.22ID:bEahCG3x0818人間七七四年
2011/06/29(水) 21:44:21.76ID:LcRnVXXZ初めて知った
0819人間七七四年
2011/06/29(水) 23:20:19.94ID:Sw6kg4hL官兵衛のことをカンピョウエと書いてあったとか
ただ今はもうみんなカンベエと言ってるのでカンピョウエとは言いづらい
とくに詳しい人にいうと、そんなのみんな知ってるよって怒られそうで怖い
0821人間七七四年
2011/06/30(木) 00:05:10.79ID:Mcry97v50822812
2011/07/01(金) 14:41:33.38ID:KKBeCU4P日本語は読み方がいろいろあって、昔の名はほんとの発音が解らないものが多い。
宣教師は耳で聞いた通りに書いたんだと思うから、
「かんぴょうえ」と呼ばれていたんだと自分のなかでは納得しました。
0823人間七七四年
2011/07/01(金) 17:50:27.86ID:KX1RcR6S竹中半兵衛も「はんのひょうえ」
仙石さんもゴンベエではなく「ごんのひょうえ」
0824人間七七四年
2011/07/01(金) 19:19:21.71ID:JTgzC9mD文語じゃ濁音・半濁音は表現しないんだから
0825人間七七四年
2011/07/01(金) 20:13:54.10ID:lNu7SJeC0826人間七七四年
2011/07/01(金) 22:00:49.98ID:tg44zzBZ0827人間七七四年
2011/07/01(金) 23:19:55.47ID:lNu7SJeCじゃない?ごんべえで笑われた。
0828人間七七四年
2011/07/01(金) 23:30:38.25ID:vQQjgNYh0829人間七七四年
2011/07/02(土) 00:37:21.23ID:yqOGU18r0830人間七七四年
2011/07/02(土) 04:12:44.15ID:mOQG8ztO0831人間七七四年
2011/07/02(土) 09:08:30.99ID:rQdU4OIq自分は、高校生向けの日本史図説ぐらいしか思いつかないのですが。
よろしくご教示ください
0833人間七七四年
2011/07/02(土) 10:23:32.87ID:BSgZN1rs0834人間七七四年
2011/07/02(土) 10:44:20.73ID:12QBTWzY資料って、戦国時代の全国の街道を網羅的に紹介したような本があるかってこと?
そういう本はない、ですね
あったら欲しいしw
地域別ならいくつか手に取りやすいものが。
斎藤慎一『中世を道から読む』 これは関東の道限定
榎原 雅治『中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ』
論文の形なら沢山ありますが、いずれにしろ中世の街道についてははっきりしない部分が非常に多いです
0835人間七七四年
2011/07/02(土) 15:01:56.03ID:PCpVtptZ山内一豊、吉川元春、柴田勝家も。
0836人間七七四年
2011/07/02(土) 15:18:24.30ID:IlHjBDrJ県別 全国古街道事典 東日本編
http://www.tokyodoshuppan.com/book/b79634.html
県別 全国古街道事典 西日本編
http://www.tokyodoshuppan.com/book/b79635.html
0837人間七七四年
2011/07/02(土) 15:38:37.97ID:Wx2sJ4+Pそれ江戸時代のものじゃないのか?
0838人間七七四年
2011/07/02(土) 16:55:19.14ID:C0Z+DDAi飛騨街道みたい桃山時代にルートが変わってるところもあるけど
0839人間七七四年
2011/07/02(土) 17:56:55.10ID:i4w0EXKr出てくることもありますね へー昔はここが国道?だったんだーとびっくりします
今では信じられないほど田舎を走ってます
0840人間七七四年
2011/07/02(土) 21:40:37.05ID:zPD/hSxK何かないでしょうか?
旅行ガイドブックを読んでも、そのものズバリ書かれているものがなかなかなくてもどかしいです。
0841人間七七四年
2011/07/02(土) 21:50:13.14ID:Wx2sJ4+P上越、中越、下越のどのエリアか教えてくれないと何とも言えないよ。
0842人間七七四年
2011/07/02(土) 21:55:20.27ID:zPD/hSxKたぶん新潟市あたりだと思います。
佐渡には行けないでしょう。
0843人間七七四年
2011/07/02(土) 22:26:38.12ID:EOhRLcxB0844人間七七四年
2011/07/02(土) 23:16:25.97ID:5gEfy7Vu0845人間七七四年
2011/07/02(土) 23:46:34.64ID:v/aCH3Ne珍しくて見所になってる。
0846人間七七四年
2011/07/02(土) 23:54:19.85ID:EOhRLcxB山城も沢山あるが素人にはただの藪にしか見えないのが難しい
0847人間七七四年
2011/07/03(日) 00:23:04.58ID:ByKWXYm8西と東じゃ別の国ってかんじじゃない?
0848人間七七四年
2011/07/03(日) 11:17:30.74ID:txzUFUpd0849人間七七四年
2011/07/03(日) 12:34:59.56ID:2MfhYmpO直江兼続の像でも見てくれば?
駐車場 約20台
長岡駅大手口バス停12番線よりバスに乗車
与板「仲町バス停」下車 徒歩7分らしい。
※長岡城は遺構を破壊尽くした後に建てたものなので見なくていい。
それか栃尾城&秋葉公園の上杉謙信公の銅像
こっちもたぶん長岡駅前からのバスだと思う。
こっちは資料館無さそうだからバスも極端に少ないだろうなぁ。
まぁ所謂、15歳の謙信が兄によって最前線の敵地ど真ん中の栃尾城へ派遣され
敵方が「長尾の小倅ごとき何するものぞ!瞬殺してくれるわw」な状況で
栃尾城を拠点に峻烈な戦いをした謙信に中条藤資が大ファンになったとか・・・
0850人間七七四年
2011/07/03(日) 17:32:56.68ID:glfxrlwZ0851人間七七四年
2011/07/04(月) 19:35:00.44ID:tUdLz6+Q石垣好きなのでお城をメインに回ってみようと思います。
0852人間七七四年
2011/07/04(月) 22:33:23.54ID:n91DIM4T0853人間七七四年
2011/07/04(月) 22:37:05.49ID:jddVtIYZというか山城はまず、当時は樹木が完全に伐採された状態だったことを考える
0854人間七七四年
2011/07/05(火) 01:50:21.84ID:KTEF+r8+こいつは遊び半分に登っただけとわかっても見せしめかなにかのために念のため
殺しちゃうだろうなあ ほんとにすぐ死刑の時代だもの・・・
0855人間七七四年
2011/07/05(火) 13:26:35.36ID:FwKziYIg木をを伐採するとか言う人よく見かけるけど、どこから出て来た話しなの?
単に現代の見易く縄張りを書いた復元図を見て誰かが言い出しただけとしか思えない
0856人間七七四年
2011/07/05(火) 13:45:47.78ID:O34glHQZ0857人間七七四年
2011/07/05(火) 14:18:32.21ID:FwKziYIg古絵図を見ると普通に木が生えている
幕末の写真を見るとかなり木が鬱蒼と繁っている
縄張りについて書かれている書物にも城内に木を植える事が書かれている
などによって山城には木があるのが普通だと思っていたのだが
0858人間七七四年
2011/07/05(火) 14:29:36.84ID:O34glHQZ250年たってる幕末が参考になるかどうか。春日山城だと昭和に植林されるまで禿山だな。
0859人間七七四年
2011/07/05(火) 15:11:34.12ID:dq9Br3wa0860人間七七四年
2011/07/05(火) 15:41:53.95ID:kyAlX4Cf守備側は切り取って弓や鉄砲の射撃の邪魔にならないようにする
篭城に備えて松や梅を植えたのは曲輪の中
0861人間七七四年
2011/07/05(火) 15:45:08.42ID:KTEF+r8+よく今は木がいっぱいですけど当時はなかったんですよってのはよく見る
0864人間七七四年
2011/07/05(火) 16:50:50.03ID:VlR1YjFk今は東北大の植物園として残ってる
0865人間七七四年
2011/07/05(火) 17:20:04.18ID:pfyvOkCUそれともある程度備蓄されていたのでしょうか?
0866人間七七四年
2011/07/05(火) 17:46:16.31ID:aaZO0zT1石や木はともかくウンコはもう使う直前くらいだな。普通は伝染病予防のため、城内で出された糞便は
毎日遠くの廃棄場まで持って行って捨てられる。
0867人間七七四年
2011/07/05(火) 17:50:33.83ID:6NRi36LW0868人間七七四年
2011/07/05(火) 18:11:36.33ID:R+iwLLxCttp://www.geocities.jp/vrmurakami/nazo/nazo7-1.html
上杉博物館蔵の村上城絵図
慶長年間に描かれた『唯一』の城の絵図で
大坂の陣以前に描かれた城の絵図は、これ以外現存していない。
『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一(2011)
p.F [城の暴風雨対策]
「城の敵は攻め寄せる敵の軍隊だけではなかった。初夏梅雨時の長雨、あるいは秋の暴風雨などがある。
これによって城が崩落してしまう危険にさらされていた。
この際に城を守るために、貯水池や排水設備が必要であるが、自然の樹木や草類もその役割を担った。
これらによって城の安全が確保されていたので、郭平面や展望台の櫓周辺は除いて樹木は自然のままに生い茂らせていた。
城郭に樹木無し、城郭の整備には樹木の皆伐が必要などと説くものも少なくないが、
城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
0870人間七七四年
2011/07/05(火) 18:16:00.04ID:wONh9to2定期的にメンテしろっていう労役を広く割り当ててるけど
0871人間七七四年
2011/07/05(火) 18:20:45.27ID:aaZO0zT1http://www.geocities.jp/vrmurakami/nazo/images/nazo7-1.jpg
どう見ても樹木は一部だけ残して後は丸裸、にしか見えないが。
0872人間七七四年
2011/07/05(火) 18:46:39.85ID:fQbKCMS6生木はちょとやそっとじゃ燃えない
だいたい、城の中に火を付けられるようになったら木が云々以前に終わってる
>>871
どうみてもいっぱい生えてるやんw
生えてないの崖と平作地だけだし
0873人間七七四年
2011/07/05(火) 18:58:50.16ID:aaZO0zT1> どうみてもいっぱい生えてるやんw
主観の問題だとも思うが、俺には最低限だけ残してあとは丸裸、にしか見えん。
あと君の出したこれだが
> 『関東の名城を歩く 北関東編』 峰岸純夫・齋藤慎一(2011)
> p.F [城の暴風雨対策]
> 「城の敵は攻め寄せる敵の軍隊だけではなかった。初夏梅雨時の長雨、あるいは秋の暴風雨などがある。
> これによって城が崩落してしまう危険にさらされていた。
> この際に城を守るために、貯水池や排水設備が必要であるが、自然の樹木や草類もその役割を担った。
> これらによって城の安全が確保されていたので、郭平面や展望台の櫓周辺は除いて樹木は自然のままに生い茂らせていた。
> 城郭に樹木無し、城郭の整備には樹木の皆伐が必要などと説くものも少なくないが、
> 城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
当時の城というものが、戦略、戦術の必要性によって常に増改築や大規模な改造がの行われていた
物であると言うことをこの筆者は理解していないんじゃないか?
戦国期の城はあくまで戦略、戦術上、あるいは政治的要因で常に変化が求められる構造物で、
近世の城のような永続性は二の次だ。だから毎年毎年城のメンテが行われている。
> 城郭に樹木無しというのは自然環境を理解しない者の迷信である。」
これこそ、戦国期の城が自然と共存していたなどというとんでもない迷信だわ。
城は大規模な自然破壊以外の何者でもないよ。
0874人間七七四年
2011/07/05(火) 19:23:02.12ID:ZW+LrntB0875人間七七四年
2011/07/05(火) 20:53:10.28ID:fQbKCMS60876人間七七四年
2011/07/05(火) 21:10:59.41ID:ZW+LrntB0878人間七七四年
2011/07/07(木) 21:14:04.35ID:vy+T4DOk0879人間七七四年
2011/07/07(木) 23:02:09.31ID:BpgdNro8この場合、名乗れるのは信繁の子供ら等
信繁が真田家の当主になれば他の親族も名乗れる可能性はある
0880人間七七四年
2011/07/08(金) 10:37:22.77ID:K7A2lEAM豊臣氏がごく短期間に滅んでしまったためにどういう扱いをしたのか全体的に良く解らん。
0881人間七七四年
2011/07/08(金) 21:23:41.38ID:bxfggVPw0882人間七七四年
2011/07/08(金) 22:20:57.14ID:VYQkxJe3or
豊臣信繁 どっちが清海入道?
0884人間七七四年
2011/07/11(月) 09:17:31.20ID:NbW9OCVH0885人間七七四年
2011/07/11(月) 09:37:19.88ID:y814LiCcそれを雑兵と呼ぶかは微妙だが
0886人間七七四年
2011/07/11(月) 10:35:30.70ID:B67hnvIS0887人間七七四年
2011/07/12(火) 19:17:35.38ID:fYksskgS0888人間七七四年
2011/07/12(火) 20:27:24.40ID:T9GvPwmoただし、そういった武士の太刀持ちで雑兵が持っている事もあるし、
刀身の根元から紐で巻いて握る部分を長くして扱いやすくした「中巻野太刀」なんかは
技量の低い者でも簡単に扱える上に威力も高かったので、雑兵にも使わせた例は多い。
また、徒歩の雑兵が馬の足を掃うのにも威力を発揮したようだ。
0889人間七七四年
2011/07/14(木) 08:52:10.02ID:ChVqXCdf「織田信長の死から羽柴秀吉の全国制覇の間」って
助教授が言ってたのですが、当たってますか?
0890人間七七四年
2011/07/14(木) 11:30:31.79ID:R/XGHchM秀吉の日本統一後は、身分が安定化したと思われる。
しかし、家康と三河州の下克上はあったかな。
主家の豊臣家を滅ぼしたわけだから・・・
0891人間七七四年
2011/07/14(木) 12:15:14.03ID:OElQQwxw織田>豊臣 旧織田勢力圏を簒奪
豊臣>徳川 全国政権を簒奪
織田の将軍追放後の勢力拡大や、
豊臣の全国統一戦は普通は下克上に含まれず
全国政権を簒奪した唯一の勢力である徳川が最大だと思うが
その助教授が下克上の定義をどのように設定したかによるな。
0892人間七七四年
2011/07/14(木) 12:48:44.42ID:hlh+l9RM戦国時代最大の親子喧嘩はなんなのでしょうか?
0893人間七七四年
2011/07/14(木) 13:07:49.61ID:9zcmEpyB伊達親子だろうな
0895人間七七四年
2011/07/14(木) 14:37:36.18ID:ZWItgn7k徳川は簒奪ではなく「別の公儀」を打ち立てたと見るべき。
少なくとも征夷大将軍就任と共に豊臣公儀から離脱している。
簒奪というのは鎌倉北条氏が事実上鎌倉幕府を乗っ取ったとか、ああいうことを言う。
0896人間七七四年
2011/07/14(木) 14:51:15.97ID:YIkMt2LD劉邦は元々項羽の下にいたけど
独立して覇権を争っても下克上とは言わない
0898人間七七四年
2011/07/14(木) 15:19:52.87ID:sSsId1lJいや、主家を差し置いて別な公儀を打ち立てる事自体が下剋上だし
あくまで豊臣政権下で将軍職を全うするならともかく、豊臣氏から政権を奪ったわけだから完膚なきにまで簒奪だよ
そもそも幕府自体が簒奪だし
0899人間七七四年
2011/07/14(木) 15:27:58.35ID:8McqVbLg0902人間七七四年
2011/07/14(木) 15:35:56.80ID:ZWItgn7k下克上と簒奪は別だろ。徳川公儀は豊臣公儀の、全国支配のために重要だった蔵入地や
それを運営する奉行などの支配システムをほとんど引き継いでおらん。
関ケ原とその後の戦後処理の結果豊臣家を凌駕する権威を持つに至った家康が、
自己の権威権力を体制化したものと考えるべきだと思うよ?
簒奪というなら、室町幕府システムを濃厚に引き継いだ信長こそふさわしいな。
0903人間七七四年
2011/07/14(木) 15:37:29.85ID:pJ77q0Va秀吉に従った時点で家臣も同然。
しかも秀頼を後見し守り立てていく約定までしてるのが家康
0904人間七七四年
2011/07/14(木) 15:42:55.57ID:ZWItgn7k豊臣公儀への臣従と豊臣家中への参加は別問題でしょ。
家康の臣従はあくまで豊臣公儀への臣従の形だった。
それに実際問題として家康は関ヶ原後、将軍就任以後でも官位昇進などで秀頼を守り立てている。
秀頼と対決したのは、二条城会見で秀頼は徳川公儀に臣従したにもかかわらず、秀頼が明確に
徳川公儀に反逆したためだよ。
0905人間七七四年
2011/07/14(木) 16:11:13.49ID:YIkMt2LD秀吉の天下に従っただけで、豊臣家に臣従したわけじゃない
豊臣家に天下を担う力量が無いなら、徳川家が天下を望んでも簒奪とは言わない
0906人間七七四年
2011/07/14(木) 16:17:56.60ID:OElQQwxw0907人間七七四年
2011/07/14(木) 16:22:47.94ID:JB7b8JxWたぶん家臣の意味をわかってない人がいるに3ドゥカート
0908人間七七四年
2011/07/14(木) 16:25:35.79ID:WX4J39LJ0909人間七七四年
2011/07/14(木) 16:36:09.69ID:JzfQhjyu大嘘つくなよ
豊臣政権の役職について、城下に屋敷を貰い、人質を差出し、豊臣政権の発給文書に書名している人間が家臣じゃないなら
少なくとも日本に主従関係は存在しなくなる
ちなみに秀頼に仕える事もハッキリと署名しているから秀頼との主従も成立している
そして正式に臣下から抜ける事はしなかった
0910人間七七四年
2011/07/14(木) 18:09:27.47ID:YIkMt2LD鎌倉時代以来、朝廷から役職を貰った封建領主は五万といるが当然主従関係にはない
城下に屋敷を作っただけで、外国の一時滞在の使節も城下に屋敷を貰う事はあった、況して家康は住んですら無い
秀吉は家康に人質を差出したから家康の家臣である事は明白である(キリッ
豊臣家としての発給文書に家康が署名した事なんて無いよね
0911人間七七四年
2011/07/14(木) 18:23:31.32ID:pJ77q0Va新たに関東を給付された分際で
家臣じゃないとか負け惜しみ過ぎてワロタw
0912人間七七四年
2011/07/14(木) 18:59:39.32ID:SvlO4iBu0913人間七七四年
2011/07/14(木) 19:38:22.93ID:9zcmEpyBそんな論法が成立するなら江戸幕府の外様大名はみんな家康の家臣じゃねぇじゃん。家康の家臣は譜代だけ
0914人間七七四年
2011/07/14(木) 19:43:36.62ID:aVAR+d05ここは質問をするスレで議論する場所じゃない。よそで遊べ。
0915人間七七四年
2011/07/14(木) 20:03:27.44ID:8yI+EB2Rアホか
日の本に朝廷と主従関係にない統治者などいない
主に統治の許可を得る為に役職を貰っていたのだから
朝廷の臣下でないのなら役職など何の意味もないし貰う必要性など全くない
外国人は朝廷にも幕府にも属さない者だから日本の法制にはとらわれる必要がなく全く関係ない
秀吉が家康のもとに母を送ったのは「証人」とする為だ
その証拠に家康が大坂へ登った後は秀吉のもとへ帰っている
家康が伏見屋敷、向島、伏見城、大坂城にいた事も知らないのか?
あれだけ大事件が多発した家康の屋敷も知らないとはいくらなんでも無知過ぎるだろう
文禄2年7月12日付の起請文(毛利家文書)で家康は秀頼への「御奉公」と豊臣家の法令に従って坂東の仕置をする事を誓っている
文禄2年8月3日には五ヶ条の御掟が布告され五大老の一人として家康も署名している(加藤家文書)
慶長3年8月5日付の起請文でも秀頼への「御奉公」と豊臣家の法令に従う旨を誓っている(武家事記)
0916人間七七四年
2011/07/14(木) 20:29:42.36ID:8yI+EB2R>外国人は朝廷にも幕府にも属さない者だから日本の法制にはとらわれる必要がなく全く関係ない
これは間違い
訂正しておく
外国人だろうと何だろうと「当主」が伺候し城下に屋敷を貰えば臣従した事を意味する
使者とかは関係ない
徳川も使者だけが大坂や伏見に上って家康は動かなかったと言うなら臣従ではないが
0918人間七七四年
2011/07/14(木) 20:43:00.16ID:ZcwG2yGW0919人間七七四年
2011/07/14(木) 21:26:52.12ID:zowYkuC1おいおい、電波過ぎるぞ。封建されるのは主従関係が建前だろう。
封建の枠外に居るんなら家臣じゃないけどさ。
0920人間七七四年
2011/07/14(木) 21:34:05.99ID:pitDV4c0家中の人間でないものは家臣には含まない
公儀の下についている外様の大名は公儀の手下、あるいは部下とする方が妥当
0921人間七七四年
2011/07/14(木) 21:39:42.27ID:SvlO4iBu見返りを負わない封建には、冊封も含まれる
>>919的には唐帝国の領国は羈縻州を遥かに超え、冊封王侯を含み
日本から東南アジアの多くを含み更にトゥーラーンから中央アジアをぶち抜いて
カスピ海までが唐の領国となる。アホか
0922人間七七四年
2011/07/14(木) 22:00:17.30ID:JB7b8JxW通りすがりに質問スンナwww
家臣じゃないといいたい人のは譜代じゃないからって意味だろ?
たまにいるんだ信長家臣秀吉、豊臣家臣福島なんかを家臣じゃないって否定する人がね
0924人間七七四年
2011/07/14(木) 23:41:48.15ID:aVAR+d05それ以前、日本人は自分たちの体制が封建というものだとは考えてもいなかった。
0925人間七七四年
2011/07/14(木) 23:42:23.71ID:OElQQwxw0926人間七七四年
2011/07/14(木) 23:49:03.67ID:38NAUjDg0927人間七七四年
2011/07/14(木) 23:56:24.86ID:SvlO4iBu封建制は曖昧模糊とした、というか出自が色々な単語に対して全部同じ訳当てちゃったアホ語だからな
実際問題、江戸幕府の封建制は羈縻と冊封の中間くらいに分離的
というわけだから、いい加減関ヶ原スレに帰れ
0928人間七七四年
2011/07/15(金) 00:54:22.59ID:uXxYvJUT質問スレで議論すんな
0929人間七七四年
2011/07/15(金) 10:46:51.18ID:P/Yl3HFk五大老が秀吉から家臣扱いされてたのは事実じゃねぇか。
0930人間七七四年
2011/07/15(金) 11:20:26.51ID:kURujalb秀次と家康は秀吉の命で秀吉が会津から帰国後も
奥羽仕置きをしてるんだが
これは秀吉の命令じゃなかったのか?
しかも三河・遠江・駿河・信濃・甲斐を没収されて
泣き入れている最中で関東の経営もさせてもらえないうちに。
しかもその後、まもなく今度は秀吉の命で
政宗の居城予定の岩出山城の築城まで家康はさせられているのに。
0931人間七七四年
2011/07/15(金) 11:32:29.90ID:w4WKCjbmお前のID変えながら珍文を書く芸には飽き飽きなんだよ。
巣に帰れ。
0932人間七七四年
2011/07/15(金) 13:13:52.85ID:q2Fq7lRt0933人間七七四年
2011/07/15(金) 13:38:58.39ID:P/Yl3HFk0934人間七七四年
2011/07/15(金) 18:49:56.10ID:PjJ8UXTb駿府城の天守は石垣の上でなく、法隆寺のように礎石の上に建っていたというのは事実でしょうか?
0935人間七七四年
2011/07/15(金) 19:39:22.79ID:yN9ukKkHhttp://d.hatena.ne.jp/tateita/20100623/1277292980
0936人間七七四年
2011/07/16(土) 22:17:54.05ID:/GPVMPyy0938人間七七四年
2011/07/16(土) 22:49:16.07ID:/GPVMPyyありがとうございます。
想像なんですけど、信長や秀吉なんかは、ちゃんと金を払ってるイメージあるんですけど、例えば勝頼が築城した新府城なんかは金もろくに払わず、人夫に強制労働させてるような気がします。
中央、地方の大名関係なく賃金は似たようなものだったのですか?
0939人間七七四年
2011/07/16(土) 22:58:32.45ID:f/wwxMmH> 想像なんですけど、信長や秀吉なんかは、ちゃんと金を払ってるイメージあるんですけど、例えば勝頼が築城した新府城なんかは金もろくに払わず、人夫に強制労働させてるような気がします。
想像に過ぎない。信長も秀吉も軍役として支配下の武士や村落に人員の供出も含めて
負担させている。
信長の安土城は近江全域の村落に過大な軍役、夫役をかけ、そのため民衆は大変苦労した。
0940人間七七四年
2011/07/16(土) 23:04:58.19ID:/GPVMPyyそうなんですか。
大名自身はお金は払ってないということですね。
築城好きの秀吉はさぞ疎まれたことでしょう…
ありがとうございました
0941人間七七四年
2011/07/17(日) 00:52:52.92ID:39kboqp6特に豊臣大坂城なんて石垣レベルまで一度完璧に破壊した後に
もう一度作り直しさせてる。
0943人間七七四年
2011/07/17(日) 07:17:04.46ID:xsEKnSnK金を払っていないうより、肉体労働で税金を支払わせていたというのが実像かも。
余談だけど、中国の戦国時代では犯罪者は死刑にならなくても死ぬまで国のために兵士として動員されるか、公共工事に動員されていたそうな。
0944人間七七四年
2011/07/17(日) 09:30:52.41ID:n5dQDl6B0945人間七七四年
2011/07/17(日) 10:46:15.40ID:39kboqp6築城と治水を必死にやるのは本来の目的に添っている。
0946人間七七四年
2011/07/17(日) 10:48:04.69ID:be25rEQ+0947人間七七四年
2011/07/17(日) 11:16:47.89ID:xW9Bj6Vg太閤堤とて家忠日記を見ると徳川家が作ったようだし
0948人間七七四年
2011/07/17(日) 11:28:05.43ID:Lw7gVm/Z治水経験は豊富にあるだろ。
そもそも琵琶湖のある長浜城主でいた期間も長い。
田畑を切り開き検地を進めるには
治水はセットだからな。
0949人間七七四年
2011/07/17(日) 11:31:14.12ID:xW9Bj6Vgやっても築城のついでという感じで
0950人間七七四年
2011/07/17(日) 11:37:14.80ID:39kboqp6豊臣政権の吏僚で三成や小西らの派閥にいて武断派から憎まれていた
寺沢広高は松浦川の流路変更の治水や
暴風林の植林保護をして現在の虹の松原を残してるし
清正も治水の名人だぞ。
豊臣政権の人材ってのは治水に明るいやつらが多い。
0951人間七七四年
2011/07/17(日) 11:46:41.37ID:xW9Bj6Vg松浦川も唐津築城の一環だろうし、清正堤も熊本築城の一環
もちろん技術はあったのだろうが、少なくとも秀吉に治水や利水「のみ」を
主眼とした工事を行う考えは希薄だったかと
0952人間七七四年
2011/07/17(日) 12:48:08.90ID:Lw7gVm/Zどれを欠けても人は集まってこない。
0954人間七七四年
2011/07/17(日) 13:15:08.81ID:FgBd5tMT>>943
死刑一歩手前の場合は、官奴にされて死ぬまで懲役
そこまで行かない罪だと辺境労働5年が一番重い、あとは出身地方で懲役4年とか
0955人間七七四年
2011/07/17(日) 13:19:35.61ID:39kboqp60957人間七七四年
2011/07/17(日) 13:39:33.96ID:Gtyv19Ao忍城攻めを見ればよく分かる
0958人間七七四年
2011/07/17(日) 13:41:24.90ID:39kboqp6片手間だったとかそんな論調だなw
すごい妄想力だわ。
「のみ」と分ける意味もわからん。
秀吉貶すために必死過ぎてワロタ
0960人間七七四年
2011/07/17(日) 17:09:09.30ID:Lw7gVm/Z0961人間七七四年
2011/07/17(日) 17:25:47.20ID:be25rEQ+0963人間七七四年
2011/07/17(日) 17:27:42.32ID:xW9Bj6Vg会の川締切りとか、矢作川の付け替えとか、備前掘・代官堀開削等々
他にも冨士川・大井川・高瀬川等々の開削も行っている
0964人間七七四年
2011/07/17(日) 18:33:48.96ID:zLlTpgbI質問スレだぞ
0965人間七七四年
2011/07/17(日) 18:42:10.78ID:Lw7gVm/Z>>矢作川の付け替え
そんなレベルで言いなら秀吉の淀川治水たる文禄堤とかはなんで否定されるわけ?
そもそも冨士川治水も信玄堤の延長だし
信玄流の治水ノウハウの伊奈忠次ネタとか持ち出すのは良いとか意味わからん。
大坂と違ってただ単に北条がほとんど手を出してなかった未開の江戸城域開発でしかねぇじゃん。
0967人間七七四年
2011/07/17(日) 19:05:41.14ID:iUDWk05iID:Lw7gVm/Zはあっちこっちのスレで難癖つけている痛い奴
スルーするのが吉だな
0968人間七七四年
2011/07/17(日) 21:16:24.98ID:39kboqp6もう無茶苦茶だな
計画した秀吉の命で徳川が普請をやらされたら
家康がやったことだから秀吉関係ないのかw
そもそも太閤堤は前田なども参加してるわけだが。
0970人間七七四年
2011/07/17(日) 21:58:18.18ID:H0K6L5oYまあ、キチガイだから死ぬまで居座るつもりだろうけど
0974人間七七四年
2011/07/17(日) 23:40:19.69ID:CTbzU2Qd前後の時代とは異なる要素を多分に含んでるんだがそこは無視かね
0975人間七七四年
2011/07/17(日) 23:52:39.29ID:dL1UR5g1前時代の築城が都市生活空間とリンクしていなかったとでも思っているのか?
「城下町」は戦国を通じて漸進的に発展したものであり、織豊時代にいきなり登場したわけでも
大きく変化したわけでもない。
0976人間七七四年
2011/07/18(月) 00:16:57.19ID:9zdw06pDここ質問スレ
0977人間七七四年
2011/07/18(月) 01:21:09.54ID:B0XW34T6ttp://sendo.fc2web.com/flame02/20070908taikoudutumi/taikoudutumi.htm
0979人間七七四年
2011/07/18(月) 03:35:32.75ID:pIkaRq6X生産力や経済に直結するし
0980人間七七四年
2011/07/18(月) 07:38:27.63ID:cjG3iNbh0981人間七七四年
2011/07/18(月) 10:29:20.00ID:247PXhTP増水時対策で流路の変更や分散化と付け替え、
大都市化による生活用水確保による城下町郊外における灌漑や埋め立てが副次的に達成される。
そして秀吉は瀬戸内海から大坂を経て京までを船舶経済路として河川で接続させたのは偉大過ぎる。
この事業は徳川幕府に模倣され家康死後にはなるが幕府による堀削による利根川東遷事業と印旛沼埋め立てによる田地化による石高向上が開始されるが
幕府の政争に利用され特に後者は完成を見なかった。
また東遷事業も当初予定からは不充分な計画にされ江戸の街はたびたび台風の到来とともに大洪水に襲われた。
0982人間七七四年
2011/07/18(月) 10:29:53.31ID:dFsgjRdI0983人間七七四年
2011/07/18(月) 10:43:59.81ID:OyDLWphw左岸のみ整備したのはそれが理由
0984人間七七四年
2011/07/18(月) 11:01:40.63ID:akXbPCoP0985人間七七四年
2011/07/18(月) 11:14:23.89ID:OyDLWphw0986人間七七四年
2011/07/18(月) 11:19:40.72ID:akXbPCoP0987人間七七四年
2011/07/18(月) 14:18:36.60ID:UJUJCYiYじゃあ北は千島から西は与那国まで全国で治水してたよ
見つかってないだけでそうに決まってるキリッ
0988人間七七四年
2011/07/18(月) 14:28:51.84ID:247PXhTP0989人間七七四年
2011/07/18(月) 14:32:09.04ID:yAKsUnpn0990人間七七四年
2011/07/18(月) 14:46:42.04ID:UJUJCYiY遺構そのものじゃなくても他の裏付ける資料なり何かしら無い限りはね
根拠の無い論はただの妄想と言う
0991人間七七四年
2011/07/18(月) 14:54:02.11ID:KT8wrO/c0992人間七七四年
2011/07/18(月) 15:29:50.45ID:yAKsUnpn部分的な発掘調査を行って遺構が発見されたら、それを元に規模を推定したり、
それまでの説の裏付けとするのが普通なのは理解出来るかな?
逆に部分的な発掘調査で発見出来た物だけが全てだなんて
主張してる馬鹿がいたら教えてほしいんだけど。
0994人間七七四年
2011/07/18(月) 16:10:01.61ID:3ggBPPqC0995人間七七四年
2011/07/18(月) 16:10:31.84ID:UJUJCYiYそりゃ資料に存在が記載されていて、発掘調査したら一部が見つかった
と言うなら全体の推定がなされるけど
小規模な遺構が発見されただけで、実はもっと大きいものがあった!なんていうのはただの誇大妄想
0996人間七七四年
2011/07/18(月) 17:01:44.11ID:yAKsUnpn一体何の根拠があって発掘された一部が護岸の全てだって言い切ってるわけ?
それこそ妄想以外の何物でもないって理解出来るかな?
0997人間七七四年
2011/07/18(月) 17:25:08.17ID:Wt6dcRUz戦乱が収まると各地で築城や土木工事が見られるね。
戦国末期の武将は合戦と土木の両面で活躍できたのでとりわけ優秀に見える。
0998人間七七四年
2011/07/18(月) 18:45:49.46ID:OyDLWphw左岸に注力しているのは大坂城を水城しする為
0999人間七七四年
2011/07/18(月) 18:46:07.42ID:p5btCC551000人間七七四年
2011/07/18(月) 19:18:46.84ID:yAKsUnpnつーか左岸だけが整備されただなんて言ってる研究者って誰だよw
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